小説感想

徒然読書録メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』 ~ゲーム世界を翻訳する

今回は、ゲームのノベライズ作品の感想です。
実はゲームのノベライズというものが初めて。
伊藤計劃の『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』。
この作品を読んで思ったのは、作品の出来というより、
一つの世界観に対する「翻訳」の仕方の面白さでした。

まず、そもそも、ですけれど、
私は元ネタがある作品のノベライズだったり、
あるいは漫画の実写映画化が好きではありません。
ありがちな理由ですが、他の媒体で表現されることで、
元の世界観を壊されるのが嫌だったんですね。

しかし、今回の小説を読めたのは、
私がメタルギアシリーズ未経験だったからです。
やってみたいのですが、気力ががっつり必要そうで、
なんとなく手が出せていなかったのが幸いしました。

そうはいっても元はゲームです。小説とは全然違います。
カメラワークだったり、緻密な設定だったり、ストーリーがあっても、
ストーリーをつなぐゲーム体験はユーザー一人一人違います。
一人一人思い入れのある部分も違ってくるでしょう。

そして、ゲームですから、ムービーシーンでは
多くのことがキャラクターの動きだったり、背景描写で示されます。
もちろん、モノローグを入れればある程度の心情描写はできますが、
それも「台詞」の一つになってしまうわけです。
物語を見る私たちは、神の視点に立っているに等しい。

一方、小説は基本的に地の文があるもの。
つまり、「誰か」によって語られる物語であり、
否応なく語り部の心情なり、ものの考え方が作品に反映されます。
前も書きましたが、「書かれないことは存在しないこと」ですから、
神の視点にはなれないのです。

ゲームのノベライズ、と一口に言えば、
元ネタがあって楽そうなイメージがありますが、
あらためて考えれば、世界の語り方がまったく違うのだから、
実は話を一から作るのと、あるいはそれ以上に大変なこと。

いうなれば、海外小説の翻訳のように難しいものだと思います。
下手に小説の特性を活かそうとして、
元の世界観を壊すリスクだってあるわけです。

しかし、伊藤計劃は、このノベライズを小説的アプローチから、
分解して再構築することに成功したのではないかと感じました。
なぜなら、プレイヤーの分身たるスネークではなく、
サポート役のオタコンが語り部としているからです。
この時点で、ゲームのプレイヤー視点とはまったく別の、
新しい視点を持ち込みたいという意志を感じました。

そして、スネークたちのアクションシーンも描かれますが、
必要最小限に留まっているように見えます。
それよりも、「オールド」スネークに潜む戦いだったり、
登場人物たちが自身の運命とどう向き合うかが軸になっている。
この軸は、まさに小説的なアプローチの仕方です。

小島監督も登場人物たちの葛藤を意識して、
映画的ストーリーと演出を工夫するのでしょう。
それでも、最終的にはゲーム体験が中心になります。
つまり、プレイヤーがいかにして隠れる場所がない中で、
スニーキングをして、目的地へ向かうか、敵を倒すか。
それはプレイヤーにとっての物理的な戦いなのです。

伊藤計劃が登場人物たちの葛藤を中心に据えたことで、
主人公は自然、プレイヤーではなく作品の登場人物になります。
だから、作品から読者が得るものは読者任せ。
ゲームのファンからすれば
この感覚は慣れないものがあるのかもしれません。

しかし、小説というメディアの特性を考えれば、
伊藤計劃のアプローチはその特性に合わせて、
ゲームをうまく「翻訳」したなあと感心するのです。
多少なりゲームの設定や、何も知らない読者のための配慮で、
窮屈に感じる部分もあったことでしょう。

それでもなお、同じメタルギア世界を、
彼は新しい視点で見つめ直す機会を作った。
それはゲームをやったことがない私でも感じられる発見でした。

中身がどうこうではないけれど、
こういうチャレンジを見ると、誰かによって「翻訳」されることは、
一概に悪いことではないんだなと思うのです。