ひとりごと

百合についてもやもやすること

新年一発目。
ここはたいてい何かの決意を書くところでしょうが、
すでに前回でざっくり宣言したので、今日は通常運転でまいります。

今回の話は――突っ込むとややこしくなりますが、
誤解を恐れず言うと「百合を幻想化するのはどうなの?」という話。
特に秘封倶楽部の二人には、そう思っているんですけれど。

結論から書くと、百合になって幸せなのは、
その二人を外側から見ている人たちでしかないと思っています。
女性だから好きになる――そんな理由がすべてではないはずです。
当人たちには、好きな人が「たまたま」女性だったということではないでしょうか?
逆に言えば、当人たちがあとで男を好きになるのも一向に構わないと思うんです。
だって、そのキャラの幸せを願うなら、それも応援すべきでしょう?

こう書くと百合好きから刺されそうですが、私はアンチ百合ではありません、たぶん。
私自身、秘封倶楽部の二人の話をよく書いています。
二人が両思いになる話もすれ違う話も、二人のエロい話も書いていました。
そういう話は一般的な定義の認識から言えば「百合」として扱われるはずです。
実際、読んだ方から「百合話」として扱われましたし。

その認識を否定するつもりはありません。
そして秘封で百合を書くことも全然オッケーだと思っています。
でも鑑賞者として百合を望むのと、書き手として百合を書くのとでは、
向き合い方がまったく違う、と私は思っています。

鑑賞者は自分の好きな話を読みたいわけですから、そこは問題ありません。
しかし、書き手が「好きだから」というだけで百合を書くのは、どうなんだろう。
少なくとも私はそれだけの理由で女の子同士をくっつけたいとは思わない。

さっきも書いたとおり、ある女性キャラが女の子を好きになるとして、
それは「たまたま」好きになったのが女性だったということに過ぎません。
遺伝子的な要因かもしれないし、育った環境かもしれないし、
あるいは宗教的だったり、トラウマなのかもしれない。

そういう偶然が少し違えば、男を好きになったかもしれないのです。
それどころか人間以外を好きになるかもしれない。
私はそういう様々な選択肢の中から、
ひとつの可能性を拾って物語を書いているつもりです。
逆に言えば、それ以外の可能性を捨てている。そういう風に考えてます。

それは秘封倶楽部に対してもそうです。
ツイッターでも何度も呟いていますが、蓮子にもメリーにも彼氏がいていいと思うんです。
彼女たちにはそういうポテンシャルがある。
かわいいし、綺麗だし、頭も切れるし、一緒にいて楽しそうじゃないですか。

でも、あの二人でくっつく物語を描くとき、
私はいつも「他の可能性を捨てている」という気持ちを抱きます。
蓮子には好きだった男子が本当にいなかったのか?
メリーには憧れた男子が本当にいなかったのか?
書くときには少なからず、そういう罪にも似た意識があるのです。
蓮メリをくっつけるときもそうだし、逆に男とつっつけるときにも。
極端に言えば、二人の人生を勝手に操作している罪悪感かもしれません。

それを、鑑賞者側の好みである「百合」として自分で言っていいものだろうか。
確かに読者の目で物語を書くことはとても大事なことだけれど、
そのために二人の人生を操作しているんだろうな……。
だから、私は自分で自分の話を「百合」として分類したくはないのです。

あと、これを言ったら身も蓋もないのですが、
わりと近い将来、同性愛が珍しくないと認められる日が来ると思っています。
「百合が好き」が「ボーイミーツガールが好き」と同レベルになるとも思うんですよね。
だから、やたら百合を幻想視しなくてもいいんじゃないですか?(ぶち壊し)

なんかまとまりない上、すごい隙だらけな文章ですが、
こんなこと考えて今日も女の子二人な話を書いています。
好きの形には上下関係もない、あなたの中で至高であればいいじゃないですか。