小説感想

徒然読書録『アンナ・カレーニナ』 ~善の見方

最近、ロシアの最低気温がマイナス76度というニュースがありました。
こちとらマイナス数度という温度でもひいひい言っているのに、
もはやどんな次元かまったくわからない世界です。
やはりロシアは恐ろしあ。

……今のギャグの方が寒かったかしら?

なんて導入をしたのは、
トルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んだからです。
いやあ、この本は長かった!
最後は飛行機で一気に読みましたが、それでも三週間かかりました。
今回はそんな本の感想です。

まず、私は貴族社会というものにとんと縁がありません。
社交場に行ってダンスなんてしませんし、
居酒屋で飲み倒すくらいなものです。

しかし、この物語の登場人物の大半は貴族です。
あとで語るリョーヴィンも含めて。
そして、貴族社会で繰り広げられる恋愛、不倫、そして破滅、
あるいは出会い、恋愛、結婚、出産、
この物語はそうしたちょっと違う世界の人たちの人間模様が描かれます。

この物語は多くの登場人物が出てきて、
しかも外国小説に感じる「みんな名前が似たり寄ったりに見える」現象が起きるので、
どんな筋で話が展開するのか、なかなか見えませんでした。
タイトルにもなっているアンナが登場するのも時間がかかります。
しかし、手探りで読み進めるうち、
この物語には大きく三つの軸を見いだしました。

ひとつはタイトルにもなっているアンナとヴロンスキーの不倫模様。
ふたつめはリーヴィンとキチイの恋愛、結婚と子どもを持つに至るまで。
最後は、それぞれの軸を繋ぐオブロンスキー。

私が個人的に好きなのはひとつめ。
というのは、アンナとヴロンスキーの心のすれ違いが、
非常に繊細かつ見事に描かれているからです。

アンナは仕事でそれなりの地位を持つカレーニンより、
若く精力的で将来の可能性も見えるヴロンスキーに惹かれ、不倫に至ります。
一方のヴロンスキーも、最初は若い貴族の娘キチイと(半分遊びで)交際しかけたものの、
アンナの女性的な魅力に惹かれ、過ちに走る。

カレーニンとの結婚は、アンナが恋愛的に望んだものではない。
でも、ヴロンスキーとは互いに好き合って関係を持った。
不倫ということをいったん忘れれば、これは幸せなことなのでしょう。
社交界でも噂にはなるものの、当のその界隈でも不倫はたまにあることでした。
多少阻害されようが、社会的に抹殺されたわけではなかった。

しかし、アンナはやがて不安を持ち始めます。
カレーニンが離婚を拒否したために、ヴロンスキーとは結婚できない。
そんなふわふわした関係で、いつまでヴロンスキーが自分に惹かれているだろうか。
いつまで自分は愛された女性でいられるのか。
いつか、歳をとって女性的な魅力を失ったとき、
ヴロンスキーは自分を捨てるのではないか。

やがて、アンナとヴロンスキーに対立が起きます。
アンナはヴロンスキーが自分を愛していないのではないかという疑いから、
ヴロンスキーに突っかかることが増える。
一方、ヴロンスキーはそんなつもりはなかったのに、
アンナに勝手に疑いを向けられて不快な思いをする。
その場をなだめるために、アンナを愛していると伝えるものの、
同じことが重なってやがて本当に愛情が冷め始める。

アンナの不安はもっともです。
しかし、自分たちの頭の中に生まれた疑いを口にするから、
本当にその疑いが現実のものとなってしまう。
「愛している」という言葉で一旦は疑いを消せても、
やがて積もり積もって疑いをぬぐえなくなる。

こういうものは恋愛物語ではよくある手法ですが、
この物語は疑いを抱いたとき、相手を責めたとき、
相手に慰められたとき、再び疑いを抱くとき……
そんなアップダウンを繰り返しながら、
徐々にダウン方向へ傾く心理描写が見事でした。

一方のリョーヴィン。
彼はアンナとある意味では逆で、誠実で能力もある人間なのに、
なかなか自分に自信を持てない人物です。
ちょっと良いことがあるとぱっと気分が上がるけれど、
ちょっと悪いことが起きると、すぐに「ダメだー」となる。
マンガでいうところの、ダメダメ主人公みたいな。

しかし、大きな流れを見ると、
彼は若く魅力的なキチイという女性に一度は振られるものの、
最終的には再度彼女にプロポーズし、結婚し、子どもを持つに至ります。
自分の農地の経営も立派にやっていく。
彼もアップダウンを繰り返しながら、
徐々にアップ方向へ向かっていくのです。

アンナとリョーヴィンを分けたのは、
リーヴィンのいうところの「善」の考え方なのかもしれません。

何か見返りを求めておこなうのではない、純粋におこなう善。
「もし善が原因をもったら、それはもはや善ではないのだ」

リョーヴィンは自分が何を目指して生きているのか、なかなか見いだせませんでした。
しかし、キチイとの様々な体験を経て、農夫の生き様を見て、
不意にさっきの「善」のためなんだと気づくのです。
(その思想のバックにはキリスト的神様がいるわけですが)
そしてリョーヴィンは、これからも良いこと悪いことがあるだろうけれど、
自分のそういう考え方はきっと変わるまいと自信を持つのです。

一方のアンナは、「愛」のために生きた。
そして貴族社会を捨てようとはしなかった。
貴族社会に渦巻く欺瞞から、自ら逃れようとしなかった。
だから破滅に至ったのです。ヴロンスキーごと。

こう考えてみれば、この物語は説話的だし、
一方で人間ドラマを描く、たいそうな物語です。
解説では貴族社会の欺瞞と農民社会の対比だと述べられていますが、
そこはちょっと疑問があります。
というのも、リョーヴィン自身は土地の経営者であり、
彼自身も少し貴族社会に足を踏み入れている人物です。
つまり、半分は貴族の立場から「善」を語っているわけです。
物語の視点は常に貴族側にあるわけで、農民側の視点は一切入っていません。

だから、これはある意味では憧れの物語だと思っています。
農民を主人公にすれば、きっと貴族と違った意味で、
苦しく破滅的な物語も出てくることでしょう。
貴族に近いリョーヴィンが幸福を得たように。
でも、私たちはきっとリョーヴィンのような光を見つけることができる。

そんなふうに湿っぽく私は感じたのですが、いかがでしょうか?
みなさんも数週間かけて読んでみませんか????