ひとりごと

空白の時間

最近、久しぶりに源氏物語以外の小説を読んでいます。
その本の感想は読み終わってからまた投稿とするとして。

その小説を薦めてくれた人と、『スプートニクの恋人』について話していたとき、
ふっと、タイトルのようなことを思ったのです。
その人は読み途中で「にんじん」のところを読んでいるとのことでした。

主人公の「ぼく」が失踪してしまった女の子を探しにギリシャの小島に行き、
結局見つけることができずに帰ってきたあとの出来事。
「にんじん」は、小学校の先生の「ぼく」の教え子。
そんな教え子に「ぼく」は、なぜかギリシャに行ったことを話し、
同時に埋めようのない孤独感を味わっている、そんな場面です。

当時この本を読んだとき、私はなぜこのシーンがあるのかが理解できませんでした。
本来は主人公と、彼が思いを寄せる女の子が主軸の話なのに、
「にんじん」はあまりに唐突に出てきて、かつ、その場面くらいしか出てこない。
そんなことより物語を進めろよ、と思った記憶もあります。

しかし、自分が物語を書くようになって、そしてオリジナルの話を書いていて、
「空白の時間」はあるべきなのだな、と感じるようになりました。
そして、自分がつけた名前ながら、「空白の時間」には大きな意味があると。

「空白の時間」が何かと言われると説明が難しいのですが、私個人としては
「時間は進んでいるけれど、ストーリーが進まない時間」として考えています。

たとえば、最近公開された「スターウォーズ エピソード8」は、
息をつかせる間もなくストーリーが展開していきます。
一方で「007」シリーズなんかは、アクションシーンの間にベッドシーンがある。
ここでいうベッドシーンが、私がいう「空白の時間」。
スターウォーズにはその「空白の時間」がないわけです。

一見すると、いやぶっちゃけ「空白の時間」を入れると間延びします。
ストーリーの先を見たいという気持ちが少なからず失せます。
鑑賞者としての私自身が感じるくらいなので。
でも、スターウォーズを観たときに思ったのです。
「空白の時間がなくて、とても疲れる」と。

ただ疲れるだけならともかく、その激しいシーンにどういう意味があったか、
それを咀嚼する時間が全然ありません。
で、結局ストーリーがどんなだったか、なんとなくしか覚えていない。

一方で「意味がわからない」と思っていたにんじんとの場面。
あれは空白の時間ながら、物語の意味を掘り下げる大きな意味があります。
つまり、「ぼく」がにんじんにそれまでの出来事を語ることで、
「ぼく」がその出来事にどんな思いを抱いていたのかを振り返ることができる。
結果、読者が物語を理解する一助になる。

ある意味では、空白の時間は瞑想に似ている部分があると思います。
瞑想は、日々の暮らしから少し自分の思考を切り離している時間です。
それが脳科学的な部分からいえば、記憶等を整理する時間になっているそうです。
(超適当なまとめなので、細かいところは専門の本で……)

瞑想が今ブームになっているのは、
そういう忙しい日々に忙殺されて疲れている人がいるから。
そんな考え方から見れば、忙しい物語にも、
ふっと落ち着ける時間が、場面があってもいいじゃないか、と思うのです。

そんな「空白の時間」を意識した週末でした。
さて、いつになったら自分の話はまともにできあがるんだろうか。