Mr.Chidrenの「あんまり覚えてないや」から着想を得たムラいちSS。誰が得かって、私が得です!

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 朝、目を覚ますと、焦げ茶色の床に村紗の抜け殻が落ちていて――。

「村紗?」

 私は布団から這いずり出て彼女の口元に顔を寄せる。すう、と彼女の小さな息が私の耳をくすぐって、それで私はぼんやりとした頭で感じる。ああ、抜け殻じゃなかったんだ。ちゃんと村紗は呼吸をしているんだ、と。
 でも、私は昨日の夜のできごとをあんまり覚えていない。
 冷たい夜の中、村紗が私の布団にもぐりこんで、そっと私を後ろから抱きしめてくれたことくらいしか。細い腕の冷たさと、小さな体の感触くらいしか。そして、私がそっと村紗の手を握り返したことくらいしか。

 ああ、なんてもったいない。

 あんなに私は彼女に触れようと思っていたのに。そして昨日そうしようと思っていたはずなのに。私は彼女を抱きしめたんだろうか。彼女を感じることができたんだろうか。
 でも、朝になってみれば、あれほど求めていたはずの村紗を、私は離してしまっていて。どうして、なんだろう。

 もしかして、彼女が人間ではなくて船幽霊だから――?
 ふと浮かぶ思いを頭を振って打ち消し、私は体を起こした。そして、床で寝ている彼女にそっと布団をかけてあげる。布団よりも白い体はすぐに消えてしまいそうに見えた。布団に溶かされて蒸発するように、どこか遠くへ。
 でも、その体を私はあんまり覚えていない。

 その日の夕方、一人でお経を唱えていた。誰もいない薄暗い部屋で、少し肌寒くて、静かに歌のように唱えつづけていた。どれくらいの時間そうしていただろう。ふっと私の意識が途切れて――。
 頭が落ちかけてはっと目を覚ましたとき、肩をぬくもりが包んでいた。肩を見るとそこには肩掛けがかかっていた。はっとして入り口を振り返ると、村紗が部屋から出ていくところが私の目に入った。

「村紗」

 あわてて小さな声で私が呼びかけても彼女は振り返らずに、背中で手を振りながら去っていってしまった。
 でも、私は村紗の魔法をあんまり覚えていない。
 また部屋には私一人だけが残される。ただ肩掛けが置かれていることが変わっただけで、部屋は相変わらずしんとして、薄ら寒くて。

 ああ、なんてもったいない。

 彼女が私にしてくれた小さな優しさを、私が見ることができなかったなんて。彼女にありがとうの言葉を手渡すこともできなかったなんて。なにより、彼女が私をそれだけ気にしてくれていたことに気づかなかったなんて。どうして、なんだろう。

 もしかして、彼女が人間ではなくて妖怪だから――?
 私は肩掛けをそっと手に取り、静かに顔をうずめる。残っていたぬくもりがゆっくりと抜けていくのを私の頬は感じとってしまう。彼女の優しさも一緒に薄れていくようで。
 でも、その心を私はあんまり覚えていない。

 覚えていない――?
 肩掛けの中で私はそっと目を閉じる。

 海の底で幽霊になってしまった村紗。都で人に不幸を届けてしまった私。
 私たちは姐さんに救われてこの命蓮寺に来てしまったけれど、そして今は姐さんの信仰のために尽くしているけれど。
 だけど、覚えている。あなたと出会ってからの日々を、ここに至るまでのできごとを。

 あなたの怪我の手当てをしたり、あなたの作る食事を無理やり食べさせられたり。でもそれが意外と美味しかったり、夏の川で遊んだり。そうそう、私がお経を教えたこともあったし、あなたがやたら変な悪戯を仕掛けてきたこともあった。
 そういえば、だいぶ前に大喧嘩したときの跡もまだ完全には消えていないかもしれない。すっと腕をまくると、その跡は少しだけまわりの部分と色が違っていて、私はほっと胸をなで下ろす。喧嘩したあと、泣きながら私は村紗に謝って、それで村紗も大泣きして。それでまたちゃんと仲直りして。

 私は目を開いて顔を上げる。ああ、私はちゃんとあなたのことを覚えているんだ。出会ってから、今の今までのことを。あなたが船幽霊で、どこかに消えてしまいそうな体でも、それでも私は覚えている。
 そして、これからのこともずっと覚えていくのだろう。
 ――今日のことを今さら取り返すことはできなくても、でも彼女のかすかなものは私の胸に刻み込まれて、ちゃんと覚えているんだ。

 私は彼女が出ていった出口を見ながら、ふっと微笑んだ。そして、また静かにお経を唱えようとして――。

「一輪! ごはんができたってさ!」

 彼女の声が背中から飛んできた。

 私はゆっくりと立ち上がって彼女に振り返る。そして彼女をじっと見つめる。

「なあに、そんなに私を見つめて」
「ううん、なんでもないわ」

 私はそっと彼女の隣に歩いていって、肩掛けを手渡した。

「ありがとう、村紗」

 村紗は少しのあいだ、ぽかんと私を見ていたが、やがてにっこりと笑って返してくれた。

「うん……私も、朝はありがとう、一輪」

 ああ、彼女も覚えているんだ。あの溶けそうな寝顔を見せながら、それでも私のことをちゃんと覚えてるんだ。
 そう思うだけで、私はもうそれだけで泣きそうなのだけれど。でも、涙は見せずに私は笑い、どういたしまして、と返す。
 でも、もう一度だけ――私は小さな願いを繰り返した。

「ねえ、村紗。もう一度だけ、あなたの手を握らせてくれる?」

 

 

初出:2010年12月16日