創想話
 


 
 #1

「次が最後の活動になりそうね」

 宇佐見蓮子は帽子を親指で持ち上げ、コーヒーを啜った。

「そうね」

 金髪を軽く後ろに流してメリーが答える。

「もう二月の下旬だからね。卒業前に活動できるとしたら、あと一回だけでしょうね」

 コーヒーとココアから徐々に白い湯気が消えていく。細い脚のテーブルと細い脚の椅子のセット、そこに二人の大学生が腰かけている光景はまるで遠く昔に描かれた絵のようだ。けれど、それは虚構ではない。二人は現実にそこにいて、飲みものを片手におしゃべりをしている。

「よかった。卒業のことをすっかり忘れて、そのあとにまたどこかに行くって言われても困るもの」
「何言ってるの。私がそんなふうに忘れないって、そういう確信はあったのでしょう?」

 黒髪に黒い帽子、クールな女性。それが宇佐見蓮子。
 ブロンドに白い帽子、ふんわりと笑う女性。それがマエリベリー・ハーン。
 ぼんやりと陽が差し込む窓際のテーブルに彼女たちはいた。光に照らされて彼女たちの服がやわらかく輝く。冬の終わりの暖かいカフェは人も少なく、コーヒーとココアの匂いに包まれて、おしゃべりは軽快に響く。

「もちろん。まあ、そうであってもそうでなくても、今日の写真は一枚しかないんだけど」

 宇佐見は胸のポケットから一枚の写真を取り出し、人差指と中指で綺麗にポーズを決める。テーブルに差し出されたそれを、メリーは注意深く覗き込んだ。

「どこかで見たことがあるような風景ね」
「そうね、どこかで見せたことがあるはずだから。一年生のときに」
「一年生のとき?」

 メリーは指をそっと顎にあてて首をわずかにかしげる。ふわりとした動作が光の中で幻想的な影を作り出した。しばらくそうして彼女は思い出そうとしていたが、やがて先に宇佐見が小さくため息をついて言葉を発した。

「博麗神社」

 少しの沈黙、カウンターの奥からコーヒーが沸く音がこぽこぽとかわいらしく響く。やがてメリーが小さく口を開いて「あ」と漏らした。やれやれ、と宇佐見は首を軽く横に振る。

「もしかして忘れてたの?」
「ううん、その名前が記憶の片隅に引きこもってただけよ」
「まったく。私はあのときからずっと今日まで行こう、行こうって考えていたのに」
「じゃあ、どうしてずっと私に言ってくれなかったの?」
「行こうとは思ってたんだけどね、誰かが仕組んだみたいに次々と別の不思議が現れて、今回まで行く機会が見つからなかったのよ。でも――」

 宇佐見はテーブルに肘をついて身を乗り出す。

「今回はちゃんと博麗神社よ。私たち秘封倶楽部の最後の舞台にきっとふさわしい場所だと思うわ」
「あら、どうしてそう思うの?」

 メリーの問いかけに宇佐見はいたずらっぽく笑う。テーブルの下で足をゆっくり組み替え、軽い口調で答えた。

「勘よ、もちろん」

 ぽかん、とメリーは少しの間口を開いていたが、やがて愉快そうにくすくすと笑いを漏らす。

「仮にも科学者に近い立場のあなたがそういうことを言う?」

 笑い続けるメリーを無視して、宇佐見は話を続ける。

「それでメリー、この写真には境界はあるの?」

 笑いをようやく抑えて、メリーはゆったりと足を組みながら写真を手に取る。

「ええ、もちろん。これは神社の正面から撮影しているものでしょう? そうね、ざっくり言えば、この鳥居が作り出す平面が巨大な境界になっているわ」
「その先に見えるものは?」
「ううん、この写真だけでは特にわからない。きっとあなたが見ているのと同じものしか見えない」
「そう。でも、境界があるということがわかっただけでも十分よ。この写真がこうしてちゃんと存在していているだけでもすごいんだから」

 宇佐見は写真の隅を指さす。

「ほら、ここ見て」
「ええと……2003.8.20? すごい、残っている方が不思議なくらい」
「フィルムカメラ、だっけ。デジタルカメラだと日付が刻まれないからね。本当に偶然だったけど、こうしてちゃんと残っているのは奇跡かもしれないね。色々あって私の手に回ってきたものよ」
「ふうん。色々、ね。詮索はしないけど」

 メリーは怪しく笑ってココアを啜る。宇佐見は何もなかったかのように続ける。

「今と昔では神社の風景も相当変わっているだろうけど、境界はそう簡単に消えはしない。あなたが言うように、それが巨大な境界ならなおのこと。そうでしょう?」
「そうね、あれほど大きなものになるとそう簡単には消えないわ。いきなり消えると空間と時間の歪みが出るとは思う」
「じゃあ、120年前に写ったものだとしても、今、調べる価値は十分にあるってことね」
「そういうことになるわね、もちろん」
「――決まりね」

 宇佐見は親指と人差指で帽子をつまみ、きゅっと持ち上げた。

「次の不思議は博麗神社。ここの境界を調査しましょう」
「素晴らしい決め台詞ね」

 メリーは左手の人差し指を柔らかく曲げ、宇佐見を見て目を細める。

「そんなあなたが素敵だと、ときどき思うわ」
「ちょっと、メリー」

 不意を突かれて宇佐見の顔が少し赤くなる。それを隠すように、彼女は持ち上げた帽子を深くかぶり直した。

「今そんなこと言われても……それより、ほら、いつ行くか決めましょうよ!」

 それから二人は次の活動の細かい計画を立て、長い間い雑談にふけった。話している間、宇佐見はいたずらっぽく笑い、少しすました顔をし、目を光らせた。メリーはやわらかく笑い、ときどきわざと悲しそうな顔をし、ゆっくり目を細めた。
 客が入れ替わり、いくつもの飲みものと簡単な食べ物がカウンターを通りすぎる。けれど、彼女たちはずっとそこにいて楽しそうな時間を過ごしていた。彼女たちがいる間だけは、その空間がカフェの現実から離れているようだった。それはおそらく、太陽の光とか、ココアとコーヒーとか、そういうものだけではないのだろう。
 そのうち冬の太陽はそっと建物の影に隠れはじめ、時計がかちりと直角の音を立てた。彼女たちがこの店に訪れてから、光は失われつつあった。宇佐見が壁時計を見て驚いたように言う。

「ああ、もうこんな時間。そろそろ帰る?」
「うん、そうね」

 コートを手にして彼女が立ち上がるとメリーも同じように立ち上がる。

「さてと、夕食はどうしようかな」
「あれ、今日は自分で作らないの?」
「作るのは面倒くさい。でも、外食するにしても何を食べるか考えてないし――」

 かつかつとローファーの音が遠ざかっていく。それと共に彼女たちのなめらかなしゃべり声も反響を残して消えていく。ドアが開かれ、それが閉まると同時に静寂が急に空間を支配した。

 誰もいなくなり、がらんとした店内を見回す。コーヒーとココアの残香が薄れていくのがわかる。背後でかちゃかちゃと洗い物をする音が澄んで響く。太陽が沈みはじめて店内が夕闇に染まりはじめた。
 フロアのスイッチを入れると白い光で店の中が照らされた。その瞬間、わずかに残っていた陽の光が白の中へ溶けこんで消えてしまう。

 ああ、彼女たちの活動も最後か。
 そんなことを思う。

 僕はテーブルを布巾で綺麗にしていった。ココアとコーヒーの跡を一度で拭きとってしまうと、そこに誰が座っていたのか思い出せなくなりそうだ。残り香も空調機に吸い取られてしまった。こんな簡単に二人がいたという証は消え失せてしまうものなのか。
 僕はあと何回彼女たちを目にし、彼女たちの会話を心地よく楽しめるのだろう。ひと月もしないうちに二人は卒業し、このカフェを去ってしまう。そのとき、僕の日常も終わりを迎える。

 地球には果てがない――誰かがそういう言葉を残したらしい。地球を一周したマゼラン艦隊が旅の終わりにそんなことを思ったのだろうか。どこまで行ったって自分たちはずっと地球にいると、心でずっとそう信じこんでその偉業を達成したのかもしれない。
 でも――僕はカウンターに戻ってぼんやりと思う。それはただの思いこみに過ぎない。地球には確かに果てがある。その中にいればずっと気づかないだけで。

 僕はそのことにもっと早く気づくべきだった。彼女たちの外側をずっと見続けていたのだから、もっと早く気づいてしかるべきだった。
 でも、今そんなことを考えても遅すぎる。終わりは僕たちの目の前に迫っている。地球の果てがすぐそこにあるように。
 そういうことだ。僕は二人のコップを丁寧に洗いながら、思ってしまう。

 そういうことなんだ。終わりを迎えるということは。

 #2

「妖怪神社と呼ばれるのは?」
「木か何かの人物の影……それを誰かが錯覚したものを妖怪と呼んだ。そういう影がたまたま神社で多く目撃されていたのよ」
「境界の向こう側には誰も行けなかったというのは? つまり、誰かが神隠しにあったり、空間移動しなかったということ」
「誰もその境界の入り口を誰も見つけられなかったのよ。開くために何か仕掛けを動かさないといけなかったのかもしれない。あるいは、もともと超えることを許されない境界だったのかもね。位相のずれが存在していた、とか」
「物理的なことは何もわからないけれど」

 蓮子の背中に弱々しい声が届いてくる。

「あなたが色々と仮説を立てているのは、よくわかったわぁ……」
「確かに色々考えてはいるけど、でも実際はどうでもいいのよ。実物を見ればわかることなんだし」

 蓮子は振り返ってメリーを見下ろし、小さくため息をついた。

「だから、早く登ってきてよ」

 石段の下でメリーが足元をふらつかせながらゆっくり階段を登っていた。いつもと変わらず、歩きでの活動になるとメリーはすぐにばててしまう。息を切らせながら彼女は口を尖らせた。

「あなたが、おかしいのよ、前も言ったけど……どうしてそんなに体力あるのよ……」
「毎日動いていればこれくらいどうってことないわ。あなたが普段から歩き慣れていないだけよ。ええと、こんなことを言うのは二回目だっけ」
「いえ……今が初めてぇ」
「ああ、そうだったかな。とりあえず早く行きましょう。まだまだ先は長いわ」
「蓮子ぉ……」

 メリーは白いマフラーを外して、ハンカチで首周りを拭いた。それから大きく息をついて一歩一歩のろのろと蓮子に近づく。蓮子はそれを見下ろしながら、小さく鼻でため息をついた。
 彼女の赤マフラーを冷たい風が揺らす。手袋を持ってくればよかったと思う。冬の終わりとはいえ、山の中で手袋なしではさすがに指がかじかんでしまう。蓮子はコートのポケットの中で手を開いたり閉じたりした。

 周囲をゆっくりと見回す。古い石の階段が上と下に無限回廊のように続く。メリーが足を地面に落とすたび、古く乾いた音が響く。そして石段と二人を包むように深い森がどこまでも広がっている。森は手入れされていないせいでひどく惨めな姿だった。
 しかし、石段は森に侵食されていなかった。石は古びて角の部分は丸くなっていたり、欠けていたりしている。それでも階段と森の境界線は誰が見てもわかるほど明らかだった。メリーは何も言っていないけれど、ここにもまた何かの境界があるのだろう。

 やがてメリーが蓮子の一段下までたどり着く。ふうふうと荒い呼吸をしながら、白いコートのボタンを外して前を開ける。彼女に蓮子はにっと笑いかけた。

「うん、がんばっているのは認めてあげる。すごくつらそうだけど」
「あの山に入ったときよりも体力……ついたはずよね……階段の方が……きついんだから」
「そうなんじゃないかしら」

 手に触れようとしたメリーの手を軽くかわし、蓮子はリズムを刻むような足取りで階段を再び登りはじめた。冬と春を溶かし込んだ風に彼女の栗色の髪が揺れる。

「ほら、まだ限界じゃないでしょう?」

 いたずらっぽく笑う蓮子に、メリーが口を尖らせて言う。ブルーの瞳が空と森を映しだして小さく光る。

「ちょっと、蓮子ぉ……どこまで行くのよ……?」
「どこまででも」

 蓮子は階段の先に視線を向ける。空に薄い雲がかかって太陽がひととき隠れた。

「神社の見えるまで」

 雲が通り過ぎ、太陽が再び顔を現す。光の中で蓮子の顔が明るく光る。

 けれど、それから五分もしないうちにメリーが音を上げてしまった。

「も、限界……ちょっと休みましょう」

 そして彼女はその場に座りこむようにして石段の踊り場で腰を下ろした。

「……はあ、疲れた」
「しょうがないなあ」

 肩をすくめて蓮子は階段を降り、メリーの横に腰掛けた。メリーがタオルで首を撫でると、ふんわりと汗の匂いが蓮子の鼻をくすぐる。わずかに自分の胸が跳ねるのを感じて、彼女はそれをかき消すように言った。

「本当、最後までメリーはバテバテなのね」
「いつも言ってるけど、蓮子が先を急ぎすぎなのよ……ふう」
「そうでもないと思うけど。ま、ちょうど正午をまわったからお昼休みにしましょうか」
「ええ、それがいいわ」

 二人は肩のバッグを下ろしてそれぞれ自分の持ち物を取り出す。おにぎり二つと魔法瓶に入った熱い緑茶。そうして静かな参拝道でのんびりとした昼食を楽しむ。

「気持ちいい風」
「少し肌寒いけどね」
「やせ我慢はしなくていいのよ」
「さっきまで汗かきながらふうふうしていた人には言われたくないけどね」
「セレブだもの、しかたないわ」

 緑茶を喉の奥に入れると、体の隅々に熱が広がっていく。おにぎりを口に入れてよく噛むとデンプン特有の甘さがじっくりしみていく。思ったよりも疲労が溜まっているのかもしれない。
 蓮子は目を細めておにぎりをほおばるメリーに話しかける。

「こんな質素なおにぎりを好んで食べるセレブも珍しいと思うけど」
「今は合成で何でも食べられる時代よ。そういうのは古いお話ではなくて?」
「言われれば、確かにそうね」

 ふと視線を下に向けると自分たちが歩いてきた長く重い石段が、どこまでも続くように下に伸びている。その先には人里が小さく点在し、またその向こうには山々が並んでいた。
 私たちはそんな遠くからやってきて、階段を登り、あと少しで博麗神社に辿り着こうとしている。きっと階段の終着には思いもよらないような光景が広がっているのだろう。そういう期待を胸に秘めて階段を登ってきたはずなのに。
 そう思っているあいだに、おにぎりをもう食べ終わってしまった。目を横に向けると、メリーがあわてて彼女に合わせようとしているのが見えた。蓮子は言う。

「いいのよ、じっくり味わって」
「ん、うん」

 蓮子の言葉で、メリーの顎の動きが少し緩くなる。蓮子はそれを見て小さく息をつき、また視線を階段の下に向けた。けれど、少しずつ焦点が合わなくなり、そのうち視界は不思議とぼやけてくる。
 そういう期待はあるのに、それにほんの少し影が差している気がする。先にあるものを見たいと思っているのに、心のどこかではこうして立ち止まることを望んでいるようでもある。

 やっぱり、あのことがずっと引っかかっているからだろう、と思う。
 緑茶を啜りながら、階段を登る前までの記憶を辿っていく。

 ◆

「博麗神社?」

 主人は驚いたように蓮子を見つめた。

「あんたたち、そこに行くのか」
「まあね。神社の建築に関する研究で」
「へえ、大学ってそういうことやってるのかい。俺にはよくわからないな。ずっとここで団子しか売ってないからさ」

 蓮子は団子を一口ほおばった。老舗ふうの店だったが、この団子も合成のあんこともち米を使っているのかな、と心の中でこっそり思う。その様子にまるで気づかないようで、団子屋の主人は腕を組んで首をかしげた。

「博麗神社か。俺は行ったことないし、この村にいるやつもたぶんないだろうなあ。俺の親父やじいちゃんもさすがにそこまでは行ってないんじゃないか。だから、これはあくまで俺が聞いた範囲の話だぜ」
「それでも何もないよりはずっといいわ」

 主人は息をついて、里から少し離れた山に目を向けた。手入れされていないのか、ところどころはげていたり、逆に木が異様に密集している部分がある。それを眺めながら彼は呟くように言葉を発した。

「妖怪神社だって言われてる」

 それは知っている、と言いかけたのをぐっと抑えて蓮子は彼の言葉を待った。

「遠く昔の話だ。神社だけじゃない。ここの里にも妖怪が当たり前のように出入りしていたこともあったらしい。妖怪の中に人間と友好的なやつらがいて、そいつらが商売をしていたっていう話もある」
「友好的な妖怪? それは妖怪の本質とは異なるんじゃなくて?」
「ううん、そこまでは俺にもよくわからない。だが、じいちゃんが妖怪の研究者とちょっとした知り合いだったらしくてな。妖怪たちの資料を見せてもらったそうだ。だから俺にもちょくちょくそういう話をしてくれた」
「へえ。たとえばどんな妖怪がいたの?」
「ええと、俺が聞いたかぎりだと――」

 蓮子は団子を急いで口に投げ込み、身を乗り出した。

「火の鳥、赤目の兎と……あと吸血鬼と八咫烏がいたっていう話だ」

 火の鳥――火の鳥?
 その単語の意味を理解した瞬間、自分の記憶の扉が無理やり開かれるのを感じた。思わず夢の相談主を振り返る。

 メリーはあのとき――そうだ、「不死鳥」や「赤い目の鼠」、「吸血鬼の館」を見たと言っていた。彼のいう火の鳥はたぶん、「不死鳥」と同じだ。赤目の兎も、もしかしたら鼠と重なるかもしれない。彼女の話に出てきた妖怪と彼のいう妖怪の一致は偶然なのか?
 今まで半信半疑だったけど、あるいは本当にメリーは境界を操って――。

 けれど、蓮子の視線に気づいているのかいないのか、彼女は無垢な子どものように団子の甘さに悶えていた。今の話を聞いていたにしても、自分の夢と関連付けていないようにも思えた。
 蓮子は小さく息をついて主人の方に顔を戻す。彼女の顔を不思議そうに見つめる主人に、何でもない、という目配せをしてさらに尋ねた。

「そういう不思議な生き物を見たという話は、今ではあるの?」
「今は……ないな。こんな小さな村だから、誰かが見たと言えばすぐに広まりそうなものだが、俺はそういう話をまったく聞いたことがない。実際、誰も見ていないんだろう。見たとしても誰も信じないだろうし、見たやつも話したくないだろうな」
「もう一度訊くけど、博麗神社に行った人はいる?」
「……やっぱり、俺はそんなやつを知らない」
「最近の情報は、何もないということね」
「悪いな」

 蓮子はお茶を飲み干してゆっくりと立ち上がり、小さくお辞儀をした。

「いえ、色々お話を聞かせてくれてありがとう。ああ、それから、村の人たちは博麗神社に行くことを禁じているわけではないでしょう?」
「ああ、そんな決まりはない」
「それなら大丈夫。実際に何があるかは私たちが行ってみればいいだけの話よ」

 財布から小銭を取り出して、主人に渡しながら蓮子はにっこりと微笑んだ。

「お団子、美味しかった。ごちそうさま」

 それからメリーを振り返ると、彼女は最後の団子を口に入れて、満足そうに緑茶を啜っていた。蓮子は帽子を深くかぶって声をかけた。

「行くわよ、メリー」
「ん、はいはい」

 そうして歩き出した二人の背中から、のんきな主人の声が飛んできた。

「どうも。行くなら気をつけてな」

 二人は歩きながら主人を振り返って軽く手を振った。
 気をつけて、か。主人から道の先へ視線を戻したとき、ふいにそんな思いが胸をよぎる。気をつけるだけですむならよかったのに。

 団子屋から山へと続く道を歩いていく。乾いた土の道を機械人形のように速いペースで。蓮子の後ろからメリーが足をもつれさせながらついてくる。

「ねえ、ちょっと蓮子――」
「博麗神社は遠い」

 メリーの言葉を遮るようにして蓮子は言った。

「ここでのんびりしてる場合じゃなかったわ。早く行かないとね」
「……蓮子」

 メリーの声に蓮子の足が止まる。今の声に暗い影が差しているような気がした。後ろを振り返ると、五メートルくらい離れてメリーが立ち止まっていた。彼女の背後で陽光が朝から昼に変わったことを告げる。地面に落ちるメリーの影が朧からくっきりと形をなしはじめた。
 二人は視線を交わした。蓮子がメリーの瞳から読み取れることはほとんどなかった。でも、それはいつものこと。メリーは物事を隠してしまうのが得意だから。
 しばらく二人は何も言葉を交わさなかった。

「行きましょう」

 重い沈黙を破るように、蓮子は顎をぐっと引いて静かに告げる。

「必要な情報は集まった。あとはその情報に基づいて行動する。それが私たちのやり方……そうでしょう?」
「でも蓮子、その情報って? あなたは何を聞いたの?」

 メリーの問いかけにそっと視線をずらす。

「妖怪の話。昔、八咫烏を見かけた人がいる、とか」
「じゃあ噂は本当だったのね」
「そういうことになると思う。他にも色々いたらしいけど、でも真実は私たちの目で確かめなきゃ。そうでしょう?」

 静かにうなずいてメリーは再び歩き出した。さっきよりは少し速かったが、どこかためらいを残した歩調。蓮子は身を翻し、少しスピードを落として彼女の前をゆく。
 今の答えにメリーが納得してくれただろうか、と蓮子は思う。質問の答えをほとんど隠したことに気づいているのだろうか。メリーのことだからそれに気づいていないはずがない、と思う。けれど、彼女はそれ以上追及してこなかった……。

 そのうちに重い鉛色の石段が目の前に姿を現した。山の中へ誘う、途方もなく長い階段。

 夢への入り口か。蓮子はぼんやりと思う。
 あの主人のいう妖怪がメリーが以前話した夢と同一ならば、そしてそういう妖怪がこの付近に出現していたのなら、おそらく神社の近くに境界があるはずだ。そして境界の向こう側に、メリーのいう「夢」の世界が広がっているに違いない。

 『二人で境界の向こう側へ行こう』――彼女の話を聞いたときは、確かにそう思った。エントロピーが境界の向こうの世界を証明するなら、私は一人の科学者として、いや、科学者ではなくてもその世界を見たいと思った。
 けれど、本当に「二人で」? 今になってわずかな疑問が小石のような違和感を生む。それを振り切るようにして、蓮子は少し声を張った。

「さて、行きましょうか。博麗神社」
「ええ」

 二人は同時に一歩を踏み出した。

 それからは蓮子が踊るようなステップで階段を登り続け、メリーは苦行を耐えぬくように足を引きずっていく。
 蓮子がメリーを振り返るときは、必ずいたずらっぽく笑いながら、彼女を茶化す言葉を軽く投げる。けれど二人が目指す方に顔を向けると、顔からは笑みが失せていた。

 ◆

「ふう」

 メリーのため息で蓮子の心は現在に引き戻された。山の下に見える集落に視線を向けていたはずなのに、頭はまるで映像を消化していなかった。意識を稼動させてそっと視線を横に移すと、メリーがお茶を啜っているのが目に入った。

「うん、だいぶ汗も引いてきた」

 彼女はそう言って笑う。

「運動すると疲れるけど、こうして汗をかいたあとにおにぎりと緑茶を食べると、それがたまらなく美味しいわね」

 蓮子もにつられて薄く笑った。

「そうよ、メリー。汗をかいた分だけ、今までの当たり前が愛おしく感じられるでしょう」
「蓮子もたまにはロマンチックなことを言うのね」

 蓮子は視線を空の遠くに向ける。

「研究者になるとはいっても、そういう心は忘れたくないの。科学で説明できないことはまだ山ほどあるから。たとえ物理学が終焉を迎えたとしてもね」
「私はあなたのそういうところが、好きよ」

 ふわ、と蓮子の横で空気が柔らかくなるのを頬に感じた。目元から少しだけ無用な力が抜けていった。ふっとため息をついて、蓮子は水筒と空になったおにぎりの包みを鞄に入れて立ち上がった。
 それからメリーの方を見て笑う。

「そろそろ行きましょうか?」

 蓮子が手を差し伸べると、メリーはそっと手を重ねて立ち上がった。ふわりと金色の髪が揺れる。まるでお姫様と手をつないだみたい、と蓮子はぼんやりと思った。いつかはいなくなってしまう、お伽話のお姫様。

「きっともう少しだと思うの」

 蓮子は山の上を見上げて言う。

「なんとなくだけど、そんな予感がする」
「今が夜で、月と星が出ていればあなたの目が使えたのにね。そうすれば今どこにいて、目的地まであとどれくらいかが正確にわかったのに」
「わからない方がいいこともあるのよ。それが期待を膨らませてくれることもあるんだからね」

 そう、わからない方がいいこともある。期待のかたちもそう、夢のかたちもそう。そして終わりの姿も。
 いつの間にか自分の視線が足元に向いていることに蓮子は気づき、はっとする。違う、終わるはずなんてない。何が終わるものか。不思議はこれから始まるというのに。

「写真よりもずっと面白いものが待っているはずよ」

 蓮子はメリーの手を離し、くるりと背を向けて歩みを進めた。そして再び、静寂に階段を登る足音だけが満ちる時間が訪れる。
 それはとても長い時間だった。いつのまにか二人の間に会話がなくなっていく。ときどきメリーが来るのを待つことはあっても、言葉をかけることはなくなってしまった。

 終わるはずのないもの。そんなもの、本当にあるんだろうか。知らず知らずのうちに、自分の胸にそんな問いが染みついていた。

 それに、もうひとつ。

 境界を越えたとき、そしてメリーがその世界が自分の夢で見たものと同じだと気づいたとき。彼女はその世界に夢中になるだろう。あんな夢を見ることが不安だって言ってはいたが、目はそうではなかった。確実にその世界を切望し、羨望していた。
 境界を超えて、その世界を体で感じて、それだけでメリーは満足するだろうか。彼女は境界の向こうから帰ってくるのか? ずっとそこに留まるを選ぶのではないか?

 そうなったとき、私はどうすればいいのだろう。メリーと一緒に留まるべきなのか、それとも彼女を無理にでも連れて戻ってくるか。でも、どうしても連れ戻すことができないとわかったら。
 そのとき、私はどうすればいいのだろう?

 #4

 不意に蓮子の視界の奥から階段の線が消えた。足元に落ちていた視線を上げ、気づいたときにはもう、そこに終わりが見えていた。
 どきりとした感覚が胸から指の先まで広がる。彼女を振り返ることも忘れてしまうほど。

「メリー!」

 思わず叫ぶ。

「ほら、もうすぐ! もうすぐ神社に着くわよ!」
「さっきもそう言ってたでしょお……」

 声は疲れきってはいたが、それでも蓮子の耳にはどこか艶があるように感じられる。

「ふう、あとどれくらい?」
「今度は本当! 階段の終わりが見える!」
「まだ私には見えないんだけどぉ……」

 メリーのぼやきを背中に受けながら、蓮子は登るスピードを速める。少しずつ階段の脇の林も薄くなり、終着が近づいてくる。心がはやる。さらに登るスピードを上げ、最後には駆け足になっていた。
 あの先には何があるんだろう。
 駆け足のせいか、それとも興奮のせいか。胸が高鳴り、息が切れる。首に巻いていたマフラーが鬱陶しくなり、走りながら外した。帽子が風に飛ばされそうになり、慌てて左手でおさえる。

 あと二十段、十段、五段――。

 もう、何も考えられなくなっていく。

 三段、一段、そして――。

「着いた!」

 階段を登り切った瞬間、蓮子は目をつむり両手を天高く突き上げる。冷たい空気がゆっくりと首筋を撫で、うっすらと浮き出た汗を拭うのがたまらなく心地いい。しばらく寒空に立ち尽くし、高鳴る胸が落ち着くのを待った。

 やがて呼吸は整い、汗も引いて寒さが急に身体に戻ってきた。蓮子は小さく震えてコートのポケットに手を入れた。それからゆっくりと、本当にゆっくりと目を開いた。

 そして、その瞬間、視界に映ったものにただ息を呑む。
 目の前の光景が、胸の奥深くと脳髄を焼き尽くす。蓮子の記憶を重々しい後悔の紅に染め上げるように。

「なにこれ――」

 口から言葉が漏れた。それ以外、口にすべき言葉が見つからなかった。

「どうしたの?」

 後ろから陽炎のような声が聞こえた。けれど蓮子は振り返ることも応えることもできない。その光景から目を逸らすことも。それを説明することさえ罪に感じられた。
 すとん、と軽い足音がして、蓮子の隣にメリーが立つ。

「ねえ、れん――」

 そこまで言いかけて、メリーの呼吸も止まる。彼女の緊張と不安がテレパシーのように蓮子に伝わってくる。彼女の視線が自分と同じものを見ていることは、見なくてもわかってしまう。その光景を信じがたいものだと思っていることも。
 ぎこちない呼吸で胸が苦しくなる。無理もない、と蓮子は思う。こんなものを見せられてしまったら。こんな不吉なものが広がっていたら。自分がそこにいることさえ許されないような気になってしまうもの。

 博麗神社を包んでいるのは、毒々しい紅の彼岸花畑だった。

 二人の足元から石畳が伸び、途中で鳥居をくぐり、建物の前に置かれた賽銭箱まで続いていた。そして彼岸花は石畳と建物以外の地面という地面を覆い尽くすように咲き誇っていた。
 おぞましい光景。つんと刺さるような、生以外の匂いが鼻を刺す。風に揺られて花の絨毯が波を打つ。花同士がこすれて囁くような音に、思わず耳を塞ぎたくなった。負の紅に目が痛くなった。死への誘いを感じた。

 ありえない。蓮子は心の底から目の前の光景を否定したくなった。ポケットの中でぎゅっと手を握り、思考を紡ぐ。ありえない。
 彼岸花が咲くのは早くても夏の終わりからだ。今は冬の終わりで、最近の気候を考えても花が咲き乱れるような環境にはなかったはずだ。
 品種改良の可能性がなくはないかもしれない。けれど、里の人たちは誰もこの神社に足を踏み入れていないと言った。誰かがこっそり花を植えたにしても、これだけの量をこれほど見事に咲かせるまでには相当丁寧な管理が必要だ。そのために何度かここに出入りすれば、いつかは里の人にだって気づかれてしまうだろう。

「なに、これ」

 メリーの乾いた声が蓮子の思考を断つ。

「気持ち悪い」

 彼女は自分の体を抱き、小さく震えはじめた。蓮子はようやく彼女に視線を向けた。それでも、まだ視界の隅ではゆらゆらと赤い花が揺れている。
 小さく息を吸い込んで蓮子は問いかけた。

「境界はあるの?」

 メリーは蓮子に目も向けずに答えた。

「揺らいでる」
「揺らいでる?」

 メリーは鳥居の下を見ているようだった。蓮子も同じ場所に視線を向ける。けれど境界を見る目を持たない彼女は鳥居しか見えなかった。

「ねえ、揺らいでいるって、どういうこと?」
「わからないの」

 わずかに声を荒げてメリーは強く目をつむり、強く自分を抱く。

「わからない!」
「……メリー?」

 もう一度蓮子は神社を見る。境界が揺らいでいること、メリーが理解できないこと、それ以上に蓮子は何もつかめなかった。わかるのはたった今、ここで何かが起こっていること。
 それがどういうものなのかはまったくわからないけれど。蓮子はポケットの中で手をぎゅっと握った。

「行きましょう」

 小さく、けれどできるだけ力強く聞こえるように、蓮子は喉から言葉を搾り出した。

「何はどうあれ、これも活動でしょう。ありえないことを探るのが、私たち秘封倶楽部なんだから」

 蓮子は呆然と立ち尽くしているメリーの腕をとって歩き出す。腕を引っ張られて、のろのろとメリーも歩き出した。二人は黙って鳥居に向かう。
 わかってる。胸の中で、蓮子は自分に言い聞かせる。考えたくはないけれど、この境界を調べてもきっと幸せな結果は得られない。色々調べようと思っているのだって、きっと私だけで、メリーはもう……。
 だけど必ずここには何かがある。その予感だけが蓮子の足を動かしていた。必ず何かがあるはずだ。私たち二人の夢を変えてしまうほどに強烈なものが。

 突然強い風が二人に襲いかかってきた。鳥居の向こう側から二人を吹き飛ばそうとするように。けれど蓮子はぐっと地面を踏みしめて前へ進む。メリーも蓮子に腕を引かれて進む。彼岸花の絨毯に二人の足音が吸い込まれる。
 とうとう、二人は塗料が剥げ落ちた神社の鳥居をくぐった。

#5

 彼岸花は忽然と姿を消した。

「どういうこと?」

 メリーの腕を離して蓮子は後ろを振り返る。真っ赤な鳥居が二人のそばで悠然と立っている。鳥居の向こうには、紅葉色に染まる山の風景が広がっていた。さっきまでは萎れた葉しかついていない木立だったはずなのに。
 紅葉がひとつ、二人の目の前に舞い降りた。蓮子はぽつりとつぶやく。

「タイムリープ」

 それしか考えられなかった。

「空間は移動していない。私たちは時間の境界を越えたのよ」

 メリーはうつむき加減のままで蓮子の言葉に反応しない。時を越えていることさえ、彼女にはどうでもいいことのように見えた。蓮子が何を訊いたとしてもまともに答えてくれそうになかった。
 蓮子は鳥居を上から下まで注意深く眺める。くぐるまでは塗料が落ちていたのに、今はこうしてはっきりと赤を残している。それが時間を遡った証拠だ。季節も春の終わりから秋の終わりへと変わっている。

 タイムリープで過去の世界に遡ることはありえないはずだった。そのことは超量子力学の思考実験で証明されている。時間は不可逆的なものであり、原子の意志はひとつの流れにしたがって動く。その動きを巻き戻すことは不可能である、と。
 しかし、蓮子の目の前の現象はその証明を覆していた。鳥居は確実に新しい状態に近づいた。季節も何度も巻き戻されていた。それがどれほどのことなのか、蓮子にはよく理解できた。

「なんて強力な境界なのかしら」

 調べたいと思った。科学で説明できないこの現象を探りだすのが、自分たちのアイデンティティなのだから。

「あの神社を調べましょう」

 蓮子はひとり神社に振り返って歩きはじめた。メリーは鳥居の近くでしばらくぼんやりと立っていたが、やがてゆっくりと蓮子のあとを追った。

 #6

 靴を脱いで蓮子は廊下へと上がる。扉は鍵こそ掛かっていなかったが、すべてきちんと閉じられていて、開くと風が音を立てて舞い込んだ。部屋の家具や調度品もきちんと置かれているが、その置き方は丁寧で冷たかった。建物は居住空間としての役割を放棄させられていた。おおい、と声を出してもただ虚しく反響するだけだった。人の気配はまるでなかった。

 ゆっくりと賽銭箱を振り返ると、箱のそばの階段にメリーが腰掛けていた。じっと微動だにせず外を眺めていた。その小さな背中に声を掛けることがためらわれた。
 蓮子はあきらめて神社の中にさらに入っていった

 居間にはちゃぶ台と神棚があった。厨房には湯呑みしかなかった。風呂場には水気がなかった。本当に誰も住んでいないようだったし、途方もなく長い間使われていないように見える。
 けれど神社は清潔だった。ほこりひとつ、蜘蛛の巣ひとつ見当たらない。誰かがいつでも掃除しているのかと思えるほどに。でも、その掃除用具も誰にも使われている気配がなかった。
 誰かが手を入れているわけではない。ずっと冷凍保存されているように、ここだけの時が止まっているのではないか。蓮子はそう思う。でも、それだって物理的に考えればありえないはずだ。アトムは時を刻む。もう五十年も前に証明されたことのはず。
 壁に爪を立てて、くっと手を引くと、乾いた音がして壁に傷跡が描かれた。それが元に戻ることはなかった。

 いくらまわっても誰もいなかった。居住空間に何もおかしなところはなかった。ただ、そこが静かに時を止めていたような気配が漂うほかには。結局、手がかりなし。ひと通りまわって、蓮子はそう結論づけた。何もおかしなものは見つからなかった。
 不可思議なことが起こっているのはわかる。けれど推測さえできない不思議。帽子を深くかぶりなおして、ため息をつく。ぼんやりと小さな吐息が神社の静寂へ溶けていった。

 がたん。

 突然、境内の方から音がした。蓮子は音のした方にはっと振り向き、そこへ足を進める。風呂場から厨房、厨房から居間、居間から廊下、そして――。

「メリー?」

 石畳に賽銭箱の蓋が投げ出されている。それを外したはずのメリーは、格子のない賽銭箱の横に立ってじっと手もとを見つめていた。

「それ、何?」

 蓮子は靴を履き、彼女の隣から手もとを覗き込んだ。手の中にあったのは一枚の紙だった。

「貸してくれない?」

 半ばメリーから奪うようにして蓮子は紙を手にする。ところどころインクがかすれていたが、最初に目についたのが「吉」という文字だった。

「おみくじ?」

 メリーは賽銭箱を見ている。おそらく賽銭箱にこのおみくじが入っていたのだろう。蓮子はそこに書かれた文字列を判別していく。

 仕事:なにごともうまくいく。
 恋愛:運命的な出会いを果たす
 勉強:努力が実を結ぶ。

 ……

 おみくじにはありふれたことが書かれていた。けれど、その紙は黄ばんで、ところどころ破れかかっている。蓮子はそのことに違和感を持った。何かがおかしい、矛盾している。長い沈黙の中で紙をじっくりと観察しながら、蓮子は思考を巡らせはじめる。

 ◆

 突然、甲高い音が沈黙を切り裂き、二人の体を小さく震わせた。音は一秒ほど続いたあと、尻すぼみのように消えていった。
 蓮子はおみくじから顔を上げ、音のした方を探ろうとした。神社から少し離れた場所から響いたようだった。林に目を向けようとしたとき、もう一度同じ音が神社に鳴り響いた。
 動物の鳴き声?

 蓮子が林の中へ目を凝らすと、音の持ち主はすぐに見つかった。

「ねえ、メリー。あれ」

 メリーの肩を叩いてそれを指さした。メリーはゆっくりと顔を上げてそれを見た。
 白い狐だった。それは日本からとうの昔に絶滅していたはずの動物だった。けれど、狐は確かにそこにいる。そして林の中から、賽銭箱の横に立つ二人を見つめていた。
 少し歪だったのは狐が二つの尾を持っていることだった。

「どうして私たちを見ているのかしら」

 狐から目を離さないまま、蓮子はメリーに問いかける。その問いかけも虚しく神社の境内に落ちる。メリーはフランス人形のように何も答えてくれない。
 蓮子は小さく首を振って、答えを狐の中に求めようとした。

 ただの狐でないことは雰囲気からわかった。何か不思議な力が働いているようで、思わず「彼女」と呼びたくなってしまうような妖力をまとっているように見えた。けれど、尾は二つ。
 よく見ると、彼女の視線は二人に平等に向いているわけではなかった。どちらかと言えば彼女がじっと見つめているのは――メリー?

 唐突に、メリーが体を震わせて立ち上がった。

「な、なに?」

 突然のことに蓮子は少しあっけにとられた。けれど、ふと思考を取り戻して彼女の名前を呼ぶ。

「メリー?」
「行きましょう」

 返ってきたのは冷たい声だった。

「でも、まだ――」
「蓮子」

 メリーは狐から目を逸らして蓮子を見る。また何かを隠している表情だった。けれどそこから確かに感じられるのものは、戸惑いと喪失感だった。
 まだ、何だというのだろう。蓮子は開きかけていた口をゆっくり閉じる。今の彼女に対して伝えたい言葉が意味を失っていく。口を開いてしまえば、今までの活動すべてが否定されるような気さえした。

 メリーが音もなく離れる。そのまま静かに、ゆったりとした速さで鳥居の下へ歩む。境界へ、この不思議の終わりへ。おみくじを握ったまま、蓮子は賽銭箱の横で立ち尽くしていた。彼女の後ろ姿と、白い狐の切ない目が視界に入ったまま。
 メリーがここから立ち去ることを理解できなかった。まだ何も終わっていないのに。あの狐だって、あのおみくじだって、まだ私たちは何も理解していないのに。それなのにあなたは去ってしまう。

 まだ、すべてが終わるには早過ぎるでしょう?

 メリーが鳥居をくぐって姿を消した。おそらくは「私たちの時代」へ時間移動したのだろう。何も言わずに立ち去るということは、おそらく境界は消えてもいないし変質してもいないのだろう。「揺らいでいる」というけれど、境界はまだ正常に機能しているのだろう。

 行きたくはない。でも、もう行くしかないのだろう。
 まだ、私が知りたいことは山のようにある。たとえ今はすべてを理解できなくても、まだ見るべきこと聴くべきこと感じるべきことは山のようにあるのに。
 それでも彼女はここを去ってしまった。

 たった一人で、ここにいることはできない。

 人の匂いのない神社を背にして、蓮子は歩き出す。おみくじをコートのポケットに突っ込んで。いっとき、強い風が吹いて森がざわめいた。いくつもの紅葉が鳥居の向こうから蓮子の方へ飛んでくる。
 そのざわめきを通り抜けて、鳥居へ。

 けれど、それをくぐり抜ける前に一度立ち止まり、蓮子は後ろを振り返った。
 落ち着いた佇まいで、それなのに誰もいない神社。蓋が外されたままの賽銭箱。その背後にあるのは緑と赤と黄色が混じった風景。そして、じっとメリーが通り抜けた鳥居を見つめている白い狐。

 きいん。

 森のざわめきの中で狐の声は鋭く響く。彼女のいる場所から、遠く、遠くへ。音は鈍い刃となって、蓮子の胸をゆっくりえぐっていく。嘆息と共に蓮子は痛みをゆっくりと呑みこんでいく。
 その声の切なさを私は知っている。その声の深みを理解している。なぜならそのことは聞く前から私の中にあったことなのだから。だから、あなたと私の言いたいことは、たぶん。

「同じ、なのでしょうね――」

 ◆

 境界を通りぬけて時空移動をする。彼岸花の揺れる中にメリーが立っている。蓮子が予想したとおりの味気ない光景だった。

 そうして、二人は元の時代に戻る。

 #7

「諸君、目の前に海が広がっています。それは途方もなく大きい海です――」

 ふと目が開いた。喉の奥から眠気混じりの息を吐いて、蓮子は顔を上げる。視界はぼんやりとして、赤と白ばかりが目に入った。耳の奥にとらえようのない音が渦巻いている。
 もう一度小さく息を吸って吐くと、少し視界がはっきりとしてきた。まわりに視線を向けると、自分と同じようにうつらうつらしている人がいた。それから隣の人と息声で会話をしている人、下を向いて携帯電話をいじっている人。

 ただ椅子に座って学長の話を聞いているふりをする彼らは、何を思っているのだろう。これが卒業式なのかしら。まだぼんやりする頭で蓮子は思った。だとしたら、それってずいぶんと軽い行事なのね。ゆっくりと首を回し、肩を上下させる。

「海は夢でした。人類は海に夢を見て旅立っていったのであります。見果てぬものを追い求めて人は海へ出た。それが大航海時代と呼ばれるものです。あるいは今は舞台が宇宙であり、月の開発が進められております。今までも、そしてこれからも人類は未来に無限の夢を見て、進んでいくのであります。そう、だからこそ、諸君には夢を持ってもらいたい。この時代を引張るリーダーになってほしい」

 壇上の学長はもう五分以上も話し続けていることになる。そういう話をしている彼だって、本当に未来に夢があると信じてこんな話をしているのだろうか?

 大人はずるい。蓮子はときどき思う。
 私たちから夢を奪っていったのはいつでも大人だった。大航海時代だって、宇宙開発競争だって、それから物理の究極も大人がやりとげてしまった。彼らがすべてを暴き出し、それを利用して今の世界を創り上げた。
 そういう大人の世界に、街に夢を持てなんて。それは全部、あなたたちが勝手に創り上げたものでしかない。私たちに見せようとしているのはすべて合成なのでしょう? 私たちが食べている食べ物が「本物」ではないように、私たちが見る夢も「本物」ではないのでしょう?

 そんな合成の夢に生きる? 馬鹿馬鹿しいよ、本当に。
 私は「本当」の夢が欲しい。大人が私たちに与えたいと思う、そんな夢なんてこれっぽっちもいらない。私はまだ誰も見たことのない不思議の世界に行きたかった。そこで誰もしたことがないことをしたかった。それが叶えていたのが「秘封倶楽部」だったのに。それは、もう――。
 思考を紡げたのはそこまでだった。蓮子のまぶたがゆっくりと落ち、意識は眠気に誘われた。耳に入る音は意味をもたなくなり、暖かな空気に包まれて蓮子は再び浅い眠りに落ちていく。

「私たちは期待したい。将来、君たちが時代を創り上げていくその姿に――」

 学長の声が境界を失い、いつのまにかメリーのものへと変わっていった。

――そんなことを言うなら、蓮子。あなたの「本当」の夢はどこにあるの?

 ◆

「同じ、なんでしょうね」

 帽子を手にとって蓮子は言う。

「行かないでほしい。それは言葉にできないけど、はっきりとしたかたちで私の中にある。それから、あなたの中にも」

 風の吹いていない境内で白い狐と対峙している。

「どうしてあなたの気持ちをわかってしまうのかな。初めて会ったばかりなのに、強く共振動しているのよ、私とあなたの気持ちが」

 狐は小さく頷いた。

「それはそうだろう」

 そう言って彼女は行儀よく石畳に座った。蓮子はそれに違和感を覚えない。疑問さえ持たない。最初からそうであることはひどく自然なことだった。狐は言葉を続ける。

「すべてを観測しているのはあなただ。私の行動、言葉。それらを感じ、“私の気持ち”として、あなたの経験という箱の中で変換されて“あなたの気持ち”として解釈するのだから」
「それは客観を主観に変換しているということなのでしょうね。科学ではよく言われていたわ」
「小難しい言い方をすればそういうことになるのだろう」

 鳥居の向こうには蓮子の知らない風景が広がっていた。どこだろう、あれは。
 いや、本当は知っている。さっきまで私はそっちの世界にいたはずだ。でも、どうしてそれが一瞬肌に馴染んでいないもののように思えたのだろう。

「客観を主観に変換する、ということは変換後の姿は主観によって変わりうるということだ。つまり、あなた自身が変化すれば、同じ光景であったとしてもそれが違うものに見える」
「同じ部屋にいても子どものときと大人のときと、感覚が違うように」

 狐は小さくうなずいてじっと蓮子を見つめる。

「あなたはここに、もっと早く来るべきだったのかもしれない」

 その言葉を狐が口にした瞬間、蓮子のまわりから色の気配が失われるのを感じる。少しずつ、世界がモノトーンになっていく。

「そうすればあの方だってここを去ることはなかったように、私には思えるのだ」

 やがて色が消え、時の流れが失われる。地へ落ちていく葉が宙に固定される。その中で動けるのは蓮子と狐だけだった。

「好きだった」

 蓮子はぼんやりと灰色の空を見上げて言った。

「たぶん、ここに来たくないと私自身がどこかで望んでいたのよ。確かに都合よくいろいろな不思議が見つかったのは事実だけど、そんなことを放ってここに来ることだってできた。でも、そんなことは結局しなかったし、したくもなかった」

 空にひびが入る。

「好きだった。そういう不思議に身を浸している自分が、メリーと一緒にいることが」

 小さな欠片が頭に降ってきた。狐も空を見上げたまま、黙って蓮子の言葉を聞いている。

「博麗神社は終わりの地なのよ。境界という意味でもだけど、私とメリーの間にある何か大事なものの。私の存在する時空の……そういう、色々な鮮やかなものの終わりの地だったの。なぜか、それを知ってしまった」

 しばらく沈黙が続いたが、唐突に狐が口を開く。

「それは、今だからこそ言えることだろう」

 欠けた空の向こうはなぜか橙色に光っていた。

「夢を見つづけることはできない。ここであなたが感情を得てしまう前に覚めた方がいいのだろう」
「そうなのかしら」

 裂け目は少しずつ広がり、あたりに光がまぶされる。視界は橙色に染まり上がっていく。

「私が何を思うのか、あなたはやっぱり知っているんだ」
「知っているというよりは」

 光の中に狐は消え失せてしまった。

「もう、その感情でさえ、過去のものになってしまった」

 世界は細かく揺れる。高く鋭い音が鳴り響き、亀裂が広がり、空間は割れる。あの鳴き声が蓮子の耳の中で反響する。色鮮やかな光景が一度は失われて、再び別の色彩を取り戻す。
 それは彼女が言っていたように、まわりが変わったのではなく、私自身が変わってしまったということなのだろうか。望んでいるわけではなかったのに。
 望んでいないから、私は何を思う? 時の流れに移ろう景色に私は何を見る? それとも、私は何も感じたくはないのか?

 だけど、いつかはそれを感じてしまうことを、彼女だけは知っていたのだ。たぶん、秘封倶楽部ができたあのときから、ずっと、今の今まで。それを受け容れることはできるのだろうか、私は。

 ◆

 目を覚ますと、涙が滲んでいた。視界の隅が歪んで、蓮子は自分がどこにいるのかしばらく把握できなかった。人差し指でそっと涙を拭い、まわりを見渡す。
 そこは鈍行電車だった。行きと同じ内装の、ボックスタイプの座席だった。がたんがたんと大きな音を立てて、彼女たちの日常に近づいていく。窓の外に野原が遠く広がっていた。ときどき電柱が視界に映る野原を区切った。
 視線を窓から対面の席に座っているメリーに向ける。彼女はずっとうつむいたまま、神社で拾ったおまもりを見つめていた。

「やっぱりわからない?」

 メリーは黙ってうなずいた。蓮子は頬杖をついて鼻からため息を漏らした。長めで力のないため息。

 紙の古さから考えて、作られたのは少なくとも百年以上前。保存状態によってはそれよりずっと昔のものかもしれない。普通なら百年もすればそこに書かれた文字の形や使い方が変化していてもおかしくはない。
 でも、このおみくじは違う。文字の使い方、形、さらにパソコンで作られたフォント――確信は持てないが、おそらく私たちの時代に使われているものと同じだ。これが百年前に作られたものとは考えにくい。ならば、このおみくじが今の時代から遠く昔にタイムリープしたとしか考えられない。百年前にさかのぼり、紙が劣化していき、最後に私たちに見つけられた。
 けれど、いつどこで時空移動が発生したか。タイムリープして最初からあの賽銭箱に入ったのか。それとも誰かの手によって入れられたのか。疑問は山ほどある。それなのに疑問を解決するための手がかりさえ、私たちはつかむことができなかった。
 結局、これ以上の考察を進めることはできない。私たちに与えられたのはこのおみくじだけだ。

「最後の活動がこんなふうに終わるなんて」

 ため息をつくように蓮子は漏らした。

「博麗神社をとっておきにしておいたのに」
「でも、本当にこれで終わりなのよ」

 メリーはおみくじをバッグの中にしまいながら言った。

「この先はもうないの」

 そして頬杖をついて窓の外を見る。

「しかたないことなのかな」

 蓮子はじっとメリーを見つめた。外を眺める彼女の金髪が寂しく光る。青い目にはもの悲しさが宿っていた。
 缶コーヒーがほしい、と蓮子は思った。ドリップと違って風味は格段に落ちてしまうけれど、今、それがここにあるだけでどれほど胸のざわめきは落ち着くだろう。
 がたん、と電車が大きく揺れる。

「ねえ、メリー」

 意図していない言葉が蓮子の口をついた。

「笑ってよ」

 窓の外を見ていたメリーの視線がゆっくりと蓮子に向く。瞳が蓮子をとらえて離さない。蓮子はその光に思わず怯みそうになった。それでも口を止めることはできなかった。

「あの境界が揺らいでいるとあなたは言った。それは境界自体が消えかかっていることなのかもしれない。でも、何かが始まれば、何かが終わる。その逆も同じ。何かが終わるということは、そこから何かが始まることでもあるの。終わりと始まりは表裏一体のものだから」

 ふと頭の中に地球が描かれた。地球には果てがないというけれど、今、私達が立っている地表こそが「果て」。マゼランが気づけなかったこと、そしてそれまで誰もが考えたことがなかったこと。でも、ニールデン・アームストロングは気づいたのだろう。終わりの姿はすぐそこにあることを孤独の宇宙で、誰よりも早く。

「だから私は、あの境界で起きたことも、あの境界が消えることも寂しく思ったりはしないわ」

 蓮子は左手をそっと伸ばし、メリーの手の甲に重ねる。気温のせいか、血が通っていないかと思えてしまうほどその手は冷たかった。それに蓮子は驚き、握ろうとした手を緩めて、ただ触れるにとどめた。

「ねえ」

 メリーの冷たい手と悲しそうな目に、自分の声が震えそうになるのを感じる。それを必死で抑えながら、蓮子は言葉を紡いでいく。

「まだ私たちのラストシーンは来ていないの。まだ私たちの活動は終わっていない。だから、そんな悲しい目をしないで。ねえ、笑ってよ、メリー……」

 メリーの目から涙が音もなく伝い、顎から落ちて蓮子の親指ではじけた。その瞬間、小さく蓮子の手がはねる。
 なぜ、あなたは泣いているの? 今日の発見がそんなに悲しいの? 何も見つからなかったことが、あの狐の慟哭が、そんなにも悲しいことだった?
 言いたいことは胸の内からいくらだって出てくる。けれど、その言葉はぜんぶ喉の奥で消え失せる。言いたくないわけじゃない。でも、言うことができない。

 蓮子は帽子を深くかぶりなおして、メリーから手を離す。ゆっくりと背もたれに体を預けて、小さく息を吸おうとした。けれど、うまく空気を吸うことができなかった。胸の奥から喉までが細かく震えて、とぎれとぎれでしか空気が入ってこない。目の前にいるはずのメリーがゆっくりと歪んで、朧になり、ときどき輪郭を取り戻す。ふと、目尻から頬にかけて熱いものが伝い落ちていくのを感じた。

 ああ、と胸の内でため息をつく。やっぱり、そうだったんだ。
 わかっているよ、メリー。本当はあなたが泣いているんじゃないんだ。でも、あなたは涙を流してしまった。それはあなたではなくて、正面にいる人の気持ちを鏡のように写しとってしまったから。

 そうだよ。
 泣いているのは、私なんだ。涙で頬を濡らしているのは、私。

 蓮子は帽子を手にとり、ぎゅっと顔面に押しつけた。喉から嗚咽が漏れそうになるのを必死でこらえた。今の自分の姿をメリーに見られたくない、ただその一心で。

 自分に強がる資格なんてない。相手に笑ってほしいなんて願う権利はない。きっと誰よりもこの私自身が、笑って終わりを迎える覚悟がないんだ。
 どうしたってあの不思議の中にいたいと思ってしまう。ずっとそのおみくじについて二人で考えていたいと思ってしまう。わかってはいるよ、ずっとそうしていることが許されるはずはないんだって。でも、わかっているのに、そう願うことを自分で止められない。
 どうしようもない、わよね……。

 電車ががたんごとんと乾いた音を立てる。帽子にわずかな光が入り込んで、暗い視界を染めた。蓮子は光が滲む視界の中で静かに涙を流し続けた。

 #8

 卒業式が終わると、学生たちは講堂から散っていく。どこかへ遊びに行くのかもしれないし、自分の家に帰ってゆっくりするのかもしれない。
 蓮子はその奔流からするりと離れた。そして、どこへ行こうかとなんとなく考えているうちに、足はテラスのあるカフェへと蓮子を運んでいた。

「やっぱり」

 そこではメリーが座ってココアを飲んでいた。

「やっぱり、そうなのよ」

 どちらからともなく、そんな言葉が漏れた。顔を見合わせて二人は笑った。

「彼も卒業するのね」

 ブラックのコーヒーを買って蓮子がテーブルにつくと、メリーがカウンターに目を向けながら言った。

「彼?」
「ほら、あの店員さん」

 蓮子もそこに目を向けると、エプロンの下のTシャツに淡い花を胸につけた店員の姿が目についた。蓮子たちが一年のときから、ずっとこのカフェで働いている青年だった。二人の視線に気づくと彼は爽やかに笑って頭を下げた。蓮子も小さく頭を下げてそれからメリーに視線を戻す。

「あなたは四月から巨大企業(コンファーム)で働くんだって?」
「ええ。たまたま私のところに仕事が舞い降りてきたっていう感じで」
「たまたま、か」

 蓮子は苦笑してコーヒーを啜る。

「メリーを放っておくほうがどうかしてると、私は思うけどね」
「あら、それは褒め言葉として受け取っていいのかしら?」
「自由に解釈してくれればいいと思う」
「そんなこと言ったら蓮子も」

 メリーがカップに口をつけたが、すでに中身は空だった。

「大学に残って研究を続けるのは、素晴らしいことだと思うの……ココア、買ってこないと」
「試験は大変ではなかったけどね。いってらっしゃい」

 カウンターに向かうメリーの背中ははずむ。案外、メリーは企業で働くのを嫌だと思っていないのかもしれない。あの店員も、ここでの経験を活かしてどこか別の場所で勤務することになるのだろう。
 そしてこのカフェに残るのは、私だけ。

 蓮子は視線をテラスの外に向ける。まだ学生たちがキャンパスでおしゃべりをしていて、いつものような和気藹々とした空気がキャンパスに満ちていた。それに比べて、暖房が効いているはずのこのカフェは、外と切り離されたように寒々としていた。

「ただいま」

 メリーの声がして、ふわっと空気が柔らかくなるのを感じる。それに気づいて蓮子は思う。ああ、やっぱり私はこうしているのが好きだったんだな、と。
 蓮子はメリーを見てゆっくりと笑った。

「おかえりなさい」

 二人は最後の、ひとときの談笑に戻る。

 徐々にキャンパスから人がいなくなる。ゆっくりと陽が天から降りてくる。少しずつ潮騒はおさまってくる。やがて橙色の玉がぽっと空に灯った。夕闇がじっとりとあたりを染めあげていた。いつしかおしゃべりは途切れて、しんとした静寂が二人を包み込んでいた。

「行きましょうか」

 ぽつりとメリーが言った。蓮子は黙ってうなずいた。二人が立ち上がると椅子がからからと乾いた音を立てた。カウンターで支払いを済ませると、カードの音が氷のように店内に響いた。

 誰もいない薄暗いキャンパスを、二人はのろのろと歩いていった。どちらが前に出るでもなく遅れるでもなく。ただゆっくりと、止まることはなく。
 門の手前まで来て、初めて蓮子は立ち止まった。少し遅れてメリーが止まり、蓮子を振り返る。蓮子は何も言わず空を仰いだ。空は青と橙が混じった色をしていて、まだ星は見えなかった。月も昇っていなかった。

 空を見上げたまま蓮子は思う。ちゃんと言うべきだ。どんなに残酷に思えても、どんなに悲しいことになろうとも。この目が時を刻むかぎり、そうすることから逃げられない。

「終わるのね」

 その一言を口にした。

「そうね」

 少しの間があってから、メリーが応えた。

「いつかはこういう日が来るのだから」

 蓮子は視線を落としてじっとメリーを見つめた。彼女が少しだけ遠くにいるように思えた。

「だったら、私が言う」

 メリーは小さく「どうぞ」と言った。
 蓮子は小さく息を吐く。息は白い煙となって夕闇へ消えていく。それをじっと目で追って、見えなくなるまで静かに息を止める。やがて、冷たい空気を肺に流しこみ、言葉を口にした。

「これで秘封倶楽部の活動は、終わり」

 自分の声に蓮子は驚いた。つっかえもせず、震えることもなく、言葉は水よりもあっさりと流れていった。メリーはゆっくりと微笑んでうなずいた。つられるように蓮子も笑い、ポケットに手を入れて言った。

「四年間、私のわがままに付き合ってくれて、ありがとう」
「ううん、あなたのわがままなんかじゃないわ。こちらこそ、本当にこの四年間楽しかった。ありがとう、蓮子」

 メリーの微笑が蓮子には少し眩しく見えた。蓮子はその微笑と共に過ごしてきた時間を思う。
 秘封倶楽部ができたときは、私もメリーもまだお互いを信じきれていなかった。それでも様々な不思議を探しているうちに、私たちはここにいたいと願うようになった。その願いにこうして終わりを告げて。
 これで、いいのよね? 自分の胸にそう呼びかけた。
 答えは返ってこなかった。

 蓮子の前で小さくメリーが頭を下げて、優しく蓮子に笑いかけた。

「じゃあね、蓮子」

 ふわりと金色の髪を揺らしてメリーは門を通り抜ける。蓮子もゆっくりと歩き出して、ふと思い出したように声をかけた。

「暇だったら電話してよ。私、待ってるから」

 メリーは黙って手を振りながらうなずいた。そして背中を向けて蓮子の家とは逆の方へと歩き出した。蓮子はずっとその背中を見つめていた。顔からは微笑が消えていた。

 唐突に視界の隅にぼんやりとした白光が見えた気がした。どきりとして視線を向けたが、そこには何もなかった。けれど蓮子にはその白い光が確かに、あの孤独な電話ボックスに見えたような気がした。
 そのまま、その場所をぼんやりと見つめていた。そこには何もないはずなのに、不意にあの涙が想起された。そしてようやく、ゆっくりと色々なことを感じられるようになった。

 ああ、そうか。

 夕闇さえ拭い去られ、夜に落ちた街を見て思う。
 きっとあの風景が夕日の中にあったから。だから私はあれほど胸を締めつけられて、切なくなって、涙を流したのだ。きっとそう。夕焼けに染まる電車で切ない夢から覚めて、何かを失ってしまったような気がしたから、どうしようもなく寂しかったんだ。

 蓮子はメリーが去っていった方に視線を戻した。けれどもう、メリーの姿はなかった。彼女も夜の闇に消えていってしまった。

 きいん。

 胸の中にあの声が鳴り響いた。今ならあの叫びを声にすることができる、と蓮子は思った。あの狐と同じように、言葉にならない叫びをあげたい。
 けれど蓮子はその衝動をぐっと胸の奥に押し込んだ。
 私が叫んだところでどうなる? メリーが自分のもとに帰ってくるわけがない。叫びは虚しく虚空に消え失せるだけだ。だから、私はただこの終わりを黙って受け容れる。そうする以外に何が許されるというのか。

 穏やかな暖かさは去ってしまった。あとに残るのは春が始まる前の、夜の冷え切った空気だった。蓮子はそれを吸い込み、小さく音を立てて呑み込んだ。喉の奥から胃まで、ゆっくりと叫びを吸い込んで冷えていく。
 蓮子は校門に背を向け、自分の家に向かって小さく足を踏み出した。

 もう一度、家に帰ってホットコーヒーを飲もうと思う。
 そういう苦さが、きっと今日のような日にはよく似合う。

 

 
 
 


 
夢はいつか終わりを迎え、目覚めたときには手のひらで揺らめき消えていく。
それを幻と言い切るのは、あまりに切なくて――。

――――――――――――――――――――――

半年以上お待たせいたしました。
秘封シリーズ六作中、三作目の『サークルズ・エンド』。
お読みいただき、ありがとうございます。
三作目にしてこういう展開を迎えてしまいましたが、いかがだったでしょうか。
『オブジェクト・ゼロ』を読んでくださった方にはきつかったかもしれません。

しかし、それでもまだ三作残っております。
私としては、ここから先が本当にやりたいところです。
一作目、二作目、あるいは今作から入ってくださった方の期待に応えられるものを書いていきたいと思います。
まだまだ、もうしばらくお付き合い下さい。

それでは、また次の世界で。
 

初出:2011年6月24日

 


 

■裏話

 だいぶ長い時間があいてしまいましたが、『サークルズ・エンド』をお楽しみいただけたでしょうか。
 構想は一年以上前から固まっていたのですが、『オブジェクト・ゼロ』のあとにストーリーを練りなおしてみると、これが苦労いたしました。中身が薄いこともあったし、三作目だけはテーマの練り直しもしました。
 が、前作から半年以上も経っているとなると、いくらなんでものんびりしすぎたと言わざるをえませんね……。

 今作では秘封倶楽部の二人が学校を卒業しました。作中では明記していませんでしたが、二人は同い年の同学年。卒業するときも一緒だったというわけです。 特にメリーは普通に就職(この時代だとコンファームになっていますが)することになり、秘封倶楽部としての活動はあまりできそうにない。
 だから、サークルが終わるという意味を込めて、まずはタイトルを付けました。

 もうひとつのタイトルの意味は「円の終わり」。作中でも蓮子や例の青年が言っています。
「地球には果てがないと思っていた。でも本当は、今自分たちが立っている地表こそが終わりなのだと。もっと早く気づくべきだった。」
 もっと早く気づくべきだった、とは青年は言うものの、やはりその中にいると気づけないものです。外側に立って初めて気づくことがある。終わりが近づいて初めて気づくことがある。
 大学生活のような淡い青春だったり、祭だったり、そういう夢のような時間はいつか過ぎ去り、やがて夕焼けの中で目覚めるように。

 そうして秘封倶楽部の時間は終わる。この話で最も書きたかったのはまさしくそういうことです。淡く美しい夢から覚めたときの寂しさは、どこにあるのか。それをどうやって受けとめればいいのか。
 蓮子がきちんと受けとめたとは、私には思えないのですが、これ以上はシリーズ全体のネタバレになりそうなので、ここらで止めておきます。

 次からが大変なことになりそうです。秘封倶楽部の先の未来を描くことになります。折り返し地点を過ぎたばかりで、二人はどこに行こうというのでしょう。
 というか、私がどこに着地させるかがとても重要なんじゃ……。