2012年ねちょSSコンペ投稿、同年頒布小説『うみのもり』収録作。
以前に投稿したアイマスの『Drowning』とは全然違いますが、奥底に流れるものはきっと同じだと思います。

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 遥か遠くまで金色の海が広がっていた。少し眩しい波が音もなく静かに寄せて返す。
 その波間からにゅっと細長いものが生えた。なんだろうと目を凝らす。自分の目は確かに少し他の人と違うけれど、視力が飛び抜けて良いわけではないから、把握するのに時間がかかった。そういうところは私だって普通の人間だ。
 限界まで目を細めて、それが人間の腕らしいとわかった。肌白くて細いそれは、くい、くいとゆっくりと手招きをしていた。不思議と気味悪くない。

 手招き、ね? 女性だと思われる腕の仕草を見て、ぼんやり考える。あれは幽霊かしら? 普通の人間だったら、もっと必死にもがいたり、助けを呼んだりするもの。何か別のものを求めているのかもしれない。生贄……じゃないね。おどろおどろしくないし。

 透き通った砂粒が積み重なった浜辺から、一歩踏み出す。砂粒よりも透き通った波が足元を濡らす。裸足でゆっくりゆっくり、海へと歩み寄る。

 あれがもし幽霊なら。

 手の招く方へ――

 こうやって海に向かって歩いていった先で、私は。

 一歩、二歩、三歩――

 溺れちゃうかも、しれないね。

 ぐう。

  ◆

 ……ぐう? 間の抜けた音に驚き呆れて目を開く。すると、少し離れたところからメリーがまんまるい瞳を私に向けていた。宝石のようなブルーのおかげで、私は少しずつ現実に還ってくる。

 あ、あれ? もしかして、寝てた……?

 私が目を覚ましたのは金色の海ではなく、ダイニングキッチンだった。もっと言うなら、私がダイニングテーブルに頬杖をつき、メリーがキッチンで夕食の準備をしていた――ところでうたた寝をしていたらしかった。

 メリーが目を細めてくすくすと笑った。そうねえ、口から少しよだれが垂れてるから、寝てたのかもしれないわね。私は慌ててシャツの袖で口の端を拭う。こんなところを見られてしまうなんて、はしたない。顔が真っ赤になりそうだった。それに追い打ちをかけるように、ぐうとお腹からもう一度ものすごい音が鳴って、今度こそ私は顔を赤くした。

 お、お腹が空いてるの。だからよだれが垂れたのよ。
 はいはい、待ちくたびれちゃった? 彼女の声が朧のように聞こえた。
 うん。私がそう返すと、もう少しだから、ね? と宥めるように言われた。そうしてまた彼女は私に背を向ける。私はまた頬杖をついて、彼女の後ろ姿を眺めることにした。

 鼻先に甘いミルクの香りが漂ってきた。同時に、ミルクの香りと同じようにふわっと彼女の髪が揺れた。蕩けそうな、金色の波をそこに見る。ああ、だから夢でもあんな景色を見ちゃったのかな、なんて甘い想像をする。
 腕がないのに、彼女の髪は私を手招きしているみたい。晴れた海のように、ゆら、ゆら。溺れてしまえばいいじゃない、そう囁いているように見える。

 私は音を立てないように椅子を引いた。

 たとえば、テーブルにさり気なく置かれているマグの細やかな色使い。クリームにちょこんと淡い水色を落として、優しく広げたような意匠。私はそういうものが好き。

 足音を立てないように、キッチンへそろそろと向かう。

 たとえば、冷蔵庫に貼られた可愛らしいメモ。そこにちょこんと描かれる彼女の字。薄いパープルのハートにそっと口づけをしたらどんな味がするんだろう。そういうものだって好き。

 この、十畳半のメリーの家にあるもの、すべて愛しく見えるときがある。彼女が手をかけてないものでも、ここにあるというだけでメリーの欠片になる。私たち二人が入って少し狭いくらいなのに、私はそこに宇宙よりも深い魅力を見出だせる――――なんて、阿呆みたい。自分に小さく苦笑する。
 私はメリーが好きなんだ、たまらなく。そう気づいてしまってから、どんどん自分がしょうもないことを考えだすようになってしまっている。明日提出しなければいけないレポートとか、二週間先に迫った試験とか物理の世界とか、もう、そういうものは頭の片隅にだって置かれていやしない。

 息を殺して彼女の後ろに立つ。たぶん、私がメリーのすぐ後ろに立っていることに、彼女は気づいていない。ね、と彼女に声をかける。彼女がなに、と振り返る前に、メリーを後ろから抱きすくめていた。

 左腕を彼女の肩に、右腕を腰に絡めて、自分と彼女の体を密着させた。少しだけ、メリーの体が震えた。けれど、彼女は何も言わずに静かに右手でヒーターのスイッチを切る。
 彼女の髪に自分の頬をそっと触れ合わせる。ミルクの香りの中に、さらに淡く儚く胸を締めつけるものを感じ取る。

 したい。たった一言を口にした。

 少しの沈黙。鍋の蓋がかたんと乾いた音を立てた。
 すると、メリーが私の右手の甲に、自分の右手を重ね合わせてきた。細く長い指がそっと私の五指に絡む。無意識に漏れるため息が震えた。

 わかってくれるかな、メリー。
 私ね、こんなふうに時々、どうしようもなく、あなたを抱きたいと思ってしまうの。胸が苦しいの、呼吸ができないくらいに。

 けれど、この思いは告げない。

 後ろから抱いたまま、ゆっくりと両手で彼女の身体の輪郭を確かめる。左手で首筋をなぞり、肩を撫でる。右手の人差し指で腰と腿を描く。メリーのうなじに顔を埋めているから、彼女が小さく声を漏らしそうになるのがわかる。かわ、いい、よ。髪にキスを落としながら、かすれる息で伝える。メリーは肌を震わせて首を傾げる。
 それから私は左手を彼女のシャツの襟元へ滑らせ、ブラの中へ。絹のような彼女の肌の、一番やわらかい場所を掌で包み込む。右手はスカートの裾をすっと引き上げ、内腿をなぞる。
 毒がまわったように胸が切ない。浅く短い呼吸のせいだろうか。それはメリーも同じようで、時々吐息が乱れるのが、髪の向こうから聞こえた。

 好き……すき……だいすき……。
 呪詛のように呟く。何度“好き”を音にしても伝わる気がしない。言葉にして伝わるものでもないんだ。呟くたびに胸をきゅんと締めつけるこの想いも、メリーと身体を重ね合わせれば、肌からメリーにも染み込んでいくのかな。

 うなじにキスを続けながら、右手で彼女の秘所に触れると、メリーの身体が一段と大きく震える。きもち、いいの? 尋ねる私の声は青い色を孕んでいた。メリーは短い喘ぎを隠しながら、小さく頷いた。
 ほんとう、に? 自分の指がメリーの薄いショーツの上で迷い始める。気にしなければいいのに、メリーは気持ちいいって言ってくれているのに、どうして訊いてしまうんだろう。
 あのときの、淡い後悔がどこかで音を奏でる。

 本当、よ? 私の小さな問いに、聞こえるかどうかの声量で返事が来た。胸がきゅうってなるの。

 それって、私がメリーと一緒にいるときにいつも感じてる、哀しさなの? そういうふうには訊けなかった。彼女の声が細すぎて、私が踏み込んだらどこかに消えていきそうだったから。嬉しい、とだけ返して、指を再び動かし始める。

 あとはもう、私も彼女も意味のある言葉を口にしなかった。私はただメリーに気持ちよくなってほしくて、拙い指の動きを紡ぎ続けた。メリーはそれに合わせるように、あ、とか、や、と淡い吐息混じりの声を漏らす。

 頭がじわじわとやられていく。時間と空間はメリーに占められていく。レポートも試験も、楽しみにしていたはずのシチューのことさえ忘れて、ずるずると……私はメリーを恋した。快感のあまり彼女がキッチンの床にへたりこんでもまだ彼女を欲しがってしまう。
 薄茶の床と白いキッチン棚のカンパスに、私の愛しい人が描かれている。メリーの火照りが、私の指先まで伝わるような気がする。

 めりい……めりぃ……。

 何度あなたの名を呼んでも、あなたの声を聞いても満たされない。それどころか、もっと……もっとあなたが欲しくなってしまうの。病気よりもひどいね。中毒になっちゃってるんだよ。

 結局、夕食はメリーがシャワーに入ってからになった。作りかけだったシチューを彼女がきちんと仕上げ、二人でそれを食べた。シチューは一旦冷めたのに美味しかった。私が空腹を極めていたせいかもしれないけれど。ミルクの甘味がとろけかけたジャガイモによく染み込んでいて、人参もかすかに甘かった。

 そのあとでテーブルの片付けを終えると、メリーが飲みものを用意してくれた。私の前にはコーヒー、メリーの前にはココア。
 わかってるじゃない。テーブルの上に肘をついて両手を組むと、メリーは微笑を浮かべて椅子に腰掛けた。お互いのお気に入りの飲みものを用意するのは活動開始の合図の不文律。

 今年で秘封倶楽部は終わる。私がそう決めた。
 メリーは今年で大学生活が最後。来年からは大学近くのコンサル企業に入ることになる。私は大学院へ進学するから、今とそんなに生活も変わらないけれど、メリーは違う。来年からはまとまった時間を空けることはできないだろう。顔を合わせてご飯を食べるくらいならともかく、秘封倶楽部として活動することはもう、できない。
 年が変わってすぐ、倶楽部活動は今年で終わりにしようと私から彼女に告げた。そして彼女はすんなりと了解した。寂しくはあったけれど、いつか来る終わりから逃げたくはなかった。それを受け入れるくらいの気持ちの余裕くらい、私だって持ち合わせている。メリーだってそうだと思う。だから今になって慌てて特別なことをするでもないのが、また私たちのスタイル。というか、惰性。

 ブラックの苦味がいつもより強い気がする。私はそれを啜りながら、次の活動は地縛霊がいると噂のプールに行きたい、と切り出した。地縛霊? メリーが小首を傾げて、ココアのカップを手にした。私、そんな夢を見た気がする。
 私は思わずコーヒーを啜りながら身を乗り出してしまう。見た? 幽霊を?
 ええと。私の食いつきに驚いたのか、メリーが目を丸くしていた。……ちょっと記憶が薄れちゃって。見た“かも”しれないっていうくらいよ。それでも引っ込まない私に押されるようにして、メリーは思い出そうとしはじめた。けれど、やがて小さく首を横に振った。ごめんなさい、思い出せないわ。あんまり気にしないで。
 しばらく私はメリーをじっと見つめていたが、彼女は本当に思い出せないようで、申し訳なさそうに小さく笑った。それで、私もそれ以上深く追及するのをやめて、本題に戻った。

 その噂のプール、奇妙な事件が時々起こるらしいのよ。何かに足を引っ張られて溺れかけた子がいるとか、プールの中の端っこだけやたら寒い感じがする、とかね。死者こそいないけれど、ネットではちょっと噂になってるの。
 随分陰湿な幽霊さんなのね。境界から現れてるってことかしら?
 境界がそこにあるかどうかはちょっとわからないけどね。でも、幽霊関係の話って今まで調べてこなかったから、ちょっといい機会かなと思うの。

 そこまで話してから私はまたコーヒーを啜った。メリーの姿をそっと観察しながら、こっそりカップの中でため息をつく。彼女は少し上の空でぼんやりしていた。プールの幽霊をメリーなりに思い描いているのかもしれない。けれど、その表情にどこか、薄い青が漂っていた。

 何か言おうと口からカップを離したとき、彼女はゆっくりと私の目を見つめてきた。
 いいと思うわ。蓮子が言うなら、行ってみましょうよ。

 私の見間違え、だろうか。今の彼女は微笑んでいた。もう一度瞳をじっと見る。ころころと転がるような、ビイ玉のような、蒼い瞳。ああ、嘘じゃないんだ。私は肌でそれを感じた。
 だからこそ、余計に哀しくなってしまう。私が言うなら、なんて……今すぐにでもあなたを抱きたくなってしまう。あなたがそう言うからこそ、私は何度でも。
 震えそうになる指をおさえるので、精一杯だった。

 そのあと、私がシャワーを浴びてから寝ることになった。メリーはベッドですぐに安らかな寝息を立てはじめた。私はベッドの隣に布団を敷いて横になったが、うまく眠れなかった。
 明け方すぎになって、ようやくうつらうつらと浅い眠りを泳いだ。そこにはまた、あの白い腕があった。

 とんとん。頭を軽く叩かれて目を覚ました。視界の端にメリーの顔がちょこんと映っていた。おはよう。彼女がくすっと笑う。半開きの眼とぼんやりした頭でおはようと返して、上半身を起こした。メリーが視界の真ん中にやってくる。
 彼女がベッドの上でぺたんと座ったまま、お寝坊さんね、と言う。今日も学校あるのに、そんなだから遅刻癖が直らないのよ。ふわっとカーテンから漏れる朝の光の中で彼女が笑う。
 この光景だって普通の恋人同士だったら……なんて、また変なことを考えてしまった。気を紛らすようにして、目の縁をなぞった。そうだ、うまく眠れなかったから隈があるかも、嫌だなあ、と目のまわりを軽くほぐす。それからゆっくり目を開いて、ぼやけた視界を曇りないものにしていく。

 視界に映るものが輪郭を帯びていく。けれど、かすかな違和感があった。

 メリー……?

 ん、なあに? 彼女をじっと見つめる私を、メリーも見つめ返してきた。そんなにじっくり見られちゃうと、少し恥ずかしいわ。
 うん。私はそう返しながら、それでも彼女から目を離せないでいた。陽の中に揺蕩う彼女の髪に、目は吸い寄せられていた。
 ベッドもカーテンも光との縁がはっきりしているのに、メリーの姿がまだ、かたちを得ていなかった。今が朝だからだと信じ込みたかった。そうよ、こんな眩しい光の中にいるんだから、少しくらいは――。けれど、彼女と多くの時間を過ごした私の感覚は嘘をつかなかった。

 メリーの髪の色が、かすかにだけれど、透き通った金色になっている。

 メリーはくすぐったそうに笑って、もそもそとベッドから降りた。朝ごはんの準備するわね、また寝ててもいいわ。私の横を通り過ぎながら、彼女は軽く私の頭を撫でる。すっと指が髪を流れ落ちて、遠くへ離れてしまった。

 そうして寝室に私一人。こんなに明るくて眩しくて、爽やかでほんの少し甘い香りがする部屋の中で、少し乱れたベッドメイキングと塵ひとつないカーペットの手入れがされた部屋の中で。私は呆然と彼女のベッドとその奥のカーテンを見ていた。

 昨日、の、メリーの髪の色は、どうだった、っけ……?
 うまく、思い、出せない……。

 泣きたいのかも叫びたいのかもわからない。胸の中にある大事な、でも薄い紙がぐしゃっと握り潰された気持ちになる。そこに描かれていたのは? メリーの姿、私の心?
 息を呑んで布団のシーツを握る。人差し指が痛むほどに強く。けれど、痛みは意識のうちに入ってこなかった。私の意識はここではなく、昔の鮮やかな世界の中に飛び込もうとしていた。

 でも、そこで自分の名を呼ぶ声が聞こえた。れんこ?
 私はドアを振り返った。パジャマ姿のメリーがそこにいて、どうしたの、と少し不安げに尋ねてきた。私は、ちょっと寝ぼけてたのかな、なんて言いながら、ゆっくりと体を起こして彼女の横を通り過ぎた。

 そのままメリーの家から学校に行き、授業とゼミを受けて、夜にはきちんと自分の家に帰った。ドアを開いて明かりをつけると、自分の部屋は相変わらず小綺麗でものが少なくて、生活感があまりないなあなんて、感じてしまう。
 バッグと帽子をソファーに放り投げて、部屋の中央に立つ。灰色のカーテンはしまっていて、外の光はまるで入ってこなかった。LEDライトの光だけが温度のない私の部屋を照らしていた。
 ふと壁際のパソコンに目を向けると画面は明るいままだった。家を出る前にシャットダウンしていなかったのだろう。

 現実感のない足取りで、画面に近づいてそこにあるものを覗き込む。そこには私が撮影した写真や、そこで起きた出来事の考察、それからメリーとの会話が記録として残されていた。上の方は最近の私が適当に書き殴ったメモ。下にスクロールしていくと、写真や私たちの音声記録も出てきた。

 やがて、現れたのは、星と月の空の下に佇むメリーの姿が映し出された写真だった。スクロールする私の指が止まる。
 違う、明らかにメリーの姿が違う。今よりも、もっと、もっと濃い金色の髪を携えて……。

  ◆

 儚い影をその後ろ姿に見てしまった。月の光に浮かぶ濃い金色の髪が、愛おしくて狂いそうだった。

 開けた丘から見えるのは、広く遠い森と星と月だけだった。夜のピクニック、そういえば響きはいいのだろうけど、実際は結界暴きというあまり褒められたことではない目的だった。
 そして、不思議な現象は終わりを告げた。胸踊る時間は過ぎた。私はまだその興奮を引きずっていたのに、メリーはそうではなかった。ともすれば、私たち二人が辿った時間さえ夢だと言い出しそうなくらいに。

 こんなに何もなさそうな場所が、結界への入り口だったのね。
 夢から覚めたあと、メリーはこんな顔をするんだ、と少し後ろめたさを覚えた瞬間だった。目を細めて私に笑いかけてくれている。だけど、少し潜ればひんやりとした哀しさがある。

 濃い黄色の月にくすんだ灰が滲んでいた。その月の光の中、丘の天辺で森を見下ろすメリーの後ろ姿は、私の知らない彼女のものだった。見てはいけないものを見てしまったような、そんな感覚が潮騒のようにいっぺんに押し寄せてくる。ワンピースに包まれた体は華奢で儚げなのに、確かな輪郭がメリーをくっきりと縁取っていた。

 風に揺れる金色の髪。濃い、濃い……恋……? 私の深いところで、言葉にならないものがゆっくりとうねり始め、それは霞のような予感になる。きゅうと胸が締め付けられて、呼吸が浅くなる。
 そして、気づいたときにはもう、私は駆け出していて、数メートル前にいたメリーを後ろから抱きしめていた。

 蓮子? 息を呑んでメリーが私の名を呼ぶ。驚いているのかもしれない。けれど、私は彼女の気持ちを考える余裕もなかった。ただ必死で、メリーをできる限り自分の元に引き寄せていたかった。メリーの髪に顔を埋めて、浅い呼吸を繰り返す。

 やだよ……やだ……。自分でも何を口にしているのか、わかっていなかった。
 メリー……めりい……や……だ……。
 胸から急に溢れ出した思いを止められない。涙さえ零れてしまいそうなくらいに、苦しかった。
 何が嫌なの? メリーが子どもを宥めるような声で訊いてくる。でも、私はその問いかけに答えられなかった。自分でもわからなかった。
 メリーは確かにここにいる。私の両腕の中で少し戸惑いながらも、泣いてしまいそうな私を慰めてくれている。何も怖がることはないはず、なのに。

 もう少し、このままでいい? 私は結局、そうやって訊き返すしかなかった。うん、とメリーはかすかに頷いた。ふわりと髪の匂いが私の鼻をくすぐった。

 そうやってメリーを抱いたまま、長い時間が経った、と思った。実際には私の目はたった十分しか刻んでいなかったのに、一時間くらい過ぎたように感じた。けれど、いつになっても胸の苦しさはおさまらない。
 もっと……不意にそんな語句が頭をよぎる。

 もっと?

 メリーが小さく震えた。薄寒い風がずっとゆらゆら肌を撫でていたからだろう。

 もっと……。

 私はメリーの髪をそっと鼻先でかき分ける。

 メリーが、ほしい。

 そして、唇をそっとメリーの細い首筋に落とした。

 首筋にキスをして、後ろから抱いたまま彼女の乳房を弄り、一番敏感な場所を触る……そう、私がメリーの家でしたことは、もうすでにここで終わっていたのだ。彼女の顔が見えないまま、言葉と息遣いと身体の反応だけから、私は暗い水の中を手探りで進む。沈んでいく。
 やがて、星が降る空の下でメリーが絶頂に達する。崩れ落ちそうになる彼女の身体を支えながら、私はそっと地面に彼女の体を横たえた。青い匂いのする草の上で荒かったメリーの呼吸が落ち着いていく。まだ、顔は向こうを向いたまま。私はその隣に腰を下ろして空を見上げた。
 罪悪感はなかった。彼女は結局最初から最後まで一度も嫌がることはなかったし、私の指の動きに素直に反応してくれた。彼女を求めることを、許してくれたのだと、そう思う。

 月をじっと見ていると、不意に自分の胸の中に小さな、けれどすべてを溶かして呑み込んでしまうような何かが生まれるのを感じた。
 あなたを抱いているときの気持ちよさを知ってしまったら、メリーを何度も求めてしまうよ、きっと。私は彼女に告げた。言うべきじゃなかったかもしれない、という後悔と共に。
 けれど、メリーは断るよりも残酷な言葉を、すっと私の中に入れてきてしまった。

 いいわ、蓮子なら。静かで甘い声が私の胸を震わせる。それでも私は、大丈夫だから。
 私はメリーに目を向けた。彼女はいつの間にか体の向きを変えて、私の顔をじっと見つめていた。蒼空を深めたような瞳は、夜の中でも光を失っていなかった。

 蓮子は私にとても、優しいもの。

 彼女が呟いた言葉に、ふわっと涙が溢れそうになった。だから、また私は空を見上げて、月と星を見つめるしかなかった。

  ◆

 二年前のこと、こんなに覚えているのに?

 それを認識した瞬間、がくんと膝から力が抜けて、床に崩れ落ちてしまう。そのまま、薄茶のフローリングを呆然と見つめていた。
 今朝、メリーを見て抱いた違和感が今になって私に襲いかかってきた。彼女の髪の色は、確実に前よりも淡くなっている。この写真と今の彼女の髪の色は明らかに変わってしまっている。だけど、私は今の彼女の髪の色を思い出せないのだ。淡くなっている、変わっている……変化のその事実は理解できるのに、ついさっきまでのことが私の記憶にはない。

 じゃあ、彼女の瞳は? 肌は?
 今日喋ったことは?
 手のあたたかさは?
 声は……。

 記憶の海から掬いとろうとすればするほど、“今の”メリーの姿がこぼれ落ちてしまう。ついさっきまで同じ教室で授業を受けていたはずなのに。彼女がいたずらっぽくシャーペンで私を突いたことさえ、朧なものになっていた。
 そんなこと、あるわけない。頭を軽く殴りつけて、そう信じ込もうとするのだけど、だめだった。出会った頃のメリーの姿は鮮明に、色褪せずに思い出せるのに。

 消えちゃう。
 メリーが消えちゃう。
 私の前から、私の中から。

 それ以外の言葉が、思い浮かばない。

 私はすがるような思いで、携帯電話を開いた。メリーのしるしを探るために。けれど、それでさえ何の意味もなかった。ここ一年の写真に、メリーの姿が写っているものはなかった。
”四日後、市民プールで”――携帯のメモに残されていたのは、それだけだった。

 その日から、私は深い眠りにつくことができなくなった。

  ◆

 メモ通り、活動する約束をしてから四日。私たちは棄てられる寸前の市民プールに忍び込んだ。閉館間際で誰も見回りに来ないところにこっそり隠れ、さっさと警備員が帰っていったのを確認して更衣室を通り抜け、プールへと出た。
 そこは東の壁から天井までが大きくガラス張りになっていた。人工的な光はどこにもない。そのかわり、月の光がその巨大なガラス窓から降り注ぎ、揺れるプールの水面にふんわりと着地する。そこから反対側のライトブルーの壁に飛び上がるものもあった。水底と壁がその月光に照らされて、ゆらゆら揺れる。
 本当にこんなところに幽霊がいるの? 壁側のプールサイドをおそるおそる歩きながら、メリーはプールの底を覗き込む。蒼い瞳が少し眩しくなっているように見えた。
 あくまでも噂だってば。私は二十五メートルプールのスタート地点の飛び込み台に腰掛け、彼女が四角いプールの縁をゆっくり歩いているのを眺めていた。いつもなら自分でもっと調べるのだろうけど、今は強烈な眠気で体が重くて動く気にならない。
 噂自体は確かにネットで見た。これは間違いない。けれど、誰が書き込んだかもよくわからないような掲示板だ。ただの都市伝説と何も変わらないのだから、こんなの信じる方が馬鹿なのかもね? 少し前の私ならそう言い切ってしまっていただろうに。

 小さくあくびをしていると、メリーの声がまた飛んできた。
 具体的にどこ、とは書いてなかったの? 手をメガホンのかたちにして十メートル地点から声を飛ばす彼女。あまり大きな声を出し過ぎると誰かに気づかれてしまうかもしれないのに。私は小さく首を横に振った。薄寒い場所がある、としか。
 それはそれは……だって、今はまだ春よ? メリーは月を見上げながら軽く笑った。こんな季節に入ったら寒いに決まってるじゃないの、ねえ?
 うつら、うつら。前後にゆっくりと振れる頭を無理矢理持ち上げて、私は答えた。私だってそう思うけどねえ、書き込み自体はいくつかあったんだもの。まったく調べないのも損じゃない?
 ふわっとメリーが柔らかい光の中で笑う。そうね、蓮子は気になったらとりあえず首を突っ込んじゃうタイプだものね。

 スカートの裾を指でそっとつまんで、裸足で歩くメリー。飛び込み台の上で裸の足をぶらぶらさせる私。もう今年で大学生活も最後なのに、誰もいない夜のプールで何やっているんだろう? 回転が鈍っている頭でぼんやり思う。
 こんなに眠いなら、さっさと家に帰って寝ちゃってもいいんだけどなあ。それでも、こうやってメリーと一緒に過ごす時間を選んでしまう私もいる。結局、私はメリーと一緒に過ごす時間が欲しいだけなんだろう。
 秘封倶楽部の活動なんて、今となってはどうでもいい。私はメリーに会えるだけでよかった。メリーもきっと、私に会えるだけでよかった。倶楽部活動はそのための口実なのだと、そう、信じていたのに。

 こっちにはいないわ。プールの反対側からメリーの声がした。私は自分の足を眺めるのをやめて、彼女に目を向けた。
 じゃあ、こっち側なのかな。何の根拠もなく、私は返した。そうかもしれないわね。メリーがまた手をメガホン代わりにしていた。わかってる、そうしなくったって聞こえてるよ。どうしてそんなに強調しているのよ。私は小さく苦笑いして、再び自分の足元の水面に目を落とした。

 足元から数メートル先に、月が浮かぶ。ゆら、ゆら。幾度も揺れるが、二つに割れたり細かく砕けたりはしない。誰もプールにはいないから。歪な真ん丸が、濃い金色とともに描かれている。

 濃い……金色……?

 はっと私は視線を上げた。すると、メリーが反対側からこちらに近づいているのが見えた。今度は窓がある側のプールサイドを歩きながら。
 ゆら、ゆら。金色の髪が揺れる。でも、それは水面に映る月よりも、もっと……儚く淡い色になってしまっていた。

 メリー。

 そう叫ぼうとした瞬間、視界が透明の透明の、さらにその先の白色に……埋め尽くされてしまった。優しくて残酷な眠気が見せてくれる風景はそういうものだった。

  ◆

 遠くに私の姿が見える。白いキャンパスの前に立っている。彼女――私は右手の筆でわけもわからず線を引き、なんとなくいいと思った色を塗りたくっていく。少し疲れたら、一旦筆を置いてキャンパスから離れてそれを眺めてみる。そこに描かれたのは、人気のないプールの真ん中で誰かを待つ幽霊だった。意外といい絵が描けたなあなんて、私が小さな自己満足に浸っている。

 それから、私は大切な人の名を呼ぶ。ねえねえ、メリー? すると、どこからかメリーが現れて私の横に立った。私は彼女に自慢気に、でも不安も抱えながら尋ねてみる。これってなんとなく素敵じゃない? こんな感じのものが本当にあったら、もっと素敵だよね?
 メリーはそれをじっと眺める。ちょっと頬を緩めたり、ちらと私の顔色を伺ったりする。でも、最後にはゆっくりと頬を緩めてくれるのだ。そうね、こういうところに行ってみたいわ、私も。
 その返事を聞いて、私は心から笑う。じゃあ、夢を本物にしない? 私は彼女の手を引いて歩き出す。

 二人は消えた。メリーも、私も。
 いや、違う。ここにいる? そうだ、この光景を目にしている私だけがここに残されてしまった。私は彼女たちのように夢の世界に行けない。それどころか、キャンパスに描くための筆を持っていないし、何を描きたいのかさえさっぱりわからない。

 ずっと私が夢を描いていたのだと思っていた。メリーがいるから、私が適当に描き殴っていたはずの絵は現へと変わった。そうして私はまた夢を見ることができた。新しい色を胸の内から掬って、今までのキャンパスの上に、より鮮明に描きつけきた。

 そう思っていたのだけれど、でも、本当は。 

 メリーがいなくなってしまったら……私はきっと夢を描くことをやめてしまう。筆を手にすることもやめてしまうのだろう。すると、今まで彩ってきたキャンパスが急にいのちを失ってしまう。その絵を私がずっと眺めていても、それはわかりきっていることをわかりきっているように描いたものでしかないと気づく。
 やがて、時間が経ち、いつしか私が描いた色は褪せ、キャンパスは朽ちていった。嫌だよ、嫌だよ……私は何度も呟くけれど、どうすることもできない。ただそこに立ち尽くして俯いているだけ。

 どうして消えてしまうの? その問いの答えを私はもう知っている。
 そして、それはもう私ではどうにもならないことも、痛いほどわかっている。

 かたちにならなかった予感が言葉として意識に現れたのは、トリフネの夢でメリーが怪我をしたときだった。
 彼女の右腕の傷は、私とメリーを途方もない場所へ隔てる境界になった。夢と現を超えた真っ赤な区切り。もう、メリーの夢はただの夢ではない。メリーの現になりはじめている。
 けれど、私には何の影響もなかった。バーチャル映像を見たのとまったく同じ。私には、メリーの夢はやっぱり、ただの夢でしかない。

 夢を現実に変えるなんて。私がどんなに望んでも手を伸ばしても、結局、彼女の夢から覚めてしまったらそこでおしまい。私は一人の大学生、栗色の髪と栗色の瞳を持つ、ちょっと物理ができる、普通の女、人間。

 その証拠に、今、私は。

 たった一人で暗い水の中にいる。

 まるで現のような、夢のような。

 そんな、水の中に。

 なにも、ない

 みずのなか……に……

 ……………溺れてる?

 視界が眩しい。まわりに何があるのかはよくわからない。体がふわっとして軽い。溺れているというよりは、空に浮いているような、そんな気分。

 ちょっと変なこと言おうか。溺れるのって、結構気持ちいいんだよ。
 最初は苦しいかもしれないけど、ほんのいっとき。あとはね、痛くもなくて、苦しくもない。すごく不思議な感覚になるの。それでね、なんだか明るい気持ちになれるんだ。ああ、ずっとこうしていたいなって。
 だけど、本当にずっとそのままいると死んじゃうんだよね。溺れながら、そういうこともわかっている。だから、まずいと思って藁も掴むような気持ちに戻る人もいるかもしれない。きちんと生きるならそっちの方がいいに決まっている。
 でも、私はずっと……溺れていたいな、なんて。うっかり死んじゃってもそれはそれでいいなって。

 もうじき、溺れたくても、溺れる夢さえなくなっちゃうんだから。

 私の夢はメリーがいなかったらどうにもならないんだ。
 メリーじゃなきゃダメなんだ。メリーしか、私の描く夢を素敵だって、言ってくれないんだ……私は……一人じゃあ……自分の描いた夢を見つけに行くことだってできやしない……。
 私にとってのキャンパスは活動記録。いつか、まとまったらメリーにそれを読んでもらうつもりで書いていたんだよ。あなたの喜ぶ姿が見たくて、私に夢中になってほしくて。

 けれど、メリーは消える。私が手を引いていたはずのあなたは、もうすぐ消えてしまう。

 じゃあ、誰が私の書いたものを読む? 私?
 私が自分の描いた夢の中で溺れる?

 やだよ、そんなの。

 メリーが読んでくれなきゃ、メリーがそこに溺れてくれなきゃ……嫌だよ!

 メリー、あなたの描く夢は? ねえ、あるんでしょう? 私が知らないだけで、本当は自分の中にひっそりと大切に抱えているんでしょう? それを私に見せてくれないの? 何度も私が手を引いたように、あなたは私の手を引いてどこかに連れて行ってくれないの? お互いに溺れ合うなんて素敵な願いはやっぱり叶わないものなの?

 私はあなたの大事なところを二回も穢したのに、あなたは私の唇さえ奪ってくれないんだね。

 夢に溺れてるのはどっちだろう。
 夢と現の境が曖昧になってきたメリーかな。
 想いが返ってこないと知っていても、メリーを求めてしまう私かな。

 …………

 ……

  ◆

 ぽろぽろとメリーが私の前で涙をこぼしていた。ごめんなさい、ごめんなさい……。泣きながら、彼女は何度も震える声で言う。私がこんなところに来ようなんて言わなければよかったの、あなたに探してほしいなんて言わなければよかったの……私が……夢の話をしなければ……全部、よかったの……。

 何をそんなに謝っているの? そう呟こうとしたけれど、呼吸をするのも精一杯で言葉を口にできなかった。ぽた、と頬に滴が落ちるのを感じて気づいた。私も彼女もびしょびしょに濡れていることに。
 私はプールサイドの床に仰向けになっていた。メリーが私に覆いかぶさっている。私の両腕を握って、私の頬へぼろぼろと涙を落としながら。彼女の紫陽花色のワンピースが体に張り付いて、その輪郭がくっきり浮かび上がっている。白いブラジャーが透けて見える。

 あなたの足を幽霊の手が引っ張ったの、私には見えていたのに……プールに来たときからわかってたのに……それをあなたに言わなかったの……ごめんなさい……ごめんなさい……。

 ああ、そうか。私はプールに滑り落ちて溺れていたんだ。それで、メリーがきっと慌ててプールに飛び込んで、意識を失っていた私を引き上げたから、こんなことに。
 だけど、メリー。声もなく私は伝えた。幽霊なんていなかったんだよ、私だってわかってる。プールに落ちたのは誰かが私の足を引っ張ったからじゃない。うたた寝をしちゃって、バランスを崩して落ちた。たったそれだけのこと。

 謝る必要なんてない。罪の意識だったら、もういいよ。

 こほ、とひとつ咳をした。彼女の身体から落ちる滴が音もなく煌めく。天窓から見える月の光で。そして、月を背にしている彼女の正面は影に溢れるはずなのに、彼女も少しだけ光を放っているように見えてしまった。彼女の体が月の光を微かに透き通すほどになっていたから。
 かろうじて腕に力が戻った。すっと静かにメリーの頬に両手を添えた。ひととき、メリーの涙が止まる。涙で頬が赤くなっている彼女が私を見つめている。瞳の色はいつのまにか、空よりも淡い青になってしまっていた。

 不意にあの夢を思い出した。金色の海の中から伸びる腕。あれはきっと、私の願いでしかなかった。あんなふうになりたい、なりたい。
 でもそれは叶うはずのない夢。

 私は言葉もなく彼女の顔を引き寄せ、唇と唇を重ね合わせた。彼女の首から枝垂れ落ちる淡い……淡い金色の海の中で。冷たい唇の感触は、もう二度と味わえない。かすかに感じる甘さは口の中で消えていった。

 溺れたくても。

 唇を離して、私はまた両腕をタイルに横たえた。メリーが大きく体を震わせて、また、泣き出してしまう。蓮子、蓮子……。胸を裂くような弱々しい声で。

 あなたの見る夢に、私は溺れることができないんだ。

 私は目をつむって、メリーの姿をシャットアウトする。

 だって、あなたの見る夢はあなたにとっての現実で、私にはどうやっても手さえ届かない場所なんだから。
 そして、あなたはどこかへ行ってしまう。私の描く夢に、もう、あなたは溺れてくれない。
 だから、私はもう、夢を描くことをやめてしまう。

 それなのにあなたは私を引き上げるんだ。
 離れたくない、欲しい、なんて言わないくせに。願ってもないくせに。わかってるよ、その理由だって。だから、よけいに……。

 そう思ってしまうと、目をつむることにさえ耐えられなくなって、まぶたを上げてしまう。メリーがまた、視界いっぱいに映り込んだ。
 月の光に煌めく彼女は、今まで見たことがないほど綺麗で、可愛くて、愛しくて……このまま私の記憶に、永遠に刻まれていてもおかしくないのに。
 その記憶さえも、色褪せて、いつか、忘れてしまうんだろう。

 ああ、そうして私は確かに存在していたはずのメリーに……溺れているのは、私、なんだ……。

 そう思うと、自然に涙が

 。

 こぼれおちた

 

 

 

 

 

初出:2016年8月27日