創想話
 


 
 私はきれいだ。
 身体を洗いながら、あらためて思う。肌は絹のように透き通って白い。髪は鮮やかな空色でさらさらと流れていくよう。脚はほっそりとして、腕もすっきりしている。それでいて、肉つきは悪くない。顔だって小さくて整っている。
 天界にある桃をいつも食べているせいかは知らないけれど、とにかく私はきれいだ。

 鏡に映った自分の姿を見て、思わず笑みとため息を漏らした。私はなんてきれいなんだろう。自分で自分に惚れてしまいそうだ。私がもし男だったら、一目で惚れるに違いない。こんなにかわいくて、きれいな天人を放っておく男なんているはずがないわ。文句のつけようのない姿よ。
 ただ、ひとつだけ――。
 そっと手を胸に当てて、さする。手はなんの抵抗もなく胸の上を上下に滑る。起伏が少ない胸を撫でて、それを目で確認して、さっきとは違うため息をつく。
 絶壁? 冗談じゃない。まったく、私の容姿は完璧なはずなのに、どうしてこの胸だけは、こう、わずかにでも膨らんだ感触がないのかしら。私と同じくらいの背の高さの天人でも、もう少し大きいのに。これじゃあ、男のほうが筋肉のぶん、胸があるじゃないの。
 もう一度、胸を触ってみた。
 ぺたぺた。そんな音が聞こえてきそうだ。思わず、うなだれそうになって、あわてて気を持ち直した。
 まあ、いいわ。べつに胸くらいなくっても問題ないじゃないの、私はこんなにもきれいなんだから。
 うんうん、と一人でうなずいて、お湯で身体を流した。雫が私の体を煌めかせる。
 岩風呂にゆっくりと身体を浸けていくと、じんわりとお湯のぬくもりが足から伝わって肩まで染み込んでいった。ああ、気持ちいい。下界のさらに下にも、こんなところがあったなんて。

 地下の温泉――冬が明けて博麗神社に行ったときに聞いた話だ。霊夢が地下での異変を解決したあと、それを見つけたらしい。なんでも旧地獄が熱くなったせいで地上にもいくつか温泉ができたとか、そんなことを言っていた。
 地上に温泉があるなら、わざわざ地下の温泉まで行くこともないでしょうに、と衣玖は納得のいかない顔だった。
 温泉は新鮮なほうがいいじゃない。地下から湧いてるんだから、地下の温泉のほうが新鮮で気持ちがいいに決まってる、と私は返した。
 少し子どもっぽい理屈だと自分でも思ったし、衣玖も相変わらず首をかしげるだけだった。
 実はその理由はただのこじつけに近い。ほんとうは、地底の世界がどういうところか見てみたかった、というのが理由。天界にいるのはやっぱり退屈だし、たまには地底という珍しい場所に行ってみるのも悪くない。

 と思って、ここに来たのだが、やっぱりその考えは間違っていなかった。
 ここの温泉は、天界のそれとは段違いだ。天界のお風呂はぬるくていけない。やっぱり、これくらい熱いお湯でないと、お風呂に入ったという実感が得られない。そう、これくらい新鮮で、少し熱すぎるくらいがちょうどいい。
 お湯で顔を洗った。

「熱っ」

 いや、熱くない。熱さのあまり、うっかり目をつぶったとか顔をしかめたとか、そういうことはない、断じて。
 汗が体から噴き出そうになっているけれど、それも錯覚。頭が少しふらふらするのも、きっと昨日の酒のせい。酒の飲み過ぎはよくない、体の毒だわ、やっぱり。
 さて、そろそろ出ようかしら。
 心にひとりごちて、私はお湯から上がり、脱衣所に向かった。長湯は肌の敵だ。皮膚がふやけるとなにがあるかわかったものじゃない。せっかくのこの身体を台無しにしたくない。

 脱衣所から出て、くつろぎ場の長椅子に腰かけた。暑い――冷たい牛乳が欲しくなって、売店に歩いて行った。歳をとった妖怪がそこでぼんやりと座っている。

「牛乳一瓶、ちょうだい。冷たいのでないといけないわ」

 妖怪はゆっくりと私に目だけを向けて、肘をついたまま訊いた。

「普通の牛乳? それとも珈琲牛乳? どっちがいいんだい?」

 かあふぇい牛乳? 聞いたこともなかったような種類だが、この妖怪に訊き返すことはできない。
 そもそも、牛乳になにかを混ぜるということ、それは外道、許せない行為。牛乳はあの白くて淡白でさっぱりして冷たいものでないといけない。「かあふぇい」などと、少し気取ったふうのものはまやかしに違いない。
 私は断固として答えた。

「普通の牛乳に決まってるじゃない。早くちょうだい」
「はいよ」

 のんびりとした返事をして、妖怪はのんびりと氷箱から白い牛乳を取り出し、のんびりと私に手渡した。そんなにのんびりしてたら牛乳がぬるくなってしまう。
 いらいらして、私は牛乳瓶をかすめ取るように受け取り、お代を机の上に置いた。そしてさっと踵を返して、長椅子に戻った。

 長椅子に腰かけて、牛乳瓶の蓋を慎重に開けた。甘い匂いがつんと鼻をついた。それから瓶に口をつけ、一気にそれを喉に流し込む。まろやかに冷たい感触が喉を通り、胃に滲みわたり、お腹から指の先まで、体全体を潤していく感覚。
 そう、これ。まさにこれだ。
 風呂上がりの牛乳はこれだからたまらない。風呂で火照りに火照った体を、一気に冷やしてくれる。この感覚は牛乳以外では味わえない。水でも酒でも茶でもない、牛乳だけだ。
 瓶に残った牛乳を口に入れ舌の上で転がし、味わってから飲み干した。けふっ、と息が漏れる。うん、満足。

 銭湯を出て、ぼんやりと闇を照らす旧都を見わたした。
 お風呂に入って、それだけで天界に帰るのも野暮だ。ここがどういう世界か見るために来たんだから、地底の街を散歩していこう。
 ゆっくりと地底の街を私は歩きはじめた。

 地底の世界も案外、にぎやかで明るい、ということを知って驚いた。地底の住人たちはみんな活気に満ちている。提灯の灯りが街を光で包み、暗い闇をそこから追い払っているようだ。

「らっしゃい、らっしゃい、地上から仕入れた魚だぜ」
「ほら、地底産の野菜はどうだい」
「ここで飲んでいってみないかい?」

 街のあちこちから元気な声が響いてくる。道行く人たちも笑ってそれに応じる。
 天界から聞いていた地底の話は、とても陰湿で暗欝だった。地上の住人に嫌われた者たちがそこに住みつき、地上の者たちを恨みながら暮らしている――そんな噂しか聞いていなかった。
 たとえば、病気を操る妖怪。たとえば、嫉妬心を弄ぶ妖怪。少なくとも天界では、そんな彼らがいい意味で語られることはなかった。
 そんな印象とは逆に、彼らはここで幸せに暮らしている。百聞は一見に如かず、とはまさにこのことだ。天界とは違い、適度な刺激があり、感情があって楽しそうな世界――と感じた。

「なあ、そこのきれいな嬢ちゃん」

 ぽん、と肩を叩かれて振り向くと、そこには下品な笑いを浮かべながら私を見下げる妖怪がいた。思わず、私は二、三歩後ずさって、身構えた――私の腰には緋想の剣を提げている。

「ちょっとここで酒でも飲んでいかないかい?」

 その言葉に、思わず肩から力が抜けた。呑み屋の勧誘か――。
 私は剣にかけた手を下ろした。

「結構よ。いまはお酒を飲む気分じゃないの」

 そう言って、さっさと妖怪に背を向けてそこを離れた。
 けれど、すぐに別の妖怪にも声をかけられた――今度は食事の勧誘。そしてそのあとも茶屋の勧誘――。

 何度も声をかけられて、そのたび私はきっぱりと断って散歩をつづけた。だんだん旧都を散歩するのが不愉快になってきた。そうすると、さっきまでは気づかなかったところが見えてくるようになって、ますます不快になってきた。
 ここの妖怪たちは、お世辞にも見た目が美しかったりきれいだったりすることはない。むしろ、醜い者たちが多い。ときどき、すえた臭いが鼻をついて吐き気を催すこともある。さっきも、そこの路地の裏で、妖怪たちが箱の中からなにかを漁っているのが見えた。食べ物なのだろう、おそらくは。見たくないものを見てしまった気がして、私は目をそむけた。
 そうして、もう一度あらためて旧都を見回すと、そこが不浄な街に思えてきた。人間に嫌われてしまった妖怪が住み着いて、そこは嫌われ者の吹き溜まりになった。醜いものが、醜く生きている街。にぎやかでも、下品な街。刺激的だけど、快楽ではない街――。結局、天人たちの噂どおりなのだ。

 こんな街に来なければよかった、と思いはじめた。もう、温泉での気分はとうに吹き飛んでしまった。やっぱり天人はこんな街に来るべきではない。早く天界に帰ろう。そう思って私は駆けだした。

 駆けだした、と思った瞬間に、いきなり体に衝撃を受けた。よろめいて、そのまま後ろに倒れて、尻餅をついてしまった。どうやら誰かにぶつかって転んでしまったらしい。頭の上から声がした。

「おっと、すまんすまん」

 尻餅をついたまま私は顔を上げた。
 最初に気づいたのは――胸が大きいということで、それから顔を見て、ようやくぶつかった主が何者かがわかった。額から一本角が生えている鬼だ。空の杯を右手に持っている。これから酒を飲もうとして横道から出てきたところだったようだ。
 鬼は頭を下げながら私に手を差し出してきた。

「すまんな、嬢ちゃん、立ち上がれるか?」

 私はその手を見つめて、ようやく自分が尻餅をついたままだということに気がついた。そしてそれがどういうことかも、理解しはじめた。天人が尻餅? 恥ずかしい、恥ずかしすぎる。
 思いっきり、鬼の手を引っ叩いた。ぱぁん、と乾いた音が響き、鬼は驚いた顔を見せて、手を引っ込めた。私はそのまま立ち上がり、服に着いた土埃を払いながら言った。

「一人で立ち上がれるに決まってるわ。あなたの助けなんて必要なくて」

 目を見開いて私を見つめていた鬼は、心底申し訳なさそうな顔になってぺこりと頭を下げた。

「わ、悪いね。そうだよな、嬢ちゃんぐらいなら一人でだいじょうぶだよな」

 それでも、私は怒りが収まらない、収まるはずがない。天人にぶつかって、尻餅をつかせて、勝手に手を差し出して、挙句の果てに、「嬢ちゃん」と呼ぶなんて。私を子ども扱いしているの?
 帽子を深くかぶり直して、悪態をついた。

「ちゃんと前を見て歩きなさい。今回は私でよかったけれど、天人にぶつかってただですむと思わないことね。どれほど失礼なことか、あなた、わかってるの?」

 鬼は黙ったまま顔を伏せている。

「だいたい、この街のひとたちは基本的な態度がなってないわ。下品だし、醜いし……。嫌われ者の住む街って言われても仕方ないわ。だって、嫌われるようなことをしているもの、当然よ」

 さらにまくしたてた。

「そもそも、この旧都の存在じたい、要らないものだと私は思うわ。もう地獄が使われなくなったなら、ここも潰してよかったじゃないの、どうしてわざわざこんな所に住んでいるわけ? それが楽しいの?」

 私は鬼に向かってしゃべりつづける。そうだ、こんな街は私にはふさわしくない、要らないものだ――。

「おい」

 突然、鬼が低い声で私の話をさえぎった。

「なに」
「周り、見てみなよ」

 言われるままに、周りを見わたしてみた。妖怪たちが何事かと集まってきていたらしい。みんな私と鬼を見つめている。鬼の言う意味がわからない。妖怪たちが集まっているだけじゃないの。
 私は鬼に向き直った。

「なによ、なにがあるわけ?」
「いや……それだったら、いいが」

 鬼はため息をついてから、左手を振り上げ――。

 私は地面にすごい勢いで叩きつけられた。

 鬼が私をはり倒したのだ。

 最初、なにが起こったのか、まったくわからなかった。
 一瞬、目の前が真っ暗になって、気がついたら地面に体が横たわっていた。それから、頬に鋭い痛みを感じた。なんとか起き上がって、鬼をにらんだけれど、頭がくらくらするし、体全体にも鈍い痛みがたまっている。
 鬼も仁王立ちして、私をにらんでいる。周りに集まってきた妖怪も、私に冷ややかな視線を投げかける。

「いきなり、天人にこんなことして……」

 私の言葉をさえぎって、鬼が歩み寄って私を見下ろした。

「ああ、失礼だとは知ってるさ。それでも許されようとは思ってないし、このまま終わるとも思ってない。だけど、私だけならいざ知らず、みんなと、この街をバカにするのは許さない」

 失礼……? 失礼なんかじゃない、無礼だ。この鬼が考えていることがなんであれ、あっちが完全に手を出したのは、間違いない。
 それなのに、周りの妖怪は決してこの鬼を責めようとしなかった。むしろ、完全に私が孤立している。私が間違っていたとでもいうのか、あるいはただ私が気に入らなかっただけなのか――?

「いい度胸じゃないの……天人に手を出してそんな態度をとれるひとはなかなかいないわ」

 私は緋想の剣を取りだした。あの異変以来、剣は私のものだ。

「本気で来なよ」

 鬼は右手に持っていた杯を投げ捨てた。

「これは弾幕勝負じゃないよ?」

 言い終わるやいなや、鬼は私の懐に飛び込んできた。はっとして、体を少しひねる。鬼の拳が体をかすめて、外れた。
 ――危なかった、と思う間もなく、鬼は身体をひるがえして、もう一撃を叩きこもうとする。
 避けきれない。緋想の剣を構えた。鬼の拳と緋想の剣がかち合い、剣から手に、手から全身に猛烈な衝撃が走る。さすが力自慢の鬼だ。
 だけど――と私は思考をめぐらせる。この程度なら、いくらでもなんとかなる。まだ緋想の剣の力を出していない。私から攻撃すらしていない。
 鬼の目が光った。一言、まるで脅すような声で、つぶやく。

「死にたいのか?」

 鬼は緋想の剣をつかむ。刃が鬼の手のひらに食い込んだが、鬼は気にしないかのように、思い切り剣を引き寄せた。私の体が剣につられて引き込まれ、鬼の拳が胸に叩きこまれる。

「カハッ!」

 肋骨がミシミシと鳴る。空気が肺から出ていくだけで入ってこない。酸欠で意識が飛びそうだ。
 私は後ろに大きく吹き飛ばされて、どこかの店の壁に叩きつけられ、地面にうつ伏せで崩れ落ちた。地底の土埃に埋もれ、咳が出て呼吸がうまくできない。
 ――強い。鬼は強さの象徴だ、といつかの鬼も言っていた。正直、私が天人でなければ、さっきの一撃で肋骨が全部折れて、心臓に突き刺さっていただろう。

 私は腕をついて、上半身だけを地面から剥がした。まだ体のどこかが壊れたわけではなさそうだ。頭を触ってみる。帽子はいつの間にかどこかに行ってしまった。服ももう、土まみれで、あちこちが破けている。たった一撃まで、ここまでぼろぼろにされるとは思っていなかった。
 ただ、緋想の剣だけはまだしっかりと持っている――これだけは離さない。

 顔を上げて正面を見ると、そこには妖怪たちがざわめいているだけで、鬼がいない。はっと上を見上げる――上空に鬼の影を認めた。
 体を転がして回避した。鬼の足が私のいた場所に墜ちた。地面が地底ごと揺れる。地底ごと壊すかのように。私は急いで飛び起きて、鬼に体を向けて――信じられないものを見た。
 鬼の目が、殺気に満ちている。そして、私にゆっくりと近づいてくる。

「言っただろう? これは弾幕勝負じゃない。このままそうやってるんだったら、容赦なくあんたを叩き潰す」

 ぞわっ、と全身に鳥肌が立つのを感じた。鬼に近づかれないように、後ずさりした。
 違う、鬼の言うとおり、これはただの喧嘩じゃない、戦いだ。自分が持てるものすべてを出さなければ、命を落とす。すべては、すべてだ。
 どうして鬼がここまでするのかはわからない。けれど私が本気を出さなければ、確実にあの鬼に――殺される。
 鬼は緋想の剣を指差して、言った。

「あんたが持ってるそれ、ただの剣じゃないんだろ?」

 余裕のある笑みを浮かべる鬼の目が、光った。

「見せてみなよ、その力」

 私は、深く息を吸って、吐いた。――覚悟を、決めよう。私のすべてを出す覚悟を。

「いいわよ」

 私は剣を構えて、気質を発現させた――が、なにも天候の変化はなかった。地底だから? いや、そうではなくて、あの鬼の気質は――凪?
 しかしその動揺は表に出さないで、言った。

「その代わり、あなたが死んでも文句は言わないことね」

 今度は私が先手を取った。剣を鬼の足めがけて突き出す。鬼は軽く後ろに下がり、剣の先は地面に突き刺さった。鬼がその隙を突こうと突進してきたが――隙を突いたのは私のほうだ。
 土の槍が地面から生まれ、鬼の足を下から突き刺した。鬼の顔が歪む。鬼の身体も硬いのか、貫通することはなかったけれど、それでも少しは刺さっただろう。
 鬼は驚いて、大きく後ろに跳躍した。

「なるほど。こりゃあ地上戦じゃ、やられるだけだね」

 そう言って、鬼は空中に飛びあがった。
 ようやく私の領域に持ち込むことができた。空中なら、地上よりも踏ん張りが利かないぶん、鬼の攻撃は軽くなる。それは私も同じだけど、こっちは剣のおかげで弱点を突くことができる。
 私も剣を振りかぶって、鬼に突進した。

 何度も何度も剣を振るが、まったく攻撃が当たらない。それどころか、ときどき隙を突かれて、殴られる。一撃一撃は最初のときほどではないし、まだまだ体は余裕だった。それでも――焦る。
 いくら鬼が相手だとはいえ、ここまで強いものなの? あるいは、私が天人として弱いだけ?

「そういえば、萃香が言っていたね」

 鬼は蹴りを入れてきた。私はそれを避けられずに体で受けてしまった。全身が震動するような衝撃。

「最近、天人らしくない天人がいたっていう話だったけど――」

 どきりとして、それを振り切るように私が剣を突き出すと、ひらりと身をかわす。

「それは、あんたのことなのか?」

 違わない――剣を振り下ろしながら、私は思った。鬼は裏拳でそれをはじく。
 あの小さな鬼が言う天人は、きっと私しかいない。

 知らないうちに、私は天人になっていた。「比那名居地子」――それが私のもともとの名前だった。
 けれど突然私は父に、空のはるか高く、雲の上まで連れられていった。そこは穏やかに笑うひとたちばかりが住む世界だった。
 ここに住む者は皆、悟りを開いているのだよ、と父は言った。だからとても立派なひとたちばかりなのだ、私たちは主君のおかげでここに来ることができた、幸運なのだよ、それに感謝してここで暮らしていきなさい。
 父はそう言って、私に新しい名前をつけた。これからおまえは「比那名居天子」となりなさい。
 私は、怖いと思った。どうして皆そんなに笑っていられるの? そんなに楽しいことでもあったの? 悟りを開くと、皆そうやってただ笑いつづけるだけのひとになっちゃうの?
 それでも、まだ小さかった私は天界から抜け出すことはできなかった。半ばあきらめて、私は「比那名居天子」の名前を授かった。天界で生きていくなら、仕方がない。

 天界の暮らしは確かに悪くなかった。
 天界の空気は澄みきっていて、自然の美しさに恵まれていた。たくさんの花や植物がある。
 桃もある。天人は桃を好んで食べていたので、私も真似して食べてみた。とても甘く、少し酸っぱい、美味しい桃だった。桃が気に入って、私は桃の木に登っていくつか桃をとって持ち帰ろうとした。
 あら、持って帰るの?
 後ろから誰かの声がして、振り返ってみると、美しい女の天人が木の下から私を見上げていた。木の上で私がうなずくと、彼女は黙ったまま微笑んで、私を見つづけた。
 桃を三つくらい取ったところで、私はたまらなく不安になった。まだ彼女は私のことを見ている。ずっと笑ってはいるが、その視線には温かみがない――むしろ、冷ややかな視線。桃の木に登って取るなんて、なんて下品なんでしょう、そう言っているようだった。
 ぞっとして私は木から降りた。そのまま桃を抱えて黙って彼女の横を通り過ぎた。
 三つでいいの?
 後ろから彼女がそう訊いてきたが、私は振り返らず彼女から遠ざかった。「三つも取るなんて」――そういう響きが、確かにあった。

「不良天人」――私はそう噂されるようになった。
 あの子の親はとっても素晴らしい。だがあの子はどうだ、ただ親にくっついて天人になっただけではないか。あの子自身はなにもしていないのだよ。
 そんなことも、私の耳に入ってきた。
 それに加えて、この素晴らしいように見える天界には、なにもなかった。ほんとうに、なにも起きない。起こそうとするひとがいないから当たり前ではあるけれど。

 ある日、なんとなく天界から地上の様子を見てみると、とても面白いものが見えた。湖のあたりが紅い霧で覆われている。気になってそのまま観察していたら、紅白の巫女が湖のほとりの紅い館に乗り込んでいった。それからほどなくして紅い霧が消え、巫女はのんびりと神社に帰っていった。
 なにがあったんだろう――想像するとわくわくしてきた。もしかしたらあの巫女はときどき、ああやってなにかしているんじゃないかしら。それから毎日、私は地上を覗くようになった。
 私の予想は間違っていなかった。終わらない冬にもあの巫女は出てきたし、永遠の夜がつづく日にも出てきたし、花だらけの日にも彼女はその犯人を懲らしめた。
 楽しそうだった。彼女たちはとても、楽しそうだった。巫女にしてもそうだったし、ときどき出てくる魔法使い、異変を起こす犯人たち、その従者たち。巫女は迷惑しているようだったけれど、犯人の命を取るようなことはなかった。犯人たちも目論見が失敗したからといって特に気にしていないようだった。

 うらやましい。

 私は異変を起こした。幻想郷に地震を起こして博麗神社を倒壊させた。そうすれば、必ずあの巫女がやってきて私を懲らしめようとするに違いない。あるいは魔法使いかもしれない。どちらでもいい。
 これが異変だと認識されなくてはいけなかった。その目印として神社を倒壊させたのであって、私自身は幻想郷になにかを起こそうとする気はなかった。
 そして私の思惑どおり紅白巫女がやってきて、私を懲らしめにきた。しょせんは退屈しのぎ、本気を出すまでもなかった。だから、傍目には私が巫女に負けたように見えるだろうけれど、それでよかった。
 よかった――はずだった。

 異変のあと、神社の下に要石を埋めて、神社の再建を終わらせて天界に帰って――なにも変わっていなかった。そこにあるのはただ美しいだけの、天界。鳥肌が立つ思いがした。そのとき、私は「地子」を完全に心の奥深くの冷たい箱に押し込めて、その重い鉄の蓋を閉めた。中から悲痛な叫びが聞こえたが、聞こえないふりをした。
 これからたとえ何度異変を起こして、何度あの巫女が私を懲らしめたとしても、なにも私の不安を和らげてはくれない。しょせんはただの暇つぶしにしかすぎない。少なくとも、私の中の細い柱を確実なものにはしてくれなかった……。

 私は、天人だ。ただ、そう思い込むしかなかった。

 剣が煌めいて、斬撃が横に走る。その一撃がようやく鬼の左腕の皮膚を斬った。赤い血が少しずつその切り傷から零れていく。

「なあ」

 鬼が私から離れて、言う。

「あんた、天人なんだろ? 天人って、この程度なのか?」

 すごく哀しそうな目で、私を見つめる。
 やめて――そんな目で見ないで――。

「確かに、その剣は天界のものみたいだけどさ、あんたは、ほんとうに天人じゃないみたいだ」

 やめて――私を貶めないで、私は天人なのよ――。

「あんた、そんなに強くないんじゃないか?」
「やめて!」

 なにがなんだかわからなくなって、ただそれ以上鬼の言うことを聞きたくなくて、私はありったけの力を緋想の剣に込めて鬼に叩きつけた。
 鬼は避けない。完璧に一撃が決まった、と思った。

 決まっていなかった。

 鬼は剣を両手で受け止めていた。必死に剣を押し返そうとしていた。
 私が出せる限りの気質を剣にまとって、そのまま叩き斬ろうとする。気質が鬼の手を焦がし、鬼は苦しそうに顔をゆがめた。
 ちょっと痛い、どころではない。体全体に激痛が走っているはずなのに、それに逃げようと思えば逃げられるはずなのに、鬼は真正面から剣を受け、そのまま押し返そうとする。

「ふっ……さすがに、これはキツいね……」

 額から汗を流し、苦痛に顔をゆがめながらも鬼は――笑った。そして歯を食いしばって剣を押し返してきた。その力に、少しずつ私が押されてはじめた。剣を持つ手から震えが走り、だんだんそれが大きくなっていく。
 私は鬼に問いかけた。

「なんで……? どうして、逃げないのよ……?」

 鬼はまっすぐ私を見た。剣を持つ手に感覚がなくなってきた。

「あなた、すごく痛いはずでしょう? 逃げようと思えば、逃げられるのに、どうして――」

 その先を言おうと思ったとき、剣がはじかれて、私の手から離れていく。鬼が押し切ったのだ。
 空に放たれた緋想の剣を目で追って、落ちていくのを見た。それから鬼を見た。鬼が私に体当たりをして、そのまま彗星のように私ごと地面に堕ちていく。

 私のなにかが、粉々に砕けた。
 ――私は、負けた。

 土色の空が見える。太陽がない。雲もない。月も星も、ない。突き刺す光がないのに、どうしてここはぼんやりと明るいのだろう。
 提灯の優しい光がここを包み込んでいる。私はその光の中に抱かれているようだった。体を起こそうとするけれど、まったく力が入らなかった。体中が痛くて言うことを聞いてくれない。あきらめて地面に体を預けた。
 そういえば、どうしてこんなところで私は倒れているのだろう――?

「気がついたかい?」

 誰かの声がして、首だけを無理やり声のしたほうへ向けた。そこには額から一本の角を生やした鬼が、緋想の剣を持って立っていた。それでようやく私はなにが起こったかを思いだした。
 私は鬼と戦って、それで地面に叩きつけられて、気を失って――。

「……なによ」

 地面に仰向けに倒れたまま、私は言った。
 悔しい――? そんな言葉ではもう、どうにもならない。歯を食いしばったが、それすら痛くて力が抜けてしまった。鬼は黙ったまま、私を見つめている。

「どうして私にとどめを刺さないのよ」

 鬼はゆっくりと口を開いた。

「そうする必要がないからだよ。もうあんたはしばらく動けない。これで十分じゃないかい?」

 そう言って、ぎこちない笑みを浮かべた。

「これは闘い、だよ。命のやり取りをするわけじゃない。本気でやり合えば、それでいい」

 鬼は手に持っていた剣を投げてよこした。からんからん、と剣が乾いた音をたてて転がる。もう気質をまとっておらず、ただの剣に戻っていた。私はその剣をにらんでから、鬼に視線を戻した。

「なによ……そんな情けをかけて、私に恥をかかせるの? あなたは本気じゃなかったの?」
「本気だったさ」
「本気なのに、私のことをわざわざ見逃すっていうの?」

 だんだん、自分の声がしぼんでいく。

「私は天人よ。鬼に同情される筋合いなんてないわ」

 そして、最後につぶやいた。

「天人なのよ……私は……」

 長い沈黙がつづいた。私は仰向けに地底の天井を眺めていた。まわりで妖怪たちが噂しているのが聞こえる。天人が負けた――鬼に負けた――激しい闘いだった。

「なあ」

 ぽつりと、鬼が言った。周囲が水を打ったように静まり返った。

「もう、強がらないでくれ……」

 残ったかけらが、砕かれた。
 不意に涙があふれてきて、私は目を手で覆って、泣き崩れた。

 なにを無理していたのだろう、どうして自分を強く見せようとしていたのだろう。
 天界で、自分が天人と認められないことが、いつの間にか私の心を押し潰していって、いつか私はばらばらになる。それが怖かった。
 私は天人と認められたかった。だから私は異変を起こして、私の力を見せつけたかった。下界の者たちを高みから見下ろして、自分が天人である確証を得たかった。
 でも、それはただの空虚な思い込みにしかすぎなくて――ほんとうの私は「地子」から離れることができないままで――。

 いまの私は、泣いているただの少女でしかない。

「あなたは、強いのね」

 私は言った。少し声が枯れているけれど、はっきりと私の声は鬼に届いた――そう、思う。
 鬼は、首を横に振った。

「私は強くなんてない」

 鬼は私の隣に腰を降ろした。その顔はどこか遠くを見ていて、私からは後頭部しか見えなかった。
 まわりにいた妖怪たちはこれ以上なにも起こらないと悟ったのか、私たちを囲っていた輪を崩して、それぞれの生活に戻っていった。

「私たち鬼は人間に嫌気がさしたのさ。さらう、さらわれる。退治される、退治する。それが鬼と人間の関係だった。でも人間はその関係を嫌がって、鬼を根絶やしにしようとした。だから私は地下に逃げた。地上を立ち去るなんて言わない」

 鬼はそこでいったん言葉を切って、つづけた。

「逃げたんだ、私は。鬼という役割を捨ててでも、ね」

 鬼は私のほうに首を向けた。笑ってはいるが――寂しそうな笑みだった。

「でも萃香は違った。あいつはずっと待っていたんだ。いつか人間とまた信じあえる日が来る、人間とわかりあえるんだって、言ってた」

 それがほんとうの強さなんだと思う、と鬼は言って、それから顔を伏せた。

「私だって、強がっているのかもしれない。人間を信じられない弱さを隠して、ここで生きているだけなのかもしれないね……」

 私はなにも言えなかった。ふと、思った。もし私がこの鬼に勝っていたら、どういう結末だったのだろう。もしあのとき私が鬼に押し返されずに、そのまま叩き斬っていたら、どうなっていただろう。
 考えてもわからなかった。ただひとつだけ確かなのは、たとえこの闘いに勝ったとしても、いつかは私の虚栄が粉々になる日が来る――ということだった。弱さは、いつでもそこにある。目をそむけていても、それはなんの解決になりはしない。
 そこまで考えて、私はふっと肩の力が抜けていくのを感じた。鬼は、私の弱さに気づいたのだろうか。だから、本気でやれ、と言ったのかもしれない。
 そうだ、弱さがただそこにあるだけなら、私が心を裸にして近づけばいいだけだったんだ――。

 しばらくの沈黙のあと、鬼が立ち上がって、私に手を差し伸べてきた。

「ほら、手を貸してくれ」

 私は手を差し出して、鬼は私の身体を引き起こした。なんとか自分の足で立てる。体にあまり力は入らなかったが、痛みは少しずつ引いてきた。
 勇儀は私の服の埃を落としながら、言った。

「ああ、だいぶ汚れてるし、服も破れてしまったなあ」

 けれど、鬼は私の顔を見て、笑った。

「でも、いまのあんたはいい顔してるよ」

 私は少しどきっとした。恥ずかしくなって、鬼から顔をそむけたが、鬼は私の気持ちに気づかないようで、私に訊いてきた。

「そういえば名前、聞いてなかったね。私は星熊勇儀。あんたはなんて言うんだい?」
「比那名居、天子。昔は地子っていう名前だったけれど」

 昔の名前をためらいなく言えた。

「天子」

 勇儀は私の名前を繰り返し、つぶやいた。

「いい名前だ」

 それから、勇儀は私の手を取って歩き出した。

「じゃあ、これから銭湯に行こう」
「……え?」
「私も汗をかいたし汚れたしさ、温泉に入ろうじゃないか」
「でもあなた、その手はだいじょうぶなの?」

 勇儀の手は、緋想の剣で少し赤く腫れているようだった。それでも、勇儀は気にしていないようだった。

「なあに、少しくらい傷が痛んでもかまわないさ。それに温泉は怪我にきくんだ」

 少し私の手を強く引っ張って、私もよろけながら、勇儀についていった。足の怪我が痛むのか、少しびっこを引きながら、それでも勇儀は軽快に歩いていく。地底の旧都を、私と勇儀が手をつないで、歩いていく。

 この街は――嫌われ者の住む街。人間に嫌われた者たちがここに住んで暮らしている。醜い妖怪だって、いる。
 でも彼らはそれを受け容れて暮らしている。そして同じような者を仲間として歓迎して、受け容れている。地底が醜くて下品な世界だとしても、彼らは自分たちなりに幸せに暮らしている。
 彼らの笑顔を見て、私は思う。そうだ、いまの私の中で「地子」という過去も生きている。他の天人に「地子」がなんと言われようと、私は「地子」を受け容れよう。地子は拒絶するべき弱さじゃない。ただ、そこにいるだけなのだから――。

 勇儀が、私に振り向いた。

「温泉に入ったら、酒でも飲もうじゃないか。いい友だちができたことに、乾杯しよう」

 そう言って、へへっ、と笑った。

「悪いね。鬼は嘘をつけないんだ」

 私も、ふっと微笑みを浮かべて、言った。

「それなら私も同じよ」

 勇儀は少し不思議そうな顔をして、「どういうことだい?」と訊いてきた。

「私も、あなたと友だちになれて嬉しいわ」

 けれどもたった一つ――銭湯の脱衣所で、どうしても我慢できないことがあった。それは弱さを認めることとは別次元のことだと思った。
 私の胸は膨らみすら感じられないのに、勇儀の胸の大きさは――やっぱり、認められない。こればっかりは理不尽だ。
 風呂からあがったら、また牛乳を飲もう。私は堅く、堅く、心に誓った。
 
 
 


 
 銭湯に行ったことはありますか? いいですよね、銭湯というものは。
 あのたまらなく庶民的な風景、香り、お風呂。そして牛乳。
 風呂上がりに牛乳を飲むのが、昔はたまらなく好きでした。

 ◆

「あれ、ちょっとこの話軽くない?」――そう見えるかもしれません。
 正直なところを申しますと、息抜き的な感じで書きました。もちろん手抜きではなく、全力の息抜きです。
 ここのところ重い話ばかり書いていたので、バトルを交えつつ王道的なお話を書きたくなったのです。

 その動機のひとつとして、次回作の存在があります。
 この作品が前作からだいぶ間があいたのは、この作品自体に時間がかかっていたわけではなく、次のお話と並行して書いていたからです。
 次回作と対になるような、まったく関係がないような、このお話はその微妙な位置にあります。つまり、次回作はとても重いのです。私が書いた中ではいちばん重いと思います。
 だからこそ、私としては、このお話は次回作とあまり間をあけないようにするつもりでした。そして、このお話を書いたのは、重すぎるところとバランスをとるため、なのです。

 本当はこれを次回作のあとがきで書くべきなのでしょうけど、それができないのは、次回作を見ていただければわかると思います。

 とにかく、こんな言い訳じみたところまで、読んでいただき、感謝です。
 次回作は、ほぼできあがっています。そのうちに投稿できるはずです。そのときまで、また。
 

初出:2009年6月4日