6月1日はムラいちの日らしいよ! あれ、投稿日時って……あれ……。
そんなわけで約一年前に書いたものをちょこちょこっと直して投稿。
今読み返すと、ちょっと稚拙なところ多いですけど、ムラいち好きはどうぞ。

Pixiv
 
 


 
 
 ときどき夢を見る。それはひどく嫌な夢だった。

 私は小さな舟の縁に立って黒く暗い海を覗き込んでいる。その海は私を船ごと呑み込むように激しくうねる。海に呑まれてしまったらどうなるのだろう。それを考えるだけで体の細かい震えは止まらない。
 波は何度も舟を揺らし、そのたび私は縁から手を離しそうになるのだけど、手は縁に吸いついて離れない。海を覗き込む瞳も閉じてくれない。荒々しい海の手招きは私を捕えて離さない。

 やがて、舟はぐらりと大きく傾く。私の体がふわっと浮き、縁をつかんでいた手が滑り落ちた。次の瞬間、体は冷たい海に叩きつけらている。その次の瞬間、もう視界が真っ暗になっていた。
 海水が肌を引き裂き、目を潰そうとする。私はそれから逃れるように手を伸ばし、足をばたつかせて海から顔を出そうとする。

 けれど、すべての努力は水泡に帰す。
 そして、そっと細く固い指が私の喉に触れるのを感じた。何事だろうと思う間もなく、細い指が喉にぐいと食い込むのを感じた。私は驚き、叫びを上げようとする。その開いた口にどっと重たい海水が流れ込んできた。咽ることさえできない。
 苦痛の中、かろうじて海面に伸ばした手首を、また誰かの手が掴む。海水を蹴る足首も、そして腰も。

 声が出ない。呼吸もできない。ただ、細かい泡が口から出るだけで、代わりに海水がどんどん体に入ってくる。首を絞める力が徐々に強くなり、頸動脈がびくんと痙攣しはじめる。

 そこで、いつも気づく。
 これは夢なんだ。私が見ている罪なんだ。
 私は舟幽霊として、今まで数え切れない数の人を殺してしまった。彼らの怨念が私の体に染みこんでこんな夢を見ているに違いない。彼らの呪いが私という存在をじわじわと喰おうとしているように。

 血のめぐりが鈍くなり、静止する。とっくに視界は真っ暗で、肌の感覚も消え失せている。わずかに残された思考は、脳の中で弱々しく灯るだけだった。

 もしこれが罪の夢なのだとしたら。明滅する意識の中で、それでも強烈に私は思い知る。
 私はこの罪を受け入れて、海に呑み込まれるしかないのだろう。いつ覚めるかもわからない、こんな悪夢の中で。償うこともできない罪に、完全に押し潰されるまで。

 ああ……それでも、こんな夢は見たくない……――――。

 ◆

「っ……」

 自分の低いうめき声で目覚める。私は海の中ではなく、薄い布団の中にいる。視界に映る天井は鈍い焦げ茶色の光を返す。
 大きく息を吐いて、吸う。どろりとして湿っぽい空気が体に染みる。うまく力の入らない手を顔に当てると、額は冷や汗で濡れていた。じっとりとした感触が不快で、手の甲で汗を拭う。気づくと寝間着も汗に濡れて肌に張りついていた。

 ひどい夢……。
 まだ喉元に感覚が残っている。恐ろしいほど強い力で締め付ける指の輪郭をまだ思い出せる。呼吸がうまくできない。左手が無意識に何かをまさぐって布団の上を滑る。

 もう何度も同じ夢を見る。船に乗って、揺れて、海に落とされて、名もない手に引きずり込まれる。細部まで一度たりとも違ったことはない。けれど、最初はいつも夢だとは気づかないのだ。手に喉を絞められて初めてそのことを思い知らされる。

 あと何度、同じ夢を見ればいいのだろう。自分の体に染みた怨念や絶望とあと何度向き合えばいいのか。いつまでも忘れてはいけない、永遠の罪として……こうして汗だくで目覚めた今も。

 嫌だ。
 でも、そう思うのにも、そろそろ疲れてしまった。

 許せるのだろうか、こんな夢を見る自分を。
 受け容れることができるのだろうか、今、隣に一輪がいないというこの現実を。

 ―― 一輪。

 昨晩までは隣にあったはずの布団も一輪も消え失せていて、私の左手は虚空をさまようだけだった。そこに視線を向けても、やはり誰もいない。部屋にいるのは私と私の布団だけだ。
 からんからんという音がくぐもって部屋に響く。窓の外ではもう一日が始まっている。私は左手を下ろして体を起こした。感覚がどこか遠くにあって、しかも鈍く、重い。瞬きをしても、黄ばんだふすまの色は輪郭を帯びない。

 私一人だけがここにいて、この苦しさを胸に抱えている。
 わかっている。一輪はすでに起きて、朝食の準備をしているのだろう。私がふすまを開ければすぐそこに彼女がいて、食卓で私を待ってくれている。
 でも、それでは、どうしようもないのだ。

「一輪」

 もう一度、かすれた声で彼女の名を呼ぶ。返ってくるはずのない返事をしばし待った。そして、何も返ってはこなかった。

 布団から這い出た。
 たてつけの悪いふすまを開くと、一輪は確かにそこにいた。温かい食事を目の前にして。

「おはよう」と彼女が言う。
「……うん、おはよう。待たせちゃった?」

 待っていたのは私なのに、と胸の内で小さくつぶやく。

「ううん。ちょうど今ご飯を並べ終わったところよ」

 小さく頷いて食卓についた。お椀にご飯と味噌汁と、それから簡単な魚の塩焼き。なかなか手に入らない魚をこんなところで使ってしまうのかと少しだけ驚いたけれど、黙って箸を手にとった。それを合図にするように一輪も箸をとり、「いただきます」とつぶやいて食事を始めた。

 地底に閉じ込められてから年を数えるのはやめてしまった。そうすることに意味はなかったし、してもらつらくなるだけだ。聖も、星も、ナズーリンもいないこの世界には、私と一輪しかいないような、そんな気がしていた。

 そんな二人だけの世界に、言葉数は少なかった。私は口を開きたくなかったから、黙って箸を動かし、ときどき一輪の言葉に相槌を打つくらいだった。

「これね、この前弔辞をしたところでいただいたの」
「うん」
「メザシ。小さいけれど、魚っていうだけでもう貴重なものだから。断るのも悪かったし」
「うん、美味しい」
「……そうでしょう」

 しばらく沈黙が続いて、「そうでしょう……」と一輪がもう一度つぶやく。
 そっと私の目を覗き込んでくる雲色の瞳から、思わず目を逸らした。私の様子が少しおかしいことには気づいているのだろう。私を心配してくれていることだってわかっている。
 でも、話したくない。この夢を背負うのは私一人だけでいい。そう思う。だから、彼女の心を別の話題に逸らそうとするのだけれど。

「ねえ、このメザシってどこで」
「それは今私が話したけど……」

 気持ちのすれ違いを、まざまざとかたちにしてしまうだけなのだ、所詮は。

 ◆

 寡黙な食事を終えると、外から鈍い鐘の音が鳴った。辰の刻を半刻過ぎたことを知らせる鐘だ。私たちは特に言葉も交わさず、それぞれの身支度を始める。たとえ人間たちから無理やり地下に封じられたとはいえ、自分たちの生活は自分たちで支えるしかない。
 借家の二階の玄関から扉を開けようとすると、「待って」と一輪が私に声をかけた。

「これ、持って行って」

 彼女が私に手渡したのは二つのおむすびだった。まるで夫婦のようだけれど、私が先に仕事に行く場合、彼女はいつも玄関先で私に昼を持たせる。「ありがとう」と私は簡単に礼を述べて、家を後にする。

 階段を降りながらゆっくりと地底の風景を見渡した。地上には長屋が途方もなく長く続き、長屋と長屋の狭い隙間をぬうように妖怪たちが行き来する。ある者は顔を伏せながら、ある者は空を見上げながら。そこに人間の姿はない。それが嫌われ者の街、旧地獄。私と一輪もそこにいる。
 ふっと私も顔を上げて、雨が降っていないことを確かめる。いつかの冬には地底にも雪が降って、珍しいこともあるものだと思ったものだ。
 今日はいつものように空に雲はなく、地上のぼんやりとした生活の灯火を呑み込むような闇が広がっていた。

 行こう。嫌な夢を見た寝床から逃げるように、階段を降りていく。

 いつもは大工仕事を手伝っている。妖怪だから力はあるだろうと親方は私に何度も言って聞かせる。実際にそんなにつらいことではない。見た目は女でも人間の男よりはずっと力はあるので、材木運びだとか組み立てだとか、楽は楽だ。
 でも、今日の仕事は材木運びではなかった。

「花火大会?」
「なんだ、張り紙見てなかったのか?」

 私は首を横に振る。仕事とお酒を飲みに行く以外、外に行こうとはしないし、近所のひとたちと話すこともない。花火大会の話を聞いたのは今が初めてだった。

「今日の仕事はその花火大会の手伝いってわけさ。使うのは火薬じゃなくて弾幕だけどな。お前さんも弾幕張ることはできるかい」
「うん、一応使うことはできるけれど」
「じゃあ、玉に弾幕の種を仕込むのをやろうか」

 親方のあとについていくと、広場に両手で抱えられるより少し小さい玉があたり一面に転がっていた。百程度ではない。

「何発だっけな……ええと、五百発分だっけな」

 親方は頭を掻きながら玉のひとつのそばに座り込み、小さく開いた穴に赤い弾幕を入れていった。

「こんな感じでやっていけばいいんだ。まあ、適当でいいさ。入れすぎて暴発さえしなければいい。じゃあ、俺とお前でここにあるの全部やろうか」

 軽い口調でそう言い、彼は弾幕を詰め終わった玉を台車の上に載せて次のものにとりかかった。
 途方もない数だ、と私は少し呆れてしまった。五百? 私と親方の二人で? とはいえ、仕事は仕事だからやるしかないのだろう。それにしても他の仕事仲間はどこへ行ってしまったのか。

「他のやつらはこの玉を運んで打ち上げる場所に仕掛けるそうだ。あっちの方が大変だぜ。あの鬼が仕切ってるんだ。生やさしいもんじゃないさ、へへ」

 そういうことか、と私はひとり納得して玉のそばに座り、弾幕を入れる。広場に来た人はこの光景に少しだけ驚き、すぐに首を縦に振って通りすぎていく。

 最初はのろのろとした動作が抜けなかった。いつもの仕事だったらすぐに頭を切り替えることもできたのだろうけど、今日はそうではなかった。仕事といえば仕事なのだけれど、半分お遊びのようなものじゃないか。

 弾幕を入れている間のわずかな時間、ふっと夢の残像がちらつく。もう喉や手首の違和感は消えているけれど、それでも凍てつく冷たさや手の白さは離れてくれない。何気なく玉から目を離し、薄明るい長屋を見てしまうと。
 その度私は頭を振って、その度親方に不思議がられて、視線から逃れるように仕事に戻る。そうするしかない。いつまでも夢を思い出してたって、意味がない。私がつらいだけだ。

 十、二十、三十……百。数をこなしていくうちに、少しずつ夢の感覚は薄れていく。まだ何度か視界をよぎるようなこともあったが、それよりもこんな単純作業に私自身がのめりこんでいくのを感じた。

「そろそろ疲れたか?」

 背後で親方が立ち上がって玉を台車に載せる。伸びをしながら彼は私に話しかけてきた。仕事仲間が台車いっぱいに積まれた玉をどこかへと運んでいく。

「一度休憩してもいいんじゃないか。そろそろ半分終わるだろう?」
「ううん、まだ頑張れる」

 私は親方を振り返らずにそう応えて、新しい玉を自分の膝元に引き寄せる。

「そうか。まあ、お前がそう言うならそれでいいんだがな。そんなに必死にやることはないんだぜ。まだ一刻過ぎたくらいだ。花火まであと三刻あるから、のんびりやっても」

 私は首を横に振る。今はこのままのペースでやり遂げてしまいたい、と親方に伝えると「じゃあ、俺はのんびりそこで横になってるぜ」と言って本当に横になった。
 そのまま寡黙に私は仕事を続ける。もうあの夢が目の前をよぎることはなくなっていた。このまま忘れられれば、それが一番だった。

 どれくらいの時間がたっただろう。時間と玉の数を忘れてしまうくらいに作業の中にいたようだった。ふと顔を上げると、いきなり体に強い倦怠感が訪れた。弾幕を入れるだけの作業とはいえ、あれだけの数をこなしたのだから無理もない。
 広場からはほとんどの玉が消えていた。残りはもう百もないくらいだろう。そうなると広場はぽっかりとした空虚な空間のように見えてしまう。いつもなら多くの妖怪が行き交い、話をして笑いあう場所なのに。

 今いるのは、私と親方と、それからもう一人……。

 もう一人?

 私は目を疑った。そこには見たこともない少女がひとり、しゃがみ込んで玉をじっと見つめている。黒い帽子に黄色のリボン。体に細い紐のようなものが絡んでいる。誰だろう。

 私は親方に視線を向ける。彼はその少女にまるで気づいていないようだった。自分の手元の玉に弾幕を入れ、少女には目もくれず台車に載せていた。
 もしかしたら、彼女は親方の知り合いなのだろうか、と思う。それにしたって、彼の様子からはそういう雰囲気もなかった。少女も彼の方を一度も見ない。知り合いにしては何かがおかしい。

 私は思わず立ち上がった。その瞬間、背中と腰に鈍い痛みが走った。思わず痛む場所を後ろ手で撫でながら、彼女の隣に立って話しかける。

「もしかして、手伝いに来たの?」

 少しの間、彼女は何も答えなかったが、一秒ほどの間のあと、急に振り向いた。その顔には明らかに驚きの色が滲んでいた。もう一度問いかける。

「あなたも親方に頼まれて手伝いに来たの?」

 少女は立ち上がって首を横に弱々しく振る。背丈は私よりも少し低い程度だ。
 なんだろう、と違和感を覚える。親方に呼ばれたわけでもなくどうしてここに入ることができたのだろう。親方が呼んでいないというなら、彼だってこの子に気づいてもいいと思うのに。

「どうした、村紗」

 親方が私の声に反応して離れたところから私たちを見た。やがてその表情は驚きのものへと変わっていく。

「おい、なんだその子は。いつからそこにいた?」
「やっぱり気づいていなかったの」
「あ、お前は気づいていたのか?」

 私も首を横に振って彼に答える。

「今さっき気づいたばかり。じゃあ、親方が呼んだ子じゃないんだ」
「まったく」

 親方はゆっくりと腰を上げ、私と彼女のそばに立ち、黒帽子の少女をじっくり眺める。顔から足までを長い時間かけて観察し、それから肩にかかる紐をじっと見つめ、最後に胸にある手のひらに収まるほどの球体を見る。

「悟り妖怪なんじゃねえか、こいつ」

 親方がそう呟くと少女は小さく体を震わせて、地面に目を落としてしまった。
 悟り妖怪。名前だけは聞いたことがある。胸にある第三の目で、ひとの感情を読んでしまう嫌われ者だとか。この地底のどこかで地獄跡の管理をしているだとか。いずれにしても、いい噂を聞いたことがない。
 でも、ひとつだけ彼女についておかしなことがあった。心を読むはずの胸元の目は、閉じられているのだ。ぴくりとまぶたが動く気配もなかった。

「さて、どうするか。おとなしく家に帰せばいいのかい」

 親方の言葉に少女が首を小さく横に振る。

「帰りたくない、とでも言うのか」

 少女はまだ黙って首を横に振りつづける。親方の言葉に応えているというよりは、言葉を聞くことを拒絶しているように見える。彼女が何を望んでいるか、親方にはまるで理解できないようだった。

 家に帰りたくない、か。私には彼女の気持ちがほんの少しだけわかるような気もする。今は一輪も家にいないし、もし家にいたとしてもなんとなく顔を合わせたくない。
 そこで、ふと思い直す。私にとっての家? 違う、命蓮寺?

「この子の家はどこにあるの?」

 気づいたら、私は親方に問いかけていた。彼は少し驚いたように私を見て、それから顎で長屋のはるか向こうを指した。

「地霊殿。名前だけはお前も聞いたことがあるんじゃないか?」
「名前だけは」
「なんでも閻魔様が悟り妖怪にその場所でここの管理をするように言いつけてあるらしい。そいつは……たぶん、その主の家族じゃないか」

 親方は腕を組み、それから空を見てふうとひとつため息をついた。

「放っておくわけにはいかないなあ」
「もちろん」

 思わず親方にそう言っていた。

「家出なんか、嫌だ」

 今度は私自身に驚いた。全然この子のことを考えてもいなかったのに、勝手に胸の内から言葉が飛び出てしまったような感覚だ。親方は私を見て、少女を見て、それから広場に転がっている玉を見て、ゆっくりうなずいた。

「そうだな、もうお前も十分仕事してくれたし、いいだろ。あとはその子を地霊殿に送っていってやりな。それで今日はおしまいだ」

 さあ、行きな。親方は表情で私にそう語って、またどっかりと地面に腰を落とした。私と少女だけがそこに残された。
「行こうか」と私は少女に言う。彼女はうなずきもせず、首を横にも振らない。細かく体を震わせていると、萌緑色の髪が波打つ。

「どうすればいいのですか」

 私はそう言って、額に手を当てる。けれど、あくまでかたちだけの動作。本当はやろうとしていることもやるべきこともわかっている。そして、それはひどく簡単なことだった。
 親方にああ言ってしまった以上、今さら引き返すこともできないし、もうひとつ。私自身が見たいものがあるから。

「どうしようもないなら、やっぱり行きましょう」

 彼女の脇で握られている拳にそっと触れる。私よりほんの少しだけ小さいそれは、ひどく冷たく脆いもののように思えた。強く握りこめば溶けてしまいそうで、不安になるくらいに。
 でも、握る。両手でそっと、壊れてしまわないように。

「あなたを待っている人がいるんだから」

 親方が顎で指した方へ、手を引っ張って私は歩き出す。少女も体の均衡を一瞬崩したが、すぐにふわりと私のそばを歩き出した。
 細かい道のりなんてわからないけれど、行けばなんとかなるだろう。この少女も隣にいる。広場から薄明るい長屋の通りに入りながら、根拠のない自信で先に進む。

 でも、途中で手を伝って少女が抵抗するのがわかった。私が振り返ると同時に彼女は私の手を離してしまった。それはこれ以上手を繋ぎたくないという、火を見るよりも、あるいは彼女にとっては心を見ることよりもはっきりとしたことだった。

「どうして」

 問いかけたのは私ではなかった。深い緑の瞳がじっと私の瞳をとらえる。提灯の光が彼女の瞳に映って、でもその光の奥によどみがあって、さらにその奥の淵を覗き込んでしまうような。私はそんな気持ちになってしまう。

「どうして私を連れていこうとするの、あなたは」
「どうしてって」

 その問いかけは歪な響きとなって私の胸に響く。どうして?
 そこで、ふと、今までその少女に抱いていた違和感が何かと繋がったような気がした。

「……ねえ、もしかして」

 今の質問をその少女が発することはどこか不自然で、きっと胸の目が閉じられていることと強く繋がっているのだ。そして、それは。

「あなたはひとの心を読むことができない、んだね」

 どこかで私の支えになっているはずの言葉を失うことだった。

 ◆

 彼女は心を見ることを捨ててしまった。彼女ともうひとりの悟り妖怪――彼女の姉らしい――がここに来た直接のきっかけは、それだった。

「お姉ちゃんが旧地獄の管理を任されたのは偶然なんだ」

 私の少し後ろを歩きながらぽつぽつと彼女は言葉を紡いでいく。

「誰もいなかった地霊殿に逃げこんで、たまたま地獄の施設の跡に近かっただけ」
「あなたの姉はそうやって管理を任されたとして、あなたは何をやっているの?」
「私は」

 彼女は少しの間言葉を選んで、それから答えた。

「外に出ていったり、いつの間にか家にいたりする」
「いつの間にかって、それって」
「わからないの」

 彼女の瞳が揺れる。

「さっきだって、気づいたら広場にいて、それであなたに話しかけられてたの。おかしいよね。だって、外に出たのは私自身なんだよ?」

 そう言って寂しそうに彼女は笑う。私はその笑みを直視することができない。

「でも、どうしてだろう。あなたが私に気づいたのはとても怖いことだったんだけど、でもほんの少し嬉しかったの」
「嬉しかった?」

 うん、と彼女はうなずいて私を見つめる。とてもまっすぐな瞳。そんなふうに見つめられて、思わず目をそらしてしまいそうになる。でも、そうすることを胸の中に潜む何かが許してくれなかった。

「どうして私に気づいてくれたのかなって、少し考えてた。あなたが初めてよ、私に気づいてくれたの」
「気づくよ、それは」

 いつの間にか長屋の通りを抜けていた。あたりにはもう建物はなくなっていて、目の前に大きな建物への道が細く長く伸びているだけだ。人気も失せ、烏や猫があたりを這っている。

「見てしまったから、あなたのこと」
「それが初めてなのよ」

 少しだけ、彼女の声が震えているような気がした。

「だって、他の人は誰も私のことに気づいてくれなかった。視線さえ向けてくれない。気づけば私はまたひとりで自分のベッドの上にいるの。おねえちゃんだってそう。私に気づいてくれないんだ」

 ひとりでベッドの上。その言葉で、また視界にあの夢の閃光が走る。そして汗に濡れて目覚めた感覚を思い出す。そのとき、私は何を思ったのか。
 ああ、記憶は薄れていないけれど、思いは薄めてしまいたい。彼女の言葉で、彼女の心で。だから私は彼女に言う。

「目を閉じなければ、わかるんだよね? 誰が何を思っているのかって」
「うん」
「だったら、どうして目を閉じてしまったの? そんなに寂しい思いをするってわかっていたんじゃないの?」
「わかってたよ」

 そのつぶやきはとても小さくて悲しい響きだった。私は一度、口を開くのをためらったが、それでも問う。

「だったら、もう一度目を開いて、あなたがあなたとしてみんなに――」
「だめなんだ」

 私の言葉は、私に振り向いて見せた薄い笑みに消されてしまう。

「ひとの思いが見えたって、それはいいものじゃないの」
「それは、そうなんだろうけど」

 冷たい手の感覚がまた手首と喉をひやりとさせる。

「嫌な気持ちだって見えるんだろうけど、でもいい感情を抱いているひとだっているんでしょ? それが見えるのって嬉しいことなんじゃないの?」
「最初は、ね」

 目を細めて語尾を上げる彼女。ふとした瞬間に涙を零してしまいそうなほど、脆くて儚いその姿が、強烈に目に焼きつけられる。

「どんな思いが見えたって、それだけなの。それ以上、私に何ができるの?」

 それは、と言いかけて私は口をつぐんだ。そして、一輪のことを不意に思い出す。
 ああ、そうか、私は彼女の想いを本当は知りたいんだ。でも、今は叶わないこと。もし、本当に叶ったそのとき、彼女は私に対して何を思っているのか? そしてそれがどういう感情であれ、私は残酷な現実を受け容れることができるのか?
 同じ思いを抱いていてほしいな、というのはただの幻想だ。私と一輪の思いが同じなんてことはあるわけがないのに。

 ふふ、と彼女が笑ってまた館の方に目を向けてしまった。

「きっと、私がこうして戻ることを望んでいるのは、あなたなのよね。見えなくてもわかってしまうわ」
「違う、そんなことない。私はただあなたが心配で、だから家に帰ってあなたのお姉さんに安心してほしいって、そう思ってるだけだよ」
「嘘だよ」

 いつの間にか館はすぐ目の前に迫っていた。私の知らない異世界の匂いと色を漂わせる館の扉に手をかけて、彼女ははっきりと私に告げる。

「あなたが気づいてないだけ。あなたの気持ちは海みたい。私にはね、少しだけ、見えるんだ。あなたと暖かい人たちとの思い出が……。自分が奥深くで何を思っているかなんて、あなたもおねえちゃんも、それにあのひとだって気づいてないよ」

 少女が扉を開けると、ちょうどそこには彼女の姉らしきひとと、そして。

「村紗?」

 一輪がいた。
 そのとき、私はおにぎりを置いてきてしまったことに気づき、罪悪感に胸が痛んだ。

 ◆

 そのまま、玄関で私と一輪は館の主と対面した。

「ああ、二人はお知り合いなのですか」
「ええ、彼女は私の同居人で」

 一輪の言葉に目を細めて、紫髪の少女が小さく私に頭を下げる。

「私は古明地さとりと申します。村紗水蜜さんですか、妹を……こいしをここまで送ってくれてどうもありがとうございます」

 自分が名乗る前に相手に知られるのは、不思議で気味が悪かった。
 これが悟り妖怪なんだ。こいしが自分から捨ててしまった意味と自分から手に入れた感覚。
 私がそう思うのと同時に、さとりは小さくため息をつく。

「気味悪がられるのは慣れています。確かに私は悟り妖怪だから、あなたたちが何を思い、考えているのかは見えてしまいます。雲居さんは」

 さとりは一輪を振り返って、少しだけ苦い表情になる。

「いや、雲居さんを呼んだのは、私です」

 音もなく話題が横滑りしたのを感じた。一輪を見ると、彼女も同じような顔をしていたが、私の視線に気づくとすっと瞳を横に逃がしてしまった。その動きに、止まっているはずの私の心臓が小さく音を立て、針が刺さったような痛みを走らせる。
 さとりの唇がわずかに震え、けれど何事もなかったように彼女は話を続ける。

「つい昨日、とても大事にしていた猫が死んでしまったのです。本当に大事にしていました。寝るときも私のそばに寄り添うような、そんな変わった子だったけれど、私はそばにいてほしかったし、その子もそうすることを望んでいました」

 さとりの背後から、重く色のない空気が流れてきた。猫の死がかすかに私の鼻まで漂ってきた。

 こいしが私のそばから音もなく離れていくのを感じた。その気配ですら、かろうじて空気の波が起こるくらいのもの。彼女が言っていたように、姉であるさとりですらこいしの動きを目で追っていないように見えた。
 私は思わず声を出してしまう。

「さとりさん、こいしは」
「何を――」

 さとりが私の言葉を打ち切ろうとした瞬間、私は気づいた。私の言いたいことはさとりだって心を読んで理解しているはずなのだから。
 けれど彼女はそれきり、何も言わなった。館の奥に行ってしまうこいしに目を向けることもなく、その表情は何も語らない。彼女のそばにいる一輪もこいしに視線を向けていない。彼女が離れていくのに気づいているのは、私だけなのだろうか。
 私を見つめる二人の視線に声が詰まる。もう一度、今度は打ち切られかけても、続けようと思った。

「あなたに見てほしかったんだよ」

 さとりは少し目を細めて、それでも何も言わない。意図的に口をつぐんでいるだけなのか、彼女の思いは言葉にならないのか。
 汗の滲む手をいつの間にか強く握りこんで、私は続けた。

「どうしてそばにいるのに気づいてあげられないの? ふわふわしてて、つかみどころなんてないけどさ、それだって――」
「だから、猫の弔いなんてやらずに、あの子を見ていろって言うの!?」

 突然、目の前の少女が悲痛な声を上げて、私は思わずよろめいた。そんなに大きな声ではなかったのに、視界が一瞬真っ白になって脚の力が抜けてしまう。
 ぐらりと視界が揺れて、冷たい石の床が視界いっぱいになる。あ、倒れる、と思った瞬間、両脇を支えられて上半身だけが中途半端に伸びてしまった。

「いちりん?」
「村紗」

 倒れそうになる私を彼女が支えてくれたのだと気づくまでに少し時間がかかった。

「疲れてるのよ」
「……ごめん」

 きいん、と耳の奥でさっきの声が何度も反響する。
 うまく力が入らなかったが、なんとか自分の両足で体を支えて、さとりに向き合った。肩を細かく震わせて私をにらんでいる。紫の瞳が揺れて、揺れつづける。

「すみま……せん、私としたことが、こんなことをあなたたちに言ってしまうなんて、どうかしていました」
「いえ」

 私の代わりに一輪が返事をする。

「こちらこそ、村紗が勝手に失礼なことを言ってしまって、申し訳ありません」

 一輪の言葉にさとりは肩を震わせたまま、小さく首を横に振った。そのまま重い沈黙が続く。頭の中の泥水が静かになり、やがて泥がそこにゆっくりゆっくり降り積もってくる。
 どうして初めて会ったひとにあんなことを言ってしまって、こんなことを言われなければならないのだろう。ひとりの少女と共に帰るべき場所に帰った。大事にしていた飼い猫を弔った。私たちはそういうことをしていただけなのに。

「悟り妖怪というものは不便ですね」

 沈黙を破ったのはさとりだった。

「不便というよりは、理不尽なのでしょうか。変ですよね、人の気持ちがわかっているのだから、嫌われないようにすることだってできるはずなのに。それでも本当にときどき、抑えられなくなってしまうのです」

 彼女は私と一輪から、こいしの行ってしまった方へ視線を向ける。彼女は気づいていたのだ、こいしが行ってしまったことに。

「見えないことは不安です。でも、見えていたって、結局こうして人を傷つけてしまう。なら、私は何を選べばよかったのでしょう。どうすればひとに嫌われなかったのでしょう。……ときどき、そんなことを考えてしまいます。でも、きっと答えなんてどこにもないんでしょうね。地上にも、この地底にも」

 彼女はそっと胸の瞳を優しく両手で包んで、一輪に柔らかい視線を向ける。

「雲居さん、私の大事な子を弔ってくれてありがとうございます。彼女もきっと幸せな来世を送ることができるでしょう」
「ええ、そう言ってもらえて私も幸いです」

 一輪は小さく頭を下げて、両手を合わせる。さとりは小さくうなずいて、今度は私に視線を向けた。

「村紗さん、私の妹をこんなところまで連れてきてくれて、ありがとうございます」
「……うん」

 声は思ったよりもずっと小さくて低かった。

 さとりの後ろで死んでいる猫は、幸せなのだろうか。幸せだったのだろうか。

 ただ、犠牲に、なっただけじゃないのだろうか……。

 ふう、とさとりが深いため息をつく。それを見た一輪は「では、私たちはこれで失礼します」と頭を下げて、私の腕をつついた。私もあわてて小さく頭を下げ、地霊殿をあとにする。

 たぶん、虚しさとか寂しさとか、そういうものを瞳と一緒に抱えたまま――彼女の感謝の言葉は、そんな傷ついた感情の上に平たく伸ばされた薄い氷のようにしか思えなかった。

 ◆

 地霊殿をあとにしてから、私たちは一度も言葉を交わさなかった。言葉は喉の奥に詰まって、とても口から出てくるように思えなかった。お互い、すごく近いところで並んで歩いているのに。彼女が地面を踏みしめる音も、時折聞こえる小さなため息も聞こえるくらいのところなのに。
 彼女は私を見てくれない。私も彼女を見ることができない。薄暗い道の向こうにある、薄明るい街並みを見つめているだけだった。それ以外に私も一輪もすることがない。
 憂鬱というにはふわふわと掴みどころがなさすぎて、哀愁というには粘り気がありすぎる。そんなものを胸に抱えたまま、私たちはどこへ行けばいいのだろう。

 ――どうして私を連れていこうとするの、あなたは。

 本当だ、どうして私はあなたを連れていこうとしたのか。今になると全然わからない。嫌がるあなたを連れてあんな場所に行って私が見たものは、結局ああいうことじゃないか。
 誰が喜んだ? 誰が微笑んだ?

 こいしだって、私だって、さとりだって、一輪だって、みんな笑ってない。誰が笑うこともない光景でも、それでも私は彼女を帰すことを望んだのだろうか、あのときは。

 ――私は何を選べばよかったのでしょう。

 さとりの言葉が空っぽの胸でこだましつづける。でも、それだって彼女の言うとおり、答えなんてどこにもない。何を選べばよかったのか、終わってしまってからそんなことを考えたって、全部、無意味だ。いずれにしたって、誰かが傷つかなくてはいけない。

 細い道をこうして一輪と並んで歩くことは、本当に久しぶりなのに、彼女にどう声をかければいいかわからない。目覚めの激しい感情は私の中でまだくすぶっているのに、そこから手を伸ばすことができない。

 そばにいてほしいと思う。偽りじゃない、この気持ちは。
 それがさとりには見えていたのだろう。だからこそ、どんなにまわりくどいように見えても、ああいうかたちで私と一輪にそのことを伝えずにはいられなかった。

 そばにいてほしい。見てほしい。
 たったそれだけの気持ちを、どうして素直に伝えられずに、こうして苦しんで隣を歩くしかないのだろう。馬鹿みたいだよ、一輪。私も、あなたもさ。
 視線をそっと横に向けると、ちょうど彼女も私に視線を向けているところだった。薄雲色の瞳と私の瞳がすれ違い、また遠くへと飛んでいく。

 やがて地霊殿は豆粒のように小さくなり、また長屋が並ぶ道に入る。
 向こうに行ったときとは違って、道にたくさんのひとがいた。顔を上げると、長屋の二階からも身を乗り出して遠くの何かを見ようとするひとたちがいた。なんだろうと思って、彼らの視線の先を見ても、空虚な地底の天井が見えるだけだった。

 そう思ったとき。「玉屋あ!」「鍵屋あ!」
 どん、と地響きのような音がして、遠い虚空に花が咲いた。

「花火」

 突然開いた花を眺めながら、一輪がつぶやいた。その声も次の一発の震えでかき消されてしまう。次々と星も月もない空に花が開いては枯れていく。開くたびに歓声と拍手があたりの空気を震わせる。いつの間にか、私も一輪も歩みを止めていた。
 どん、と次の一発が空に咲く。その花は海の色で、見た瞬間にわかった。あれは私が作った一発だ。あの五百発のうちのどれかだ、間違いない。
 それからいくつもいくつも、海の色と空の色の花が空に咲く。ときどき混じる赤と黄色はきっと親方のものだろう。彼らしいと思う。でも、私の色の方が、ずっと。

 ぴりぴりと肌が震え、鮮やかな光が目にしみる。でも、音も光も私には強すぎた。野次も歓声も拍手も、痺れゆく五感から離れていく。
 世界には私と一輪しかいなくなる。虚空に目を向けたまま、それを強く思った。同時に、たまらない不安と切なさに襲われる。

 だって、そうなんだよ? 他の誰が同じ花火を見ていたって、みんながみんな同じ気持ちなんじゃない。ここにいるひとたちは笑っている。向こうにいる姉妹は泣いている。そして私とあなたは、隣り合っている。
 でも、私たちは同じ気持ちを抱いているのに、言葉を交わすことさえできない。そんなのは、ただつらいだけで。

「ねえ、一輪」

 何も言わなくていいから、だから――。
 ゆっくりと一輪に顔を向けた。傷つくことを恐れているのかもしれない。もしかしたらその先にあるものを噛みしめたいと思っているのかもしれない。わからないけれど、そうすることを止められない。

 でも、その望みは目の前で散ってしまう。花火よりも儚いかたちで。

「きれい」

 薄雲は空の花を映して淡く揺れる。白い肌が輝いて、また薄明かりをぼんやりと吸い込む。声はざわめきととどろきに溶けこんで意味を失っていく。
 ああ、やっぱり、あなたは花火を見てしまう。私が作った花火を見て、綺麗だと言ってくれる。
 でも、でも、でも――!

 喉まで出かかった声を抑えることさえ、ひどく難しいことのように思えた。胸の奥にあるものが強く震えて、割れてしまいそうだった。肋骨が何本か折れてしまうのではないかと思うほど、息苦しくなる。

 見てくれない、私を。こんなに近くにいるのに。

 自分の中の壁が崩れていく。気づけば、私は彼女の手を強く握っていた。

「村紗……?」

 もう彼女の声も耳に入らない。同じ耳鳴りがいつになってもやまない。彼女の指の感覚も瞳の色も、輪郭を失っていく。
 あっけにとられた彼女の顔を見ていると、よけいに苦しくなって私は唇を固く結ぶ。今、言葉を口にしたらぜんぶ溢れてしまいそうになる。あ、と小さく一輪が声を漏らす。表情が驚きから哀しい色に染まっていくのが見えてしまう。

 その変化をすべて見届けてしまう前に、私は彼女の手を引いて歩き出す。もう自分が何を考えているかさえわからない。衝動に任せて足を進めて、求める気持ちを伝えるように彼女の手を握るだけだ。
 長屋の前でたわむれているひとたちに何度ぶつかったかわからない。怒ったように振り向いた人もいたようだったが、彼らの表情も怒声も私から遠くかけ離れていた。

 むらさ。その声がするたびに胸が張り裂けそうだった。
 その声を、その瞳を求めていたのに。

 ――だめなんだ。

 ◆

 いくつもの長屋を通り過ぎ、気づけば家の扉の前に立っていた。人の歓声も花火の音も背後の遠くで響いているだけだ。私の右手で握っている一輪の左手にはいつの間にかじっとりと汗が滲んでいた。

「ねえ」

 ぼんやりと扉の前で立っている私に声をかけてきた。

「どうしたの、村紗」

 私はぎゅっと唇を噛んで左手で扉を開く。あたりまえだけど中には誰もおらず、家の中は不完全な闇に染まっていた。履物を脱いで、それから一輪が自分の靴をとるのを待つ。それが終わった気配がすると、また手を引いて中に入る。
 自分の寝室へ。不完全な闇が一層濃くなる。外の花火の音はさらに小さくなり、もう現実にないもののようだった。

 そこでようやく私は手を離し、一輪に振り返る。静かに哀しみをたたえている表情がそこにあった。私の視線に気づくと、そっと下に目を逸らした。

「いちりん」

 彼女の名を呼ぶ。

「一輪」

 もう一度。

「一輪……」

 もう、どうしようもなくなってしまった。今まで抑えようと思っていたものがとめどなく溢れてしまう。

「どうしたん、だろうね。頭の中、ぐちゃぐちゃになってさ……わからないんだ」

 言葉がどんどん自分の中から溢れて、震える声となって零れ落ちる。いくつも、いくつも。

「あの花火、私が作ったんだ。思ったよりもずっと綺麗で、一輪に見てもらえて嬉しかったよ。きれいって言ってもらえて、本当に嬉しかった。一輪は知らないだろうけどさ」

 言葉を口にするたび、少しずつ胸の奥が疼き、熱くなる。

「地霊殿に行ったときもそうだよ。一輪があそこにいたのはすごく驚いたけど、でも嬉しかったんだ。あのひとに感謝もされててさ、さすが一輪って感じだった。それに倒れそうになる私も抱き起こしてくれて……ごめん」

 一輪は小さく首を横に振る。気にしていない、ということなんだと思う。けれど、その仕草さえ――それだからこそ――怖くなってしまう。

「朝ごはんだって、いつも一輪が用意してくれるんだ。私が起きるまで一輪は食べないで待っていてくれる。ごはんも美味しいよ、いつも。私は一輪の料理が大好き」

 彼女は無言でうなずく。

「だから……うん、私は一輪に感謝してるんだ」

 そこで、どん、と部屋に低い響きがする。音のした方に目を向けると窓が開いていた。まだ外では花火が続いていて、さっきの響きはそれの音だった。
 私は静かに窓辺に行き、窓を閉めると闇がいっそう濃くなった。一輪の姿さえ霞んでしまうほどに。花火の音はそれでも静かに部屋を震わせる。

「本当は」

 一輪に振り向いて言う。

「どうでもよかった……私の作った花火なんて。ただ――」

 目尻から涙が零れた。

「私を見てほしかったんだ」

 その言葉を口にした瞬間、今までの奔流よりも強い思いが私の胸を押し流していく。私は彼女のそばに近づく。一輪は顔を上げて私の目を見る。

「どうすることも、できないんだ……花火を作っても、あの子を送り届けても。笑って喜んでくれるひとだって、いるはずなのに。でもそんなの、私にとってはどうでもいいことなんだ」

 いくつもの涙が頬を伝う。勝手に嗚咽が漏れる。それを止めようと思って手の甲で涙をぬぐっても、すぐに新しい涙が出てきて手を濡らす。

「だって、だって、こんなことやってたって、聖は……戻ってこないんだよ……! 私はどうしてここにいるの? なんで消えもせずに、自分を騙しているの? わからない、わからないよ。私はちっぽけで、弱くて、どうすることもできない存在で……」

 また一輪が黙って首を振る。でも、もうそれは何の意味もなしていなかった。

「だって、幽霊だもの。死んでるんだもの……あたりまえ、だよ」

 涙は止まらない。胸の震えも、嗚咽も。

「すきだよ」

 乾いた音を立てて、私の声が転がった。

「すき、いちりん、すき……でも、こわいよ」
「こわいって」
「もし、一輪に嫌われたら、私はどうすればいいの?」

 とうとう、言ってしまった。

「それが怖かった……私と一輪がおんなじ気持ちだなんて、わかりっこない。もし見えたとしても……違ったら? それに、もしも今一輪もおんなじように思ってても、わからないよ、いつか私たちの気持ちはすれ違うんだ。そうしたら、わたしは、もう……」

 あとは言葉にならなかった。体の力がいっぺんに抜けて、畳の上に崩れてしまう。
 さめざめと泣くなんて舟幽霊に許されるのだろうか。私はあの罪を黙って受け容れなければならないのに。いつかあの夢に潰される日をゆっくりと座って待つしかないのに。

 でも、結局耐え切れずにこうして一輪にすがってしまう。
 弱いよね、どうしようもないよね。こんな私を見てほしいなんて、厚かましすぎるよね。
 胸の中ではそういう言葉をいくらでも吐けるのに、喉は震えて嗚咽を漏らすばかりだった。何かを言おうとしても体がそれを許してくれなかった。

 罪を受け容れるべきだという自覚はとっくの昔にしている。そのくせ、その覚悟が足りなくて今こうして涙を流してる。どちらだって見えている。見えているからこそ、どうしようもなく苦しくて無力だ。
 さとりの言ったことが、かけらでもわかったような気がする。見えていてもどうしようもないことがある。

 自分の気持ちだって変えることができない。そんな現実の前に私は臥して、涙を流し、まぶたを腫らし、祈るほかにないのだろうか。もしそうなのだとしたら、やっぱり私はどうしようもなく無力で、ちっぽけで。
 消えてしまいたい。もう、どこにも行けないなら、ただただ消えてしまいたい。
 手からこぼれ落ちた涙が畳を濡らす。鈍い音を立てて、鼓膜を激しく震わせる。こんな姿、一輪に見てほしくない。

 でも、見てほしい。わけがわからない。私は何を望んでいるのだろう。どうにかなってしまう。体が、心がばらばらになってしまいそうだ。
 それに耐え切れずに顔を上げた。

 次の瞬間、私は一輪の腕の中にいた。

 彼女の胸が濡れた顔を包みこみ、やわらかく長い腕がそっと背中を撫でる。涙も嗚咽も、いきなり止まってしまった。

「ばか」

 耳元で小さく囁かれる。

「ばか、ほんとう、ばか」
「ばかじゃない。一輪だって、わかって――」

 彼女の胸に顔を押しつけて小さく言い返す。でも、彼女が私の髪にそっと触れてしまうだけで、その言葉も煙のように消え失せていく。

「いつかすれ違うかもしれない。私だってこれからずっとそうならないなんて言えない。でも」

 そう言って彼女は私の体を強く引き寄せた。

「私はあなたのことが好きよ。たまらなく、どうしようもなく。今の私の気持ちを、怖がって受けとってくれないの?」

 少し腕にこめられた力が強くなる。

「今朝、あなたが私の名前を呼んだの、知ってたわ。本当に小さな声だったけど、私を求めているんだって気づいた」
「……うん」
「ごめんなさい。やっぱり、あなたのそばに行けばよかったのかな。私があなたの事を救おうだなんて、そんな押し付けがましいことできないって思ってた……ごめんなさい」
「……ううん」

 両腕をそっと伸ばし、一輪の背中にまわす。私を包むその体は思ったよりもずっと細かった。やわらかい肌は少し力を込めれば避けてしまうのではないかと思うほどだった。
 こんなにも、彼女は壊れやすいものだったのだろうか。

「今、そばにいてくれて嬉しい」
「花火打ち上がったときにあなたを見ていなくて、ごめんなさい」
「ううん。今、私を見てくれているから」
「……今まで」

 そこで一輪も声を詰まらせる。けれど、振り絞るようにして続ける。

「ずっと、ずっと……あなたの気持ちに気づかなかった。あなたがひとりでどれだけ苦しんで、どれだけ私を求めていたのか。何も、気づいていなかった。ただごはんを作って、弔いでお金を稼いで。そういうことでしかあなたを支えてこれなかったなんて」
「ううん」

 もう、かまわない。私は彼女を求める。彼女は私を求める。
 今はそれで十分なんだ。

「こうして私を抱きしめてくれてるんだもの。いいよ、それだけで、今は」
「すき、むらさ」

 一輪がひっそりと私に囁いた。

「だいすき。あなたのそばにいたい」

 私は彼女の腕の中でうなずく。止まっていた涙がまた零れ落ちた。
 ああ、どうしてだろう。私は強く思う。現実は何も変わったわけじゃないのに。

 相変わらず私たちは地底に封印されている。聖を救うことだってまったくできないままだ。きっと今日が終われば、明日から私はまた大工仕事に戻るし、一輪は亡くなったひとたちを弔いつづける。
 こいしはまた外に出てしまって、さとりはそれを心配するだろう。だからさとりはペットを愛し、こいしは誰にも気づかれないまま。地底にはこれからもずっと光が差さないままで、嫌われものの妖怪たちがあちこちで生き、喧嘩し、仲直りし、これからも過ごしていくのだろう。

 そんなどうしようもない現実の中で、また私は誰かを傷つけて、誰かに傷つけられる。誰かが涙を流し、私も涙を流す。何を選べばいいかなんて、わかるはずもない。きっと何を選んだってどうしようもないのだろう。

 そのとき、かろうじてできることは、きっとこうして抱き合うことしかないのだ。
 誰かが私を見てくれている。私も見ている。その気持ちを何度も確かめ合うことでしか、お互いを支えられないのだ。

「一輪、私もずっとそばにいたい」

 こうして、自分の気持ちを伝えることしかできない。

「うん、ずっとそばにいよう」

 でも、それでいい。たったひとりでいい。私の気持ちに応えてくれる人がいるなら、そこにいることも、自分の罪も背負って、私は存在しつづけていきたい。

 深く静かな闇の中で、私と一輪は長い長い時間、抱き合っていた。何度も自分たちの気持ちを伝えた。
 安らかな音が窓の外に響いた。きっとあの花火の下には笑っている人もいるんだろう。そういうことを信じさせてくれるような優しい音だった。

 ◆

「ねえ、一輪」
「なに、村紗?」
「強くなりたい」
「今のままでも、十分私はあなたのことが好きよ」
「それでも」

 布団の中で私は言う。

「きっと強くならなきゃいけないんだと思う。今から大きな存在になるのは無理かもしれない。ただ、強くなりたい。あの子が地底にいて、みんな嫌われて。聖は人間に裏切られて、私たちはこうして地底にいて。こんなこと、私が全部変えられるわけ、ないよね」
「それは――」
「だから強くなりたいの。誰のためでもない、ただ一輪のために。私は一輪の隣にいたい。百年でも、千年でも。ずっと、ずっと一輪を好きでいたい」
「村紗……」
「抱きしめられるだけじゃなくて、私が一輪を抱きしめられるように。他の誰かの弔いがつらくなったら、私が抱きしめたい。だから、強くなりたい」

 掛け布団の中でつないでいる手を握りなおす。

「もし、だけど、地上に出ることができて、もし聖を救うことができたら」

 うとうとと、まぶたが落ちるのを感じた。私はそれに抗わない。視界は静かな闇に包まれた。

「晴れてたら、一緒に海辺を歩こう」
「ええ、綺麗な海のそばを」
「雨が降ったら、冷たい森の中で煌きを見よう」
「それも、素敵」
「雪が降ったら――……」

 柔らかな指が絡まるのを感じる。胸の高鳴りをそっとしまって、私は眠る。

 今日はどんな夢を見るだろう。たとえ、悪い夢を見ても、だいじょうぶだ。
 約束をしてくれた。私のそばにいてくれるって。

 だから、柔らかな呼吸ができる。静かな眠りにつくことができる。
 ただただ、手をとりあって、ただただ、抱き合って――。

 

 

初出:2012年6月2日