息抜き程度に書いてみました。たぶん、私は青娥のこと好きじゃないんだと思います。

Pixiv
 
 


 
 
 「飼い犬に手を噛まれる」という故事成語がある。私は犬を飼ったことはないし、実際、犬だなんて本当に単純な生き物。食べて寝て、気ままに外を出歩いて、鼻を鳴らして自由に生きている。そういう生き物に手を噛まれるのはよっぽどの愚か者としか言いようがない。
 たとえば、そういう愚か者は――。

「芳香?」

 私の肘の皮膚を通り抜けて、無数の筋繊維をちぎって、骨までたどり着くような、鋭い意志を持った歯。黒と赤が半々に入り交じったものがそこから流れはじめた。その事実を把握するまで、痛みはやって来なかった。

「あ、あ……」

 そして痛みが来た瞬間、それは恐ろしい速度と鋭さで私の全身を駆け巡った。叫びを上げようにもあまりの痛みに、喉から声を出すことさえうまくできない。芳香が噛んだものはわずかな間だが、キョンシーになると知っていた。知っていることと、経験することはまるで違った。

「――ぁ、っ」

 痛みが意識を喰っていく。仮死が眠りへ誘おうとする。黒い靄がかかる視界の向こうにかろうじて芳香の表情が見えた。そこには今まで私が見たこともない色があった。
 たとえば、そういう愚か者は、私、なのか。

 ◆

「青娥さまは、優しいのだ!」

 芳香の身体を直しているときにいきなりそう言われた。

「どうして?」
「いつもちゃんと私の身体を直してくれる!」

 半分近く欠けた両腕をまっすぐ天に突き上げたまま笑う彼女。いつも、と言われれば確かにいつものことだ。芳香を手に入れた当初、泣きながら彼女を直していたときのことを思い出して、少し感傷に浸ってしまう。

「当たり前じゃない。あなたは私にとってかけがえのない存在だから」
「かけがえのない……?」
「愛してるって意味」
「愛してるかー」

 ゆっくりと手が元通りになっていくのを愉快そうに眺めながら芳香は言う。

「それっていいな! 私は青娥さまに愛されてる!」
「ええ、私はあなたを愛してる」
「私も青娥さまを愛してる!」

 唐突に出てきたその言葉にはっとする。「好きだー!」と何の恥ずかしげもなく大声で叫ぶ芳香。私は彼女の頭をそっと抱いて耳元で囁いた。

「ねえ、芳香。私の芳香」
「うん? 青娥さま?」
「ずっと、ずっと私の芳香でいてほしいの」

 たとえばそれは儚い願い。つんと芳香の身体のにおいが鼻につく。土よりも血の気を失った肌の色。まわりの人たちはこれを異臭やら死人やら呼ぶけれど、私にはそうではない。これは芳香だけのもの、他ならない私だけの、芳香の。

「……えと」
「お願い、芳香」
「うう、え……」

 私の腕の中で芳香が小さく頭を動かすのがわかる。それは肯定か否定か、それとも――。

「私は芳香! だから、大丈夫だ! 私はずっと芳香、青娥さまの芳香!」

 ◆

 罪の意識、無意識の愚かさ。
 気づいたときには、彼女はいなくなっていた。私は仰向けになって星が降りそうな空を見ている。本物の仙人になったら――ふと思う――この星をここに向かって降らすこともできるのかしら。
 煌く砂を夜空にばらまいたように星は光る。でも、決して隣り合うことはない。接し合うことはない。星はあくまでひとつの光としてそこに佇む。
 星を求めた。でも、ずうっと、抱きしめることなんて、最初からできるわけ、なかった。
 私だって、ひとつの星に過ぎなかったのだから。

 少しずつ体が朽ちていく。天から落ちる燃えかすになっていく。腐臭がかすかに鼻先をつつく。

 たとえば、そういう愚か者は、私。
 そして、そういう愚か者を愛そうと誓ったのは、芳香。

「腐ってて、可愛く、ない」

 関節の硬直を感じながら、私は再び目をつむる。

 

 

初出:2011年10月8日