創想話
 
 


 
 

――とりあえず、鰻重ひとつ。
――はいよ。

 雨上がりの満月は曇りのない空に佇み、純粋そのものである光は幻想郷の地を映し出す。一筋の煙が木々の中から立ち昇り、月光に煌めきながら薄れ、空へ消えゆく。星が見えない空のもとから声がする。

――ふうん、こうやってつくるんだ。
――できたてがいちばん美味しいからね。

 煙のもとには、八目鰻の屋台があった。そこの長椅子に一人の巫女が腰かけ、肘をついて屋台を覗き込んでいる。中では夜雀が八目鰻をあぶっていた。煙が炭火から立ち昇り、店の中を満たしていた。
 巫女は大きな欠伸をした。煙の中で夜雀は八目鰻から顔を上げて、巫女の顔を見た。それから夜雀が自分を見ているのに気がついた。巫女は不審そうな顔で夜雀に訊く。

――なによ、なにか私の顔についてるの?
――ううん、なんでもない。

 夜雀は鰻に目を落とし、その皮が火にあぶられて少しずつ水分を失っていくさまを黙って見つめた。
 いままで何百匹の鰻を火にかけて、彼らの本質をごまかしてきたのだろう。彼らは確かに鰻だったはずなのに、その面影もなく炊いた飯の上に乗せられていくだけだ。

――ねえ。

 巫女は、不意に夜雀に問いかけた。

――なに。

 夜雀は顔を上げる。肘をつきながら気だるそうな顔で巫女はミスティアに訊いた。

――人里の噂、聞いた?
――聞いてない。

 その答えを聞いて、巫女はため息をついた。

――そう。じゃあ、いいけど。

 霊夢がミスティアの鰻屋に来た。それはミスティアにとっても、霊夢にとっても、初めてのことだった。
 霊夢はもともと夜に出歩くことが少ないのに、突然、真夜中にミスティアの鰻屋に来たのだ。夜に目が利かない霊夢、それなのに、彼女はここに来た。

 ミスティアは重箱にご飯を優しく詰めていった。決して押し潰さないように、それでもその重量感を味わえるように。長年の経験が教えてくれるのは鰻の焼き方だけではない。それは頭が理解するものではなく、体がすべてを覚えて、自然とご飯との付き合い方を学んでいった。そのことをミスティアはまだ自覚できない。
 霊夢がつづける。

――昨日、人里の若い男女が里の外に出たっきり、帰ってこないっていう話があったの。若い男女だから、たぶん駆け落ちだと思って、最初はあまり気にしてなかったんだけどね。今日の昼間、里のひとたちが神社に来たのよ。

 頬杖をつく霊夢の目は、どこか遠くを見ているようだった。面倒くさそうに、またため息をつく。だるそうな息が遠くまで伸びた。ミスティアはその息を感じて、顔を曇らせる。

――駆け落ちなんてありえない、里のひとはそんなことをする理由がないって言うのよ。誰もその付き合いに反対していなかったから。調べてみたら、二人はこの鰻屋に行くって言っていたのを誰かが聞いていたらしいの。ここらへんは人里からも離れてて、妖怪が出るじゃない。もしかしたら、妖怪に襲われたかもしれない。それで、私にその調査の依頼が来たの。襲った妖怪がいたら、そいつも退治してくれって。

 そう言って、霊夢はミスティアを横目で見た。

――それで、あんたに訊きたかったわけよ。ここの近くのことなら知ってるでしょ。

 ミスティアはしばらく黙って、考えるふりをした。それから、申し訳なさそうな顔を作り、思いだせないふりをした。

――ごめん、そんなことがあるなんて気づかなかった。その人間はここにも来てないみたいだし。
――そう、じゃあ、しょうがないわね。

 そう言ったきり、霊夢はまたどこともないところに視線を戻した。
 あぶられていた八目鰻からいい香りが漂いはじめた。ミスティアはあぶりかげんを確認して、特製のたれをかけて、重箱に詰めたご飯の上に載せた。職人芸、そんな言葉がふさわしいくらいに、素早く、確実だった。

――お待たせ。

 霊夢の前に鰻重が置かれた。霊夢は手を合わせ、なにかを言おうとしたが、その前に熱燗が霊夢の前にさらに置かれた。霊夢は怪訝そうな顔になって、ミスティアを見上げる。

――ちょっと、これ、私は頼んでないわよ。
――いいのよ、私からのおまけってことで。

 ミスティアは笑いながら受け流した。霊夢はお茶のほうがいいのに、と不満顔ながらにつぶやき、それでも、ありがと、とミスティアに軽く頭を下げた。
 ミスティアはおちょこをひとつ取りだして、霊夢に渡した。霊夢はそれを受け取りながら言った。

――あんたは呑まないの?

 ミスティアは力なく笑って、答えた。
 
――私は、いいのよ。
――そう……それじゃ、いただきます。

 霊夢は手を合わせて、箸を手に取り鰻重を食べはじめた。
 それを確認してミスティアは鰻をあぶる火を止めた。煙が空気の中に溶け込んで、少しずつ消えていく。ミスティアは両肘をついて、黙って霊夢が鰻重を食べる姿を眺めた。
 霊夢が鰻重を食べる姿の中に、ミスティアはかすかに誰か別の姿が映ったように見えた。その姿は鰻重を食べているのに、ミスティアに弱々しく片手を振っている。煙と同じようにその姿も少しずつ闇に溶ける。溶けて、なくなってしまう。
 肘をついたまま、長い、長い回想を――噛みしめていく。その味は酸っぱくて、苦くて、忘れられない味になるだろう。おとといの出会いに、ミスティアは思いを馳せた。

 その日は曇天だった。月も星も、見えない。雲が無理やり月と星を自分たちの中に押し込んで、埋めているようだった。そしていつか雲はそれに耐えきれなくなって、涙の雨を降らせる。
 そんな天気の表情のひだを、ミスティアは読み取れない。屋台の屋根の下で、彼女は天気よりもその日の営業のことを考えていた。

 こんな雨が降りそうな天気だと、鰻を食べに来る客はほとんどいないしなあ。今日はもう店を閉めちゃってもいいかな。明日は店を開かなきゃいけないから、今日はほどほどにしよう、うん。

 提灯が風に揺れる。風も強くなってきたようだ。ミスティアが提灯の明かりを吹き消そうとして息を軽く吸い込んだ。そのとき、提灯の明かりのはるか向こうの空になにかの影を見つけて、明かりを消すのをやめた。
 なんだろう? 空を飛んできているから、妖怪? それとも空を飛ぶことができる人間? ミスティアには影の正体がつかめなかった。それは自分の店に向かってきているようだった。
 それが近づいてくるにつれて、影の輪郭を判別することができるようになった。夜雀だった。

 夜雀は空を滑って、ミスティアの店の前に降りた。ミスティアは屋台の裏からその妖怪を覗き込もうとした。提灯に照らされているはずなのに、うつむいているせいか、それともちょうど屋台の柱の陰になっているせいか、顔が見えなかった。妖怪は確かにそこにいるはずなのに、まるで木々の中の闇と同化してそこに佇んでいるだけだと、ミスティアは感じた。
 ただ、その目だけは――なにかの光を灯していた。

 妖怪はなにも言わなかった。ミスティアもなにも言わなかった。
 長い沈黙が流れた。しかし、一向に妖怪は口を開かなかった。ミスティアは用があるなら向こうから言ってくるだろうと思い、妖怪に背を向けて店を片づけはじめた。すると、背後からかすれた声がした。

――この店、まだやっているのか?

 もうすぐ閉めるよ、そう言おうとして、ミスティアは振り返った。
 妖怪は顔を上げていた。ミスティアの知らない夜雀だった。その妖怪の顔を見たとき、ミスティアは本能的に、閉める、と答えることができないと感じた。
 妖怪の顔に、表情がなかった。喜びも、悲しみも、怒りも、なにも、ない。
 ミスティアは開きかけた口を一度閉じた。それから軽く口で息を吸って、言った。

――まだ、やっているよ。

 ミスティアの答えに、妖怪は吐息を漏らした。その口元が少し緩んだ。それは笑っているように見えた。

――よかった。

 妖怪は提灯明かりの下で、長椅子に座った。そこで初めて、ミスティアはその妖怪の顔を隅々まで眺めることができた。男の妖怪だと思ったが、もしかしたら女の妖怪かもしれない――女だったとしてもなんの不自然さも匂わせないような顔立ちだった。それくらい、とてもきれいな顔だった。
 ただ――きれいなだけだった。そこには力強さも、醜さもない。なぜかその顔を見ているだけで、ミスティアの胸が疼いた。疼くというよりは、なにかが抜けていくような、なにかが胸の中から、どこでもない場所へ吸い込まれてしまう感覚。
 その感覚を振り切るようにして、ミスティアは妖怪に訊いた。

――鰻重でいい?
――それでいい。

 うなずいてから妖怪は答えた。
 この妖怪は食べられるものなら、なんでもよかったんじゃないか――ミスティアは、そう感じた。

 ミスティアは鰻をさばいて、火をつけて、あぶっていく。妖怪はその様子を黙って見つめていた。鰻の行く末をひとつも見逃さないように、記憶しなければいけないかのように――食い入るようにして見つめる。一点に据えられた目は、他のものを視界に入れることを拒絶しているようだった。
 あぶるのがひと段落したところで、ミスティアは妖怪に尋ねた。そうしなければ、いつまでも妖怪は鰻があぶられているのを見つづけるだろう、と思った。

――ねえ、ここに来るのは初めてよね?

 ミスティアの声を聞いて、妖怪の視線が鰻から音を立てて剥がされていく。それから今度はその視線をミスティアに打ち込んだ。ミスティアはひるんで、それ以上を妖怪に訊くことができなくなった。
 しかし、視線を向けただけで、妖怪はミスティアの問いに答えようとしなかった。無情の無音が流れて、唐突に妖怪はミスティアに問いかけた。

――君、妖怪だろ?

 まるで操り人形のように、口だけが動いた。頬も、眉も、微動だにしなかった。
 ミスティアは妖怪に対して――嘘をつけなかった。それでも、言葉を見つけられず、素直にうなずくほかなかった。
 妖怪がつづける。

――普段、なにしてるんだ?

 夜はここで八目鰻屋をやっている。人間も来るし、妖怪も来るし、誰も来ないときもある。昼は八目鰻を手に入れるために川で釣りをしている。ときどき店をやらないときは、散歩したり、歌を歌ったりするときもある。そんなふうにミスティアは答えた。
 妖怪はミスティアが話し終わるやいなや、その話に噛みついた。

――歌が、歌えるのか。

 煙の向こう側で、妖怪の瞳は黒く、鈍く光っている。

――哀しい歌を、歌ってくれないか?

 香ばしい匂いが立ち昇ってくる。妖怪の声がやけにミスティアの耳にはっきりと聞こえた。

――とても、哀しい歌を、聴きたいんだ。

 提灯の明かりの下で、妖怪は笑わない。鰻のあぶられる音だけが闇に響く。
 哀しい歌なんて嫌だよ。歌を歌うときはやっぱり楽しくて、明るいほうがいい。それが私の歌だもの。心の中で何度も繰り返した。それも妖怪の顔を見ると、なにも返せなくなってしまう。
 鰻の脂がミスティアの手に跳ねた。無意識にミスティアの身体が反射して、それでミスティアは鰻が熟したことに気がついた。あわてて気を取り直し、ミスティアは笑顔を作りながら妖怪に言った。

――ちょっと待って、もうできるから。

 重箱に飯を詰めて、鰻を載せて、たれをかける。妖怪の視線から逃げるには、ちょうどよかった。
 鰻重ができあがった。

――はい、お待たせ。

 ミスティアは妖怪の前に、鰻重と箸を置いた。
 妖怪は黙って箸を取り、重箱を左手に持って、ひと口食べた。
 
――どう?
 
 おそるおそる、ミスティアが尋ねた。妖怪は黙ったまま、何度も何度も顎を動かして噛みしめた。それから、舌で喉にそれを送ってのみ込んで、言った。
 
――美味しい。
 
 妖怪はまた一口食べて、言う。
 
――美味しい。
 
 妖怪はそれから夢中になって鰻重にありついた。ほんとうに、夢中になって。美味しい、美味しい、何度も何度も、美味しい、と言う。ご飯は噛みしめればほのかな甘さが、鰻には心地よい脂が、山椒にははじける刺激が。それらの見事な調和がたまらない。
 妖怪の食べる様子を見て、ミスティアは安堵した。ああ、よかった、こんなに喜んでもらえて。嬉しさが体の芯からわきあがってきた。そうだ、なんかいい気分だから、お酒でも飲もうかな。ミスティアはしゃがんでうまい日本酒がないか探した。
 
 下の棚の中に一本、いいものを見つけた。それと同時に、上から聞こえる箸の音が止んだ。腰を上げて、机の向こうを覗く。
 妖怪は空っぽの重箱を前にして――力のない笑みを浮かべていた。瞳にも頬にも口元にも、体全体にも。
 ミスティアは、全身に鳥肌が立つのを感じた。なんとも言えない恐怖が全身を襲って、思わず一歩後ずさりした。震えが内側から起こりはじめるのを感じて、無理やり抑えつけた。いや、力がないんじゃない、とミスティアは思い直す。死んでいる? もしかしたら、死んでいる以上の――。
 ミスティアは音をたてないように酒の瓶を元の場所にしまった。いまはこの妖怪に酒を出してはいけない。
 
――美味しかったよ。
 
 妖怪はつぶやいた。どうも、とミスティアは返した。微笑んだまま、妖怪はつづける。
 
――美味しかったよ、でも、もう味を忘れてしまった。食べた感じがしないんだ。お腹になにかがあるだけで、実感がわかないんだ。
 
 ミスティアはとまどって、胸の奥が痛んだ。どうすればいいの? 自分の胸に問いかけた。
 答えは、なかった。
 
 妖怪の目が泳ぎはじめた。なにか迷っているとミスティアは直観した。妖怪はミスティアを見て、空の重箱を見て、提灯を見た。それからミスティアに問いかけた。
 
――人間を襲ったことはあるか?
 
 死んだような目からはなにも読み取れない。ミスティアは、ある、とだけ答えた。
 妖怪の瞳に提灯の光がぼやけて映った。それはわずかに揺らぎ、妖怪の瞳に溶け込んでいった。
 
――具体的に、どうやって?
 
 ミスティアは記憶の束をめくって、自分でも意外なひとつを取りだした。永遠の満月の夜に襲った人間、霊夢のときのことだった。どうやって襲ったかを思いだそうとしても、思いだせなかった。
 鳥目にしてから襲ったのか、それとも歌で惑わせてから襲ったのか、それとも向こうが勝手に迷い込んだところを襲ったのか。もう、やり方を忘れてしまった。そもそも自分が霊夢を襲ったという事実さえ、記憶に埋もれかけていた。
 記憶の一枚をまた束の中に押し込んで、ミスティアは首を振った。
 
――忘れちゃった。私、鳥頭だから。
 
 妖怪は肩を落として少しうつむいた。それでもすぐに机に身を乗り出して、訊いてきた。
 
――じゃあ、君は人間を殺したこと、あるかい?
 
 妖怪の顔が初めて、動いた。感情が生まれた。ただ、それは希望にあふれたものでも、絶望でも、禍々しいものでもなく――不安。
 空の重箱をミスティアは見つめた。ご飯粒のかけらもついていない。この妖怪は鰻重を食べたのだろう――けれど、それはなにも妖怪を満たさなかった。
 妖怪に視線を戻す。聞いたこともない言葉がミスティアの頭に響いた。ミスティアはその言葉に耳をふさいで、妖怪の問いに答えた。
 
――ない。襲っても、傷つけるだけ。
――そうか。
 
 妖怪は静かに腰を落ちつけた。それから肘をついて、うつむいた。
 
――最近、自分がどこにもいない気がするんだ。僕はなにがしたいんだろう? いつも考えるけれど、答えはどこにもない。今日だって、ここの鰻がとても食べたい、そう思ったわけでもないんだ。
 
 妖怪が震えはじめた。最初は、腰から、それから腕に、肘に伝わっていく。そして、そのまま屋台の机から屋台全体が震えはじめたように、ミスティアには思えた。
 声も震わせながら、妖怪はつづけた。
 
――ふと気づいたら、ここの店の前に立っていた。それより前に僕はなにをしていたのか、いくら思いだそうとしてもわからないんだよ。いつ起きたのかも、どこで目覚めたのかも、なにもわからない。
 
 妖怪が唐突に立ち上がった。長椅子が音を立てて滑った。妖怪の視線がミスティアを射すくめる。
 
――なあ、今日僕はなにをしたんだ? いつ、どこで、目覚めたんだ? 教えてくれないか?
 
 ミスティアは、また震えが自分の中から起こりはじめるのを感じた。
 闇が自分たちを襲おうとしている、そう思った。自分たちと闇は古くからの良い友だちだった。闇に話しかければ、機嫌のいい返事が返ってきた。自分の体を預ければ、闇は暖かい寝床を与えてくれた。
 けれど、いまは――提灯の明かりが消えるのを待って、闇は自分たちを喰おうとしている。転んでしまったら、もう起き上がることはできなくなる。
 
 怖いよ。
 
 嫌だよ。
 
 揺さぶられて、思わず声が出そうになった。でも、だめだ。出したら、なにもかもが、失われる。
 
 長い、長い沈黙が流れて、妖怪は力が抜けたように肩を落とした。妖怪の震えが収まった。そして、その表情からは不安が消え去り、またなにもなくなった。
 妖怪はつぶやいた。
 
――すまない。君に訊いても、わかるはずがないよな……。
 
 ミスティアはなにも返せなかった。元気、出してよ、そんな言葉を言えるはずもなかった。もし、それを言ってしまえば――妖怪が壊れてしまう気がした。
 妖怪は深いため息をついて、言った。
 
――帰る。
 
 そしてミスティアの顔を見て、笑った。ミスティアは黙ってうつむいた。また来て――なんて言えない。
 妖怪は飛び立った。その姿が影になり、輪郭が失せ、闇に溶けて消えていった。
 夜の中に八目鰻屋だけが佇む。彼がいた痕跡は、どこにもない。空っぽになった重箱は、もしかしたらミスティア自身が鰻重を食べたから、あるだけなのかもしれない。
 もしかしたら、彼は夜雀じゃなくて、闇から生まれた妖怪なんじゃないか。ふとそんなことを考えた。
 なにもかもを喰い尽くしてしまう闇。それは私たちの友だちでもなんでもない。鰻重だろうと、人間だろうと、妖怪だろうと――すべてを喰らいつづける闇。
 
 提灯の光が弱くなった。店を閉めようと、ミスティアは思った。
 
 
 いま考えれば、予兆はすでにあった――あのときから、ずっと。
 ミスティアは思う。それに気づけなかった私は、いま、後悔している。彼は、闇なんかじゃなかった――。
 
 
 
 
 

 
 次の日も、重い雲が空を埋め尽くしていた。太陽は確かに天上にあるのに、そのぬくもりは幻想郷に届かない。ミスティアは思う――今日はとても冷たい雨が降る。
 川で無気力に糸を垂らす。こんな天気の日は鰻がうまく釣れない。ミスティアの視線は糸に注がれているが、どこか別の場所を見ているようだった。糸は何度も引っ張られ、鰻にわずかな抵抗を見せたが、結局は耐えきれずに鰻を逃がしてしまう。釣りをしているのはミスティアではなく、糸だった。
 
 こんなことに意味はあるの? ミスティアの心の中でその思考が霧のようにかすむ。
 川に映るミスティアの姿は揺れ動きつづける。石を投げ入れるとその姿は一瞬にして壊れ、また元の形に戻る。
 
 空に誰かの姿が小さく見える。遠くからリグルが飛んできた――ミスティアはそれがすぐに認識できた。リグルは手を振りながらミスティアに近づいてきた。
 
――やあ、ミスチー。
――こんにちは、リグル。
 
 リグルはミスティアの隣に降りて、器用に羽をたたんだ。川に垂らされた糸とミスティアの横にある桶を覗き込みながら、リグルが訊いた。
 
――少し不漁みたいだね。手伝おうか?
――だいじょうぶだよ。蓄えはあるし、そろそろ引き揚げるから。
 
 ミスティアは釣竿を垂直に引き上げる。糸が水面から引きずり出され、小さな釣り針が姿を現した。それを注意深く回収して、糸を竿に巻きつけ、地面に置く。
 リグルはミスティアの隣に腰を降ろした。
 
――そっちの調子はどう?
 
 ミスティアは尋ねた。リグルは苦笑した。
 
――まあ、ぼちぼちよ。まだつづけるつもりだけど。
 
 リグルは「蟲の知らせサービス」を営んでいる。目覚まし代わりだったり、伝言代わりだったり。虫の地位向上を目指して始めたものだと、以前に聞いている。
 
――人間には好評なんだよね。だけど、少し面倒くさくて。
 
 そう言ってリグルはまた息を漏らして苦笑した。ミスティアはその表情を見て、リグルはそれで満足しているんだろうな、と感じた。
 川の流れがどこか遠くに聞こえる。妖怪と人間の境界があいまいになっていると、ミスティアは思う。
 
 昔は人間を襲うのが妖怪だった。人間を食べたり、攫ったり、驚かせたり。そして人間はその妖怪を退治する術を心得ていた。妖怪を退治する職業もあった。そうやって妖怪と人間は、反目しつつ、その太いつながりを保ちながら共存していた。
 だが、いつからか幻想郷では人間を襲えなくなった。妖怪の数の多さに、人間の数は少なすぎた。そのために、妖怪は人間を襲ってはいけないという暗黙の掟ができあがった。以前の妖怪と人間の関係は――形骸化した。均衡を守るためだ。強い妖怪は言う。
 最近は妖怪でも人里に行って、人間と友好的な関係を結ぶ者もいるという話を聞く。リグルはまさにその妖怪だ。彼女も人間のために活動するようになってきた。ミスティアも、そう。八目鰻屋は妖怪も人間も歓迎する。
 時代は変わる――それでいいと、ミスティアは思う。人間がいなくなってしまうのは、あまりにも寂しい。
 
 不意に、提灯の明かりの中に孤独に浮かぶ夜雀の姿を、ミスティアは思いだした。
 
――ねえ、リグル。
 
 ミスティアはリグルに聞こえるか聞こえないかの声で、訊いた。
 
――なに?
――あなたは、人間を襲ったこと、ある?
――あるわ。あの夜の霊夢で最後だけど。
 
 リグルはミスティアの顔を覗き込んだ。
 
――どうしてそんなこと訊くの?
 
 ミスティアは寂しく笑って、手を横に振った。
 
――ううん、なんでもない。
 
 それ以上リグルに訊いてはいけないと、ミスティアは思った。私と同じ思いをさせちゃいけない。気づかないほうがいいことだって、幻想郷にはたくさんあるんだから――。
 
――ほんとうになんでもないよ。
 
 周囲は闇に飲み込まれていった。太陽はミスティアたちの目の届かないところで孤独に沈み、月もどこか遠くでひとり。曇天はただ空を闇に染め、溶かし込んでいくだけだった。
 ミスティアは竿と桶を持って、立ち上がった。
 
――帰るのかい?
――うん。
――じゃあ、私も今日は帰ろうかな。ばいばい、ミスチー。
 
 リグルも立ち上がって、ミスティアに背を向けた。
 
――リグル。
 
 ミスティアはリグルを呼び止めた。リグルは顔だけをミスティアに向けた。
 
――また暇だったら、私の店においで。美味しい鰻重つくってあげるから。
 
 
 
 
 

 
 真夜中、人間がミスティアの店にやってきた。若い男女だった。
 
――ねえ、妖怪がやっている鰻屋さんって、ここ?
 
 女が店ののれんをかき分けながら、ミスティアに訊いた。
 
――そうだよ。
 
 ミスティアは笑顔で応えた。女は喜々として男の手を引いて、男を店の中に引き入れた。男は苦笑いしながら、ミスティアに頭を下げた。ミスティアも笑顔のまま頭を下げた。
 
――人里でここのお店の噂を聞いてね。この子が行きたがってたから、来たんだ。
 
 男は苦笑いのまま、鰻重を二つ頼んだ。女は男に寄りかかって、首を男の肩に預けた。
 
――すごく美味しいらしいじゃない? それに、妖怪さんがやってるなんて、珍しいし。
――ありがとう。
 
 ミスティアは鰻をさばいて、火にかけた。
 鰻をあぶっている間、男と女は楽しそうにおしゃべりをして、ときどきミスティアにも意見を訊いてきた。ミスティアも客とのやり取りを味わった。
 とても楽しそうで、幸せそうで、元気そうな客だった。
 
 二人は鰻重を食べ終えて、少しばかりお酒を飲んでから席を立った。
 
――ありがとう、妖怪さん。とても美味しかった。ごちそうさま。
――ほんと、どうしたらこんな美味しい鰻重をつくれるのかしらねえ。
 
 ミスティアは照れながら、答えた。
 
――いつのまにか、こういうのがつくれるようになっちゃったの。
 
 二人は少し笑って、手をつないだ。
 
――じゃ、また来るよ。
――じゃあね。
 
 背を向けて、歩いて去っていく二人に、ミスティアは声をかけた。
 
――ここの近くは妖怪が出るから、注意してね。
 
 男が背中を向けたまま、手を振った。彼らが手に持っている提灯の明かりは、どこまでも遠く彼らの影を明確に浮かび上がらせていた。
 夜の中に二人の姿が消えて、ミスティアは提灯の明かりの下でひとり、机に肘をついていた。
 
 土の匂いがした。雨が屋台の屋根を打つ音が聞こえはじめた。最初はまばらに、だんだん強く。提灯が少し揺れた。
 今日は店を閉めようと、ミスティアは思った。胸の奥で嫌な予感がしていた。
 
 
 真っ暗な夜道を歩くミスティアを、冷たい雨は容赦なく打ちつける。ミスティアはずぶ濡れになった。凍えるような冷たさに、ミスティアは震えた。風が吹く気配すらなく、雨の降る音だけがミスティアの耳に響いた。
 二人の後ろ姿を見ていたときから――底知れぬ不安はミスティアにまとわりついて離れなかった。なにかが起こってしまう。そんな予感が胸から離れず、男女が帰っていった道をミスティアはたどって歩きつづけた。
 
 突然、ミスティアの足がなにかに当たった。引き摺られるような音が地面から響いた。それにミスティアは目を向けて、胸を突き刺される思いがした。
 濡れた人間の脚が転がっていた。ミスティアは後ずさりした。履物ごと、それは元あるべき場所から引き裂かれて――捨てられている。その脚の先に、握られた二つの手が、手首から離れて落ちている。脚から、手首から流れるどす黒い血が、雨に滲みながら地面に染み込んでいた。
 声をあげようとしても、喉に力が入らない。逃げようとしても脚が震えて動かない。顔をそらそうとしても目が離れてくれない。ミスティアは寒さと恐怖と――不安に震えた。
  遠くから、なにかを吸い、啜り、柔らかいものを貪る音が聞こえてきた。ミスティアはすべての力を使って、地面に転がっている肉塊から目を離し、音のした方へ視線を向けた。
 雨の中で、闇に包まれていても、それがなんだか、ミスティアにははっきりと見えた。あの妖怪の影も、輪郭も、顔も――すべてが見えた。
 
 妖怪は、もう人間とはいえなくなったなにかのそばにひざまずき、雨で冷え切った体を貪っていた。胴体から肉を引きちぎり、それを口の中に入れて、何度も何度も噛みしめた。必死に、周りのことなど目に入らないかのように、妖怪は人間だった肉の塊を貪りつづける。
 妖怪にも雨が降り注ぎ、その顎から雨が滴り落ちる。雨が降っているせいで、その妖怪は泣いているようにも見えたが、恍惚とした表情で笑っているようにも見えた。
 ミスティアの視線はそこに吸い寄せられた。聴覚も嗅覚もすべて。雨の匂い、雨の降る音、それらはすべて遠くに消えうせ、血の匂い、貪る音、それしかわからなかった。
 
 妖怪は空を仰いで肉を口に入れ、喉を鳴らしてそれを呑み込んだ。そして、誰かがいることを察知して、ミスティアのほうに目を向けた。ミスティアはそれでもまだ逃げられなかった。妖怪の、殺気を持った目が光る。彼は立ち上がって、震えつづけているミスティアのほうにゆっくりと歩み寄ってきた。
 声にならない声がミスティアの喉から漏れた。それを聞いた妖怪は突然、立ち止まった。しばらくの沈黙のあと、妖怪は大きいため息をついて、肩を落とした。
 
――君だったのか。
 
 目から殺気が失われていき、口元がゆるんで、表情が穏やかになっていった。それから、寂しそうに妖怪は笑って、口をぬぐった。黒い血が妖怪の手に染みついたのが、ミスティアに見えた。
 雨の匂いと音が少しずつミスティアの五感の中に戻ってきた。ミスティアは一歩後ろに下がった。それから震える声で訊いた。
 
――なにをしているの?
――なにって、人間を喰べていた。
 
 ミスティアには一瞬、妖怪の目が煌めいたように見えたが、次の瞬間にはすでに光が失われていた。
 妖怪がいた場所にミスティアは視線を向けた。人間の体は切り裂かれていて、もう元には戻らない。残った部分から、さっきまで自分の鰻屋にいた男女だとミスティアは確信した。
 吐き気がミスティアを襲った。あわててミスティアは口元を押さえた。
 
――なにを恐れてるんだ。
 
 妖怪がさらにミスティアに歩み寄ってきた。ミスティアは一歩後ろに下がった。妖怪はさらに歩み寄りながら、言う。
 
――君も妖怪だろう?
 
 ミスティアが逃げ出す前に、妖怪はミスティアの腕をつかんだ。その顔がミスティアの目の前に迫る。ミスティアは涙が出そうになったが、それを無理やり抑えつけた。震えがどうしても止まらない。妖怪から血の匂いがした。
 
――なあ、なにが怖いんだ? 君だってこれくらいしたことあるだろう? 人間を殺した経験はあるだろう?
 
 ミスティアは口元を押さえたまま、首を強く横に振った。妖怪はミスティアの腕をさらに少し強く握った。
 
――人間って美味しいものだったんだ。鰻重とは違う。鰻のように脂はのってない。ご飯のように噛んでもほのかな甘みなんてない。人間の肉は臭みもあるし、血は滴るし、噛みにくい筋もある。それでも、すごく美味しい。
 
 そう言って、妖怪はまた寂しそうに笑う。力がない笑顔じゃない――寂しそうな笑顔――ミスティアは感じた。
 
――女の腕なんかは特にたまらなかった。とても柔らかくて、噛むとそこから血が溢れてくるんだ。それから、それを思いっきり食いちぎる、その瞬間がとても気持ちいいんだ。
 
 ミスティアは口元を押さえたまま、くぐもった声でたった一言、問いかけた。
 
――どうして。
――たまらないんだ、人間を喰べることが。
 
 その瞳に力が宿りはじめた。人間の血肉が妖怪の身体をめぐりはじめたようにミスティアには見えた。
 
――いまの幻想郷だと、人間を襲っちゃいけないんだろう? 掟に逆らってる。それで退治されるかもしれない。そう思って人間を食べてたら、背筋がぞくぞくする。胸がすごくどきどきする。退治される、退治される、退治される……胸が締めつけられて、それが、いいんだ。
 
 微笑を浮かべたまま、妖怪はつづける。
 
――自分がなくなっていくんだ。生まれてから僕はずっとひとりだった。最近、自分がだんだん薄れていって、いつか消えてなくなってしまうみたいに感じるときがある。自分の中身が少しずつ消えていって、最後には僕の体だけが脱け殻みたいに残るだけ。
 
 妖怪はうつむいた。少しずつ声も小さくなっていく。
 
――怖いんだよ。わからなくなってくるんだよ。僕は誰なんだよ……僕はなんなんだよ……。
 
 ミスティアに訊いているのではない、とミスティアは感じた。自分で自分に問いただしている――。
 
――それで、僕は答えを見つけた。僕は、妖怪だ。人間を襲って喰べる……それでしか僕は生きられないんだ。
 
 ミスティアは黙って妖怪の腕を振りほどいて、妖怪から離れた。妖怪はそれ以上ミスティアに近寄ろうとしなかった。ずっと寂しそうな笑みを浮かべていた。
 間違っている、とは言えなかった。ただ、哀れだ――ミスティアは思う。
 
――いつか、殺されるよ。
 
 ミスティアは妖怪に言った。
 
――退治じゃなくて、殺されるよ。
 
 雨の向こうで、妖怪はうなずいた。
 
――それでも、いい。
 
 乾いた笑いが遠くから聞こえる。
 
――僕が殺されるのは、自分が人間を殺して喰べたからだろう? それは僕の存在がみんなに認められてるからなんだ。それは僕がそうやって生きた証なんだ。
 
 夜の闇に雨の音だけが響いた。
 
 
 
 
 

 
――ごちそうさま。
 
 霊夢はそう言って、重箱をミスティアの目の前に置いた。
 
――うん、美味しい。初めて食べたけど、これからも、ときどき食べに来ていいかな。
 
 それから、霊夢はおちょこに酒を注ぎ、舌で転がしながら味わった。ミスティアは空になった重箱を流しに置いて、霊夢に訊いた。
 
――霊夢、そんなにお金あるの?
――なによ、私はそんなに貧乏じゃないわよ。
 
 霊夢はしかめっ面を作った。すぐにそれを崩して、微笑する。
 
――それに、この調査が終わって妖怪を退治すればお金も入るし。先にお金をつかっても罰は当たらないでしょ。
 
 霊夢は酒を啜った。
 ミスティアは思う。霊夢の目的は妖怪退治そのものではなくて、お金だ。幻想郷の平和を守るためでもあるだろうけど、お金のためだけに妖怪を退治する。
 あの妖怪はお金のためだけに、殺される――。それが、妖怪の望みだとは、思えない。
 
――あ、もうお酒なくなっちゃった。
 
 霊夢にひっくり返されたとっくりは、一滴も酒を出さなくなった。
 
――まあ、いいわ、おまけでもらったものだし。
 
 霊夢はそう言って立ち上がり、お代をミスティアの前に置いた。
 
――どうも。
――今日は少し見回りをしてから帰るわ。お酒も飲んじゃったことだしね。
 
 提灯に照らされた霊夢の顔は少し赤く、上気していた。霊夢らしい暢気さがそこにはあった。
 霊夢は手を振りながらミスティアに背を向け、少しそのままそこに立ち止まって、それから首だけをミスティアに振り向けた。
 
――ほんとうは、あんたが情報を持っていれば楽だったんだけどね。
 
 苦笑を漏らす霊夢に、ミスティアは自分の体が少し震えるのを感じた。
 そうかもしれない。人間にとっては、自分だろうが、あの妖怪だろうが、人間を襲った妖怪が退治された――その事実が重要なのだ。
 霊夢は満月が浮かぶ空に飛び上がって、どこかに行ってしまった。
 
 誰もいなくなった屋台で、ミスティアは思う。
 私は人間に鰻重を差し出す。そして、あの妖怪には人間を差し出す。――私も、共犯だ。
 
 
 
 
 

 
 遠くから足音が聞こえてきて、ミスティアは顔を上げた。のれんの向こう側に、人影が満月に照らされてはっきりと見えた。ミスティアはその影に見覚えがあった――常連の年寄り夫婦だ。
 ミスティアは店から逃げ出したくなった。誰もいない鰻屋にあの夫婦は違和感を覚えることだろう。そして鰻重を食べられないことに不満を覚えるだろう。けれど、それでもかまわない、とミスティアは思った。鰻重を出したら、老夫婦があの妖怪に食べられてしまう気がした。
 
 足音はミスティアの店の前で止まり、のれんを人間がくぐった。提灯に照らされた姿は、まぎれもなく常連の老夫婦だった。和やかな笑みを浮かべ、長椅子に腰かけた。それから、うつむいているミスティアに言った。
 
――美味しい鰻重を、二つ、たのんます。
 
 ミスティアは、顔を上げなかった。
 今日は帰ったほうがいいよ、私、今日は調子が悪くておいしいのがつくれないんだ、ご飯がうまく炊けなかったんだ――言い訳なら、いくらでもあった。昨日、ここで鰻重を食べた人間が、妖怪に殺されたんだよ。そう言いたかった。
 だが、ミスティアは言えなかった。ミスティアは鰻屋で――妖怪だ。
 
 しばらく沈黙がつづいた。それから静かに、男が切り出した。
 
――あっしはさあ、昔っからここの鰻重が好きなんだ。小さい頃からよお、ここに来るのを楽しみにしてるんでさあ。
 
 老婦人がつづけた。
 
――もう私たちは歳だよ。だけどさ、ここの鰻重を食べるのが生きがいでねえ、だから今日も来たんだよ。
 
 ミスティアは顔を上げた。老夫婦は提灯の明かりに照らされて、輝いているように見えた。ミスティアは、微笑んだ。
 
――うん、ごめんなさい、おじいちゃん、おばあちゃん。いますぐつくるよ。
 
 鰻を桶から取り出し、ミスティアは覚悟を決めて、腹に包丁を突き刺した。
 私は鰻重をつくる。たとえこの老夫婦があの妖怪に食べられるようなことになっても、つくる。
 鰻をきれいにさばいて、竹串に突き刺し、火にかけてあぶった。
 
 それが私の生きがいなんだ。
 
 それからミスティアはとっくりに酒を入れて、それをお湯につけた。酒の匂いと鰻のあぶられる匂いとが交ざって、独特の香りになった。
 老夫婦は目を細めて、ミスティアが鰻重をつくっていくさまを眺めていた。
 
 できあがった鰻重を目の前にして、老夫婦はそろって手を合わせ、深く、深く頭を下げて、言った。
 
――いただきます。
 
 それから老夫婦たちは箸を取り、鰻重を食べはじめた。
 ミスティアは老夫婦に背を向け、星が思い思いに浮かぶ空をなんとなく眺めながら、ひとり、思う。
 
 昔、人間たちから聞いたことがある。「いただきます」と食事の前に言うのは、これから食べる命たちへの感謝なのだと。それらの命を、自分の命の糧にして、生きていくから、感謝しなければならない。それから、料理を作ったひとへの感謝でもある。
 でも、いまは――「いただきます」は感謝の言葉じゃない、と思う。
 雨が降る闇の中で人間を貪るあの妖怪の姿が、目に浮かぶ。あの妖怪だって、人間の身体を食べる前に「いただきます」と言っているに違いない。
 
 食べられる側の命は、なにを思うのだろう。
 
 詫び――「いただきます」は侘びの言葉なんじゃないか。自分を生かしてくれる命への、精一杯の詫び。
 食べられる命は感謝なんかじゃ、救われない。感謝は食べる側の傲慢にすぎない。だから救われないと知っていても、それでも食べるひとは詫びるしかないんじゃないか。自分をつなぎとめるために、ほんとうに悪いことをした――と。
 それはこの老夫婦にしても、あの妖怪にしても、私にしても――同じなのだろう。
 
 ミスティアは、深い、深いため息をついた。
 
 
 
――ごちそうさま。
 
 老夫婦は箸を置き、深く頭を下げた。
 
――とても美味しかったねえ。
 
 老婦人は満面の笑みを浮かべる。夫のほうも首を縦に振り、席を立った。
 
――また来てください。
 
 ミスティアは、老人たちに言う。老人たちは声を出して笑い、また来るよ、と言って店ののれんをくぐった。
 老人たちの後ろ姿が見えなくなったところで、ミスティアは店を離れた。
 
 霊夢がいるという淡い希望を抱きながら、二人のあとを、遠くからこっそりつけた。
 
 
 
 
 

 
 どこかにあの妖怪がいることを、ミスティアは知っている。
 
 老夫婦は提灯を持っていなかった。満月の光の中で、それを体全体で感じるかのように、楽しそうに二人は歩きつづけた。雨が降ったあとで湿っている地面は、月光の中で涼しげに光を返す。空全体が青みがかっているようだった。
 楽しそうに歩く老夫婦の後ろを、ミスティアは静かに尾けている。木々の間から、音をたてないように、なるべく離れて、それでも決して老夫婦を見失わないほどの距離の中から様子を見守る。
 満月の光がミスティアの中にある血を少しずつ高ぶらせていく。感覚が研ぎ澄まされていく。それでもミスティアの心は暗欝だった。心臓がミスティアの身体の中から吸い込んで、いつかミスティア自身がその心臓の中に吸い込まれてしまう気がした。体が溶けそうだった。
 
 楽しそうに歩く老夫婦に一瞬、影が差した。それから老夫婦は数歩歩いて、音もなく倒れた。
 ミスティアにはすべて見えた。一瞬の間に、あの妖怪が老夫婦の横を横切り、そのときに首の血管を切り裂いてそのまま姿を消した、その動作の一つ一つが、はっきりと。
 倒れた老夫婦の首筋から血が噴き出して地面に流れていく。どす黒い血が地面に染み込んでいく。そのうちに首の周りに血の水たまりができて、少しずつそれが大きくなっていく。そのうちに、老夫婦から血が流れ出なくなった。血の水たまりは月の光を反射して、鈍く鈍く光った。
 
 妖怪が木の陰から歩いて出てきて、倒れた二人の前に立った。青白い月光の中で、彼は無表情だった。そこにはためらいも、不安も、狂気もなかった。それから妖怪は膝を曲げてかがんで、鋭い爪を老婦人だった方の身体の胸に突き刺した。そこから静かに心臓を取り出して、月の浮かぶ空に掲げた。
 心臓はまだ動いていた。月明かりの中に赤い血を滴らせ、わずかに震えながら鼓動をつづける心臓――写し絵のように儚く、幻想的だとミスティアは思った。
 
 妖怪は涙を流した。目から流れる一筋の涙が煌めいた。それから、妖怪は静かに声を響かせた。
 
――いただきます。
 
 妖怪は心臓に食らいつき、貪った。血が彼の口からあふれだす。その動作から音は響かない。
 月明かりに照らされた血の池に浮かぶ人間、その上で涙を流しながら心臓を貪る妖怪。ミスティアは遠くからそれを食い入るように見つめたまま、動けなかった。恐ろしいほど静かで、儚い、その光景の美しさに目を奪われてしまって。
 これが――生きることなのか――。
 
 彼はもうひとつの身体からも心臓を取り出し、それから爪をさらに剥きだしにした。ミスティアには、彼が体を引き裂いて、切り分けようとしているように見えた。そのときになって、体が動くようになって、木の陰から飛び出そうとした。
 だがミスティアが飛び出す前に、妖怪の眼前に影が降り立った。紅白の巫女服――霊夢だった。
 
――あんただったのね。やけに鋭い妖気がするから、おかしいと思ったわ。
 
 霊夢は目の前の現実に顔を歪ませながら、妖怪をにらんだ。暢気な巫女はそこにはいない――妖怪退治の霊夢だった。声は落ち着いていたが、彼女の目からの鋭い殺気がミスティアにも感じられた。
 
――まったく、手を焼かせてくれたわ。また犠牲が出たんだからね。
 
 妖怪が霊夢に目を向けた。涙は止まっていた。それから、手に持っていた心臓を丸ごと口に入れ、それを呑み込んで目を光らせた。ミスティアはそれを見て、感じた。――あれは、生の光だ。
 
 妖怪が霊夢に襲いかかった。恐ろしく速い動きだった。だが、その爪が霊夢の頬をかすめたとき、無数の針が妖怪の身体を貫いて、妖怪は後ろに吹き飛ばされた。彼は二つの死体の前に仰向けに落ちた。血の池に妖怪の頭が浸かった。
 霊夢の針には退魔の力が備わっていた。痛みに悶えていた妖怪の身体から力が抜けていき、妖怪は動けなくなった。体に針が突き刺さったまま、彼は月を仰いだ。上から霊夢が妖怪を見下ろす。ミスティアからは、霊夢が陰になって妖怪の顔が見えなくなった。
 
 霊夢が静かに、しかし重々しく、訊いた。
 
――なにか言いたいことは?
 
 妖怪の顔は見えない。彼が笑っているのかも、泣いているのかも、苦しんでいるのかも、わからない。妖怪は息が交じった声で、言った。
 
――君は僕を殺すんだろう?
 
 霊夢はため息をついた。その目から力が抜けて、いつの間にか殺気が消えていった。だが、そこには憐れみも同情もなかった。
 
――そう、殺すの。
 
 そういって、巫女は一本針を袖から取り出した。
 
――あんたなんかに興味ないわ。死んで。
 
 言い終わるやいなや、その針が妖怪の急所に投げられ、それは深々と妖怪の身体に突き刺さった。妖怪は一度だけ体を大きく跳ねさせ、それから力がすべて抜けたように、体が地面に落ちた。
 霊夢はまたため息をついて、つぶやいた。その声はミスティアにも聞こえた。
 
――さて、妖怪は退治したことだし、報酬を貰わないと。それにしても、後味のよくない依頼だったわ。片づけるのはあとにしておきましょう。人里で二人を弔ってくれるなら、いま私が手を出すべきじゃないと思うし。
 
 それから、霊夢は妖怪にも老夫婦の死体にも背を向けて、月を見上げて、言った。
 
――それから……この妖怪の始末も、「誰か」がしてくれるでしょう。まあ、誰かは、わからないけれど、ね。
 
 そう言って霊夢は飛び上がり、人里の方に飛び去っていった。
 
 
 青白い光の中に、赤黒い血の湖。そこに浮かんでいる三つの身体。音もなく、血の匂いすらなく。ミスティアはしばらくその光景を見つめていた。
 妖怪は動かない。わずかにでも生きている雰囲気もない。そして、人間たちも、もう死んでいるのだろう。
 妖怪に背を向けて、ミスティアは歩きだした。木々の中にある闇の中へ向かっていく。長い長い闇を抜けたら、必ずそこには自分の鰻屋があるはずだ。決して迷わずにそこにたどりつける。
 
 彼女は歩きながら、考えた。妖怪の願いは叶ったのだろうか。彼は自分の存在を誰かの中に刻み込むことができたのだろうか。こうやって、人間を襲って殺して、そして殺されて――それでも妖怪は願いを叶えたかったに違いない。
 でも、とミスティアは思う。彼の願いは叶っていないのだろう。霊夢はどうでもいい、と確かに言った。あなたなんかに興味はない、と言い放った。彼女が彼を殺すことにためらいはなかった。
 きっと昨日や今日の出来事が人間の里の歴史に刻まれることも、ないだろう。時代遅れの妖怪が、人間を襲っていた。たったそれだけで、話は終わってしまう。
 
 闇の中を歩きながら、ミスティアは妖怪が人間を喰う様子を、もう一度頭の中で描いた。
 倒れた人間の前でかがんで、鋭い爪をその胸に突き刺し、心臓を取り出す。血を滴らせながら、鼓動する心臓を月明かりの中に掲げる。それから、涙を静かに流して、「いただきます」と言って、それを食べる――。
 
 彼の願いは叶ってない? いや、もしかしたら――。ミスティアは立ち止まった。
 彼は、もしかしたら、殺されたがっていたのかもしれない。人間を襲うのを止めてほしかったのかもしれない。
 自分をつなぎとめるためには人間を襲うしかない。けれど、それは本当に望んだことじゃない。それでも自分の生を自分で奪うことができなくて、自分がほんとうに消えてしまう前に、殺されることを――。
 
 おかしな話だ、とミスティアは思う。矛盾だらけだ。だが、その考えを否定してしまうことは、ミスティアにはできなかった。彼の行為は間違っていたのかもしれない。けれど、彼の苦しみは――決して間違っていなかった――。
 どちらなのだろう。彼は自分を残すため人間を殺していたのか、それとも殺すことは望みではなくて、ほんとうはそれを止めてほしかったのか。
 
 ミスティアは、自分のはるか後ろで息絶えているはずの、妖怪の顔が気になってきた。
 彼は、絶望しているのだろうか――それとも、笑っているのだろうか。
 
 ミスティアは彼の倒れた場所に向かって、踵を返した。

 
 


 
 お粗末さま。
 

初出:2009年6月28日