夜伽話 ※18歳未満はご遠慮ください
 


 
 蓮子は薄暗いノルウェーの森を歩いていた。

 ◆

 突然、張り詰めた細い糸が音を立てて切れてしまったのだ。すべてがどうでもよくなってしまった。喧嘩をして別れてしまった「彼女」のことも、「彼」の家に居候していることも、そして蓮子を捕まえようとした「彼女」を深く傷つけたことも。
 細い糸にすがりついていた、弱々しい生きる意志のようなものは、そのまま一線を越えて落ちてしまった。

 「彼」のいない部屋の中で、蓮子はゆっくり目を開いた。
 そこにある淀んだ空気さえどこか遠くにある。息を吸っても吐いても、呼吸音にノイズがかかっている。胸の痛みと下半身のだるさまでが、自分の感覚から切り離されていた。
 蓮子は体を起こして皺だらけのワイシャツを身につけた。ベッドの横に落ちていたスカートを履いた。そのまま音もなく鍵を閉めないで彼の部屋から出ていった。
 気づけば自分の家に帰っていて、お金とわずかな着替えを、擦れたボストンバッグに詰めていた。自分に何の考えがあるのか、その思考は回路に入る前に切れる。また気づけば飛行機の搭乗口にいた。チケットにはイギリスを経由してノルウェーに向かう旨が記載されていた。

 記憶と思考が戻ったのはノルウェーのオスロ空港に到着して、空港のドアをくぐった時だった。乾ききった冬の空気が頬を擦って傷をつける。空を見上げると薄い雲は高くて白かった。
 とんでもないところに来てしまった。そこで初めて感情らしい感情が戻ってきた。モッズコートの下にあと三枚くらい着こまないと、歩くことさえままらない気さえする、どこへ行くにしても。
 道に停まっていた退屈そうなタクシーを捕まえて移動することにした。運転手にノルウェー語で行き先を尋ねられたようだったが、「森へ」と英語で簡潔に言った。

「A forest?」

 運転手は蓮子を振り返った。丸く、皺が寄った顔に戸惑いと微かに憤慨の色が浮かんでいた。それを敏感に嗅ぎとって、蓮子は静かに言い直した。

「Somewhere, NEAR to the forest.」

 しばらく彼は蓮子の顔を見ていたが、やがて前に向き直ってシートに落ち着いた。そして彼は蓮子が聞いたことのない町の名前を告げる。蓮子がそこでいいと返すと、彼は左手で乱暴にギアを入れた。

 降ろされた町はひどく静かで慎ましやかだった。痩けた白色の壁と疲れた褐色の屋根で作られているような町並みだった。町のすぐ背後に森があったが、人の匂いがしそうだった。寒風に流れる蓮子の栗色の髪は位相がずれていて、隣を通り過ぎた女性の長い髪とは明らかに違った。
 小さな息をついて、アスファルトの道を歩き出した。じっとそのねずみ色を見つめながら。

 道はやがて舗装の届かない色になり、明るい褐色になり、そして深い色へとまた戻っていった。顔を上げると枯れ始めている森の入口が見えた。京都の山から彩りを奪ったような配色が胸の内と共鳴した。埃の匂いがする。
 蓮子はボストンバッグを脇に放り投げて、森へ踏み入った。

 ◆

 陽は沈んだはずなのに、森は薄暗い。それに奥に踏み入るほど、森は色を吹き返していった。埃の匂いではなく、土と葉の匂いがした。髪と頬を撫でる空気には妙な潤いがある。
 消えたいと思っていたのに、少しずつ自分からその気力を奪っていくようだ、と蓮子は思う。地面を踏みしめて感じる草の感触は柔らかい。

 人がいる気配はどこにもなかった。虫を見かけることもない。自分がただ一人森の中にいることを蓮子は知った。後ろを振り返っても前を見ても、同じ景色が連続して三百六十度を囲っていて、空を見上げても雲のせいで月と星は見えなかった。一向に見える気もしなかった。

 海のようだ、と蓮子はわけもなく思った。ここは誰も入り込むことのできない深海、生きている魚には深すぎる。唯一、死んでいるはずの生きものだけが音もなく呼吸をする。シーラカンス。
 自分以外の誰も息づくことを許されない森の中に、自分は沈んでいる。もう浮かび上がることはできない。あとは歩き続けて疲れ果て、木に寄りかかって朽ちていくだけだ。自分はシーラカンス。どこにも行くことができないまま、もう誰とも触れ合うことができないまま……死んでいく。

 そして、暗い想像通りに蓮子の脚が歩くことを拒絶するようになった。崩れるようにして地面に手をつき、細い木の幹に背中を預ける。ノルウェーの森が優しく蓮子から体温を奪っていく。木から、空気から、地面から気付かれないように静かに。

 静かに目を閉じる。限りなく死に近い場所に来ても、以前のことを思い出せなかった。記憶にある事柄は全部モノクロームの写真のようだった。今、彼女にとって意味があるのは世界から断絶されたまま消えることだけだった。

 両手の指を絡めて胸の前に置いた。音が意識から消失しはじめた――。

 ――。

 意識が微かに灯ったとき、蓮子は自分が揺りかごに揺られているように感じた。闇の向こうから声がする。ひとつはよく通るしっかりしたもので、もうひとつは柔らかく甘い。空虚な森に転がっていたはずなのにおかしいな、と蓮子は思った。二人の話していることを聞きとろうとしたが、うまく聞き分けられないまま、再び意識は闇の奥深くへと落ちていった。

 
「Awaken?」

 再び目が覚めると、明るいブラウンが目に入ってきた。空はこんな色だったかと少しばかり不思議に思ったが、ゆっくり体を起こして自分の思い違いだったと知った。とても暖かいベッドの中に自分はいたのだ。

「Good evening, Lady?」

 隣から柔らかく声が流れてきて、ぼんやりと顔を向けた。一人の若い女性が木の椅子に腰掛けてペーパーバックを手にしていた。

「どこ、ここ」

 まず日本語が飛び出した。

「Are you hungry? Want some soup?」
「あ……」

 女性が首を傾げたところでようやく相手が英語でしゃべっていることに気づいた。

「Uh….Thank you. But, I do not want anything now.」
「Don’t say that. A good meal makes people live strong.」

 彼女の申し出を断ったつもりだったが、彼女はにこやかに笑って立ち上がり、ベッドルームから出ていってしまった。何か食事を用意するつもりなのだろう。先に色々事情を聞きたかったが、仕方がない。

 改めてまわりを見渡した。蓮子がいるのはもう空虚な森ではなかった。ベッドルーム。高い天井から吊るされた白熱球を淡い橙のガラスが包んで、部屋全体が暖かく彩色されていた。木目調の壁、明るい床の色。清潔で暖かく、ふかふかのベッド。大きな枕。
 最後の記憶とあまりにもかけ離れた場所に映ったことが不思議で仕方なかった。ここが死後の世界なのかとさえ思ってしまった。袖の違和感を感じて自分の胸元を見下ろすと、薄い水色のパジャマを着ていた。
 仮に死んでいないとしたら、誰かが自分をこの家に連れてきたのだろう。森の中で死のうとしていたのを拾って。外を見ようとしたが、窓には分厚いブラウンのカーテンがかかっていた。

 ベッドから這い出ようとしたところで、部屋のドアが開いて女性が戻ってきた。手にしている木のプレートに食事が載っていた。

「It’s time for supper.」

 そう言って彼女は足で椅子を蓮子のベッドのすぐ脇まで引き寄せ、ゆっくり腰を下ろした。

「Um…」

 スプーンで蓮子の口元までスープを運ぼうとした彼女に、蓮子は英語で尋ねた。

「Did you take me here?(私をここまで連れてきてくれたの?)」
「Yes.(そうよ)」

 彼女は滑らかに言いながら、蓮子の口元にスプーンを持っていった。大きな木のスプーンだった。少しためらってから蓮子はそれを口にした。コーンとミルクが融け合って甘かった。

「あなたを森で見つけたときは驚いたわ。あんなところで荷物も何もなくて、倒れているんですもの」

 また蓮子の口にスープを運んだ。今度は蓮子もすんなりと受け入れた。

「でもこうやって目を覚ましてくれて、ほっとした」
「心配させてごめんなさい、でも私――」
「今はいいわ。とりあえずこのスープを味わってちょうだい」

 彼女がそう言って首を傾げると明るいブラウンの髪が音もなく波打つ。その仕草と綺麗な顔立ちを見ているだけで、蓮子は何も言えなくなってしまう。ランプに煌めく彼女の翠の瞳は深い。
 蓮子がスープを半分ほど飲むと、彼女はほんのり焦げたバゲットを小さくちぎって、蓮子の口元に持っていった。彼女の指からそのまま口にする。パンと彼女の指の感触。スープとパンが交互に来て、パンと一緒に来る彼女の指が印象的だった。

「最後はホットミルク。ゆっくり飲んで」

 彼女は二つのマグの片方を蓮子に、もう片方を自分の胸元へ持っていった。蓮子がカップを両手で持つまで彼女は待っていてくれた。カップを手にして、彼女に言われたとおりゆっくりと舌から喉へとホットミルクを流しこむ。ハチミツの甘さがかすかにとろみを加えていた。

「どう?」
「美味しい、とても」
「そう、喜んでもらえたならよかったわ」

 余計な息を漏らさずに彼女は笑った。

「リリアン」

 臙脂色のタートルネックがはずんだ。

「リリアン・オース。私の名前よ。リリーって呼んでもいいわ」

 蓮子は自分の体が急に固くなったのを感じた。けれど、彼女を上から下まで眺めて、小さく息をついた。記憶の底に眠る「彼女」と名前だけが似通っているのは、偶然に違いない。

「蓮子……蓮子・宇佐見」
「れんこ。素敵な響きね」
「そう言ってくれたのはあなたが初めてよ」

 蓮子は自分の中の記憶がまた静かに冷たい眠りについたのを感じた。「彼女」はそういうことを一度も言ったことがなかった。目の前の彼女は違う、女神のような微笑みで心の底からそう言ってくれる。

「そうなの? 私は好きよ、あなたの名前」
「ありがとう、リリアン」
「あら、その呼び方なの……まあ、いいかしら」

 目を細めて笑う彼女を見ていると、徐々に心臓から色が滲みでてくるようだった。指先まで、ホットミルクが行き渡っていく。そして、不意に心地のよい眠気が蓮子を襲った。

「また眠るといいわ」

 リリアンは蓮子の手からマグをとり、トレイに載せた。そして、彼女は椅子から体を起こし、静かに蓮子の両肩に手を置いた。

「いい夢を見るのよ(Sweet dream.)」

 そのまま蓮子は優しくベッドに横にされた。息がかかるほど近いリリアンの顔を本当に綺麗だと思った。見る者を魅了してやまない、口づけさえしてしまいたくなる。けれど、その衝動は潮のように満ちる眠気に流されていった。

 三度、蓮子は眠りにつく。今度は夢を見た。

 ◆

 メリー。マエリベリー・ハーン。それが「彼女」の名前。

 きっかけは些細な言い争いだった。けれど、小さなすれ違いで蓮子は二度と彼女と巡り会うことはできないと思ってしまった。そしてその予感は現実になった。口喧嘩はメリーの平手打ちで終わった。涙を目に溜める蓮子を置いてメリーは去っていってしまった。
 その日の夜、蓮子は好きでもない缶ビールを五本、立て続けに呑む。その翌日、裸で自慰をする。けれど、その行為は胸に空いた生々しいえぐり傷を塞ぐことはできなかった。
 もう、永遠にメリーと気持ちが通じ合うことはない。涙と吐瀉物と血と愛液の中で蓮子は噛み締める。見えない境界の向こう側へ行ってしまった。空間のねじれのように、心はねじれてしまった。

 それから一週間ほど、蓮子の時間は止まったままだった。彼女を無理やり動かしたのが、眩暈がするほどの空腹。それをきっかけに「彼」と出会った。癒されるわけでもなく、彼に求められるまま蓮子は初めてのセックスをする。彼の家に居候する。
 二ヶ月、蓮子は何をするでもなく、ただ生きていた。学校にも行かず、彼の家からも滅多に出なかった。自分のことを哀れだと思う意志はとっくに失われていた。
 けれど蓮子の前にメリーが現れた。あまりにも唐突に。そして、蓮子のことを探していたという。彼女が目の前に現れただけで、蓮子はまた自分の傷が大きく開いて、痛々しい血を流すのを感じた。「会いたくもなかったのに」
 だからメリーを傷つけた。考えうるかぎり、最も酷い方法で。薄暗い裏通りで、まだセックスの経験さえない彼女を犯したのだ。唇を切り、涙と愛液でぐちゃぐちゃにして。純真なメリーを傷つけることがたまらなくつらい。けれど、大粒の涙をこぼしてなお性的な興奮を覚えるメリーを、蓮子は愛しく思う。「さようなら、メリー」

 その果てに自分が手に入れられるものは何もなかった。生きることを突き放してしまった。ただただ消えてしまいたい。その願いが少しずつ蓮子の世界から色を奪っていった――。

 ◆

「メリー」

 目を開けるとまた明るいブラウンが見えた。天井とそれから誰かの顔。

「起きた?」

 リリアンだった。けれど彼女の輪郭はぼやけていて、どんな表情をしているのかわからない。

「私……ここ――」
「あなたは傷ついてきたのね、何度も何度も」

 リリアンが蓮子の頬に手を添えて、親指で目元をなぞった。蓮子はそこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。

「泣いてたの、私?」
「とても悲しそうな顔をしていたわ」
「もう、泣くことなんてないって、思ってたのにな……」

 そう言うと、唐突に目から涙が溢れ出して零れていった。嗚咽が止まらなくなり、蓮子はシーツを固く握りしめて顔を隠した。

「情けないよ、私……結局こんなとこまで来て、死ぬことだってできなかったもの……消えたかったのに、怖かった……」

 口から落ちた言葉をリリアンは理解していないようだった。無意識の内に日本語になっていたからだ。

「メリー……メリー……!」

 そうして呼ぶ名前はいつも同じだった。こんなに情けない姿を人に見られたくはなかった。それでもどうしても涙を止めることはできない。どうしようもない自分、人に見られて強がることさえできない自分。薄肌一枚と薄い着物を通った現実はあまりにも哀しくて、泣き崩れて許しを乞うことさえ許されていない。それでも、蓮子は泣き続けようとした。
 そこで不意に、自分の体が柔らかいものに包まれる感覚がした。涙をシーツで拭って、蓮子は顔を上げた。リリアンが蓮子を優しく抱きしめていた。彼女の右の腕は蓮子の頭を、左は背中をさすり、蓮子の頭を自分の胸元に引き寄せていた。
 彼女の鼓動が蓮子の頬に感じられた。赤ん坊のように瑞々しく、母親のように大きい。それで少しの間止まっていた蓮子の涙は再び溢れ出した。蓮子もリリアンの体に腕をまわし、抱きしめた。リリアンはそれに応えるように背中をさすった。
 蓮子は言葉にならない声を漏らし続ける。リリアンの優しさに溺れてしまうように、彼女の腕に絡めとられてしまうように。リリアンはただ蓮子を抱きしめていた。

「Sweet girl.(いい子、いい子)」

 泉のように涙が湧いてくる。枯れていた感情の荒野ににその雨が降り、草の一つ一つが潤いを取り戻していく。そして蓮子の涙が止まる頃には、そこは緑を目一杯広げた草原になっていた。

 翌朝、蓮子はパジャマのままベッドから静かに降りて、ベッドルームのドアを開けた。短い廊下を通って、またドアを開くとそこはリビングだった。左手にレンガ造りの大きな暖炉があった。

「おはよう」

 リビングの向こうから声がする。目を向けるとリリアンがカウンターテーブルの向こうで料理を作っているようだった。肉の焼ける香ばしい匂いがかすかに鼻をくすぐる。

「ちょうどごはんができるところだから、一緒に食べましょう。今、ガスでお風呂を沸かしてるから、ごはんのあとに入るといいわ」
「リリアン」

 蓮子はリビングのドアの前に立ったまま、呼びかけた。

「昨日のことはごめんなさい。それからありがとう」
「いいえ、気にしないで」

 リリアンはコンロを静かに止めて蓮子を見つめた。翠の瞳が蓮子の心を氷解させていく。そうだ、私はこの瞳に抱かれた、と蓮子は思い出した。あんなに泣いてしまえたのも、焼けた肉の匂いから自分が空腹を覚えられるのも、あの瞳のおかげ。

 二人はカウンターテーブルに並んで座り、ソーセージとマーマレードを綺麗に塗りつけたトーストを食べた。それからハチミツ入りのホットミルク。胃に落ちたそれらを自分の体が燃焼させていく感覚がした。

「すごく美味しかった」
「そう言ってもらえて嬉しいわ」
「“いい食事は人を強くする(A good meal makes people strong.)”。あなたの言葉、本当なのね」
「覚えててくれて嬉しい」

 リリアンが顔の前で両手を合わせて息を弾ませる。そういう彼女の素直な言葉と表情に少し気恥ずかしくなり、蓮子は口元を手で隠した。

「でもね、ちょっと違うわ。“いい食事で人は強く生きられる(A good meal makes people live strong.)”。大事なのは最後から二つ目の単語なの」
「生きること」
「そう、生きること」

 お代わりのホットコーヒーを飲んで、リリアンは小さく息を吐いた。

「あなたは生きたいと思う?」

 蓮子は一瞬言葉を失ったが、リリアンの顔を見て安堵を覚えた。彼女は決して真剣な眼差しで蓮子を見つめているわけではなかった。いたずらっぽい微笑み。
 彼女は蓮子の手をとって立ち上がった。淡い水色のワイシャツから白い手が伸びていた。

「お風呂、入る?」
「まさか、一緒に?」
「さすがにそういうことはないわよ」
「そう。でも、その前にお皿を片付けなくちゃ」

 蓮子は腕を引いて彼女の手から自分の手を離した。滑らかな肌と肌が触れ合う感触が心地よく、もう一度手を触れたいと思ってしまう自分がそこにいた。スープの器をトーストの皿に乗せて、マグをスープの器に入れる。陶器同士がかちゃかちゃと乾いた音を立てた。
 リリアンも蓮子と同じように重ねる。ただ、彼女は一つひとつの動作が丁寧だった。重ねられた食器はそれだけでひとつの西洋芸術になった。蓮子が彼女の手元をじっと見つめていると、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。

 バスルームの引き戸を開けると、蓮子は思わず小さく息を呑んでしまった。白い陶器のトイレの向こうに、大理石が散りばめられた石造りの大きいバスタブがあった。棚には白いタオルと着替えが丁寧にたたまれて置いてあった。蓮子はパジャマをいそいそと脱ぎ、下着を外した。水色のショーツを棚に投げおいておずおずとバスタブに近づいた。
 柔らかい湯気の立ち上るお湯をじっと見つめていると、後ろからリリアンの声がする。

「あなたは日本人なんでしょう?」

 振り向くと、開けっ放しの引き戸に寄りかかるようにしてリリアンが立っていた。裸を見られている事実に気づいて、蓮子は胸と下半身を小さなタオルで隠した。頬に小さな火が灯る。リリアンはそれを見て愉快そうに頬を緩ませる。

「あなたをパジャマに着替えさせるときに裸を見たのよ。今さら気にすることはないわ」
「でも、恥ずかしい……」

 言ってから、蓮子は自分にその感情があることに驚いた。リリアンは小さくうなずいて引き戸を閉めた。

「バスタブに泡がいっぱいになるのは嫌い? 日本人は不思議なお風呂の入り方をするって聞いたことあるわ」

 ドアの向こうから靄がかった声がする。

「できたら、お湯だけのお風呂に入りたいの」
「そうしたら、そこの床の上で体を洗ってもいいのよ。床が水浸しになるのは気にしないで。トイレはまた別のところにあるし、この部屋には乾燥機があるからすぐに乾くわ」
「ありがとう」

 リリアンは磨硝子の向こうで手を振って姿を消した。
 蓮子はバスタブに向き直って、そっと足の指の先を湯に浸けた。少しぬるめで何の抵抗もなく全身を浸けることができた。全身をつけて深呼吸をすると、ハーブの香りがする。どこに置いてあるのかと見回すと、蓮子の真上、張り出した窓際に飾ってあった。
 今度はゆっくりと鼻から息を吸う。ハーブの香りは癒しの香り――リリアンの声が聞こえてくるようだった。

「いい湯だったわ」
「あら、日本ではお風呂にも感謝をするの?」
「お風呂の文化は他の国とは比較にならないのよ」

 リビングに戻ると、リリアンは暖炉の前のソファでペーパーバックを読んでいるところだった。蓮子が彼女の隣に腰掛けると、本を閉じて蓮子に向き合う。

「似合ってるわ、その服」

 蓮子はくすぐったそうに首を縮めた。赤い羊毛のセーターは蓮子の体に驚くほどぴったりだったのだ。黒いチノパンも水色の靴下も。色彩のセンスは蓮子も口を濁したが、リリアンには感謝の言葉を述べるしかなかった。リリアンは蓮子の肩から腰のラインをなぞって満足気に微笑んだ。

「とても可愛い」

 彼女の言葉が蓮子の胸をそっと撫でる。かすかに色づいた吐息が蓮子の口から漏れた。けれどリリアンは蓮子の体から手を離し、ソファの背もたれに寄りかかった。

「ねえ、本当にあなたは日本から来たの?」

 あらためて訊かれると、少しだけ言葉に迷ってしまう。蓮子は簡潔に答えた。

「ええ、日本の京都から」
「京都、私も聞いたことあるわ。富士山が近いんでしょう?」
「ううん、富士山は京都から結構遠くて、静岡っていう場所の方が近いの」
「あら、そうなの」
「テレビで見たことないの?」

 蓮子の質問にリリアンは首を横に振った。そこで蓮子もこの家にテレビがないことに初めて気づいた。テレビどころかラジオもない。電話機でさえ見つからなかった。

「きっと不思議に思っているのでしょうね。でも事実なの。私は生まれてからテレビを一度も見たことがないわ」
「一度も? 街に行けば一台くらいは置いてあるんじゃないの」
「街に行ったことがないわ」
「なんですって?」
「私はこの家から離れることができないのよ。外に行くことはできるけれど、二百メートルくらい行くのが限界なの」
「それじゃあ、どうやって暮らして――」

 開きかけた蓮子の口にリリアンの指が押し当てられた。

「秘密。とても大事な秘密」

 翠の瞳がわずかに影を帯びたような気がして、蓮子は呼吸を止めて小さく頷いた。リリアンは微笑んで首を傾げた。

「あなたが心に鍵をかけるように、私にも鍵がある。そして、それはとても大切なことなの」

 彼女の言葉が蓮子の頭に沈殿していく。鍵。秘めたるものを守るもの。鍵をかけた人以外には中を知ることができないもの。リリアンが急にそんな比喩を持ち出してきたことに、理由が香った。
 今はその答えを聞くことはできない。蓮子はリリアンの雪のような白い手に触れて言った。

「それじゃあ、別のことをひとつ聞かせて」

 リリアンは黙って頷いた。

「ここはどこなの? ノルウェーの、私も聞いたことがないような町の近くの、森の中?」

 この家の窓から見える風景はすべて緑だった。暖かくて柔らかいこの家の印象とは対照的に、ひんやりとしている森がずっと広がっている。目覚めてから、蓮子はそのことをずっと思ってきた。
 リリアンはその質問に肯定で答える。

「近くといってもかなり距離があるわ。町まで行こうとすると一時間は軽くかかるくらい」
「この近くに人は住んでいるの?」
「いいえ、私だけよ」

 それきり蓮子は言葉を失ってしまった。リリアンが再び手を伸ばして、蓮子の首筋に手を添えた。蓮子が小さく体を震わせると、また胸を撫でるような声で彼女は尋ねた。

「あなたが聞きたいのは、本当は違うことなんでしょう?」

 蓮子は静かに瞳をそらした。言葉が喉まで出かかっているのに、口にすることがかすかに怖かった。
 不意に唇に柔らかいものが当たった。自分の視界をリリアンの整った顔が埋めていた。やがて、はあ、と艶めいた息を漏らしてリリアンは蓮子から唇を離した。

「ここにいていいの、あなたがいたいと思うかぎり……いえ」

 再びリリアンが唇を重ねる。彼女の唇の感触が蓮子のそこに刻み込まれていく。彼女のそれは熱く、蓮子の胸の内を溶かしていく。漏れる彼女の吐息を呑み込んで、蓮子は自分の体が小さく震えているのに気づいた。

「私はあなたにいてほしいと思っているの」

 唇を離して彼女は吸い込まれるような瞳を蓮子に向ける。彼女の白い頬に朱が差していた。
 取り返しのつかないキス――蓮子は自分が帰れない場所に佇んでいると思った。けれど同時に、そのキスを求めてやまない自分がいるとも知った。

「蓮子」

 リリアンは静かに目を伏せて言った。

「キスして」

 頭は痺れ薬に漬かっているようだった。ピントがずれた視界の中、蓮子は手を伸ばしてリリアンの髪に触れる。彼女がくすぐったそうに肩をすくめた。顔を寄せると彼女の瞳の中に蓮子の姿が映し出される。呆けた表情を浮かべる自分を、ほんの少し、綺麗だと思ってしまった。ハーブの香りがした。
 上半身を突き出して頬と頬を触れ合わせる。それから蓮子は自分の唇を彼女に触れ合わせ、そのままわずかに首を右に動かす。唇同士が滑って快感が蓮子の首筋を這い上がり、耳の先までが痺れていく。

「Sweet.(甘いわ)」

 唇を離すとリリアンは目を潤ませながら囁いた。蓮子の体がぞくぞくと背筋から震える。リリアンは蓮子の上半身を支えながら、彼女をゆっくりとソファに横たえる。そうして上から覆いかぶさるようにまた唇を重ねた。

「Sweet.(可愛い)」

 毒を盛られたように胸が切ない。何度もリリアンに触れたいと思う。
 重なるキス、荒い吐息の中に声が混じり始める。耳を指でなぞられながら唇が触れると、耐えきれなくなった蓮子の体が跳ねる。リリアンの背中に手をまわしたが、行き場がないまま彷徨い続けた。
 そして、蓮子は唇を開き、隙間から舌を伸ばして彼女の唇の間に滑りこませようとした――。そこでリリアンが急に顔を離していたずらっぽく笑った。

「それは今はだめ」
「どうして……」

 彼女の体に腕を絡めたまま、蓮子は物欲しそうに尋ねてしまう。リリアンは蓮子の表情を写し取ったような表情をしてから、蓮子の唇を指でなぞった。

「時間がかかるわ。今はこれ以上を味わってはいけないの」
「リリアン、私は処女じゃない」

 蓮子は顔をリリアンに近づけたが、唇は軽くかわされてしまった。

「蓮子、いい子だから」

 リリアンはほっそりした手で蓮子の頭を撫でた。

「気持ちのいいことはじっくり時間をかけて味わいましょう?」
「でも――」
「鍵」

 何度目だろう。蓮子の口元にリリアンの指があてられ、蓮子は言いかけた言葉を飲み込んだ。

「大事なものには鍵をかける。そうして秘め事は輝きを得るの」

 晴れているからと、リリアンは昼食のあとに蓮子を散歩に誘った。彼女は蓮子にこげ茶のコートと赤いマフラーを着せ、自分は白いダッフルを着た。家に注意深く鍵をかけ、リリアンは蓮子の手をとった。蓮子は小さくうなずいて彼女の隣を歩く。
 森の空気は初めて蓮子が訪れたときより、少し暖かくなっているようだった。小さな太陽が天から淡い光を降り注ぐ。

「いつもお昼を過ぎるとこうやって散歩するの」

 リリアンは目をつむってあたりの匂いをゆっくりと味わった。蓮子も同じようにしたかったが、収まらない動悸が妨げになってしまう。
 数えきれないくらいのキスをして、また元のように微笑む彼女が不思議でたまらなかった。自分の胸の奥にはまだ劣情がくすぶっているのに。ショーツの奥で疼く感覚が悶々と蓮子を取り巻いた。
 ひょっとしたら彼女には性欲というものがないのかもしれない。ただ快楽だけを求めてしまう自分とは違う。あのキスの意味は自分の衝動とは違うところにある。だから彼女と手をつなぐのは自分にとっては何かの間違いではないかと思ってしまう。

「少し暖かいかしら、今日は」
「私がここに入ってきたときとは、ちょっと違う感じがする」
「そうね、あなたは夜にここで倒れていたものね」

 リリアンが二歩歩くと、蓮子は三歩歩いた。今はまだ揃わない歩幅。
 やがて彼女の家が小さく豆粒になるほどまでの場所に来て、突然リリアンは足を止めた。蓮子も手を繋いだまま彼女の横で立ち止まった。
 リリアンの視線は遥か遠くに向けられていた。

「私はここから先に行けないの。どうして、なんて訊かないでね。理不尽なことなんてこの世の中にはいくらでもあるから」
「訊かないわ」
「ありがとう」

 リリアンは目をつむってまた匂いを吸い込んだ。彼女が何を求めているのか、蓮子にはわからなかった。

「けれど、私があなたの手を引いてあなたを連れ出すことはできると思うの」
「蓮子、きっとあなたは頭がいいのね。そういうことを言ったのはあなたが初めてよ」
「行ってみる?」
「きっと、行くことはできるでしょうね。でも、そうしたら」

 リリアンは目をつむったまま、言葉を続けた。

「私はあの家に帰ることができなくなる。確信があるわ」
「どんな?」
「道に迷ってしまうの」

 蓮子は黙って空を見上げた。雲はひとつもないはずなのに、空はほとんど白かった。

「リリアン、私の言うことを信じる?」

 彼女は目を開いて蓮子を見た。そしてゆっくり頷いた。

「Evil eyes, I have.(気味悪い目を持っているのよ、私)」

 リリアンは静かに目を見開いた。

「月を見ると今いる位置がわかるの。星を見ると今の時間。そんな目を生まれつき持っているのよ。だから、私と一緒にいれば迷うことはない」
「それ、本当?」
「もちろん」

 蓮子の言葉でしばらく森は沈黙に包まれた。本当の沈黙。蓮子とリリアンの息遣い以外に聞こえるものはない。生きものの気配は相変わらずなかった。空気の流れもなかった。
 やがて、リリアンが口を開く。

「不思議な目を持っているのね、あなたは」

 深い沈黙の底から這い上がってきたような声だった。唇は軽く結ばれていたが、明らかに少し前よりも硬い表情になっていた。まずいことを言ってしまったか。蓮子はかすかに後悔した。
 けれど、少しすると彼女の表情は緩んだ。

「素敵よ」

 森は沈黙を保ったままだった。

 二日が過ぎた。

 ◆

 どこからも触れられない。どこにも行かない。そんな時間を蓮子は嫌っていたはずだった。元々活動的な彼女にとって、じっと何かを待っていたり静けさの中に潜むことは苦痛でさえあった。
 けれど、今の蓮子は時のせせらぎに揺蕩っていた。リリアンの言うとおり、自分にはその時間が必要だと知ったのだ。

 一日目、目覚めた日。結局二人は森からは出ず、家に帰ってしばしの午睡を楽しんだ。夕食はリリアンがシチューを作るといい、蓮子はそれを手伝った。そして二人は暖炉から少し離れたダイニングで向き合って食事をした。
 蓮子はまた風呂に入り、そのあと赤々と燃える暖炉の前に座って、火が揺らぐさまを眺めていた。火は自分の心の有り様を映す、とどこかの小説でも言われていた。だとしたら、今の自分の心はとても穏やかで滑らかなのだろうか。
 リリアンが風呂から上がり、しばらく二人で暖炉の前に並んで座っていた。黙ってホットミルクを飲みながら。そうしているだけでも蓮子は胸の内で固まっていたものがゆっくりと溶けていくのを感じた。
 リリアンと隣り合って座っている。たったそれだけの現実で、泣きそうになってしまう。その蓮子の頬をリリアンはゆっくりと撫で、撫でたところにそっとキスをした。
 二人は別の部屋で寝た。キスの余韻を感じながらも、静かな泉に浸かるように蓮子は眠りに落ちた。

 二日目も同じような時間が流れた。ただ、リリアンは蓮子にキスをしなかった。

 ◆

 三日目の夕食のことだった。

「夜になったら森に出てはいけないの」

 シチューを半分くらい食べたところでリリアンは不意に切り出した。家の暖かさとシチューのせいか、少し頬が上気していた。

「昼の姿とまったく違う姿を見せるわ。“怪物”なんて言いすぎだけど、あの森には得体のしれないものが潜んでいると、私は確信してる」
「夜の魔力っていうやつ?」
「そうね、昔から夜には魔が差すっていうから」

 蓮子は窓に目を向けた。けれど、あらゆる窓にはカーテンがかかっていて外の景色を窺うことはできなかった。暖炉から生まれる光でカーテンが揺らぐ。

「恐ろしく寒くて、闇一色」
「雪が降ることは?」
「ほんのたまに」

 リリアンはパンをちぎって、シチューにつけてからゆっくり口に運んだ。パンをそのまま口に運んでいた蓮子は、彼女の仕草に少し恥ずかしくなった。

「ねえ、私はこの家から離れられない。一昨日、あなたにそう言ったと思うの」
「憶えているわ。迷ってしまうから、って」
「一度だけね、離れたことがあるの、夜に」
「え」

 蓮子は手を止めてリリアンを見た。彼女はしばらく黙ってパンとシチューを口に運んだ。やがて皿が空になり、彼女はレモンティーを軽く啜ってから、続きを口にした。

「静かな森から出たらどんな世界があるのか、私も気になっていた時があったの。だからこの家を出て外へ向かった。外は本当に暗くて、どこを歩いているかわからないくらいだったわ。でも、家の明かりはきっと遠くから見えるだろうと思って、あまり気にしていなかった。真っ暗すぎて、振り向いたらすぐにわかるだろうって。
 最初のうちはね、森は静かなままだった。風も強く吹いていないし、自分の足音しか聞こえなかった。寒かったけれど、コートを着込んでいるから我慢はできた。なんだ、大したことない。そのままどんどん進んでいったわ。後ろを見ればやっぱり家の明かりが見えた。でもね、だんだん様子がおかしくなってくるの。
 最初に感じたのは音。森のざわめきだと思ってたけど、そうじゃなかった。先へ行くにつれて、ざわめきではなくて歪に混じり合った音の集合だってわかったの。棘と棘が混じり合ってできたような……そんな音。それから、寒さがどんどん体を侵食してきたわ。コートを着込んでいるのに、それを一枚一枚剥がされていくような感覚さえした。やがて目の前もおかしくなっていった。目の前には闇しかないはずなのに、色が見えてきたの。溶けるような赤、沈み込む青、毒々しい緑。
 大変な場所に来てしまった。そう感じたときにはもう遅かった。突然私のまわりに世界のすべてが集まって、私を取り囲んだ。それはもう『ありとあらゆるもの(Everything In The Life)』。体が散り散りばらばらになるほどの苦痛だったわ。
 そこで、私は願ったの……蓮子、シチューが冷めてしまうわ」

 リリアンに言われて蓮子の意識はテーブルに戻ってきた。リリアンの話にとらわれて深く入り込み過ぎていたのだ。慌ててシチューをかきこみ、紅茶で軽く口内をリフレッシュした。
 どこか他人事だとは思えない響きがリリアンの声にはあった。この家を出て森を抜けて、彼女の行く先はどこにあったのか。

「あらゆるものを前にして、願ったことはたった一つ。“全部、消えてしまえ(Back to nothing…all of them!)”」

 しばらく暖炉の薪が火の中で弾ける音しかしなかった。リリアンの翠の瞳が深海のように大きくうねっている。

「次の瞬間、私は自分の家のベッドで目覚めていたわ。全部夢だったのかもしれないと思ったけれど、暖炉の火が煌々としていてわかったの。ああ、これは夢じゃないんだって。火が燃えたまま寝ることはないし、消し忘れていたのだとしてもずっと燃え続けているなんてことないでしょう? そう、私が体験したできごとは本当だった。そして、どうやってかはわからないけれど私は家に戻ることができた。そして、私は――」

 そこで一度言葉が切れる。リリアンの目が蓮子の背後の、廊下の先に向けられていることに蓮子は気づいた。

「……ごめんなさい」

 彼女はダイニングテーブルから立ち、リビングを通りぬけ廊下へと向かった。蓮子は彼女の細い背中を目で追うと、彼女は玄関のドアの前に立ち、がちゃりと大きな音を立てた。すぐに踵を返して彼女はダイニングに戻ってきた。
 リリアンが椅子に腰を掛けると同時に蓮子は尋ねた。

「何をしてきたの?」
「ドアに鍵を掛けていなかったことに気づいたの」

 そう言って彼女はまた音もなく微笑む。けれど、その微笑みがわずかに均衡がとれていないものだということに蓮子は気づいた。気づいたが黙っていた。

「鍵」

 リリアンと初めてキスをしたとき聞いた言葉が、再び紡がれた。

「秘め事は鍵をして初めて輝きを得る……」
「なぜだと思う?」

 自分の唇を指でなぞりながらリリアンが蓮子に尋ねる。今までになかったタイプの質問だった。蓮子はしばし、自分の栗色の髪を人差し指で軽くいじりながら考えた。

 宝箱の中にある宝石。彼らは封じられることで輝きを得る。自分が宝箱を閉じ、それから数ヶ月、あるいは数年が経ってから開く様を思い浮かべる。質量保存の法則に従い、宝石の姿は変わらない。変わるとすれば開く人間の感情。大切にしてあった時間こそ、宝石が「輝いて見える」理由。それだけ。
 ただ、リリアンがそんなわかりきった答えを求めているようには、蓮子には思えなかった。それが蓮子を悩ませる原因だった。そして彼女がその答えを求めてさえいないだろう、ということも。
 リリアンは自分で問いを投げかけていながら、蓮子を見つめていない。その深い瞳は蓮子の背後だけを見ていた。

 彼女はとても丁寧で思慮深い。三日間の付き合いでしかないけれど自分のことをとても大切にしてくれた。それこそ壊れやすいものを扱うように。細い指は何度も蓮子の手を包み込み、唇は柔らかく蓮子のそれと触れ合う。自分の扱いが蔑ろになったのではない、と蓮子は思う。
 彼女にとって「鍵」というのはそういう次元とは違うところにあるのだ。さっき聞いた不思議な体験はきっとこの世界と鍵を繋ぐ、彼女の記憶の鎖なのだろう。だからこそ、彼女は鍵に対して異様な関心を持つ。

 注意深く、鍵をかける。

 それはとても素敵なことだと、蓮子は不意に思った。

「リリアン」

 ぼんやりしているリリアンに声をかける。

「……なに?」
「ぼんやりしてるけど、大丈夫?」
「え、そんなにぼんやりしていたかしら?」
「少し、ね。あなたの紅茶も冷めかけているわ」
「あ、あら、私としたことが」
「焦って飲まなくても私は大丈夫よ」
「でも、冷めちゃったら風味がなくなっちゃうもの」

 慌てたように彼女はカップを手にし、かすかに音を立てて紅茶を飲んだ。飲み終わると小さく息をついて苦笑いを浮かべる。蓮子も同じ笑みを写し取った。

「少しね、私も同じことを思っていたの、リリアン」
「同じこと?」
「“全部、消えてしまえ”……そう思っていたこともあった。傷ついて傷ついて、色々逃げようとしたんだけど、でも結局全部だめだった。まるで呪縛なの。どこまでも私を追い詰めようとする」
「そうだったの」
「どこにも進まない、どこにへも行けない。だったらいっそ死んでしまえばいいのだろうけど、それさえできなかった。あまりにも我が身が可愛くてね。馬鹿らしいと思わない?」
「私は、そうは思わないわ」
「ありがとう、リリアンは優しいのね、やっぱり。でも、私にはそう思えなかった。まるで自分がシーラカンスなんだと、そう思うこともあった。きっと住むべき世界を間違えてしまったのだって、浅すぎて光が溢れている場所に自分がいるんじゃないかって」
「蓮子、あなたはきっと思いつめてしまっているのよ」
「思いつめてるよ!」

 蓮子はリリアンの腕を掴んで叫ぶ。

「……でもあなたと出会って、変わったとは思う。本質なことはたぶんそのままだけど、私がここにいられるように、あなたは気遣ってくれた」
「少し、難しい話ね」
「少しじゃない、とても難しい話よ。私の頭が壊れそうになるくらい、には」

 気づいたときには蓮子が自ら彼女の唇に自分の唇を重ね合わせていた。
 そう、鍵をかけるというのは、きっとこういうことなのだ――自分の外に、中に鍵をかけて、螺旋を描くメビウスの輪のようにすべてをがんじがらめにして――蓮子は「秘め事」になる。

 数えきれないほど唇を重ねた。
 リリアンの甘い囁きが耳元で聞こえるたびに蓮子の体が小さく震える。リリアンの腕の中にいると考えるだけで体が蕩けそうになる。リリアンにキスをされると涙が目の端にじわりと浮かぶ。ソファに二人だけの世界が広がっていく。

「とても素敵よ(So sweet)」
「もっとキスして、リリアン」

 この前とは違う。蓮子が甘えの言葉を漏らすとリリアンはその言葉通りに、いやそれ以上に応える。唇を舐め、優しく食む。

「も、っと……」

 息も絶え絶えに蓮子が求めると、リリアンは舌を伸ばして蓮子の唇の間に割り込もうとする。蓮子は小さく息をついてから唇をそっと開いた。リリアンの舌が音もなく滑りこんでくる。もうそれだけで蓮子の体は震えが収まらなくなってしまう。舌と舌が初めて触れ合う。それまで激しいキスを交わし合っていたはずなのに。
 舌が触れるだけで意識がどこかへ飛んでいってしまいそうになる。

 リリアンは慎み深い人。それを食事のときから理解しているはずなのに、キスであらためてそのことを思い知らされる。慎み深くて底が見えない、それなのに底が見えそうだと思えるほど澄んでいる。
 水面に自分の顔が映る。疲れは癒され、穢れを取り除かれているように見える。けれど、それは見せかけの姿だ。本当の自分はとっくに穢れている。疲れを癒すことはできても、傷をなくすことはできない。蓮子はそのことを明確に自覚している。
 けれど、その自分の姿を見ても、そして穢れている自分を自覚しても、もう蓮子の胸は痛まなかった。

「もっ……とっ……!」

 喘ぎ声混じりにリリアンの舌に自分のものを絡ませる。リリアンが色艶をたっぷりと含んだ吐息を漏らす。彼女は蓮子の首筋から頬へ手を移し、蓮子の頬を両手で包みこむ。蓮子の耳が長くほっそりした指で塞がれる。そのせいで頭の中に自分たちの行為の音に満たされる。

 リリアンの唾液を喉を鳴らして受け入れる。甘い毒がまた蓮子の全身を冒し、神経はどこかへトリップする。自分が何をしているのか、もう蓮子の頭では判断できなくなっていた。自然と腿を擦り合わせていることにさえ気づかなかった。
 リリアンは蓮子から唇を離し、妖艶に笑った。それから右手を頬から首、肩、腰へ流し、スカートの中に入り蓮子の内股へと滑らせた。蓮子が小さく息を呑む。

「今日はもっと気持ちいいところまで堕ちましょう?」

 そしてリリアンの指が蓮子の秘所にたどり着くと、もう蓮子は自分の体をどうにもすることができなくなってしまった。リリアンの体にまわした腕が彼女を引き寄せる。彼女の柔らかい乳房が服越しに触れ合うのでさえ、甘美な痺れとなる。
 ショーツはとっくに濡れていて、蓮子が快楽に溺れきっていることをリリアンに伝えてしまう。

「狂いたい?」

 リリアンの指がショーツ越しに蓮子の秘所を舐め始めた。快感から逃れるように蓮子は体をよじるが、同時に手はリリアンの手を掴んでもっと自分に押しつけている。
 答えなんてわかりきっているくせにリリアンは意地悪だと蓮子は思う。蓮子の行動が答えとなっているのは、リリアンにだってわかるはずなのに。

「ねえ、蓮子、答えて」

 それでも答えを彼女は求めようとする。
 捨てること。全部、綺麗なことも汚いことも忘れ去ること。リリアンは蓮子にそれを求めている。虜になることを自らの口から言わせることはジサツすること。深淵が大きく口を開いて蓮子を呑み込もうとする。蓮子はそれに気づかない。現実離れした快楽に思考がさらわれて、振り返ることもしようと思わなかった。

 リリアンは穢れている自分でも素敵だと言ってくれた。処女じゃないと告白した自分をそれでも抱いてくれる。彼女はこんなにも澄んでいて、どこか現実離れしていて、外に行ったこともないのに。
 縁に立った蓮子はもう飛び込んでしまっていた。清水を口にして、リリアンにとりつかれてしまった。この森の中で蓮子は虜になろうと思った。鍵を掛けて、永遠の秘め事になる。誰からも触れられたくない。

 そこでちらと蒼い宝石の姿を見た。それはやがて自分が大切にしていた人の姿に変わる――メリー。蓮子の頭の中で彼女が泣きながら手を伸ばしている姿がリフレインされる。
 蓮子は目をつむった。目の前の、親友だった人の姿が消えてゆくまで。彼女は何度も蓮子に手を伸ばした。けれど、少しずつ遠ざかっていく。手を伸ばしても届かないところへ。もう彼女の叫びを思い出すのも最後になってしまうだろう。

 この三日間の想いは蓮子の中に沈殿していた。そしてリリアンに問いかけられた今、思い沈殿物が出す言葉はただひとつしかなかった。

 蓮子は目を開いた。目の前のリリアンの翠の瞳を見つめて、震える声で告げてしまった。

「リリアン、もっと私を狂わせて。もう、どうなっても……かまわない」

 境界を踏み越えた。もう彼女は戻れない。わずかに残っていたはずの意志さえ切り捨ててしまった。
 そして、生きながらにして死した蓮子は後悔に身を斬られることになる。けれど、捨ててしまったものに気付き、振り返ったときにはもう彼女にはどうしようもできない。蓮子の意思はこの森の中で何の意味も持たない。

 蓮子は痛みを切り捨て、快楽に溺れる。やがて快楽さえ消えて何も思わないときが直にやって来る。蓮子は何も知らないまま痛みと無感の隙間に堕ちた。

 ◆

 何度も絶頂を迎えさせられた。リリアンの指が蓮子の中で蠢き始めてから、喘ぎ声を止めることはかなわなかった。少しでもリリアンに抵抗できればよかったが、彼女に性的な刺激を与えることすらままならなかった。
 蓮子はリリアンの腕の中にとらわれている。唇を奪われ、乳房を嬲られ、肉壁を撫でられる。自分の体から漏れる音さえ、蓮子には現実味がないものに思えた。自分が感じられるものはリリアンの甘い匂いと絶え間なく続く快楽だけだと思えてしまった。リリアンの声さえ、霞がかっている。彼女はひたすら蓮子の名を呼び、甘い言葉を囁きかけてくる。
 自慰よりも遥かに甘美で愛おしく狂えた。自分の体が自分から離れていく。あと何度絶頂を迎えれば、自分は別の所へ行けるのだろう。それとももう戻れない所に来てしまったのだろうか。

 蓮子は大きく息を呑んでまたあられもなく声を上げようとした――。

「待って」

 不意にリリアンが指の動きを止め、蓮子から視線を逸らした。
 けれど蓮子はリリアンの唇を奪う。リリアンは一度それを受け入れてから、蓮子の頬を優しく撫でた。

「何か聞こえない?」
「そんなこと、どうだっていいのに」

 うっとりとした蓮子の瞳はリリアンを見据えている。けれど、リリアンはもう蓮子の瞳から離れてしまっていた。はあ、と蓮子は大きく息をついて少しずつ五感を自分の手のうちに戻していった。視界にかかっていた薄い靄が晴れ、少しずつリリアンの荒い吐息がはっきりと聞こえるようになる。
 かつんかつん。確かにリリアンの言うように、何かの音がした。

「どこから」
「玄関の方、みたいね。もしかしたら誰かが来たのかもしれないわ」
「なんでこんなときに」
「こんなときだからよ」

 リリアンが体を起こして、乱れていた服装を整え始めた。蓮子もワイシャツのボタンを閉め、濡れていたショーツを穿き、スカートの裾を揃えた。股の感触は気持ち悪かった。狂える時間が去ってしまったことを自覚させられた。

「リリアン、それはどういうこと?」
「蓮子はわからなくてもいいの」

 彼女は口の端を緩く上げて、音もなく玄関の方へ向かった。することがない蓮子はソファーに座って静かに待っていた。
 すぐに玄関の鍵が外される音がした。

「アイヴァー!」
「遅れていないかい」――男の声。
「いいえ、ちょうどよかったわ」

 再び鍵がかけられ、二人分の足音が廊下から伝わってきた。そのわずかな間に蓮子はちらと胸に棘が刺されたのを感じていた。「ちょうどよかった」?
 すぐにリビングに二人が入ってきた。

「蓮子、紹介するわね」

 ソファーから少し離れたところで立ち止まり、リリアンは言う。さっきまで乱れていたはずのブラウンの髪は、風呂から上がったばかりのように艷めいていて、同時に綺麗に整えられていた。翠の瞳は今は深いと言うよりも明るいものになっていた。

「アイヴァーよ。森の中で倒れていたあなたをここまで運んできてくれたのはこの人なの」
「私を?」
「アイヴァー・アントン・ビヤークネス。初めまして」

 黒い人。それが最初の印象だった。黒い髪、黒い瞳、黒いセーター、黒いチノパン。日本人ではないかと思えたが、沈み込んでいるような声から発せられる英語は滑らかだった。
 蓮子はソファーから立ち上がり彼の前に立った。

「その、なんとお礼を言ったらいいか。私がこうしていられるのはあなたのおかげよ」
「こちらは蓮子・宇佐見。日本から来た女の子なの」
「よろしく」

 アイヴァーは短く言葉を切って右手を差し出した。蓮子は少し視線を上げ、彼の顔を見た。整った顔には生気が宿っていないようだったが、それでも彼は微笑を浮かべているようだった。蓮子は少し戸惑ってから右手を差し出す。
 冷たい刃物が似合う人。それが握手をした印象だった。

 三人でカウンターテーブルに並んで座った。リリアンが真ん中、蓮子が彼女の右、アイヴァーがリリアンの左。リリアンの前にはホットミルク、蓮子の前にはブラックコーヒー、アイヴァーの前には血のように赤い紅茶が置かれていた。

「それぞれの好みを用意してみたわ」

 リリアンは二人に笑いかけて自分のホットミルクに口をつけた。続いてアイヴァーが自分の紅茶を音もなく啜る。蓮子は彼の様子をしばらく眺めてから、自分のものに口をつけた。

 彼はあまり多くの言葉を口にしなかった。必要最低限の会話と行動ですべてをすませている。それはリリアンに対しても。けれど、リリアンは彼に嬉しそうに相対する。彼にそんなに深い魅力でもあるのだろうか、会ったばかりの自分には見えないだけで。
 徐々に乾き始めたショーツの奥から少しずつ疼きが消え失せていく。彼が来てから急に自分をときめかせていたものがなくなってしまったことに蓮子は気づいた。あれほど激しく交わっていて、まだ自分はリリアンを求めていたのに。
 血の色をした紅茶を飲み干して彼は小さく息をついた。蓮子はその姿を見て密かにぞっとした。唇の端から滴り落ちた紅茶が本当に血のように見えたからだ。

「リリアン」

 蓮子は左隣のリリアンにそっと耳打ちをする。

「彼とはどこで知り合ったの?」
「知りたい?」

 リリアンは静かに笑ってアイヴァーに目を向けた。蓮子の言葉を隠すつもりはないらしい。

「私が森の中で気を失ったときの話は覚えている?」
「二日前に私に話してくれた」
「ええ。いつの間にか私はベッドに戻っていたけれど、その次の日に来たのよ、私の家に」
「もしかして」
「私をあの森からここまで運んでくれたのもまた、アイヴァーなの」

 アイヴァーは蓮子とリリアンの会話に興味がないように、じっとカウンターテーブルの向こうにあるキッチンの窓を見つめていた。

「どれくらい前かしら。時間の感覚はないから正確には言えないけれど、それからアイヴァーは時々私の家に来るようになったの。こうやってお茶を飲みにね」
「じゃあ、あなたは他の人間に会ったことはあるのね?」
「あら、言っていなかったかしら?」
「この家を出ていないって言うから、会っていないものだと思ってた」

 リリアンはアイヴァーから蓮子に目を向け直す。瞳の色が急に深くなった。

「そんなことはないわ。何人にもの人間に会っているのよ。ただ、二度以上訪れてくれたのはアイヴァーだけ」
「……だけ?」
「きっと私は彼とよく気が合うのよ。そうよね、アイヴァー?」
「うん」

 アイヴァーはまったく視線を動かさないまま相槌を返した。それで終わりだった。蓮子は急に自分の胸に小さな穴が開くのを感じた。

「私は……私はどうなの?」
「蓮子、不安にならないで」

 リリアンはテーブルの下で蓮子の腿に手を添えた。アイヴァーが近くにいるのに、蓮子はつい色のある吐息を漏らしてしまった。

「あなたはまた特別なの。私にとっては」

 リリアンの言葉で胸の穴がゆっくりと塞がっていく。たとえ別の人が入り込んできても、ここはリリアンと自分の宝箱。鍵をかけて誰からも触れられない世界になっている。偶然入り込んでくるものなんてありはしない。それは彼にしたって、そう――。
 そこまで思ったところで、蓮子はリリアンの向こうでおかしなことが起きていることに気づいた。

「リリ、アン――」

 掠れた声がする。蓮子は目を凝らしてその光景を把握しようとする。そして、その光景のおぞましさに一瞬、声を失ってしまった。
 アイヴァーの目から、どす黒い涙が流れていたのだ。

「どうしたの、蓮子?」

 リリアンが目を見開いている蓮子の体を揺すった。蓮子はそれでもまだ彼女の言葉に答えることができなかった。気味が悪い。本能的にそう感じた。見た目だけではなく、涙を流す彼の醸し出す雰囲気は霊的に死んでいた。自分にとってはまだ出会ったばかりの人、そして得体が知れず気味が悪いと思っていた人。嫌な予感は彼の手によって現実になってしまう。

「リリアン、アイヴァー、が……!」

 蓮子の言葉にリリアンははっとしてアイヴァーを振り返った。アイヴァーはカップを右手に持ったまま、黒い涙を流し続けていた。かすかに動く雰囲気もない。リリアンは彼の名を呼んで体を揺すった。けれど、彼は一向に反応を見せなかった。
 蓮子は恐怖のあまり両腕で体を抱え込んだ。そんな蓮子を振り返ってリリアンは軽く微笑んで「大丈夫よ」と言った。彼女の言葉は信じられなかった。黒い涙を流すなんて、人間にはありえないこと……。
 けれど、リリアンは落ち着いて彼の右手からゆっくりカップを取った。それをテーブルに静かに置き、ついで彼の胸に右手を当てた。沈黙の帳が降り、そのまま数分が経った。とても重苦しい時間だった。
 やがて彼は大きく息をついて、息を吹き返した。ただ彼の呼吸が激しくなることはなく、非常にゆったりしたものに戻っているだけだった。

「アイヴァー、眠った方がいいわ」

 リリアンはパーカーを彼の体にかけながら言った。アイヴァーは音もなくうなずき、立ち上がってリリアンの寝室へと向かった。ドアを開けて明かりも点けないまま真っ暗な部屋へと吸い込まれていった。
 リリアンは闇へ消えていった彼の姿を見ていたが、やがて蓮子に告げた。

「蓮子、もう夜も遅いわ。あなたも寝た方がいいわよ」
「だけど、彼は大丈夫なの?」
「私の家に来るたびにああなってしまうの」
「あんな涙を流して?」
「きっと、どうしようもないことなのよ」

 リリアンは腕を組んで言った。

「あなたがここに来てしまったのと同じように」

 リリアンの声の響きに底知れない暗さを蓮子は感じ取った。リリアンは大丈夫だという。きっと彼女は何度も彼が黒い涙を流しているのを見ているから。蓮子は素直に彼女の言葉に従って安心して眠ってしまえばいいはずだ。

 けれど、どうしてだろう。リリアンは蓮子がこの光景を見てしまうことをどこかで望んでいる。蓮子はその想像から逃れることができない。

「リリアン」

 小さな声で蓮子が彼女の名前を呼ぶと、きちんと彼女は蓮子と視線を合わせる。それでもわからなくなってしまった。彼女は自分を見ているのかどうか、その確信が一切持てなくなってしまった。
 だから、蓮子はもう一度望んだ。

「キスして」

 リリアンは静かに目を伏せた。その仕草に蓮子はキスしてもらえないのではないかと、刹那考えてしまった。けれど、リリアンは蓮子の頬に手を添え、唇に触れるようなキスをしてくれる。はあ、と蓮子は息を漏らした。

「おやすみ、蓮子」

 リリアンはカップをカウンターテーブルに置いたまま、彼の後を追うように自分の部屋に入り、ドアを閉めた。蓮子は音もないその一連の流れをじっと見つめていた。

 何もない時間が生まれた。十分、二十分――時計もない森の中に蓮子はいた。いや、時間は蓮子自身が消し去ってしまった……。
 蓮子はもう一度風呂に入ろうと思った。リリアンと交わってかいた汗を流したかった。

 シャワーからあがってもリリアンはリビングにもダイニングにもいなかった。おそらくアイヴァーのそばにいるのだろう。ほんの少しリビングにいてほしいという気持ちはあったが、さっぱりした蓮子の頭はもうリリアンを中毒的にもとめることはなかった。
 リビングのソファに戻って暖炉の火を見つめた。揺らめいていた炎は燃料を失って小さくなり始めている。赤々とした色はくすんで、黒へと近づいていく。そのまま火が消えてゆくさまを蓮子は眺めていた。火が消えてもずっとソファに留まっていた。

 すべての窓のカーテンは閉められていた。ドアにはリリアンがしっかり鍵を掛けている。この家の外にはリリアンの言う魔の森が覆い尽くしていて、そこから出ようとすると強烈なノイズが人を襲う。私がいられる場所はここにしかない。
 癒しの家。ここを蓮子はそう感じていた、ついさっきまでは。夜でなければ外の森も静かで不思議と寒くもない、居心地のいい空間だった。けれど、黒の彼――アイヴァーがここに来てからその認識がかすかに変わっている。この家にあるもの、すべての向きが変わっているように思える。暖炉も今は火を失って蓮子を暖めるものではなくなってしまった。さっき浴びたシャワーも滴の一つ一つが蓮子の肌をひりつかせた。
 気のせいだと思いたかった。蓮子はため息をつき、天井を見上げた。橙の丸い照明が浮かんでいたが、その光もどこか弱々しくなっている。その奇妙な感覚を言葉にすることはできない。言葉で届くような世界にない気がする。

 どうして自分はここにいるのか。あらためて考えると、その答えは知らない間に手から滑り落ちてしまっていた。たった三日しか過ごしていないのに。
 思い出さなければいけない気がする。蓮子は目を閉じてソファーの背もたれによりかかり、ゆっくり深呼吸した。滑らかな空気が肺に入り、出ていく。
 かすかな音が耳に届いた。

 自分のパジャマが擦れたのか。そう思って息を止めてじっと動きを止めた。また同じ音がした。衣擦れのような、けれどそれとは微妙に違った。断続的に音が蓮子の耳に入ってくる。
 気にしなくてもよかった。だが、蓮子はその音の元を探ってしまった。ソファーで身を起こし、小さなスリッパを履いて、耳を澄ませてしまった。その音がリリアンの寝室から響くものだと突き止めてしまった。

 開いたドアの隙間で世界は反転する。
 寝室は窓から差す月明かりに満ちて、冷たい蒼白になっていた。隙間から強烈な汗の匂いがした。

 リリアンの声がする。快楽に酔っていた。彼女の下にアイヴァーがベッドにいて、彼に馬乗りになっているリリアンを突き上げていた。その度彼女は矯正、細かい汗の粒をまき散らした。彼が低い唸り声を上げ、リリアンの腰を押さえつける。
 激しいセックスだった。どこにも美しさはなかった。二人とも快楽をもとめる獣になっていた。蓮子はかすかに開いたドアの前で崩れ落ちた。
 嘘、ウソ、うそ。
 心の中で何度も願うが、隙間から見える光景が変わることはなかった。

 二人の体がぶつかる汚らしい音とリリアンの声が混ざってドアから漏れる。蓮子がそれまで聞いていたような甘く控えめな声ではない。男を喜ばせるような遠慮のないものだった。ピンクよりもずっと濃密なものだった。味があるのではないかと思えるほどに。その声の中で彼女はみっともなく腰を動かし、乳房を上下させる。ベッドが二人の動きに激しく軋む。綺麗なブラウンの髪は汗の中で乱れている。むっと生暖かい空気が汗の匂いと共に蓮子の鼻をついた。

 強烈な吐き気が蓮子を襲った。それを抑えようと彼女は自分の首を両手で絞めた。見たくない、聞きたくない、感じたくない。そう願っても視界さえ遮断することができなかった。代わりに目から涙が一気に溢れ出した。
 鎌で蓮子は切り刻まれてしまった。

 リリアンが本当に愛したのはアイヴァーで自分ではないこと。あれだけ激しいキスをアイヴァーにもしていること。リリアンが喜んでいるのは自分のキスではなくアイヴァーとのセックスであること。そんなことはどうでもよかった。愛や嫉妬なんて遠い昔に捨て去ってしまった。
 ただ――自分が――ここにいることを――本当は――許されていなかった――。
 だったら、また逃げるしかない。

 止まらない涙を必死で拭い、寝室から離れた。震える腕でほとんど動かなくなった自分の体を引きずるようにして。その間にも寝室からリリアンの嬌声が耳を刺す。何度も蓮子はえづく。腕が崩れて床に頭を打ちつけた。
 それでもなんとかリビングを離れ、玄関まで続く廊下に出た。息が切れて真っ暗な視界からさらに暗いところへ行ってしまいそうだった。吐きそうになりながら、気を失いそうになりながら、胸の中のぐちゃぐちゃになった痛みを抱えながら、それでも玄関ドアの前に自分の体を運んできた。
 蓮子は上半身を起こし、ドアのノブに手をかけた。

 開かない。

 大きくて暗い渦が巻く頭で、リリアンが鍵をかけたことを思い出した。必死でドアノブの下に目を走らせ、それらしいものを見つけた。かたかたと震える指で鍵に手をかけようとしたが、指は虚しく錠の上を滑り落ちていった。
 そんなはずはない。うめき声を漏らしながら、そしてすがるようにして、ドアを舐めるように見た。何度も、何度も、何度も。
 そして、どこにもそれは見つからなかった。ドアの内側にも鍵がかかっていたからだ。そのドアはつまみで内側から開けることができなかった。誰かが鍵(Key)を持って開けなければいけない扉だったのだ。
 そして、その鍵はリリアンが持っている。あの男と交わっている部屋にそれが置いてあるはずだ。けれど、最後の最後で激しく傷つけられた蓮子がそれを取りに行くことはできなかった。

 ドアに手をかけて蓮子は言葉にならない叫びを上げた。

 大事なものには鍵をかける。そうして秘め事は輝きを得る。リリアンの言ったことは本当だ。傷つけたくないものをそっとしまい込んでしまうのも鍵をかけるということだ。けれど、彼女はもうひとつの事実を隠していた。秘め事を決して逃さないために、鍵をかけることもある。
 そして、蓮子は逃げることができない。どれほど傷つけられても、どんな光景を前にしても、もうリリアンの手の中から彼女が逃げ出すことはできない。蓮子は箱の中で傷つけられる。徹底的に切り刻まれる。彼は死神。彼女は死神に自分を引き渡すためだけの魔女。そしてこの森は外の世界とこの死を繋ぐ道。
 すべてはこの瞬間のためにあった。ドアに縋り、それが開けられないと思い知るこの時のために。今までのリリアンとの時間が反転する。温かい食事も優しいキスも彼女の美しい姿も、すべてアイヴァーによって「蓮子の手から失われるため」にしか存在していなかった。
 

 蓮子は涙を流しながら何度も叫ぶ。
 コンナセカイニイタクナイ。ハヤクシニタイ。ジブンデジブンヲコロシタイ。
 涙が枯れたら終わり。蓮子は終わり。

 それまでひたすら絶望の内に泣き続ける。

 そして、そのときがやって来た――。

 ◆

「れん……こ?」

 はっと目を覚ますと、私はリリアンが自分の目の前に立っているのを認めた。視界の中には裸の彼女の下半身しか映っていなかったが。

「れんこ……蓮子っ!」

 ドアの前で力尽きて座っている私と視線を合わせるように彼女がしゃがみ込んだ。嫌だ、もう目も合わせたくない。だいたい、どうして私はまだ生きているんだろう。さっきあれほど願ったはずだ。死にたいと、自分で自分を殺したいと。
 それなのに暗い廊下の玄関ドアの前にまだ私はいる。そして私の肩に「彼女」の両手がのっている。ひっくと小さく私は嗚咽を漏らした。

「ねえ、蓮子……蓮子、蓮子!」

 何度も私の名前を口にする「彼女」。
 もう、いいのよ。わかってるよ、ごめん。「あなた」はきっと私を愛してくれていた。彼とは違う意味で。生きている私はきっとあなたに愛されて、そして喰われてしまった。だからもう、抜け殻の私に声をかけなくったって――。
 そこでふと奇妙なことに気づいた。日本語?

 鉛が詰まったように重い頭をゆっくりと上げて、「彼女」と目を合わせた。
 綺麗な、ブルーが、そこに、あった――。

「め……り……?」
「蓮子、あなたは……ここは……?」

 こんなことってあるはずがない。瞳の色だけではない、髪の色も透き通るような金。これじゃあ、私の目の前にいるのはまるっきりメリー……。

「メリー、なの?」

 裸のメリーは私の肩をつかんだまま、首をゆっくり縦に振った。まだかすかに涙を流しながら、私はうわ言のように言葉を漏らした。

「嘘、嘘だよ……だって、こんな森の中までメリーが来れるはずがないよ……メリーは私の行き先を知らない。そもそも、あなたがこんなところまで追いかけようと思わないはずだから。私は夢を見ているんだ」
「蓮子、じゃあ、あなたはやっぱり日本にはいないの?」
「いたくなかったよ……メリーが私を傷つけて、私はメリーを傷つけた。もう二度とメリーを愛せないと思った。だって、あんなにひどい仕打ちをして、それでもまだ私はメリーを求めてるんだよ?」
「蓮子、それは――」

 メリーはそこまで言いかけて、ふと自分の状態に気づいたらしい。

「裸……どうして? 寝る前はちゃんと寝巻きだったはずなのに」

 夢を見ている。そうだ、同じようなことが前にもあった。私はあることに思い当たった。それ以外にもう考えられない。
 以前、メリーが私に夢のことを相談してきたことがあった。どこか別の世界へ移動してしまって、そこで怪物や不思議な人間に会う話。メリーが持ち帰ってきたものによって、それは夢ではなく現実に起こったことだと、エントロピーの観点から私は推測していた。メリーは本当に時間と空間を超えたと。
 今度はそれが私の目の前で起こった。ただ、今回はメリーの肉体がすべて移動したわけでなくて、たぶん――。

「あっ……れん、こ……!」

 私はメリーのそこに手を伸ばしていた。私の予想どおり、そこはしとどに濡れていた。

「やだっ……」

 そうだ、メリーのすべてがここに来たわけではない。精神とそれから肉体の一部が境界を踏み越えてここに来た。おそらくリリアンと近い色の髪と瞳が。そうでなければ、そこがこんなに濡れているはずがない。さっきまでリリアンはアイヴァーと激しく交わっていたのだから。メリーはリリアンの体を借りているだけに過ぎない。
 けれど、そうだとしても、どうしてこんな……前にメリーが言っていた世界ではなくて、こんなところに。

「メリーはわからないでしょ、男とセックスしたあとの感触」
「んっ……あっ……れ、蓮子はっ……せ、したことぉ……あ、るっ……の?」
「ある……よ」
「わ、わたしぃ……ん、そんな……あ、あなた……のことっ……!」

 メリーの目からぽろぽろと涙が零れた。本当に宝石のよう。暗い廊下に音を立てて大粒の涙が落ちる。また、どうして……私は、あなたのことをあれだけ傷つけたのに! もう二度と私に近づいてほしくないから、あの路地裏であなたを犯したのに!

「勝手なことばっかり言わないでよ!」
「痛――!」

 メリーのそこから指を引き抜いて、思い切り手首をつかんだ。感じてほしくない、こんな指なんかで! 穢れきって、どうにもならなくて、もう死のうとしている私の指なんかで!

「ひどいのはメリーよ! 私はもう、あなたに会いたくなかった!」

 彼女は私の前で澄んだ涙をこぼし続ける。また同じことを繰り返して、私たちはどんどん離れていって、もう絶対に同じものを見ることができない。今、私の目の前にメリーが現れるまでかすかな願いが残っていたのかも知れない。でも、結局こうやって彼女を目の前にすると、ますます自分が惨めに思えてきてしまって、だから。

「私は、メリーが――嫌いなの!」

 全部終わらせてしまう言葉を口にした。これで本当に終わり、さようなら、メリー。今まで一度も言わなかったけれど、まだあなたのことを好きだけれど……もう、私はあなたのそばにいることに耐えられない。

「きらい……わたし……め、りー……」

 また私の視界がぼやけていく。もう涙は枯れ果てたはずなのに、また目の端からぼろぼろと零れていく。メリーの違って痛くて、頬をひりつかせる。メリーの手首を掴む力も弱くなっていく。メリーはうつむいたまま、ずっと嗚咽を漏らして泣き続けている。

 どれくらいの時間が経っただろう。不意に私の口から零れた。

「……すき、なの」
「れんこ……?」

 もう、泣きすぎて、自分の理性が抑えられなくなってしまった。嘘と冷たさで固めていたはずなのに。ひびが入って、胸から溢れ出す衝動が抑えきれない。

「メリー、わた、し、メリー……が、好き。う……ぁ、好きだよ……」
「れん、こ――」
「あい、してる……」

 そこまで言って、もうどうにもならなくなってしまった。自分の顔を両手で覆って、また大きな嗚咽を漏らしてしまう。

「だけどっ……だけど、あなたは、もうっ……私のことを、嫌いなんだと思って、た……! あのとき喧嘩し、てっ……叩かれて、も、う……自分なんか……どうなったって、いいって、思ってた……」

 壊れてしまった自分から、悲しい言葉が流れだしていく。

「やだ……メリー、に、捨てられ、たく……なかっ……た。怖か、った……ひと、りぼっちで……死にたいって、死にたいって、死にたいって!」

 メリーの前でこんな言葉を漏らして、泣いて慰められてもらいたいのか、私は。いくら慰められたって、何も変わらないのに!

「やだ、よぉ……メリー、メリー、めりぃ……っ!」

 首を振って、もうあとは子どものように泣くしかなかった。
 子どもだよ。私は本当に子ども。なんてみっともないんだろう。あなたが私を思って涙しているのに、私はただ自分が傷ついてることに泣いているだけだ。

 でも……でも、それでもメリーは……メリーは。

「蓮子……」

 メリーの手が私の手に重ねられる。そして、彼女は涙をこぼしながらも、ぐっと体を前に突き出した。

「ごめん、なさい」

 メリーは私の体に手をまわし、自分と私の体を重ねた。

「好きよ、蓮子」

 彼女の体は震えていた。私を抱きとめながらふるふると、今にも壊れそうなくらい。
 わからないよ、私には。女同士で愛し合うなんておかしいとか、そんなことではなくて。メリーが穢れきった私をどうしてここまで追いかけてくるのか。生と死の境界を踏み越えようとしていた私を繋ぎとめようとするのか。

「愛してる」

 メリーの顔を見た。目の端から涙をぼろぼろこぼして、全然顔は笑っていない。泣き顔を隠そうとさえしていなかった。青い瞳はただまっすぐ私を見ていた。ふと香るココアの匂い。メリーの大好きな飲みもの。滑らかな肌、やわらかい髪の感触。メリーは路地裏で犯したときよりももっと綺麗になっていた。

「メリー」

 私はメリーの腕の中でまだ泣き続けていた。いつになったら涙が止まるのだろう。それでも嗚咽はおさまってきた。

「私は、初めてのセックスをあなたじゃない人としたんだよ?」
「うん……」
「ここに来て知らない女の人に抱かれたいって思ったし、抱かれたんだよ?」
「うん……」
「死にたいって、もう、全部捨てたいって、思ったんだよ……」
「うん……」

 メリーが全部を許してくれるなんて思わない。今の私の告白でも彼女を傷つけて、またうつむいて嗚咽を漏らしてしまっている。メリーは弱い。私を包み込んでくれるような優しさだって持っていやしない。

 それでも、どうしようもなく、好きだということ。
 生きようとは思わない。もう私は絶望の内に死んでしまった。今、目の前にメリーがいるのは最後のチャンスではなくて、ただのオーバータイムだ。いつまで意地を張っている、宇佐見蓮子。お前は死んだ。

「ごめん、メリー……」

 だから、最後くらい、理由なんて並べ立てて殻を作るのは、やめよう。

「愛、されたい、よ……私だけが……メリーだけに愛されたい……よ!」
「蓮子……」
「いいの……こんな私が、メリーを、愛して、いいの? 愛されて、いいの……? 怖いよ、またいつか、いつか……!」

 そして、殻が壊れてまた傷から血を流す私を、痛みを忘れることができなかった私に、メリーはそっと口づけしてくれた。天使のような口づけだった。

「蓮子」

 わずか一秒にも満たないキス。メリーが私の右頬にそっと触れた。そう、彼女にそこをひっぱたかれて、そこからすべてが狂ってしまった。

「あなたを叩いてしまったのは、本当にごめんなさい」

 メリーの涙は止まることがない。私も、たぶんそう。傷つけたことを悔やむばかりで、古い傷が開いてしまえば、また生々しくて痛々しい姿を見せる。でも、そういう痛みを取り戻して、痛みを痛みとして受け入れて、痛いと感じることはきっと幸せなのだと思う。
 またメリーが唇を重ねる。今度はもう少し長く、そして強めに。私は自然、メリーの腰に手を回してそっと彼女を引き寄せた。とくん、とくん、とメリーの唇からかすかな鼓動が伝わった。

「はぁ……ん」

 メリー、本当に、ごめん。私はこんなにも柔らかいあなたの唇を傷つけてしまった。それが気持ちのいいことだと思い込んでた。でも違う、本当に求めたいことはこういうことだったんだよ。

「あっ……あ、んっ……」

 私は舌でメリーの唇をなぞる。そこにある甘さを舐めとるように。

「欲しいよ、メリーの、唇、ちょうだいよ……」

 彼女の下唇をそっと食むだけで頭が溶けていく。ハチミツ入りミルクよりもずっと甘くて、メリーの反応が可愛くて、それなのにやっぱりまだ胸は痛い。脚から伝わる感触で、メリーのそこが濡れ始めたのを知る。

「キスだけで濡れたの、メリー?」
「やっ……いわな……っ、はぁ……!」
「いいよ……もっと気持ちよくしてあげる」

 メリーをぐいと引き寄せて、彼女の胸に顔を寄せた。ああ、そうか。でもこれは元々リリアンの体で、メリーはただ精神がそこにあるだけ、だ。けれど、一瞬ためらう私の頭をメリーが包んで胸の中に埋めた。

「……っ、はぁ……いやよ。私が蓮子を気持ちよくするの」
「え……」
「ねえ、蓮子。気持ちよくなりたいんでしょ?」
「でも、そんなことになったら」
「ねえ……私、ね。初めて蓮子とキスしたとき、本当はすごく、嬉しかった、の」

 また、ぼろぼろと涙が零れた。

「私……ただ、あなたを、傷つけたく、って……!」
「わかってた。だけど、ね……初めてのキスが、好きな人とできて、嬉しい、の」
「わた、し、だって……メ、リー……あっ……」

 薄い水色のパジャマのボタンを外された。メリーの前に自分の裸が晒される。恥ずかしすぎて、両手で真っ赤になっているだろう顔を隠してしまう。

「綺麗よ、蓮子の身体」
「いやっ……うそ、だよ……だって、他の人に汚されたのよ……」
「ううん、好きよ、好き……大好き……」

 メリーが私の胸を撫でる。一番痛むところを撫でると、増々痛みが増す。それでも、メリーの手が欲しい、たまらなく。きゅっと乳房を掴まれると、口から吐息が漏れる。

「……ふ……っ、く……やっ、だ……ぅ」
「気持ちよく、ないの?」
「気持ち、いいに……決まって……あっ!」
「そう……嬉しい……」

 メリーの一言が余計に自分の体を敏感にする。メリーの熱を肌の気持ちよさを求めてどんどん、どんどん。声が我慢できなくなって、顔を隠していた手を口に移した。すると、メリーの顔が目に入ってしまう。嬉しいという言葉とは裏腹に、メリーはずっと涙を流していた。

 傷ついてばかりだね、私たちは。

 扉を背にして快感で震える私の胸に、メリーが口づけをする。もう口を抑えていても、漏れる声を押しとどめることができなくなった。乳首をきゅっと甘噛みされると、下半身がどろりと熱を持つ。

「んくぅ……っ!」
「……気持ち、いいのね」
「っ……そんなの、ずる……ぁう!」

 口の端からみっともなく涎が垂れた。メリーが私を抱きすくめて舌でそっとそれを舐めとり、また唇を重ねた。舌が入り込んでくると頭の中はいっぺんにメリーに占められた。

「ちゅ……れん、こぉ……はぁん」
「ぁ、め、り……んっ……あ……っはあ……ぁ」

 キスをしている最中にもメリーの手は私の胸から腹へ、そして下半身へと滑っていく。ためらいがちにパジャマをくぐり、下着の中へ。愛液があふれ始めていることを知られたくなくて、きゅ、と下半身に力を込めた。それでも、メリーの指がそこに触れた瞬間、もう意識の半分は吹き飛んでしまった。

「はぁっ――んあああ――!」

 かろうじて残った半分の意識でメリーの荒い吐息を感じた。彼女の青い瞳は涙で揺らぎ、頬は赤かった。暗闇の中に取り残された廊下の中でも彼女の髪は光を失わなかった。肩で息をする私を左腕で抱きとめ、右手で私のそこを触る。

「ふっ……く、くぅ! ん……っああっ、ああん!」

 はしたない声は高かった。それでも我慢しようとしているせいで、甘いと言うよりは甘酸っぱいものだった。とにかく必死だった。快楽に溺れたくなかった、メリーの前では。この胸の痛みを抱き続けて、ずっと一緒にいたい。

「メリー、わたしぃ、メ、リーのっ……ああ! と、となりっ、にぃ、立ちたい……くぅ!」
「……っは、れん、こ……?」
「すき……よ……ああん、だい、す……きぃ……はぁ!」

 でも、きっとメリーの指ですぐに達してしまう。だから、だから、最後に……彼女に言わなくてはいけなかった。

「つ、れてって……あぁ! 私を……つれて、って!」
「蓮子……っ!」
「わた、しを……ん、く、あ、あ……つ、連れ戻、し、てっ……ぅあああ!」

 それが、最後の、私の願い。死んだはずの者から祈ることができるのならば、これが私の本当の願い。死にたくなんかない! 生きたい! 生きて、私は、メリーの隣に立ちたい!
 メリーは私の言葉を受け取ったのだろう、一層指の動きを激しくする。もう私の意識の欠片がからからと削られて崩れていく。メリーが何を口にしているのか、自分が何を口にしているのか。何もわからなくなっていく。

「ええ、わた、し……きっと、あなたを……あなたはっ……!」
「めりぃ、めり、ぃ……ご、めん、あうう! だい、すき……だか、らぁ……だからっ――!」
「やく、そく……するっ……私は、あなたに……いて、ほしいからっ! あなたといたいから!」

 そうして、メリーの指で私は達する。

「ぅ――あ――ああ――ああああああ!」

 どうしてだろうね、メリー。

 痛みを抱えていることがこれほど嬉しいなんて。

 セックスで痛みから逃げることなんてできないんだよ、絶対。

 夢だって、結局覚めてしまえばどうにもならないんだ。

 痛いことは嫌だ、怖いんだ。

 だから、思う。

 セックスと夢は痛みから逃げるためにあるんじゃない。

 痛みを知るために、痛みの輪郭を浮かび上がらせるためなんだ。

 だから、私は生きたい。

 永遠に抱えるはずのこの胸の痛みを消すことなんてできやしない。

 あなたと同じ傷を抱えて生きていく。

 それを望むのは――。

 ねえ、メリー。

 そんなにおかしいことかな――?

 ◆

 意識を取り戻すと、蓮子はドアに背から寄りかかったまま崩れ落ちていた。暗闇と沈黙の中に落ちている廊下の中に蓮子はいる。たった一人で。
 すべては夢だったのか。息をしている自分を認めながら、蓮子は思った。境界を飛び越えてここまでやって来たメリーと交わっていたことがすべて夢だとしたら、それはやはり最後に人が見る走馬灯。きっとそう。
 蓮子はずるずるとドアから滑り落ちて廊下に仰向けになった。カーテンから漏れるほんのかすかな光以外に、そこに存在するものはなかった。リビングの方からも音はしなかった。

 大きく息を吸って吐いた。そこで蓮子は奇妙な感覚に気づいた。力がほとんど入らない右手をそっと胸に当てる。自分の冷たい乳房の感覚が手のひらに伝わった。パジャマがはだけている――。
 急に体に力が戻ってきた。身を起こし、もう一度腹から胸を触る。同じだった、肌の感覚。パジャマのボタンはメリーが外したように外されていて、下半身もパジャマは膝元まで下ろされていた。おそるおそるショーツの中に手を入れるとそこは湿っていた。激しい交わりをしたあとのように。

 夢ではない。

 慌ててまわりを見回した。何か彼女の痕跡が残されていないかと。暗い廊下の中でそれを探すのは骨が折れたが、とうとう見つけた。彼女の隣に落ちている、小さな鍵。蓮子は震える手でそれを拾い、背後のドアを振り返った。
 それはメリーが自分のために置いたのだと、今はここから消え去った彼女が私に残した唯一の望みだと、蓮子は心の底から信じた。
 鍵をゆっくりとドアの鍵穴に差し込んだ。たったそれだけのことで、無限の時間が過ぎたように感じられる。そして鍵をゆっくりと、本当にゆっくり捻る。

 かちゃり。

 存外乾いた音が廊下に響き、蓮子の胸が小さく跳ねた。そして彼女はドアノブに手をかけ、それを回し、体をドアに押しつけた。鈍く重く、軋んだ音を立ててドアが開いてゆく。ドアの隙間から静かな光が入り込んでくる。蓮子はそれが月光だとすぐにわかった。
 この家を出た森には、月と星が――浮かんでいる!

 ドアはすべて開かれた。その枠から見える森は静かで澄みきっていた。蓮子はドアの前で座り込んだまま息を呑んだ。木々の間から見える空には無数の星が散りばめられ、欠けた月がぽっかり浮かんでいた。

 蓮子は立ち上がった。パジャマのボタンをしめた。
 蓮子は歩き出した。靴も履かずに。
 蓮子は空気を呑み込んだ。胸に入り込んでほんの少し冷たかった。

 蓮子は走りだした。

 蓮子は走りだした。

 息が切れても、真っ直ぐ走り続けた。

 やがてリリアンの言ったように激しいノイズが現れた。それは蓮子の五感に入り込んだ。胸が激しく痛み、それは全身へと走り抜けていった。痛みのあまり、蓮子は目を閉じそうになった――閉じなかった。

 蓮子は大きく空気を吸い込んだ。肺が細かく切り刻まれた。それでも目一杯吸い込んだ。蓮子は叫ぶ。彼女の名を呼ぶ。よろめきながら、叫ぶ。今、行く。走っていく。
 ノイズがすべてを呑み込もうと咆哮した。蓮子は叫び、大きく足を踏み出した。

 蓮子は走り――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――…………………………………………………………………………

 
 
 


 
この話で『ただれんこ』、『くずれんこ』に続く話は終わりになります。
これで完全に終わらせようと思ったので、この続きはありません。
今回は長くなりましたが、お付き合い下さり、どうもありがとうございました。
 

初出:2012年4月15日

 
 


 

■裏話

私が語っちゃう前に、ある方にすごい感想を書いていただいたのです。

いぬごや [R18]東方SSのかんそう
(あか。さんのサイト)

なんと言いますか、恐縮です。
そして、ありがとうございます。

私が語らなくてもいい気がしてきました。
じゃあ、あとはひとりごとということで読み流してください、はい。

こうしてがっつり裏話を書くのは嘔吐合同の『夢壊現』以来でしょうか。
最近、語るほど裏に抱えているSSを書いてなかったせいか、『かえれんこ』にはドカンと詰め込んだ気がします。

いつも言ってるのですが、「裏で色々語るならSSで語れよ!」と自分で思わないでもないです。
だけど、SSで語れないこともあったりするし、この場は「こういう読み方もあるよ」というガイドブック的なところですからご容赦ください。(こっそり置いてるし)

でも、最近知ったんですけど、ここをちゃんと読んでくださる方いたんですよね。
あちゃー、今まで書き殴ってた感じでしたけど、ちょっとは体裁も考えなくては。

……やっぱり面倒くさいので、書き殴ってるまんまでいいです。はい。

『ただれんこ』の続きにあたる『くずれんこ』を出した時点で、もう一作で終わりにしようとは決めていました。
しかし、『ただれんこ』には続きがないものと自分で決めていたはずなのに、うっかり続けてしまったのです。
私は結末から逆算して話を作るタイプなので、今回は非常に困ってしまいました。
構想ゼロです。

しかし、まるで取っ掛かりがないわけではありませんでした。
「この雰囲気を保つなら、ハッピーエンドにはなるまい」――って、ヒントはこれしかないんか!?
困ったので、前二作ストーリーをあらためて見直してみると、「蓮子がメリーから逃げているんじゃないか?」とふと思いました。
特に『くずれんこ』はメリーが蓮子のことを追いかけてきたという状況にもかかわらず、蓮子が逃げ出していることがある。
両思いなはずなのに、壮絶なすれ違いが起きている。

そこで、ひとつ考えたのは「蓮子をこれ以上ないほどメリーから遠い所に追い込む」ということでした。
そこから今回の軸となる「蓮子が海外逃亡をする」ということに行き着きました。

海外逃亡。これは大変魅力的。
日本国内ならうっかりメリーと出会う可能性はあるでしょう。
でも海外なら物理的接触は絶対といっていいほどありえない話です。
(星外逃亡も一瞬考えましたが、さすがにぶっ飛びすぎてやめました。)

海外と決まったら、途中は結構すんなり決まりました。
外国人の女の人と寝るわけです。
男とは寝かせたので、レズの女性。
舞台は欧州だとぼんやり決めていたので、きっと外見はメリーに近いものになるでしょう。

逃げるところまで逃げてどうなるのか。ストーリーはこんなところから始まるわけです。
しかし、すれ違い自体は書いてしまったから、今度は巡り会う話に持っていきたい。
だから、この話の終わり方もある程度決まりました。

こうしてストーリーは案外あっさりできたのですが、中身をどうしたものか。
前二作はぶっちゃけ雰囲気だけで持ってったのですが、せっかく蓮子を外国にまで飛ばすんだから、雰囲気だけじゃもったいない。

ぼんやり感じていたのは、メリーと蓮子が再び巡り会うというのは、日常への帰還に他ならないのではないか、ということです。
つまり、もう一度きちんと生きることに向き合うことなのではないか、と。
そうすると、海外逃亡をしてまですることは、生きることからの逃避で、死への接近ということなのかもしれない。
『海底離月』でも死の雰囲気が広がっていましたが、今回は生きる方に戻る結末になる。
これなら十分に書く意味はあるな、と思い、もうひとつの主軸は「生への回帰」ということになりました。

……と、難しい単語を使ってしまいましたが、つまり蓮子がもう一度メリーと向き合うことができるかどうかということです。
そして、それは痛みを受け入れなければできないこと。

蓮子にとってメリーの隣に立つことは、生きることと同じくらい大切です。
けれど、『ただれんこ』では「隣に立つことさえ許されない」と蓮子は感じている。
なんとなく書いてしまった一言ですが、今になればなぜ許されないと思えるのか、はっきり言える気がします。
きっと蓮子はメリーと楽しいだけの時間を過ごそうと考えていたからでしょう。

でも、違う。メリーは蓮子の頬を叩いた。
その喧嘩の原因がどういうものであれ、蓮子は無意識に悟ったのです。
きっと気持ちのいいことだけをメリーに求めることはできやしない、と。
二人で一緒にいるには二人で痛みだって抱えることだってある……。

けれど、蓮子は意識でそれを受け入れることを拒否する。
最初は自分が悪いのだと思い込んでしまうのです。
なんて情けないんだろう、なんてみっともないんだろう……そうして部屋で自慰をして快楽に逃げようとする。
でも、それは傷を広げることにしかならなかった。

ここで空白の時間があり、蓮子はやがて男と交わることになる。
痛みを無視して、見ないふりをする。
でも、いざメリーが目の前に現れると、痛みは以前よりもずっと強烈になっている。

そこで蓮子はもう一度逃げます。
傷の原因となっているメリー自身を傷つけることで。
今となってはメリーと交わることでさえ、蓮子には耐え難いものになってしまった。
好きだという気持ちこそが痛みになる。
好きという言葉は反転し、メリーへの憎しみになる。

外国にまで逃げて、蓮子はリリアンと過ごすことで傷を癒されます。
彼女に愛されていると思い込むことで。
でも、それは本当ではなくて、リリアンは蓮子を求めてはいない。

もう、これははっきり書いちゃってますが、リリアンは魔女を体現した人物です。
グリム童話に出てくるヘンゼルとグレーテルのお菓子の家にいる魔女をイメージしてもらえれば嬉しいです。
「お菓子」のような「愛」で蓮子を虜にし、そのあと全部喰らってしまう。
リリアンは死を求める人物です。アイヴァーも死神だと書いてますね。
正確には魔女が持つ鎌です。蓮子を切り刻み、死へと叩き落す人物。

この魔女はかなり狡猾で、蓮子を虜にした上、家に鍵をかけることで確実に喰らおうとしているわけです。
生きる気力を取り戻しても蓮子は、結局自分は死ぬしかないんだと自覚し、諦める。

――うむ、秘封でなければ確実にここで終わりにしていました。

クライマックスの場面を思いついたのが、完全に転換期です。

説明を若干省いてしまいましたが、あそこにメリーが移動したわけではありません。
あの家の中にいたのは蓮子とリリアンとアイヴァーの三人。
メリーの精神が移動しリリアンの体を借りていました。
おそらくメリーの体は日本にあるのでしょう。
そう、彼女はあの家と森を囲む境界を超えて蓮子の前に現れたのです。

この仕掛けは夢違科学世紀のブックレットからヒントを得ました。
一つの解釈として、あのブックレット内でメリーに起こったのは、体の移動ではなく「視点の移動」に過ぎないというのがあります。
まあ、ブックレットでのストーリーでこの説は色々と無理があるため、メリー自身が移動したと考えるのが一番でしょう。
でも、「視点の移動」だけというのはありえなくはない。

そして何より、もう絶対に蓮子一人だけでは痛みに向き合うことはできなかっただろうと、私は思うのです。
メリーがいなければ、最後、蓮子はあの家から走り去ろうとはしなかったでしょう。
蓮子が痛みを感じるように、メリーも痛みを感じ、傷付き――それでも、メリーは蓮子と一緒にいることを望んだ。
心の底から、きっと死にたいという蓮子の気持ちと同じくらい強く。
その気持ちが蓮子を生きることへ引き戻し、そして最後へとつながるのです。

ひとつ、すごく大事にしていたことは、メリーは絶対に蓮子のすべてを受け入れることはできないんだということです。
ああやって二人が果てない距離を超えて再会しても、やっぱりメリーは純真で壊れやすい。
蓮子の痛みを全部癒すことはできない。

蓮子はそれを取り違えていたと思います。
自分のことは全部受け入れてくれると思っていたから、頬を叩かれて激しく傷ついたのでしょう。
そして、メリーも蓮子の痛みのすべてを知ることはできなかった。
きっと蓮子だから、自分が叩いた理由をすべて受け入れてくれるのだろうと甘えていた。

二人は異能の目を持ち、オカルトサークルを一緒に楽しむ親友。
でも、本当は違う人間なのです。相手のことが全部わかるわけじゃない。
それに気づかずにお互いに依存して、甘えていて――だから、小さな喧嘩が大きなすれ違いとなったのでしょう。

だけど、最後の最後に二人は肌で感じるのです。
自分のことを相手が全部理解してくれるわけじゃない、相手のことを自分が全部理解しているわけじゃない。
だから、すれ違ってお互い痛みを抱えることもある。
それでも――それだからこそ、好きなのだ、と。

その痛みを抱えて共に歩むこと――それが蓮子にとって、生きる、ということなのだと私は思います。

言葉面だけ見ると『海底離月』と最後だけが逆の方向に行ったなあ、という感じはあります。
途中まで構成は似ている。村紗と一輪が隣に立つ、というところも似ていますね。

その一方で、この夜伽シリーズとまったく違うような気もする。
村紗が元々生きるつもりがないのに対して、蓮子は最初、元に戻ろうという明確な意志がある。
スタート地点が真逆です。
また、あっちは死から生を見ているのに対して、こっちは生から死を見つめて、また生を見直すという感じ。
そういう対極のような感じと、まったく別のような感じ。
書いている私自身も面白いなあと思いながら、推敲したりしています。

最後にこのSSのイメージの元になったものをひとつ紹介しようと思います。
それはミスチルの「深海」と「シーラカンス」です。

『海底離月』も「深海」と「シーラカンス」をイメージしてるのではないかと言われてかなりどきりとしたことがありました。
まさしくその通りなのです。
主人公が村紗で自然海の描写も出てくるので、イメージしないわけにはいきませんでした。
しかし、今回も同じ二つ。元々の曲がつながっているということもあるのですが、私としては比重を変えたつもりではあります。

生への帰還を切望する今回の話は「深海」の……まあ、あるフレーズをそのまま意識したものです。
「シーラカンス」→「深海」の順番かな、と思っています。
対する『海底離月』は「シーラカンス」の方を強く意識しています。
「深海」→「シーラカンス」の順でしょうか。

私がミスチル合同の主催になってしまったせいで、この二曲で新しく書くのが事実上不可能になってしまったのですが、それでもこの二つの作品でこれを書けたことに今は割と満足しています。
こういう雰囲気の話を書き続けるのは難しいし。

……うわあ、めちゃくちゃ長くなってしまった。
ともかく、こんな読み方もあるよ、ということでひとつ。
別の読み方も十分あります。あか。さんのように。