夜伽話 ※18未満はご遠慮ください
 


 
 零

 深海に降る雨になりたい。
 心象世界ですべてを奪い去られ、体を刃で引き裂かれるように。光の欠片もない場所で眠りを得て、凍る夢を見ながら柔らかな体温を失えるように。
 久遠の流れの中で、それだけを望んで私はここまで来てしまったのだと思う。

 ――変わってないのね、あなたは。

 暗闇の中で目が覚めた。何も変わっていない。私は岩肌に寄りかかって、暗い海流のうちに留まっている。そして、朽ちてしまった一輪は、変わらず私の横にいた。

 不意にあの声を思い出してしまう。私は変わってないのだろうか。けれど、同時にそれはそうか、と思う気持ちもある。幽霊なのだから、私は。
 もう少し。もう少しで私はこのまま消え去ってしまえる。
 胸の内で祈り、再び目を閉じた。

 一

 季節は春だった。気づいたときには寺の桜の木の横に立たされていた。揺れる風に流れ、腕に桜の花びらが張り付いた。

「ここが命蓮寺」

 聖が私の髪に息を吹きかけるように言う。腕についた花びらは音もなく地面に落ちて動かなくなる。横目で木を見ると、幹に大きな切り傷が二つつけられていた。ひとつはまだ最近のもの、もうひとつは遠い遠い昔につけられたもののようだった。
 満開を過ぎた木から、また一枚花びらが風に乗って流れていく。花びらが流れた先にその建物があった。本堂は左手の奥の方にある。私たちのすぐ目の前にあるのは庫裏のようだった。

「私の弟がここで暮らしていたの。でも、だいぶ昔に死んでしまって、今は私がここの住職の代わり」

 死。空虚に転がる言葉は彼女の薄い笑みと、空の私の胸を通り過ぎた。この寺にそんな言葉は似つかわしくない。その私の気持ちを嗅ぎとったのか、聖が言葉を続ける。

「このお寺にいるのは私だけじゃないわ。他にも三人。慣れないと思うけど、決して悪いひとたちじゃないわ」

 まだうまく歩けない私を支えながら、聖が扉を開いた。
 最初に私たちを見つけたのが、金と黒を綺麗に流した髪の少女だった。彼女が小さな叫びを上げて、丸い獣耳を生やした灰髪の少女が来て、それから頭巾の少女が来て。

「連れて帰ってきちゃった」

 私の肩を抱いたまま、聖白蓮は目の前の三人にそう告げた。みんな、あっけにとられたような表情でそこに立ち尽くしていた。

「姐さ、ん」

 頭巾の少女がほんのかすかに冷たい色を香らせただけで。
 三人それぞれの表情にのせられた意味は読み取れなかった。ただ、その色からはわかった。見せかけの明るさの裏にある、この寺を包む静止の匂いを。

「舟幽霊よ」

 私を支えながら、聖は柔らかな声で言った。

「退治を依頼されていたのだけど、可哀想だったから連れて帰ってきたわけ」
「また、ですか」

 虎模様の髪の少女が呆れたようにため息をつき、丸い獣耳の少女にちらと視線を送った。

「ナズーリン、体を拭くものを」
「持ってきたよ、ご主人」

 獣耳の少女が持ってきた手拭いを私の頭に載せる。聖が壊れものを扱うように私の体についた塩水を拭きとっていく。

「とりあえず先にお風呂に入れたほうがいいかしら。誰か準備してくれる?」
「ああ、その子を風呂に入れるのは私がやろうか」

 獣耳の少女は私の背中に腕をまわした。彼女には尻尾も生えていた。手拭いを頭に載せられたまま、細い腕に導かれて土間を通り、中へと入っていく。
 金髪の少女がはっとしたように言葉を口にする。

「一輪、お湯を沸かしてくれませんか」
「ええ」

 頭巾の少女の横を通リすぎる。そのとき、私がそっと目を横に滑らせると、彼女は私の目を凝視していた。刹那、私と彼女の目の間に氷の線ができる。そこを通じて彼女と私の意思が交わされる前に、彼女の方から視線は逸らされた。

 私は風呂場へ、少女は風呂場の裏へ向かった。

 脱衣所に着くと、獣耳の少女は素早い動作で、それでも荒々しくはなく私の服を脱がせていく。今まで身に纏っていたぼろの布切れは床に落ちて、唐突に意味を失う。
 彼女は私の裸体を見て、わずかに目を見開いた。耳が頭上で跳ねる。

「すごい潮の匂いだ。海にいたのか」

 彼女はそう尋ねたが、答えを求めてないようだった。彼女の視線につられ、自分で自分の裸体を眺める。白よりも蒼白に近い上半身。浮き上がる肋骨と、ほとんど膨らみのない乳房。その胸の中央には「何も」なかった。

「おや、その手首の紐は?」

 不意に彼女が私の左手首を見た。そこに紺色の紐が結わえられている。
 私は彼女の問いに答えない。苦い沈黙が生まれた。その間、弾けるような音が風呂場の向こうから聞こえた。誰かが火を焚いて風呂の準備をしているのだろう。
 やがて、沈黙は少女の側から破られた。

「とりあえず体を拭こう」

 少女が私の体を纏う水を拭っている間、私は黙って別のことを考えていた。
 あの視線のこと。ほんの刹那だったが、錯覚ではない。あの目は言葉こそ語らなかったけれど、薄雲の瞳の色は好意ではなかった。
 今まで何も言葉を交わしていない。見たこともない。それでもわかる。人の怨みに満ちているこの体が疼いたから。私を刺し抜こうとする悪意のようなものがあの視線にはあった。

「どうだろう?」

 獣耳の少女の言葉で急に今に戻る。ひととおり体を拭き終わって、彼女は私から腕を離す。けれど、まだ私の脚にうまく力が入らず、そのまま私は脱衣所の床に力なく崩れた。それを見た少女はあわててしゃがみ込み、私の肩を抱き寄せる。

「ああ、すまない。風呂が沸くまでまだ時間がかかるんだ」

 後ろから私を包み込むように彼女は座り、私の両肩を包むように手ぬぐいを載せた。

「何か温かいものでも飲むかい?」

 私は小さく首を振った。

「そうか」

 そのまま、彼女は黙って私の体を抱いていた。寒いとは感じなかった。背中から伝わる彼女の体温が機能的には役割を果たしていた。
 不意に凶悪な眠気が体を侵していく。爪先から髪の先まで、私のすべてを呑み込むように。侵されるまま眠ろうと思った。背中を少女に預け、まぶたが落ちるのに任せて視界を黒に染めた。小さな鼓動を背中に感じながら。
 揺れる波の感覚はまだ忘れてない。

 やがて体を揺らされて目覚めた。

「できたよ」

 淡水の匂いが鼻先に漂っている。私は力なく頷いて立ち上がった。灰髪の少女は私の腰に手をまわして、共に風呂場の石の床に足を下ろす。湯気と熱気が立ち込める空間に肌がひりつく。
 窓格子の向こうから話し声が聞こえた。会話をしているわけではなく、一方的に話しているような響きがあった。たぶん、あの頭巾の少女だろう。

「まずは湯船に浸かろうか」

 助けを借りて湯船に体を浸けると、鋭い熱が爪先から肩まで一気に体に入り込んでくる。あまりの速さに思わず息を呑んでしまった。少女を睨みつけると、彼女は苦笑いする。

「すまない、熱いから気をつけてくれと言うのを忘れてた」

 そう言うと、彼女は脱衣所に腰を下ろして私を眺めはじめた。
 その視線から逃げるように、黙って頭まで湯の中に入る。そこは私が生きてきた場所と違って光が煌きすぎていた。ぬくもりが多すぎた。目をつむって光を遮ることはできても、肌にしみる熱さが体を侵してていく。

 湯船から上がると、自分で立つことができるようになっていた。恐る恐る足を踏み出すと、確かな一歩を感じることができた。窓の外に目を向けたが、もうあの話し声は聞こえなかった。薪が弾ける音もほとんどなかった。
 脱衣所に出ると、灰髪の少女は新しい衣を用意して待っていた。

「とりあえずこれでいいね?」

 それは死装束を思わせるほど白い着物だった。

 着物を着て、少女に連れられた場所には豪勢な料理が並んでいた。魚や肉や野菜が丁寧に盛りつけられ、卓が綺麗に彩られている。まわりには私と灰髪の少女を除いた全員が姿勢を正して座っていた。聖、金髪の少女、それからあの薄雲の瞳。

「また肉料理かい、白蓮。仏の道につくものとしてはそれはどうなのかな」

 灰髪の少女がそう言うと、金髪の少女が腕を組んで聖を不満げに見つめる。

「私も聖を何度も諌めたのだけれど」

 二人の言葉に聖が愉快そうに笑いを漏らした。

「それでもちゃんと私を手伝ってくれる星の、そういうところが好きよ」
「ごまかさないでください」

 そう言いながらも星と呼ばれた少女は腕をほどいて、不自然に手を左右に揺らす。聖は微笑んだまま食卓のまわりを見回した。

「一輪もナズーリンもお疲れさま。今日はムラサの歓迎ということでちょっと豪華にしてみました」
「ムラサ? それは海の妖怪の名前じゃないか」

 ナズーリン、灰髪の少女はそういう名前を持っていたのか、とおぼろに思った。彼女は私を食卓につかせ、隣の自分の場所に腰を下ろす。聖は自然に微笑みながら言葉を返した。

「そうよ。あのムラサ。退治するのがちょっと可哀想で連れて帰ってきたの」
「あいかわらず、姐さんはそうするのが好きなんですね」

 一輪がそう言うと、聖はゆっくり首を縦に振る。

「あなたたちには迷惑かけるけど、よろしくね」
「かまいませんよ。家族が増えたようなものでしょう」
「そう言ってもらえると助かるけど、私はお母さんじゃないのよ。そんな所帯じみてるように見える?」

 聖が軽く膨れ面を作ると、ナズーリンが肩をすくめて苦笑した。その様子を見て星が吹き出し、それにつられるようにしてみんな笑ってしまう。それは一輪も。
 けれど、私は笑えない。自分の手元に置かれている箸を見つめているだけだった。最初に土間の扉を開けたときの、あの匂いを忘れることができず、こんなふうに笑っている輪に溶けこむことはできなかった。

 食事は長い、長い苦痛の時間に感じられた。本来ならば今は、どこよりも幸福な四人の家族の食事になっていたことだろう。けれど、現実は違う。私がここに座っていて、箸も手につけずに自分の料理に目を落としている。それがこの空間に避けがたい冷たさを運んでいた。
 消えてしまえたらどんなによかっただろう。船幽霊なのだから、それこそ桜の花のように儚く消え失せることもできそうなのに。それでもただ私は存在するだけだ。

 星が聖に問う。

「海に行っていたのですか?」
「舟を沈める妖怪がいる、という手紙が私のところに届いて。それは今に始まったことではなくて、もっと昔からあったことらしいのだけれど――」

 その会話が交わされても、私はまだ箸を見つめていた。星が「どうしたんだい?」と私に尋ねて、やっと右手で箸を手にする。軽く動かすが、その動きはひどくぎこちない。そうしている間にも会話は先へと進む。

「光り輝く舟? どうしてそんなものを作り出せたんだい?」
「昔の絵巻に残っていてね。ちょっとそこにいた偉い人さんに手伝ってもらったの」

 箸を手にとっても料理にうまく手が伸ばせなかった。それでもやっと白い湯気を立てる飯をひとかけらつまんで口の中に入れる。すると、舌を焼くような熱さと、食道を変質させる甘さが口内を襲う。思わず涙が出そうになった。

「じゃあ、今はそこは安全だということですか」
「ええ。もう妖の気配はなかったから。なぜ他にもなかったのかはわからないけれど」
「そういうこともあるものですよ」

 四人の楽しそうな話し声が耳に障る。弾む高音と落ち着きのある低音と滑らかな中音、それらをすべて溶かしこんだ柔らかな声。どれもが私と離れている。食事をして話をする、それだけのこと。でも、それができない。

 葉物の野菜ののおひたしを一口だけ食べて、私は箸を置いた。そのとき、またあの冷たい視線が肌に刺さるのを感じた。その視線の方を向くと、やはり一輪だった。今度はかすかにだが、彼女の視線に言葉を感じとることができた。
 ――それを、食べないの。
 私は目を逸らして、また視線を下に落とす。もう彼女の視線は私から離れた。好意ではない気持ちは悪意、小さく私に突き刺さる軋み。

 食事が終わると、聖は首を小さく傾げて一輪に問いかけた。

「さて、ムラサは一輪の部屋で寝るということでいいかしら?」
「私の部屋ですか?」

 一輪が驚いたように聖を見る。

「あなたの部屋ならムラサが入れるくらいの余裕はあるでしょう」
「そうですが」
「きっとこの子も怖いと思っているでしょうから。誰かがいてあげた方がいいでしょう?」

 聖が私に視線を向けて目を暖かく細める。私は視線をずらして、外の散りかけの桜を眺める。怖いと思っているのは違う。私がここにいることに奇妙な違和感を感じているだけ。けれど、それを否定することさえ疲れすぎてできなかった。
 少しの間、冷たい沈黙が流れた。ナズーリンと星の視線を頬に感じる。それから別の視線も。胸の中央が小さく疼き、この視線は一輪のものだと感じる。
 けれど、一輪は応える。

「ええ、大丈夫です」

 乾いた音を立てて一輪が立ち上がった。手には彩りを失った皿が重ねられていた。

「ごちそうさまでした」

 目を伏せ気味に彼女は去っていく。その後ろ姿を見ながら星は小さく言葉を漏らした。

「どうしたんでしょうね」

 聖も小さく首を傾げて一輪が去っていった方を見ていた。ナズーリンだけが私を見てため息をついて、薄く笑った。

「まあ、そういうこともあるさ」

 私は少し顔を上げてナズーリンを見る。彼女の胸飾りが夕日に煌めき、一瞬それが明るい海色に見えた。

 ◆

 何もなかった。本当に何もなかった。
 あえて言うなら、胃に食べものを入れてしまったことがきっかけだろう。甘い白米と塩辛いおひたしを体が受け付けるはずがなかったのだ。それまで何も食べずに生きてきたのだから。
 あるいは、あんな食事の風景を見てしまったからか。

 一輪の部屋に行くとすでに布団が二つ並べて敷いてあった。けれど、一輪は部屋にはいなかった。私が寝るまで戻るつもりはないのかもしれない。それが彼女なりの配慮なのだと考えることにした。
 布団に足をおいて、その柔らかさを知ってしまう。そのとき、唐突に体が壊れてしまった。虚ろの色に視界が染まり、気づいたときには布団に倒れ伏していた。全身から力が抜けてしまって、細かい震えが止まらない。身体の向きを変えられない。
 そうなったらきっと終わりなのだろう。鼓動のない胸を柔らかく冷たい布地にあてたまま、小さな叫びを上げることもできなくなった。誰もいない彼女の部屋の中で、ただ時が過ぎるのを待った。音もなく夕闇が空を染めはじめる。私は深淵の沈黙の中でそれを黙って眺めているだけだった。
 部屋には私だけしかいない。他の誰が来るわけでもないし、誰にも来てほしくない。誰にも話しかけられたくないし、触れられたくなかった。
 それでも、このまま伏しているのはたまらなくつらい。

 ずっと独りだと思っていた。そのはずだった。
 それでも、いつかは彼女が部屋に戻ってくる。乾いた足音が遠くからこちらに近づいてきて、部屋の入口で止まる。私は彼女の姿を見られない。床と蒼い空の境界を眺めながら、ただ震えつづける。

「どうしたの」

 彼女が小さく声を漏らし、私のそばに寄って腕をつかむ。私の小さく息を呑み込むのが後頭部の方で響いた。彼女は何を感じたのだろう、と思うと同時に視界が走馬灯のように回った。すぐにそれは止まって、一輪の顔が視界にはっきりと現れた。彼女の顔の向こうに、桜色の雲が行方をなくしたように漂っていた。

 私は仰向けになって一輪の腕に抱かれていた。彼女の薄雲がかった瞳には影が差していて、薄い唇は結ばれていた。蒼に染まる天井を背景にして、彼女の白い頬がなめらかに映える。
 綺麗な顔。本能的にそれを感じてひととき呼吸が止まる。その顔をしばらく眺めていたいとさえ思ってしまう。私にないその美しさが羨ましい。腕を伸ばして顔の中央にある整った鼻に触れたい。けれど、その望みはかなわないもの。今の私は人差し指を動かすことさえできない。
 彼女は結んでいた唇を解いて話しかける。

「ねえ、返事くらいしてよ」

 声を出したかった。けれど、それは喉の奥で力なく消え失せてしまう。それにたとえ声を出せたとして、私は何を口にすればいいのだろう。

「死んだように冷たいのね、あなたの体は。どうして、なの?」

 私の上半身を抱いたまま、彼女は問いかける。返事ができないまま、私は唇の端を動かす。声を出せないことを彼女に伝えるために。一輪はそれに気づいたようだったが、彼女にもどうすることもできない。その顔を小さく歪めて、きっと彼女さえ予期していない言葉が漏れる。

「そんなに冷たい顔を――」

 そこまで彼女が言葉を口にして、途切れる。そして、唐突に彼女の向こう側が薄い桜色に染め上げられた。彼女の横に漂っていた雲が花開いたように私たちを覆った。次の瞬間、視界が真っ黒になって、頬が柔らかいものに包まれた。
 私の顔が彼女の胸に埋もれていた。頬から彼女の体温が伝わってくる。あたたかく、柔らかい。彼女には確かなあたたかみがそこにあるのだと思えた。けれど、熱もない私の体が彼女から熱を奪っていく。

「何がつらいの」

 そう問いかける彼女の声の方が震えていた。氷のような私の身体の冷たさのせいなのだろうか。それでも彼女は私の体を離さなかった。なぜそこまで固執するのだろう、たった今日視線を交わしただけのこの私に。
 彼女の胸の中で言葉を紡ごうとした。それが唇を動かすだけの結果になろうとも。

「欠けているんだ」

 言葉はそこで初めて声になった。けれど、霧の声は彼女の胸の中でたち消えていく。それでもほんのわずかに伝わったのだろう。彼女が小さく体を動かしたのがわかった。もうひとつ、かすれ気味の喉から言葉をしぼり出す。

「だから、私はばらばらになる」

 頭上で喉を鳴らす音が響いた。それから、かろうじて耳に届くほどの彼女の声が聞こえた。

「私がばらばらになった欠片を拾い上げることができたら……そうしたら、あなたはこうはならないの?」

 一瞬、彼女が何を口にしたのか理解できなかった。けれど、言葉はやがて私の耳から胸の奥に入って、そこで溶けて体に染み渡っていく感覚がした。もう少し喉に力を入れて、言葉を口にする。

「あなたには、何かがわかるんだ?」
「わからない。でもあなたがつらそうなことは、わかる」
「つらい?」

 私は彼女の胸の中から顔を上げ、一輪の表情をとらえる。彼女の薄雲の瞳の中に私の姿が映った。深い海を流し込んだような双眸がその中にある。彼女の表情は何も語っていない、語ることを許されていない。私はその無抵抗につけこむ。

「つらい……そう、ここにいることが、つらいのかもしれない」

 一輪の呼吸が乱れ、綺麗な顔が小さく歪んだ。

「満たせるものなら、満たしてみてよ」

 声に自分でも驚くほど棘がない。ただ、言葉にはできるかぎりの鋭利さを込めた。彼女の胸の奥まで貫けるように。

「何が私を満たせるか、知らないくせに」

 知らないくせに。何も知らないくせに。そんな見せかけの優しさで私を抱きしめるなんて、どれほどあなたは傲慢なのか。その悪意が私を動かしてやまない。もう船を沈めることはやめてしまったはずなのに。
 なによりあなたは私のことを嫌いだと思っているはずなのに。

 一輪は何も応えなかった。私もそれ以上の言葉は口にせず、長いあいだ、一輪の腕に抱かれたまま静かに呼吸した。私の頬を鼓動が打ち、かすかに鼻先に何かの匂いがさした。陽が地平線の向こうに音もなく沈んだ。空と部屋が蒼より深い海色に染まり、やがて闇との境界を失う。肌に触れる空気が冷えきって、私の体と同調していく。

 抱擁は無を分け合うためにしか存在していなかった。

 夜闇が部屋に満ちた音がした。ふと体を抱く力が弱まり、私は窓際の布団に横たえられる。一輪が器用に掛け布団を私の体に重ね、枕を頭の下に入れた。そうして彼女はほんの刹那、私の顔を見た。そして、自分の布団の中に潜りこみ、私に背を向けて横になった。
 私は首を一輪に向けて、彼女の背中を見つめた。その体は私を抱きとめようとしていたのに、ひどく頼りなく細いものだと感じてしまう。
 ふと自分の体の震えが止まっていることに気づいた。気づくと同時に不意に強烈な眠気に襲われる。まぶたも唇もひどく重く感じられる。全身の力をすべて使い果たしたしまったみたいに。それでも残っている力で、一輪の背中から窓へと視線を移す。
 空に月があることを知りたかった。

 けれど、空には月はなかった。弱々しい星空に煌々とした月は漂うことを許されていなかった。それは私が月を見ることを許されていない、そういうことと同じなのだと思った。
 しかたなく掛け布団を頭までかぶせて小さく息を吸う。かびの匂いに混じって、別の匂いが思い出され、ほのかに肺の記憶を満たした。彼女に抱きしめられていたときに感じたほのかな香り、それは名もなき花。誰も知らない場所で散り、誰も慰めてくれない花。

 それは気のせいだったとそのときは思った。

 二

 それからしばらくは無為に過ごした。
 食事と風呂以外は、一輪の部屋で何も考えずに座ったり横になったりしていた。そうして部屋の隅の暗がりを眺め、外に降る雨と光を見つめていた。他に何をしようとも思わなかったし、ほとんど誰も干渉してこなかった。
 ただ、ここに住んでいるひとたちは食事と風呂を強制してきた。私にはそれがたまらなく苦痛だった。
 風呂は最初こそナズーリンが手伝ってくれたが、あとは全部一輪の仕事になった。火の方をあの雲――雲山というらしい――に任せて、彼女自身は私の体を洗い、私と共に湯船に浸かった。
 食事のときは一輪が私の腕を引いて無理やり食卓へ連れていく。そのときは私は力なく食卓につき、冷たい野菜をほんの少し口に入れ、あとはうつむいて、ただ全員の食事が終わるのを待った。そんな私を聖は黙って微笑んで見ていた。星は心配そうな視線をときたま私に投げかけるだけだった。ナズーリンは無関心を装っているように見えた。そんな中、ただ一輪だけが私を睨みつけてくる、何度も。

 そうして私と一輪はそれなりの空間と時間を共有した。なのに、私と彼女はほとんど言葉を交わさなかった。むしろ、あのとき彼女に言葉を向けたくらいで、他に誰に対しても言葉というものを口にしなかった。一輪が目を合わすこともなく、ときに私に話しかけるだけ。私も目を合わせたくなかった。

 結局、最初の私の予感は当たっていた。私は彼女の胸の棘だ。彼女も私の棘。それなのにお互いは近くにいる。不思議で、不愉快。
 けれど二週間は何もなかった。あのとき以来、無意識の内に互いを避けて傷つかないようにしていた。そうして静止した時間の中に居続けることを、何も起こらないことを私は願っていた。でもその願いはあっけなく崩れさって、枯れ木の前の砂になる。
 結局、また私は壊れてしまう。それも、この前よりずっと酷く。

 いきなり目が開いて、視界に飛び込んだ闇。それが崩壊の知らせだった。
 不意の恐怖から逃げ出そうと、掛け布団に手を伸ばした。寝床から出てどこへ行こうとは考えてはいなかった。けれど、そうして逃げようと半分布団を剥がしたところで、また全身の力がいっぺんに抜けて、敷き布団の上に崩れ落ちてしまう。そこでうつぶせになったまま震えが止まらない。しかも、この前よりもっと激しく。どれくらい激しい震えなのか、自分でもわからなかった。
 布団の白と夜の闇が視界を埋めた。口から粘り気のある唾液が垂れ、囁きのような呻きが一度だけ漏れた。それもすぐに震えによって途切れてしまう。指の先までが振動して、私の意志では口を閉じることさえできない。
 つらい。けれど、それ以上に怖い。
 恐怖を喰らう妖怪であるはずの私が、途方もなく怖いと感じた。部屋に満ちているこの闇と、取り憑かれたように震えるこの体が。壊れてもいいくらいに叫びたいと思うのに、声は呻きにすらならない。
 どうして、またこんなことに。

「ムラサ」

 気づけば彼女の体に包まれていた。再び彼女の柔らかい体温を私が奪っていく。私の体と共鳴するように、彼女も小刻みに震えていた。また私の震えが収まるまでこのまま抱きしめられるのだろうと思った。

 けれど、この日は違った。
 彼女は私を仰向けに寝かせ、私に覆いかぶさる。不意に窓から差し込む月の灯篭が彼女の顔を照らし、彼女の表情が鮮やかに映し出される。白い頬と空の髪が翳と月桂の間で生の色を失っていた。その色彩の中で、彼女は涙を流していた。

「どうして」

 口を歪めてこぼした言葉と共に、私の頬に涙が落ちた。焼けるように熱く、私の体よりも冷たい涙。すぐに次の言葉がこぼれた。

「あなたはそんなにつらそうにしているの」

 不規則な生体の拍を刻むように、いくつも顔に涙が垂れる。いくつかは頬から滑り落ちて、布団に落ちる。頬が伝ったあとに肌をひりつく。彼女が涙を流すこと、苔ばかりの岩の上に立ってその意味を伝えようと、意識の上ではそう思っているのだろう。
 けれど、その行為は私からずっと遠い。体は息が溶け合うほどに近いところにあるのに、彼女をひどく冷たい目で見ている私がいる。
 言葉を口にすることができたなら、彼女に言い刺したかった。なぜ私の前で涙を流すの。悪意さえ抱く相手を、なぜその両腕で抱きしめようと思うの。どうしてこういうときだけ、言葉面では優しく見せかけようとするの。

 わかっている。あなたは私のために涙を流しているわけでも、ぬくもりを伝えたくて抱きしめているわけではない。本当につらいのはあなた。涙も抱擁も、それは私のためではない。
 紐と糸。どちらも大した差はないのに。

 開きかけの口に唇を押し当てられた。想像していた柔らかさそのままだった。唇の濡れた部分と私の唇の内側が触れる。首の神経が滑らかに逆立つ。音もなく口づけを交わすことに言いえぬ恐れを感じる。
 次に臆病な舌が入り込んできて、無抵抗な私の口の中を優しく撫でていった。熱のこもる喘ぎが途切れる。ただただ異様な感覚が首から髪の先まで伝わっていく。彼女の舌は歯を舐め、歯茎を舐め、私と舌を絡めようとする。私はそれに応えることができないまま、ただそこにある感覚を享受しつづける。
 彼女の涙がいくつも私の頬に流れ落ちる。そのたび頬が痛む。

 こんなに悲しい口づけが他にあったか。いやにはっきりしている意識の真ん中で思った。私の知る限り、こんな苦しい接吻はありえなかった。死別、失恋、心中。それよりもはるかにやり場のない欠落。

 やがて彼女は唇を離して、赤が差す目で射抜くように私を見る。涙は止まっていた。

「何があなたを満たせるか、知らない。知らないけれど、こうするのがいいと思うの」

 胸を裂かれる感覚。彼女の言葉はそれほど激しく私を傷つける。
 嘘。私は視線を逸らした。ひどすぎる。動けない私を言い訳に使うなんて、最悪。
 そう思うのと同時にまた口を塞がれた。これ以上私から何を貪ろうとするのかわからない。そして、彼女の舌が口内を蹂躙し、ひたすら私を傷つけるだけなのに、私は抵抗できない。

 彼女が静かに私の寝間着の胸元から手を入れる。かたちがあることを確認していくように、彼女は緩慢に乳房全体を撫で、手のひらで包んだ。そうして彼女に触られることで自分に胸のふくらみがあることを知覚させられる。奇妙な感覚だった。

「心臓」

 不意に一輪が呟く。

「幽霊だから?」

 無言で彼女に返す。たとえ言葉を口にできたとしても、答えたくなかった。
 やがて一輪は瞼を静かに下ろし、舌を私の口から離した。舌は次に喉元をくすぐり、鎖骨の輪郭をたどる。何度もそこを執拗に味わいつづける。けれど私には何の感覚もなく、不可解でしかたがなかった。まだ乳房を触る両手の方が私に近いところにいると思った。

 やがて舌は鎖骨を離れ、さらに下に向かう。舌が胸元にたどり着くと同時に、彼女は私の寝間着をはだけさせる。私の骨ばった肩と胸と、細すぎる腕が自分でも見えてしまう。自分の体を見るのは死ぬ前から好きではなかった。

「ねえ」

 一輪は不安そうに私の目を見上げる。

「すぐに折れてしまいそうよ」

 彼女を見下ろしたまま、私は相変わらず何の返答もできなかった。

 そっと乳房を口にふくまれる。もう片方を左手で優しく包まれた。彼女の舌があまりに熱く、口づけをされた方の胸の表面が日焼けのように痛んだ。おかしな音を立てて喉が鳴り、彼女と私の唾液が入り交じったものが体内へ落ちていく。喉の奥で苦さが溶けていく。
 一輪はそのまま胸を弄りつづけた。乳房を丁寧にこねくり回し、乳首を口に含んで吸ったり、舌でつついたりする。けれど、私を快楽の海に溺れさせようとする意思は感じられない。彼女はあまりに優しく私を攻めていたし、彼女自身が傷つきすぎていた。いつの間にか彼女の目の端から、再び涙が垂れていた。ときどき白い寝間着に隠れた小さな肩が震えた。
 そうした彼女の意思の欠落で、私は快楽の踊り場に立つこともできなかった。息がほんのときどき乱れる程度。頭は空っぽのまま恐怖を貪りつづけ、下腹部に一向に火は灯らなかった。

 そんな虚しい交わりが幾許の時間、続いた。やがて、腰に置かれていた一輪の右手が静かに下がり、双丘を撫でる。私の背中に細かい震えの波が伝わる。右手はやがて私の体の正面にまわる。余分な肉も、必要な肉も失いかけている腿を二、三度さすり、そして脚のつけ根へと滑らせる。
 鈍い水音が鳴った。

「幽霊も、感じるの」

 小さく息を飲んで、彼女は言った。彼女の頭上でわずかに首を縦に動かす。体にほんのわずかばかり、力が戻っていた。首を軋ませて彼女を見下ろした。けれど、冷たい空色の髪が顔に影を作り、彼女の表情はわからなかった。
 少しの間、沈黙が続いた。だが、その沈黙を小さな水音が壊す。

 彼女は入り口を触れるか触れないか程度の強さでそこを撫でた。すぐ近くの小さな突起には触れようとしなかった。指で溝をなぞりながら乳首を喰むと、ほんの小さく私の体が跳ねた。体に少しずつ力が戻りはじめている。
 やがて彼女はゆっくりとそこを撫でる手を緩くしていく。動きが止まると同時に私に尋ねてきた。

「入れていい?」

 彼女が右手を私に見せると、指先が月の光の中で怪しく光った。纏わりつく愛液が自分の身体から出たものだとにわかには信じられなかった。私は黙って彼女の指を見つめていた。
 綺麗な指。何の予感もなくそう思った。愛液の下にある指は滑らかで、美しいかたちをしていた。今まで見てきたほかの誰の指よりも。
 それは聖を含めて。

 聖? なんで、そこで聖が出てきて――。

 不意に目の前が真っ暗になっていく。体が恐怖の底の、さらに奥深くへ落ちていくように感じてしまう。それが現実のことなのか、本当のことなのか。それを見分けることもできない。

 私には、彼女の指を受け容れることが、できない。

 ◆

 やがて、記憶の底にたどりついた。もう数えきれないほどの年月を遡ったあとのこと。
 そこにはいつも煌く太陽があった。潮の風に運ばれてくる、透き通った水の匂いが好きだった。規則的なようで不規則に囁く波の音が心地よく耳を癒してくれた。少し湿っぽくて爽やかな空気がいつもそこにあった。
 私はずっと屋敷にいて外に出ることができなかったから、手の届かない海は恋焦がれるものになってしまった。あるいは恋よりもずっと強い気持ちだったかもしれない。

「海に行きたい」

 庭から海を眺めるたび、私はつぶやく。

「行けたらいいですね、お嬢様」

 私の言葉にいつも姥はそう返した。

「いつかきっと行けますよ。お嬢様の体がもう少し大きくなれば」
「いつになれば大きくなれるかな」
「もうすぐですよ」

 いつも姥はそう言って、それから私に柄杓と桶を渡して「お庭のお花にお水をあげましょう」と私を海から遠ざけようとした。そういう姥の笑みは、あまり面白くなかった。大人ってどうしてこうなんだろう、と思う。

 私が外に出ることを父も母も面白く思っていなかった。私の体はよくわからない病気に冒されているらしかった。医者が何度も私の元に来て、その度首を傾げて去っていく。
 友だちとは片手で数えられるくらいしか遊んだことがない。そのうちの一度、蹴鞠をしたとき。彼らの着物からのぞく腿や袖の奥に見え隠れする腕を見て少し驚いた記憶がある。あんなに太いものをぶら下げて生きているなんて不思議でしかたなかった。
 父と母の腕を見たことはあまりない。たしかに父と母も肉をつけていたが、それは大きくなればああいうふうになるだろうと思ってあまり気にしていなかった。でも、友人たちを見て小さな違和感を感じたのは確かだった。
 そういう意味で私は「ふつう」ではなかった。私が病弱だったことは確かにあまり身のまわりにはいいことではなかったかもしれない。

 けれど、だからといってどうして恋をしてはいけないのだろう。それが私にはわからないままだった。
 遠い嵐を知れば、よかったのだろうか。

 友人と遊んだのはその蹴鞠が最後だった。私は庭にも出してもらえなくなった。私だけに与えられた部屋の中で過ごすように勧められた。勧められたというよりは、強いられたと言った方が正確だと思う。
 退屈になって外に出ようとしても部屋には扉があり、鍵がかかっていた。用を足したいと言うと扉は開くし、空腹を訴えればきちんと食事は運ばれてきたが、それ以外のことで扉が開かれることはまったくなくなった。

 床についたまま何度か咳き込むと、部屋に汚い音が響く。喉の奥で掠れる音を立てながら、寝床に伏して冷たい木の扉を眺めた。開けようと思ったことはあっても、試したことはなかった。無駄なのだ、全部。私はここに閉じこめられてしまった。
 その理由も幼心ながらにわかっている。けれど、あまりつらくはなかった。閉じ込められる前からほとんど同じような生活をしていたから。ただ、退屈さと海が見れない切なさに、ときどき胸が鈍く痛んだ。ほのかな潮の匂いを感じるとき、どうしようもないもどかしさに苛まされた。胸の奥で煌く海を希求する衝動を消し去ることはどうしてもできなかった。

「海を、見たい」

 扉の向こうに海を見ることができるような気さえしてしまう。けれど、その幻想は夢のようなかたちにはならず、手の届かない朧霞でしかなかった。
 海を見ることができない。私は、ただその現実に伏すことしかできない。その退屈の果てに選んだのは、夢を見ることと、自慰だった。

 着物の裾から手を入れる。床の上でこれをするのは何度目だろう。
 腿の内側を一度撫でて、その奥へと指を滑らせる。秘所に人差し指が軽く触れたが、そこはまだ濡れていなかった。乾いた肌を指で何度か擦る。痛めないように指先に入れる力を加減する。
 衣擦れの音が断続的に耳をくすぐる。扉の外に漏れることはたぶんない。どうせ誰も部屋の中に入ってこないのだから、この行為を見られることもない。もし見られたとしても、これ以上何が悪くなるというのだろう。鼻から漏れる吐息を吸い込んで、頭の片隅でそんな冷たい思考を巡らせる。

 少しの間、そうして秘所を撫でていると、ようやく体に小さな火がともった。本当にかすかな光を漏らす程度の火。粘膜がいつもより濡れていることを指で確認する。

「ふっ……」

 短く息をついて、人差し指で溝をなぞり上げる。かすかな音がくぐもって響き、指の肉と爪の間に粘液がしみこんだ。もう一度なぞると、小さな痺れがそのまわりに広がった。けれど、それはまだ快感とは程遠いく、中に指を入れるほど愛液も滲んでいなかった。
 それでも無理に指を入れようとすると、爪が内壁を引っ掻いて、快楽よりも鋭い痛みが先に走る。

「ッ!」

 静かに指を中から引き抜いて、呼吸を整える。すると、体にともった火がくすぶったまま消えてしまいそうになる。このまま終わりでもいいかと思ってしまう。でも、どうせやることもないからと、すぐその思考を掻き消した。
 もう一度溝をなぞり、それから上の突起を軽くつついた。今度は鈍い快感の靄が下半身全体に広がった。火が少しかたちを取り戻す。何度も陰核をつつき、なぞり、弾く。弱々しい快感にときどき痛みが混じった。

 虚しい時間が引き伸ばされている。下半身の火は一向に燃え上がらなかった。私の行為は小さな火が消えないようにする作業でしかなかった。徐々に指は疲れ、口から漏れる息は重くなっていく。
 やがて指の動きは途切れがちになり、思い出したように動きを再開させるが、それもすぐに固まり、最後には自分で指を止めてしまった。
 ため息をついて床で横向きになった。乱れた衣を直す気にもならなかった。自慰をしても気持ちよくなれないし、無駄に疲れてしまうだけ。何回試みてもやっても絶頂どころか、指を入れることさえまともにできなかった。私にとってその行為はかたちにならない刺激を暇つぶしに求めるようなものでしかなかった。

 そうして眠りたいだけ眠り、眠ることに疲れたら、思い出したように自慰にならない自慰をした。それしかすることがなかった。このまま無駄に生きるのだろうか、と思う。
 もう、生きてはいないんだろうか。こうして生きていることに意味があるなんて思えなかった。そのくせ、自分でそれを断ち切ることはできなかった。
 終わりの見えないこの退屈な生活の中で朽ち果てるのを、私は待ちつづけた。

 そして、とうとう一つ目の終止符は打たれた。それは「私にとっての不完全な終止符」だったけれど、どのようなやり方にせよ私は死んだのだ。あの嵐の夜に。

 あの日のことを忘れない。
 突然部屋に両親が押し入り、私を湯浴み場へ連れていった。そこは私と位相がずれた世界だった。無理やり体を綺麗にされ、汗臭かった私は消える。次に見たことのないような着物を身につけられ、薄汚れた白い着物が姿を消した。
 そして外へと連れ出される。両手を縄で括られて。

 「ムラサ」という妖怪が海にいる、と父は言った。それが海を荒らし、いくつもの舟が沈んで、何人もの漁師が死んでしまった。このままでは漁師たちが安心して漁ができないから、祟りをおさめなければならない。生贄を捧げることによって。

「おまえはそれに選ばれたのだよ」

 冷たい声でそう言ったきり、父はもう口を開かなかった。
 結局、そういうことなのだろうと思った。選ばれたという言葉はあまりに表面的すぎる。選択肢は最初から父たちの中に存在さえしてないかったのだ。疫病を抱えている私を生け贄にする以外は。
 黙って父の後を歩く。風と雨が吹き荒れていたが、父は雨具も身につけなかった。それは私も同じ。髪が濡れて気持ち悪く肌にはりついた。
 泥濘む道を歩き、松の林を抜け、やがて大きくかたちの整った舟に乗せられた。甲板には小さな祭壇があり、神主が座って淡々と何かを呟いていた。まわりの男たちは私を一度見て、舟を出す準備に取り掛かった。私は祭壇の先のへりの根元に座らされた。

 舟が海へと乗り出す。嵐はおさまる気配がなく、舟は何度も大きく揺れ、私は後ろ手で自分の体を必死に支えた。ただ、体はそうであっても、心は波に荒れる海を静かに眺めていた。
 自分の憧れた海がこんなやり方で裏切るはずがない。漁師たちはただ怯えているだけだ。そこに妖怪も何もいるはずがない。
 波と光と潮の匂い。私の憧れた海はそういうもの。もう少しすればその海に会えるはずだと信じた。そうであったなら、私は死んだってかまわない。根拠もなくそれは確信に変わり、だから私は目を開いたまま自分の置かれた光景を眺めることができた。

 舟はそれほど長い時間海を漂っていなかった。波に揺れながらも船員は漕ぐのをやめ、村のある方を振り返る。私も彼らに倣って岸の方を見た。数人が叩きつける雨の中、いるはずもない神に祈り、叶うはずのない願いを求めていた。
 神主が神妙な面持ちで棒を振り、呪いを唱えはじめた。刃物を手に持った男が私のそばに来て、縄を引き上げて私を立たせる。手首に縄が食い込んで激しい痛みが私の体を走り抜けた。

「前へ出ろ」

 男は嵐にかき消されないよう、乱暴な声でそう言って私を舟の縁へと突き出した。私はよろめきながら舟の舳先に立ち、暗く荒れる海を見下した。
 色のない波が何度も舟を叩く。打ち上がった水しぶきが私の脛を濡らして去っていく。そこには冷徹なほど純粋な意志があった。風が唸る音と波がうねる音が溶け合って、狂気を奏でている。

 違う、これは私が望んだ海ではない。
 海は私を裏切った。不意にその事実を思い知らされた。私はそこに夢を見ていたに過ぎないということを深く知ってしまった。海は私を殺す。どういう理由もなく、どこまでも理不尽に。そのことを私は知らなかっただけだ。私は深く傷つけられた。

 死を前にひとりそこに立ったとき、死んでもいいという脆弱な意思は消え失せてしまった。代わりに死にたくないという衝動に襲われた。
 もう一度舳先で振り返って、岸の方を見た。まだそこまで遠くない。あそこまで逃げられる可能性はわずかにだが残っている。逃げたあとのことは今考えなくてもいい。
 逃げる。
 一、二歩。舳先から足を遠ざける。刃物を持った男は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに片腕で私を止める。何か大きな声で私を罵っているようだった。けれどそれは耳に入らなかった。自分の力ではどうにもならない。それでももがいた。死ぬまでもがくつもりだった。男は私を抑えつけようとした。

 その最中、唐突に強い風が舟を叩き、舟は体勢を大きく崩した。私は甲板に仰向けに落ちた。私を抑えつけていた男も私に覆いかぶさるようにして倒れこみ。
 次の瞬間、鋭い痛みが頭の何かを焼き切った。

 舟がゆっくりと平衝を取り戻し、男は私から体を離した。その隙に逃げ出そうと思ったが、体がまるでいうことをきかない。全身のどこにも、わずかな力さえ入らなかった。ただ、胸の中心に大きな違和感があった。
 男はまわりを見渡して、それから私を見た。すると、その顔から一気に血の気が引いていった。何が起きたのだろう、私には現実を見出せなかった。目だけは動かすことができた。私は男から、彼の視線が向いているところへ目を向ける。
 そして知る。胸の中心に男の持っていた刃物が刺さっていることを。それは私の胸を抉るように深く突き立てられ、嵐の中で鈍く光っていた。
 ああ、と熱を失った頭で理解した。心臓を貫かれている。

 私は――死ぬのか。

 男が空に向かって何かを叫んだ。自分を罵っているようだった。やがて、胸に刃が突き刺さったままの私を抱き上げ、もう一度舳先へと足を進めた。
 そして次の瞬間、たった一瞬ではあったが、私は重力から解放される。何もかもが不自然に遅くなっていた。刹那が永遠にまで引き伸ばされたと思えるくらいに。私をほうり投げた男の顔が見える。神主の憔悴が見える。傾いている舟が見える。
 岸の向こうにある世界すべてが見える。

 負の感情がその一瞬で私を染めあげた。そして気づけば、私を裏切った海に初めて触れていた。

 そこは濁りきって、目を開けているのに視界には何も映らなかった。肌を裂くような冷たさと四肢を捻るようなうねりが、拷問のごとくそこにあった。体がそこで幾度も回り、頭が少しずつ死んでいく。
 胸は痛くなかった。痛みなら目に海水が染みる方がはるかに強い。心臓は痺れて、胸のまわりに熱いものが漂っていた。

 泣いた、と思う。わからない。死の夢を見ていたようにも思えるし、死の直前の現実を見つめていたようにも思える。けれど深い絶望と哀しみのその感情は夢ではなかった。
 何が悪い……私の何が。海にさえ殺されず、人に殺される。それが私の生の果てか。
 どこにも行く場所はなく、逃げることさえも許されない。なら、私はどうすればいい。あるいは本当にどうすることもできないのか。

 沈めたい。

 海の中で、感覚をすべて失った中で、その声は強く響いた。

 本当はあの舟を沈めたかったんだ。結局、力不足でできなかったけれど。

 あなたにはそういうことができるの? 言葉にならない言葉を投げ返す。

 今は無理。まだ私にはかたちがないから。

 かたちならあげる。私は叫んだ。だから、あの舟を沈めて。

 かたち、かあ。少しの間のあと声は続けた。魂を借りようかな。

 いいわ、なんでも。私はもう死ぬんだから。

 じゃあ、そうする。

 その声を聞いて、私は事切れた。そして、舟幽霊として目覚めた。

 海をよく見通すことができた。漂いながらそこにある世界を眺める。私の体が沈んでいくのが最初に見えた。揺らぐ足の裏を見せながら冷たい水の底へ。やがて深淵へ消えてしまう。次に暗いうねりの中で細かな水泡が舞うのを感じた。鼻先で血の匂いがする。生臭くて鉄の匂い。
 肉ではない何かで作られた私の体は沈むでもなく浮くでもない。水の中でも息は苦しくなかった。そもそも呼吸という存在がなかった。首筋で脈打つ感覚もなかった。手首を見ると、紺色の紐が結えられていた。深海のような重く息のない色。

 海面を見上げると、あの舟の底が見えた。だから指を反対側に折るように、それを沈めた。

 みんな、死んでしまった。

 嵐は過ぎて、夜が来た。血の濁りは海から去ってしまった。空から月の光が降り注いでくる。海の雨のように煌めきながらその世界を透き通していく。もうそこには舟の残骸も人の死体の欠片もなかった。ただ、私がそこに存在するだけ。
 私はどこへ行けばいいのかわからなかった。
 だからここにいようと思った。他にどこにも行きたくなかった。

 長い時間を海の中で過ごした。途方もなく、長い時間。舟を沈め、眠りにならない眠りについて、また思い出したように舟を落として、また眠り――。
 初めのうちは衝動的に舟を沈めていた。理由なんてどうでもよかった。舟影を海中から見るたびに体が自然に動き、船底をそっと指で撫で、息の根を止めた。
 怨みではなかったと思う。本能的にそれを快楽に思っていた。死んでから自慰をしなくなったのはそのせいなのかもしれない。

 けれど、海に力なく沈む無数の人体を見て、胸が疼くようになる。いつしか快楽は苦痛へと姿を変えていった。沈めても沈めても、むしろ沈めるほど疼きは強くなっていった。
 死人はみな綺麗に海に落ちていった。身体に傷ひとつなく。あったとしても腕に擦り傷や軽い切り傷がある程度。どうして溺死なのか、何度そうでないことを願ったことか。
 いつの間にか自分と同じ死に方を求めていた。舟を綺麗にひっくり返すことはなくなり、もっと陰惨に、それこそ舟と人まで粉々にしたいとさえ思った。
 いつか沈めた舟から拾った錨を投げつけるようになる。舟は粉々になり、人々は大騒ぎする。けれど誰一人として私と同じ死に方をしてくれなかった。人の死にゆくさまを見て、胸の欠落がさらに深く抉られていく。
 私は望んでもいないのに人を殺す。誰か、誰か私のように串刺しになって死んでくれれば。そうすれば二度と人を殺すことはなく、終を迎えることができたのに。
 でも、結局誰もが海に殺されるだけだった。そして、海はそういう人間たちに対して不思議なほど優しかった。少しだけ苦しむのを見ると、あっという間に彼らを恍惚の世界に導いた。

 ますます自分の行き場がなくなるのを感じる。どうすればいいのかわからない。死ぬ前と何も変わっていない。ただ自慰が人を沈めることに置き換わっただけだ。それどころか今度こそ逃げる場所はどこにもないことを知ってしまった。もう、私は生きていないのだから。
 いつの間にか、怒りと怨みのままに舟を沈め、空虚に胸を満たすことしかできなくなっていった。そうしている間にも自分が小さく、小さくなっていく。私ではない私が少しずつ自分という存在を喰っていく。あのとき私に語りかけてきた声だ。魂を貸してしまったことがこれほど苦しいことになるなんて。
 それほど追い詰められていても涙は出なかった。胸が張り裂けそうな夜が来ても、体を焼くほど熱い昼が来ても。私はずっと海に漂いつづけ、その檻に無理やり詰められたままだった。

 これ以上小さくなれないと思っていた。でも、彼女はそんな私に触れてくれた。

「行きましょう」

 指を絡めて海から引き上げてくれる。指先に彼女のかすかな鼓動を感じる。光のある場所へ私を連れていってくれる。

「私と共に」

 ここから離れてもいいのだと思った。そしていつか私は自分の望みを叶えることができるのだと、そのときは強く思い、涙を流した。

 私の本当の望みは、もう一度自分が死ぬこと。

 ◆

「血の、匂い」

 指を差し込もうとする一輪が小さく呟いた。その声で私は意識を取り戻して呟き返す。

「やめて」

 彼女の手首を払う。驚いて彼女が顔を上げた。私の言葉と自分の手首の痛みに呆気にとられた表情。
 私の欠けた心臓がかすかに疼き、身体に力が戻る。彼女の背中に手をまわし、体の上下を入れ替えた。彼女は小さな驚嘆の声を漏らし私の眼下に映る。空色の髪が布団の上で乱れ、指は私の腕を弱々しくつかむ。服がはだけ、彼女の両肩が露になった。

「ムラサ」

 私の名を口にして、彼女はまた涙を流した。

「ごめんなさい……」

 頬を伝って綺麗な涙珠が布団に落ちていく。それが月の光に煌めいて宝石のように見えた。その珠を静かに舌に載せて口に運ぶ。澄んだ塩の味がした。

「何に謝っているの」

 自分でも驚くほど冷たい声が滑り落ち、彼女の目が揺らぐ。だから、なおのこと彼女を汚したくなる。私の手で辱めて傷つけたい。
 舌を頬から耳へと這わせながら、耳元で低く囁く。

「私に心臓がないのと同じくらい、理不尽なことに謝る?」
「たとえ理不尽でも、私は……んっ……!」

 柔らかく彼女の耳を塞ぎ、耳の窪みに舌を入れ、複雑な溝をなぞる。彼女の体が小さく震えて、耳から快楽を貪ろうとする。けれど、私が感じるものは部屋に虚しく響くかすかな水音しかなかった。
 耳から口を離し、今度は乱暴に白い乳房をつかむ。

「う……」

 痛みに彼女の呻きが漏れたが、聞こえないふりをする。そのまま五指で双丘を弄った。胸に指を食い込ませ、本能のままに力を入れる。

「ん……んっ……」

 彼女の表情が痛みと快楽を半分ずつ分け合いはじめた。瞳は蕩けて私の見えないものを見ている。私は手の動きを止めず、彼女の首筋に舌を這わせた。喉元、そのまままっすぐ下におりて、彼女の胸の中心にたどり着く。
 早鐘を打つ彼女の鼓動を舌先に感じる。心臓は小刻みに震えていた。

「この心臓、食べていいんでしょう?」

 上目遣いで彼女の喉元を見つめる。彼女が喉を鳴らして「やめて」と答えるのと同時に大きい乳房に口づけをする。

「ひぁっ」

 彼女の心臓に興味はない。ただ鼓動があることが羨ましく、疎ましい。私には決してないものを持ちえていることに。陽炎のような傷をつけたい。
 あとが残るほど強く胸に吸いつき、滑らかな感触を舌で味わう。突起に近づくたびに彼女の震えは強くなり、喘ぎが止まる。そこから離れると安堵と甘さが混じるため息が吐き出された。
 突起を喰むと、彼女の嬌声は一層大きくなる。

「っくぁ……ひぅ……んっ」

 耐えていても声は漏れ出てしまう。一輪が手の甲で恥ずかしそうに口を塞ごうとするが、その手は快感で外れてしまって、蓋として意味をなしていなかった。内股を摺り合わせる音が少しずつ大きくなる。彼女の劣情がもっと大きな快感を求めている。
 なぜだかはわからない。でも、彼女の欲求に応えてもいいと思った。

 胸から顔を上げ、左手で彼女の腰を引き寄せた。彼女の髪がさらに乱れる。髪に隠されていた額には汗が滲み出ていた。彼女は物足りなそうな目で私を見つめている。瞳が揺れているのは涙のせい。でも、その涙はどうして流されているの。
 私はできるだけ冷たい表情で彼女を見つめ返す。

「私の死に方を感じてよ」
「死に方――」

 一輪の腰が震えた。私はそれを答えとして受け取り、言葉も聞かずに裾から手を入れて指を中に差し込んだ。滑らかに、何の抵抗もなく入った。

「――っ、あ!」

 指をゆっくりと動かすと小刻みに彼女が震える。喘ぎ声をもっと近くで聞きたいと思った。冷たい吐息がかかるくらいの距離まで顔を寄せる。頬を桜色に染めて息を切らして高い声で鳴いている彼女。
 それを見ているだけで、自分の胸の中央が激しく悶える。私と彼女を呑み込もうとするような大きな空洞が開かれていく。

「もっともっと、綺麗に鳴いて」

 喉から絞り出した声はしわがれていた。
 徐々に指の動きを激しくしていく。それに合わせて彼女の震えと喘ぎが高くなっていく。私の指が美しい楽器を鳴らしているようだった。音色は感覚を狂わせるように淫靡だった。

「あぅ、はぁ……ダメッ、も――う!」

 彼女の両腕が私の背中に絡まり、体が重なる。彼女の乳房の柔らかさと滑らかさを感じ、その奥に秘められた心臓の鼓動を思う。
 どうしてだろう。彼女の火照った体をこれ以上ないほど近くで感じているのに、私には一向に火が灯らない。心臓は鼓動を忘れている。冷たい体を、胸の内を、見えないはずのものの輪郭が見えてしまうほど強く感じてしまって。

「あう、ん、くうっ――!」

 その輪郭が一人で自慰をする私の姿となって現れる。

 背中にまわされていた手が布団に力なく落ちた。口から漏れる喘ぎは消え、彼女の目は静かに閉じられた。気を失っているようには見えなかった。これ以上何かを求めることを放棄した感覚がそこにあった。
 不意に私を支えていた細い欺瞞の柱が崩れた。吸音が喉を擦り、恐ろしく強い寂寥感が胸の空洞に詰め込まれた。
 体を起こして彼女から離れる。すると彼女が薄目で私を見ていることに気がついた。影の差した空色の瞳。まるで哀れんでいるような波の色。彼女に小さく問いかける。

「見てるの」

 何も反応はなかった。私の喉が歪な音を立てる。

 気づくとふらつく足で彼女の部屋から逃げ出していた。冷たい温度を保つ庫裏の廊下を通り、裸足のまま外に出る。春の夜の風が緩やかに私の髪を撫で、汗ひとつない胸をつついた。
 地面に足がつくと同時に膝から力が抜け、私はそのまま腰を落とした。視線が自然と空に向かう。そこに白い半月が朧に浮かんでいた。奇妙なことだったけれど、その月が空に開けられた穴のように見えた。

 目から温度のない涙が流れた。
 私が欲しかったのはこんな性の快楽ではない。彼女に性の快楽を与えることでない。それなのにひとときの感情に流されて、自分の傷を広げてしまう。
 何なのだろう、私を突き落とそうとするあの衝動は。私は彼女に何を求めていた? 彼女の喘ぎに何かを求めていた? あの目の光に、あの肌の熱に、それとも、あの心臓?
 目を手で拭うこともできず、私はただ泣く。月の下で流す涙は血と潮の香りがした。

 ああ、欠けている。私の世界に映るものすべて、決して満ちているものなどない。だから求めたのに。海の底で、月の下で。それで少しでもいい、何かが満たされると思っていたのに。
 彼女と交わるごとに、ただ私の欠落だけが強く、もっと強く感じられるだけだった。

 遠くから彼女の啜り泣きがかすかに耳に届いた気がした。

 三

 目が覚めても、そこは当たり前のように何も変わっていない。私は岩肌によりかかって、暗い流れの中で留まっている。時折、捻くれたかたちの魚たちが目の前を通り過ぎるだけ。
 海面の方を見上げても空と海の境は見えなかった。月の差す光の世界をもうどれほど目にしていないのだろう。私が幽霊となった瞬間は、今よりもずっと上の世界だった。光もわずかに存在していた。
 でも、今は違う。ここに存在することができたとして、誰が私の存在の意味を決められるのか。海の底の底にひとり立ち、暗い流れを静かに見据えているだけの私のそばには誰もいない。誰も、誰も。

 何度も夢のない眠りについて、まだ私はここにいる。それを暗く黒い海の中で何度繰り返せばいいのだろう。けれど、きっと何度もまどろむうちにあなたの行ってしまったところへ私も行ける。歩くことも息をすることも、すべて捨ててしまった私の行く先はそこにしかない。
 だから、もう一度眠ってもいい。でも、今はそうしようと思わなかった。眠るのはまたあとでもいい。

 隣で朽ちて、溶けかけている彼女の空色の髪を手にとる。すると、それは彼女の肌から離れ、指からすり抜けて、鈍くて残酷な海の流れに攫われた。手の届かない循環の向こうへ。
 視線を落として手のひらを見つめる。何もないはずのそこに、ひとつだけ海の色と溶け合わないものが残っている。

 紺色の紐。

 放してしまおうか、と小さな思いが頭をよぎる。
 手のひらに残された紐は意味を失っているはずだった。それを海の流れに放り込んで遠くへ捨て去ってしまうこともできるのに。私だけが誓いにしがみついて残ろうとしている。この紐はそのことの具現のように思えてしまったから。
 もう、これは誓いではないのかもしれないと、そんな考えが頭をよぎる。

 隣で彼女の最後の一欠片が失せていく音がした。存在は記憶だけになってしまった。
 その音を聞いて立ち上がった。もう、一輪の存在を記したものは、どこにもない。頭の上で大きくて愚鈍なうねりが呼吸をした。

 私は一歩、足を踏み出す。あとは、本当にたったひとりになる。

 ◆

 初めて彼女から交わってからも数度、同じようにしてまぐわいが続けられた。私と彼女、あらかじめ定められた方法に従っているように。
 まず一輪が私を抱き、胸と恥部の表面を撫でる。けれど中に指を入れることを私が許さなかった。その前に必ず私が彼女を攻めたてた。彼女が気を失ってしまうくらいに激しく。

 行為の最中、一輪は私に口づけをするたび涙を流した。行為が終わると、私はいつも本堂に音もなく移って空を眺めた。胸の欠落の切なさが収まるまで。そうしてから部屋に戻ると、一輪が泣き腫らした顔で眠りについていた。私はその姿を一瞥して、乱れた髪をそっと撫でてから布団に入って自分も仮の眠りにつく。
 いつもこの流れの中で私たちは、その夜を過ごした。

 彼女と交わった夜はいつも同じ夢を見る。

 私は真っ暗な海の中にいる。水はどこまでも透き通ってはいたが、視界には何も映らない。ただ、海から空を見上げると、そこには白くて長い指を持った手が差し伸べられていた。私は水を呑んでもがき、その手に触れようとする。その瞬間、触れようとした手は大きく歪んで頭上へと逃げ、赤い物体に変わってしまう。
 それは小さく鼓動しながら赤黒い液体を吐き出す私の心臓だった。再び水を掻いて、私はそれを自分の胸元に戻したいと思う。
 けれど、手を伸ばす前にそれはさらに離れて、夜空の向こうへ行ってしまう。心臓は赤から寂しい白、そして黄色へと変わり、十六夜の月になった。

 そこまで行ってしまうと、海からあがる気力をなくしてしまい、私は動かしていた足を止める。徐々に海水は冷たくなり、寒気が体の表面からゆっくりしみこんでくる。私は寒さに震える。
 それでも海から見える月にかろうじて手を伸ばし、つかもうと指を曲げる。けれど、手のひらには水の感触しかなく、月は欠片となって指の間から零れてしまった。煌く光はそのまま空へ散り、月は大きく歪んで輪郭を失う――。

 いつもそこで目が覚める。
 眠ったときと変わらない格好で私は布団の中にいる。陽の眩しい光が目に痛いほど染み、昼の匂いが胸に溜まったものを押し出そうとする。汗や涙の匂いはなかった。あるとしたらその前の晩の一輪の匂い、あの花の香り。けれど隣に彼女はいない。布団も綺麗にたたまれている。
 夢からその現実に移ったことを確かめると、そのまましばらく私は天井を見つめる。

 彼女と交わらなかった日は夢を見なかった。
 だから、同じ夢を見る。何度も何度も、私は心臓をつかめない。心臓は遠い空の月なのだから。

「あとで私の部屋に来てください」

 ある日の食後、固く響く声で星にそう言われた。一輪は驚いたようだったが、ナズーリンは相変わらず冷静にお茶を啜っていた。星の金色の目が私を真っ直ぐに見つめるので、それに耐えられず、またうつむいて自分の手つかずの箸を見つめた。

 聖のいない食卓の空気は淀んでいた。どうして彼女がいないのかと一輪は星に尋ねたが、彼女は黙って首を横に振るだけだった。答えたくない事情があるのは明らかだった。数日前から聖はこの寺に姿を見せていなかった。
 彼女の不在のせいかもしれない。私は何ひとつものを口に入れることができなくなってしまった。箸をとることもできず、香ばしさを漂わせる緑茶ですら、泥水よりも味気ないものに感じられた。
 そして私を誰も咎めることはなかった。いつもは私を睨みつけてくるはずの一輪でさえも。
 聖のいないこの空間は、ちょっとしたことで壊れてしまいそうだった。私も、私のまわりのものも。静止の匂いが強くなったようだった。

 一輪の部屋と食事処と風呂場しか行ったことがなかったので、星の部屋に行き着くまでに少し時間がかかった。重い足を引きずりながら通った廊下の空気は湿って重苦しかった。その空気を体に纏いながら彼女の部屋の前に立つ。
 星は部屋の真ん中で瞑想していた。背後にある書に「毘」が力強く描かれている。彼女の姿はその文字をそのまま体現しているように見えた。
 部屋に足を踏み入れると、彼女は薄く目を開き、落ち着いた声で言った。

「座ってください」

 言われるままに彼女の前に腰を下ろし、本能的に膝を抱えた。星をあらためて正面から見ると、恐ろしいほど隙のない顔立ちだと気づいた。目鼻は美しく整い、意思を感じさせる眉、軽く結ばれた唇が光を綺麗に映しとっていた。

 しばらく彼女は目を瞑ったまま黙っていたが、やがて目を開いて小さく息をついた。瞑想が終わったらしい。その金色の目から力が抜けているのに驚いた。

「さて、ムラサ」

 柔らかい声で名前を呼ばれると、膝を抱く力が少し強くなる。

「ああ、そう身構えないでください。私はあなたが善いかそうでないかの判断を下すために呼んだわけではないのです。説法をするつもりもありません。それは聖の仕事ですから」

 彼女の口元が緩んで、ほのかな笑みが浮かんだ。先程まで纏っていた雰囲気は霧が散るように消えてしまう。それでも私は膝を抱えたまま、上目遣いで彼女を見つめていた。
 聖は――。

「聖、ですか」

 かすかな疑問を嗅ぎとられた。

「食事のときには言えませんでしたが、そうですね、あまりいい状況にあるとは言えません。あなたのことを一番気にかけていたのは間違いなく彼女でしょうし、本来ならばあなたの正面に座っているのは彼女であるべきです。けれど聖はその役割を私に任せ、自身は人里へ降りていきました。ただならぬことのようです。私にも一切話してはくれません」

 その答えで十分だった。彼女の顔から膝元へと視線を移す。
 もし目の前に彼女がいたら、私は何を告白すればいいのだろうか。たとえば一輪との交わりについて? そうしたら、聖はどのような表情を浮かべ、どのように私に言葉をかけるのだろう。
 想像は想像を越えない。わからない、そんなことは。ただ、ひとつだけ言えるのは、私が聖を心の底からは求めていないということだ。星はそれに気づいているのだろうか。

「緊張してしまうのもしかたないでしょう。私とあなたが二人で面と向かって話すのはこれが初めてですから。少しずつ慣れていけばよろしい」

 庭先で雀が高い声で鳴いた。緩やかな風が庭の木を揺らして、澄んださざめきを奏でた。星はそこに目を向けてつぶやいた。

「それとも、こういう風景には慣れませんか?」

 私はどういう返事をすればいいかわからず、黙って彼女の膝元を見つめていた。そこには軽く結ばれた手が、左右対称の美しさを語るように自然に置かれていた。

「あなたがいたのは暗い海の底だと聞きました。命の色もなく、風もなく、暖かさもない。私たちが今こうしているこの空間からは想像もできない世界が広がっていたのでしょう」

 星は外を眺めたまま続ける。

「あるいはあなたが生きていた頃でも、あなたの世界にはぬくもりがなかったのかもしれません。あなたが幽霊になったというならば、きっとそうなのでしょう。いえ、生前の話を聞こうというわけではありません。それはいつか聞かなければならないことでしょうが、少なくとも今ではない」

 彼女は外から自分の背後に視線を移していく。体をねじってそこにある「毘」の文字を見つめた。

「仏教に正義などない」

 彼女が小さくそうつぶやいたように聞こえた。それから彼女は姿勢を整えて、私に視線を戻した。金色の瞳に意志の力が宿る。

「輪廻転生という言葉をあなたはご存知ですか」

 私は首を横に振った。

「それを語るのはひどく難しいことです。仏教というものはある意味、その輪廻転生からの脱出のためにあると言ってもよい。それほど仏教に関わる者には重い意味を持つ言葉です。毘沙門天の代理であるこの私にとっても、そしてもちろん聖にとっても」

 彼女の眉の角度が少し厳しくなった。

「生きること、老いること、病気になること、死ぬこと。それは人間ではない私たちも逃れることができない繰り返しです。ひとはいつか死ぬ、絶対の真理です。ですが、肉体は滅びても魂は滅びを迎えない。あるいは現世に留まり、また新たな肉体を譲り受けて別の生を歩むこともある。
 その新たな肉体は元の肉体とはまるで異なることもあります。人間であったものが、次の生ではやぶ蚊になっていることだってありえる。今現在の私たちの肉体は、前世における私たちの魂の生き方によって決まるのです。
 新しい生を受けても、結局はまたいつか死ぬ。魂が肉体に囚われているかぎり、そうした四苦から逃れることができない。私たちは未来永劫、四苦の檻の中でぐるぐる回りつづけているだけかも知れません。私の思う輪廻転生とは、そういうものです」

 星はそこで一度言葉を区切る。

「輪廻から逃れるための手段が仏教だと、私は考えています。きちんと仏陀の教えを守って日々精進すれば、輪廻の世界から解き放たれ、苦しみのない世界へ旅立つことができる。輪廻転生とは、旅立つための修行の時間として与えられたものなのでしょう」

 金色に宿っていた意志は冷たい火になる。

「しかし、あなたは幽霊として現世に留まっている。聖に救われても、なお」

 結局、それが言いたいことなのか。善いか否かの判断も説法もしないと言っておきながら。肉体を失った私がここに存在することが矛盾だと言いたいだけではないのか。
 私は膝を引き寄せて、呼吸を消していく。星はそのかすかな動きに気づいているようだった。目を細めて声の調子をひとつ下げる。

「幽体は六道にはないかたちだから、私もにわかには認められませんでした。しかし、それは私の落ち度だったと今は素直に反省しています。たとえ幽霊であれ、いつかは滅びの運命は来るし、そういう魂の器があってもそれはそれでいいのでしょう。
 ただ、あなたにはその輪廻から脱しようという心が見られない。ひとは誰しもより善く生きようとしますが、あなたはそうではない。それは幽霊だからということと、まるで違うところにあるように私には思えるのです」

 冷たい火が不意に哀願へと変わる瞬間を見た。

「聖に救われたのでは、なかったのですか」

 差し込んでいた春の陽が雲に隠された。唐突に訪れる匂いと共に雨が降りはじめる。星の顔が薄い影に覆われ、ひどく寂しそうに見えた。

「すくわれた」

 彼女の問いにそう返し、膝を抱える力を少し緩めた。

「私はあの海から離れることができた。“あの海は私の居場所ではない”と聖が教えてくれた」
「それは――」

 雨のさざめきに溶けるような声で星は言い直す。

「いや、それであなたはよかったのですか」
「善いか否かの判断をしないんじゃなかったの」

 膝に顔を埋めて、彼女にかろうじて聞こえるくらいのの響きで言う。星は一瞬困惑の表情を浮かべたが、すぐに冷静さを取り戻した。

「あなたがよいならそれでいい。でも、私にはあなたがとてもつらそうにしているように見える。だからこうして声をかけたのです」
「つらくない。苦しくもない」
「膝をそのように抱えて答えていても、ですか」
「ええ」

 短い沈黙。やがて星の目から力が抜け、小さなため息が漏れる。

「夜のまぐわいについては」

 私の体が固くなるのを感じた。

「あまり咎めたくはないところです。しかし、自分でするならまだしも、一輪があなたに引きずり込まれるようならば、私はそれを止めなければならない。色欲という煩悩、なお悪いことにあなたたちはどちらも女性なのですから。その行為は汚れというほかありません」
「汚れ」
「そうです。仏の前に許されない行為です」

 雨のさざめきはわずかに落ち着きを取り戻し、規則的な音をもたらした。小さな音の波が寄せては返す。海のように。
 輪廻と海に沈むこと。長い間、私は言葉にならないことを考えた。星はその間、黙って私を見ていた。言葉を待っているようにも見えた。でも雨の音の中で、ひょっとしたら彼女も――。

「私はあなたが嫌いではありません」

 その思考を切るように、星は脚を崩して立ち上がった。

「聖が連れてきたのはあなただけではありません。一輪もかつてあなたのようにこの命蓮寺に連れられてきたのです。今となっては誰が来ても、私は受け容れるつもりですし、できれば仲良くやっていきたい」

 影の差す「毘」の書から私に寄ってきて、肩に手をかけた。

「あなたが何を受け容れられるか、私に教えてくれませんか」

 そうして私を包むように彼女は抱きしめてきた。抱えていた膝に彼女の胸が当たり、そこに低く落ち着いた鼓動を感じる。

 ああ、そういうことなのかもしれない。
 彼女に抱かれながら、そのことを思い知ってしまった。

 私と彼女の違い、あるいはナズーリンの違い、聖との違い。“そういう”目的ではなく人を抱きとめられるかどうか。彼女たちは気づかないまま、ただ無力だけを痛いほど感じていたのだろう。
 私だってわかっている。善く生きるための方法は、きっと誰でも知っている。けれど、その下にあるものをここのひとたちは誰も知らない、ただひとりを除いて。

 雨が強くなり、声は大きくなる。私と星を引き裂くような鋭いものに変わっていく。濡れた花の香りがする。誰も慰められず、誰にも慰められない花の……。
 星に抱きしめられながら、私の頭には一輪の姿が描かれていた。
 彼女は私を抱きしめてくれただけではなかった。彼女が思い描く、私の望むものを少しでも渡そうとしてくれた。同時に彼女自身が望むものを求めようとした。
 でも、そうして私たちが抱き合ってしまったことは、もう。

 海へ行こうと思った。雨の降る道を進んで、黒い海を見たい。

 四

 できることなら空を飛びたかった。けれど、あの寺のひとたちに見つかることは嫌だった。だから私は細い足でずっと歩きつづけた。
 雨の降る道を進むのはひどく苦しかった。雨や風があっても寒くはなかったが、手入れされていない髪が額や目にかかるのが鬱陶しかった。地面はぬかるみ、一度大きく平衡を失って地面に倒れこんでしまった。
 着物は泥だらけになり、いっそ脱ぎ捨ててしまおうかと思った。けれど私がそこを通った痕跡を残したくなかった。結局、泥と雨でへばりつく着物を纏って進むしかない。
 林を抜け、集落のわきを通って海の近くまで進んだ。そこで雨はやみ、雲は空から静かに姿を消した。日は暮れていた。
 漁船のある場所を避け、人気のない浜辺にたどりつく。そのときになると太陽は背後の地平線に落ちていた。空は橙と深い青が融け合って、不思議な彩りになっていた。

 足の下で砂と砂が噛みあう音がした。気持ちのいい音ではなかった。四方から漂う潮の香りも濁っている。海の風は生きていたときに感じたものより重くてべたついていた。
 砂浜に立って海を見るのは初めてだった。死ぬ前は遠くから眺めるだけで、死んでからは海の中から外を見るだけだった。聖に連れられたときは海を見つめている余裕がなかった。
 間近に見るだけで、言葉にできない感情が満ちていくのがわかる。もし心臓がこの胸にあれば、切ない高鳴りを感じさせてくれたのに。黒い海は大きく唸りながら、何度も足元に波を届けてくれた。冷たい雨と海水の感覚が足で混じり合うのは、とても不思議で気持ちがよかった。

 もう一度、この海で死にたい。

 星のいう輪廻転生から解き放たれるすべ。それがここにあると思った。この海で死ぬことができれば、私の魂は消え、二度とこの世に新たな生を受けなくなる。
 それが私の救い。

 波が足元から去るのに合わせて、海に歩を進める。私は海へと入り込む。白波が打ち寄せるたびに体はしとどに濡れていく。踝、脛、膝、腿、腰、腹、胸。
 海水に侵される感覚。久しぶりの味だったが、すぐに体に馴染んでいく。凍るように冷たいはずなのに、不思議なぬくもりが体に満ちていくように思えた。

 どうやって死ぬかは考えていなかった。でもいつか滅ぶ確信はあった。聖がああして引き上げなければ、私は散って消えていたのだと思う。海の花となることもできずに。
 どこにも行く場所がないという究極の事実を知ればよかっただけ。この世に現れたときから、何かが欠けていて消えゆく定め。生に留まろうとするから、完全なものたちを見て痛感する欠落。
 はじめから私は欠落していた。それを知ったあのときに滅べばよかった。

 深海に降る雨になりたい。
 心象世界ですべてを奪い去られ、体を刃で引き裂かれるように。光の欠片もない場所で眠りを得て、凍る夢を見ながら柔らかな体温を失えるように。
 久遠の流れの中で、それだけを望んで私はここまで来てしまったのだと思う。

 胸まで浸かると押し寄せる波に体が揺らいだ。まだ頭を沈めるには時間がかかる。
 やがて十六夜の月が水平線から現れ、天を這い登った。夢の月とまるで同じ。冷たくて白と黄色がうまく混じることができなかったあの月。海から腕を伸ばして、その月をつかもうとする。当然触れることはできず、手は空を切る。
 ああ、やっぱり。薄い笑いが口元に浮かぶのを感じた。もう一度同じ動作をする必要はなかった。忘れていたこともすべて振り切って海の中へ体を沈めればそれで終わり。あとはただ時が過ぎるまで眠りつづける。それが私にできる最後のこと。

「綺麗な月」

 誰に向かって言うでもなくつぶやいた。
 そのとき、背後で砂を踏む乾いた音が響いた。そこで誰かが後ろにいたことに、初めて気づいた。

 振り向かなかった。そこにいるのが誰か、見なくてもわかる。

「私を止めに来たの?」

 沖の方を眺めたまま彼女に問いかけた。

「ええ」
「あのひとに言われて?」
「ええ」
「あのひとがよくあなたを行かせることを認めたね」
「違う、ナズーリンが、私を選んで」

 ナズーリン。常に冷静だった彼女の姿を思い描く。彼女ならあるいは、鼠のような嗅覚で私たちの間にあったこと、その多くを正確に知っているのかもしれない。

 月から目を離し、背後の一輪に振り返った。
 一輪は砂浜に立って、波が届かないところから私を見ていた。両手を胸の前で強く結んで、頭巾を深くかぶっていた。雨と波で衣服が肩から滑り落ちそうになっている私とは対照的だった。
 彼女にもうひとつ問いかける。

「どうやってここに来たの」
「あなたの足音と、それから潮の匂い」
「わかるんだ」

 畏怖する灰色の目が私を見つめている。月光に彼女の顔が照らされ、白く綺麗に輝いた。潮風に癖の強い髪が力なく揺れる。

「あなたを抱いて、感じて、もう体が覚えてしまったの。それにほんの少しだけ、血の匂いもしたから」
「まるで犬みたい……あの雲は?」
「雲山とは一緒に来れない」

 私が乾いた笑いを漏らすと、一輪の唇が震えるのが見える。私が彼女の前で笑ったことが一度もなかったせいだろうか。でも、今は笑うことも口を開くことがつらくなかった。海に入ってから、確実に私は変わりつつある。言の葉がいくつも口から流れ出る。

「ここまで来ればいい。それとも、私がそっちに行けばいいのかしら」
「こっちに、来てよ……!」

 哀願、もうその言葉は聞き飽きてしまった。これ以上私の胸を刺すことはない。それでも、彼女は体を折って声をしぼり出す。

「お願いだから」
「ふうん」

 どうしようかと少し悩んだが、少しなら彼女のために時間を割いてもいいと思えた。

「じゃあ、そうする。せっかく海の中が気持ちよかったのに」

 海のうねりに合わせて、海から上がっていく。海水が胸から足まで引いていき、そして彼女のそばに立つと、もう海水が私の体に触れることはなくなった。彼女は泣きそうな目で私を見ている。

「で、どうしようというの?」
「それはこっちの台詞よ」

 震える声で言い返される。

「あなたこそ何をしようとしていたの」
「死のうと思ってた。海の中で、もういいや、って」
「だから、笑っていたの?」
「笑っていたのはどうして、だろう」

 首を少しかしげた。

「わからない」

 目を細めて口元を緩めて笑ったその瞬間。
 彼女の固い拳が私の頬を打ち抜いた。

 痛みよりも衝撃に驚き、視界の揺らぎに少し気持ちが悪くなった。やっと世界の揺らぎが止まったと思ったときには、もう背中から砂に倒れ込んでいた。
 ひとつまみの雲が残る黒い空を見つめて、拳を叩きつけられた左頬を撫でる。そこにまるで痛みというものがなかった。手加減されたようにも思えなかったし、確かに手応えはあったはずなのに。

 そういうことと、情けなく地面に倒れている自分がおかしくなる。今度は声を出して笑ってしまった。さらに濡れた髪にまとわりつく砂の感触がくすぐったくなり、ますます笑いが止まらなくなる。
 そんな私を見下ろしながら一輪がそばに来て、私に覆いかぶさる。垂れた前髪が私の額に触れる。頭巾に覆われた顔にはかすかな怒りと、私の知りえない感情が刻み込まれていた。
 彼女の両手で静かに首を絞められる。細い指が喉元に食い込む。それも痛みや息苦しさはなく、ただ指が自分の中に入り込もうとする感覚が気持ち悪い。あの刃物が刺さったときの違和感のように。

「下手」

 目を見開いて荒い息を吐く彼女に言い放った。

「首絞めるの、本当に下手。それに、私はもう死んでるのに」
「うる、さいっ」

 彼女の肩と声は小刻みに震えていた。瞳から大粒の涙が私の首に落ちた。もう何度彼女の涙を見てきたのだろう。それでも今、落ちた涙は、今までになく透き通っているように見えた。

「うる、さ……い」

 泣きながらもう一度の私の首を絞め直す。けれど、もう彼女の手に力はなかった。真綿で絞められるよりも弱々しい感覚が私の首まわりにあるだけ。
 私は右手を彼女の目尻に運び、人差し指でそっと涙を掬った。口に運ぶと、それは透き通って少し塩辛かった。

「なんで……なんで、なんであな、たは……っ」

 彼女はしゃくりあげ、激しく嗚咽を漏らし、いつしかそれは悲痛な慟哭となった。私の首から手を離し、彼女は顔を覆った。涙はとめどなく溢れ、彼女の服と私の体を濡らしていった。

「わ、わたしは、あの人に拾われて……そこにい、てよかった……のに、もう……あの人はいない、いない……なんで、私はいる……の、ここに、この海に、あの寺に……! 私は、もう、何にもなれない、ここにいたくない……!」

 私は彼女の頬に両手で触れ、瞳を覗き込んだ。彼女はもう言葉を失い、見つめられるままだった。
 涙に揺れる空色、そこに差す影と月の光、引いていく潮の音、肌をなでる風、口の中に残る塩苦さ。今、この瞬間だけだったけれど、私と彼女は同じものを感じているのだと思った。
 やがて、徐々に空色から焦点が失われていく。瞳は視界に映るものの意味を捉えられなくなっていく。背景に映る星も月も、鼻に漂う海の匂いも空気よりもずっと透きとおったものになる。

 そうして私は彼女の中に溶けこんでいく。彼女との境界を超えていく。
 静かに天と地が入れ替わる。嗚咽が胸から静かに染みこんで自分のものになるのを、涙が溶けて目から流れ落ちるのを、髄で湿地に触れるように感じていた――。

 ◆

「みょう、れん、さま」

 震える喉から言葉が途切れて飛び出した。命蓮という名前を一度しか聞いていないのに、今その名前を呼ぶことに何も違和感はなかった。

「命蓮さま」

 目から何度も何度も涙が溢れ、そのたびに袖で涙を拭う。それでも一向に涙が止まることはなかった。目をこすり過ぎたせいだろうか、床に仰向けになっている命蓮の姿以外、何も視界に入らなかった。
 けれど、その命蓮の顔は見えなかった。白い布がそこにかかっていたから。

 左腕で止まらない涙を拭い、右手で命蓮の首筋に手を伸ばす。その手にあるそれぞれ長さの違う五本の指、見覚えがある。私が受け容れることを許して、拒絶してきたあの指だった。

「一輪」

 背中に柔らかく、けれど温かみのない声が投げかけられた。体が小さく震え、伸ばした指は虚空を掴む。懐かしいはずのその人の熱は永遠に失われてしまっていた。

 今見ているものは、沈殿していた彼女の記憶なのだと気づくまでに少し時間がかかった。そして気づいたとき、もう二度とこんなことをしたくないと思った。私がひとの記憶に取り憑くことができるのだとしても。それが一輪の記憶であるのなら、なおさら。
 けれど、どうすれば彼女の記憶から離れられるのかわからない。いつ、彼女の中に私が入り込んでしまったのかもわからない。ただ、彼女の体の中に入り込んで、命蓮が死んだ日に彼女が見て、思って、感じたことを私がたどっているだけだ。

 急に視界が回る。一輪が――私が、中央に老婆を捉えた。彼女の向こうの風景は見えなかった。ただ白い靄の中に私と命蓮と彼女が存在しているだけ。
 口を開いて何か言葉を叩きつけたいと思う。けれど、言葉は何もなかった。小さく息を吸って、そのまま口を閉じてしまう。何を言えばいいのかわからない。それは一輪もそうだった。今記憶を覗いている私さえ、口にすべき言葉が見当たらない。

「立派に生きたと思うわ」

 老婆が――白蓮が力なく唇を動かす。目は伏せられていて、頬の筋は細くなっていた。何を思っているか、それを正確につかむことはできない。ただ、一輪にかける言葉を探し続けているようだった。

「あなたが看取ることができなかったのは、あなたにとって本当に残念なことだったとは思う、の。でも、最期は、穏やかだった。そ、れは仏の道にい、生きるものとしては、あるべき姿だ、ったように私には、感じられ、る……」

 言葉が途切れ途切れになり、語尾は消え入るように白蓮の喉に吸い込まれていった。
 向こうの白い靄がこちらまで伸びてくる。音もなく私を喰らい、白蓮を喰らい、横たわる命蓮の体を喰らった。
 突然、胸の内が崩れ落ちたような感覚があった。肋骨の内側にあった肺や心臓が毒に染まって腐って落ちるように。強烈な喪失感、そのあとの果てしない痛み。思わず胸を押さえた。口から唾液が粘りを持って垂れ落ちる。
 声を出すことは許されず、思考も紡げず、ただその痛みの中で悶えつづけた。息を吸うことも吐くことも、拷問のように苛烈だった。けれど、涙を流すことはかなわなかった。
 生きてさえいればきっとこの体にも感情があって、喜怒哀楽がある。体はその色と同調して表層にそれを表してくれるはずだった。それができないということは、そういうこと。
 でも、どうして痛みは止まらないのか。抉られる痛みを抱え続けることを、一輪は受け容れたのだろうか。

 気を失うほど長い時間が経った。白い靄の中に、何度か白蓮の顔が陽炎のように現れた。短い時間、靄の中に浮かんでは消える。それが繰り返されて、もう一度私は世界の中に放り出された。

「いつまでそうしているつもり」
「いつまでもです」

 細い声が喉からかすれて出る。白蓮を見上げることも、声を出すことも明確ではなかった。記憶ははっきりしていたが、世界は弱々しく映っていた。体にまったく力が入らない。私が海から上がったときと同じように。

「あなたは確かに人間ではないわ、一輪。でも、何も食べない、何も飲まない。もしかしたら、まともに眠っていないかもしれない。そういうことがいつまでもできると思っているの?」

 私は弱々しく首を振る。膝下で小さく印を結び、声にならない声で経を再び唱えはじめる。視界の隅に白蓮の細い足が見えた。けれど、そこで微妙な違和感を感じる。艶を取り戻した肌がそこにあった。

「主人である命蓮が死ぬこと、それがどれほどつらいことなのか、私にはわからない。わからないけれど、でも彼は私の弟だったの。私があなたの苦しみを理解できないように、あなたは私のつらさもいつになっても理解することはできないのよ」
「それがどうしたというのです」

 経を唱えるのをやめて、静かに言葉を口にした。

「ひとの苦しみ、それが各々で違うということをおっしゃっていたのは命蓮さまです。あなたも同じようにおっしゃる。だから、その苦しみの果てに何を選ぶかも異なるでしょう。あなたが生きることを選ぶように、私が消えることを選んだとしても、それは誰にも責められないことです」
「あなたは、消えたいの」

 一輪は言葉を返さなかった。

「消えたいから消える。確かにそれはあなたの気持ちなのでしょう。その気持ちを嘘だと私が言い張ったところで意味がないこと。それはわかっています。ですが――」

 私の目の前の空気が揺れるの感じた。思わず目を閉じて白蓮の姿を意識から遮断する。空気の揺れが短い間続き、やがて優しい気配に落ち着いた。白蓮が私の前で座ったのだろうということはわかった。それでも私は目を開けずに、黙って彼女の言葉を待つ。

「それはあなたの意志なのですか」
「私の意志」

 一輪が小さく口を開いて白蓮の言葉に応える。

「それは気持ちとは違うものなのですか」
「意志とは意味。意味があるかぎり、生きる意志がそこにある」
「意味は失いました。命蓮さまが逝ってしまわれたあの瞬間に」
「それが、どうしたというの」

 唐突に視界が真っ暗になった。これが一輪の記憶の終わりなのかと思った。
 けれど、そうではなかった。柔らかい感触に包まれ、胸のあたりにひとのあたたかみを感じる。そして胸と胸が触れ合っている所が規則的に、けれど素早く波打つ。心臓の鼓動がそこにある。

「それが、どうしたというのよ!」
「……白蓮、さま?」

 激しい胸の痛み。私が決して感じえなかった痛みだった。一人で自慰をしたときも、そしてあの船の上で刺されたときも、これほど鋭く衝かれるようなものではなかった。胸の奥から全身に裂け目が生じて、ばらばらになってしまいそうになる。

「命蓮はもう帰ってこない、私だってわかっているわ。何度私が死を選ぼうと思ったか、そうすれば命蓮がいないことの苦しみから私は解放されて、どれだけ楽になれるか。そんなことばかり考える日が続いた。あなたのように何も口にできないこともあった。でも――」

 背中にまわされた腕が、細く脆い一輪の体を精一杯抱きしめる。首筋に熱い雫が垂れ落ちるのを感じた。

「でも、結局そんなことをしたって何の意味もない。苦しみから解放されて、そして私は何になるの? どこへ行くの? どこにも行けない牢獄の中にきっと囚われてしまうわ。そうして、何も感じないまま未来永劫、そこで眠りつづけるしかない」
「それだって、それだって――」
「一輪、こんなことを言ってもあなたには届かないかもしれない。でも、私はただ、願うの」
「何を、ですか」

 吐息が背中にかかる。言葉を紡ぐことさえ、白蓮にはもうほとんどできていないようだった。けれど、彼女は言葉を紡ぐ。そして、その言葉こそが一輪を永遠に鎖につなぎとめることになる。
 同じ鎖につながれていた私にはわかる。月の輪郭を見るよりもずっとはっきりと。

「あなたが、生きることを。私があなたを求めている、私はあなたに生きていてほしいの」

 また深い霧が私のまわりを包む。

 かすかに啜り泣きが聞こえる。目の前の白蓮からではない。今私が見ているひとの、この胸の中から。楔を打ち込まれたところからあふれ出る岩清水のような涙。
 涙を流す意味なんてどこにもないのに。私はそんなことを思う。

 次に靄が晴れたとき、淡く甘い香りが鼻の先をくすぐっていた。桜の木の前に一輪が立っている。私自身、どこかで似た光景を見たことがある気がする。桜の下で諭されたような、遠い記憶。けれど、まわりの景色ははっきりしなかった。真っ白な世界の中で、桜の木と一輪だけが佇んでいた。
 その幹を見ると、不自然な傷があった。真横に何度も刃物で傷つけられたように、木の皮膚の下から生々しい跡がのぞいている。どれくらいの高さだろうか。ちょうど十歳の子どもの頭の先くらいまでなのだろうか。
 一輪がその傷を指でなぞる。そこにあるものの意味を彼女は知っているようだった。胸の中心部が完全な空洞になっているような感覚を、今になって自覚する。

「今年も、またこうしてここに傷をつけたのですね」

 誰に言うでもなく一輪はつぶやく。いや、「誰か」には向けられたものだ、とすぐに思い直した。それは彼女の中にいる、白蓮。

「いない、ということを呑み込んでいないのは結局あなた。伸びるはずもないせいたけ比べをしていたのは、あの方が逝ってしまわれる前からですか。どこまであなたは若返ろうと思うのですか」

 そう言いながら、彼女は胸元から何かを取り出した。それは短いけれど鋭利な刀だった。

 やめて。
 私は思わず叫ぶ。もう、これ以上見たくない。何度同じことを繰り返し眺めなければいけないのだろう。暗い海に何度落とされればいいのだろう。今この瞬間、胸の奥の奥に潜んでいた色のない気持ちに言葉を見つけてしまう。
 もう、めぐることをやめてしまいたい。

 けれど、叫びは一輪には届かない。鞘を取り外し、逆手でそれを手にする。その刃を向ける先は一輪自身なのか、それとも樹の幹なのか。どちらにしても同じ。そうすることでひとつの終わりを形づくろうとしている。
 でも、そこに何の意味があるというのか。私にはわからない。もし自分がこのときの一輪に取り憑くことができたのなら、刃なんて捨てさせてしまうのに。
 ああ、それも無理なのかもしれない。まだ、そのときの私は海で消えるのを待つだけの亡霊に過ぎなかったのだから。

 刃の上に桜の花びらが一枚落ちた。
 また、視界は真っ白になる。

 今度は真っ白になったままだった。彼女の記憶の中にある映像は出てこない。

「ねえさん」

 ただ、同じ言葉が繰り返し響く。

「ねえさん」
「ねえさん」
「ねえさん」
「ねえさん」
「ねえさん」
「ねえさん」
「姐さん」
「姐さん」
「姐さん」
「姐さん」
「姐さん」

 呪詛は暗示、刃は証明。

 一輪は何を見出したのだろう。けれど、彼女が白蓮のことを「姐さん」と呼ぶことには一種の誓いじみた響きがあった。それはきっと、この桜の木を見たときに決まってしまったこと。

 私と同じ道を彼女もたどってきた。ただ海にいるか、空にいるか。それだけの違い。同じように一度死をくぐっても何も変わらなかった。その現実を目の前にしてどうすることもできない。
 そうして無力に立ち尽くしたとき、気づいてしまう。自分の弱さへの嘆きでも、目の前への遺恨でもない。もっと奥深く、自分の意思と無意識のさらに下に眠っていたものに。

 少しずつ呪詛が小さくなっていく。彼女の記憶から私の体が引き剥がされていくのを感じる。それが彼女の意志によるものなのか、私が無意識に願ったことなのか。どちらにしても、もう、私がすることは変わらない。

 ◆

 気づけば一輪を思い切り引き寄せ、乱暴に唇を奪っていた。
 彼女の綺麗な顔が崩れてしまうことが怖くなってしまった。涙が彼女の頬を伝い、私の頬に落ちてしまうことが途方もなく怖い。壊れた歯車を回すことよりもずっと。

 どこまでも深く堕ちたい。歩みを止め、呼吸を捨てたい。
 だから、私はあなたを引きずり込む。そして、あなたは私のそばにいる。手を伸ばせば届く距離に。

「っ――!」

 長い間、彼女の唇を離さなかった。呼吸をすべて奪ってしまいたいと思った。貪るようにして唇を吸い、手で彼女の胸を攻めた。息苦しさと快感の狭間で一輪が体を大きく震わせる。
 やがて、物足りないと思いつつ唇を離した。すると、一輪が目を回しながら苦しそうに呼吸を繰り返す。何度か咳き込みながら、胸を弄られて小さな喘ぎ声が漏れる。

「いちりん……いちりん」

 もう一度、衝動のままに口づけをする。何度味わっても足りないと思った。

「んっ……!」

 口づけをしている間、一輪の頬の熱が私に伝わってくる。舌の柔らかさがたまらなく欲しい。左手で彼女の腰を力のかぎり引き寄せ、右手で胸を弄り、舌で彼女を貪る。一輪の喘ぎの声に混じって、私からも熱のこもった吐息が漏れはじめた。

 ものすごく長い間、唇を交わしていたと思う。一輪から顔を離したとき、もう彼女の顔は蕩けきっていた。月の光りに照らされた白い顔に、赤みが差していた。

「ムラ……サ」

 小さく私の名前を呼ぶ。甘い響きが耳をくすぐる。そのもどかしさを隠すように、私はもう一度軽く彼女の唇に触れた。

「好きなんかじゃない」
「……あ」

 頭巾を外し、彼女の服の裾に手を入れながら言う。下着の下から直に彼女の胸を弄りながら囁いた。

「でも、そういう気持ちも、あなたが連れられてきたのと同じくらい理不尽で、どうしようもなかった」
「ぅあっ……」
「もっと早くこうしていればよかったのかな。そうしたら何もかも捨てることができたのかな」
「くぅ、ん……」

 胸の突起をつまみ上げて、耳に舌を這わせる。

「でも、あなただけは捨てることができなかった……違う、あなたは私の中にいるんだ。私がこの寺に来る前から」
「ひぅ、ん、ああっ……!」
「それにあなたは気づいていたんだ、きっと。ひと目私を見たそのときに」

 胸から手を下ろして、今度は彼女の脚を撫で、少しずつ上に滑らせていく。もう下着はしとどに濡れていた。人差し指で少しそれを下ろし、恥丘を優しく触る。とても熱くて滑らかな水音が響いた。
 陰核を親指で弾いたり、溝を撫でたりすると、彼女の喘ぎはそれに合わせて高くなっていく。呼吸の仕方を忘れてしまったように喉が鳴る。
 そして私は彼女の中に人差し指と中指を入れる。いきなり二つの指を入れるのは初めてだったが、それでもそこは何の抵抗もなく受け入れてくれた。

「あ、あ……あ!」

 一輪の甘い鳴き声に自分の下腹部が疼くのを感じて、少し驚いた。股の間から私のものとは思えないほど熱い粘液が、内側を伝い落ちてしまいそうだった。彼女と私の感覚が繋がっているのかもしれない。
 熱い息をひとつ吐いて、指をゆっくりと動かしていく。頬に砂粒がついている一輪の顔にはもう哀しさはなかった。目には月が溶け、私が指を動かすと快楽に歪んだ。

「感じて、もっと、もっと気持ちよくなって」
「む、ら……うぁっ、も、っと……くぅ!」
「もう途中でやめたりなんかしないから……だから」

 一輪が私の身体に腕を巻きつける。髪に彼女の指が触れるのを感じた。乱暴に抱かれているはずなのに、それが心地よかった。
 指の動きを激しくする。今までの埋め合わせをするように、きっと満たされることはないのだろうけれど。彼女の体の震えが大きくなる。声が突き上げられるように徐々に高くなっていく。

「んんん……く、い……くぅ!」
「ちゃんといかせてあげるから、一輪、だから」
「ひぅ、だ……め、きもち、い、やぅ……んあっ――!」
「一緒にいて、ずっと、ずっと、ずっと!」
「っあ――あ――ッ!」

 私を抱く力がいっとき強くなる。身体が痙攣するように震える。私は空いた手で優しく彼女の体を抱きとめていた。湿っている服に包まれた彼女はとても滑らかだった。
 彼女が痙攣している間、そして痙攣が終わっても、とても長い間、そのまま彼女を抱いていた。

 もう逃げようとは思わなかった。私も、彼女も。
 逃げる場所は最初からどこにもなかったのだから。

 熱い息を吐いて一輪は私の頬に手を添える。

「あまりあなたが激しくするから」

 蕩けた目は私を見ていなかった。私でもない、それに「ムラサ」でもない。もっと深いところで、彼女も別のものを見ている。

「大事なことを言えなかった」
「言わなくていい、わかってる」

 彼女の手に触れて言い返した。

「わかってしまったから、もう言葉はなくてもいいんだ」

 私の頬から手を離し、その手を私の腿に添えながら彼女は言う。

「それでも、言いたいの」

 手が内側に滑り、思わず私の身体が小さく震えた。

「私もあなたと一緒にいたい……たぶん、あなたとしか一緒にいられないから」
「やっぱり、そういう――ッ!?」

 言いかけた言葉を呑みこんでしまった。彼女に触られたところから流れたものによって。指にそこをなぞられると吐息が震えた。再び愛液が溢れはじめているのがわかる。

「その顔、初めて見た」

 一輪が驚いたように言う。けれどもっと驚いているのは私だった。初めての感覚に戸惑ってしまい、どうすればいいのかわからなくなってしまった。
 けれど、その不安を一輪が拭い去ってくれた。

「そういうあなたを抱こうと私は思ったの」

 陰核をそっと摘まれて、下腹部に一気に火がつく。

「っぁ……」

 初めて喘ぎ声を漏らした。今までどれほど自分で触っても、彼女に触られてもそういうことはなかったのに。気持ちいいと思えた。溝の縁をなぞられ、陰核を弾くように苛められる。私は目をつむって身体を痺れさせるように走る快感を味わう。もっと気持ちよくなりたいと思った。
 心臓なんてとっくに消えてしまっているのに。体をめぐる血はどこにもないはずなのに。それなのに肌は熱を持ち、胸の中央が痙攣する。

「っ……っ、ッ……あ」

 喉から漏れる声を必死に抑える。彼女にこんなはしたない声を聞かれたくなかった。けれど、そんな私の心を溶かすような柔らかい声が響く。

「もう耐えなくていいの」

 その言葉が終わる前に私の口から甘い甘いため息が漏れた。体から力が抜け、彼女にされるがままになる。
 彼女の指の動きは相変わらずぎこちなかった。力加減をときどき間違えた。それでも私の身体には快感が満ちていく。口から漏れる喘ぎをもう抑えようと思わなかった。視界が甘い靄に覆われていく。靄を吸い込むと頭の奥から溶けていくような気がした。

「指、入れるわ……」

 一度だけ、私の体が小さく震え、靄がかった視界に「あの」冷たい光景が姿を見せた。

 生まれたときから病弱で。退屈な部屋の中で自慰をして。海に裏切られて。刃物で胸を貫かれて死んで。
 数えきれないほどの人間を殺した。どうしようもなく小さくなってしまった。それを掬い上げてくれるひとがいた。それでも私はどうしようもなかった。どうすることもできなかった。
 この海に来て、死のうと思った。二度と覚めない眠りにつこうと思った。
 誰も同じ場所に立ってくれなかったから。もう手を差し伸べてくれるひとを私は必要としていなかった。彼らが望む幸せは色がなく、味気ないものに見えた。誰も私を理解できないのだと思っていた。

 でも、それは違った。

「ぅあ……っ」

 熱い粘液が彼女の指にまとわりつく。もっと欲しがるように柔肉が蠢き、指を締めつける。それに逆らうようにして一輪は指を少しずつ引き抜き、また入れる。その動きを何度も繰り返す。

「ああん、ああっ、ああ……!」

 指と肉壁が擦れて断続的な痺れが止まらない。目をまともに開いていることさえできなくなってきた。薄い視界に映る一輪の額に小さな汗の珠が滲んでいた。その珠を唇にのせ、そのまま額にかすかな口づけをする。

「ムラサ」

 細い声が耳を侵し、同時に胸の突起から別の甘い痺れが走る。

「ッ――!」

 乳首に歯を立てられ、舌で舐められる。快感は下半身へ流れ、下は指で攻められていた。何も考えられなくなり、無意識に彼女の頭を抱く。

「        」

 もう彼女の声も、何も聞こえなかった。頭が熱くなる。そして、視界が真っ白に染まっていく。

「        」

 自分の絶頂の声さえも白い世界の向こうへ消えてしまう。白い世界の中に、ぼんやりと輝く黄色い月が見えた。

 それが私の初めての絶頂だった。それ以来、一輪の指の味を忘れることができなくなってしまった。ぎこちなく、頼りない動きしかできないのに。何度も欲しいと思ってしまった。

 彼女は私の隣に立てる。私を抱きしめてくれる。私の指を受け入れてくれる。彼女となら行けるだろうか。何もない、それこそ本当の無への道を。
 行きたい。私は思う。救いなんていらない。
 傷ついた指よりも、まっさらな指を受け容れることができたのは、だからなのかもしれない。

 意識を取り戻すと私は横になっていた。頭が柔らかいものに包まれていて、それが一輪の膝だということに気づくまで時間がかかった。
 横になったまま、一輪と空を見上げた。今にも星と月が落ちてきそうなほどに空虚で澄んでいた。冷たい空気が口から入り、体の芯から火照りを奪っていった。少し乱れていた呼吸が落ち着きを取り戻した。

「きっと最初からどこにも行く場所なんてなかったんだ」

 そう言って一輪の手を握ると、彼女は柔らかく指を絡めて応えてくれた。

「星が言ってた。魂は何度も何度も現世をめぐるんだって」
「輪廻転生」

 一輪も聖のもとで仏の道を学んでいたのだろう。それでも彼女は星と違う道を進んでいた。

「それがわからなかった。ううん、言うことは理解はできるんだけど」

 私はそこで言葉を切った。
 虚しいことだとは思わない。星のいう輪廻転生に私が囚われていることもわかっている。ただ、損なわれたそれをめぐろうと思えなかっただけ。
 でも、この気持ちをどう言葉にすればいいかわからなかった。私は小さく息をついて目をつむった。そうすると、一輪が空いた手で私の額を撫でた。きっと言いたいことは伝わったのだろう。

 そうしてまたしばらく沈黙が続いた。私たちは月が沈みゆくこの沈黙の中で同じことを、異なることを思った。

 そのうち私が目を開く。一輪は私を見つめているままだった。
 私は今の沈黙の中で考えていたことを、彼女に告げようと思った。

「ねえ、一輪」

 彼女は小さくうなずいて先を促した。彼女の指を握りなおして、かたちを言葉にしていく。

「一緒に死のう」
「もうあなたは死んでいるのに?」

 あっさりと返されて、少し戸惑った。彼女の左手が私の胸をそっとつつく。

「心臓がないんだって、あなたはそう言っていた」
「確かにそうだけど」

 どう言えばいいのか困っていると、一輪が小さく息をついて口元を緩めた。涙の跡が月に照らされて煌めいた。

「わかってる。あなたの言いたいことは、ちゃんとわかってる」

 胸をつついていた手が私の額を撫でる。
 彼女の目から視線を逸らすと、自分の細い手首が目に入った。そこに結わえられていたのは、あの紺色の紐だった。重く息のない色が月明かりの中で音をたてて光る。彼女ならこの色を受け入れてくれるだろうか。不意にそんなことを思った。

「じゃあ、契りを交わそう」

 彼女の手から指を離し、手首から紐を外した。海水が染みこんで粘着くような藻の匂いがした。それを一輪の前に差し出す。彼女は急に真剣な顔になり、じっと見つめた。

「この紐が私たちの契りの証」

 彼女はそれを受け取り、それから小さな声で尋ねた。

「どこにつければいいの?」
「きっと髪を結わえれば似合うと思う。一輪はくせっ毛だから」

 一輪は少しのあいだ、その紐を見て物思いにふけっていたが、やがて首を縦に振った。
 ぎこちない動作で頭巾を外し、髪を後ろ手で束ねた。紺色の紐が結わえられる。紐が私と彼女の間で完全な誓いとなり、重い意味を持ちはじめる。その動作を私はひとつも見逃さなかった。
 彼女が髪を束ねると、月に照らされた表情が一層白く映った。

「似合ってる」

 彼女は小さく頷いた。そうして、再び静かになった。

 空に満ちていた波の音が引いて、満ちていく。欠けた月が視界の端に映った。夢の中で、それは心臓と同じものだった。いくら手を伸ばしてもつかめないもの。常に欠けた姿しか私たちに見せないもの。

「心臓を探す旅に出たい」

 気づくと言葉が口をついて出ていた。一輪は私を一瞥すると、遠くの海に視線を向けた。

「あなたの心臓はないって、何度も言ってるでしょう」
「だからかもね。ないってわかってる。それでも、何度も夢を見る。だからさ、必死に探して探して、それでもどこにもないってわかったときに、私の望みは叶うんだよ。そうなったらさ……いつかはわからないけど、でも――」

 私は体を起こして、一輪に体を寄せるように座った。私を支えるには細すぎる体幹を感じた。けれど、それでいいのだと思う。抱擁は浮かび上がるだけのものではない。墜ちゆく抱擁を私は求めていた。隣に存在する彼女も同じことを感じている。
 視線の先には海があった。月は海から離れて、知らないところへ姿を消してしまう。光も匂いもない場所にあって、何も思わない日が来ることを望んだ。五感をすべて失ったあとの終わりに優しく呑み込まれようと思っていた。

 それが、私たちの願い。

 私は彼女の肩に頭を載せた。

「いつか、海の底で死のう」

 また、一輪の目から涙がこぼれ落ちた。

 五

 聖が人間に封印され、私たちは地底に落とされる。それは契りを交わしてから数度夜を迎えてもないほど、突然のことだった。とても唐突。
 一輪に手を引かれて部屋を出ようとする、そのときにはすでに遅かった。入り口には刃物を持った人間がいて、それから妙な札を持った巫女もいた。彼らの目に哀れみも怒りもなく、彼らのため自身にそうしなければならないような義務感のようなものに満ちていた。
 床に一輪が崩れ落ちる。私は彼女の手を握ったまま、ただそこに立ちつくす。

 同じだ。最後の瞬間、痛いほどそれを思い知らされた。
 彼らに抵抗しようとは思わなかった。抵抗したってどうにもならないという無力感。あるいは、私自身そうなることを望んでいたのかもしれない。何度でも繰り返すこと、そこから私たちは何も変わりはしない。
 誰が何を求めていたかなんて関係ない。私たちは裏切られる。何度でも、海に。

 小さく頭の中で何かの声がした。けれど、私はそれを聞かなかったことにした。
 また、刃物が私の胸を貫いた。

 地底は悪い場所ではなかった。どうして人間がそこを疎むのかわからないくらいに。街は賑やかで地底という名前に似つかわしくないほど明るい場所だった。
 そこで私と一輪は千年、暮らした。適度に地底で仕事をして、疲れたら彼女と一緒に酒を呑む。ときどき気持ちが収まらなくなったら、彼女と濃密に交わる。

 あの海で一輪と交わってから、私は色々と変わっていた。まず自分の体に力が入るようになった。食事を摂るようになった。言葉数も増え、最後には外から来たという服まで着こなした。特に無理をしているわけでもなく、自然とそうなった。

 でも、交わろうと言い出すのは私の方が多かった。そうでもしなければ崩れてしまいそうだった。震える私を彼女は何度も抱いてくれた。疲れて私がまどろむまで付き合ってくれた。
 けれど、やはり交わるときには彼女も涙を流す。そのたび、私は彼女の涙をそっと拭う。それを口に運んで味を確かなものにした。私たちが同じことを思いつづけているのだと確かめていたかった。

 無為な千年といえばそうだった。恋慕が募るわけでもなく、消えるわけでもなく。どこに行くでもない。私たちはずっとそこにいた。そこにしかいられなかった。欠けた歯車を噛み合わせることができないように。

 それからまた、色々あった。地上に放り出されて、星に頭を下げられて。変な巫女たちや魔法使いと戦いながら、いつの間にか私たちは聖を救出していた。そして、新しい寺に私たちは住まわせてもらえることになった。
 寺のある場所は幻想郷。そこに海はなかった。

 すべてが終わって少し経った日。
 全員で昼食を食べ終わって、私は自分の部屋で午睡をしていた。暖かな春の陽だまりが窓から差し込んでいて溶けるようにうたた寝に入り込んでしまったのだ。ふと目を覚まして外の明るさとかすかな甘い匂いを感じて、言いようのない安堵感が胸に満ちた。
 しばらくその安堵感の中で呼吸をしてから、静かに体を起こした。部屋を出て、庫裏の廊下から庭へ。

 背後に聖たちのあたたかさを感じる。彼女たちは――ナズーリンは、星は、聖は――生きている。それはもう、いい。
 生きている、今の私も。そして遠くに見える一輪も。私たちは、生きるために生きていない。それだけ。

 桜の木の根元に彼女は腰かけていた。
 私が手を振りながら歩み寄ると、一輪は微笑んで少し横にずれる。幹には傷がひとつだけつけられていた。私の首元くらいの高さだろうか。けれど、感じたのはそれだけだった。私も一輪も、もうそれはただの表象として受けとめていた。
 私は木に背中を預けて彼女の隣に座る。桜の香りに混じって彼女の髪の匂いを感じた。すぐにそれは風に流されて淡く消えていった。

「なに読んでるの」
「大したものじゃないわ」

 読んでいた本を閉じて一輪は私に目を向けた。雲山が何かを言いたげに大きくなったり小さくなったりしている。

「いいの、雲山。そんなに気にすることじゃないから」

 雲山が私と一輪の関係を正確に知っているかはわからない。たぶん交わっているところは何度も見てきたのだろう。それでも、本当に私たちが何を望んでいるかは知らないはずだ。

「ちょっと、のんびりしすぎたかもしれない」

 彼女の髪に触れて言う。癖の強い毛が揺れる様子が少し面白かった。

「でも、千年ぶりに見る桜がすごく綺麗でよかった」
「村紗」

 薄雲がかかったような瞳が揺れた。私は黙って首を振り、彼女を後ろから抱いた。

「旅立つときに不安なのは一輪だけじゃない。私だって少し怖いよ」

 抱きしめたまま、口でそっと彼女の頭巾を下ろした。
 彼女の髪は紺色の紐で結えられていた。私の瞳の色よりもずっと深く、私の手首に宿った色。

「変わってないのね、あなたは」
「そうかな? 前よりはしゃべるようになったし、表情も増えたと思う。それに、怖いだなんていうの、初めてなのに」
「怖がっていたのは、約束したあのときだって同じよ」

 そうだったかなと小さく呟く。でも、彼女が言うのならきっとそうなのだろう。あの夜の浜辺での誓いを静かに思いながら、腕の中の彼女の感触を確かめる。

「怖いんだよ、やっぱり。だから、二人で行こう。どうしようもなくなったら、また――」

 唐突に、私の言葉を遮るように、一輪が私の手に自分の手を重ねた。その手は小さく震えていた。

「一輪?」
「私にはあなたしかいなかったの」

 うつむき気味で一輪はそう呟いた。

「昔も、地底にいたときも、それから今も。あなたが変わってしまったらどうしようかって、ただそればかり考えてた。怖かったの。あなたの体を抱きながら、あなたはどう思っているのかって。でも――」
「私は――」
「ううん、だいじょうぶ、だから」

 一輪はそう言って、静かに私に振り向いた。目に涙が滲んで薄雲の色は揺れていた。けれど、涙はこぼれていなかった。

 変わったのは私? それとも彼女?
 おそらく私は一輪の問いに答えることができない。けれど、思っていることは昔から何も変わってはいない。

 左手を彼女の頬にすべらせた。右手は彼女のうなじ、そこから少し上がって紐で結わえられた髪を撫でる。そのまま、私は言葉もなく唇と唇を重ね合わせた。雲山が見ていてもかまわない。一輪は首を傾けて私を求めてくる。そうして、音もない口づけは続いた。桜の花びらが散る中で。

 ほら、私たちの望みは、ずっとここにある。

 口づけが終わると、私は彼女のうなじに顔を埋めて、静かに呼吸をした。一輪が頭を右手で優しく撫でてくれた。

「ありがとう」

 不意に一輪が呟いた。少しの間、彼女の言葉の意味を理解できなかった。けれど、その言の葉に込められた気持ち、それを知ったとき。
 彼女の体を強く抱きしめて、私は応えた。

「どういたしまして」

 彼女の髪から、海に散る花の香りを感じた。

 遠い遠い旅になると思う。まず、この幻想郷から出るまでにどれほどの困難があるかもわからない。幻想郷を飛び出しても、どこの海に行けばいいかもわからない。
 過酷でどこまでも深く私たちは傷つけられるに違いない。涙を流しながらお互いの身体を抱くことだって、数えきれないほどあるだろう。欠けた月、それは私の心臓なのだから。それはつかもうとして手を伸ばしても、水の光となって散ってしまうだけなのだから。
 それでもいつか終わりは来る。欠けたものを抱えたまま、私たちは永遠に海の底にいる。光も射さないその世界で、私たちは前に進むことさえかなわないと思い知る。

 今度こそ、私たちは海の底で死ぬ。
 そんな終わりをかたち作る旅に出よう。

 そう思っていた。

 ◆

 ごめんなさい。

 泣きそうな声が聞こえた。
 私は緩やかな起伏が続く岩盤の上に立っていた。轟々と重い流れが私の頭上を走る。聞こえた声は、その流れの音を錯覚したのかと思った。けれど、同じ音が響く。

 あのとき、私がああ言わなければよかったのかな。

 私が死んでしまったあのとき、頭の中に鳴り響いた声と同じだった。かすかに聞き覚えがある。まわりを見回しても、声の主は見つからなかった。私は口を開いて彼女の言葉に応える。

 いいの。返した声は落ち着いていた。もう、自由になれるんでしょう?

 彼女は答えなかった。私は小さく首を縦に振った。答えは言われないでもわかる。私は言葉を続けた。

 囚われていた時間が無駄だったわけじゃない。そうすることが私には必要だったの。静かに呼吸を止めるための準備が。

 本当に?

 本当。

 静かに目を閉じた。深い海の底の流れは視界から遮断され、その音も遠くなっていく。重く冷たい海水の感覚も少しずつ失せていく。

 だから、今、私はここにひとりで立つことができる。ようやく、ぜんぶ終わるんだ。

 だったら、大丈夫。

 海に小さな涙が落ちるのを感じた。

 大丈夫。

 その声を聞いた瞬間、不意に強烈な眠気に襲われた。恐ろしく、優しく私の体から力を奪っていく。その眠気にされるがまま、膝が折れる。体がひどく穏やかに傾いていく。

 最後に彼女が何か言ったようだったが、もう聞こえなかった。
 肌を撫でる海の流れも、潮の香りも味も、まぶたの向こうにある光も。何もかも消えていく。そして、あの紺色の紐も。何もかも、手から離れていく。

 村紗水蜜。あの声は、間違いなくそうだった、はず、な、の……に――。

 それを最後に告げようとしていたはずだった。けれど、それさえ今の私にはかなわない。それが心残りになるかもしれない。けれど、同時に心残りになるという感情さえ淡い靄になって溶けていった。

 体が崩れていく。視界は完全な闇に染まる。世界は完全な沈黙に包まれる。そして、絡まった思考は唐突に解けて一本の細い糸になり、ゆっくりと闇に溶けていく。
 手から離れた紺色の紐が海へ溶けていくように。

 了
 
 
 


 
海底の月は、すくえない。
 

初出:2011年12月9日