夜伽話 ※18歳未満はご遠慮ください
 


 

 宇佐見蓮子は淵に立つ。

 稲荷神社の参道から少し外れて、森の隣にある祠。その軒先から見上げると、空には重苦しい鉛色が広がっていた。参道からは、急な雨に慌てるおとなたちの声と足音が響いている。時折小さいこどもの声も混じる。
 十歳の蓮子はこの街が嫌いだった。退屈なおとなになりたくない、でも弱いこどものままも嫌だ。彼女はいつもどこかへ逃げ出そうするけれど、十歳なりにこの街を出ることはできなかった。かろうじてできるのは、こうして街の喧騒から逃げて、祠の下で息を潜めることだけ。
 つかの間の通り雨は見えないカーテンとなって、蓮子を喧騒から隠す。ワイシャツの中に溜まる湿気を感じながら、彼女は大きく息をついた。この雨が止んだら今度はどこへ行けばいいんだろう。

 不意に背後から猫の声が聞こえた気がした。驚いて振り向いたが、祠の中には小さな神棚以外に何もない。なんだろう。足音を忍ばせて祠の裏にまわって、すぐに蓮子の瞳が開いた。
 そこにいたのは、蓮子と同じ背丈の女の子だった。けれど、その姿は遠い国で精緻に作られた人形のようだった。透ける金の髪、紫陽花色の淡いワンピース、その奥に隠された遠く白い肌。そして、空を深めた碧い瞳。少女はその碧色の目から零れる涙を、白く小さな手で何度も拭っていた。
「おかあさん」
 涙混じりのかすかな声。蓮子の胸がしんと痛んだ。
「どうしたの」
 気づけば、彼女に声をかけていた。金髪の少女は涙を拭って蓮子に顔を向けた。綺麗な顔、と蓮子はもう一度思う。澄み切った碧い瞳がまた蓮子の胸をしめつける。
「あなた、だれ」
 金髪の少女はしゃくり上げながらそう尋ねた。目元から新しい涙が零れ落ちる。蓮子は彼女の隣に立ち、ポケットから水色のハンカチを取り出した。
「私のことよりも、ほら」
 少女は弱々しくそれを受け取り、目元を拭った。それでも涙は途切れ途切れ零れる。
「おかあさん、って言っていた」
 少女の体がかすかに震える。
「おかあさんと離ればなれになっちゃった?」
 少女は首を弱々しく縦に振った。蓮子は続けて訊いた。
「傘、持ってる?」
 今度は小さく首を横に振る。
「私も。でも、通り雨みたいだからもう少ししたら止むよ」
 また少女は首を縦に振った。蓮子もそれ以上の言葉が見つからず、黙って祠の裏にある森を見ていた。少女のすすり泣きと雨の静寂が溶け合って祠を満たす。
 少女はこんな古く小さい所に似つかわしくない空気を纏う。それでいておとなの間にもいられない。母親とはぐれただけで泣いているのに。そう思うと、かたちにならない感情が蓮子の胸を満たした。淵に並んで一緒に立つ、弱々しい彼女への思い。
「私、宇佐見蓮子」
 自然に蓮子は自分の名前を告げていた。少女は目元を腫らしながら、蓮子の顔を見た。
「小学四年生でこの近くに住んでいるの。だから、ここのこと、すごくよく知ってる。あなたのお母さんもすぐに見けられるよ」
「本当?」
「大丈夫よ。ね、あなたの名前は?」
 祠の屋根の隙間から差す光が少しばかり明るくなる。
「マエリベリー・ハーン」
 蓮子は彼女の声を頭の中で反復した。
「不思議な名前」
 いつの間にか、少女の涙は止まっていた。彼女のしゃくりあげる間隔も広がる。彼女はハンカチを蓮子に返した。ハンカチから知らない花の香りがした。
「あなたと同じ、十歳。ロンドンから、来たわ」
「ロンドン。やっぱり日本人じゃないのね。でも、すごく日本語が上手」
「お母さんがしゃべれるから」
 また彼女の瞳にじわりと涙が浮かぶ。蓮子はそっとハンカチで彼女の目元を拭った。
「ね、ロンドンってどんなところ?」
 蓮子は微笑んで尋ねる。
「私、写真でしか見たことがないの。というより、この京都から出たことないわ。箱庭娘だから」
 つまらない冗談だと蓮子は自分でも思う。それでも、少女の薄紅色の唇が柔らかいかたちに変わる。
「ロンドンはつまらないところよ。霧ばっかりで、人も少ないの」
「そうなの? よく写真で見るあの時計塔は?」
「あれはもう化石。全然動いていないもの」
「二段バスは今でも走っているの?」
「そうね、でも観光客が全然いないから、おじいちゃんおばあちゃんの足になっているだけよ」
 淡々と語られるモノトーンの街は、それでも蓮子の心をこの鈍色から連れ出してくれた。
「マエ、ル、リベル、さん?」
「え?」
「あなたの名前、のつもり」
 碧い瞳は少しの間きょとんとしていたが、すぐに彼女の笑い声に合わせて軽快に転がった。
「私、メリーって呼ばれてるわ」
「そう、じゃあ、メリー」
「なあに」
 素敵な響きだと蓮子は思う。メリー。甘く滑らかな口当たり。
「この京都はどう?」
「すごく、不思議な街」
 彼女の視線が蓮子から離れ、森の奥へ移っていく。
「閉じられた場所なのに、色々なところへ通じる綻びが見えるもの」
 ぽつりと雫が蓮子の鼻を打つ。顔を上げると、いつの間にか雨は止んでいた。濡れた土の匂いが立ち上る。少女は一歩祠から離れた。
「止んだみたい」
 そして、蓮子に振り向いて微笑む。
「ありがとう。少しの間だったけれど、楽しかった」
 薄い蒼混じりに、彼女は手を振って蓮子のそばを通り過ぎていく。蓮子の喉から小さく声が漏れる。
「お母さん、探さなくていいの?」
「あなたと話してたら、少し元気が出たわ。大丈夫、心配しないで」
 そうして彼女はくるりとスカートの裾を綺麗に回して、祠を離れて音もなく人ごみの中へ溶けていった。
 彼女の瞳の碧さが、蓮子の目の奥から離れなかった。そして、彼女が見えると言った、綻び、その響き。気づけば、蓮子は自分から人ごみの中へと飛び込んでいた。

 黒い人山の中でも、彼女の香りははっきりとわかる。蓮子の視界の先に、少女の姿が見えた。彼女は入り口の鳥居の下に立っていた。蓮子も人波を潜り抜けて追いつく、その手前で足が止まった。彼女の前に男が立っていた。
「メリー。どこにいたんだ」
 少女が小さく肩を震わせたのが見えた。彼は携帯電話をポケットに突っ込み、少女に近づこうとする。彼女は首を振りながら後ずさりする。
「ほら、お母さんを呼ぶから、こっちに来なさい」
 蓮子の視界をおとなが区切る。少女が何か言葉を口にする。誰かの下品な笑い声がそれを塗りつぶす。それでも、蓮子は直観した。彼女はあの男を拒絶している。その瞬間、蓮子は鳥居に向かって飛び出していた。
「メリー!」
 少女と男が蓮子に振り向いた。二人だけではない、いろんなおとなたちが何事かと視線を向けていた。隔離の視線が蓮子に集まる。けれど、蓮子はまったく気にならなかった。彼女は少女に駆け寄り、その手をとって叫んだ。
「行こう!」
 少女は驚いた顔をしていたが、蓮子が手を引くと一緒に走り始めた。二人は人混みの中に飛び込んだ。男もしばらく呆気にとられていたが、すぐにその顔を歪ませて二人を追い始めた。けれど、おとなたちの下をかいくぐる二人に追いつくことはできない。

 二人は走った。彼が追うのを諦めたことも知らずに。暗い雲の影が二人の背中に落ちてきた。その影とおとなたちの声から逃げるように二人は走り続けた。さっきの祠も通り過ぎて、縁を飛び越えて森の中へ。
 森の中に入ると濡れた土が足に重く絡みついて、やがて二人は走ることをやめた。肩で息をしながら後ろを振り返ったが、もう誰かが追ってくる気配は消えていた。
「ごめん」
 口を開いたのは蓮子だった。
「勝手に逃げたりして」
 もう一人の少女は震えながら首を横に振り、そして糸が切れたようにしゃがみ込んだ。無数の木々の暗い影が彼女の肩に染み込んでいる。
「あの男のひと――」
「言わないで」
 痛々しい喘ぎ声に、蓮子は開きかけた口を閉じた。森の沈黙が二人を包む。戻れない終着点に来たようだった。
 蓮子は空を見上げた。黒々と繁った葉のモザイクの向こうに、かすかに陽の光が現れているのが見えた。視線を下に向けると、あまり遠くないところにその光は落ちていた。
「メリー」
 蓮子は沈黙に切れ目を入れる。
「さっき、この街に綻びが見えるって言ってたよね」
 少女は首を縦に振った。
「この森の中にも見える?」
 え、と少女から声が漏れた。
「なんとなくだけど、向こうの明るいところが気になって」
 少女はしゃがみ込んだまま、顔を上げて蓮子の指差す方を見た。そして、もう一度首をゆっくりと縦に振った。
「どこか、私の知らないところに通じているのね」
 少女が「でも」と応えた。
「その先に何があるのか、私にもわからないの」
「入ったことはないの?」
 少女は首を横に振った。
「怖い、と思っていたから」
 こわい。シンプルで鋭いかたちの言葉はメリーのこころを綺麗に取り出していた。けれど、蓮子が思う光の先はメリーの言葉とは違う。あの光の先に、この退屈な街とは違う世界があるはずだ。
 蓮子はもう一度彼女の手をとった。小さくて冷たい指が、蓮子の胸を震わせた。やっぱり、彼女はここにいるべきじゃないんだ。
「あそこに行ってみよう」
 少女の瞳が蓮子に向けられる。その碧が揺らいでいた。
「こんな暗くて、苦しくて、怖い場所じゃないよ、きっと」
「でも、もし、何かあったら」
「大丈夫。私は月と星から、時間と場所が視えるから」
 蓮子は彼女の隣にしゃがみ込んで、その瞳を真っ直ぐ覗き込んだ。
「一緒に戻ってこられる。あなたの手、放さない」
 揺らいでいた瞳が、蓮子の瞳と交わる。揺蕩いの色が落ち着きを取り戻すのを、蓮子は確かに見届けた。そして。
「れんこ」
 メリーが彼女の名を呼んだ。細く透き通る声がピアノの弦のように胸を震わせて、蓮子の口から嘆息が漏れた。
「私の名前、覚えてたんだ」
 メリーは少し恥ずかしそうに微笑んだ。蓮子も微笑み返して言った。
「一緒に行こう、綻びの向こう側へ」

 光の射すところは奇妙に円く開いた空間だった。いくつかの新緑がしんと佇み、陽だまりの中で瑞々しい雨粒を葉に載せていた。その空間の真ん中に石の柱が刺さっていた。角がぼろぼろに削れていてほとんど朽ちかけている。雨が降ったばかりなのにその柱は乾いていた。
 蓮子とメリーは石の柱に近づいた。二人の背中から空へ乾いた風が吹き抜ける。蓮子が今まで感じたことのない空気に鳥肌が立つ。
「見える?」
 蓮子がメリーの手を握り直して尋ねた。
「ええ」
 応える彼女の声は陽の光のように淡かった。
「まだ、怖い?」
 メリーは首を横に振った。
「もう、怖くない、あなたとなら」
「よかった」
 蓮子はメリーと手を繋いだまま、石柱に手を触れた。そして、メリーに笑いかける。
「片想いかな。私、あなたを好きになれそう」
 はっとメリーは顔を上げた。彼女の潤んだ瞳に太陽が呑み込まれる。そこに映る自分の姿に蓮子は気づかない。今告げた言葉に、孤独な少女の胸が静かに貫かれることをわかっていない。メリーの唇が、何かを告げようと小さく開かれた。
 次の瞬間、鈴が鳴る。耳元で、背後で、正面で、頭上で。肌に触れるほど近くで、意識の及ばないほど遠くで。それはガラスのビー玉が綺麗に割れる音だった。その異様な響きに二人は思わず目を瞑った。中の栗色と紫の帯が、どこに行けばいいのかもわからないままに違う世界へと放たれる。その間に太陽は静かに姿を消した。

 響きが収まると世界は夜に包まれていた。蓮子が先に、おずおずと目を開いた。そして、彼女は大きく息を呑む。
「メリー!」
 蓮子がメリーの手を振る。メリーも恐々と瞳を開く。それに合わせて、彼女の目が丸くなっていく。彼女の身震いが掌を通して蓮子にも感じられた。
「綺麗」
 メリーの口から漏れた言葉は、最後には嘆息へ変わった。
 世界の何もかもが変わっていた。月と星が煌々と薄い紫色の空に踊る。蛍のような白い光が宙に遊び、かすかに水晶の音色を奏でる。何よりも彼女たちの心を奪ったのは、暗い森がすべて淡い光を放つ水晶に変わっていたことだった。細く頼りない木の枝も、ふてぶてしく根を張る大樹の幹も、すべてが透き通っていた。それが月と星の光に照らされて煌めく。
 蓮子の胸は痛いほどに高鳴る。首筋から頭にかけて、何度も切ない電流が流れる。彼女たちの指先の毛細血管が同じ鼓動を刻んだ。二人のため息が色づいた。
 どこにでも行ける。メリーとなら、きっとこの世界の果てにも。蓮子はそんなことを思う。そして、同時に思う。この光景はメリーとの秘密の約束なのだと。その秘密の約束をずっと二人だけの、色褪せないものにしたい。
 蓮子の指がメリーの指を求めて絡み合う。指の欲望は腕へと伝わり、腕から四肢へと広がる。
「メリー」
 手を繋いだまま、彼女と向き合った。水晶の世界を背にした彼女は、今までのどの彼女よりも綺麗だった。髪の色も瞳の色もワンピースの色も肌の色も、彼女のすべてがこの景色の象徴だった。蓮子は彼女に顔を寄せた。メリーの吐息が耳に溶けていく。そっと柔らかな肌に頬が触れると、それだけで頭も溶けそうだった。メリーがよろめいて石柱に背を預ける。蓮子はメリーと鼻を触れ合わせながら告げた。
「好きになれそう、じゃなかった」
 そして、蓮子の幼い唇がメリーのそれと重なる。
「好きだよ、メリー」
 口づけは深遠の隙間を開き、彼女たちは容易く境を踏み越えていく。水晶の光が増し、鎖と楔に繋がれていた彼女たちはするりと体を透かしていった。

 潤ったメリーの唇は蓮子の肌に溶けて、メリーの瞳は蓮子の瞳に吸い込まれる。蓮子は何度もメリーに口づけを重ねた。息が切れても、数え切れないほどに。メリーの片手が救いを求めて蓮子の首にまわされる。少女の肉体の接触は過電圧となり、二人の頭を焼き切る。蓮子の唇はやがてメリーの細い首筋へ渡った。湿度がメリーの体を震わせる。腰と尻をかきむしる手にも、奇妙な背徳感がかけずり回る。言葉は灰となってかたちにならない。
 蓮子の手がメリーの秘所に触れると、かすかな湿り気があった。メリーは膝から崩れ落ち、蓮子の首にすがった。跳ねる吐息がますます蓮子の頭の中をかきまわす。透き通る彼岸花が首を傾げた。蓮子はメリーのワンピースを脱がせた。彼女の白が空を呑み込む。蓮子はメリーの胸に己の手を重ねた。固さの奥にある柔らかさは、メリーの暗喩だった。そして、メリーの手を自分の胸に導いて、同じように自身の比喩を伝える。蓮子は再びメリーに唇を重ねた。心臓はどこかで勝手に壊れてくれればよかった。
 蓮子の指が、聖所に忍び込んだ。吐息は絡み合いながら、水晶をゆっくりと吸い込んでいった。そのたび、メリーの瞳の光が複雑な色になる。蓮子の髪が長くなる。蓮子は口の端を上げて笑う。その笑みに対する肯定は喘ぎ声に塗られる。メリーの乳房が柔らかさを得て、蓮子の指を奪っていく。蓮子の顎の線が丸から綺麗な二次曲線へ変わる。花の香りが強くなる。指はメリーの奥まで届き、メリーは蓮子の指を拒絶しながら、奥へ奥へと誘い込む。蓮子の胸にも膨らみが生まれる。メリーの髪は腰に届くほどの長さになった。
 とうとう水晶がメリーの感覚と繋がった。そして、指を通じて蓮子の脳髄へ届いた。蓮子の指で景色が大きく震える。そのうちに、その世界のあらゆるものの震えが止まらなくなった。メリーの喉からはもう声さえ出ず、短い吐息が瞬発的に漏れるだけだ。許されざる一線を、蓮子は本能的に越えたいと願い、指を折り曲げてその願いを押し込んだ。途端、メリーの身体が弓なりにしなって。

 壊れた。

 幻想の叫びが己のかたちを失った。メリーの意識の霧散が水晶を砕く。木の幹も無数に繁る葉も、揺れていた草の葉も、すべて。その音は二人には聞こえなかったが、破滅の叫びは確かに存在していた。刹那が数刻になる。
 やがて、メリーの体の緊張が解けた。蓮子の指を締めつける感覚も失われた。蓮子は指を引き抜き、視線を上げる。砕けた水晶の欠片が宙を漂い、月の光の中で無数の色を映し出していた。そして、蓮子は自分の膝元に横たわるメリーに視線を落とした。メリーが意識を取り戻す。もう、彼女の体は少女のものではなかった。無数の色を呑み込んだ金色の瞳。確かな色と輪郭と、濡れている女性としてのそこを、蓮子は明確に理解した。
「私、メリーを、犯したんだ」
 その言葉が引き金だった。今までの躊躇いが嘘のように、水晶の欠片が二人をめがけて降り注ぐ。欠片は刃となり、二人の服を裂き肌を裂く体中を痛みが走り抜けていく。それは現実のものではない、耐え難い痛みだった。。凄絶な雨音が鼓膜をも裂こうとする。蓮子は声にならない叫びを上げた。彼女の体の下で、メリーも叫び悶えていた。
 痛い、痛い、いたい、いたい、いたい――!
 激しいノイズと痛みに押しつぶされる二人を、月だけが冷たく照らしていた。その月が、明滅する蓮子の思考へ静かに問いかける。どうして、あなたたちが傷つけられるのかわかる? 好きな人と幻想的な風景に出会って、好きな人と交わっただけなのに? 残酷でしょう、こわれものたち。

 どれほどの時間が経ったのか、蓮子にわかるはずもなかった。いつしか水晶の雨は止んでいた。あたりには月と空白と、そして血だらけの二人だけが残されていた。世界からは風も音も花の匂いも消えていた。メリーが一度大きく咳き込んだ。彼女の姿は、もう見るに堪えないほど無数の深い傷に満たされていた。
 蓮子の瞳から、血の混ざった涙がこぼれ落ちた。彼女はほとんど声にならない掠れ声で尋ねた。
「痛い?」
 メリーは小さく頷いた。蓮子はもう一度、尋ねた。
「怖い?」
 メリーは首を横に振る。そして、震える腕で体を起こし、蓮子の胸に頭を預けた。
「あなたとなら、怖くない」
 メリーの呼吸を乳首に感じる。弱々しく、今にも消えそうな生命。儚く美しい彼女を傷つけたことの後悔と、それでも蓮子に寄りかかる彼女の体温。だから、涙が止めどなく溢れる。胸から嗚咽が漏れる。
 わかっている、私はあの問いの答えを本当は知っている。これは罰で、啓示なんだ。たとえ今、彼女を犯さなくても、いつかたどり着いてしまう未来の、そして私が彼女に求める罪の重さの。その報いはこの痛みでしかない。それを私は怖いと思った。この痛みを抱えて生きていくなんてできるはずがない。それなのにメリーは言った。私とならこの痛みも怖くないと。だからこそ、よけいに、苦しい。
「ごめん、メリー」
 蓮子はメリーの頭をかき抱いた。
「私、無理だよ。こんなに、あなたを傷つけて、どこかへ行こうなんて、言えないよ」
 メリーが顔を上げて、その金色の瞳をそっと蓮子に預けた。
「私は、だいじょうぶ、よ」
 その瞳は無数の色を抱えながら、それでもどこまでも澄んでいるように見えた。蓮子は首を振って叫んだ。
「嫌だ、綺麗なあなたが、こんなに傷つくなんて!」
 だって、私が穢したから。だって、私があなたを独り占めしたかったから。そう告げることが蓮子にはできなかった。こんなときに嘘をつく自分はどこまで身勝手なのだろう。
 私は自分の場所から逃げようとしただけだ。私は綺麗なメリーがいて初めて知らない世界に踏み込めた。そこが綺麗で魅力的で無垢なところだと信じていたから。でも、それは幻想。そんな自分が自分で幻想を穢した、それがいつか訪れる現実。
「綺麗な、私」
 メリーが力なく蓮子の言葉を口にした。
「穢れのない、私」
 彼女の瞳から、金色の雫が一筋こぼれ落ちた。彼女の腕が蓮子の腰を撫で、それから弱々しく蓮子を抱きしめた。彼女の中にあるはずのないものを確かめようと、何度も。短い嗚咽がメリーの喉からも漏れた。けれど、蓮子は応えられない。首を横に振ることしかできなかった。

 やがて、メリーの腕から力が抜けた。蓮子の啜り泣きが浸す世界。その真ん中でメリーは蓮子に囁いた。
「空、見える?」
 蓮子はただ首を横に振るだけ。メリーはそれでも続けた。
「あなたの目、時間と場所がわかるって」
 それでやっと蓮子は空を見上げた。白く丸い月、その向こうの星。それらはもう、蓮子に何も告げない。蓮子は応えた。
「なにも、わからない」
 メリーはかすかに頷いて、右手を空に向かって伸ばし、傷だらけの手で月を包んだ。
 不意に世界が薄闇に染まった。星も光を失って氷の塊になる。その突然の現象は蓮子の理解の外にあった。ただ、彼女の視界から月が消えたことを認識しただけだった。蓮子の涙が止まる。
「何、したの?」
「偽りの月を、消したわ」
 メリーの右手が、地面に落ちた。蓮子はまた問いかけた。
「どう、やって」
「あなたの目が月に反応しないなら、この世界は偽りだから」
「なに、言っているのか、わからないよ」
 けれど、メリーは何も応えずに瞼を下ろした。いくつもの色をはらんだ瞳が沈黙に包まれた。メリー、と蓮子が弱々しく呼びかけた。メリーは息をついて、震える声で言葉を紡いだ。
「私のこと、好きって言ってくれて、嬉しかった。短い間でも、あなたに会えてよかった」
 メリーが目を再び開くと、その瞳は碧に戻っていた。そこから涙がこぼれ落ちた。彼女は口の端を緩めて、蓮子の胸に顔を埋めた。
「でも、私が、あなたを裏切ったのね」
「違う!」
 蓮子の叫びも、メリーの囁き声と変わらないほど弱々しかった。メリーは首を横に振った。
「いいの。今度は、私があなたに片想い、したい。少し先の未来で」
 メリーの体の膨らみが少しずつ失われていく。蓮子の腕が徐々に艶やかさを失って丸みを帯びていく。
「だから、水晶を、思い出に」
 彼女は自分の涙を、右手の甲でそっと拭い、その手を蓮子の左手に重ね、何かを手渡した。蓮子が手を開くと、長さを失った蓮子の指の中に透き通った珠があった。彼女たちを傷つけた水晶のような。
「蓮子」
 少女に戻ったメリーは最後に体を起こし、蓮子に口づけをした。
「また、会いたいわ」
 そうして、メリーの瞳が閉じられていく。少女の蓮子は彼女の名を叫んだ。自分で傷つけたひとの名前を、それでも失いたくないと。けれど、メリーが瞳を閉じると同時に、強烈な眠気が蓮子を襲った。今までのことを彼女の頭の中から洗い流していく。そのまま蓮子の意識は静かに消失した。

  ◆

 宇佐見蓮子は縁に立つ。

 蓮子が目を覚ますと、そこは森の中に開けた空間で、陽の光が差し込んでいた。彼女は乾いた石柱を背にして、うたた寝をしていたらしい。不思議な夢を見ていた気がする。でも、その夢で起こったことを蓮子は何も思い出せなかった。空に薄い雲が切れ切れに漂っていて、太陽がその切れ目から顔を出していた。
 戻らなきゃ。不意に蓮子はそう思った。立ち上がって辺りを見回すと、誰かが通ってきたらしい獣道が見つかった。蓮子は足早にその道を駆けて森を抜ける。古びた祠を通り過ぎると、観光客で賑わう稲荷神社の参道に出た。おとなたちがあちこちへ無節操に歩き回っている。蓮子はその間をすり抜けて、神社の出口へと向かう。
 参道の始まりの大きな鳥居の下に、なじみのある人影が見えた。
「おとうさん」
「どこに行っていたんだ、蓮子。探したぞ」
 彼は蓮子の姿を認めると、大きくため息をついた。
「明日、東京に引っ越すっていうのに、心配かけるなよ」
 彼に駆け寄る蓮子の足が止まった。
「東京?」
 彼は呆れた顔を浮かべながら、蓮子に歩み寄った。
「まったく、本当に俺の話を聞いていなかったのか。前から言っていただろ。仕事の都合で東京に行くって」
 蓮子は後ろを振り返った。周囲を暗い山に囲まれた、退屈なおとなばかりの稲荷神社。ずっと囚われていると思っていた彼女の世界。そこから飛び出すことは蓮子が望んできたことだった。
 けれど、胸の奥に何かが詰まったように、蓮子は息苦しさを覚えた。
「ほら、蓮子、行くぞ」
 父親が蓮子の右手をとった。蓮子の体がぐいと引っ張られるそのとき、彼女は何かが自分の右手にあることに気づいた。
「待って」
 蓮子は右手を彼から引き抜いて、手のひらを開いた。そこには小指ほどの透き通った珠があった。太陽の光を浴びて、無数の色を蓮子に見せた。綺麗な宝石だと蓮子は思った。
 唐突に、蓮子の胸が激しく痛んだ。大きなものが、胸の真ん中から抜き去られたように。あ、と喉から声が漏れた。気づけば目から熱い雫がこぼれ落ちていた。
「どうして――」
 それ以上言葉は続かなかった。ただ、胸の苦しさに押しつぶされるように、彼女は声を上げて泣いた。まわりのおとなが驚いて彼女を見るのも、父親が困惑するのも、その苦しさの前にはどうでもよかった。
 とても美しい夢を見ていた。私はその中で大切な約束をした。でも、その約束のことも、夢で確かに抱いたはずの想いも、もうどこにもない。

 慟哭の中で、それでも蓮子はひとつだけ、確かに感じていた。
 どんな痛みを抱えても、もう一度会いたい。
 いつかまた、会える。

 水晶を、思い出に。

 
 
 


 
幼いこわれものは知っている。いつか、再び穢されることを。それでも。
 

初出:2017年2月14日

 


 

■裏話

最初は他愛もない気持ちで書き始めたのですが、
いつの間にか思っていたよりも重く、
それでも綺麗にまとまったなと今は思います。
プロットを作らないまま書き始めて、途中で詰まって、
それからプロットを作って初めてやりたいことが見えたお話でした。

最初は単純に秘封倶楽部の二人のロリねちょを書きたいと思っただけでした。
で、単純なエロを書くのもつまらないので、
「こわれもの(Fragile)」というテーマを適当につけていました。
あらすじとしては、二人の初めての不思議探しで、綺麗な風景を見て、
その風景の中でねちょって、少女のピュアさを失う、的な感じ。

けれど、書いてて自分でよくわからなくなって、
あらためてきちんと描きたいことを考えたときに、
その意味を見直す必要があるな、と思ったのです。

「こわれもの」って結局なんなのか。
私の中では、性的な意味での少女のピュアさもそうなのですが、
少女の抱く幻想のことだと改めて思いました。

おとなの世界を嫌悪する蓮子。
彼女にとってメリーの見る世界は美しく、憧れでした。
だから、そっちの世界に行きたいと思うし、実際に行った。

でも、憧れの世界がつらくない世界というと、
そんなことないと思うんですよね。
幻想郷だって私たちの中の憧れに近いところはありますけれど、
それだって人間は妖怪に喰われるし、パソコンなんかないし。
現実の厳しさって、どの世界にもあるはず。
物心ついたときからメリーは幻想の世界に
そういった怖さを見ていたのだと思います。

こういったところに蓮子とメリーの考え方のギャップがあります。
でも、蓮子はメリーに恋をするし、メリーは蓮子に恋をする。
その気持ちはすごく純粋で、でもそのギャップが明らかになったときに
壊れてしまうような、そんな脆いものでもあります。

二人が性の交わりを経たとき、幻想世界の真実を知って、
蓮子はそこに裏切られたという痛みを感じます。
幻想だと思っていたものも、結局地続きの現実でしかないと。
そんな真実は知りたくなかったと、思うのです。

でも、メリーはそうではありません。
幻想世界の痛みを彼女は知っていて、耐えることができる。
だけど、暗い現実の中で見つけた蓮子が一筋の希望でした。
だから、痛みを抱えたって蓮子と一緒にいたいと思った。

ここが『かえれんこ』と逆で、
痛みの先に同じ思いを持つのではなく、
痛みの先にお互いのすれ違いを理解したわけです。
同じ痛みを抱えても、ふたりは向き合うことができないのです。

それでも、メリーは蓮子に恋をした。ただ、蓮子は幼かった。
あの痛みを受け入れるほどには強くもなかった。
だから、メリーは未来の蓮子に願いをかけました。
彼女が現実を知って強くなったときに、もう一度彼女と繋がりたいと。
色々と蓮子の未来にはつらいこともある。
それでも、彼女がいつまでも夢を持ち続けられるように。

「水晶を、思い出に」。

今回のお話はそういう想いを、具体化したものでした。
結局、また二人の痛みに向き合うことになるんだな、と思い、
文体やタイトルを『かえれんこ』シリーズにあえて似せました。
ストーリー的に繋がりがあるかは、皆さんのご想像にお任せです。

別れで終わるはずの彼女たちを繋ぎとめる水晶。
それは穢れを知らない蓮子の象徴でもあるように、私は思うのです。