創想話
 


 
  零

「私、三ヶ月後に死ぬんだ」

「君が、かい? ……ああ、そういえば、昨日そんなことを聞いた気もする。風の噂か何かかな。あれは本当だったのか」
「早苗経由かもしれないぜ」
「ああ、そうかもしれない。しかし、彼女はいい子じゃないか。きちんとものに見合う分だけの対価を払ってくれる。ときどき僕でも驚くような額を出すときもあるが、基本的には優良客だよ。不良客の君とは違ってね」
「ひどいな。私もちゃんと死ぬ前には払うさ」
「つまり、今払ってくれるということかい?」
「死ぬのは三ヶ月後だよ。だから払うのも三ヶ月後だ」
「なんだ、まだ先か」
「今日は買い物をしに来たんだ」
「もう君のその言葉は信じないことにしている。勝手に持っていくだけで、買っていないじゃないか」
「まあまあ、だから死ぬ前には対価を払うって言ってるだろ」
「期待せずに待っている」
「……お、これいいじゃないか。香霖、これを買ってくぜ」
「ああ、じゃあお代は――」
「ツケといてくれ」
「……一瞬でも期待した僕が馬鹿だったよ」
「だからちゃんと死ぬ前には払うって。じゃあな、香霖」
「……ああ、また来てくれよ」
「アリス、行くぜ。……なんだよ、その埴輪っぽいぬいぐるみ。ほらほら、早くしないと置いてくぜ?」

「今行くわよ」

  一

 そして、深い夜の中、ベッドで魔理沙は泣く。すすり上げるような泣き声がしんみりとベッドルーム全体に広がり、壁と天井で寂しく反響した。ときどきしゃくりあげる声が私を苦しく、ときどき出る唸りが私をいたたまれなくさせる。カーテンの隙間から月光が漏れ、それが暗い部屋の冷たさをいっそう強調させる。
 私は椅子に座ったまま、彼女に言葉をかけた。

「寝ないと体に毒よ」
「寝られるか……!」

 魔理沙がベッドに伏したまま言葉を吐き出す。ベッドの柔らかさがその苦しさだけを残して音を吸収する。

「怖いんだよ、怖くて寝られるわけないだろ」

 私は大きく息を吐いて、立ち上がった。椅子が床を引っ掻く。こつこつと床とブーツがぶつかる音を立てながら、私は魔理沙のベッドのそばに立ち、魔理沙に言う。

「こうしていても、ただあなた自身の死を早めるだけよ」
「わかってる!」

 明かりのないベッドルームの中で、魔理沙は顔を私に向ける。

「わかってるんだよ」

 鼻が詰まったような声に私は思わず耳を塞ぎたくなった。けれどその衝動をぐっと胸の中で押し殺す。

「だったら――」
「でも、怖いんだ」

 魔理沙が私の言葉を切って、哀しい目で私を見た。暗い金色がず、と私を射るように見ている。魔理沙は震える声で言う。

「寝てしまったら死んじまう、それを考えただけで、怖いんだ……!」

 また魔理沙はベッドの中に顔をうずめてすすり泣く。とてもつらそうに。すすり泣きが私の胸をじぐじぐと痛みつける。私は服の胸元をぎゅっと握り、魔理沙のベッドに腰掛けて、黙って彼女を見つめる。
 もう私が言うべき言葉はなかった。何を言おうが、魔理沙は恐怖しか口にしない。体に触れようが、魔理沙は私の手を払いのける。彼女は私を受け容れようとしない。
 魔理沙の気持ちが理解できる――そんなことはありえないけれど、おぼろげに想像することはできる。擬似五感ではわかる。私も過去には人間だったのだから。

 希望のない道を、後ろから押されて歩くというのはどういう気分なのか。不幸というものが、どうしてこれほど重く私たちにのしかかってくるのか。わかる。わかりたい。
 不幸は希望の光を奪い、私たちを闇の中に落とす。私と魔理沙はその闇のなかで抗い、それでも無力に死へと落ちつづける。

 人間のエンディングとは、そういう哀しいものなのだろうか?
 魔理沙が泣く夜を迎えるたびに、私は思う。

 ◆

「癌よ」

 永琳にはっきりと言われたのが三日前のことだった。

 去年の秋の終わりから、魔理沙は体調を崩し気味だった。風邪を引くことは私が知るかぎりでも数度あったが、その頃からかなりの頻度で風邪を引いていた。一ヶ月に一度は熱を出していた。

「ここんとこ、無茶ばっかりしてたからな。もう今年はゆっくり休めってことなんだろ」

 魔理沙はベッドの中で笑った。
 魔理沙が度々そういうことになるものだから、出不精であったはずの私が何度も魔理沙の家に行くことになり、看病もした。おかゆを作ったり、服の用意をしたり、ときどき、“研究室”と呼ばれるガラクタ倉庫を含む、家の掃除をした。
 そういう生活は案外私にとっては悪くなかった。さながら妻のようだと思ったこともある。人形に手伝ってもらいつつ、弱った魔理沙の世話をするのは楽しかった。

 けれど、その生活は長く続きすぎた。涼しい秋が終わり、冷酷な冬を越え、肌寒い春を迎えても、魔理沙は風邪を引き続けた。桜が散りはじめ、陽気な太陽が幻想郷を暖めても、魔理沙の顔色は戻らなかった。

 何かがおかしいと気づくのが遅すぎた。気だるそうに箒に乗って永遠亭に向かい、やたら多くの検査を受けた魔理沙に叩きつけられた一言が、あの言葉だった。どれほどそれが重い宣告だったか、どれほど。

「余命は三ヶ月。もう少し早く来れば、あるいは治療できたかもしれなかったわ」

 落ち着いた永琳の声が、私の体を小さく震わせる。カルテを置いて永琳はどこまでも冷静な紫の瞳で魔理沙を見た。

「でも、もうすでに末期の状態。癌細胞が増えすぎているわ。どんな薬を投与しても、あるいは手術をしても、この癌は治療できない。仮にその方法を取れば癌と共にあなたの命も失われる。それが私の判断、そして結論」

 絶句。私は立ち尽くすだけだった。
 魔理沙が椅子から立ち上がった。その勢いで、椅子が大きな音を立てて後ろに倒れた。激しい音が診察室の一瞬の沈黙を突き破る。

「じゃあ、私はもう死ぬしかないのか? 何をもってしても、もう私は三ヶ月で死ぬのか?」

 からり、と倒れた椅子が傾く音がした。短い沈黙。魔理沙は永琳を睨みつけている。永琳は感情のない目で魔理沙を見ている。私はうつむいたまま何も言えなかった。

「人間、霧雨魔理沙」

 短い空白を壊す永琳のその言葉に、私ははっと顔を上げた。過去の記憶が突然巻き戻るように私の脳内を駆け抜けた。私は固まっていたはずの口を開いて言葉を音にしようとする。

「もしかして――」
「あなたの選択肢は」

 けれど私の言葉は永琳によって打ち砕かれた。永琳が一瞬だけ私に鋭い視線を送る。私は慌てて口を閉じる。永琳の視線が胸に突き刺さったまま、私は沈黙に戻った。永琳は魔理沙に視線を戻して続けた。

「ひとつ、死ぬこと。もうひとつ、魔法使いになること」

 永琳をにらんでいた魔理沙の目が少し和らいだ、気がした。私にはそう見えた。永琳はその魔理沙の反応を見ながら説明を続ける。

「魔法使いになれば、人間の細胞レベルから体が造り変わる。だから、癌細胞もそれ以上侵食できなく――」
「いや」

 静かな声で魔理沙は永琳の言葉を切った。永琳はおとなしく唇を結んで、魔理沙を見据えた。魔理沙は小さくうなずいてから告げた。

「魔法使いには、ならない。そうなるくらいなら、私は人間として死ぬ」

 私は魔理沙を見たが、魔理沙の顔からは何も読み取れない。重い言葉を口にしたはずなのに、魔理沙の顔には決意の香りがしなかった。私は思わず彼女の腕を掴みそうになった。

 それで、いいの?

「そう」

 魔理沙の言葉に永琳は小さく息をついた。予想通りの展開に対する退屈とも感じられた。永琳は魔理沙から診察室の奥に視線を向けて小さくうなずき、何かの合図を送った。すぐに優曇華院が来て永琳に小さな紙袋を渡し、それから一度だけ私と魔理沙をちらりと見て、診察室の奥に逃げるようにして潜っていった。

「あなたがそうすることを選ぶなら、この薬を」

 永琳は立ち上がって魔理沙を見下ろした。彼女の胸元に袋を差し出した。魔理沙は永琳を見上げながら、それを握るようにして受け取った。

「ある程度癌の進行は抑えることができる。副作用もかなり抑えているし、三ヶ月間、本来の苦しみを味わうことはないわ」

 魔理沙は黙って小さくうなずいた。永琳はそれを確認して、次に私に視線を向けた。私は身構えそうになったが、何とか平静を装うことができた。

「さて、これで魔理沙の診察は終わりなんだけど……あなた、ちょっと私と一緒に来て」

 彼女は踵を返して診察室の奥に行った。私も彼女のあとについていく。そこで渡されたものは、「胡蝶の夢」だった。以前、私が永琳に頼んだ薬。思い通りの夢を見られる薬。

「私、こんなもの――」
「薬代はいらない。ただ、持っておきなさい」

 永琳は囁き程度の声で、けれど強い口調で言った。

「いつかは必要になるはずだから」

 すべての宣告と薬を受け取り、私たちは永遠亭を出た。そのままふらふらと魔理沙の家に向かった。
 現実がリアルではないようだった。永遠亭の外に広がる竹林の風景は、太陽の光が乏しいはずなのにいやに眩しく見えた。空に飛び上がっても青は水のように澄んでいて、靄のように澱んでいる。幻想郷にあるすべてのものが太陽に照らされて異様に眩しかった。

 魔理沙の家に戻り、それから夕飯までは今まで通り暮らした。魔理沙は紙袋をダイニングテーブルの上に置いて、それからしばらくベッドでのんびりと魔道書を読んでいた。私は「胡蝶の夢」をポケットの中に入れて、夕飯の支度をした。普通の生活、なのに心はどこか空に浮いているままだった。
 夕食ができて、私たちはそれもいつものように食べた。食事中の口数が少なめだったが、そういう日も今までに何度かはあった。

 食事が終わり、私は食器を片付けた。そして、普段なら私が二人分の緑茶を淹れて、そのうちのひとつを魔理沙に渡すところだった。けれど、その日、魔理沙に渡したものは水の入ったカップだった。私はダージリンティーを自分のカップに淹れて、テーブルに置いた。
 魔理沙はダイニングテーブルに置いてある紙袋を開いて、その中から錠剤をひとつ取り出す。一度深呼吸して、それから錠剤を口に放り込み、水を喉に押し込む。あっという間の動き。ごくり、と薬を飲む音がダイニングにやけに大きく響っく。そのまま、時が止まったような静寂。

 すべてが止まっているはずの時間の中、ふとカップが魔理沙の手から滑り落ちていくのが私の視界に入る。するり、と音も立てずに取っ手が魔理沙の手を離れる。次の瞬間、鋭い音が家中に広がった。ダイニングだけではない。ベッドルームにも、キッチンにも、“研究室”にも。わずかに水の残っていたカップが床で割れて砕けた。
 そして魔理沙の目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

 何が起きたか、私には少しの間、理解できなかった。カップが割れたことも、魔理沙が泣き出したことも。それが何を意味するのか、感じることができても理解することができなかった。けれどすぐに、私の心は事実の楔に引き込まれ、打ち付けられる。魔理沙の死という事実。
 それを心の奥底で感じたとき、私の目からも涙がこぼれた。意識なんてしていない。唐突に、自然に涙が溢れ出てしまう。
 私たちは夕食の片付けの終わったテーブルで泣き崩れた。色々なものが崩壊した。それがそのときこそリアルに、私たちの現実として現れたときだった。
 窓の外は夜だった。

 その夜、魔理沙は眠ろうとしなかった。ベッドに入ることをひたすら拒否した。
 彼女は荒れた。家にあるものをすべて壊そうとした。食器も、本も、服も、彼女が触れるもの、すべて。泣きながら壁に投げ、床に叩きつけた。私が止めようと思っても、病人とは思えない力で私を振り払った。私は床に投げ飛ばされて、それ以上魔理沙に近づこうとは思わなかった。
 一日中それが続いた。ガラクタが多すぎて一日ではすべて壊すことができなかった。だから魔理沙はひたすら壊し続けた。壊すものを中毒的に求めた。何かを手にし、それを壊そうとした。
 そして昨日の明け方、突然糸が切れたように魔理沙は停止し、そのまま床に崩れ落ちた。部屋の隅で震えていた私が近づくと、魔理沙は苦しそうな呼吸をしながら眠りに落ちていた。ときどき発作のように体を震わせて。

 私は泣きたくなった。いろんなことに。けれど、そうするわけにはいかなかった。
 私は魔理沙をゆっくりと抱き上げて、彼女をベッドに入れた。よほど疲れているのか、魔理沙が起きる気配は欠片もなかった。ベッドの上で小さな呻きを漏らし、何かを掴むようにぎゅっと手を収縮させるだけだった。
 それから私は、荒みきった魔理沙の家を片付けはじめる。

 割れた皿の欠片を拾いながら、私はぼんやりと思う。魔理沙はこれから失われる日常をきっと目にしたくないのだ、と。いつかはまるで手が届かなくなる日常を、昔はあったはずのあたたかい日常を、これから飢えるように求めることを、魔理沙は知っているのではないか。
 いつかはそうする自分が憎くなる、手に入らないものを求めることが虚しくなる。その未来が怖い、だから魔理沙は自分から日常を喪失させようとしているのではないか。最初から自分の中にそんなものなどがなかったように、現実もろとも消そうと。

 魔理沙は夕方に目覚めた。起きて少しの間、その目は虚ろで何も見えていないように見えた。けれどすぐに恐怖の色が宿り、魔理沙は飛び跳ねるようにしてベッドから離れた。そして私を見て、泣き出した。ベッドの枕をつかみ、思いきり床に叩きつけた。
 魔理沙はまた暴れた。私は部屋の隅で何も言えず、彼女の破壊のさまを見つめることしかできない。泣きながらあらゆるものを壊す努力が、昨日の夕方まで続いた。

 それが今までの記憶。もう今日は彼女が手にできるものは何もなかった。あらかたのものは壊されたし、完全な形として残っているわずかなものは私が意図的に隠した。魔理沙の手はしばらく空をさまよったが、徒労に終わった。
 そして深い夜の中、ベッドで魔理沙は泣く。ただベッドに伏して泣くだけ。月の光がおぼろに燃える夜の暗さの中で。私は魔理沙のベッドに腰掛けて、彼女をじっと見つめる。言葉は口にできず。

 長い時間がたち、魔理沙の泣き声は小さくなり、そのうちに彼女の呼吸は規則を保ちはじめた。シーツを挟んで空気を吸い、吐く。その繰り返しが生まれた。哀しみの金色は彼女のまぶたに隠された。
 魔理沙が寝た。私はそれを確かめて、また彼女をきちんとベッドの中に入れた。涙で濡れたベッドの中で魔理沙は眠る、昏々と。

 私はベッドから離れ、開きかけていたカーテンを閉めた。それでも魔理沙が破った部分からは青い月と赤い朝日の光が混じり合い、滲むように部屋に入り込んでくる。その隙間から見えるのは沈黙の魔法の森。空の向こうは青と赤のグラデーション。
 ベッドで眠る魔理沙をあとに、私はキッチンへ向かった。隠していたティーカップを取り出し、窓から射しこむ小さな明かりの中でダージリンを淹れる。

 カップに注いだ紅茶から淡い香りが立ちのぼってくる。私はそれを吸い込んで、ぼんやりと思った。こうして朝を迎えられることが、どうしてこれほどまでの安堵をもたらしてくれるのだろう、と。
 私は立ったまま淹れたての紅茶を口にする。震えるほど寒い明け方のキッチンの中で、紅茶の熱さがじわりと体を満たしていく。ぼんやりとしていた視界が少しだけはっきりとした気がした。
 もう私は苦しむ魔理沙なんて見たくない。暴れてものを壊す魔理沙も、ひたすら夜を泣き通す魔理沙も、もうそんな魔理沙は嫌だ。だから明け方になって眠りに落ちる彼女を見て、私は大きなため息をついてしまう。私の安らぎはこの時間にしかない。

 それはとても残酷な私の心の仕組みだと思う。けれど、私はそう思わざるをえない。
 もう、眠りを忘れてしまった私には、そう思えてしまうのだ。

  二

 午後になって少しして、魔理沙が勢いよくベッドで体を起こした。私はすでに一人でランチを食べた後で、魔理沙の部屋で静かに紅茶を飲んでいるところだった。彼女が寝ていたのでカーテンも開けていなかったが、ベッドルームはカーテンの裂け目から入る太陽の光で明るかった。

「このままじゃ、だめだ」

 声は嗄れていたが、はっきりとした声で魔理沙は言った。その顔は今起きたばかりとは思えないほどにはっきりとした意志に満ちていた。金色の瞳からは哀しみではなく、力が満ちていた。
 魔理沙はベッドから飛び降りるようにして離れ、窓の方に向かい、思い切りカーテンを引っ張った。しゃっ、と鋭い音がしてカーテンが開かれ、真昼の力強い太陽が魔理沙の家の中に舞い降りた。私はその光の強さに思わず目を細めた。
 魔理沙は窓の外をしばらく眺め、それから私に視線を向けた。燃えるような目。そのまま私のもとに歩いてきた。

「私の昼はどこだ?」

 私は手にしていたカップをミニテーブルに置きながら答えた。

「あるわよ、キッチンに」
「ありがとうな」

 私が持ってこようかを尋ねる前に、魔理沙は素早い足取りでキッチンに向かっていた。しばらく私はあっけに取られていたが、やがて紅茶の残っているカップを手にしたまま、ダイニングへ向かった。
 そこでは魔理沙が勢いよく作り置きのリゾットを食べはじめていた。湯気が立っているから魔法で加熱はしているのだろう。それにしても早すぎると私は思った。そして魔理沙の食べる速度も異様に速かった。
 あまりに速いものだから、半分近く食べたところで「うっ」と魔理沙は小さな呻きを漏らし、苦しそうにスプーンを置いて私に手を伸ばす。私が慌てて魔理沙に紅茶の入っているカップを渡すと、その紅茶を喉に思い切り流し込んだ。

 私は一度キッチンに行き、水を入れたグラスを持ってダイニングに戻った。その間に魔理沙はリゾットを食べ終え、小さくため息をついていた。それから私の手元のグラスに気づき、「気が利くな」と言って手を差し出してきた。私がグラスを手渡すと、彼女はもう片方の手にあった錠剤と一緒に水を勢いよく飲み干した。

 音を立ててグラスを置いた魔理沙は、私を見て真っ直ぐに言った。

「――悪い夢を見てた」
「悪い、夢」

 私はぼんやりと魔理沙の言葉を繰り返した。「悪い夢?」

「ああ、ものすごく悪い夢だ。それを見て思ったんだ。このままじゃだめだってな」
「どういうこと?」

 魔理沙の目に一層力がこもった。突然の閃きに取り憑かれたような、そんな必死さを感じる瞳だった。

「寝ようが寝まいが、泣こうが泣くまいが、何をしたってもう寿命は決まっているんだ。何をしようがその事実だけは変わらないんだ」

 魔理沙はテーブルに拳をのせた。食器がテーブルの上で小さく震える。かちゃり、という音に私の心臓が共振する。

「このまま泣いていても潔く死ねない。どうせ死ぬなら、とことんみっともなく生きてやる。全力で生きて、私のいた証を残したい」

 真剣な顔つきで話していた魔理沙が、そこでにっと笑った。

「死ぬ前には、とびっきりのいい夢を見たいからな」

 笑顔を見せる魔理沙、それに対する私は腕を組んで椅子の背もたれに寄りかかる。私はどういう反応をすればいいのか、にわかには思いつけなかった。
 どうして魔理沙が突然そう言い出したのか、わからない。「何をしたって寿命は決まっている」――もう三ヶ月しか魔理沙は生きられない。それは彼女もわかっているはずだ。私にとって、それはもう手遅れという事実にしか感じられない。

 何が、全力をもって生きる?
 私は背もたれに寄りかかったまま、腕組みを崩してカップに紅茶を注ぎ、それを啜った。
 太陽の光に満ちた部屋の中、魔理沙は笑っている。

「なあ、アリス」

 その声は嗄れているけれど、明るい響きだった。私はそっと目を上げて魔理沙の顔を見る。彼女の笑みをその響きを、私は崩さない。

「私の最後の思い出作りに付き合ってくれるか?」

 最後の思いがあるというなら、私はそれに付き合うまで。もう彼女の苦しく、哀しい泣き声を聞くのはいたたまれないから。だから私はカップから唇を離し、その唇で薄い笑いを浮かべて言う。

「ええ、いいわよ」

 太陽を背にして、魔理沙は目を細めた。彼女の髪から太陽が透けて、まるで髪そのものが煌きを放っているようだった。そうして魔理沙が決意をしたのは春の日の午後だった。
 私の意思を確かめた魔理沙は満足そうにうなずいた。

「ありがとうな、アリス」

 そして、ゆっくりと椅子から立ち上がり、“研究室”へと足を運んだ。私はダイニングテーブルに座ったまま、紅茶を自分のペースでゆっくりと飲んでいた。
 やがて魔理沙がダイニングに戻ってきて、テーブルの上に手のひらよりも少し大きなものを置いた。それは魔理沙が愛用する八卦炉だった。

「へへっ」

 魔理沙は軽く笑い、テーブルのそばで立ったまま、そこに魔力を充填させた。八卦炉が強い太陽の光の中に負けないようにぼんやりと光り、魔力を吸い込みはじめた。
 私はそれを何に使うのか、何も尋ねなかった。

 そうして最初に魔理沙は霖之助に自分の死の事実を伝えた。香霖堂の次に向かったのは博麗神社だった。
 霊夢は境内の掃除をしているように見えた。けれどよく見てみると手にしている箒はほとんど動いていなかった。暖かい陽の中で、霊夢はときどきのんびりと欠伸をし、それから二、三度箒を動かしてぼんやりと魔理沙と私が飛んでくるのを見ていた。
 私と魔理沙は境内に降りて、魔理沙はすたすたと霊夢の方に歩いていった。

「サボり、ご苦労様だな」
「サボってないわよ」

 その会話に始まり、魔理沙はまた自分の死を霊夢に告げた。霖之助のときと同じように、三ヶ月後に死ぬ、ということだけを。その話し方は雑談をするいつもの様子とまるで同じだった。
 霊夢は魔理沙の言葉を聞いて、うなずきもしなかった。

「ああ、それは大変ね」

 紅白の巫女装束が涼しい風に揺れた。
 まただ、と私は思った。霖之助と同じように霊夢も魔理沙の死を軽く受けとめてしまった。魔理沙の死に対してそういう態度をとれることが、私は信じられなかった。

「冷たいなぁ。私とお前の仲だろう?」
「わりとあなたの一方的なアタックだったわよね」
「確かにそうだったな」

 魔理沙は笑う。霊夢も肩をすくめて苦笑する。

「何か、欲しいものはある? 用意できるならするけど」

 魔理沙は一度だけ真剣な顔になり、口を開きかけた――けれど、その口を閉じて笑った。そしてもう一度口を開く。

「ないぜ。欲しいものは私が自分で手に入れる」
「そう」

 霊夢はふっと表情を和らげた。

「なら、いいわ」

 そうして霊夢は箒を二、三度動かし、小さなため息をつく、という動作の繰り返しを再開した。

「次、行くか。じゃあな、霊夢」

 魔理沙は箒にまたがって霊夢にそう言った。霊夢は面倒くさそうに左手を振って応えた。私も魔理沙のあとに続いて空に向かおうとする。

「アリス」

 不意に背中から声をかけられた。私は踏み込んだ左足を無理やり止めて、後方を振り返る。恐ろしく冷たい声、無理やり止めた左足、刺さるような痛み。太陽に雲がさしかかり、霊夢の顔に濃い影が映る。彼女の後ろには博麗神社があり、そして博麗神社は幻想郷を背にしている。桜が散り終わって、暖かい陽だまりに包まれる幻想郷。
 霊夢はその風景を背にして表情を消した。そしてじっと私を見つめた。深い深い黒の瞳。表面は暢気という滑からなもので包まれている。けれどその下に何が潜んでいるのか、何もわからなかった。
 霊夢は私を見つめたまま、静かに尋ねた。

「……どうして、魔理沙と一緒にいるの」
「――え?」

 すっと太陽の光が霊夢の顔を射し、影が彼女の顔から剥がれていく。霊夢は目をつむって首を横に振り、言った。

「いいえ、なんでもないわ」

 そうして彼女は私に背を向けて掃除にならない掃除を再開した。
 どうして。それを訊きたいのは私の方だ。どうして霊夢も霖之助も魔理沙の死に対してこれほど冷静でいられる? どうして魔理沙は自分の死の事実をこうも簡単に告げてしまう?

「おおい、行くぜ、アリス」

 魔理沙の声がして私は空を見上げる。春の光と澄んだ青がそこには広がっている。
 私は表面しか見ていないのではないか、例えばこの空のように。私が見ているこの空の青の向こうにどれほど暗い世界が待っているのか、私は知らない。それなのに、私は空を青でしかないと思いこもうとしている。
 霊夢が見せた影は、空の向こうにある暗さを――。

「それは大変ね」

 パチュリーは力のない目で、魔理沙の告白にそう応えた。博麗神社の次に向かったのは紅魔館。レミリアと咲夜にもひととおりの事情は話したあと、ここの図書館に来たのだ。

「魔法使いにはならない?」
「ああ」
「きっとそう言うだろうと思った」

 パチュリーは薄い唇をそっと上に吊り上げたように私には見えた。

「本なら――」
「死ぬ前にはちゃんと返すぜ? 盗人じゃないんだ。私は借りてただけさ」
「いいえ、蔵書を返すのはあなたが死んでからでいいわ。あなたが律儀に返すことを期待もしていないから」
「おいおい、ひどくないかい、パチュリーさん? 私だってやるときはやるんだぜ?」

 パチュリーの眠そうな目が魔理沙をじっと捉える。

「確認するけど」

 重い声でパチュリーは言う。

「あなたは人間として死ぬ、そう覚悟している」

 口を尖らせていた魔理沙はきゅっと唇を一度結んで大きくうなずいた。その応えにパチュリーは一度目をとじて息をつく。少しのあいだ、彼女は椅子に寄りかかっていたが、やがてゆっくりと立ち上がり、本を机に置いた。

「そう言うのなら、少し待ってて」

 彼女はそう言って重い足取りで本棚の向こうへと歩いていった。

「何かしら?」「さあな」

 埃がランプに照らされてきらきらと煌めく。薄暗さと本棚を背景にして。紅魔館の図書館はいつもそうだった。窓がなく、昼か夜かもわからず、ランプの光だけが優しく、光の届かない場所はうっすらと暗く――そんな不思議な場所だった。ここのランプの光が消えてしまえば無限の闇が訪れる、そういう想像をしてしまう。

 その想像が広がる前にパチュリーがぺたぺたと足音を立てて戻り、椅子にまた気だるそうに腰掛けた。

「あなたが死ぬという話は一昨日から聞いていたわ」

 彼女の手にはざくろ色の薬が入った小瓶があった。

「魔理沙が魔法使いにはならない、と踏んでいてよかった。この薬の作成がついさっき終わったの。材料を集めるのが面倒くさかったけれど、調合自体にはさほど――」
「長い前置きはいいよ」

 魔理沙はパチュリーの説明を打ち切って、彼女の向かいにある椅子にどっかりと腰を下ろす。机に身を乗り出して、真剣な目で言う。

「でも話してくれ。きっとそれは大事なことなんだ」

 パチュリーは黙って魔理沙を見ていた。思考を整理させているように見えた。私は彼女たち二人の様子を少し離れたところから見ていた。私はそこに入れるような気がしなくて。

「要するに」

 短い沈黙からパチュリーが切り出す。

「この薬は一時的な強化薬。効果の持続期間は一週間」
「長いな。三日でそんなに長い期間もつものが作れるか?」
「一週間たって効果が切れると、強烈な副作用が来る。それを和らげる対策はしていない。だから三日でできた。今のあなたの体を考えれば、副作用で余命も縮んでしまう可能性が高いわ」

 パチュリーはその話をしながら、ちらちら私に視線を向け、けれどすぐに魔理沙の方に目を戻していた。話を聞き終えた魔理沙は目をつむってしばらく考え、やがて目を開いて笑みを見せた。

「使うさ」

 魔理沙はぐっと手を差し伸べた。

「私のためにな」

 パチュリーは表情を少しも崩さず、差し出された魔理沙の手に小瓶を差し込むように渡した。そして静かに言う。

「あなたが魔法使いにならない。その選択を信じきることができれば、後悔はしないはずよ」
「ああ、この借りはすぐ返す。サンキューな」

 魔理沙がそう言ったとき、こんどこそはっきりとパチュリーは笑った。唇の端を少しだけつり上げて。本当に薄い笑い。それは微笑ましいと思っているのでもなく、可笑しいと思っているのでもなく――年老いた魔女の笑み。

「借りなんて、返さなくていいわよ」

 パチュリーは私に視線を向けた。その表情と瞳に、私の背中がぞっとするような感覚がした。魔理沙の手のひらで血のように輝く小瓶。パチュリーの視線から逃げても、私の視界からその禁呪は離れなかった。

 私たちは紅魔館を出る。美鈴が手を振りながら私たちを見送ってくれた。魔理沙は薬をもらって紅魔館を出るまで言葉を口にしなかったので、紅魔館の人たちに礼を言っていたのはずっと私だった。
 紅魔館の目の前に広がる湖を飛び越えて、突然魔理沙が地面に降り立つ。私も慌てて彼女のあとを追って地面に降りた。

 魔理沙はポケットから小瓶を取り出し、いきなりその蓋を開けた。明るく力強い春の陽光が小瓶とその中身を照らす。薬がその光の中で燃えるように発光する。魔理沙は唇を小瓶の口につけ、顔を上げた。するりとざくろ色の薬が瓶の底から側面へ滑り、瓶の首をすり抜け、そして魔理沙の口に流れる。
 魔理沙はそっと目を閉じ、ゆっくりとその薬を味わう。どんな味がしようとも、彼女の表情は何も語らない。吐息も喉を鳴らす音もない。左手に箒を、右手に小瓶を持って黙って飲んでいる。
 私は驚いてただ彼女を眺めているだけだった。

 少しばかりの時がたつ。最後の一滴が魔理沙の中に滴り落ちると、魔理沙は空になった瓶を横に投げ捨てる。小瓶は地に落ち、綺麗な音を立てて割れた。破片が煌めいて飛び散る。
 魔理沙は静かに目を開け、しばらく空を見つめたままじっとしていた。さっきよりもずっと深い青を秘める空を、優しく暖かい昼を全身で感じているようだった。
 やがて、彼女は大きく息を吐いて、空を見上げたまま言った。

「ああ、体が軽くなってきたな」

 私は言う。

「大丈夫?」
「ああ。力が湧いてくるというよりは、昔に戻ったって感じがする」

 魔理沙が私に振り返った。太陽を背にする格好になり、強烈な光と影のコントラストが魔理沙というキャンバスに描かれる。輝く金色の髪と深い黒の服。

「これで思い残すことなく、色んなことができる」

 にっと魔理沙は力強く笑った。太陽と溶け合うような笑み。私も笑った。けれどなぜか私の顔には濃い影が差しているように思えた――太陽に顔を向けているはずなのに。

 魔理沙は左手の箒に颯爽とまたがり、空に飛び上がった。ついさっきまでの鈍さは消え去っていた。

「さあ、行くぞ、魔法の森へ」
「え? まだ行っていないところがあったんじゃないの?」
「一週間だろ? 私が全力を出せるのは。あいさつまわりをするなら、それが終わってからでもいい。私には研究途中の魔法が残ってるんだ。こいつを完成させないことには後悔してもしきれないからな!」

 最後は叫ぶように、そして魔理沙は風のような速さで飛び去り、そして魔法の森へ向かっていった。私もあわてて爆風が残ったあとについていく。

 魔理沙はそれから四日間、「研究途中の魔法」の研究に打ち込んだ。昼はそれこそ一心不乱に、魔法の森で必要な材料を集め、ときには妖怪の山にまで行き、そして“研究室”にこもった。そして夜になると、今度はきちんとベッドに入って睡眠をとった。
 私は汗水流す魔理沙の研究には付き合わなかった。そうやって必死で取り組む魔理沙の邪魔をしたくなかったし、そもそも私にはわからない研究なのだろう。私がしていたのは、彼女の食事を作ったり、ときどき紅茶を入れて休憩させたりするくらいだった。
 それだけ魔理沙は熱心に研究を進めているのに――私は魔理沙に感じたあの影を、そして私の顔に差した濃い影を忘れることができなかった。
 どうしてかはわからない。けれど、なんとなく予感がしてしまう。いつか、きっと昼の闇が私たちを呑み込み、どこへも知らない場所へと引きずり込んでしまう、そんな予感が。

  三

 魔理沙が薬を飲んで四日がたった。私と魔理沙は再び博麗神社に来ている。
 境内には霊夢の姿はなく、すでに掃除は終わっているようだった。縁側の方へまわると彼女は部屋の中でのんびりとお茶を飲んでいた。明るい日射しが室内に滑るように入り込み、とても暖かそうな色を映しだす。
 魔理沙はかつかつと軽い靴音を立てて、縁側にすとんと腰を下ろした。霊夢がのんびりとした目で私と魔理沙に視線を向ける。

「よう」
「なに? 私、忙しいんだけど」
「何にだ」
「緑茶に」
「それを忙しいというのはお前くらいのもんだぜ」

 魔理沙が呆れたように笑った。私も魔理沙の隣に腰を掛ける。

「あなたもまた来たのね」「ええ」

 私は霊夢と目を合わさずに答えた。
 魔理沙が体を捻り、縁側に膝をついて部屋の中に身を乗り出した。

「なあ霊夢、この前、欲しいものがあるかどうか、私に訊いたよな?」
「ええ」
「私は自分で手に入れるって言ったよな?」
「確かにそう言っていたわ」

 光を受けながら魔理沙は力強く笑い、そして太い口調で霊夢に言った。

「今日は勝利を手に入れに来た」

 霊夢は魔理沙を見たまま、湯呑みを少し傾けてお茶を啜った。霊夢の膝元でちょうど陽光と影の境界ができている。霊夢は影の中で落ち着いたまま、魔理沙に尋ねた。

「それは私と勝負するっていうこと?」
「ああ。お前と勝負して勝つこと……私が一番欲しかったものは、それだ」

 確信に満ちた表情だった。
 霊夢が湯呑みをちゃぶ台に置いてすっと音もなく立ち上がった。

「お札? 針?」
「針って……お前、私を殺す気か!」
「わかってる。お札でいいんでしょ」

 霊夢は冗談っぽく笑い、魔理沙に背を向けて部屋の奥へ行った。勝負のための準備をするのだろう。今のは、冗談だったのだろうか――ふと私は思った。

 数分後、霊夢と魔理沙は境内の石畳に立っていた。私は空っぽの賽銭箱のそばで腰を落ち着けて、二人を眺める。二人の勝負を見届ける役として、魔理沙が私に頼んだから。そして私自身が見届けなければならないと思ったから。

「なぁ、手加減すんなよ」

 魔理沙が笑いながら帽子のつばを少し持ち上げて言った。

「いつもお前はどこかで手を抜いてるからな。今日だけはそれをやってほしくないんだ」
「わかってるわ」
「それに手加減する余裕もないだろうさ。私もいつもの私じゃないぜ。この四日間、お前に勝つためだけに全力で準備してきた」
「それなら、いやでも本気になるわね」

 霊夢はのんびりとした目のまま、魔理沙に返す。魔理沙は八卦炉をポケットから取り出してにやりと笑う。

「本気で行くぜ」

 魔理沙が霊夢に勝てるものか、と私は二人を眺めながらぼんやりと思った。霊夢が負ける姿を想像できない。だから今回もきっと、魔理沙は霊夢に負けてしまうのだろう。それでも私はきちんと見届けよう。どんな結果になろうとも、魔理沙はそれで納得するはずだから。
 すっと霊夢の顔に木の影が差した。その陰影に染まった瞬間、のんびりした目をしていたはずの霊夢の表情が決定的に変わった。ほんの一瞬のできごとだったが、何かが変わったことは私の胸がはっきりと悟った。
 魔理沙が箒に乗ったのと、霊夢がお札を彼女に向けて投げたのは同時だった。霊夢が先制したのを私は初めて見た。そしてそれはふだんの霊夢ではないという決定的な事実だった。
 魔理沙は飛んでくるお札を軽く避け、そして色彩豊かな星弾幕を形成した。

 霊夢の作った結界が壊れるかと思うほど弾が激しく飛び交う。魔理沙は素早い動きと時折見せるアクロバティックな飛び方で弾を避け、星弾幕と八卦炉のレーザーを使う。霊夢はふわふわしてゆったりとした動きだったが、ふらりと弾とレーザーを避け、魔理沙を追尾するようにお札を投げつける。

「魔符『スターダストレヴァリエ』!」
「霊符『夢想封印 散』」

 二人の姿が見えなくなるほどの激しい応酬。くるりと霊夢が体を捻ると彼女の腕と体の間を星弾が通り抜けていく。彼女の首筋をなぞるように弾がかすめていく。お札が魔理沙の腕の肌を切るように通り抜ける。魔理沙はどんどん弾幕の厚い方へ進んでいく。
 霊夢が上から来る弾幕に備える。その一瞬の隙を狙い、魔理沙は地面に一気に急降下、そして一枚の魔符を地面に貼り付ける。

「魔符『ミルキーウェイ』!」

 弾幕を避け、少し上空に上がった霊夢に向けて、再び魔理沙はスペルカードを放つ。地にいる私から霊夢の姿が見えなくなるほどに鮮やかな弾幕で視界が埋め尽くされる。霊夢はさらに上空に向かい、そして弾幕が薄くなるのを待つ。
 その短い間に魔理沙はもう一枚、魔符を離れた場所に置いた。

 それが魔理沙の作戦だった。

「今までの私のやり方じゃあ勝てない」と、魔理沙は神社に来るまでの間、私に話した。
「だから霊夢の見たことのない私なりの戦い方でいく。なるべく分厚い弾幕を張り、霊夢が私の動きを見ていない間に砲台を八つ仕込む。霊夢が特定の位置に来たら砲台を稼動させて、霊夢を撃つ! まあ、大まかにはこんなもんだ」

 それは私が使う理論を真似たものだった。私は何も言わなかった。理論的には確かにうまくいくだろう。けれどそれを成功させるには魔理沙は経験不足すぎる。だから私は魔理沙が霊夢に敵うわけがないと、そう思っていた。

 二人の息は乱れ、彼女たちの顔や首から汗が飛び散る。弾幕が地面と結界に衝突する音が鋭く響きつづける。硝煙のような匂いが私の鼻に届いてくる。空気の流れが結界を中心にして二人の中へ引き込まれていくようだった。遠い空から白い雲がやって来る。太陽がぎらぎらと二人の体を照らす。

 どうしてそんなに――と私は思う。魔理沙もそう、それよりも霊夢がどうしてそこまで本気になっているのか、私にはわからなかった。
 苦しそうに呼吸しながらも笑う魔理沙とは違う。霊夢も苦しそうに息を吐く。けれどその顔はどこまでも静かで、冷たささえ感じさせる。服の紅白が太陽の中で鮮やかに光っているのに。

 魔理沙が最後の魔符を置いた。激しい弾幕の中、確認するのは難しかったが、確かに八つの魔符が地面にへばりついている。霊夢にはおそらく魔符の存在すら確認できないだろう。持ち前の勘で魔理沙の作戦の存在くらいは気づいているだろうが、それでも確実に魔理沙の方が勝負を有利に持ち込もうとしていた。

「魔符『アステロイドベルト』!」

 星弾が結界の外側を埋め尽くすように飛び交う。霊夢はそれをゆったりと避け、そして結界空間の中央部に来た。そうして彼女が下にいるはずの魔理沙に視線を向けた瞬間、魔理沙が彼女の横を通り過ぎ、上空へと舞い上がる。

「なに?」

 霊夢がさすがに驚いたような顔をして、自分の上にいる魔理沙を見た。魔理沙の服は激しい弾幕の中を突っ切ったせいでぼろぼろになっていた。私もあまりの魔理沙の行動に驚いて口をぽかんと開けていた。
 そしてはっと気づく。魔理沙はやっぱり最後に――。

「霊夢」

 魔理沙は明るく笑う。

「私の勝ちだ」

 その一言が終わらないうちに地面の魔符が光り出す。

「魔光『オクトイリュージョンレーザー』!」

 細い魔法の光が霊夢に向かって照射される。霊夢は地面から上る光の道筋を見極め、わずかに上昇してかわす。けれどそれではだめだった。鳥かごのあみのようにレーザーが霊夢を取り囲んでいる状態。そして霊夢のさらに上には魔理沙がいて。
 魔理沙は右手に八卦炉を、左手で右腕を支え、この瞬間のためだけに蓄積してきた魔力を解き放つ――撃つ瞬間、わずかに彼女の顔が歪んだ、気がした。

「終わりだ――魔砲『ファイナルマスタースパーク』!』

 今まで見たことのない太い魔光が――違う、まるで光の滝のようだった。霊夢のいる空間だけではなく、彼女たちの戦っている結界空間すらも埋め尽くすほどの眩く大きな魔法の力。激しい光、振動、音――私は思わず目をつむり、それでも五感の一部がその衝撃に吹き飛ばされてしまいそうだった。

 十数秒間、そして私の中に残っていた衝撃が潮を引くように去っていった。私はうっすらと目を開ける。そこで私は信じられないようなものを見た。

「なんでだ!」

 魔理沙が空中で叫ぶ。

「避ける場所なんてどこにもなかったはずだ!」
「夢想封印で魔砲をぎりぎり相殺しながら唯一の逃げ場に入りこんだ」

 結界の隅で霊夢が私に背を向けて立っている。右手には一枚のスペルカードがあった。

「相殺なんてできるもんか! あの威力だぜ!?」
「私も本気だったのよ。ここに逃げるのが精一杯だったけれど、なんとか間に合った。光弾の六発は回避に用いて、そしてもう一発だけ――」

 霊夢は空にいる魔理沙を見上げて言う。魔理沙が霊夢から自分の背後に視線を移す。虹色に光る珠がゆらりと魔理沙に向かい――。

「残っているわ」

 当たって弾けた。

 箒から地面に墜ちてゆく魔理沙を私は空中で抱きとめた。異様に重い衝撃を何とか体で受けとめることができた。霊夢が結界を解除したのか、私が何かにぶつかることもなかった。私は魔理沙を抱えたまま地面に降りた。
 魔理沙は少しの間気を失っていたが、やがて目を静かに開けて私を見た。

「ああ、悪いな。でも、ちょっと今はひとりで寝かせてくれないか?」

 私はうなずいて魔理沙を石畳の上にそっと寝かせた。彼女は手足を伸ばし、仰向けになって空を見ていた。

「参った」

 短く言って、魔理沙は笑った。

「相変わらず霊夢は強いな、四日間、全力で準備しても私が負けるんだなあ。私も強くなったと思ってたのに、霊夢はもっと強くなってたのか」

 そしてまた魔理沙は愉快そうに笑った。私は彼女のそばに立って黙って見つめていた。

 すっと音もなく霊夢が私の横を通って魔理沙のそばに立ち、黙って彼女を見下ろす。やわらかい風が彼女の髪を揺らし、さらさらと静かな音を立てる。私と霊夢は太陽を背にしていた。霊夢の影が魔理沙の顔の上にくっきりと落ちた。
 熱い太陽の光の中、風がひととき止んだ。その静寂の中、霊夢が静かに言う。

「違うわ。私が強くなったわけじゃない」

 彼女の冷たい後ろ姿、その裏にある表情は、私からは見えない。

「魔理沙、あなたが弱くなったのよ――」

 一度だけ、魔理沙の体が痙攣したように震えた。腕が地面ではねて、また音を立てて石畳に落ちる。魔理沙の瞳がきゅうと収縮した。その瞳で魔理沙は霊夢を穴の開くほど長い時間、見つめる。とても長い時間。
 太陽の灼熱の光が石畳に反射して、その眩しさが私の目を突き刺すようだった。魔理沙と霊夢の背景に広がる風景には無限の色が広がって、それが複雑に絡み合って煩わしかった。色々なことが見えた。色々なことを感じた。あまりに多くのことが、私の体の中に入り込みはじめた。

「……どういうことだよ」

 震える魔理沙の声が沈黙を破った。魔理沙は霊夢から目を逸らした。霊夢は魔理沙を見下ろしたまま言う。

「あなたの照準がわずかにぶれてた。結界の本当に隅っこに魔法の届かない隙間があった。そこに逃げ込むまでに六発、そして一発はあなたへの追尾にまわして――わざとじゃないんでしょう? あなたの照準がぶれたのは」

 そして霊夢はそこで一度言葉を切り、それから深い響きで、告げた。

「――もう、限界、ね」

 魔理沙はぐっと空を見上げたまま、黙っている。強く唇を結んで、何も言わないようにしている。霊夢はわずかに首を傾けて続けた。

「あなたはもうこれ以上強くなれない。これからいくら私に勝負を挑んでも、あなたは私に勝つこともできない。どんな薬を使っても、どんな魔法を使っても。ただ、弱って死ぬだけ」

 霊夢はすべてをはっきり告げた。その言葉は魔理沙の、私たちの夢を打ち砕いた。目の前の光景に何かのスイッチが入ったようだった。

「う……あ……」

 魔理沙の体が小刻みに震えた。

「嘘、だ……嘘だ」

 霊夢は魔理沙から目を逸らした。その横顔に灯る黒い瞳はすべてを呑み込むように深かった。深い深い影をその横顔に私は感じた。震える声で魔理沙はつぶやく。

「弱くなった、私が……? そんなわけ、ないだろ……だって、あれだけ修行したのに……あれだけ研究したのに!」

 魔理沙は両腕を空に伸ばし、何かをつかもうと手を動かす。けれど虚空の中につかめるものは何もなく、ただ虚しく。

「どうしてだよ……こんな病気に、全部……全部! 奪われるのかよ……!」

 虚空の両手が魔理沙の顔に落ちる。そして魔理沙は――顔をおさえて泣いた。あの夜よりももっと深い嗚咽を、もっと苦しい声を、そしてもっと冷たい涙を、彼女の体から溢れさせる。燃えるような太陽の中で、魔理沙は燃えるような声を、どこまでも冷たい絶望の中で振り絞った。
 霊夢は黙ってどこか遠くを見ている。そして私も少し離れた場所で、ただ二人を見つめることしかできなかった。霊夢が魔理沙にこんなことを言うのが信じられなかった。死にゆくしかない者に深々と氷の刃を突き刺すように。私は霊夢を理解できない。彼女の紅白の向こうに何も見出すことができない。

 魔理沙の泣き声が空に響く、澄んだ蒼い空に。

 魔理沙が嘔吐した。昼食の後にそれは突然やってきた。
 どれほどの量を吐いたのか。朝食、昼食の分だけではないと思えるほどに異様な量だった。胃液、腸液、それすらすべて吐ききってしまったと思えるほどに多かった。私は彼女の背中をさすり、ときどき水を持ってくるくらいの対処しかできなかった。あまりにも苦しそうな彼女から目を離すことができなかった。
 魔理沙は顔が蒼白で、肩で息をし、いつになっても震えが止まらない。

「ア、アリ……」

 私の名前さえも途切れ、また下を向いて吐瀉する。私は目を背けたくなった。これほどまでに魔理沙が苦しむことになるとは予想もできなかった。「――もう、限界、ね」――私は霊夢の言葉を思い浮かべて、心の中で同じつぶやきをする。
 薬の効果は、もうあの勝負の最後で切れはじめていたのだ。魔理沙が最後のマスタースパークをわずかに外したのも、おそらくそのせいだ。今は魔法薬の反動がどっと来るタイミングなのだろう。そして一週間持つはずの効果が持続しなかったのは、思いの外、本来の魔理沙の体が弱っているからかもしれない。それでもこの最悪のタイミングで効果が切れてしまうのは、とてつもなく残酷だ。

 魔理沙がもう一度吐く。今度は少しだけ口から逆流するだけだった。もうこれ以上吐くものがなくなってしまったのだろう。魔理沙は顎を上げて苦しそうに呼吸した。私は彼女口のまわりを拭いた。

「すまん、アリス……」

 私は彼女に水の入ったコップを手渡した。魔理沙はそれを口につけて一気に飲んだ。一瞬の沈黙、そして魔理沙は水と共に表現できない色がついたものをまた吐き出した。
 もう彼女の体が何もかもを受け入れるのを拒否しているようだった。いや、あるいは身体ではなく、彼女の精神が色々なことを受け入れるのを拒否しているのかもしれない。永琳を呼ぶことさえできない。魔理沙から目を離したら最後、彼女がどうなるのか、わかったものではない。

 魔理沙の嘔吐はそれから少しの間続いた。やがて、本当に吐き出すものがなくなると、魔理沙は息絶え絶えに私に言った。

「私を、ベッドに、運んでくれ……」
「もう、大丈夫なの?」
「……もう出すものは、何もない、吐きたくも……ない」

 私はうなずいて彼女を仰向けにして抱きかかえる。その体はあの勝負のときとは比べものにならないほど軽かった。もう彼女の中に何も残っていないと思えるほどに。

 魔理沙をベッドに運んで、そっと中に入れた。外はまだ昼で、輝く日射しのせいで部屋がやたら眩しかった。私は窓際に立って彼女に尋ねる。

「カーテンは?」
「……閉めてくれ」

 私はカーテンを本当は開けていたかっが、彼女の言うとおり、私は静かにカーテンを閉めた。太陽の光が遮られ、ベッドルームにひっそりした静寂と、ぼんやりとした明るさが訪れた。少しだけ青の匂いがした。
 私は窓から魔理沙に目を向けた。

「永琳を――」
「やめてくれ!」

 魔理沙は叫んだ。けれどその声はあまりに小さく、あまりに弱々しかった。

「永琳だってこの身体を治せないんだ。それにもう、この状態だろ。絶対に無理だ。なにより、私が選びとった道を、後悔したく……なかった……こんな姿を見せられるか……!」

 魔理沙の目がまた潤んできた。私は魔理沙の隣に立つ。それでも何もできず、ただ黙って彼女を見つめているだけだった。

「私は……いやだ……もう、いやだ……!」

 魔理沙はベッドの中から私の瞳をじっと見据える。

「助けてくれ、助けてくれよ……怖い、怖い……怖すぎるんだ……」

 そうしてまた魔理沙は目から涙をこぼして泣きはじめる。艶を失った髪、まだ青い顔、こけた頬。少し前までの魔理沙とは何もかもが違っていた。肉体的にも精神的にも傷つきはて、崩れていくようだった。もうこんな魔理沙を見ていたくなかった。いつもの自信に満ちた彼女はどこか遠くへ消えてしまった。もう昔の姿は二度と戻ってこない。
 ――いや、違う。今の魔理沙はただ遠ざかっていくだけだ。過去は失われるようなものではなく、ただ厳然と時の流れの中に存在する。魔理沙は否応なく前に進まされる。どんな絶望の終わりがそこにあって、そして逃げ道がどこにも存在しなくても。
 私はそんな魔理沙をそこから引き上げることができない。それどころか、今泣きつづける魔理沙に触れることさえできない。

「助けてくれよ……アリス……」

 魔理沙がふいにベッドの中から手を伸ばし、私の手に触れた。その瞬間、私の手の甲からぞわりと何かがものすごい勢いで這い上がってくるような感覚がした。私は思わず魔理沙の手を払いのけ、後ろによろけるようにしてさがった。宙に魔理沙の手だけが残る。
 魔理沙の目が見開かれた。私を射抜く視線。

「なんで……なんで逃げるんだ?」

 驚いたような表情になる魔理沙。彼女の前から流れる涙がぴたりと止んで、滲むような金色の瞳はただただ私を見つめる。私はそこから目を逸らした。

「だって、どうしようもないじゃない。私には、何もできないじゃない!」

 そう言ってしまって、私は気づいた。今の私の一言が一線を踏み越えてしまったことに、そしてもうそこからは戻れないことに。

「お前が、それを言うのかよ……!」

 魔理沙の声が小さくも部屋に鋭く響く。彼女の顔を覆っていた恐怖が一気に失せ、そして魔理沙の顔が歪む。

「お前が――?」
「いや、やめて!」

 私は両手を振って魔理沙の言葉を遮ろうとする。けれど魔理沙は憎しみを徐々に顔に滲ませていく。声が少しずつ鋭利になっていく。

「お前が私を最初に看病していた頃、なんて言ったたんだ? 『こんな程度の風邪、医者に行く必要もないわよ』、だったよな?」
「いや……」
「一ヶ月たってまた私が体調を崩したときも、同じことを言っていた」
「いや……いや……」

 私は手で耳に蓋をした。魔理沙の言葉をこれ以上聞きたくなかった。私に向けられる憎しみから、そしてその裏にあるものから逃げようとした。けれど耳を塞いでいても、魔理沙の声は指の間から染み入る。じわりじわりと私を追い詰めていく。

「看病するって言ったのはお前だよな? お前がさっさと私を永琳の所に連れていけば、こんなことにはならなかった!」

 私は目を強くつむり、視界から魔理沙の姿を排除しようとした。もっと耳を強くふさぎ、魔理沙の声を拒絶しようとした。それでも、わずかに聞こえる声が私の胸にあるものを深く突き刺す。

「アリス、お前は自分に責任がないとでも言えるか? お前は怖いんだ。自分のせいで霧雨魔理沙がこうして苦しんで、死ぬだけを見るのが。お前はそれから目を背けて生きていこうと思っていたんだろうが……私だって目を背けたかったよ」
「やめ……て」
「私が何度、どれほどお前を深く憎んだか。お前にはわからないだろうよ。下手な親切心を見せて、それで私には何も言わずにそのまま付き合ってくれる? どれだけ卑怯なんだよ、お前は。逃げてるんだ、罪を背負おうとすらしていない。お前は……お」

 違う、違うチガウチガウ! 私はそんなつもりじゃなかった!
 ただ私は魔理沙のことが心配で看病していただけだ! 私は魔理沙のためになると思って食事を作ったり、掃除をしたりしていただけだ! こんなことは、魔理沙の自暴自棄から出たことでしかない! こんなことは私の意志じゃない……。
 けれど、私は同時にどこかではわかっていた。私はもっと早くに魔理沙を永琳のもとへ連れていくべきだった。医学に詳しくない私が魔理沙の看病をする前に、専門的な診察をしてもらうべきだったのだ。
 だから、私は――。

「アリス」

 魔理沙の憎しみに満ち、けれど落ち着いた声が私の耳に入ってくる。私は次の言葉を拒絶したかった。けれど、同時にその言葉が出てしまうことを、心のどこかでは期待していたのかもしれない。

「私を殺したのは、お前なんだよ」

 私は目を開いた。ベッドでは魔理沙が体を起こして私を見据えている。そして私たちがいるのは彼女のベッドルームだった。
 目を開いたとき、同じものを見ていたはずの私の目には、以前とは決定的に違うものが見えていた。色彩は渦を巻き、部屋のあちこちにしみる影は濃さを増し、窓の外でざわめく森の音が異様に耳障りで、まとわりつく空気は私を絞めつけるように熱く、苦い味がした。

 ――私も、逃げる場所なんてなかった。
 ――私も、未来永劫、暗い道を歩き続けるしかなかった。

 そうして昼は姿を変えた。光のあるところには必ず影がある、それだけを証明するものに成り果てた。

  四

 夜が明けて、私たちは何も言わずお互いのことを進めた。魔理沙はまだベッドの中で苦しみ続けていた。ときどき嘔吐もするし、私の用意した食事も半分以上残した。目の下には大きな隈ができるほどやつれた。ときどき大きく咳き込んで呼吸さえままならない状態になることもあった。ろくに食事が取れない状態なので、永琳からもらった薬と私の魔法でぎりぎり魔理沙の体力を維持している状態だった。

 魔理沙はずっと私に背を向けて横になったままだった。カーテンを閉めた窓をずっと眺めているようだった。
 朝に一度だけ、私は魔理沙に話しかけて彼女に永琳からもらった薬を手渡した。夜中、魔理沙が眠りについたときに密かに永遠亭に向かったのだ。

「……なんだよ、これ」

 魔理沙は冷たい目で私を睨んだ。私は無表情に答えた。

「永琳にもらってきた薬よ。あなたの体力を維持させる応急薬のようなものだって言っていたわ。せめてこれだけは飲め、とも」
「勝手なことすんなよ」

 魔理沙は薬と水の入ったコップを私の手からひったくるようにとった。

「お前、私のこと、永琳に話しただろ」
「そうよ。今の状態になった原因の、あの薬のことも」

 魔理沙は黙って薬を飲み、私にコップを押し付けた。そして倒れるように横になり、私から顔を背けた。

 私も魔理沙の看病に身が入らなかった。魔理沙が昨日の夜、眠りについてから朝になるまでに永遠亭に向かい、永琳にすべての事情を話した。それから急いで魔理沙の家へ戻って朝食を作り、昨日の荒れたままの家を掃除する――手を抜いているわけではない。できることはやっているつもりだった。
 けれど、昨日の魔理沙の目と言葉を思い出すたび、ぐっと心臓が縮むようだった。これほど朝が来ることを恨めしく思ったことは一度もなかった。日が昇る様子を窓からそっと覗いたとき、私はそれを強く感じた。

 ずっと窓を見ていた魔理沙の呼吸が弱々しく規則的になった。また眠ったのだろう。永琳の薬にそういう効果があるのかもしれない。魔理沙が寝てしまうと、ベッドルームは不思議としんとした空間になる。私は椅子に腰掛けて、紅茶を飲みながらじっと耳を澄ませる。
 重々しい光がカーテンから滲み、春の熱がどんどんと部屋の気温を上昇させる。淡い匂いが鼻に漂ってきて、魔理沙の寝息が少しだけ耳をついた。それは気分の悪くなる光景だった。希望のない昼の苦しさに私は飲んでいた紅茶を吐きたくなった。
 私は椅子を引いて立ち上がった。そしてなるべく音を立てないように静かに外に向かった。外に出ても空の青が、風の音が、太陽の光が、ぬくもりが私の身体にまとわりついた。私はそれを振り払うようにして空へと飛んだ。

 紅魔館の地下の図書館は相変わらず、埃っぽい空気の中でランプの光がぼんやりとまわりを照らしていた。図書館の中は少し肌寒く、本棚の奥は薄暗いままだった。
 そしてパチュリーは図書館の中央に位置する空間で、椅子に腰掛け、机に本を立てていつものように本を読んでいた。私は黙ってパチュリーの向かいの椅子に腰掛け、彼女の読書が一段落するのを待った。

「まだ六日目よ」

 やがて、パチュリーは本を閉じながら私にくぐもった声で言った。

「御用は何かしら?」
「聞きたいことがあるの」

 私は素早くパチュリーに言った。パチュリーは少し首をかしげて私を見る。

「どうしてあの薬を魔理沙に渡したの?」

 とても冷たい響きが図書館に広がる。自分でも驚くほどの冷たさで。

「どうして?」

 パチュリーが私をじっと見据えたまま言う。

「どうして。それは彼女がそう死ぬことを望んだからよ。彼女は死ぬ前に全力で成し遂げたいことがあった。私はそれを叶えるためにあの薬を渡した。死ぬ者への手向けの意味を込めてそうしたのよ」

 私は腕を組んだまま黙ってパチュリーの話を聞いていた。一度パチュリーは話を区切ったが、私は無言で続きを促す視線を送った。パチュリーは小さく息をついて続けた。

「死があるかぎり、人間は所詮有限な生物、魔法使いとは違って。確かに驚くほどの成長速度を持つ生物ではあるわ。けれどいくら努力して成長しても、いつかそのせいかは永遠の命を持つ魔法使いに追い越されてしまう。だから、私はほんの少しくらい、魔理沙が死ぬまで待っていてもいい」

 パチュリーの瞳は静かな光をたたえていた。けれど私は彼女の視線に、魔理沙の言葉を思い出さずにはいられなかった。

「馬鹿」

 私が思わずつぶやいた言葉はナイフのように鋭かった。ざわざわと心が残酷の闇に侵食されていくのを感じる。けれどそれを止められない。パチュリーが少しだけ驚いたように目を開いた。

「なに、突然」

 そして私を舐めるように下から上まで視線を巡らせる。私は両手をテーブルの上に叩きつけるように置いた。

「あなたは馬鹿よ。そんなことを言えるほど、あなたは魔理沙の苦しみを知らない。魔理沙がどんな苦しみに追い詰められているかもわからないくせに、そんなことを言うなんて」

 そう言いながら、私は自分の心に反論する。違う、私は魔理沙のことを思っているわけではない、ただ自分が逃げようとしているだけだ。けれどそれでもパチュリーに向ける心の動きは止まらない。
 パチュリーは落ち着きを取り戻して、小さく息をついた。

「一週間、もたなかったのね」
「そうよ、魔理沙の体は思った以上に弱っているわ……もう、限界なのよ、絶望の中で!」

 私は椅子から立ち上がり、髪を振り乱しながら叫んだ。うねるようにして図書館に声がこだまして、どこか遠くで本が床に衝突する。

「絶望?」

 パチュリーの瞳がわずかに揺らいだ。

「それは彼女が望んだことではないの?」
「確かにそれは魔理沙が望んだことだったわ。霊夢に本気の勝負をして、勝利をつかむことはね。結局霊夢には負けた、けどそれも全力を尽くしたという結果として彼女は受け容れようとしていた!」

 マスタースパークを撃つときの魔理沙の歪んだ顔が、フラッシュバックした。

「でも、それすらかなわなかった! 薬の効果はもう勝負の途中で切れはじめていたのよ。全力を尽くすことさえできなかった! 霊夢の言葉で、魔理沙の夢はことごとく打ち砕かれて、魔理沙は絶望して、苦しんで……! 死ぬのを恐れている、本気で怖がっている!」
「それだって――!」

 パチュリーの口調が強くなった。

「魔理沙が望んだことよ。薬の効果がいつ切れたって、それも魔理沙が望んだこと」
「望んだこと? あなたは魔理沙に選択肢を見せたわけじゃない。あなたはあの薬を魔理沙に見せれば、魔理沙が必ずその薬を服用することを知っていた。その薬を一度でも使ってしまえば、効果が切れたあとの病気の進行は早まる。だから捨虫の魔法で魔理沙が魔法使いになるという選択肢は消える。捨虫の魔法にもう魔理沙は耐えられない」

 私は机に両手を置いたまま、パチュリーを睨みつけた。そして、自分が持ちうるかぎりの最高の残酷さで、パチュリーに言葉を投げた。

「あなたは、その道を魔理沙に捨てさせた! もっと強く魔法使いの可能性を見せることだってできたのに、あなたはそうしなかった! あなたは魔理沙に残されていた選択肢を捨てさせた! それも魔理沙の意志という言い訳をもって! それが私には許せない! それがあなたの罪よ!」

 パチュリーの目がはっきりと泳いだ。

「そ、んな……、罪、私の罪? 霊夢が、どうしてそんなことを」

 パチュリーの落ち着きが壊れゆくのが私の目に見える。パチュリーはふらりと立ち上がり、後退しようとした。椅子が彼女の体にあたり、細い脚がそれに耐え切れず、硬い地面に倒れる。図書館の薄暗い空間を裂くような音がする。

「そんなこと想定できるわけない……違う、私はただ彼女に全力でやらせたかっただけ……私は魔理沙の意志を受け容れただけよ」

 パチュリーはよろよろと後ろにさがる。ふらつく足、揺れる瞳、喘息が発症したような乱れた呼吸。私は机から手を離し、彼女にゆっくり歩み寄る。

「あなたも」

 自分に突き刺さったままの言葉を私は胸から抜きとる。そこから燃えるように熱い血が流れ出るように感じられる。今度はそれをパチュリーに深く、深く突き刺す。

「魔理沙を殺したのよ。魔法使いにさせずに、死の道を選ばせた。私と同じよ。自覚もなしに彼女を死に追い詰め、いや、殺した。私もあなたも、未来永劫その罪を抱えて生きるしかないのよ」
「あなたが何をわかるというの……!」

 パチュリーが自分の胸をつかみながら、息苦しそうに叫ぶ。けれど私は彼女に詰め寄って言う。

「魔法使いはいつか必ず人間の成果を越える、そう言ったわよね? 確かに知識は無限に増えて、魔法の研究はどこまでも進む。魔法使いはずっとその魔力を成長させることができる。けれど、それと同時に罪を背負い続けるのよ。いくつも、いくつも、永遠に生きればそれだけ背負う罪も増える。私たちは、それを気の遠くなる先の未来まで続けていかなければならないのよ!」

 苦しそうに咳き込み、パチュリーはその場で崩れ落ちた。私はただ黙って彼女を見下ろす。彼女の苦しそうな呼吸が図書館に響く。ランプの光が私とパチュリーをぼんやりと照らす。
 閉塞したこの世界で、私たちのような魔法使いに逃げ場はなかった。私の罪をパチュリーにも押し付けることがどれほど醜いか、私だってわかっている。それがただのとばっちりであることも知っている。
 でも、そうせずにはいられない。それが死のない魔女の本質だ。死のある人間と、死のない魔女と――何かが決定的に違うのに、けれどこの世界の中でどちらにも、もう逃げこむ空間なんて与えられていない。
 ただ私たちは絶望の道を進むだけだ。そこに終わりがあった方が、あるいは幸せかもしれない。

 私は紅魔館をあとにした。陽が紅魔館の背中にさしかかりはじめたところだった。まだあたりは黄色の太陽の光に照らされている。これから夕方になり、そして夜になっていく。私はおぼろに光を反射する湖を越え、林の上をふらふらと飛んでいた。
 どこに行くのか、何をするのか、私には何も考えられなかった。もう私には暴露する罪もない。それを償うこともできない。ただやたら暑くて、やるせなくて、ぬるりとして、虚しくて、気のないままに空を飛びつづける。
 もう魔理沙のことを考えたくもなかった。

 いつの間にか私は博麗神社に吸い寄せられるように向かっていた。神社はゆっくりと夕闇を吸って吐き出しているように見えた。私はゆっくりと神社の裏側に降りて、ぼんやりと縁側へ向かった。
 畳をするような音が聞こえた。私はその音に体を震わせ、立ち止まった。部屋の中の暗がりの中に霊夢がいた。ここは彼女の神社だから当たり前のことだったが、私はそのとき、ひどくその事実に驚いた。彼女は自分の頭のリボンに手をかけたまま、驚いたような表情で私を見ていた。

「なによ、突然来て」

 動きを止めたまま、霊夢はそう言った。私は一瞬口が開けなかったが、やがて無理やり言葉を唇から滑りだした。

「あなたこそ、何をしているの?」
「着替えよ、もう夜は食べてしまったし、今日は眠いから」

 霊夢は動きを再開して、頭のリボンをほどいた。それを床に投げるように置いて、今度は服の腰の部分に手をまわす。それからふと動きを止めて、黙って霊夢を見つめていた私に言う。

「……あっち、向いててくれない? 恥ずかしいから」

 言われて私ははっと気づいた。だから私は霊夢の言うとおり、縁側に腰掛け、黙って外を眺めた。じっとりと森の中に太陽が落ち、地平線が少しずつ闇を吸い込んでいくさまがよく見えた。雲の欠片がこっそりと顔を出していた。
 やがて背後から「いいわよ」と落ち着いた声が聞こえたので、私は振り返った。霊夢は白い寝間着に着替えて、部屋の中でぼんやりと立っていた。

「お茶、淹れようか」

 霊夢はぼんやりとしたまま、私にそう言った。とても不思議な声の響きが部屋に満ちて、それはさっきまでの霊夢とは別の人の声のようにさえ思えた。私は小さく首を縦に振って霊夢に応えた。霊夢がまた私にうなずき返し、そっと部屋の奥へ入っていった。私は靴を脱いで部屋に入り、ちゃぶ台の前に座った。

 しばらくの時がたち、霊夢が湯呑みを二つ持ってきた。ひとつは私に渡し、もうひとつは自分の手に収めたまま、彼女もちゃぶ台の前に腰を下ろした。「意外ね」と私が言う。

「なにが」
「色々……その白い寝間着もそうだし、私を家の中に招き入れたことも」
「そうかもしれない」

 霊夢はお茶を少し啜って、それから小さくうつむいた。

「ねえ……魔理沙は?」

 私はまた驚いた。他人に関して無関心だと思っていた霊夢が自分から他人のことを訊くことがあるのか、と。

「魔理沙は家で寝てるわ。あの薬の効果も切れてしまって、かなり苦しんでる」
「それは、私、のせい?」

 霊夢が私に半分だけ視線を向けて尋ねる。私はぐっと押し黙った。魔理沙の苦しみを、そして私の苦しみを明らかにしてしまったのは、確かに霊夢のせいかもしれない。けれどその苦しみ自体は、もともと私たちの中に内在していたもので――。
 私は黙ったままお茶を啜った。

「わかってたけどね……でも、気にしてしまうの」

 霊夢は湯呑みを持ったまますっと立ち上がり、ゆっくりと縁側に向かい、そこで腰を下ろした。そしてぼんやりと外を眺めはじめた。私は彼女の後ろ姿を見つめていた。小さな白黒の後ろ姿、長くて黒い髪が囁く風に揺れた。
 外の熱い空気が冷めていく匂いがした。じわりじわりと光が闇に侵されていった。囁く風が止んで、音が神社から消え失せた。外の視界が色彩を失う。

「わかってるわ。私は博麗の巫女、楽園の巫女。だからすべてを受け容れるの。妖怪も人間も、魔法使いも神も、亡霊も……魔理沙の死も」

 霊夢は遠くを見つめたまま、つぶやくように言った。

「魔理沙に言わなくちゃいけなかった。魔理沙だって、私だって、人間だから限界はあって、死ぬときが来る……それもわかってる、けど……」

 ふいに肩を震わせて、霊夢はうつむいた。

「でも……それでも……私だって……魔理沙がいなくなるのは……!」

 そこまで言って霊夢は言葉を詰まらせ、そして体を震わせて泣いた。嗚咽を漏らした。今度こそ、はっきりと私は息を呑んで驚いた。あの霊夢がどうして――。
 霊夢の嗚咽が部屋の中にじんわりと響いた。彼女の涙が夕闇の中で煌めいて落ち、彼女の寝間着ではじける。肩を震わせて、顔を押さえて、霊夢は小さな女の子のように泣く。

 私はそっと霊夢の隣に行き、縁側には腰掛けずに座った。そしてうつむいたまま泣く霊夢を優しく抱いた。抱いた身体の小ささに、そして華奢さにまたひどく驚いた。なんて細い体なんだろうと、私はよけいに苦しくなった。
 霊夢は驚いて少しだけ泣くのをやめた。けれどすぐに私の身体に手を回して私の胸の中で、再び激しく泣いた。白い寝間着が震えるのだけが私の視界を埋め尽くした。
 巫女服を脱いでしまったら、もう彼女はただの小さな少女、人間の――霊夢。彼女も私たちの知らないところで、追い詰められていたのだろう。ひとりの人間として長い間付き合ってきた魔理沙の死、その事実に。
 けれど、彼女を抱きしめる私も追い詰められている。寿命のないはずの魔法使いだってこんなに追い詰められて、こんなに苦しいのに。

 どうして、私たちは追い詰められているのだろう? この夕焼けの中で、苦しみの中で、絶望の中で。傷つけて、傷つけられて、抱いて、抱かれて。それでいて誰も救われないで――この楽園で、ずっと、ずっと。
 どこが、終着なのだろう。

 私はふと空を見上げた。雲の欠片がどんどん大きくなり、それが地平線に半分ほど隠れた太陽を呑み込もうとしていた。今夜はきっと雲の夜になる。

  五

 どうして、こんなに追い詰められているのだろう?
 私は疲れはてて魔理沙の家に戻った。ドアを開けると夕闇を越えた闇がそこにあり、しんとしていた。ブーツの音をこつこつと乾いて響かせながら、ベッドルームに入った。そこでは魔理沙が眠っている。まるで死んだように、かすかな呼吸音を闇の中に染み渡らせながら。破れたカーテンの隙間から光は入ってこなかった。沈黙。

 突然、ぞうっと私の身体に恐怖が這い登ってきた。闇の中に何もかもを吸い取るような、まるでブラックホールのようなものを心の底から感じた。私は思わず身体を抱きすくめて、後ろにふらりとよろめいた。
 そして気づいた。これが、魔理沙が夜に感じた恐怖なのだと。先もなく、何もなく――本当の喪失。光も希望も未来も、すべて自分の手から吸い取られてしまう。失うことをそれほど強く全身で感じてしまうほどの恐怖。

「う……あ……」

 呻きにさえならないような声が私の喉から漏れた。心臓が異様に膨張し、収縮した。腕の震えが止まらなくなった。私は身体を折り曲げ、恐怖から身を守ろうとした。そのとき、何か硬いものが自分の体に当たるのを感じた。
 私は震えが止まらない手で自分のポケットの中を探り、そして永琳からもらったものを思い出した。私はポケットから瓶を取り出し、取り落としそうになりながら蓋を開けた。瓶の中に多くの丸薬が入っていた。それを手のひらに三個転がし、体を起こして思い切り口の中に入れた。強いアクの匂いところころと食道を丸薬が転がっていく感覚がする。

 五、六、七、私は足を魔理沙のベッドに向けて、そして魔理沙のベッドに崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。上体だけがベッドに落ち、足は床に引きずられたままだった。
 疲れはて、どうにもすることができない私は、思い通りになるはずの夢を見ようとする。一年以上見ていない夢に逃げようとする。

 けれど、私を待っていたのは悪夢だった。最悪の悪夢だった。それさえ、あるいは私が心の奥底で待ち望んでいたのかもしれない。どろどろとして、四肢がばらばらに裂かれ、その血を赤い魔物に吸われる――そんな想像をはるかに超える悪夢を、私は見る。

 ◆

 どれくらい寝ていたのだろう。長い間は寝ていなかったのかもしれない。
 ふと目覚めた。ベッドルームの闇の中で。はっと体を起こした。ひとときのあいだ、何も見えなかったがベッドの中に私がいることを感じた。
 闇の中、恐怖が体を再び満たしはじめ、私はまた震えそうになった。けれど暗さに目が慣れ、私はぼんやりと闇の向こうに魔理沙がいるのを見た。ベッドに腰掛け、静かに私を見ていた。

「魔理沙……」

 彼女の名を呼ぶと、彼女は落ち着いた声で言った。

「悪い夢を、見てたんだよな?」

 視界が滲んで、魔理沙が涙の歪みの向こうへと行ってしまった。私の頬を冷たい涙が伝っていった。

「怖かったの」

 静かに言った。

「あなたがいなくなることが、あなたのいない未来が、永遠の罪を背負うことが……その未来が、怖いの……!」

 その言葉を口にした瞬間、私の頭の中に今までのこと、そしてこれからのことが鮮明な映像として浮き出てきた。いくつもいくつもいくつも。恐ろしいほどの映像と、そして口にできない感情が走馬灯のように私の身体にまとわりつく。どうにもならなかった。どうすればいいのかもわからなかった。目の前の幻影がいつになっても私から離れてくれなかった。

 だから私は手を伸ばし、魔理沙の腕に触れた。魔理沙はそれを拒否しなかった。そして私は体を投げ出すようにして魔理沙に泣きついた。嗚咽は出なかった。けれど涙が目から溢れて止まらなかった。
 魔理沙が私の体を弱々しく抱きとめ、力のない抱擁をした。それがますます切なくて哀しかった。魔理沙は黙って私の体に触れるくらいの力で、私を抱きしめていた。

 寝ている時間よりも長い時間、私は泣いていた。やがて涙は枯れ果て、泣くこともできなくなった。しゃくりあげながら私は顔を上げて魔理沙を見た。ぼんやりとした視界の中で、魔理沙はとても静かな表情をしていた。弱々しかったが、もうそこに痛々しさはなかった。

「アリス」

 魔理沙はそっと私の耳に囁いた。

「私を外に連れていってくれないか?」

 私は少しの間、魔理沙を見つめていたが、やがて小さくうなずいた。私はそっと魔理沙の身体に手を回し、彼女を抱き上げた。まだ少し疲れていたが、それでも力が抜けていくことはなかった。
 私は魔理沙を抱いたまま、玄関に向かった。そこの靴箱の上には埴輪のぬいぐるみが置いてあった。

 玄関のドアを魔理沙に開けてもらい、一歩外に踏み出た。
 さあっと、夜の風が私の髪と魔理沙の髪を揺らして、駆け抜けた。それは私と魔理沙の体温を奪うように冷たい風だった。けれどそれで涙のほとぼりがゆっくりと冷めた。
 深い深い森の闇が私の目の前に広がっている。地面からは雨が降ったあとの冷たさが立ちのぼってくる。どこかで光っている月も星も、空のぶ厚い雲に覆われて隠れてしまっている。やがて風が止み、ことりと静寂が訪れる。

 胸の奥から心が奪われていくようだった。それほどまでにこの闇に魅せられた。なぜ、だろう?
 魔理沙が私の腕の中で小さくうなずいて、腕を伸ばした。

「あの木の下に私を下ろしてくれないか?」

 私は彼女をその木の下にそっと下ろした。魔理沙は木に背を預け、足をやんわりと曲げて座った。私は彼女の隣で立って空を眺めた。魔理沙もじっと雲の空を見つめたまま、静かにつぶやいた。

「なあ、夜って、こんなに美しいんだな」

 その言葉に私の胸が震えた。闇に揺れる木の葉、そっと空を泳いでいく雲、そして無音。何をもってしても、この光景を私は語ることができない。魔理沙はわずかに首を傾けた。

「今、本当に今、私は死んでもいいと思ったんだ。夢も希望もなくていい。この夜の中で私は世界と溶け合えると思った」

 私は遠くの闇を見つめたまま、うなずく。私も魔理沙と同じ。胸の中で様々に渦巻いていたものが静かに闇に溶け出し、そのまま私自身もそこにゆっくりと吸い込まれていくようだった。
 でも違う。私と魔理沙が同じ世界の中に溶け合っているわけではない。私は魔理沙と同じ孤独を分け合って感じているだけに過ぎない。それでもよかった。その方がよかった。なぜなら――魔理沙は人間で、私は魔法使いなのだから。

「私は夜が好きだ。今、この夜が、たまらなく、好きなんだ」

 私は魔理沙に視線を落とした。魔理沙は一度だけ私を見て、ひとこと「ありがとうな」と言った。私が小さく頷くと、また闇の中に視線を戻し、静かに瞳を閉じた。やがて静かな呼吸が私の耳にほのかに響いた。

 私は木に背を預けてずるずると落ちた。やがて地面に体がついて、ひんやりと雨の降った後の地面の感触がした。私と魔理沙は隣り合う。同じ闇の中で静かに呼吸する。魔理沙は、もう寝てしまったのかもしれない。私も目をつむった。そしてしっとりとこの静かな夜を感じる。

 死と夜は違う。けれど同じだ。眠ることは死ではなくて、死だ。ときには何もかもを奪い去る夜が怖い、のかもしれない。でもときには絶望があると同時に、そこにこそ救いがあり、終わりがある。
 だから、私は魔理沙にそっと囁く。

「さようなら、魔理沙」

 そしてもう一言だけ、最後の最後まで伝えていなかった言葉を闇の中に放つ。

「あなたに会えて、本当によかった――」

 私と魔理沙は並んでひとつの木の下で座る。それぞれの孤独を胸に秘めて。そうして、私はひとつの木の下で眠る。魔法の森の闇の中で、静かに眠る。

 明日、朝になっても、朝を過ぎて昼になっても、そして永遠に魔理沙が起きないことだってあるだろう。たとえ明日、魔理沙が目を覚ましたとしても、いつかは魔理沙が眠ってしまったまま目覚めない日が来る。
 そうして魔理沙が死を迎えてしまったとき、私はまた深い絶望の中に身を浸し、そして数えきれないほどの涙の粒をこぼすだろう。
 それでも、いい。どれほど哀しみの底に私が落ちていっても、絶望の中でもがきつづけても。どうしようもなく未来が怖くなっても、それでも、いい。

 きっと、その苦しみさえも、夜の闇が掬い上げてくれるから――。

 
 
 


 
しがらみが夜の闇に溶けていく。私の指の先から胸の奥から、すべてを掬い上げて。
 

初出:2010年11月20日

 


 

■裏話

 まず、そしていつものように、この裏話の存在意義についてぱぱっと書きましょう。
 基本的に作者がこうして自分の作品について何かを語るというのは反則行為だと思っております。それをやってしまうと読んでくださった方の思考を放棄させる可能性もあるのですから。
 しかし、こうしてあとがきではない裏話として、ぐだぐだと書く分にはいいのかなと思っています。私の裏話、位置づけとしては、攻略本風に言うと「これを読めば101%私の作品が楽しめる!」程度のものです。気合を入れずにぐだぐだお読みください。

 そしていつものように話のできた経緯から。
 もともと、この話はらすねーるさんからいただいたものでした。ツイッターでフォローしたその日……らしいです(私が実はよく覚えていない)。ほら、人からお話の種をもらうのって面白いじゃないですか、多分。
 そんな無茶をらすねーるさんは受けいれてくださいまして、私にプロットを送ってくださいました。

 その送られたプロットを見て、正直に私が思ったことを書きましょう。
「……これ、王道の死にネタじゃない!?」
 後日伺ったら、らすねーるさんは私がやりやすいようにある程度削っていたらしいです。本来なら、もっと奇抜なものだったに違いない……それはともかく。

 大まかなストーリーはこうです。
「癌宣告を受けた魔理沙は自分の思い出作りに走る。それに協力するアリス。最後に、魔理沙はみっともなくてもいいから全力で生きることを誓う」
 死にネタとしては王道を行くストーリーだと思います。技量さえあれば伸びるな、とも思います。
 ただ私の場合、技量云々の前に王道を書けない理由がありました。すでに『黒と紅 白と白』でその王道を走ってしまったからです。しかも撃沈しているし。ネタをもらった直後ではありましたが、いきなり頭をかかえる事態に陥ってしまいました。

 そのとき、ちょうど秘封の二作目を書いていたこともあり、それを書きながらこの話についてのんびり考えていました。しかしいまいち納得できる話として捻ることができない。何がまずいんだろう? だんだん、この話をもらったことさえ後悔しはじめました。

 秘封を投稿しても話の落としどころが見つからなかった。さらにそのとき私の個人的な事情もあり忙しくなって、精神が参りはじめました。これはいけない、まずい、と思って考えても、何もわからずどうにもならない。私は少し追い詰められていました。

 ある夜中、この話についてまた考えていたのですが、やっぱりどうにもわからない。少し小腹が空いたので、夜中ではありましたが家を出てコンビニへと向かいました。その帰り、私はある光景に遭遇して――そしてこの『雲夜』の核が完成しました。
 その後、蛸擬さんのアイディアを拾い、作品が完成したというわけです。

 『夜ごはんにっき』の作者であるとりbさんの指摘もありましたが、私の作品はある程度私の体験が元になっています。それが作品のコアになることもあるし、情景の一部でしかない場合もあるし。ですが、何らかの体験を元にした「思い」というものが滲み出ているのは事実だと思います。

 いつもならテーマをこれからぐだぐだ書くところなんですが、どうにも今回はテーマらしいテーマがないといいますか、本当に言葉にできません。私が遭遇した光景をなるべく東方の世界と融合させながら伝えたかった。それだけのような気もします。

 細部細部では語れるところもあるのですが……「アリスの罪」とか「魔法使いと人間」とか。でも私としてはそれを考えるのはなんか違うなあ、と思わないでもない。やっぱりラストのシーンがいちばん書きたかったところだと思います。
 まあ、人によって感じることは様々ですから、あくまでこれは私としての思いです。

 色々悩みはしましたが、この作品をらすねーるさんからもらって、一度主人公にしたアリスの別の側面を引き出すことができたので結構よかったな、と思います。
 しかしその反面、色々と私の限界が見えてきたような気もします。少なくとも中編以上のものになると、しばらくこの作品を超えるものは書けないような気もします。
 それは全力を出し尽くしたという意味ではなく、技量不足に近いものかもしれません。読む人からしたら「言いたいことはわかるし、それを感じることはできるけど、惹きつけられない」という感じでしょうか。

 秘封シリーズは中編レベルで続けますが、それ以外はしばらく短いものにがっしりと取り組んでいくつもりです。
 こういう限界が見えたのも、ある意味幸せなことなのかも。