創想話
 


 
大好き。

 ★

 たまに勇気を出してそう言うと、おねえちゃんは嬉しそうな顔をしてくれる。でも、いつも少し苦そうな顔もする。だから、おねえちゃんは心の底から私の言葉を信じてくれてないのかなあ、と思ってしまう。なんとなく寂しい。

 おねえちゃんが大好きなのは本当。
 私が瞳を閉じてしまったとき、地底に逃げるとき、地底にいるとき、いつもおねえちゃんが私を守ってくれた。今も私のごはんを作ってくれるし(つい食べ忘れて外に行ってしまうこともあるけれど)、かわいいペットだってつけてくれた。
 でもそういうおねえちゃんの良さを言葉にしようとすると、もやもやしてかたちにならなくて、すごくみっともない。だから瞳を閉じてからはおねえちゃんに好きだってあまり言っていない。私の記憶にあるかぎりの話だけど。

 「優しい」だけじゃなくて、もっとちゃんとこの気持ちが伝わる方法はないのかしら。
 恋の魔法使いなら、そういうことがわかるのかな?

 ★

 ラヴ・ミー。

 ☆

 私は情念というものが嫌いだ。鬱陶しいとか見苦しいという言葉よりもひどい。胸の内側から肌をぬめぬめ舐めあげるように気持ち悪い。なのに地上にいた頃はそれがアトモスフィアのように存在していた。
 こいしが第三の瞳を閉じてしまったのもしかたないことだと思う。そんな気持ち悪いものに常にまとわりつかれていたのだから。私だって瞳を閉じようと何度思ったことだろう。けれど、かろうじて地底に逃げこんで情念から遠ざかることを選んだ。

 地霊殿に私たちが住むようになってしばらくたつと、地霊殿からこいしがときどきいなくなってしまうことに気がついた。

「ねえ、こいし。いつもどこに行っているの?」
「地上に散歩」
「地上はワンダフル?」
「……え、なにそれ」
「英語を使ってみました」
「ときどき変な英語使うね」
「ちょっとお洒落だと思わない?」
「うーん、まあ、そうかな」

 こいしは笑う。こんな地底に私といるよりも外の方が面白いことがたくさんあるのだろう。瞳を閉じれば情念にまとわりつかれることなどないのだから。
 つい最近、「あの巫女」と出会ったとこいしは言った。そのとき、私は彼女の胸の瞳が少し柔らかくなっているのを見てしまったのだ。ああ、どうしてあなたは嫌っていたはずのものに近づこうとしているの?
 そのうちこいしの情念が私の胸を冒すのかと思うと、少し怖くもあった。こいしのことを愛しているはずなのに。

 こいしと、情念と――ダブル・バインド。

 ☆

「……ねえ、こいし」
「うん?」
「今日はどこに行っていたの?」
「あの魔法使いのとこ……うわ、なにこれ」
「納豆入り卵焼き」
「おねえちゃん、ときどき変なもの作るよね」
「文句言わずに食べて。で、魔理沙のところに行って?」
「なんかね、魔理沙もいろんな研究してるんだって」

 こいしが口の中で納豆を食む音がしばらくダイニングに響いた。少し気持ち悪い反響。

「私の瞳のこともちょっと聞いたよ」
「なんて?」
「開けって言ってた」

 瞳の震えは魔理沙の助言のせいか。厄介なことを、と胸の中でため息をつく。

「それもなるべく早いうちに。おねえちゃんのために」
「あなたが目を開くことが私のため?」
「もちろん私のためでもあるみたいなんだけどね。ツケはなるべく早く返すに越したことはないぜ、って言ってた」

 ふむ。私は魚を尾から食べつつ少し考える。
 いつかはこいしが目を開くときが来るとは思っていた。ペットと触れ合い、地上で色々ものを見てきた彼女が下した決断ならば、覚悟を決めて受け容れよう。彼女の意識が私の中に入り込むのも。
 けれど、自然の成り行きに任せるのではいけないのだろうか。「ツケ」とはどういう意味なのだろうか。

 音を立ててこいしが味噌汁を飲み干した。

「おねえちゃんがごはんを食べ終わったら、目を開こうと思うの」

 私はうなずき、それから箸を置くまでの長い間、沈黙が漂った。

 ☆

「ごちそうさま」
「お粗末さま」

 私は喉を鳴らして食後のお茶を飲んだ。それから少し膨れたお腹を一度撫で、覚悟を決めた。

「こいし」

 こいしもお茶をぐっと飲み干し、大きな息をついて真剣な顔になった。

「いいの?」
「いずれあなたの目は開いてしまうのでしょう。今日でも私はかまわない」
「すごいことになると思うよ?」
「それでも。私はあなたの姉ですから」

 しばらくこいしは私を見つめていた。彼女の内では様々なことが巡りあって戦っているのだろう。その表情は私の気持ちを映し出したものでもある。覚悟を決めたとはいえ、私にだってまだ不安や恐怖がある。

「あの、さ……」

 こいしの視線が空いた皿に飛んでいった。大切な何かを口にするのをためらっているようだったが、やがて弱々しく首を振って言った。

「やっぱり、いいや」
「……そう」
「じゃあ、いくね」

 こいしはいびつに笑い、ふるふると震えていた瞳にそっと触れた。ぶるりと瞳が大きく震えたが、こいしの手に撫でられ少しずつ震えはおさまっていった。完全に沈黙するのを見届けると、こいしはそっとそのまぶたに指をかけた。

「さようなら、私――」

 まぶたが上に引っ張られる瞬間、私はかすかに漏れるこいしの声を聞いた。けれど、その言葉を理解するよりも前に私は呑まれてしまって、もうそれ以上の思考を紡ぐことができなかった。

 ☆

 恋?

 ★

「だと私は思うがな」
「おねえちゃんに恋をしようとは思ってないよ」
「さとりのことは好きなんだろ?」
「うん」
「さとりはそう言ってくれないのか?」
「ううん、『私もこいしのことが好きよ』って言ってくれる。でも、なんだかそれが本当かどうかわからないし。それに私の気持ちだってうまく伝わってるかわからなくて」
「まったく、覚り妖怪は言葉だけじゃ満足できないのかね」
「だって、おねえちゃんがあんな顔するから。つらいの、苦しいの……」
「……恋の病だな、本当に」
「魔理沙、私、どうすればいいの?」

「その瞳を開けばいいんじゃないか?」
「え?」
「覚り妖怪の前には嘘がつけないんだ。だったらもう一度お前が瞳を開けばいい」
「そんな簡単なことなのかな?」
「覚悟はいる。でも、いずれはそうするつもりだったんだろ?」
「うん」
「それだったら、なるべく早いうちにだ。ツケはなるべく早く返すに越したことはないぜ。利子だとか文句だとか、そういうもんがずっとつきまとうのは嫌だろ?」
「借りた本返してない人に言われても……どういう意味か、わかんないよ」
「ずっと相手の気持ちがわからないままくすぶってるのはよくないってことさ。そうしているうちに本当に大事にしていたい思いは色褪せてしまう」
「体験してきたような言い方だね」
「そうか? まあ――」

「とにかく、さとりの気持ちがわからなくてつらいんだろ?」
「苦しくもあるよ」
「私から見たら、もうお互いの気持ちははっきりしてると思うんだがな。すぐそこまで来てるんだ。あと一歩踏み出すのはお前次第さ」

 ★

 勇気をくれたのは、納豆入り卵焼き。

 ☆

 意識の濁流といえばいいのだろうか。あまりに多くのことが私の「目」から流れこんできた。明らかにオーバー・フローだった。記憶、想念、情念、感情――心に滞留していたものがいっぺんに押し寄せてきた。それは濁流よりもっと重くて濃くて粘り気があった。

 ――納豆。

 そう、意識の濁流などではない。納豆を潰して液状にし、無理やり口の中に流しこむような。そういう表現のほうがより適切だろう。
 ふわふわして甘い卵焼きのようなこいしの外見の裏に、これほどの情念があったなんて。

 おねえちゃんが――好き。

 おねえちゃんが――好き?

 おねえちゃんは――優しい。

 おねえちゃんは――冷たい。

 おねえちゃんは――情けない。

 おねえちゃんは――頼れる。

 おねえちゃんは――弱い。

 おねえちゃんは――強い。

 おねえちゃんは――だらしない。

 おねえちゃんは――しっかりしてる。

 おねえちゃんは――かわいい。

 おねえちゃんは――ださい。

 おねえちゃんが――憎い。

 視界の隅々まで彼女の想いが支配し、渦巻き、不可解なパターンを描いている。その文様の中に私の姿の断片が混じっていた。不健康な紫の髪、細すぎる手首、白すぎるふくらはぎ。一万の声が私の鼓膜を揺さぶり、数千の匂いが鼻腔を虐める。痛みと快楽が肌を駆け抜ける。

 あまりの感覚に胃がぎゅうと縮むのを感じた。白いごはん粒が胃から口に向かって走りだしているのがわかる。ぐちゃぐちゃになっていた豆腐が味噌と混じり合って何とも言えない色になっているはずだ。そしてあの卵焼きの甘い匂い、納豆の臭みが混じり合って口から漏れはじめた。
 狂いすぎた五感の中で両手を口に押し当てる。背中がびくんと跳ね、食道に鈍い痛みが走り、喉の奥に汚いものが押し上げられる感覚がした。もう、私にはこの流れを止めることはできないのだろう。

 ああ、白いテーブルクロスを汚してしまうのか。ふとそんなことが気になり、手に力を一層こめて顔を上げた、そのとき。

 濁流の中で何かがきらりと光るのを見た。

 口からものが出る刹那、手を下ろしてにっこりと笑った。そうして嘆息と共に――もちろん、嘆息が口から出るわけがなかったのだけど――私は今日の夕食を、白いテーブルクロスに綺麗に戻した。
 それは一番星を見つけるための美しい取引だった。

 ☆

 とはいっても、吐瀉物が落ちるときの光景はあまり美しくないものだった。びちゃびちゃとみっともない音を立てて口から落ちた。それほど量は多くないけれど、少なくもない。黄土色の中に白や黒が混じったものが、一部は空の皿に、残りはどろりと粘りつつクロスに染みこんでいった。強烈な匂いが鼻をつく。
 それがこいしの情念から目覚めたときのファースト・インプレッションだった。

「ん……はぁ」

 一度に多くのことを感じすぎた。もうこいしから想いが溢れ出ることはなく、ようやく落ち着くことができた。まだ口の中にかすが残っていたが、だいたいのものは吐き出してしまったと思う。
 霞んでいた視界が少しずつはっきりしてきた。こいしのかたちが輪郭になり、輪郭の中に表情が見える。私が「見える」限りでは、こいしに不快感は存在していないようだった。

「大丈夫? お茶、用意しようか」(あ、あと雑巾もか)(緑茶あったかな)(雑巾はどこだったっけ)――台所の映像。

 音の響き、心の言葉、そして言葉にならないイメージは続いていた。私が“声”の問いかけに答える前に、彼女はうなずいてキッチンへ向かった。伝えたいことは伝わったのだろう。

 ☆

 嘔吐の後始末というのはなかなか恥ずかしい。吐いてしまった罪悪感のせいか。人に手伝ってもらうと、食べていたものが見えてなお恥ずかしくなる。胃液と液状になってしまった吐瀉物特有の匂いが漂うのも。
 お茶を飲み干したあと、私は赤面しつつ雑巾でテーブルクロスと床を拭いていた。こいしは汚れてしまった食器を洗っていた。かちゃかちゃという音が軽快に響く以外は、静かなものだった。

 染みつきのテーブルクロスを汚れ物の桶に入れて片付けは終わった。
 ダイニングに戻るとこいしが新しい緑茶を淹れて待っていた。私は黙ってクロスのなくなったテーブルについた。まだかすかにあの匂いが残っている。

「吐くときの私の顔、見た?」
「……ううん」(なんで笑ってたんだろう?)(気持ち悪く……) ――私の顔。
「こいし」

 私はにっこり笑ってこいしに言う。

「嘘をついても、私にはわかってしまうのよ」
「あ」(瞳)(変な感じ)
「だから正直に言わなくてもいいわ。ちゃんと答えてあげるし、答えなくてもあなたにはわかってしまうもの」
「……うん」 ――沈黙。

 こいしは膝の上に手を置いて真っ直ぐ私を見た。第三の瞳もじっと私を見据えていた。手を組んで私はゆっくりと答えた。

「最初はあなたの思いがあんまり多かったから、怖かった」
(やっぱり)(どんなのが見えたんだろう)
「でもね、色々あなたから感じているうちに、嬉しいものも見つけたの。だから思わず吐く前に笑ってしまった」
(……嬉しいもの?)

 息をついて、私は言った。

「私はね、情念というものが嫌いだったわ」
「……私も嫌いだったよ」(気持ち悪かったもの)
「じゃあ、逆にあなたに訊くけれど。どうして、あなたは閉じたはずの瞳を開こうと思ったの?」

 彼女が口を開く間もなく、答えを知ってしまったのは――嬉しいことだったかもしれないし、少し寂しいことだったかもしれない。

(だって、おねえちゃんを愛してるって伝えたかったから)「だって、おねえちゃんが大好きだから」

 ああ、もう。やっぱりあの納豆の濁流の中で見た一番星はそれだったのね。私は身悶えを抑えるように、緑茶を一気に飲み干した。

「一番星? なあに、それ」(また変な喩え……)(好きだね)
「ラヴ、です」(人のセンスに突っ込まないの)

 私は少し彼女の心に茶々を入れつつ、にっこり微笑んで答えた。こいしはひとときぼんやりしていたけれど、やがてぽつりと心がつぶやいた。

(そんな顔赤くするくらい恥ずかしいなら、英語じゃなくてもいいのに) ――私の今の顔。

 ☆

 さて、私は何を話せばいいのか。彼女と心のやりとりができてしまうから、言葉での会話に困ってしまうことに今気がついた。
 とはいえ、言葉で語れることはそう多くはないし、心でやり取りできることもそう多くはないはずだ。意識が語るのは胸の表層でしかなく、そこから先に何を思うのか。それは私たちの自由なのだから。

 愛というかたちの卵焼きの中に憎しみのような納豆が入っていてもかまわない。むしろそれが自然ではないかと私は思う。情念は愛に包まれて、納豆のようにどろどろしてて、きっとそれが美味しい姿なのだ。
 そうだとすれば、情念がアトモスフィアとして存在するのも、少しは受け容れられるような、そんな気がしてきた。

 言葉を口にする前に、私はテーブルの上に腕を伸ばし、そっとこいしの手をつかんだ。昔ほど柔らかくなく、しっかりした手。指先がひんやりとしているのは、私に似てしまったのだろうか。少し残念ではあるけれど、そんなこいしもまた私は好きになれるはずだし、今だって、これほど彼女のことを愛しているのだから。

 微笑を浮かべてこいしは私を見つめる。私も柔らかな微笑で返してあげる。
 少しだけ、私を縛っている二つの紐が緩くなった気がした。

 ☆

「ドゥ・ユー・ラヴ・ミー?」
「オフ・コース」

 ★
 
「アイ・ノウ」

 さて、愛に満ちる空間にどう生きようかな。私はそんなことを考える。
 
 
 


 

初出:2011年1月31日

 


 

■裏話

某所でも二回ほど紹介いただきました『ラヴ・アトモスフィア』。
この話、実はでもなんでもなく、とある作品の影響を受けています。
間違いありません。作者の私が言うので。

そういうことで、ここで紹介いたします。
『夢葬に散る』(柚季さん)  (※当たり前ですが、嘔吐シーンがあります)

全体の雰囲気とストーリーはまったく違いますが、私が「ああ、嘔吐っていいなあ」と思ったお話です。
誤解なきよう書きますが、『ラヴ・アトモスフィア』を書く前に作者様に「嘔吐シーン良かったので、私も書きます!」と宣言しました。

はい、ということで、私のお話の裏側にはこの『夢葬に散る』と、『四畳半神話大系』(羽貫さんがいい!)がありました。
お後がよろしいようで……え? 後始末うまくできてない?