創想話
 


 
 #0

 いつか、誰かから誰かへの手紙――。

「私は死刑になろうとしている。恐ろしい死神が、もう私の首元に刃を突きつけているのだ。明日にでも私は地獄に落とされるだろう。だが、私の罪はあの方を傷つけたことであって、決して今かけられている容疑によるものではない。それだけはよくわかってほしい。
 君は私を助けようとしているらしいが、私はあえてそれを拒絶しようと思う。私は死刑を受けるに値する罪を犯した。たとえ死刑でなくとも、もはや私の心は死んでいるに等しい。君に刑罰から救われたとしても、私の心は決して救われない。私が生きながらえたとしても、私はあの方の心には届かないし、君が私の心に届くこともない。
 私もあの方も大きな十字架を背負って生きてきたが、君には何の罪もないのだ。それなのに、私のせいで再び君が苦しむのはいたたまれない。君はすべての悲しさを忘れ去り、どこか別の時代、別の場所で生きるべきだ。いつか、この時代に満ちている欺瞞は消えうせるに違いない。そのとき、君は真の幸福というものを手に入れられるだろう。

 君とはこの手紙でお別れしよう。この手紙を読み終えると、君は私が送った本の中に封じられる。その本を君も読んだことがあったはずだ。私を恨むなら恨んでほしい。それでも、私は君に対してこうせざるを得なかった。それは私も君のことを深く愛したことがあるからだ。あのときの私の心を嘘だと否定することはできない。たったひとときの真実が結局、二度も君を絶望へとおとしいれることになってしまった。
 この手紙にかけた魔法は君に対する私の贖罪だ。同情してほしいとは思わない。だが、ただ理解してほしい。終わりなき絶望の中で君が朽ちていくより、果てなき未知の中で君が生きていくことを、私が望んだということを。

 遠い時代の誰かが、君を救いだしてくれる。そのとき、君が幸せであることを、私は願うばかりだ」

 #1

「パチュリーさま、これ、何ですか」

 小悪魔が実験台の上のフラスコを指差して、私に問いかけた。金網の上に載っているフラスコの下から、魔法の火が弱々しく中の液体を温めていた。私は本を読みながら淡々と答えた。

「真実薬」

 小悪魔は軽く息をのみ、フラスコの中を覗き込んだ。そして、「これが真実薬ですか。青みがかった透明で、とてもきれいですね」とはずんだ声で言った。私は適当な返事をして、本を読みつづける。
 私が魔法薬を作ることはそう珍しいことではないのに、いつも小悪魔はその実験を興味深そうに、そして楽しそうに眺めていた。ガラスの石を見つけた子どものように目を輝かせて、その反応をじっと見つめている。

「パチュリーさま。これ、いつから作りはじめたんですか? 昨日はなかったですよね?」
「作りはじめたのは今朝ね……たぶん、そうだったはず」

 朝日が差し込んでいる時間に作りはじめた記憶はなかった。そもそも、この図書館に日が差すことなどないのだけれど。

「じゃあ、まだまだ完成は先になりそうですね」と小悪魔が言った。
「いえ、もう第6段階まで終わってる。あとは今やっている第7段階を終わらせて、冷ましながら反応を待てば、もうそれで完成よ。遅くても今日の夜中までには完成するわ」
「え、そんなに簡単に真実薬って作れるものですか?」
「プロトタイプだから」

 私は本から目を離して小悪魔のほうを見た。小悪魔は首をかしげながらフラスコを見ていたが、私の視線に気づいたのか、私に向き直って、言った。

「プロトタイプですか、これ?」
「だから多少操作は荒くてもいいし、そのぶん早く作れるわけね」
「そうですか。でも、プロトタイプだとどんな効果になるんですか?」
「それを飲んだひとはすべての質問に対して嘘がつけなくなる。それがその真実薬の効果よ」

 小悪魔は首をかしげた。

「十分、完成されているような気がしますが……」

 私は首を軽く横に振った。

「まだ十分じゃないわ。イエスかノーの答えしかわからないのよ。どういうことかわかる?」
「あんまり」
「たとえば、私がそれを飲んだとして、小悪魔が質問者になるとするわ。そのとき、小悪魔が『あなたはパチュリーですか』と訊けば、それが真実かどうかわかる。けれど、『あなたの名前は何ですか?』と訊いても、真実の答えはわからないのよ。もし、私が『小悪魔です』と答えたら、それが嘘だということはわかるけれど」
「なんか、わかったような、わからないような。具体的にはどういう結果になるんですか?」

 比喩まで用いたのに小悪魔は理解の領域に達しなかったらしい。私は小さくため息をついて、言った。

「嘘をついているときには手のひらに汗が出てくるの。それもかなりすごい量」

 それを聞いて小悪魔が「あー」とか「うー」と唸り、それからおずおずと私に話しかけた。

「あの、パチュリーさま」「なに」
「要するに、嘘をついてたらばれる薬ですよね?」

 私は首を捻り、腕を組んで握りこぶしの上にあごを載せ、小悪魔の言葉を考えた。小悪魔が心配そうに私を見つめている。長い時間がたって、ようやく私は気がついた。

「……あ」

 思わず声が漏れた。嘘をついたら汗が出て、それで嘘をついていることがわかる薬。たしかに小悪魔が言ったとおり、「嘘をついたらわかる薬」だ。というか、自分でそんなことを最初に言っていたはずだ。小悪魔は苦笑して、肩をすくめた。

「真実薬というよりは、嘘発見薬ですね。かなり回りくどい言い方をされましたけど」
「そうね、たしかにそうね。気づかなかったわ」
「パチュリーさまはときどき、わかりやすいことをわかりづらい言葉で言いますから」
「それでも間違ってはないわよ、間違っては」

 小悪魔がおかしそうにくすくすと笑う。私は照れくさくて、本の中に顔をうずめた。

「それでもすごい薬です。それにまだ試作版ですよね? いつか、すべての真実がわかる薬を作れるんですよね?」
「ええ、まあ、そのつもり」
「それにしても、どういう理論なんですか? 手のひらから汗が出るって、どうしてですか?」

「要するに」と私は言って、小悪魔がその言葉にまた吹きだした。私はかまわずに続ける。

「要するに、『多汗症』という病気を人為的に引き起こすのよ。ふつうの人も緊張すると手のひらから汗が出るけれど、多汗症の人は精神的に高揚したり不安になったりすると、それ以上に手のひらから汗が大量に出る。その魔法薬は多汗症を疑似的に引き起こして、さらに増幅させる効果があるの。嘘をつけば必ず精神にブレが生まれて、その結果手のひらから汗が出て、嘘をついているかどうかを視覚的に判断できるようになる。そういう原理よ。」

 小悪魔はやたらにうなずいた。

「ああ、なるほど、そういうことだったんですね」
「……本当にわかっているの?」

 小悪魔は苦笑して答えた。

「わかっていなくてもうなずかないと、知識人に対しては失礼ですから」

 私はため息をついて言った。

「結局わかってないのね。よくわかったわ」
「あ、でも、手のひらがそういうふうになるっていうのはわかります。そうですよね、生理現象なら、嘘はつけませんよね。さすがパチュリーさまです」

 褒められてもとくに嬉しくない。悪い気もしないが。
 小悪魔がふと思いだしたように言った。

「そうだ、手のひらといえば、こんな話を知ってます?」
「どんな話?」
「手のひらが冷たいひとって、心が温かいという話です。ほら、手のひらにあるはずの熱がぜんぶ心にいっちゃうって感じで。なんだかすごくロマンチックじゃないですか?」

 小悪魔の目が輝く。私に同意を求めているような目だったが、私はいまいちそれに興味が持てなかった。質問に答える代わりに、質問を返した。

「じゃあ、手のひらが温かいひとは、心が冷たいっていうの?」

 小悪魔は突然熱が冷めたような顔になって、ふくれっつらを作った。

「むう、そんなことは言ってないですよ」
「でも、今の言い方だとそう聞こえなくもないわよ」
「べつにそんなことはないです、たぶん」

 ふうん、と私は首を振りながら言って、本に戻った。小悪魔がふくれっつらのまま、私に尋ねた。

「興味、ないんですか?」
「ないわよ」

 私は本の文字列に目を走らせながら答えた。

「統計学的な証拠がないじゃないの。手のひらが冷たいひとの68パーセントは心が温かい、それを示す証は? たとえばそうなったとして、そうなる原因は? そもそも、心が温かいのがどういうことなのか、その定義すらあいまいじゃない。くだらない話だわ」

 小悪魔はやれやれ、と手で頭をおさえた。

「意地悪ですね、パチュリーさま。夢がないじゃないですか、それじゃ」
「夢はなくて結構。理想と現実があれば、私はそれでいいのよ」
「まあ、パチュリーさまがそれでいいなら、いいですけど」

 ロマンチック、乙女心、きらめく恋――私はそんなものにもう心を動かされなくなっていた。私が求めるものは、絶対の知識と世界の真理。それを満たしてくれるものはすべての書物しかない。私は書物とともにあるべき存在だ。
 フラスコの中の液体が煮立ち、泡が砕ける音が図書館にこだまする。本のページを片手で抑え、私はもう片方の手をさっと振った。魔力の供給を断たれた火は、急激にその熱を失い、そして姿を消した。液体の沸騰も止まった。誰に言うでもなく、私はつぶやいた。

「さて、あとは冷却しながら反応するのを待つだけね」

 小悪魔は加熱が止まったフラスコに再び目を向けた。私に背を向けているフラスコのガラスに小悪魔の顔が反射して、私の視界の隅に入ってきた。小悪魔の口が動いて、小さな声が聞こえてきた。

「この真実薬、変な感じがします」

 そっと私は視線をフラスコに向ける。小悪魔の表情はフラスコの反射からは読み取れない。小悪魔は声を少し大きくして言った。

「何て言えばいいんでしょうか、何かが足りない気がするんです」
「……まあ、まだプロトタイプだし、効果のほどは足りないかもしれない」
「いえ、そういう効果とか、そういうことじゃないんです」

 小悪魔はフラスコの中の青い液体をじっと見つめていた。効果以外に、何が足りないというのだろう。

「そのうちにちゃんとした真実薬を作るわよ。それは半ば興味本位で作ったものだから」
「そうですか……」

 小悪魔はフラスコから目を離し、私に向き直った。私は急いで視線を本に戻した。

「じゃあ、私、本の整理に戻りますね」
「お願いするわ」

 そう言った私の声は本に遮られて、くぐもった音が図書館に響いた。

 フラスコからかすかな刺激臭が漂ってきた。最終段階の反応がすべて終わるまではおよそ2時間40分。それまでは一切手を加えず、ただ待っているほかない。
 興味本位――それは間違ってはいないが、100パーセント当たっているわけでもない。私が真実薬を作ろうと思ったのも、「半ば」興味本位で、残りの50パーセントは別のところにある。小悪魔に話さなかった残り半分のことを頭に思い描くと、とたんに本に集中できなくなった。本の中の文字列が意味をなさず、紙に塗られた黒いインキのかたまりにしか見えなくなってくる。無理に本に目を落としても、ただ目を左から右に動かすだけの作業になり、頭はどこか別のところに浮遊しているようだった。あきらめて私は本を閉じた。
 ここのところ、本に集中できないことがしばしば起こっている。そして、私はその原因も特定できている。そこまでわかっていながら、私はこの症状に対する有効な処置を探し出せないでいる。持病の喘息と同じように、治したくても治せない一種の病気のようなものなのかもしれない。
 けれど、私はその病気に対して不満があるわけでもない。その原因に文句のひとつを言う気にもならない。実際、私自身がその病気を治そうとしているのかどうかでさえ、私には確証がなかった。

 そこまで考えて、私は自嘲した。これが私の悪い癖だ。さっきもこの癖のせいで小悪魔に笑われたばかりだろう? 余計なまわり道はしないで、まっすぐ言えばいい。私は目をつむって、結論を出した。

 「要するに」、私は恋をしている。それも、魔理沙に。
 私が真実薬を作っているのも、半分は魔理沙の思いを知りたかったからだ。言葉ではなく、生理現象という確たる証で。

 いつからからはあまり覚えていない。私がいつ魔理沙と出会ったのか、その日にちも、月も、季節でさえ覚えていない。ただ、その日は火曜日だったことは記憶している。喘息の調子が悪くて本来の力を出せないまま、魔理沙にやられてしまったことも、覚えている。魔理沙が再び紅魔館にやってきたときには喘息の調子がよく、全力で対抗したが、それでもマスタースパークにすべて敗れた。それが二回目の出会い。
 それ以来、魔理沙はこの図書館の蔵書に目をつけたようで、たびたびここに忍び込んでは本を持ち出していくようになった。それでも、はじめのうちは私に対して申し訳なさそうな顔を見せ、「すまん」と謝っていたのだが(それでも持っていくのだけれど)、ここ最近は罪悪感すら持ち合わせていないようで、「一生借りていくだけだからいいだろ?」と言って、小悪魔の怒声を背にしながら颯爽と持ち出していくようになった。そして一度も持ち出した本を返してくれたことはない。はたから見えれば、身勝手なことこの上ない。
 小悪魔はそんな理不尽な魔理沙について何度も愚痴をこぼしている。「いくらなんでも、ひどいですよ。借りたければちゃんと言えばいいのに、どうしてああして盗んでいくのでしょう?」。以前は私も小悪魔と同じように考えていた。だが、最近、私は思う。魔理沙はわかっていてああしているんじゃないか、と。あるいは理屈なんかわかっていなくて、自然にああすることを体で理解していったのではないか。

 私は自分の胸をおさえた。私の呼吸と鼓動がわずかにずれていた。これは喘息のせいだけではないだろう。魔理沙のことを考えると、いつも胸が細い糸で締めつけられたように苦しくなる。ときめいているだとか、切なくなるだとか、そういう感覚ではない。けれど、これは間違いなく恋なのだと思う。

 こうなるきっかけは最初の出会いから、すでにあった。そうでなければ説明がつかない。魔理沙はお世辞にもおしとやかな美女とは言えないし、ひとのものは勝手に盗んでいくし、何より短い寿命を持つ人間で、ふつうに考えれば私が惹かれる理由なんてなかった。所詮、人間の寿命はどんなに長くとも140年しかない。魔理沙が人間であろうとするかぎり、140年は、魔女である私にとってたいした時間ではない。持ち出された本の中身だって、すべて覚えている。今すぐ返してほしいものでもない。そういう意味では、魔理沙は私の世界に入り込む余地すらなかった、はずだった。
 けれど、それでも私は惹かれてしまった。彼女の空を舞うような飛行、効果の中身よりも威力を重視するその魔法の姿勢、皮肉めいた言葉、そしてなにより、彼女の目。本を盗み出すときの魔理沙の目は、罪悪感や背徳感を乗り越えて、何かに対してまっすぐで輝いていた。
 誰かに恋をするということに理論なんてない。構造もない。ただひたすらわからない。理由に理由はいらないということなのかもしれない。魔理沙の動作が、魔理沙の言葉が、魔理沙の表情が、なぜだか私をこうしてしまった。魔理沙と向かい合って座ると、私の身体と心が少し固くなるのがわかってしまう。こわばって、思うように動かなくなる。ひとりの今でさえ、胸が苦しいというのに。
 魔理沙は――女性だ。あんな言葉遣いをしていても、決して離れない女の匂いを感じられる。そして私も女性だ。それはよくわかっている。女が女に恋をすることが幻想郷でも「ふつう」の次元にないこともわかっている。 けれど、恋をしてしまった以上、「ふつう」の理屈はもう無力だ。私は「ふつう」の人間ではなく、魔女なのだから。

 小悪魔の鼻歌が図書館の奥から聞こえてきた。ふと、小悪魔が言ったことを思い出した。真実薬に「何かが足りない」――その言葉がずっと頭にひっかかっていたが、たしかに小悪魔の言うとおりなのかもしれない。
 真実というのは、ただそこに存在するだけでしかない。だからときに真実は隠されてしまうし、嘘にその姿を歪められてしまう。真実薬は、その真実のありのままの姿を視覚化するためのもので、結局はそれ以上になりえない。真実は何も語らないし、何も教えてはくれない。私たちが問いかけないかぎり、その姿さえ見せてくれない。
 あるいは、すべてが見えたとして、それがいつもひとに幸福をもたらすともいえない。ときに人を傷つけ、ときにひとを追いつめ、ときにひとを喜ばせる。私も魔理沙の思いを知るのが、少し怖くもある。
 だから、足りない、と小悪魔は言ったのだろう。思いはただそこにあるだけで、真実を知るだけではどうすることもできない。その先のことを考えなければ、意味がない。私は真実を知ってどうしたい? 魔理沙の思いを知って、何がしたい?
 その答えはすぐに出た。私は魔理沙を引き寄せたい。たとえ、どういう真実が見えたとしても、そしてその真実を知って傷ついたとしても、私は魔理沙が欲しい。

 私はゆっくりと目を開いた。フラスコの反応はまだ終わらない。完成まではあと2時間20分待たなくてはいけない。でも、それはじきに完成する。無限の時間を持つ私にとって、待つという行為はそれほど重要な意味を持たない。ならば、待つ以外にすることがあるなら、それは引き寄せるという行動しかない。
 私は大きく息を吸った。咳は出なかった。小悪魔の鼻歌が低く図書館に響いていた。

 #2

 翌日、私は材料リストの紙を、小悪魔に投げるようにして渡した。小悪魔は焦りながら、その紙をしっかりと握りしめ、書いてあることに目を通した。

「ええと、なんだかたくさんありますね。蛙の心臓、百合の花びら……書いてあるものぜんぶ集めればいいんですか?」
「そうよ。香霖堂にでさえ売ってないようなものもあるけれど、お願いして大丈夫かしら?」
「そんな珍しいもの、どこかにあるのでしょうか」
「魔法薬の効果の大きさを考えれば、珍しいものがあっても不思議じゃない。でも、必ず幻想郷にあるはず。それは間違いないわ」

 小悪魔は眉をひそめ、紙を眺めながら言った。「まあ、パチュリーさまがそう言うなら、探してみます」
 小悪魔に渡したのは新しい魔法薬の材料リストだった。小悪魔の言うとおり、ふつうに売っていないものやこの図書館に保管していない材料もあるので、幻想郷中を探さないといけない。妖怪の山にも入ってもらうことになるかもしれない。一週間くらいは採集に時間がかかるだろう。
 難しい顔をする小悪魔に私は声をかけた。

「ごめんなさいね、あなたにこんな苦労をかけて」

 小悪魔はあわてて私に振り向き、笑顔を作って言った。

「いえいえ、パチュリーさまの頼みなら私は平気ですよ」
「時間がかかってもいい。むしろ、一日じゃ終わらない、と言っておくわ。急ぎというほど急ぎでもないし、無理だけはしないで」
「はい、わかりました」

 小悪魔はそう言って、私に背を向け、歩きはじめた。けれど、すぐに足を止め、再び私に振り向いた。

「でも、これほどのこと、私に頼んでいいんですか? 咲夜さんならもっと早くて、確実に集めてくれそうですけれど」
「……咲夜にこれ以上の負担はかけられないわ。レミィの世話から紅魔館の掃除、修繕。というか、レミィの身のまわりのことだけでも、もう十分すぎるくらいでしょう。だから、あなたに頼んだのよ」

 小悪魔は苦笑しながら、軽くうなずいた。その小悪魔の反応に少し胸が痛む。私が昨日の真実薬を飲んでいたら、手のひらから大量の汗が流れるところだろう――本当の理由を隠しているから。
 けれど、小悪魔はその真実に気づかないまま、笑った。

「それならしかたないですね。がんばって集めてきます」

 そういって、小悪魔はその羽をはばたかせ、図書館の扉の方へと飛び去っていった。私はその後ろ姿を眺めながら、椅子に腰かけた。扉が閉まって、私は小さくため息をついた。
 あの子は疑うことを知らないのだろうか。咲夜なら、私がどういう薬を作ろうとしているのか、気づいたかもしれない。それが咲夜に頼まなかった理由のひとつ。もうひとつは、レミィと咲夜を引き離したくなかったから。私のわがままがあの二人をばらばらにしてしまうことは、私にとって大きな罪になってしまうように思えた。

 あの材料を集めて生成すると、それは惚れ薬になる――と、「要するに」そういうことだけれど、実際はそんな簡単な話ではない。小悪魔の言うとおり、材料には珍しいものも多く、集めるだけでまずひと苦労する。そして、それをすべて集めて生成を始めても、かなり緻密で神経を使う作業の連続になる。その効果を考えれば当然のことなのだろうが、調合だけでも二週間近くかかる。昨日の真実薬のように一日でできあがるものではない。
 机の上に置いてあった本を手に取り、折り目をつけておいたページを開く。『惚れ薬の調合』の項目だ。本当に小悪魔に頼んだものが間違いないか、もう一度材料のリストを確認した。――大丈夫、これで間違いない。私はそれを確信して、あとの文章にも目を通した。
「『惚れ薬』。服用したものは、調合者に対して(正確にはこの表現は正しくない。後述)、まるで恋をしたかのような感覚を覚える。ただし、取り扱いは極めて難しいうえに、服用にも大きな危険を伴う。効果の持続時間にもよるが、長くなればなるほど、精密な計測と調合を必要とする」
 そのような序文に始まって、その効果の詳細、調合方法、注意などが書き連ねてあった。

 材料の中には、誰かの髪の毛もひときれ入れる必要があった。服用者はその髪の毛の持ち主に対して惚れたような感覚を覚える、というわけだ。効果を具体的に述べると、動悸が少し激しくなり、発汗作用の増幅、筋肉の収縮、微熱などを伴う生理現象が起きる。人間が恋をしたときに起きるような症状をおおよそまとめている。
 その理論はいたって簡単で、髪の毛の持ち主の匂いを服用者が知覚すると、体全体に信号が行き渡るようにしてあるだけだ。ただ、体全体に作用を引き起こすため、実際の調合は複雑で精密さが重要だった。匂いのもととしては他にもあるが、髪の毛がいちばんよいだろう、と書いてあった。他の部位のものは、口に言うのが憚れるような場所だ……。
 視覚に頼らず、嗅覚が引き金となるところが確実性をもたらしている。視覚によるものの判別は理論的に難しい話だが、匂いというものはそう変わるものではない。香水などで多少ごまかせるにしても、そのひと本来の匂いは必ず存在している。知覚するものとして、誤認も少ない嗅覚がいちばん確実だということだ。
 もちろん、惚れ薬には解毒剤もある。魔法が必ず解ける構造を持つのと同じように、魔法薬にもその効果を打ち消す薬が存在しなくてはならない。とくにこのタイプの魔法薬は、いわば禁断症状の「逆」の状態を作り出すような薬だから、解毒剤を作り忘れた場合はその後の処置に困る。
 それに加えて、この惚れ薬には重大な欠陥、というより、名前に対しての本質が欠けている。この薬が引き起こすのは身体の生理現象だけで、対象者の精神状態には直接何の影響も与えない。服用者にその生理現象が出たあとで、そのひとが惚れているのではないか、という錯覚をしなければ、何の意味もない。結局、本当に惚れてもらうためには私が何かをしなければならない、ということになる。

 しかし、どういう効果をもたらすにせよ、何もしないよりはいい。まずは、魔理沙にその錯覚が起こることを期待して惚れ薬を作るべきだ。結果先行と言われてもいい、何もしないよりは、ずっと。
 私は本をテーブルの上に置き、立ち上がって本棚のところへ歩いた。今は小悪魔が材料を集めるまで待つしかない。たった一週間程度の我慢だ。私は別の本を手に取り、テーブルに戻ってそれを読みはじめた。

 8日たって、小悪魔はすべてのものを集めてきた。外とこの図書館を何往復しただろうか。べつに数えているわけではなかったが、最後に小悪魔が帰ってきたとき、彼女の顔には明らかに疲れが出ていた。

「パチュリーさま、ぜんぶ集めてきました」

 ドアを開けた小悪魔の声にも張りがなかった。少しふらつきながら、小悪魔は私のもとに歩いてきて、最後の材料を私に差し出した。私はそれを手で受け取ろうとした。
 そのとき、小悪魔の手と私の手が少し触れあい、小悪魔が「きゃう!」とかわいらしい声をあげた。電流が走ったように手を震わせ、あわてて手を引っ込めた。

「……どうしたの、小悪魔」

 小悪魔は黙ったまま、自分の手で胸を抑えていた。材料を受け取った私の手だけが空に寂しく残されて、それだけが妙な不思議さを醸し出した。私は受け取った材料を実験台の上に置いて、もう一度尋ねた。

「どうしたの、大丈夫?」

 小悪魔は首を軽く振って答えた。「大丈夫です。ちょっと疲れているのかな」
 それから、小さく息をついて続けた。

「パチュリーさまの手に触れて、ちょっと驚いたんですよ」
「私の手?」

 私は自分の手のひらを、次に手の甲を見たが、私の手にはとくに何もなかった。魔力をため込んでいるわけでもないし、魔法薬を塗っていたわけでもない。手を眺めている私に、小悪魔が両手を振りながら言った。

「いえ、そういうことじゃなくて、パチュリーさまの手って、あったかいんだな、と思っただけですよ」
「……そんなこと?」

 私は拍子抜けして、両手を下ろした。小悪魔は笑って言った。

「パチュリーさまの手って冷たくて、骨ばってて……なんていうんでしょう、固いイメージがありました」
「……いいイメージではないわね」「正直なところ、そうでした」「正直すぎるわ」

 私はあきれて、ついため息が出た。小悪魔が言った。

「だって、パチュリーさま、ぜんぜん外にも出られないですし、とくに運動しているわけでもないし、食事も睡眠もろくにとらないじゃないですか」
「まるで私が超不健康児みたいな言い方ね」
「実際、喘息持ちだから完璧な健康とは言えませんね」
「そうだけど」
「このまえ魔理沙さんが『紫もやし』とまで言ってましたし」
「うう……」

 少し泣きそうだ。私が目じりに手をあてると、小悪魔があわてて言った。

「あ、パチュリーさま、すみません、言いすぎました」
「べつに落ち込んでないわよ、少し傷ついたけど」
「傷つくんですね、そんなことで」「あなた、謝りつつもさりげなくひどいわね」「小悪魔ですから」

 私は少し気を持ち直して小悪魔に訊いた。

「で、実際はどうだったのよ、私の手」

 小悪魔の頬に少し朱色が差した。

「何て言えばいいんでしょうか、パチュリーさまの手はとても温かくて、それでとても柔らかくて、なんだか触っていて少し気持ちよかったです」
「ちょっと、なんだか気持ち悪いわよ、その言い方」
「でも、本当のことだからしょうがないじゃないですか」
「あなた、本当に正直ね」「今までのイメージと違って、意外でしたから」「意外とは何よ、意外とは」

 私は少しむすっとした顔を作った。小悪魔は笑いながら言った。

「でも、この前の話じゃないですけど、パチュリーさまは手のひらが温かいからって、心が冷たいなんてことはありませんよ」
「どうかしらね。私は魔女だから、そんな保証はないわよ」

 それから、小悪魔に言うべきことを言い忘れていたことに気づいた。

「そういえば、小悪魔、材料を集めてくれてありがとう。大変だったでしょう」
「いえいえ、パチュリーさまのためなら、これくらいのことは平気です。他に私ができることがあれば何でも言ってください」

 疲れを残したまま、小悪魔は笑っていた。ほんとう、あなたは正直なのに、どうしてこういうところで嘘をつくのよ、とは言わないでおいた。平気ではないことは誰が見たってわかる。疲れが小悪魔の身体から立ちのぼっている。呼吸も少し苦しそうだ。
 私は、小悪魔が帰ってきたら言おうと思っていた言葉を口にした。

「そうね、他にあなたに頼むべきことがあるわ」

 小悪魔は微笑を崩さず、言った。

「なんでしょう、パチュリーさま」
「あなたには十分休んでもらいましょう。一週間の休暇をとったらどう?」

 小悪魔の目が少し見開かれた。「私なら平気ですよ。べつにわざわざ休まなくてもすぐ回復しますし」
 私は小悪魔のそばに歩み寄り、その額を指で突いた。不意を突かれた小悪魔はふらふらと後ろによろめいて、尻餅をつきそうになった。私は肩をすくめて言った。

「ほら、こんなに疲れをため込んでいるじゃない。あなたは私の使い魔じゃないんだから、魔力の供給で回復させることもできないし。ゆっくり休んでもらうほかないわ」

 小悪魔は崩れ落ちて、地面にぺたんと尻餅をついた。やはりその疲れはごまかせなかったらしい。下唇を噛み、少しうつむいて、それから言った。

「でも、私が休んだら、この図書館は」
「いいのよ、私はあなたがいないときからここにいたんだから。少しくらいあなたがいなくてもなんとかなるわ」

 小悪魔はしばらく黙って、それから顔を上げた。何か物足りなげで、何かを欲しがるような目をして、そこには少しの不満も見えかくれした。けれど、小悪魔はそれを言葉に出さず、ゆっくり立ち上がって言った。

「わかりました。十分に休んで、またちゃんとここで働きます。それまでは、外で羽根でも伸ばしてきます」
「それがいいわね。ここだとほこりっぽくてよけいに疲れそうだし」

 小悪魔は私に頭を下げ、背を向けて図書館から出ていった。図書館には私しかいなくなった。

 一日がたった。この大図書館で私はずっとひとりだった。私が本のページをめくる音、私の呼吸、ため息、それ以外には何も音を立てるものはない。静かすぎるほどに静かだったが、私の世界が乱れることはなかった。ただ、少し物足りなくは思う。小悪魔が本を落とす音、そして聞こえてくる悲鳴、楽しそうに歌う鼻歌、さわやかな匂いの紅茶。あたりまえだと思ったことがなくなるというのは、多少の痛みをもたらす。けれど、それがなくなって本当に困るかというとそういうわけでもなかった。
 小悪魔に言ったとおり、私は100年近く前からこういう環境の中で暮らしてきた。ひとりには慣れきっている。本を読むことにひとりもふたりもない。ただ孤独に本の中の世界にしみこんでいけばいい。私は昔も今もそう思っている。
 小悪魔に休みを与えたその日は、ずっと本を読んでいた。惚れ薬の調合についてのすべてを頭に入れておく必要があった。かなり複雑な手順で、時間もかかるので、いちいち手順を本で確認していては効率が悪い。今日になって、ようやく調合を始められる。待つのはもうそろそろおしまいにしよう。

 私は魔法の道具が置いてある棚へ向かった。下から二番目の段にはおととい完成した真実薬の入っている瓶がある。使い終わったフラスコがその上の段に入っていた。私は背伸びをしてフラスコを片方の手で取った。それから、小悪魔が集めた材料が真実薬の下の段にあったので、それをもう片方の手で取り出した。
 実験台にそれらをすべて置いて、第一段階を始める準備は整った。

 魔理沙はこの二週間ほどこの図書館に姿を現さなかった。小悪魔がいなくなったことより、魔理沙が来ないことの方が妙に寂しく感じられた。魔理沙が定期的に現れるようなことはないが、それでもふだんなら一ヵ月に少なくとも一回は来る。そろそろ魔理沙が来てもおかしくない、と思っているのに、その魔理沙は現れない。
 私の気持ちははっきりしなかった。魔理沙が来ないことが寂しくて苦しいのに、心の隅では、もう少しのあいだだけ来てほしくないと願っている気持ちもあった。魔理沙が来ないことで安息を得ている自分もいた。それは、まだ惚れ薬が完成していないから。
 私はフラスコの中に水を満たしながら、微笑を浮かべた。そうよ、この苦しさからもそのうちに抜けられる。来てほしいのに来てほしくない、こんなジレンマももうすぐ終わる。この惚れ薬が完成すれば、苦しさもなく恋を感じることができる。フラスコを金網の上に載せ、魔法で火をおこし、水を温めはじめた。
 ふと、私の頭の中で閃きが起こるのを感じた。あの棚の中にある真実薬、あれと惚れ薬を併用するとどうなるのだろう。うまくいけば、惚れ薬を飲んだ魔理沙が私に対して惚れたと錯覚しているかどうか、そのことを確かめられるかもしれない。その思いが真実で、恋が真実になるのならば、その併用もやってみる価値はある。
 私は期待に胸を膨らませてフラスコの水が煮たっていくのを眺めた。

 #2.5

 外はよく晴れている。春の匂いが紅魔館の門番の鼻先をかすめていった。門番は大きく伸びをし、深く深呼吸した。これほど快適な春の日が来るのも珍しい。今頃、氷精たちが自分の眼前にある湖のどこかで水遊びをしているところだろうな、と彼女は思った。
 門番の後ろからこつこつと靴の音が響いた。彼女ははっと後ろを振り返る。メイド長が自分の様子を見に来たのかもしれないと警戒心をむき出しにしたが、足音の主を見て彼女の肩から力が抜けた。

「なんだ、小悪魔ちゃんだったの」

 小悪魔は手を振りながら歩み寄ってきた。

「こんにちは、美鈴さん」

 美鈴は門を開いて、小悪魔を外に通した。「またこれからどこかに出かけるの?」

「いえ、べつに行く場所なんてないですよ。ただ、パチュリーさまから一週間休みをもらえたので、今日はのんびりしようかな、と」
「ああ、そうなんだ。いいなあ、私も少しは休みが欲しいものね」

 美鈴は門に寄りかかるようにして腰をおろした。小悪魔も美鈴の隣りに腰をおろして、言った。

「大変ですね、美鈴さんも」「うん、まあね」

 美鈴は苦笑しながら言った。

「そうそう、小悪魔ちゃん。べつに私のことを『美鈴さん』って呼ぶ必要、ないんだよ? それに敬語だって使わなくて私は気にしないのに」
「ええ、前にもそう言われました。でも、もうこの呼び方で慣れちゃいましたし、実際、美鈴さんの方が昔からいたから。敬語で、『美鈴さん』でいいじゃないですか」
「ああもう、小悪魔ちゃんは純朴だねえ。パチュリーさまのもとで働いているのに、よくひねくれないよね。まあ、お互い変な上司を持つ者同士、仲良くしましょ」
「ちょっと美鈴さん、咲夜さんを変な上司扱いはひどいんじゃ……」
「聞かれてたらもうナイフが飛んできてるわよ。今はきっと大丈夫、たぶん」

 小悪魔はくすくすと笑った。その様子を見ていた美鈴が眉をひそめて小悪魔に尋ねた。

「小悪魔ちゃん、かなり疲れてる? ここのところ、毎日紅魔館から出入りしてたよね」
「ちょっと疲れてるかもしれません。パチュリーさまに言われていろいろ集めてましたから」
「うわ、パチュリーさま、人使い荒いなあ」

 小悪魔は首を振った。

「いえ、パチュリーさまのためなら大丈夫です。今日だってがんばれば働けるのに、わざわざパチュリーさまがお休みをくださったんです」
「……本当に純粋だね」
「パチュリーさまからも同じようなことを言われました」

 美鈴は少し考えてから、小悪魔の方にすり寄った。そして小悪魔の肩の上に、自分の手を置いた。

「え、美鈴さん?」
「すごく疲れてるみたいだから、私が中国式マッサージをしてあげようかなと思って」

 そう言いながら美鈴は返事も聞かず、小悪魔の肩を揉みはじめた。小悪魔はくすっとまた笑いを漏らし、言った。

「じゃあ、お願いします、美鈴さん」
「任せてよ」

 美鈴のマッサージはとても上手だった。彼女は手のひらから気の流れを感じ取り、気の流れの悪いところを重点的にほぐしていった。小悪魔はときどき、気持ちよさそうな吐息を漏らした。

「小悪魔ちゃんはどうしてそんなにパチュリーさまのもとでがんばるの? 肩とか背中とか揉んでいてわかるけど、ものすごく疲れているみたいだよ」
「ううん、どうしてでしょうね、ふっ……ああ……そこが効きます」
「小悪魔ちゃん、な、なんかすごくいやらしい声だよ」
「そ、そうですかぁ……だって気持ちよくてしかたないんですよぉ」
「う、うん、わかるけど、声だけ聞いてると、こう、何かアブナイことやっている気になっちゃうよ」

 小悪魔はそれでも吐息を漏らしながら、言った。

「パチュリーさまのために、私、働いているんですよ……パチュリーさまがっ、それで笑ってくれたら、いいんですぅ、私」
「そうなの」
「美鈴さんだってぇ、ときどき門番らしくないときあるじゃないですかっ……ひゃっ」

 美鈴は苦笑して答えた。

「そうね。あの夏の異変のときも、私が本気を出したわけでもないしね」
「どうしてですかぁ、私は魔理沙さん相手に本気出したのに……」

 美鈴はしばらく黙って小悪魔の肩と背中と首を揉みつづけた。小悪魔の吐息と風の音だけが聞こえた。小悪魔が不思議そうに問いかけた。

「美鈴さん……?」
「私にとって門というのは、守るべきものじゃない。守らなくちゃいけないのは中に住むひとだと思ってる。そういうこと」
「……わかりっ、づらいです……」
「あの異変のとき、紅魔館にお嬢様を止められるひとは誰もいなかった。ね、誰かがお嬢様の心に届かなくちゃいけないのよ、きっと。だから、私はあえて、あの二人を中に入れたのよ」

 美鈴の力が少し強まった。

「じゃあ、今でも魔理沙さんが図書館にぃ、入ってくるのはぁ、どうなんです、か」
「あれは例外かもしれないなあ。だって、あんな目で入ろうとする人を止める方が野暮な気がするから」
「むう、そしたら、ちゃんと本を借りるってパチュリーさまに言ってくれれば、いいのにっ……」
「そうできないところが、また魔理沙らしいんじゃないかな」

 小悪魔は笑った。美鈴は小悪魔に合わせて声だけ笑った。
 さっきから何かがおかしい、と美鈴は手のひらから伝わる気の流れを感じて思った。さっきからし力を強めにして気の流れをよくしているはずなのに、それでも小悪魔の疲労がうまく体から抜けていかない。だいたい、こういうときは精神的な負担が原因になっている、と美鈴は経験から気づいた。美鈴はそれとなく訊いてみることにした。

「ねえ、小悪魔ちゃん、最近何か悩んでいることない?」
「え、とつぜん、何ですかぁ……?」

 ぜんぜんそれとなくなかった。

「ん、いや、ちょっと気になっただけ」
「心配してくれてぇ、ありがとうございます。でも、私、何もっ、心配ごとはないですよ……ふぅっ、ん」

 美鈴はそれ以上聞くのをやめて、ひたすら小悪魔の身体をマッサージしつづけた。

 20分くらい美鈴はマッサージを続けて、それなりに小悪魔の身体の気の流れもよくなったのを感じた。

「はい、だいたい終わったわよ。本当は脚もやった方がいいんだけど、さすがに外でやるのは変だしね」
「いえいえ、ありがとうございます。だいぶ体が軽くなった気がします」

 また美鈴と小悪魔は二人で門に寄りかかって座って、空を見上げた。小悪魔が美鈴に問いかけた。

「美鈴さんは外でいつもこんな感じで、太陽の光を見られるんですよね」

 美鈴は小悪魔の方に視線を向けた。小悪魔は空を見上げたままだった。

「晴れの日はこうして暖かい陽だまりの中にいられるんですよね」
「うん、そうね。でも、夏はまいっちゃうくらい熱いし、雨の日も曇りの日も、雪の日もここで立っていなきゃいけないんだけどね」
「でも、それがうらやましいんです」

 美鈴は小悪魔の目を見た。光の中で、それはまた別の光を求めているように見えた。

「図書館から外に出たい、っていうこと?」
「いえ、そういうことじゃありません。私はパチュリーさまのもとにいたい、それは変わりません」
「じゃあ、それって」

 小悪魔は美鈴の方に顔を向けた。

「パチュリーさまに感じてもらいたいんです。晴れの光を、雨の冷たさを、風のさわやかさを、雪の温かさを」
「ん、そういうことか。たしかにあの方はなかなか外に出ないから。小悪魔ちゃんの気持ちはわかるかもしれない。でも、パチュリーさまは外に出たことがないわけじゃないと思うけれど」

 小悪魔は寂しそうに笑った。

「あの宴会騒ぎの異変のとき、たしかにパチュリーさまは外に出ました。でも、それは私たちが見ている世界とは違ったと思うんです。たぶん、異変の解決の方に忙しくて、ゆっくり景色を見ている場合じゃなかったのでしょう。だから、いつか、本当に純粋な時間と世界を受け止めてくれたら、私はそれだけで……」

 そこで小悪魔は言葉を切った。ああ、そういうことなんだ、と美鈴は思った。だから小悪魔ちゃんはこんなに――。
 美鈴は小悪魔に微笑みかけた。

「その夢、いつか叶うよ、きっと。そのときには私も手伝うから」
「ありがとうございます、美鈴さん」

 美鈴は笑って、拳を突きだした。

「あたりまえよ、下で働く者同士、仲良くしなくちゃ」

 小悪魔はその拳を両手で優しく包み込んだ。

 #3

 図書館に来客だ。開いたドアのところに立っているのはレミィと咲夜だった。レミィが起きているということは、今は夜なのだろう。遠くの方でレミィが手を上げ、声を投げかけてきた。

「やあ、パチェ、調子の方はどう?」
「変わらないわ」

 レミィ、あなたは運命を操れるのだから、あなたがわざわざ調子について尋ねるのはおかしいのよ、と言おうと思ったが、以前も、その前もその前も同じことを言った気がしたので、今日は言わないでおいた。

「変わらない、ねえ。たしかにまったく変わってないように見える」

 レミィは顔をしかめながら、こちらに歩いてきた。咲夜が音もなくその後ろを滑るようにしてついてきた。大きな綿ぼこりがレミィの鼻の前を通り過ぎて、レミィは大きなくしゃみをした。咲夜があわててハンカチで主人の口元と鼻を拭いた。鼻を啜りながらレミィが私に言う。

「こういうところが変わってないね、やっぱり。ここはほこりっぽいのよ。空気を入れ替えたらどうなの?」

 レミィは私が座っていない方の椅子に腰かけた。咲夜が「マスクをつけますか?」とレミィに尋ねたが、レミィは首を振って、「苦しいからいらない」と断った。私は読んでいた本を閉じ、ため息をついた。

「この図書館には窓がないから空気の入れ替えが難しいのよ。それに私はその必要がないと思うから」
「……まあ、あなたがいいならそれでいいのだろうけど」

 レミィは肩をすくめた。私はフランがレミィと一緒にいないことに気がついた。

「今日はフランがいないのね。どうしたの」
「フランはねえ、今日は魔理沙のところへ行ったみたいよ」

 レミィの答えに、私の胸がうずくのを感じた。だからと言って、今は私に何ができるわけでもない。惚れ薬はまだ完成していない。今、実験台で加熱している最中だ。作りはじめてから三日目、調合は何の問題もなくうまくいっている。
 レミィが後ろに立っている咲夜に振り向いて、言った。

「咲夜、紅茶を」「淹れてあります」

 何も持っていなかったはずの咲夜の手の上に、紅茶のポットと二つのティーセットを載せた盆があった。

「さすが咲夜ね。時が淹れた紅茶らしい香りがするわ」
「恐縮です」

 咲夜がテーブルの上にティーカップを置き、それぞれに紅茶を注いだ。そして小さな瓶を取り出し、その中身の赤黒い液体を少しレミィの紅茶についだ。おそらく、咲夜がレミィのために人間の血を入れたのだろう。紅茶から立ちのぼる甘酸っぱいにおいが私の鼻をついた。この匂いは――「アールグレイ。そうでしょう、咲夜」「さすがお嬢さまです」。咲夜は満足そうに微笑んで、さらに白い小壺を置いた。レミィがそれを眺めながら言った。

「さあ、このフレーバーを楽しみながらいただくとしましょう、パチェ」
「そうね、そうしましょう」

 私はカップを口につけ、紅茶を啜った。わずかな苦みと強烈な匂いが私を満たしていった。アールグレイは匂いが強く、私はいまだにあまり好きになれない。レミィを見ると、まだ一口も飲んでおらず、白い小壺から角砂糖をつまみだし、それを紅茶の中に落としていた。そしてまた新しい角砂糖を取り出した。私はあきれてレミィに言った。

「レミィ、そんなに砂糖を入れたらせっかくのアールグレイの風味が落ちるわよ」

 レミィが私の言葉に顔を上げ、少し頬を赤らめた。角砂糖が紅茶の水面を打って、水滴が外に零れた。

「だって、このままじゃ苦くてしょうがないじゃない。それに、私の方は血が入ってよけいに苦いんだし」
「だからといって、そのサイズのカップに角砂糖を6つも入れるひとはいないと思うわ」

 レミィのカップの底には溶け切れていない砂糖の粒が山を作っていた。私が咲夜を見ると、咲夜は声を出さずに私に苦笑いを見せた。レミィは頬をふくらませ、黙っていた。その様子を見た咲夜は、レミィと私に頭を下げ、言った。「では、お嬢さま、パチュリーさま、私はこれで失礼いたします」

 咲夜がさがって、レミィはやっとため息をついた。

「もう、パチェ、あなたは意地悪ね。咲夜の前であんなこと言わないでちょうだい」
「思ったままのことを言ったまでよ。今さら咲夜の前で格好つけなくてもいいじゃないの」

 レミィは首を横に振って言った。

「わかってないね、パチェは。私はいつでもカリスマでなくちゃいけないの。とくに従者が見ているときは」
「角砂糖6個のカリスマって呼んでいいのかしら」「ぜひやめてほしいわね」

 レミィはようやく紅茶のカップを手に取り、少し啜って、舌で味わった。

「うん、これくらいでちょうどいいみたい」
「……甘すぎるわ、あなた」「いろんな意味でね」

 苦笑いしながらレミィはカップをテーブルに戻した。私はレミィに尋ねた。

「で、今日は何の用でここに来たわけ?」
「うん? 何の用って?」

 レミィは不思議そうに私に視線を向けた。真紅の瞳は何も語らない。レミィはしばらく黙って紅茶を啜り、それから言った。

「ここに来るのに何か目的とか、理由がいるの? 今まで私がここに来たのはいつも気まぐれだったじゃない」
「詭弁ね。あなたは気まぐれでここに来るわけじゃないわ。気まぐれから生まれる目的のもとにこの図書館に来ていたじゃない。あのロケットのときもそうよ」

 永夜異変のあと、レミィが月に行くと言いだし、私はそのためにロケットを作った。作業場所はこの図書館で、発射場所もこの図書館。レミィは発射のためにわざわざこの図書館の天井に巨大な穴を開けたのだ。
 レミィは肩をすくめた。

「ああ、たしかにそんなこともあった。今となってはいい思い出だけど」
「何がいい思い出よ、ひとの図書館に勝手に穴を開けて」

 レミィは指を私につきつけ、反論を途中でさえぎった。

「それは結果だけの話よ。パチェ、あなただってロケット作りを楽しんでいたじゃない」

 レミィの指摘に私は何も返せなかった。

「理由というものはいつでもあとからついてくるものだよ。たしかに、時間の流れとしては原因があって結果がある。でも、私たちはいつでも原因を、結果のあとから見つけ出さなくちゃならない。たとえ運命を見ることのできる私でもね」

 私はその言葉をぐっと頭の中で飲み込んで、静かに言った。

「じゃあ、ここに来た理由はない、ということ?」

 レミィは笑った。

「あるいはそうかもしれないわね。でも、理由がどこかにあるかもしれない。それは私にもわからないわ。結局、すべてはあとになってからでないとわからないもの」
「……運命が見えてもわからないことはあるものね」「ええ、本当に」

 私は紅茶を一気に啜り、新しい紅茶をポットから注いだ。レミィも私にならって紅茶を飲み乾した。
 ふと、レミィの視線が私の背後にある何かに注がれた。

「パチェ、ここに入ってきたときから少し気になってたんだけど、あれは何?」

 私は後ろを振り返った。少し離れた場所に実験台があって、その奥にずっと本棚が続いている。おそらくレミィが言っているのは、あの実験台の上にあるフラスコの中身のことだろう。私はレミィの方に向き直って答えた。

「あれは惚れ薬よ」

 レミィは「ふうん」と煮えきらない返事をして、じっと惚れ薬の入ったフラスコを眺めていた。そして、視線をそこに固定したまま、また私に問いかけた。

「ひょっとしなくても、誰かに使うつもりなのかしら」
「そのつもり」

 私の答えにレミィは深く、長いため息をついた。それから小さくくしゃみもした。ハンカチを出して、自分で顔を拭いた。

「誰に使うかは訊かないでおく。親友といえども、そこまで聞く権利がないことくらい、私でもわかるわ」

 レミィはポットから自分のカップに紅茶を注ぎながら続けた。

「でも、これだけは言わせて。誰に使うかはともかく、パチェ、あなたはわかってないわ」

 唐突すぎる言葉だった。その言葉に、一瞬、私はどう反応すればいいのかわからなくなった。レミィが私の顔をまっすぐに見た。私は紅茶のカップを手に取ったが、その手が少し震えていた。一口紅茶を啜って、私はようやく言葉を紡ぎだすことができた。

「わかっていないって、何が」

 レミィは答えなかった。私は少し不愉快になって、続けた。

「惚れ薬の調合、あれに関して私は絶対の自信を持っているわ。魔法に関してなら、レミィ、私はあなたよりも知識があると思っている。何がわかっていないというのよ」
「たしかに、知識はあなたの方が圧倒的に上よ。それは私も認める」

 レミィはそこで言葉を切って黙り込んだ。それ以上言わないことに、私は不快感を募らせた。

「だったら、いいじゃない。私は本とともにあるべき存在。それだけでいいのよ」

 レミィが鋭い視線で私を見て、言った。

「じゃあ、どうしてあなたは恋なんてしているの」

 私はレミィの問いに答えられなかった。恋に、理由なんてあるの? 私は、レミィがその目で惚れ薬の運命を見たのではないかと、疑った。どういう結末になるのか私にはわからないが、レミィの様子からすると、望ましい結果になるわけではないらしい。
 レミィはまたため息をついた。

「あなたは自己矛盾を抱えているわ。本とともにあれば十分だと思っていながら、その一方で誰かを求めようとしている。あなたのその考えが、私には滑稽に見えるのよ」
「レミィ!」

 私は声を荒げた。レミィは鋭く、それでも静かな瞳を見せる。私はそのまままくしたてた。

「何が言いたいの? 自己矛盾? いいえ、そんなことはない。本のそばに存在したい、私の恋するひととともに存在したい、そのふたつは決して矛盾しないわ。私の言っていることが間違っているというの?」

 そこまで言って胸が苦しくなり、私は言葉を切って激しく咳き込んだ。今日は喘息の調子がよくなかった。咳き込む私をレミィはただ冷ややかに見つめていた。口元を押さえ、肺の中の空気すべてを吐き出しそうになりながら、私は頭の隅で思った。ああ、なんて楽しくないティータイムなのだろう。

 咳が落ちつき、私は紅茶で喉を潤した。レミィはティースプーンを右手でこねくり回しながら言った。

「ひどいこと言ってすまないね、パチェ。でもあの惚れ薬を見たら、私もああ言いたくなるわ」

 ティースプーンがレミィの手から滑り落ち、床に落ちて銀色の音を立てた。レミィはそれを目で追っただけで拾おうとしなかった。それから、私に訊いた。

「ねえ、そんなことをしてまで、求めたい人がいるのね?」
「ええ、決して悪いことだとは思っていないわ」

 レミィの瞳がはじめて揺らいだ。白い壺から角砂糖を取り出し、レミィは冷めきった紅茶に砂糖を落とした。紅茶がはねてレミィの服にしみついた。揺れる水面をレミィはじっと見つめ、それから静かに話しはじめた。

「私と咲夜が出会った日を覚えている? たしか、あなたも見ていたはずよ」

 私は黙ってうなずいた。

「十六夜の日に拾ったから、『十六夜咲夜』。我ながら簡単な理由だね、ほんとうに」

 そう言って、レミィは紅茶のカップを見つめたまま、苦笑を漏らした。

「最初はね、面白い人間だと思ったから、血を吸わずにここに住まわせてみたのよ。退屈になったら、ここから追い出したか、あるいは私の餌にしたかもしれないわね。だけど、いつかただの興味本位から、私の気持ちは変わっていた。惹かれていったのよ、この吸血鬼が、人間の咲夜にね。今では咲夜はこの紅魔館になくてはならない存在になっているし、いなくなったら私も困る。けれど、私にとって咲夜はそれだけじゃなくなってきたのよ」

 レミィは顔を上げて私を見た。その表情を、私はついこのあいだどこかで見たような気がした。深い紅は私を吸い込むように深かった。レミィは続けた。

「なんて言えばいいんだろう、的確な言葉が見つからない……近づく……?」
「……あなたの言いたいことはわかるわ」

 私はレミィの言葉を継ぐように言って、紅茶を啜った。言いたいことはわかる。たぶん、レミィは咲夜を家族だと思っているのだろう。二人の信頼関係は主従関係を超えて深くなっているのは、私も感じていた。
 けれど、どうしてレミィがそういう話をしたのか、それがわからなかった。レミィの現在と私の現在はところどころ接触を果たしながら、並行に進んでいる。同じ道をたどらない他人は他人でしかない。
 レミィは私を見つめているままだ。私は少しレミィから目をそらした。レミィはたまりかねたようにカップを手に取り、少しそれを啜り、またカップをテーブルに戻した。紅茶がカップのふちから零れ落ちた。それから、レミィは響く声で言った。

「はっきり言うわ。私は咲夜に恋している」

 私の瞳孔が収縮していくのを感じた。それから、胸の奥深くでうねるような嫉妬が生まれた。私の背後でとろとろと魔法の火がフラスコの中の液体を温めている。レミィは続けて言った。

「あなたが誰かに恋をしているのと同じように、私も咲夜のことがただ愛しい。吸血鬼が人間に恋なんて、昔の私なら笑ってしまうね、絶対。でも、今の私は本気よ。ねえ、パチェ、わかるでしょう? 今のあなたなら、私の気持ちが」

 レミィが言い終わると、図書館は静寂に包まれた。レミィの気持ち? わからない、わかりたくもない、わかるはずもない。どろりとした嫉妬の中で私は思った。レミィ、あなただけはそうやってすべてのことを正直に言うことができるのよ。あなたは運命をその手に握っているから、あなたは何をどう言ったとしても、すべてがあなたの思いどおりにいくのよ。でも、私はどうなの。今でさえ、あなたにこうやって反論できないでいるじゃない。魔理沙に、恋をしているなんて言えないじゃない。
 そのすべてを、やはり私は口にすることができなかった。私は運命を操れないし、見ることもできないから。ただ一言、静寂の中でレミィに言い放った。

「ずるいのよ、あなたは」

 今度はレミィが驚いた。「な、なによ、パチェ……?」。少しだけ、私も口に出して言った。

「運命を操れるあなたがずるいと、言ったのよ」

 レミィは顔をゆがめて叫んだ。

「だから、パチェはわかってない!」

 今にも目から涙を落としそうな顔で、レミィはテーブルの上に手をついて、椅子から立ち上がった。私は座ったままレミィの顔を見上げた。自分の親友を傷つけたのかもしれないというのに、なぜか私の心はひどく穏やかだった。レミィは叫ぶようにして私に言いつづける。

「運命が操れるからといって、知識や道具や時間を無限に持っているからといって、それですべてが叶うわけじゃないのよ。私にだって、どうしようもないことはあるのに……」

 私の耳からレミィの声がだんだん遠ざかっていった。レミィの声は、私からどこか遠いところで響いているようだった。すべての言葉は私に届かなかった。私はこの図書館の空気を吸い込んで、レミィに心の中で呼びかけた。ねえ、レミィ、私にはこの世界しかなかったのよ、あなたにはわからないだろうけど。――本当にわかっていないのは、あなたなのよ。
 そして、思った。私にはやっぱりあの惚れ薬が必要だ。私の手の中に残されているのは、それしかない。

 惚れ薬を作りはじめてから六日がたった。調合はなぜか思いのほか順調に進んでいった。このままうまくいけばあと一週間もかからないかもしれない。私はフラスコを手にとって、その中身を眺めた。

「パチュリーさま」

 遠くから明るい声が響いてきた。私はフラスコから目を離し、声のした方に視線を向けた。視界に入ったのは、腰までかかる長い深紅の髪、背中から生える漆黒の羽。小悪魔だった。そのとき、私は小悪魔に自分から一週間の休暇を与えたことを思いだした。

「ああ、小悪魔、おかえりなさい」と言って、私はフラスコを実験台の上に戻した。それから、小悪魔が何かを持っていることに気づいて、尋ねた。

「あら、手に持っているそのティーセットは何かしら?」
「アップルティーです。たまには私も淹れてみようかと思って」
「ここのところフレイヴァリィばっかりね」

 私はテーブルの方に戻り、椅子に座った。小悪魔はティーカップをテーブルの上に置き、紅茶を注いだ。その動作は咲夜と違って隙だらけだったが、いつもの小悪魔よりは――なんと言えばいいのか――元気があった。アップルの匂いが私と小悪魔のあいだに漂った。私はカップを手に取りながら小悪魔に尋ねた。

「よく休めた?」
「ええ、とても」

 小悪魔は軽く頭を下げた。「わざわざ休暇をくださってありがとうございます」。私は黙って紅茶を啜った。ランプの光の中にほこりが煌めいた。私はそれを見つめながら、つぶやいた。

「私はべつにあなたの主じゃないから、あなたの好きなようにしていいのに」

 小悪魔は微笑んだ。「私は好きでパチュリーさまのもとで働いているんです。パチュリーさまがいやだと言わないなら、私はずっとここにいてもいいと思っています」

 小悪魔の顔に嘘偽りはなかった。輝きを増したその微笑みから、私は目をそらして言った。

「……ありがとう」

 ぱっとアップルの香りがはじけた。

 私は紅茶を飲み乾し、椅子から立った。実験台のところまで歩き、フラスコを手に取った。小悪魔がそのフラスコに気づき、首をかしげながら私に訊いた。

「何ですか、それ」
「魔法薬よ、魔女だから、魔法薬。肩書きがときにものに名前を与えるというのは、不思議な話かしら」
「……よくわからないですけど、どんな魔法薬ですか? この前の真実薬とは違いますよね」

 小悪魔はいつもと同じように興味深そうな目で私のそばに寄ってきて、フラスコの中の液体をまじまじと見つめた。

「不思議な感じがします。もしかして、これ、私が集めた材料からできた……?」
「そう、あの次の日に作りはじめたのよ」
「あんなにいろいろ使うということは、かなり珍しい薬になりそうですけれど」

 小悪魔は私の答えを待った。私は、答えるかどうか迷った。この前のレミィとの会話を思いだしてしまうと、そのときの彼女の言葉、表情がいやでも頭に浮かんできた。けれど、私は小悪魔の問いに答えることにした。そして、誰に使うつもりかを訊かれたら、それにも答えようと思った。小悪魔なら、レミィと違って運命を見ることも操ることもできないから――私の気持ちをわかってくれるのではないかと、期待していたのかもしれない。

「それは、惚れ薬よ」

 小悪魔ははっとして私に振り向いた。一瞬、動揺がその顔に浮かんだが、それはすぐに消え失せて、動揺がまるで嘘だったかのように、微笑みだけが残った。微笑んだまま、小悪魔は言った。

「そうですか、惚れ薬ですか……」
「……あなたには迷惑かけたけど、順調に進んでいるわ。説明を聞きたい?」
「いえ、だいたいわかるので大丈夫です」

 小悪魔はそう言って少しうつむいた。ランプに照らされて、どす黒い影と強い光が小悪魔の顔の輪郭を浮かび上がらせた。彼女は両手を前に組み、強くそれを握りしめていた。そして、顔を上げて言った。

「うまくいくといいですね、惚れ薬の調合。誰にその薬を使うつもりなんですか?」

 軋んだ声だった。私はその響きに少し気圧されて、それでも小悪魔に聞こえる程度の声で答えた。

「……魔理沙よ」
「そうですか」

 遠くでみしみしと何かが壊れそうな音を立てた。本棚から本が落ちる音がした。小悪魔は言った。

「私、本の整理に行ってきます。私がいないあいだに、だいぶここも荒れちゃったみたいですし」

 小悪魔は私に背を向けた。真紅の髪が流れるように艶めいている。その色はレミィの瞳を、言葉を思いださせた。私は――「待って、小悪魔」――小悪魔を呼び止めた。小悪魔は首だけ私に振り向いた。

「ねえ、あなたはひとの心を動かす魔法を知っている? たとえば、恋の魔法、とか」

 小悪魔はしばらく黙っていた。私は、喉がからからになって、胸の鼓動が少し高鳴っていくのを感じた。

「私があなたに訊くのは、おかしいかもしれないけど、もしかしたらあなたが知っているかもしれないと思ったのよ」

 小悪魔は身体を私に向けて、言った。

「……珍しいですね、パチュリーさまが私に魔法のことを尋ねるなんて」

 小悪魔は軽く首を振って、続けた。

「でも、私もそんな魔法は知りません」
「あなたは小悪魔よ。ひとの心をたぶらかす、悪魔の種族になのに知らないの?」
「私には過去の記憶がありません。だから、今の私には悪魔の種族という自覚は皆無ですし、それに……」

 そこで小悪魔は一回言葉を切って、息をつき、続けた。

「自覚はなくても、悪魔の本能が教えてくれるんです。そんな魔法はないということを」

 意外な答えだった。小悪魔の目は、その答えに確たる自信を持っているようだった。

「けれど、こうして惚れ薬があるじゃない。これは恋に関する魔法のうちのひとつじゃないかしら」
「間接的にはそうなるかもしれませんが、直接的なものではないと思います」
「たしかにあなたの指摘は正しいけれど、それでもいいのではないかしら。間接的な効果でも」

 小悪魔はじっと私を見つめて、言った。

「パチュリーさま。魔法の効果を解除魔法以外の魔法で干渉できますか? たとえば、火の魔法を水の魔法で直接止めることはできますか?」
「いえ、それはできないわ。術者がその魔法を解くか、相手が解除魔法を唱えないかぎりは、魔法は続くもの」
「だったら、恋に関する魔法なんて存在しないことが、パチュリーさまにもわかると思います」

 私はよけいに混乱して、「どういうことなの?」と言った。小悪魔はくすくすと笑いを漏らした。「そうですね……」。小悪魔は手の指を一本立て、それを自分の口もとに置いた。そのしぐさは、小悪魔というよりは――人間の少女に見えた。小悪魔は艶めいた声で言った。

「ロマンチックに言うならば、恋そのものが魔法だということでしょうか」

 それから、小悪魔はふふっとまた笑った。私は小悪魔に問いかけた。

「そんな結論がもしあったなら、私が読んだ書物の中にそれが書いてあってもよかったはずよ。なぜそんな簡単なことを……」
「いえ、昔から人間も魔法使いも、それに気づいていました。ここにある書物の存在そのものが、それを証明していると思いませんか?」

 私は小悪魔の言っていることがよく理解できなかった。理解できたのは、つかまえかけた恋というものが深いもやの中に逃げていってしまったことだった。いや、あるいは私が追いかけていたのは恋でなかったのかもしれない。いずれにせよ、すべてがまた混濁の中に戻っていってしまった。私もその混濁に飲み込まれようとしていた。
 私は小悪魔に尋ねた。

「あなた、どうしてそんなことが言えるの?」
「だてにここに長年住んでいませんよ。それに恋に関しては私のほうがパチュリーさまより詳しいと思います」

 私は――小悪魔に訊いた。

「それって、あなたが恋したことがある、そういうことなの?」

 小悪魔は黙ってただ微笑んでいた。その微笑みは、ガラスのバラのように美しくて、儚くて、脆かった。私はその微笑みの裏に隠されたものを読み取ることができなかった。
 私の知らないものを小悪魔は知っている――それだけで私の世界の真理が歪んだ。どこかで何かが崩れさる音がした。私が持つすべての知識はただ黙って立ちつくし、その崩壊を眺めているだけだった。

 『私にだって、どうしようもないことはあるのに……』とレミィは言った。その続きを、今になって思いだした。
『心だけは、私にだってどうしようもないのよ』


 #4

 もう何年前のことになるだろう。私は図書館にずっとひとりだった。私が魔女となってから、ずっと私は本のそばでたったひとりだった。今のように小悪魔もいなかったし、レミィもめったに私のところに訪れなかった。咲夜がいなかったから図書館は今と比べてかなり小さかった。けれど、本を読みつづけている私は昔も今も何も変わっていない。
 昔の図書館は乱雑だった。本棚もテーブルも椅子もあったが、本棚に本が詰まっていることはほとんどなかった。私は本を適当に手に取り、その中身に体を浸して全身に知識を浴びたあと、本を適当なところに置いていた。私のまわりには本の山がいくつもいくつもあった。本棚に本を戻すのが面倒くさい、ただそれだけの理由だった。掃除もめったにしなかったから、ほこりが本の山をうっすら覆っていたこともしばしばだった。レミィが私の図書館を訪れると、いつもぎょっとした表情を浮かべて、それから私に呼びかけて私を図書館から連れ出した。
 そうやってレミィがときどき来るとき以外は、私と本は一体だった。私は本から離れられなかった。本の山の中に埋もれ、ときどきそこで要らぬ睡眠をとった。目が覚めると、視界を本が覆い尽くしていて、天井は本の山にあいた穴の中からわずかに見えるだけだった。その過不足のない世界で私は生きていた。

 小悪魔の封印を解いたのはふとしたきっかけだった。ある木曜日、目的もなく手に取った本の表紙は黒と紅で表紙を飾られていた。いや、正確に言うならば、それは装飾ではなく小悪魔の表象だったのだろう。けれど、そのときの私は当然そのことに気づくはずもなかった。私は封印魔法をかけられたその本の中身に、少し興味がわいた。「半ば」興味本位でその封印魔法を解いたのが、私と小悪魔の出会いとなった。

 封印魔法が解除されると本がひとりでに開き、まばゆい光を放った。私はその光に思わず目をつむった。光がおさまると、そこには色を失った本があって、それからぼろきれをまとって床に座り込んでいる少女がいた。漆黒の羽、そして封印されていたこと。私はその少女が悪魔だということに気がついた。ただ、レミィのように強烈な魔力は感じられず、いわば「小悪魔」の類であろうということもわかった。
 小悪魔は私を見て、それからまわりを見渡して何かを言おうとした。けれど、それは言葉にも声にもならなかった。口がきけないようだった。私は言葉をかける前に、私がいちばん上に来ていた服を小悪魔に渡した。小悪魔はそれを受け取って、私の顔を見上げた。私は小悪魔に言った。

「とりあえず、それを着なさい。そのままの格好だと不都合でしょう」

 私に言われるままに小悪魔は服を体に巻きつけ、その中に顔をうずめるようにしてうつむいた。わずかに乱れた呼吸の音が服の中から聞こえてきた。私は椅子に腰かけ、小悪魔が落ちつくまで待った。やがて、小悪魔の呼吸は規則正しくなり、小悪魔はまた顔を上げた。私は言った。

「さて、ここがどこか訊きたいでしょうけれど、その前にあなたに尋ねていいかしら」

 小悪魔は何も答えなかった。私はかまわず続けた。

「あなたはどうして封印されていたの?」

 小悪魔は首を横にふるふると振った。肩までかかる、よどんだ紅の髪がそれにあわせて揺れた。

「覚えていない? それじゃあ、あなたの名前は?」

 再び小悪魔はかぶりを振った。

「……もしかして、封印される前の記憶は何もないの?」

 今度は縦に首を振った。私は手で額をおさえて、ため息をついた。おそらく、封印魔法をかけた術者が記憶を改竄したか、あるいは消し去ったに違いない。記憶の魔法はとても複雑で、解除魔法もそう簡単なものではない。それに、記憶の性質上、長い時間がたてば記憶は物理的にも薄れていく。記憶を取り戻すのはもう無理だろう。私は小悪魔にこれ以上過去のことを訊くのをやめた。

「とにかく、もうあなたは封印から放たれたわ。他にあなたを縛る魔法もなさそうだし、心配することはない。もうあなたは自由よ」

 そう言って、私は小悪魔のそばに落ちていた本を拾った。表紙は染みひとつない白色になっていた。ページを捲くっていくが、中身は壮大な魔術史でも、科学史でもなく、ただの恋愛小説だった。どうして小悪魔を封印したひとはこんなものの中に封じ込めていたのだろう。私は想像した。たとえば、男の魔法使いが小悪魔に恋をして、それが原因で異端呼ばわりされて、苦しさのあまり「恋愛」小説の中に小悪魔を、自分の気持ちとともに封じた、とか。
 考えすぎね、と私は自分を笑った。小悪魔に記憶がない以上、どんな想像をしようが――たとえそれが真実だったとしても――もう今となっては何もわからない。私は本を閉じ、小悪魔に言った。

「ここは吸血鬼が主の紅魔館……の地下にある図書館よ。あとのことは、説明するのが難しいから、実際に外に出ればいいと思う。とにかく、もうあなたは自由よ。服なら私のものを貸してあげるから、どこへでも行きなさい」

 小悪魔はそこから動かなかった。私の服にくるまって、身体を丸めてじっと動かなかった。無理もないか、と私は思った。いきなり外の世界に出て、過去の記憶もなければ、誰だって新しい世界に戸惑い、震える。しばらくはこのまま放っておいて、慣れるまで待つしかない。私はまた椅子に腰かけ、ひじをテーブルにつき、手のひらに頭を載せて、じっと小悪魔を眺めた。

「時が来るまで待てばいい」、私は言った。「あなたにだって無限の時間があるでしょうから。それまではこの図書館にいればいいわ。いつか、時間があなたを迎えに来る。そのときにはここから出ていっていいのよ」

 私がそう言ったとき、小悪魔は顔を上げ、その細い脚で立ち上がった。そして、ふらつく脚で私の前まで歩み寄ってきた。

「……どうしたの、無理はしなくていいって……」

 小悪魔はとつぜん私の手を握った。その手は細い指から想像できないほど熱く、私の手が溶けてくっついてしまうのではないか、と私は思った。小悪魔が口を開いて、静寂に言葉を落とした。

「私にはあなたしかいないんです」

 その姿はガラスのように脆く、儚く、美しく――けれど、弱かった。涙を落としそうな目が私を見つめた。私の手を握る力が少し強くなった。

「私を、ひとりにしないでください……」

 私はしばらく黙って小悪魔を見つめていた。正直に言ってしまえば、私はこの小悪魔に興味はなかったし、封印から解いたのも偶然でしかないと思っていた。私はどうして小悪魔が私の手を握ったのかも、どうして「あなたしかいない」と言ったのかも、わからない。
 その気持ちを私は探ろうせず、だからこそ、そのときの私はこう言ったのかもしれない。

「司書としてここで働いてみなさい」

 小悪魔の目が見開かれた。

「あなたがそうしたいなら、そうすればいい。私はあなたの主でもない。強制はしないし、何もしないでここにいても私はかまわない。いついなくなってもいい。あなたの自由にすればいいわ」

 それ以来、小悪魔は図書館の司書になった。私の周囲の環境は大きく変わっていった。本棚にきちんと本が入れられた。ほこりがあまり積もらなくなった。それでレミィもこの図書館の中で私とティータイムを楽しむようになっていった。そのうちに咲夜が来て、この図書館もさらに広げられた。それでも司書は小悪魔ひとりだった。
 今では小悪魔も私に笑顔を見せてくれるし、ときどき私をからかったり、いたずらしたり、へまをして暮らしている。小悪魔という名前なのに、心は純粋そのものだと、私は思う。ひたすらに無垢で、純粋で――。
 だから私はあのときのことを思いだす。小悪魔、あのとき、あなたは私の手をたしかに握った。私は今でも覚えている。あのときのあなたの手は私を溶かすように熱かった。火傷をしてしまうかと思ったほどに。でも、あなたはこの前言った。『パチュリーさまの手はとても温かくて、それでとても柔らかくて……』と、たしかに私の手に触れたときに言ったわ。
 あのとき私の手をたしかに握ったこと、それはあなたの記憶の中から消えてしまったの? あのときの私の手のひらを、あなたは感じられなかったの? あなたは本から出て、幸せな結末を得ることができたの?

 私はため息をついて本を閉じた。惚れ薬が23段階目を終えようとしていた。無臭が漂ってきた。私はその香りを肺いっぱいに吸い込んで、天井を見上げた。天井以外には、本がない場所がなかった。壁にも本が並べられていた。天井を見上げたまま、私は思った。
 世界はこんなにも狭くて閉ざされている。私たちはこの世界の中で、何ができるというのだろう――。

 その日の夜、惚れ薬は最終段階を迎えた。作りはじめてから9日しかたたなかった。あとは私の髪をひときれ入れれば完成する。小悪魔は今頃自分の部屋で寝ているだろう。この惚れ薬の完成を見届けるのは、私ひとりだ。私は実験台の机からはさみを取り出して、自分の髪に刃を通した。紫色の髪が私の手に落ちた。
 それをフラスコの中に入れる。無色の液体は私の髪が入ると、紫色に一瞬で染まった。この状態から、私は一気に魔法の火で加熱した。液体が一瞬にして沸騰し、紫色からピンクに、それから燃えるような赤色、それから紅茶のようなピンクに戻って、最終的に味気ない無色透明に戻った。――完成だ。
 私はフラスコを手にとって、その匂いを確かめた。何も感じられなかった。あたりまえだ、私自身の匂いなのだから、自分は決してその匂いを知覚することができない。
 完成を迎えたはずなのに、私の胸はときめかなかった。嬉しさは体のどこからもわいてこなかった。ただ、ただ虚無感が体を満たし、この惚れ薬がどうしようもなくつまらないものに思えた。作りはじめたときには、あれほど私は期待に満ちていたというのに、どうして今はこうもむなしいのだろう。
 惚れ薬は相手の精神状態を直接変えるわけではないから? いや、それは最初からわかっていた。それをわかっていて私は作りはじめたはずだ。それなのに、私はこれを使う理由を自分から見失って、途方に暮れている。私はうっかりフラスコを床に落としかけた。あわててもう片方の手でフラスコの底を支えた。今ここで落としてしまってはすべてが水の泡だと思い、惚れ薬を強固な魔法のビンに移した。そこに「惚れ薬」と書いたラベルを貼りつけた。
 それから、私は実験道具を片づけるために、魔法器具が置いてある棚へと向かった。下から二段目には真実薬が入っている。私はその隣に惚れ薬を置いた。それから使い終わったフラスコをその上の段に入れた。いつから私はこんなにものをきちんと片すようになったのだろう。たぶん、小悪魔がここに来てからだ。

 テーブルに戻ろうと本棚のあいだを歩いていると、本棚の中のいくつかがばらばらに並んでいることに気がついた。あれは最近自分が読んだ本だった。よく見れば、あちこち同じように本の並びが乱れている場所があった。小悪魔が一週間いなかっただけで、ここまで自分で荒らすことができるものなのか。私は自分自身にため息をついた。小悪魔もさすがにたった三日では全部を並べ直すことはできなかったのだろう。少しは自分で直しておこうと思った。
 私は空に浮いて、本を並べ直そうとした。けれど、どれをどこにどのようにして並べればいいのか、さっぱりわからなかった。いつも私が取り出すときは、何も意識していなくても目的の本が取れた。それがどのように並べられていたかなんて、少しも意識したことがなかった。途方に暮れながら、私はとりあえず、自分が考えるように並べてみた。けれど、それは混沌の中に規律を作りだすような行為だった。自分で並べた場所だけ、妙な違和感があった。
 私は小悪魔のことを思った。あの子はいつもこんな仕事をしていたの? 小悪魔はいつも混沌の中に規律を見つけだして、それを一本の筋にした。それが図書館に並べられた本だった。おそらくは彼女が無意識に私の思考を感じていた結果だろう。
 小悪魔、私は――。

 そこまで考えたとき、図書館が音を立てて揺れた。大地が叫び、空気が震えた。中に吊るされたランプの灯が消えて、図書館から光が奪われた。視界が闇に覆われ、混濁が私の耳と頭を揺さぶった。本がいくつもいくつも床に叩きつけられる音がした。そして、本棚から私の身体にも本が雪崩のように降りかかって、私はうつ伏せに地面に叩きつけられた。抵抗しようともがいたが、非力な私を押し潰すような本の重みに、私は悲鳴もあげられなかった。それでも容赦なく本は私の上に落ちてきて、息苦しさと重みに私はうめいた。
 とつぜん、私の頭がハンマーで叩かれたような感覚を覚えて、無抵抗な私は五感から引き離されていった。たぶん、何かの百科が私の頭に落ちてきたのだろう、と薄れゆく意識の中で私は思った。そして、最後に、声にならない言葉を、私は口から紡ぎだした。

 私は、もう、どこにも行けない――。

 #4.5

 時は少しさかのぼる。

 あと数時間で日が昇る。自分の主は、今日は早めに就寝して、私も少し自分の部屋で夜の眠りにつくことができる。メイド長はメイド服から寝間着に着替え、自室のベッドの中に潜り込んだ。レミリアは人間と違って昼と夜が逆転している。咲夜も主にあわせて明け方近くに眠りについていた。
 月の光が窓から差し込んでいたが、カーテンを閉めるのも無粋に思われて、そのままにした。目を閉じ、咲夜は静かな眠りについた。
 一時間くらいがたった。咲夜はふと何かの気配を感じ、目を開けずに意識を取り戻した。自分の部屋のドアが静かに開けられ、閉められる音がした。誰かが自分の部屋に入ってきた、と咲夜は気づいた。レミリアの気配ではなかった。妹さまかしら、と咲夜は目を閉じたまま動かなかった。しかし、部屋に入ってきた何者かはずっとそこから動く気配がなかった。
 妹さまじゃないのかしら。咲夜はそっとまぶたをわずかに上げ、薄目でドアの方に視線を向けた。そこに立っていたのはレミリアでもフランドールでもなかった。漆黒と紅が月影の中で輪郭を浮かび上がらせた。――小悪魔? たしかにそれは小悪魔だったが、いつもの無邪気な小悪魔の雰囲気は消えうせていて、何か強烈で、熱くて冷たい負の気配が彼女を覆っていた。けれど、それは決して悪魔のようなものではなかった。――小悪魔? 咲夜は口に出さず、もう一度心の中でつぶやいた。
 長い時間がたった。窓の外で、何かがひしめく音がした。小悪魔は体を震わせた。そして一歩、足を踏み出した。咲夜は起きるべきかどうか迷った。お嬢様ならともかく、どうして小悪魔が私の部屋に来たのだろう。何か危険なことが起きているのかもしれない。それでも、どうしても体を起こす気にならず、目をつむって寝たふりを続けた。

 ベッドが歪んだ。それから、自分の上に熱が覆いかぶさったように咲夜は感じた。小悪魔が自分の上にまたがっている。そこでようやく咲夜はあわてて目を開き、体を起こした。「ちょっと、小悪魔、あなた何をしようと――?」
 体を起こした咲夜は小悪魔と目が合って、咲夜から言葉が失われていった。小悪魔は今にも壊れそうな微笑を浮かべて、咲夜を見つめていた。その瞳からは真紅が零れ落ちてしまうように見えた。咲夜は声に出して呼びかけた。

「小悪魔?」

 小悪魔は黙ったまま、咲夜の手をとった。そして、咲夜にまたがったまま、咲夜の身体に腕をからめ、その熱ぼったい顔を引き寄せた。眠いせいかはわからないが、咲夜はそれを拒まなかった。むしろ、心の底から小悪魔の体と熱を受け容れるように、咲夜も小悪魔に腕をからめた。
 そのとき、時がかちりと動きだし、咲夜の中に別の誰かの五感が入ってきた。パチュリーの姿、その匂い、図書館の空気、そして――『あなたが恋をしたことがある、そういうことなの?』。理由はわからないが、小悪魔の魔法が、私の時の魔法と反応して、自分の中に小悪魔の記憶の一部が流れ込んだのだと、咲夜は気がついた。そして咲夜はすべてを理解した。どうして小悪魔がここに来たのかを、どうして小悪魔の身体がここまで熱いのかを。
「手のひら」と小悪魔がつぶやいた。そして咲夜の身体から腕を放し、今度は咲夜の手に指をからめた。

「熱は伝わるんですよね?」

 咲夜は黙ってうなずいた。小悪魔の手は燃えるように熱かった。自分と咲夜の手を見つめながら、小悪魔は言った。

「咲夜さんの手はどうしてこんな、氷のように冷たいんですか?」

 咲夜の手は冷たくなどなかった。さっきまで寝ていた咲夜の手も熱を込めていた。けれど、小悪魔の手があまりにも熱くて、小悪魔はそう感じたのだろう。咲夜はそれを理解して、小悪魔の手を握り返した。そして、小悪魔に言った。

「それは、私の手が冷たくなければ、あなたの熱を感じられないから」
「レミリアさまと手をつなぐときも、こんなに冷たいんですか?」
「お嬢さまのときだけは特別よ。この手は焼けるほどに熱くなって、お嬢さまをその熱で溶かそうとする」

 小悪魔の目から涙があふれ、小悪魔の頬をつたって、ベッドにぽつりとひとしずく落ちた。

「パチュリーさまの言うとおりです。手のひらは嘘をつけないんだって、本当だったんですね」

 小悪魔は涙を流しつづけた。ベッドに涙の染みができていく。どこか遠くで地震のうめきが響いた。この部屋も揺れているはずなのに、咲夜はそれを感じられなかった。小悪魔は涙声で言った。

「私にはパチュリーさましかいませんでした。私は本の中に封印されていて、パチュリーさまが私を助けてくれたんです。私を図書館で働かせてくれたのもパチュリーさまでした。私は、パチュリーさまのそばでずっと一緒にいられたら、それでよかったんです。あの方が私に笑いかけてくれなくても、お役に立てればそれで幸せでした。けれど、私は同時にパチュリーさまに恋をしてしまった。パチュリーさまを欲しいと思ってしまった」

 小悪魔は声を詰まらせた。

「ずっと、ずっと私の思いを伝えようと思っていました。でも、もう、パチュリーさまには私の思いは届かない……私の手のひらの中にある真実はもうパチュリーさまには伝わらない……」

 そして、小悪魔は泣き崩れた。小悪魔は両手に顔をうずめて、肩を震わせた。咲夜は小悪魔を抱きしめ、自分の胸の中で小悪魔の手を握った。

「いいのよ。あなたの苦しさは私が受けとめる。泣きたいだけ泣けばいいわ、この永遠の時の中で」

 思いを伝えるはずの手は、氷の中でゆっくりと冷まされていく。焼ける涙はベッドの上で冷たい空気に触れる。時を止められた部屋の中に少し欠けた満月の光が差し込んでいる。咲夜はその月を見て、ふと思った。十六夜の月は別れの日に昇るのだろう。この子は叶わぬ恋をしていた。それをパチュリーさまにも美鈴でもなく、私に告げた。それは、この子と私がどこかで似ているからなのかもしれない。
 咲夜の耳にどこからか歌が聞こえてきた。旋律もリズムも詞もなかったが、その歌を私は知っていると、咲夜は思った。聞こえてくる歌にあわせて咲夜は小さく、小悪魔の耳元で歌った。さあ、涙を歌いましょう。届かない歌にのせる思いは、たった今、私の腕の中で泣きつづける少女の涙の中にしかないから。そして、届かないとわかっていても、私は歌うしかないから。

「落ちついてきた?」

 小悪魔の震えは止まり、ときどき洟を啜る音だけが咲夜の耳に響いていた。小悪魔は咲夜の腕の中でうなずいた。咲夜はそれを確認して、時の流れを再び元に戻した。小悪魔は言った。

「すみません、なんだか、咲夜さんに迷惑かけました」
「いいのよ。美鈴にも言いづらかったんでしょう」

 小悪魔は黙ってうなずいた。咲夜は外の月を見ながら、話した。

「私にも過去の記憶がないの。けれど、枯れた思いでは私に何かを残してくれた。それが何かはわからないけれど、きっととても大切なものだと思うわ」

 咲夜はそう言って、小悪魔の羽をなでた。小悪魔は顔を上げた。

「あなたには、その漆黒の羽がある。きっとあなたの羽は、どんな闇も切り裂いて光を見せてくれるはずだわ。たとえ、あなたの恋が叶わないものだとしても、パチュリーさまの心にあなたは必ず行ける。思いは伝えるものだから」

 小悪魔は咲夜の顔をじっと見つめて、つぶやいた。

「パチュリーさま」

 小悪魔は咲夜の腕の中から離れ、まわりを見まわした。さっきの地震のせいで、あちこちにものが散乱していた。小悪魔は立ち上がり、涙を服の袖の部分で拭いた。それから、きっぱりとした声で言った。

「すみません、咲夜さん、私、図書館に行ってきます」
「パチュリーさまのところに行くのね?」

 小悪魔はうなずいた。「さっきの地震で、本が落ちているかもしれません。様子を見に行かないと」。そして、咲夜に頭を下げ、言った。

「咲夜さん、ありがとうございました……私のわがままにつきあってくれて」

 咲夜は微笑を浮かべたまま、小悪魔に手を振った。

 ◆

 #5

 どれくらいの時間がたったのだろう。もしかしたら、まったく時間は過ぎていないのかもしれない。堪えがたい息苦しさの中で、私は意識を取り戻した。体のあちこちが痛む感覚はする。それなのに、視界は暗闇に覆われているままだった。それから、身体にひどい重みを感じた。私は図書館の本の中に体全体を埋められていた。
 重みのあまり、呼吸するのも苦しかった。力で抜け出そうとしても、力が入らなかった。力が入ったとしても、私の力では抜けられそうになかった。魔法を唱えようとしても、言葉さえ口にすることができなかった。本当に私は何もできなかった。いつまでこのままこうしていればいいのだろう。私は食事も睡眠も必要ないから、ずっとこのまま、死ぬこともできない。いつか、誰かが迎えに来るまで、ずっと私はこのまま、暗闇の中でずっと苦しみつづけながら待つしかないのだろうか。

 ――時が来るまで待てばいい。

 ふと、私の目から涙がこぼれた。あの子も、こんな暗闇の中にずっといたというの? いつか、誰かが助けに来るまで、ずっとこうして苦しみつづけていたというの? 光なんてなにひとつ感じられない、この閉塞の中で――?

 ――あなたにだって無限の時間があるでしょうから。

 私が小悪魔に対して言った言葉が走馬灯のように思いだされていった。たったこれだけの言葉だったのに、今の私には重く、重くのしかかった。涙が次々に私の目からあふれていった。

 ――それまではこの図書館にいればいいわ。

 小悪魔、小悪魔――! 私は心の中で叫んだ。私が小悪魔に対して、冷淡に放った言葉が、私の胸にブーメランのように戻ってきて、私の胸に突き刺さった。

 ――いつか、時間があなたを迎えに来る。

 私は、なんてひどいことをあなたに言ってしまったの――? 時間が迎えに来るまで、ずっと、ずっとあなたはこの暗闇と絶望の中で苦しみつづけていた。いえ、今もあなたは無限の時の中で苦しみつづけている。それなのに、私はあなたの苦しみには何ひとつ気づかないで、今まであなたと接してきた。あなたのことを理解しようとさえ思わなかった。そして、あなたを深く、深く傷つけてしまった。
 私は叫びたかった。私が今まで犯してきた罪を、叫んでしまいたかった。でも、それすら今の私にはかなわなかった。そのかわり、どんどん涙が目から流れ落ちた。私には罪を懺悔することさえ許されていないように思えた。永遠と一瞬が、ひたすら私を暗闇の中におとしいれた。そのうちに、涙さえ枯れてしまう気がした。

 どこか遠くで声が聞こえた。私の涙が止まった。声は近づいたり、遠ざかったりしたが、決して消えなかった。

「パチュリーさま、パチュリーさま!」

 小悪魔の声だった。どうして、どうして私を呼ぶの?

「パチュリーさま、どこにいるんですか。パチュリーさまぁ!」

 私は返事をしたかった。私がここにいることを知らせたかった。けれど、出るのは呼吸に混じるわずかなうめき声だけだった。だんだん、小悪魔は涙声になっていった。

「パチュリーさま……いなくならないでください……パチュリーさま……!」

 本の山が崩れる音がした。けれど、それは私のいるところではなく、その隣りだった。

「パチュリーさま……パチュリーさま……! いやだ、どうして見つからないんですか?」

 小悪魔は泣きだした。その声だけが私の耳に入ってくる。

「私の、私のせいだ。私がちゃんと本を整理して、保護魔法をかけてなかったから、こんなことになったんだ……いやだ、いやだ、私のせいでパチュリーさまがいなくなってしまうなんていやだ……」

 しゃくりあげる小悪魔の声が、私の胸を突き刺した。

「パチュリーさま……私を、ひとりにしないでください……」

 また、涙が私の目から零れた。私は、今になっても、あの子を傷つけてしまうの? あの子は、今まで私の想像を絶するほどに傷ついてきた。それでも、あの子はこんな私を探しにきてくれた。それなのに、私はまたあの子を傷つけてしまうの? それだけはもう、二度とごめんだ。
 私は、この声だけは、小悪魔に伝えなければならないと思った。ありったけの力を振りしぼって、私も涙声で叫んだ。

「小悪魔、私はここにいるわ……ちゃんと、ここにいる……!」
「パチュリーさま?」

 身体から力が抜けて、それ以上私は叫べなかった。けれど、もう、これで十分だった。小悪魔には私の声は届いた。あとは、小悪魔が私を引き上げてくれてから、ゆっくり話そう。小悪魔が私の埋まっているところに駆け寄ってきた。その足音が聞こえた。

「パチュリーさま、今、助けます」

 小悪魔が本をひとつひとつかきわけていく。私にのしかかる重みが少しずつ失せていった。そして、私の視界に一筋の光が入ってきた。小悪魔はランプを片手に持って、空いたほうの手で本をかきわけた。

「パチュリーさま」

 小悪魔が私の上にある本をすべて取り除いた。私はうつ伏せの状態で倒れていた。私にいつもの呼吸が戻ってきた。全身が痛んで力が入らなかったが、五感はすべて私のもとに戻ってきた。小悪魔が私の身体を仰向けにした。ランプの明かりに照らされて、うっすらと図書館の天井が見えた。それから、レミィがあけた穴が扉でふさがれているのが、ぼんやりと遠くに見えた。私は本の中から出ても、ずっと本の中にいる。助かったというのに、私は深い絶望を覚えた。小悪魔が本の封印から解かれたときも、同じような景色を見たのだろうか――今のように、乱雑に本が散らばっている図書館の光景を。
 小悪魔が私の顔を覗き込んで言った。「ああ、無事でよかった。今、美鈴さんと咲夜さんを呼んできます。すぐに手当てしないと」。私は図書館の天井を見つめながら言った。「いえ、とくに大きなけがはないみたいだし、こうして寝ていれば、回復するわ」。小悪魔の表情が少しだけ驚きに変わり、それからすぐに不安へと戻った。「でも……」

「それよりも小悪魔、聞いてほしいことがあるの」

 小悪魔はしばらく私を見つめ、それから本の上で仰向けになっている私のそばに、腰をおろした。図書館の深い闇の中で、小悪魔の持つランプの明かりに私たちは包まれていた。私は目をつむった。小悪魔と出会った過去、その苦しみ、私の罪、そのすべてを思い返した。私は目をつむったまま、話した。

「私、あなたのことを思ったの」

 私は目を開けて、小悪魔を見た。小悪魔は泣きはらした目で、私を見つめていた。

「あなたがずっとひとりで暗闇の中にいたことを思った。ずっと、時が迎えに来るまでの苦しさを思った。あなたが私に対して抱いていた気持ちを思った。そして、どうして封印を解かれてもあなたがここを離れなかったかを思った」

 少し呼吸が苦しくなったが、私はひと息ついて、続けた。

「小悪魔、私はあなたに謝らなければならないわ。私は、あなたの心に気づけなかった。あなたに対して何もしてやれなかった。それどころか、あなたが一週間休んでいるときでさえ、あなたの存在の重さをわかっていなかった。私は、あなたのことなんて少しも考えていなかったし、理解しようとも思っていなかった。あなたの主人じゃないからという理由で、あなたの心に触れようともしなかったのよ。
 あなたは私のために、いろいろしてくれた。私はうわべだけの感謝を述べて、決してあなたの心に手を伸ばそうとしなかったわ。私はあなたを救ったなんて思っていない。むしろ、あなたを傷つけてしまった。それでも、あなたは私を探してくれた。でも――」

 私はまたひと息ついた。そして、最も小悪魔に訊きたいことを、尋ねた。

「それで、あなたは幸せだったの? いえ、あなたは今、幸せなの?」 

 小悪魔はしばらく黙って私を見つめていた。そして、ランプを床に置き、私の左手をとって、それを彼女は両手で優しく包み込んだ。その顔からは不安が消えうせた。そして、小悪魔は微笑んだ。

「私は、パチュリーさまと一緒にいられて幸せです。今までも、そして、今も、これからも」

 小悪魔の笑顔は、このまえとは違った。とても強くて、美しい微笑みだった。小悪魔の手はひんやりと冷たくて、少し心地よかった。

「パチュリーさまは封印から解放された私を受け容れてくれました。私に光を見せてくれました。私は、それだけでパチュリーさまとともにいようと思いました」

「けれど」と私は言った。「けれど、それは私があなたに興味がなかったから、いてもかまわないと言っただけなのよ」

「それでも、私はあなたの隣にいられればそれだけでよかったんです。それに――」

 そう言って、小悪魔は私の手を少し強く握った。

「パチュリーさまは、今、届いてくれたじゃないですか……私の心に」

 私は、何も言えなかった。

「謝らなければならないのは、むしろ私の方です。私の不手際で、パチュリーさまが危険にさらされたこと、本当に申し訳ありません。もう、パチュリーさまにはこれ以上迷惑をかけられません」

 小悪魔はそれから、自分の両手で握っている私の手を見て、言った。

「パチュリーさまの手は、やっぱり、あったかくて柔らかいです。触っていて、とても気持ちがいい手のひらです」

 小悪魔は目をつむった。

「手のひらの熱は相手からも伝わってきます。そして、相手にも必ず伝わります。魔理沙さんにも、この熱はきっと伝わるはずです。伝えてください、パチュリーさまの思いを。パチュリーさまには翼があるんですから」

 小悪魔は、それから、また笑った。

「私はパチュリーさまのおかげで、こうして紅魔館の図書館で働けて、みなさんと出会えました。パチュリーさまは私にかけがえのない幸福をくださいました。感謝しても、感謝しきれないほどに。パチュリーさま、私はあなたのそばにいられて、本当に幸せです」

 いいえ、小悪魔。感謝しなければならないのは、私の方なのよ。あなたが私を変えてくれたから、私はあなたの心に届くことができたのよ。私の閉じていた世界に一筋の光が差し込んできたのも、魔理沙に私が恋することができたのも、そしてあなたが今、私を助けてくれたのも、すべてあなたがここに来たからなのよ。
 私はその気持ちを口にすることができなかった。もう何も言える力が残っていないことに気がついた。また意識が少しずつ遠のいて、視界がぼやけはじめた。けれど、今度は暗闇の中で絶望を味わうわけではなかった。私は小悪魔の手を握り返して、静かに目を閉じた。
 私の今の気持ちは、きっと小悪魔に届いているだろう。言葉にできなくても、小悪魔はきっとわかってくれる。思いは、手のひらから伝わるものなのだから。

 それから二日たって、私は本の中に戻っていた。全身に包帯を巻かれ、あちこちに湿布を貼られていたが、本を読むのにはとくに不便もなかった。崩れた本の整理を小悪魔が少しずつ進めてくれたおかげで、図書館は以前の姿を――小悪魔が来てからの姿を――取り戻しつつあった。
 午前は小悪魔がいなかった。なんでも用事があるらしく、半日ほど時間をいただきたい、という話だった。私はあの子の主ではなかったから、かまわないわ、と返した。それはふだんとたいして変わりのないやり取りだった。表面だけ見れば、あのときの地震は私たちに何の変化ももたらさなかったように見えた。
 けれど、変わった。私の心は小悪魔の告白以来、ずっと空に漂っているように、どこかに落ちつくことがなかった。本を開いても、まったくそこに集中することができなくなった。魔理沙のときのような感じではない。胸が苦しくなるというよりは、目的地を見失った旅人のようにさまよっている感じだった。でも、そこに虚無感はなく、不安も悲しみもなかった。目的地を見失った旅人はまた地図を開き、自分の目的地を確認して、再び希望に胸を膨らませるものだ。私はその地図を開く前段階にいた。
 私にとっての地図は何だろう。私にとっての真実は何だろう。それを確かめる手段が、私にはあったはずだ――。私は本を閉じ、椅子から立ち上がった。

 整理されつつある本棚のあいだを抜け、魔法薬の棚の前に私は立った。下から三段目にあったはずのフラスコは、ガラスの破片になり果てていた。だが、その下の段にある二つの魔法の瓶は、壊れていなかった。その瓶には私が強化魔法をかけてあった。ひとつの瓶には淡いブルー、もうひとつには無色透明の液体が入っていた。真実薬と惚れ薬だ。貼りつけてあるラベルにも濃く、小さく、汚い文字で書いてある。あのときの私は何を考えてこのラベルを貼りつけたのだろう。私は苦笑して、二つの瓶を両手に取った。これがつまらないもの? いや、きっとそうではない。ただ、すごく遠まわりをしてしまった証になったしまっただけのこと。理由というものはいつでもあとからついてくるものだよ。
 私は自分のテーブルに戻って、椅子に座った。そして惚れ薬のふたを開けた。無色透明の液体からは、何の匂いも感じられなかった。けれど、ほかのひとにとっては、この液体は私の匂いがして、そして私の匂いを知覚すると、全身に効果がまわる効果をもたらす。まるで惚れた「ような」感覚。ずいぶん楽しい魔法薬。
 私は少しそれを見つめてから、瓶のふちに口をつけ、一気にそれを飲み乾した。液体が喉から腹に落ち、全身にまわっていく感覚がした。けれど、いつまでたってもそれは私には何の変化も及ぼさなかった。激しい動悸も、微熱も、発汗作用も起きなかった。当然、そうなる――理論的には――私の匂いを私が知覚することはできないのだから。あるいは、この惚れ薬は失敗したのかもしれない。調合があまりに早く終わりすぎていた。どこかで何かの手順を飛ばしていたかもしれない。けれど、惚れ薬を飲み乾してしまった今、それを確認する手段はもう、ないのだ。
 むなしさはこみあげてこない。これでいい。私はこんなものに頼らなくても、きっとよかったのだ。

 空になった瓶を置き、今度は淡いブルーの液体が入っている瓶のふたを開けた。つんとした匂いが私の鼻をついて、その匂いに思わず涙が出そうになった。私はそれをためらわずに、一気に飲み乾した。刺激的な味が私の口内と喉を突き刺すようにして流れ落ちていった。しばらく待ったが、何も起こらなかった。これは試作だから? あるいは失敗作だから?
 私は、自分に問いかけた。

「私は、パチュリー・ノーレッジ。そして、私は魔女。それで間違いないのよね?」

 手のひらから汗は出なかった。これだけでは、また成功しているのか、していないのか、判別できない。けれど、私はそのまま続けた。

「私は、ある人に私の気持ちを伝えたい」

 汗は出ない。

「この手のひらの熱を、伝えたい人がいるの」

 汗は出ない。

「私の思いを伝えたい人は、霧雨魔理沙なのよ。人間の魔法使いで、私の本を勝手に持っていく、それが私の思いを伝えたい人なの」

 ずっと、汗は手のひらから流れなかった。

「私の思いは、魔理沙に伝えたい思いは、恋なのよね? 私は霧雨魔理沙に恋をしたのよね?」

 そう言って、私は目を閉じた。手のひらから汗は流れなかった。

 ほら、真実はいつでも、私の手のひらの中にあった。魔理沙に伝えたい思いは、ここにあった。この真実薬が失敗作かなんて、もうどうでもいいことだった。
「恋は魔法」、か。小悪魔、あなたの言うとおりよ。心の魔法は、きっと心でしか解決することができない。いくら身体を求めても、あるいは魔法で何とかしようとしても、それですべてうまくいくわけがない。だって、私は魔理沙の心に惹かれたから。私が欲しいと思ったのは、魔理沙の心なのよ。そして、本当に私が願ったことは、魔理沙に私の心を伝えることだったのよ。それは真実薬でも、惚れ薬でも届かない世界。
 心を動かすのは心。そうでしょう?

 #6

 それは昼の時間のはずだった。けれど、フランは私の図書館の扉を開けて入ってきた。レミィが、フランに手を引かれて、転びそうになりながらそのあとについてきた。そして、その後ろから咲夜が、二人の様子をほほえましげに眺めていた。

「パチュリー、久しぶり!」

 フランはそう言って、椅子に座ったままの私に飛びついて、私の身体に腕をまわした。私の身体が痛み、思わず顔をしかめたが、それはフランの力のせいではなく、私の負傷がいまだ治っていなかったからだ。レミィが私たちを眺めて、「フラン、パチェは怪我をしているのよ。あんまり無茶させちゃだめじゃない」と言った。
 私とレミィの視線が合った。レミィは私から目をそらした。けれど、すぐに横目で私をちらちらと見た。私は思わず吹き出しそうになったが、それをこらえた。レミィもきっと私と同じで、この前のことがあって気まずかったに違いない。けれど、私もレミィも親友だから、お互いの気持ちをわかっているのだ。フランと咲夜は私たちの様子を見て、少し首をかしげた。「どうしたの? お姉さま?」と私に抱きついたまま、フランが訊いた。レミィは黙ってテーブルの椅子についた。いつのまにか、椅子が三つに増えていた。おそらく、咲夜だろう。レミィは咲夜に向かって言った。

「咲夜、紅茶を」「用意できています、お嬢さま」「さすが咲夜、今日も瀟洒ね」

 私たちは四人でテーブルを囲んだ。紅茶はダージリンのストレートだった。ただ、レミィとフランのカップには人間の血が入っていた。そして、テーブルの中央には例の白い壺も置いてあった。レミリアはそこから角砂糖を5個取り出し、紅茶の中に入れて、ティースプーンでかき混ぜた。フランは壺に手を伸ばさず、レミィの「準備」が終わるまで待った。角砂糖がカップの底で山を作りはじめたところで、レミィは言った。「さあ、いただくとしましょう。私たち“吸血鬼”には記念すべき、アフタヌーンティーを」

 私たちはダージリンを啜った。少し甘くて、少し苦い。一口啜ったレミィは静かに紅茶のカップを置き、私を見つめた。

「ねえ、パチェ。この前あなたにひどいこと言ったわよね?」

 私もカップを置いて、静かに言った。「ええ、ずいぶんいろいろ言われた。けれど――」。フランが私を不思議そうな顔で見つめている。私はそれにかまわず、続けた。

「私もあなたを傷つけた。今では、あなたの言いたかったこと、少しはわかる気がする」

 レミィは笑って言った。

「お互いさまね」
「ええ、ほんとうに」と私は返した。
「すまなかったね、パチェ」
「私も申し訳なく思うわ、レミィ。ごめんなさい」

 そして私たちはお互いを見つめて、笑った。プライドが高い吸血鬼が謝ることと、本に埋もれていた魔女が謝ることと、そのどちらもが不自然で、なぜか愉快だった。私たちはしばらくのあいだ笑いつづけた。フランと咲夜が顔を見合わせて、それから、私たちにつられて二人も笑いだした。こんなに楽しいティータイムは、とても久しぶりで、とても新鮮だった。
 笑いがおさまってから、レミィが言った。

「あのあと、あなたに言ったことを自分でも考えてみたのよ。そしたら、すぐに気づいたの」

 ひと息ついて、レミィは言いきった。

「私も、ひとのことを言えた義理じゃない」

 そして、レミィはテーブルに肘をついて、フランと咲夜が楽しそうに話しているのを、眩しそうに眺めた。

「私はつい最近までずっとフランを閉じこめていたもの。ちょっと力が強くて、気が触れているからという理由だけで、私は恐れていた。 閉じ込めればなんとかなるかもしれないと思っていたわ。そのうちに、何かが変わるんじゃないかって、期待していた。ね、私だって、ひとのこと、言えないでしょう?
 でも結局、何も変わらなかった。495年ものあいだ、あの子はずっとずっと、『誰か』が扉を開くのを待っていたのよ。そのうちに霊夢と魔理沙が来たわ。あの二人はフランが初めて壊さなかった人間だった。でも、それでフランが救われたわけじゃなかった。
 その扉を開ける『誰か』は私だったのよ。私があの子の心を感じたときに、初めてあの子を解放しようと思った」

 私はそこで初めて口をはさんだ。

「手のひらで?」「ええ、手のひらで」

 レミィはふふっと笑いを漏らして、「まるで魔法ね」と言って、続けた。

「あの子の純粋な意志は、閉じ込めるべきものじゃない。ただ、その表現が少しうまくできなかっただけの話。それなのに、私はあの子の意志ごと封じたのよ。……馬鹿だったわね、私」

 少しうつむくレミィに、私は言った。

「レミィ、あなたは馬鹿じゃないわ。今ではフランもこうして自由になれて、ずっと笑っていられる。それは、あなたがフランの思いを感じただけじゃない。あなたの思いがフランにも届いたからなのよ」

 レミィは私の目を見つめて、少し驚いた表情を浮かべた。そして、「あなたも、変わったね」と言った。

「惚れ薬の運命は見せてもらったわ。あなたがそれを飲み乾すところまで。あなたの運命は見ないようにしていたから、あなたがどんな表情で惚れ薬を飲んだかは知らなかったけれど……正直、あなたが絶望の中で、それを飲むものかと思っていた」

 そう言って、レミィは微笑んだ。

「でも、今のパチェの目は……そうね、まっすぐよ。あの子と同じように」

 フランがまわりを見まわしながら、私に訊いた。「ねえ、パチュリー、小悪魔ちゃんはいないの?」。私もその答えは知らなかった。「今日はまだ見かけていないけれど、どうしたのかしら」。フランが少し残念そうに言った。

「なあんだ、いたら一緒に遊ぼうと思ってたのに」
「フラン、ここで遊ぶのはやめておきなさい。図書館を荒らすとパチェがうるさいからね」

 レミィはため息をつきながらそう言った。私はふと咲夜を見た。なぜか、咲夜はレミィとフランの日傘を手に持っていた。咲夜は私の視線に気づくと、私に笑いかけて、それから上を見上げて何かに目配せをした。そして、レミィとフランを呼んだ。

「お嬢さま、妹さま、この傘をお持ちください」
「どうしたの、咲夜、急に?」

 レミィは首をかしげながら、傘を受け取った。フランは傘を受けとると、誰に言われるでもなく、勝手に傘をさして喜んでいた。私にもレミィと同じように、咲夜の行為がとても奇怪に見えた。図書館の中には雨も日も入ってこないのに、どうしてそんなものを渡したのだろう。私は小悪魔の不在と咲夜の目配せと日傘の関連性について考えた。

 テーブルに一筋の光が差した。ほこりっぽい私の図書館で、その光ははっきりと線になって浮かび上がっていた。私はその光の筋をぼんやりと眺めた。ほこりが空気を漂いながら、光に照らされてきらめいた。レミィもその光を見つめていた。そして、レミィはその光に手で一瞬だけ触れ、それから、あわてて日傘をさした。

「パチェ、パチェ!」

 私はレミィを見た。レミィが光に触れた場所から、少し煙が立ちのぼっていた。

「ねえ、パチェ。これ、日光よ。どうしてこの図書館の中に日光が入り込んでいるわけ? この図書館に窓はあった?」
「いいえ、窓なんかないわ……どうして?」
「どうしてもこうしてもないわ、おかしいじゃないの」

 レミィに言われてはじめて気がついた。そうだ、この図書館に日光が差し込むわけがない。この図書館を照らす明かりはランプの光だけだ。どうして? 私がとまどっているあいだに、光の線がどんどん太くなり、それは光の帯になった。いや、それどころか、テーブルを照らしていた日光はどんどん大きくなり、テーブルの外をも照らしはじめた。レミィは日光の差す場所とささない場所の境界線に沿って、後ろに少しずつ下がっていった。光はより強く、より明るくなっていった。フランも、レミィと一緒に、むしろこっちは楽しんでいるように、跳ねながら後ろに下がった。
 陽だまりの中に私と咲夜だけが残った。私は咲夜を見た。咲夜は私に微笑んで、それから光の射す方に視線を向けた。私もそれにつられて、そちらを見た。そこに美鈴と――小悪魔がいた。二人は長い棒を持って、レミィが図書館の天井にあけた穴を開いているところだった。そこから、太陽の光が差し込んでいたのだ。美鈴が咲夜に手を振りながら大声で呼びかけた。

「咲夜さん、こんな感じでいいですかー?」

 咲夜は笑いながらうなずいた。そして、穴がすべて開いて、どこまでも遠く青い空と、そこに浮かぶ太陽が私から見えた。とても眩しくて、とてもきれいな景色だった。レミィとフランは日の当たらないところから、太陽が見えない空を見つめていた。レミィが苦笑して言った。

「ああ、こんなものがあったね。自分で作っておいて忘れるとは、私もうっかりしていたわ。……でも、こんな使い方をするなんて思ってもみなかった」

 陽だまりの中にほこりの雪が降ってきた。私はそっとその綿ぼこりのひとつを、手のひらで受けとめた。私は何も言えなかった。ほこりの雪は降りつづけた。フランが我慢できなくなったように、日傘を差したまま陽だまりの中に入って、はしゃぎまわった。

「お姉さま、咲夜、パチュリー! 光の粒が踊ってるよ、遊んでるよ! すごくきれい!」

 私はフランを見て、急に胸がつまったように苦しくなった。目に何かがこみあげて、私はそれを見せないように空を見上げた。そこに小悪魔がいた。小悪魔は、ただ黙って微笑み、私に手を振った。ゆらゆらと、その手が揺れるのを見ていた。そのときになって、私は初めて気づいた。そうか、これは小悪魔の――。
 だんだん、小悪魔の手の揺れ方が不自然になってきて、そして太陽も青空も、世界がすべて歪んで見えた。涙がとめどなく私の目からあふれ出て、止まらなかった。なぜだろう、なぜだろう。何も悲しいことはないのに、なぜか私の目から涙が流れていく。私は両手で顔を覆って、嗚咽を漏らしながら泣いた。胸がいっぱいで、何も言えなかった。レミィが泣きつづける私の隣に立って、言った。

「パチェ、泣いているのを隠さなくていい。だから、顔を上げて、小悪魔を見て。この図書館に日の光を入れようと思ったのは、きっとあの子よ。あの子の夢を、あの子の思いを受け取れるのは、あなたしかいないわ」

 これが、小悪魔の夢? 私に伝えたかった思いなの? 涙を流しながら、私は顔を上げて、小悪魔をもう一度見つめた。彼女は、ただ黙って私に手を振りつづけるだけだった。小悪魔、あなたは――、あなたは――。
 また私の目から涙があふれだした。私の心がいっぱいになって、涙以外の言葉が出てこなかった。

「これは天への扉。今度は私が月に行くためじゃない。あの子があなたのためだけに開いた、天への扉なのよ」

 レミィはそう言って、笑った。私は涙を袖で拭った。それから、小悪魔に微笑んだ。小悪魔は少し驚いた表情を見せて、それから私に微笑み返した。

 小悪魔、あなたの思いは、たしかに受け取ったわ。

 私は魔理沙の心に届きたくて、飛び立とうとしている。魔理沙の手のひらの熱を感じたくて、熱を伝えたい。たとえ、私の心が魔理沙に届かなくても、私はここから飛び立つ。その意志は私の翼となって、天の扉から私は飛び立つことができる。私にあなたは扉を開いてくれた。小悪魔、あなたの心は、たしかに私に届いたわ。

 ――ねえ、あなたはそれで幸せなのよね?

 小悪魔が私に向かって、声を出さず口だけを動かして、何かを言った。それは「魔理沙さん」と言っているように見えた。
 
 
 


 
人と手をつなぐこと、それはとても小さいことだけれど、とても強い力なのだと思います。

 ここまで読んでくださったあなたにすべての感謝。

 これから、秘封倶楽部の連作長篇を書く予定です。
 構想にかなり長い時間がかかりそうですが、精一杯やっていきます。
 それまでは少し長いお別れと奇跡の再会を期待して、この話のあとがきを終えようと思います。

 ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
 

初出:2009年7月25日