創想話
 


 
 #1

 私の知らない人。

 それを目にしたとき、心の底から蓮子はそう感じてしまった。そして、全身の力がいっぺんに抜けてしまいそうになった。
 自分に嘘をつき、気持ちを偽ることができたなら、どんなによかっただろう。けれど、視界に映る現実がそれを許さない。それはあまりに速く、荒々しく蓮子の心を砕いてしまった。二度と元のかたちを取り戻せないほど粉々に。

 メリーを包む色は、純白だった。

 式場の扉が開いたとき、最初に視界に入ったのはウェディングドレスを身に纏うメリーだった。隣には燕尾服を完璧に着こなした「彼」が立っていた。蓮子のまわりで小さな嘆息がいくつも漏れるのが聞こえた。「ふたりともすごく似合ってる」、そんな言葉が耳に入ってくる。
 けれど、何度見ても彼の隣にいる女性がメリーだと、蓮子には信じられなかった。
 やっぱり私の知らない誰か。だって、いつもの紫ベースの格好じゃ、ないもの。途切れ途切れの思考をめぐらせている間にも、彼女のまわりの時は進んでいく。

 メリーと彼、二人でゆっくりと扉から奥の祭壇まで歩みを進めはじめた。一歩一歩、厳かに流れる音楽と互いの気持ちとを合わせるように。
 彼はぎこちない微笑を浮かべて真っすぐ前を見据えていた。花嫁はうつむき気味で、気恥ずかしそうに赤い絨毯を見つめていた。天井からぶら下がるランプに照らされて、ブーケが細かに光を煌めかせる。

「素敵」

 隣の女性が感嘆の言葉を漏らした。
 ああ――蓮子は彼女に目もくれずに思う――そう、すごく素敵。現実味をどこまでも失っているように、ね。

 やがて、二人は蓮子の横にまで足を進める。花嫁が通りすぎる瞬間、蓮子は確かに花嫁の瞳の色と髪の色を見た。透き通るようなブルー、流れるような金。緊張のせいか表情が少しこわばっていたが、確かに幸せの色が滲み出ていた。
 ブーケに包まれた花嫁は疑いようもなくメリーだった。蓮子を一瞥して、ちらりと微笑みを唇の端に見せ、遠ざかっていく。横顔が後ろ姿になり、そして蓮子の手の届かないところへ。

「夢みたいに、綺麗」

 隣の女性が、また嘆息を漏らした。
 夢? ああ、その言葉は確かに正しいと思うけれど。

 式はつつがなく進む。神父の説教、夫婦の誓い、それからキス。
 メリーと新郎のキスが交わされる瞬間から蓮子は目をそらさなかった。食い入るようにその動作を見つめていた。唇が無意識のうちに乾いていた。

 これが、私の夢だったら――と蓮子は思う。
 その夢から覚めると、私は汗でびしょ濡れのベッドにいる。激しい呼吸をしながら、朝の陽の光を浴びて。そこで今まで見ていたのが夢だと気づき、もう一度横たわって夢を反芻する。
 もしそんな夢を見ていたのだとしたら。

 最悪。

 メリーと新郎の唇が離れる。拍手が式場から泉のようにわきあがった。美の巨匠の作品を見て嘆息を漏らすように。二人が口づけをしただけなのに。まわりのひとたちは儀式的にそうしているのか、本当に心の底から感じ入っているのか。
 ただ蓮子だけがその光景から静かに目を逸らす。彼女たちの奥にあるステンドガラスを見つめていた。ランプに反射する赤と青と緑とプリズムがいやに眩しかった。
 爪先が小さく震えている。拍手をする手に嫌な汗が滲んでいるのを感じてしまった。

 こんな夢なんて、見たくない。

 写真撮影の前に蓮子は式場から抜けだした。写真に写るのがもともと嫌いだったし、今はとてもそんな気分になれなかった。整列している人混みをすり抜け、扉をくぐり、披露宴の準備で慌ただしく歩きまわる人たちの間を抜ける。
 遠くへ行こうと思う。できるだけ遠くへ。

 エレベーターホールに出て、あたりを見回した。エレベーターが来るまでには時間がかかりそうだった。
 ホールの奥に階段への扉があるのに気づいた。その表面は少しだけ塗装がかすれ、皮膚の下に隠れた鉄が香りそうだった。気づけば足はそこへ進み、手はドアノブをゆっくりと下ろしていた。

 ドアを開けると狭い階段の踊り場に出た。無機質な壁に小さなランプとヴァーチャルウィンドウが規則的に並んでいる。本物の窓はそこには存在していなかった。
 ここで止まっていたくない。無意識の囁きが蓮子の足を動かし、誰もいない階段を登っていった。

 こつこつと靴の踵が階段に落ちる音が寂しく響く。脇のヴァーチャルウィンドウを見ると、そこには見たこともないほど多くの光に満ちた夜景が広がっていた。
 そして、その中に月と星がくっきりと浮かび上がっていた。空も地面も光に埋め尽くされている。それはヴァーチャルでしか再現できない光景。雨や曇りなどありえない、現実には決して則さない絵空事。

 ほんの一瞬、自分の頭の中に時が刻まれるのではないかと思い、蓮子はヴァーチャルウィンドウから目をそらした。けれど、その心配は無用だった。そこに映る月や星を見ても、正確な時刻や場所はわからなかった。
 あくまでヴァーチャルか。蓮子は小さく息をついて、階段を登り続けた。

 あそこにもいることができなくて、けれど外に出ることもできない。結局、私はどこへ向かっているのだろう。
 階段の先、最後の日に見たものは、夢の終わり。だったら、今私が登っている階段の先にあるのは――。
 いや、今はそんなこと、考えたくもない。
 確かなのは私が逃げているということ。追いつめられて、ただ目についた階段を登りつづけているだけ。

 いつの間にか息は切れて、胸に鈍い痛みが滞留していた。体力がなくなってきたかな、と自分に苦笑いして、大きな溜息をつく。階段の先へ視界を向けると、小さな踊り場と鈍い灰色の扉が見えた。

 階段の終点だった。

 軋む扉をゆっくりと体で押し開ける。隙間から、どこか懐かしい風が勢いよく吹き込んできた。鉄の扉の重さと風圧に押し負けそうになりながら、隙間から這い出るように蓮子は外へ出た。同時に扉が重い音を響かせて閉じた。
 そして、扉の前にたった蓮子は、短い間、呼吸を忘れた。
 こんな光景が残っていたのか。

 小さな屋上は一昔前の光景をそのまま持ってきたような場所だった。
 雨にさらされたコンクリートの地面が広がり、中央に色褪せたプラスチックのベンチがぽつんと置いてあった。扉のすぐ脇に低い振動音を立てる自動販売機が佇んでいる。真っ赤なボディはくすんでいて、中の蛍光灯も濁った光を地面に落としていた。

 ときどき誰かがこの屋上に来ているはずだ、と直感的に感じた。式のたび、私と似た思いを抱える人が導かれたように来るのだろう。この空間はそういう人のために残された場所なのかもしれない。
 肌寒い風が屋上を吹き抜けてさらさらと音を立てる。五月の夜の風は淋しげで、切なさがかすかに香る。その風を小さく吸い込むと、喉が異様に乾いていることに気づいた。

 飲み物を買おうと財布を取り出して、赤い自販機の前に立つ。自販機に紙幣投入口と小銭投入口が残っていることに小さく笑い、青と黒を基調にしたデザインの「あったか~い」缶コーヒーを買った。がたがたん、と重い音が空虚に響いた。

 買ったコーヒーを手にして青いベンチに腰掛けると、乾いた音を立ててベンチが少しずれた。風の中で缶コーヒーを開け、静かに啜った。合成の甘ったるい匂いと味が口の中に広がる。じわじわと染みるような甘さを、舌が拒絶しようとしていた。
 ああ、ブラックじゃなかったのか。蓮子はぼんやり思う。前にもこんなことあったっけ。無糖と間違えて微糖を買ってしまったこと。
 もう一度目をつむってコーヒーを口に押し込んだ。そして、粘り気のあるため息とともにつぶやいた。

「馬鹿」

 声が風にかき消されたような気がして、もう一度今度は少し喉を震わせてつぶやいた。

「馬鹿だ、私」

 なんで買う前にちゃんと見なかったんだろう。あのときとまるで一緒だ。なんとなくベンチに腰掛けて、間違って買った微糖のコーヒーを啜って。私は何も変わっていないじゃないか……。
 ふと視線を遠くに向けると、ヴァーチャルウィンドウで見るよりもずっと光の少ない風景が視界に入った。あんなにきれいな夜景が広がっていたのは五十年近く前の話で、今は人口も減り、生活の明かりの数も減ってしまった。高層ビルもいつの間にか半分近くが姿を消してしまっているようだった。

 百年以上前の人がこの光景を見たら、闇がぽっかりと光を食べてしまったように感じるのかな、と蓮子は思う。それが寂しく思えて、喉を鳴らして小さく深呼吸するのかもしれない。今の私のように。
 胸が疼いて言葉にならない感情が喉から漏れそうになる。蓮子は力なく瞼を下ろし、肌寒い風に吹かれながら浅い呼吸をした。缶コーヒーが手の中で熱を失っていく。遠くで車が空気を切って走り去っていく音がした。

 どれだけの時間、目をつむっていたのだろう。
 背後の鉄の音で蓮子は目を開いた。

「蓮子?」

 声はひどく遠くから聞こえてきた。蓮子は返事をせず、夜景を眺めたままコーヒーを啜った。
 やがて虚空にヒールの音が高く響いた。

「やっぱりここにいたのね」

 こつこつと足音が近づいてきて、流れる金色の髪が視界の隅に入った。メリーに視線を向けるべきか、声をかけるべきか。蓮子はどうすればいいのかわからなくなってしまう。
 そんな気持ちに気づいているのかいないのか。柔らかい声が蓮子に問いかけた。

「座っていい?」

 ん、と返事をして蓮子は腰をずらすと、メリーが隣に腰を下ろす。ふわりとして優雅な動作だった。
 蓮子は視線を滑らせてメリーを見た。さっき式場で見ていた姿とはまるで違った。彼女は紫色のドレスを着て、肘までのびる白いグローブをしていた。唇には明るい赤がうっすらのっていて、夜の光をやんわりと吸い込んでいた。その唇が柔らかく動いて言葉を紡ぐ。

「蓮子がどこにもいないときは、星空の見える場所にいる」

 ああ、と蓮子は胸の内で納得する。そうか、だから私はこんな屋上まで来てしまったのか。視線をメリーから空へと移し、乾いた声で返した。

「いつ、そんなこと言ったっけ」
「言葉にはしていなくても、それを教えてくれたのはあなたでしょう?」
「バレてたか」

 蓮子は苦しい笑いを漏らそうとするが、声は喉の奥で虚しく消えてしまった。すう、と隣でメリーが小さく息を呑み込んだ。けれど、次の言葉は出なかった。
 また長い沈黙が二人を包んだ。

 しばらくして、メリーの一言が沈黙を溶かす。

「そのコーヒー、ちょっとちょうだい」
「いいの? 口紅塗りなおさないといけなくなるでしょう?」
「いいの。どうせこの衣装だってあとで替えることになるんだから」

 蓮子がコーヒーを彼女の前に差し出すと、メリーは蓮子の手に触れないように缶を受け取り、音もなく中身を喉に入れた。

「あ、甘い」

 そうつぶやき、メリーは小さく笑った。

「あなたには甘すぎるでしょう?」
「甘ったるい」
「きっとそうだろうと思った。私の口にはちょうどいい甘さだけど」

 もう一口啜って、メリーは息をつく。

「冷めかけてて、ちょっと」

 うん、と声に出さずに蓮子はうなずいた。メリーにはちょうどいい甘さだろうけど、冷めているのは好きじゃないものね。いかにも彼女らしい答えだった。不意に髪を撫でる風が心地いいものに感じられた。

 目を細めて、蓮子は尋ねた。

「訊かないの?」
「うん?」

 メリーが缶を両手で包んだまま、蓮子の顔を覗き込もうとする。彼女を目の端に捉えて、蓮子は続けた。

「どうして私があそこを抜け出したのかって」
「そんなことを気にしてたの?」

 気にしてたかもしれない、とは答えられなかった。黙ってメリーの言葉を待つ。

「訊かなくったってわかるもの。昔からあなたはああいう人ごみを嫌ってたし、それに――」
「それに、うん」

 メリーの表情がわずかに動いたのを蓮子は見逃さなかった。もうそれで十分だった。

「わかってるなら、それでいいよ」
「……ええ」

 メリーは蓮子の手にコーヒーを戻した。蓮子は黙って受け取り、また甘ったるいそれを味わう。何度飲んでも自分の口に合う気がしない。それでも、今こうしてメリーと同じコーヒーを分け合ったことを思ってしまう。同じ味でも感じることは違って、それは今も昔も変わっていない。
 けれど、それがよけいに切なかった。色々な感情が胸の内を渦巻く。青、紫、白、黒――そうして混じりあってできた色をなんて呼べばいいのだろう。私にはわからない。
 ただ、思いは緩やかに、けれど確かに手の中で冷めていく。今私が手にしている缶コーヒーよりもずっと残酷に。
 私がそれに逆らうことはもう、できないのだろうか。

「ねえ」

 たまらず、言葉を紡ぐ。

「初めて会ったときのこと、覚えてる?」

 少しの沈黙、それからふっと左隣の空気が柔らかくなるのを感じた。それだけでメリーが微笑んだということがわかってしまう。

「もちろん、覚えているわ」

 そうよね、メリー。忘れているはずがない。
 なぜなら、あれが私とメリーの夢の始まりなんだから。

 #2

 コーヒーを飲みはじめたのは中学に入ってからだったと思う。最初からミルクや砂糖を入れようとは思わなかった。風味が失われるし、甘ったるいのが好きではない、というのは言い訳だろうか。
 ただ、子どもっぽいから入れたくなかったのだろう。ブラックを飲める自分を大人だと認めてほしかったのだ。よくある承認欲求だと思う。
 蓮子は子どもの世界には留まりたいとは思わなかった。早く大人になりたかった。

 そうして初めて飲んだブラックコーヒーは、まったく美味しいとは思えなかった。苦味が舌から喉の奥まで一気に広がって、吐き出してしまいそうになってしまった。
 それでも懲りずに何度もコーヒーを飲みつづけた。そのうちに舌が苦味に慣れ、ようやく美味しさを見出せるようになった。コクとか深みとか、そういうもの。

 金属バンドの腕時計をつけはじめたのも中学の頃だったと思う。帽子をかぶりはじめたのもそのくらい。まわりにそんな服装をする人は誰もいなかった。いてほしくなかった。
 そうして蓮子は孤独であろうとした。そうするのが彼女の楽な生き方だったから。

 最初から孤独に過ごそうとしたわけではない。
 小学校には仲のいい友だちも多かったし、こっそりと片思いをする子もいた。テストでは満点以外をとることはほとんどないのに、嫌みたらしくもなく、その性格に惹かれる子も少なくはなかった。蓮子のまわりにはいつも人がいた。

 そんな生ぬるい生き方が壊れて元に戻らなくなってしまったのは、あの夜空の日、十一歳の宿泊体験のときだった。
 完璧な円を描く月と、降ってくるような星空の下で、大事な何かが音を立てて崩れていくのがわかってしまった。

「気持ち悪い……宇佐見さん、何言ってるの?」

 見てはいけないものを見てしまったような目で、そう言われた。
 何を言って――私は、ただ正確な時間と正確な場所がわかるって言っただけなのに。私の目が少し違うって言っただけなのに。どうして、そんな「目」で私を見るの?

「宇佐見が? なに、変なこと言ってるのか?」
「月とか星とか、変なものが見えるって」

 宇佐見が――宇佐見が――気持ち悪い――目――。

 周囲で囁かれる声が蓮子の胸を抉っていく。今までの明るい言葉をひっくり返せばそこには妬み、不信、阻害、恐怖。岩の裏に這い蹲る得体の知れない虫よりも、ずっと残酷で気持ち悪い感情が蠢いていた。

 どうして。声を出すことさえできず、目の前が真っ暗になっていくのを感じる。空に浮かぶ星や月は囁きに掻き消されていく。
 何が気持ち悪くて、私のことをそんな風に言うの。少し目が違うだけで、どうしてそこまで言われなくちゃいけないの。だって、私だって、あなたたちと普通におしゃべりしていたのに。
 けれど、その過去の記憶をたとればたどるほど、現実との乖離がはっきりしてしまう。境界は色を持ち、見えないのに壊すことのできない冷たさを持ちはじめる。

 気持ち悪い、目……。

 蓮子は境界のその縁に立って手を伸ばし、その動きを絶望の中で見つめているだけだった。向こう側の空気にすら触れられないというのに。
 誰もその夜から蓮子に近づかなくなった。話しかけることもなく、目を合わせることもない。蓮子が近寄ろうとすると、必ず一歩距離を置かれた。誰も蓮子のことを馬鹿にしたり痛めつけたりはしなかった。ただ、その存在を認めようとしなかった。

 今思えば、蓮子の目が気持ち悪いという理由は、きっかけに過ぎなかったのかもしれない。自分たちと違う異質な存在を生み出すことで、自己存在を確固たるものにしようという無意識な子ども心だったのかもしれない。純粋にして、残酷な。

 けれど、その当時の蓮子はその考えに至ることができなかった。理由がどうであれ、彼女のそばに立つ者は一人もいなくなってしまった。だから、蓮子は子どもにして重い、重い決断を下さなければならなかった。

 他人が私を嫌うなら、私だって、誰も好きになんてなれない。

 蓮子自身も人と距離をおくようになった。ごく稀に好意をもって話しかけてくれる人がいても、その言葉さえ冷たく跳ねのけるようになった。
 他人に期待するから、裏切られて痛みを感じる。だったら、最初から冷たいと思われようが関わらなければいい。少しは私もつらいかもしれない。けれど、最終的にはそれがすごく楽なのだから。

 小学校を出て、中学に入っても、中学を出て高校に入っても、他人と関わろうとしなかった。人と深く関わればまたあのときのように自分の目のことはわかってしまう。たとえ自分から話題にはしなくても、仕草から知られてしまうかもしれないから。

 暇さえあればいつも本を読んでいた。小説だけではなく、学術書やビジネス書も読んでいた。本ばかりではなく、体育の時間になれば運動部の人と張りあえるほどの身体能力を見せていた。そしてテストも満点以外はほとんどとらなかった。
 高校に入ってから一年すると「一匹狼」と呼ばれるようになった。それから、「あいつ」がいて、ますます人を信用できなくなって。

 蓮子は子どもの狭い社会を憎んだ。早く大人になりたかった。
 客観的な評価、周囲から評価される人しか意味がない。いつからか、そんな信条が蓮子の中にできあがっていた。「個性」だとかなんだとか言うけれど、そんな主観的なものが評価されるのなら、私の目も評価されていいはずだったのに。

 星空は好きだった。自分の目は嫌いだった。

 そうして大学に入って、メリーと出会った。

 #3

「……ずいぶん、ぎりぎりのご到着ですね」

 会ったこともない教師にいきなりそう吐かれた。ドアを開いたまま蓮子が横目で彼をにらみつけると、彼はその視線から逃げるように教室の奥へ目を向けた。二人掛けの机が横に三列、縦に五列並び、ドアの反対側には大きな窓があった。
 目を逸らしたまま、彼の皮肉は続く。

「まあ、確かに入学したてで生活リズムが変わってしまったこともあるでしょう。前の高校のスタートが九時半だったのか私は知りませんけど。まあ、あなたにとってはこの授業のスタートは早過ぎるかもしれませんね」

 語尾をあげながら、教師は教室の角の空いている席を指差す。そこに座れということなのだろうと蓮子は判断し、黙って歩いていく。まだ教師のねちっこい言葉が彼女の背中にまとわりついてくる。

「とはいえ、一年の初回の、しかも英語の授業で三十分の遅刻をするというのは、にわかには信じがたいのですよ。ええ、他の学生たちが緊張感を持って授業に臨んでいるのです――」

 一番奥の窓側の席に、すでにひとりの学生が腰掛けていた。窓から差し込む春の陽の光を浴びるその人物の容貌に、蓮子は目を奪われた。
 流れるような金色の髪、頭に軽く載せられた形の整っていない白い帽子、ほんのりと陽の光を反射する白い肌。そして窓の外の遠くを見ている澄んだ青い瞳。綺麗だ、と直感的に思った。

「今回は初めてということで特に何も言いませんが、今度からは気をつけてください。あとで言うつもりでしたが、私の授業では遅刻や欠席も成績に加味します。これほどの遅刻がこれからも続くようでしたら、私も色々考えなくてはいけません――」

 はっと蓮子は我に返って彼女に触れないように、椅子に腰掛ける。机のモニターのスイッチを入れて顔を上げると、そこで教師の小言が終わろうとしていた。

「――もう一度言いますが、緊張感を持って授業に臨むように。ええと、宇佐見さん? 今度からは遅刻はできるだけしないでくださいね。……さて」

 隣に座る女性は蓮子を一瞥しただけで、また窓の外にぼんやりと目を向けた。蓮子も特に彼女のことを気にしなかった。

「このクラスは知ってのとおり特別上級クラスですから、他学部の生徒と一緒にやっていくことになります。そうしないと二人、三人で授業することになってしまいますからね。多少の不都合はご勘弁ください」

 何が不都合なものか、と蓮子は思う。誰もが見たことのない顔。どの学部だろうが、基本的に初対面なんだし、それに私自身は他人がどうこうなんて気にしない。

「とはいえ、この授業での仲間になるわけです。お互いのことを知っておく必要はあるでしょう。ですから、最初は月並みですが、自己紹介から始めましょう。まずは隣に座っている人たち同士、十五分くらい英語のみでおしゃべりしてください。では、始め!」

 そういうあなたが英語を使わなくてどうするの、と蓮子は心の中で舌打ちをして、再び隣に目を向ける。まだ彼女は窓の外を眺めていた。教師の言ったことを聞いていたのかいなかったのか。あるいは聞いていたとしても理解できなかったのか。
 ぽつぽつと英語が飛び交う教室の中で、彼女は留学生なのかもしれない、とふと思った。日本語が理解できないから、何をすればいいのか聞いていなかったのかもしれない。だったら私も彼女と無理に話す必要はないだろう。そう思って目を前に向けると、教師が鋭い目で蓮子を見ていた。――どうやら、やらなければいけないらしい。
 鼻からため息を漏らして、蓮子は彼女に英語で問いかける。

「Do you have any problem with chatting with me ?」

 ふわり、と背中までかかる金髪を揺らして彼女は蓮子に振り向いた。感情のこもらない青い目が彼女をとらえて離さなかった。薄い唇をそっと開いたと思うと、文句をつけられないほど流暢な英語が返ってきた。

「Of course not.」
「Fine.」

 イギリス発音。すぐに蓮子はそれを察した。

「I am Renko Usami. You are….」
「Maribery Hearn. That is my name.」

 マエリベリー・ハーン。姓も名も聞いたことがない。いずれにせよ、彼女は日本人ではなく、イギリスからの留学生に違いないと蓮子は思う。日本語はほとんど話せないのだろう。
 それからは平凡な会話が続いた。蓮子にとっては何も面白みのない無味乾燥な自己紹介、世間話。知的好奇心もくすぐられず、ただ淡々と流れていく会話。
 それでもよかった。目の前にいるからといって彼女のことを深く知る必要はどこにもないのだから。

 ひどく退屈な時間が流れていった。互いの自己紹介が終わったら、今度は教壇に立って一分間のスピーチ。それが終わったら、教師が一年の流れをざっと説明して、参考ビデオを見せる。
 そのうちに終業のチャイムが鳴った。

「では、ここまでです。くれぐれも次回は遅刻のないように」

 ノートを閉じながら、教師はちらっと蓮子を見た。蓮子が視線を軽くかわすと、彼は面白くなさそうに荷物をまとめて教室から出ていった。
 それに続くようにして学生たちも荷物をまとめはじめる。蓮子も筆記用具を鞄の中に放り込み、シャツの袖と赤いネクタイを整える。そして机の横にかけていた帽子を頭に載せて、鞄を背中越しに肩にかけた。
 ばらばらと学生が去りはじめる教室を眺めながら、小さくぼやいた。

「こんな退屈な授業なら、遅刻じゃなくてサボればよかった」
「ええ、本当に」

 ぽつりと、背中に言葉が返ってきた。はっとして蓮子は声の主を振り返る。間違いない。金色の髪を抱えたこの少女が今の言葉を返してきたのだ。青色の瞳が憂鬱そうに教室のドアに向けられていた。

「今……なんて」

 乾いた声が出た。自分でも驚くほど、喉がからからになっている。舌に残っていた唾液を飲み込むと音が鳴った。声の主は蓮子の表情を見て首を傾げる。何か変なことを言ったかしら、というような顔つき。
 鋭い悪意が胸の内から急に沸き起こったのを感じた。そして気づけば口を開いて乱暴な言葉を投げつけていた。

「馬鹿にしていたの?」

 きょとん、とした瞳で見つめられる。無垢な青が余計に自分の心を荒立てる。

「何が?」
「あなたが」

 声が尖る。

「日本語話せるんだったら、さっさと話してよ!」

 きいん、と自分の声が教室に響き渡って、空気が止まった。教室を出ようとしていた学生が一斉に二人に振り向いた。張りつめた空気の中、誰も言葉を口にしない。
 マエリベリー・ハーンはしばらく口を小さく開いたまま蓮子を見つめていたが、やがて静かに目を伏せ、唇を噛んだ。蓮子の言葉を理解しているのか、蓮子にはわからなかった。

 乱れた鼓動は落ち着かない。まだ腹の奥から悪意が湯気のように滲みでてくるのを感じた。乱暴に息を吐いて、蓮子は鞄を肩にかけ直す。それでも心は落ち着かない。もう一度息を吐いて、マエリベリー・ハーンに背中を向けた。
 そのまま学生の細い視線を体中に感じながら教室を出て行った。誰も蓮子を引きとめようとはしなかった。誰もメリーを慰めようとはしなかった。
 所詮、大学なんてそんなものに過ぎないのか。

 大学の食堂で、冷え切った缶コーヒーを一気に飲み干しても、まだ胸の奥がささくれだったままだった。どうして自分がここまで苛立っているのかがわからない。あと何本飲んだところで収まりそうになかった。
 突き刺すような鋭い目で蓮子は食堂を見回した。初回の授業日、しかも二限の授業中だというのにそこは学生であふれかえって、喧騒に満ちていた。女性の高い笑い声、男性の野太い叫び。鼓膜を不愉快に揺らしてくる。

 ああ、もう。丸っこい椅子の背に思い切り寄りかかって食堂の天井を見つめる。こんなにいらいらする私も変だ。
 あいつは私を馬鹿にしていたわけじゃない。あの授業中に日本語を話すことを許されなかったんだから、それでしゃべることができないと決めつけるのはおかしい。私が間違っていた。事実はそれだけ。あの見た目じゃそういう勘違いをしてもしかたがないということが多少、事を複雑にしていたかもしれない。
 けれど、それだって大した問題じゃない。そんなことは私だってわかっている。彼女が日本語を口にしたからなんだというのだ。私がそれで勝手に怒って彼女に怒鳴りつけるなんて、それこそ私の方が圧倒的に理不尽。
 それなのに今になっても、あるいはあのときも、苛立ちを抑えることができなかった。全部わかっているはずなのに。

 くそっ。自分に悪態をついて、また荒い息を吐く。飲んでいたコーヒーの匂いが微かに鼻をくすぐった。まわりの喧騒と合わせて、それさえも不快に感じられる。期待と希望に満ち溢れた空間の中で、自分だけがひどく浮いているのを自覚してしまう。

 嫌いだ、こんな自分が。わかっているのにどうしようもできないで、勝手に暴れてしまうやつなんて。そんな自分を見せることになる他人だって。
 ああ、大学に入ったら何か変わると思ったのに。何も変わらないじゃないか、私の現実は。

 #4

 それからは彼女とは目を合わせなくなった。
 あの蒼い瞳で自分のことを見られたいとは思わなかったし、できることなら口も利きたくなかった。しかし、教師は最初に会話させたペアをずっと使うつもりだったらしい。どうしても授業で会話をしなければならないときがやってくる。
 そういうときは授業が終わるまでに、二つ、三つ、短いワードを飛ばすだけだった。それさえ、蓮子にとっては苦痛だった。向こうも同じように思っていたのだろう。口を開くたび、彼女の目元が小さく歪んでいるのが見えた。

 蓮子が苦痛に思っていたのは彼女だけではない。このクラスそのものが気に入らなかった。細かい注意をするようなあの教師も、それからあの衝突のときに誰も話しかけてこなかった学生たちも。
 だから授業にはいつも五分遅れていった。そのたび教師は苦虫を噛み潰したような顔をするが、それでも「遅刻」と言い切ることはなかった。実際に遅刻扱いにはなっていなかった。
 そうして教室に入って、最後列の左端にいるメリーの隣に腰かける。一度座ってしまえば、もう彼女の方にわずかにでも体を向けることはなかった。

 授業はただひたすら退屈だった。授業のテーマは過去の日本社会が抱えていた問題を分析するものだった。教師が概要を述べ、学生がプレゼンテーションをする、ありきたりの授業。
 そうはいっても、一時間半我慢すればいいだけ、と蓮子は自分に言い聞かせる。それさえ我慢すれば、大学はそれほど居心地の悪い場所ではなかった。
 ひとりでいる空間もある。ひとりでいる人もいる。誰が咎めるわけでもないし、冷たい目で見るわけでもない。高校と違って、居づらいということはない。

 ただ、あの目だけが――自分を拒絶していた。それは蓮子自身の行為の代償として、当たり前のことだったのだろうけど。

 五回目の授業。その日も前半は学生によるプレゼンテーションだった。テーマは航空機の発展について。四月も終わりにさしかかり、左手のカーテンの隙間から眩しい光が滲み出ていた。教室の前にあるプロジェクターも陽の光に霞んでいた。
 右の耳から左の耳へ抜ける声を感じながら、椅子の背にもたれ、蓮子は自分のモニターを指でいじっていた。プレゼンのまとめのウィンドウを奥に押しやり、検索で「アポロ計画」と打ち込む。

 パソコンでの行動は教師のモニターですべて監視されている。それは知っていたし、最初の授業で注意された。それでも減点くらいたいしたことないと蓮子は思う。どうせテストで取り戻せるし、あいつも授業中に注意するほどの勇気もないだろう。

「20世紀アポロ計画」

 モニターの上部に大きな見出しが映る。その下にずらりと長い説明と宇宙船や過去の大統領、月の写真が並んでいた。それらは色褪せることなく残っていたが、どこか乾いているようにも見えた。
 アメリカでは再びアポロ計画が立ち上げられている。今度は有人飛行での月の探索ではなく、移住のための計画だという。肌の荒れた月の表面を綺麗にならし、人が住めるような土地環境にするための、計画というよりは開発だった。

 そういうのはロマンじゃない、と蓮子は思う。私が好きなのはそのアポロ計画ではなく、未知の天体への夢を膨らませていたアポロ計画の方。
 画面を下にスクロールさせていくと、そこにアポロ11号の復元映像が載っていた。人差し指で軽くつつくと、月に立っている宇宙服の男がいびつなスキップを始めた。
 それを眺めているだけで心臓の鼓動がわずかに大きくなる。彼らに不思議な憧れを抱く。
 月の世界はどんなものなんだろう。私の目で見えるものとまるで違う空間が広がっているんだろうか。月の裏側にも月の海にも。
 蓮子は小さく嘆息を漏らした。偶然教壇に立ってプレゼンしている生徒も小休止を入れているところだった。一瞬、教室が無音に包まれて、その刹那。

 隣で小さく息を呑む音が聞こえた。

 聞き間違いではない。蓮子は思わず左隣に顔を向けた。
 そこにマエリベリー・ハーンの顔があり、そして彼女の視線は確実に蓮子のモニターに向けられていた。

 ひととき、教室中の時が止まっているようだった。その間、そこに存在する事象が意味を持たなかった。けれど、やがてプレゼンターが静かに続きを始めて、教室は日常に戻った。
 蓮子と、マエリベリー・ハーンの二人を残して。

 はっとしたように蒼い瞳が蓮子の顔に向けられる。見られてはいけないものを見られてしまったような罪悪感が宿っていた。
 すぐに蒼い瞳は蓮子から切り離され、マエリベリー・ハーンのモニターに戻される。彼女の表情は相変わらず冷たいままだったが、少しだけ緊張で引き攣っているようだった。

 彼女の瞳が見たもの。ほんの短い間だったが、蓮子にはそれがどういう意味を持つのか、わからなかった。仕方なく自分のモニターに目を戻して、アポロ計画の説明文を追う。
 けれど目はただ文章の塊を追うだけで、そこに記された意味を読み取ることができなかった。頭は別のことばかりに思考をめぐらせる。

 あの瞳が意味するものは、なに?
 私のモニターを見ていただけで、あれほど強烈な不安の色を浮かべるものだろうか。確かに私も彼女もお互いを好いていない。けれど、そういう相手のモニターを覗いたあとの嫌悪にしては、不自然だった。
 もう一度、あの瞳が見ていたはずの映像を再生する。先ほどと同じ、男がスキップするだけの映像だった。さっきはそれに胸が高鳴った。今はそこにあるはずのない意味を見出そうとする。
 確かに何もないはずだった。

 ――違う。蓮子は不意に気づいた。彼女には間違いなく「見えて」いたものがある。

 その結論にたどり着くまでに、長い時間はかからなかった。そして、不意に彼女の息遣いが鼓膜をくすぐるのを感じた。意識してなかったはずの彼女の指の白さが視界に入ってきた。

 知りたい、彼女のことを。小さな衝動が蓮子の胸をつついた。その理由は自分でもわからない。でも、とにかく隣の不思議な人間についてできるかぎりのことを知りたい。
 蓮子はブラウザーを閉じ、課題のページにモニターを切り替える。それから彼女が可能なかぎりの速度で課題を進めていった。

 授業が終わると、いつものように教師はさっさと教室から去り、他の学生も複数人で他の教室へ移動していく。蓮子も鞄を肩にかけて、素早く立ち上がる。そこまではいつもと同じ光景だった。
 でも、今度はわずかに違う。

「ねえ、ハーンさん」

 少しだけ声を柔らかく作って彼女の肩に話しかけた。
 マエリベリー・ハーンの背中が小さく震え、紫のワンピースの裾が揺れるのが見えた。けれど蓮子に向けられた彼女の表情は、何も語ってはいなかった。

「何か用かしら」

 あたたかみのない声で返された。警戒心を意図的に滲ませているのがわかる。それでも相手に不快感を与えない程度に、本当にわずかに。
 構うものか、と蓮子は思った。彼女の警戒心を薄めるように、得意の作り笑いを顔に浮かべ、少し高めの声で言葉を口にする。

「もしよければ一緒にお昼を食べない? 次の授業、一度くらいならサボっても問題ないでしょう?」

 少しの間、彼女は問いに答えず、黙って蓮子の目を見ていた。
 断られる可能性はあった。彼女は今まで一度も授業をサボっていないようだったし、なにより蓮子のことを嫌っているようだったから。それでも蓮子は笑みを崩さず黙って彼女の答えを待った。
 そして、期待していた答えは返ってくる。

「ええ、いいわ。あなたがそう言うなら」

 彼女はそう言って目を伏せて、鞄に持ち物をまとめる。
 肯定を確認して、蓮子はふっと作り笑いを顔から消そうとした。けれど、その笑みは肌に染み込んだようにくっついて離れなかった。

 #5

 以前に蓮子が一人で来たときよりも、食堂はさらに多くの人でごった返していた。蓮子は隅で空いているテーブルを見つけ、そこに鞄を置いた。マエリベリー・ハーンも蓮子に倣って白いバッグをテーブルに置く。
 蓮子は少し高めの声のまま彼女に呼びかけた。

「私はもう食べちゃうけれど、あなたはどうする?」
「私はいらない」

 冷たく答えて彼女は音もなく椅子に腰掛けた。

「水は?」
「あるなら持ってきてくれるとありがたいわ」

 軽く頷いて蓮子は食券売り場に向かう。
 食堂の大きな窓からは爽やかな陽が差し込んでいる。窓際の席は暑いのか、半袖で冷たい水を喉に流し込む男子がいた。その向かいではブラウスの女子が微笑みながら指を絡めて彼を見つめている。
 その世界には足を踏み入れようとは思わない。私たちがこれから話そうとすることは、そんな爽やかではないだろう。「月見うどん」のボタンを押しながら、蓮子はそんなことを考える。

「お待たせ」

 トレイをテーブルに置いて、蓮子も椅子に腰掛ける。つまらなさそうに本を読んでいたマエリベリー・ハーンにそっと水の入ったグラスを差し出した。彼女は「ありがとう」と小さくつぶやいたが、グラスには手を伸ばさなかった。
 蓮子は彼女を視界に入れないようにして、音を立てて割り箸を割った。

 月見うどんを食べながら、ときどき向かいの席に視線を送る。彼女は相変わらずつまらなさそうに本を読みつづけているだけだった。それを確認して、うどんをすすることに戻る。同じことが何度か繰り返された。蓮子が食べている間、ひとつも言葉は交わされなかった。
 うかつに話しかけることができない。綱渡りをしているような緊迫感が、蓮子たちの席を包む。誰の侵入も許さない、中にいる二人も口を開きがたい空気。
 月見うどんはその空気を意図的に形成するための記号のようだった。

 最後に軽く汁を口に含んで蓮子の食事は終わった。テーブルのグラスはじっとりと汗をかいていた。蓮子は自分のグラスに手をつけ、一口水を含んだ。そうして、ぬるくなったそれをごくん、と喉を鳴らして呑み込んだ。
 それが合図になった。

「それで話って?」

 蓮子が水を飲み込んだのと同時に彼女の声が沈黙を壊した。手にしていた本を閉じ、バッグに放り込む。

「わざわざ私を呼んだのだから、理由はあるはずよね?」
「ああ」

 もう一口水を飲んでから、蓮子は息をついて彼女に向き合う。蒼い瞳はいまだ警戒を解いていない。

「もちろん。でも、そうね、そんなにたいした話ではないと思うの」
「それはあなたにとっては、でしょうね」
「そう、反対にあなたには生きるか死ぬかに価するほど重い問題かもしれない。けれど、物理的な事実はいつもひとつ。人によって解釈されるとき、初めてそれは無数の主観の中の価値となる」

 頬杖をついて蓮子は向かいの席に微笑みかける。

「わかるでしょう? 私の言っていることが」
「だいたいは」

 微笑を投げかけても、彼女の顔は固かった。友好的に見せかけていることが見抜かれているらしい。それに気づいて蓮子は小さくため息をつき、微笑をかき消す。
 そして、できるだけ真っ直ぐな声で、彼女に問いかけた。

「あなたの目、何かあるでしょう」

 その瞬間、小さく蒼い瞳が揺れた。蓮子はそれを見逃さなかった。今、私の言葉で確かにこのマエリベリー・ハーンが動揺している。直感は間違っていなかった。
 「私にとって何も見えてない」という私の主観とは違う世界が、彼女の視界には広がっているのだ。あの写真の中に間違いなく彼女は何か意味を見出したのだ。
 彼女の薄い唇が開きかけるのを、蓮子は目で制した。

「とぼけようとしても無駄よ。何かある、という程度じゃない。確信があるの。あの月の映像を見ていたときのあなたの表情を、私が見逃していると思って?」

 今度こそ彼女にはっきりとした不快感が現れた。それを隠そうと彼女は努力していたようだったが、頬がひきつってうまく表情を作ることができないようだった。蓮子は口を止めない。

「普通の映像ならばあんな表情を浮かべることはないものね。宇宙飛行士がスキップしているだけだもの。六分の一の月の重力法則は確かに面白いけど、それは特に驚くに値しない。小学生だって月のそうした性質を知っているわけだし」

 頬杖をついたまま蓮子は淡々と続けた。

「仮にあの映像を知らないとしても、あの驚き方は普通じゃない。あの中にあなただけが見える何かがあると考えるのが自然でしょう?」

 そうして蓮子は目線をテーブルの彼女の手元に向ける。彼女は左手を右手でぐっと強く包み込んでいた。
 再び短い沈黙。やがて、左手を包み込む力がふっと弱まり、彼女が口を開いた。

「ええ、見えていたわ」

 視線を上げると、さっきまでひきつっていた顔から無駄な力が抜け、淡々とした色に満ちる。

「私の目はね、特殊なの」

 蒼い瞳が蓮子の黒い瞳を覗き込む。まっすぐ見つめられて、彼女の瞳の中に自分の姿が映りこんでいるのが蓮子には見えた。彼女はしばらく蓮子を見つめていたが、また話を続ける。

「境界を見通すことができる。それが私の目の持つ能力」
「境界を見通す?」

 蓮子は頬杖をつくのをやめて、ぐっと身を乗り出す。一瞬思考が空回りし、今聞こえた言葉の意味が整理できなかった。

「それはどういうこと?」
「説明するのは難しいのだけれど」

 マエリベリー・ハーンはテーブルにおいた手を引っ込めて膝下に置く。ただ、瞳はずっと蓮子を捉えて離さなかった。

「たまに見えることがあるの、境界が薄いガラスのように。そして薄いガラスの向こう側の世界を見通すことができる」
「ええと、それは部屋と部屋を仕切るようなガラスってこと?」
「いえ、ガラスという表現は適切ではないのかもしれない。普通の人はそのガラスも、その向こうの世界も見えないのだから」
「向こう側の世界って、それは死者の世界?」
「そんなおぞましいものではないわ。もしかしたら、一度はそういうものを見たかもしれないけれど。何といえばいいのか、とにかく今私たちがいるこの世界とは別の位相の空間なのよ。それはいわゆる可能性空間、パラレルワールドとも異なるもの」
「ふむ……」

 言葉の上での説明は矛盾していなかったが、言葉の意味と現実が蓮子の頭の中でうまく結びつかなかった。視線をマエリベリー・ハーンのグラスに落として沈黙する。
 彼女は蓮子のその態度から何かを嗅ぎとったのか、さらに言葉を続けた。

「言葉で説明するのはひどく難しいことよ。これは私個人の感覚的な問題。人に理解されようとも思わないし、理解できるものでもない」
「理解できるかどうかは、私が決める」

 蓮子はぴしゃりと言い切って視線を上げた。

「とにかく、あなたには私たちには見えないものが見える。それだけは間違いなく理解できたよ」

 その言葉に頷いて、マエリベリー・ハーンは自分のグラスに手をつけ、少しだけ水を飲んだ。そして小さく息をついて、再び蓮子を見据える。
 まだ話が終わっていないことを彼女も理解しているようだった。蓮子は少しだけ身を引いて、テーブルに再び肘をつき、両手の指を絡ませた。

「そうだとしたら」

 そこで一旦言葉を区切る。一瞬食堂の喧騒が大きくなったが、すぐにおさまった。

「あの月の映像でも見えていたんだ? あの人間だけじゃない。星条旗だけじゃない。月のクレーターでも海でもない、あなたにしか見えない何かが」
「……ええ」
「何を見たの」

 核心を突いた質問だと自分で思った。それは彼女が嘘をついているかどうかを確かめるためではない。彼女が自分で見たものを――。

「言いたくないわ」

 ぴしゃり、と冷たい視線と言葉が蓮子の思考を遮った。二、三度蓮子は瞬きをした。

「言いたくない?」
「ええ、何も。それをあなたに言う義理もないし、必要もない」

 そうしてマエリベリー・ハーンは目を蓮子の向こう側にある窓の方へ向けてしまった。それはもう、これ以上話したくないというサイン。蓮子もそれを敏感に感じとった。もう一度脳をフル回転させて何か言葉を紡ぎ出そうとする。けれど、結局何を聞いたところでもう、彼女からこれ以上引き出せないと思う。
 それは拒絶か、あるいは期待か。蓮子は大きく息をついて、彼女から視線を逸らした。もう何度目かもわからない沈黙。ただ、さっきまでとは何かが違った。何かを排除するような緊張感はなく、重々しい空気でもない。
 小さな光が落ちているようだった。

 もし彼女が言っていることが本当だったら、と蓮子はその空気から頭を引き離すように思考する。それはとても面白い世界が見えているに違いない。具体的に何が見えるのかはわからないが、彼女の言う「境界の向こう側」には私の知らない世界が広がっているに違いない。それこそ、こんなくだらない現実とはかけ離れた世界が。
 そして彼女の言うことは嘘でもないのだろう。

 でも、だからどうしたというのだろう。面白い世界が見えている。なのに、どうして彼女はこんな冷たい目をしている? どうしてあんなに冷たい言葉を私に投げかけてくる? もっと彼女が見える世界を楽しんだっていいのではないか?

 そこで、はたと思い当たることがあった。
 ああ、そうか。写鏡のようなものか。外見こそまるで違うけれど、同じだ。私も彼女も、こんな異能の目を持つことで逆につらい目にあってきたのだ。時と場所を正確に刻む目と境界を見通す目。性質も違うけれど、結局のところ、私たちはこの目を持つことで誰かから疎まれつづけて――。

「気持ち悪い目……」

 そして、私たちはこの現実と距離をとろうと思ったのだ。言葉を漏らして、蓮子はぼんやりと彼女を見つめた。

 その視界の中で、マエリベリー・ハーンの顔が大きく歪むのが見えた。白い手が水の残っているグラスをつかんだのも見えた。次の瞬間。

 ばしゃ。

 冷たい衝撃とショックが蓮子を襲った。

 視界も聴覚も触覚も奪われてしまった。意識が地上に戻ってくるまで、何が起こったのかわからなかった。
 けれど、少しずつ聴覚が戻ってくる。最初は蚊の鳴くような音が鼓膜をくすぐり、やがてそれは大きな喧騒となった。最初に食堂に入った時よりもずっと大きいざわめきに変わる。
 次に視覚が戻ってきた。半立ちになっているマエリベリー・ハーンが見えた。彼女の向こうでトレーを持ったまま立ち尽くしている人がいる。二人で身を寄せ合うように、こちらをこわごわと伺っている人がいる。誰もが自分たちに目を向けている。
 最後に触覚が戻ってきた。ひた、と顎から何かが滴り落ちるのがわかった。頬から熱が奪われていく。前髪が額にはりついて少し不快だった。

 水をかけられたのか、と蓮子は気づいた。マエリベリー・ハーンの右手にあるグラスの中には何も入っていなかった。グラスの縁からひとつ水滴が滴り落ちた。
 ぼんやりと何が起きたのかを理解した。ああ、私の言葉で彼女がいきなり怒って、コップの水を私にぶちまけたのだろう。それでまわりの人たちは驚いて、こうして私たちを遠巻きに見ているわけか。

 マエリベリー・ハーンの荒い息遣いが聞こえる。耳の奥へするりと入り込み、胸のどこかと共鳴する。にらみつける彼女の視線がそこを一気に貫いた。
 彼女は何も言わなかった。蓮子も何も言わなかった。

 やがて、マエリベリー・ハーンがグラスをテーブルに叩きつけるように置き、白いバッグを手にとった。そして蓮子を一瞥し、優雅とはいえない動作で彼女に背を向ける。
 その背中に言葉を投げかけることができなかった。髪も帽子も、シャツもタイもびしょ濡れで、怒る道理はあるはずなのに。そうする権利を目の前に差し出されているのに。それに手を伸ばすことができない。
 椅子から立ち上がったその瞬間、怒りとは別のものが蓮子の胸を一気に浸す。それはとても重く冷たく、もがけばもがくほど息苦しくなる。その感情の中に自分が沈み込んでいくのを、蓮子ははっきりと理解した。

 孤独。

 自分も、彼女も。

 ずっと、独りだったんだ。

 そうだ。私も彼女もずっと独りだった。異能の目を持つことでまわりに疎まれて、そうして現実から距離を置いてしまった。それは他にどうすることもできなくて、ただひとつ残された道を進むのと同じ。
 でもその選択をすることが、私たちにとってどれだけ重いことだったか。どれほど冷たく鈍く痛む気持ちを抱えて生きていくことだったか。
 世界中の誰よりも、そのことを私が深く理解しているはずだったのに。そして自分と同じように生きてきた彼女を見つけたというのに。

 ああ、自分が嫌いなんだ。たまらなく自分が嫌いなんだ。彼女の中に自分の嫌な部分を見出してしまって、だから彼女を傷つける言葉を投げかけて。けれど、投げつけた言葉は全て反転して、私の中に戻ってくる。
 本当に気持ち悪いのは、私なんじゃないか、って。

 水に濡れて冷え切った頬に、熱いものが伝い落ちていった。それは自分の「気持ち悪い目」から零れ落ちた涙だった。
 なんで、こんなときに、こんな目が、涙を。

 手の甲で必死に目元を拭う。けれど、一度溢れ出した涙はとどまることを知らなかった。いくつもいくつも、目の縁から零れて濡れた頬を、服を溶かしていくように落ちていく。気づけば、自分の喉から嗚咽が漏れていた。

 どうして、私はあなたを傷つけてしまったのだろう。
 ねえ、世界でただ一人――私と同じように生きてきたあなたを、どうして。

 まわりのことなどどうでもよくなってしまった。子どものように泣いてしまいたかった。大きな声を上げて、自分の叫びを知ってほしかった。
 けれど、もう彼女は蓮子に背を向けてしまった。二度と私のもとには戻ってくれない。今、彼女が去ってしまったら、もう永遠に私たちは独りぼっちになってしまう。そう仕向けてしまったのは、全部、自分のせいなのに。

 マエリベリー・ハーンが一度だけ蓮子に振り向いた。けれど、涙で視界がぼやけてしまい、彼女の表情はわからなかった。目を見開こうとすると、もっともっと涙が溢れてくる。言葉は嗚咽にしかならない。彼女の息遣いもそれに掻き消されて聞こえない。
 そして彼女は小さく歩み出す。今度こそ、蓮子の元を去ろうとする。

「行ってしまっていいのかい」

 不意にはっきりとした声が蓮子の耳に飛び込んできた。止めようとしても止まらなかった涙がいきなり止まった。
 マエリベリー・ハーンの前に一人の青年が立っていた。彼女と蓮子を交互に見て、青年は落ち着いた声で言った。

「彼女を置いていくのかい」

 マエリベリー・ハーンは黙って小さくうつむき、そのまま彼の前を通り過ぎようとした。けれど、すぐに青年が腕を広げ、彼女の行く先を遮った。

「君の目は、彼女と向き合うことを望んでいる」

 彼女ははっとして顔を上げた。けれど、蓮子には彼女がどういう表情で青年を見ているのか、まるでわからない。周囲のざわめきは嘘のように消え去り、水を打ったよりも深い静寂が訪れた。
 その静寂の中で青年は深く頷いた。そのまま、しばらく周囲の時は刻まれなかった。

 ひっく、と蓮子は小さくしゃくりあげた。その声にマエリベリー・ハーンの肩が小さく震え、それからひどくゆっくりと蓮子の方に体を向け、重い足取りで彼女の前に立つ。
 蓮子は彼女の顔を見た。蒼い瞳が蓮子をじっと見据えて、薄い唇が開かれて言葉を紡ぐ。

「ひどい顔」

 また蓮子の目から涙がぼろっと零れた。せっかく止まった涙が堰を切ったように再び流れ落ち、頬を濡らしていく。さっきよりも激しい嗚咽が漏れてしまう。

 何度も何度も手の甲で涙を拭って、彼女の顔を視界におさめようとする。どこまでもその努力は虚しいものだったけれど。

「あなた、恥ずかしくないの? ねえ、大学生にもなって、こんな人前で泣きじゃくっているのよ?」

 震えつづける喉から言葉を絞り出せないのは、ひどい無力感になってしまうけれど。

「本当に情けないわ。なんで、どうしてそんなに泣いてるのよ。ねえ、どうして、そんなに……私の……まえ、で……」

 ぽつり、と彼女の蒼い瞳から澄んだ涙が零れ落ちた。震える声で彼女は言葉を続けようとする。

「あなたに、傷つけら、れたのは……わ、わたし……なの、に……!」

 あとはもう、言葉にならなかった。ぼろぼろと彼女の目からも涙が溢れ出した。彼女も蓮子と同じように嗚咽を漏らして――。
 子どものように泣いてしまうには、二人は歳をとりすぎてしまった。けれど、涙を止めるには若すぎた。ただただ、止まらない涙をぬぐい続け、嗚咽を漏らし続けた。とても長い、長いあいだ。

 まわりのことなんてどうでもよかった。どれほど自分たちが情けない姿を晒しているか、そんなことは本当にささいなことだった。なによりもずっと蓮子の胸を揺さぶってやまなかったのは、目の前にいる彼女も泣いている、その事実だけだった。
 だからこそ、余計に自分の涙は止まらなくて、彼女の涙も止まらなくて。二人は向き合って泣きつづけた。それが二人の孤独を繋げて、ひとつの大きなものへと変わっていった。

 ◆

 本当に、どうしてこんなことになったんだろう。
 私にはわからない。「彼」がどうしてメリーを引き止めたのかも。

 けれど、そんなことは何度考えてもわからない。無意識を言葉で説明するのはひどく無粋なことだし、過去に思っていたことを今から検証するのも馬鹿馬鹿しいことなのだから。
 それでも、ひとつ確かなことがある。

 こんな最悪な出会いが、私たちの四年間を運命づけたということ。
 だから、あのとき、あの瞬間、私は自分とメリーのための何かをしようと思ったのだ。異質な目を持つ私とメリーだけに捧げる、特別な何かを。
 必然か、あるいは偶然か。それを知るすべはどこにもないのだろうけど。

 #6

「In the first time in Japan, rockets were used to…」

 ――ねえ。
 ――なあに?

 いつもと同じようにプレゼンが繰り返される教室の中。教室の後ろの左隅で、蓮子がこっそりと彼女の耳元に囁く。すると、くすぐったそうに肩をすくめながら、彼女は蓮子に視線を向けた。
 蓮子は小さく笑みを浮かべ、少しだけ声量を上げた。

「この授業が終わったら、ちょっと私についてきてくれないかな」
「また食堂で?」

 彼女が少しうんざりしたようにため息をついて、けれどいたずらっぽく目を細める。蓮子は少しだけ怒ったように眉を上げて、けれどすぐにそれを解いた。

「ううん、食堂じゃない」

 そこまで囁いたところで、視界の隅にいた教師の視線に気づいた。何かを言いたげに二人をにらみつけているので、蓮子は小さく肩をすくめて、彼の視線から目をそらす。

「あとでね」

 マエリベリー・ハーンは小さく頷いて自分のモニターに視線を戻す。そこにはきちんとプレゼンの要約と自分の意見が書き込まれていた。蓮子は小さく胸の中で嘆息を漏らし、自分のモニターに視線を移す。
 空欄は真っ白だった。むしろ、空欄そのものがブラウザの後ろに隠れて見えなかった。

 やらないと。蓮子はペンを手にとり、さらさらとモニターに文字を書きつけた。
 昇りかかった陽の光にモニターがやわらかく照らし出され、書きつけられた文字がいつもより眩しく見えた。これから自分がやろうとしていることを後押しするように。
 今日だけは退屈なはずのプレゼンも、どこか光を秘めているように見えた。教室の前の大きなスクリーンには、宇宙に向かうロケットの映像が流れていた。

 授業が終わり、蓮子は彼女を連れてキャンパスの端から端まで歩いていった。相変わらず多くの人が所狭しと移動していたが、目的地が近づくに連れ、少しずつ人影が減っていく。

「ねえ、どこに行くの?」

 彼女が蓮子の後ろから問いかける。蓮子は顔だけ振り返り、黙って笑った。

 やがてたどり着いた場所は、学校の本当に隅にあるような小さなカフェ。緑を基調に白が整って散りばめられている、綺麗なカフェだった。

「こんなお店がここにあったの……」

 彼女は小さくため息をついた。
 店にはテラスもあり、店先から伸びた屋根が太陽から席を守っていた。店の中には一人だけ退屈そうにあくびをする学生が座っているだけだった。

「見つけたのよ、この前ね」

 店のドアを開けながら、蓮子は彼女に答えた。彼女はあわてて蓮子についていく。カウンターでは爽やかに笑みを浮かべる店員が二人を待っていた。蓮子はカードを取り出しながら注文する。

「ホットコーヒーひとつ。あなたは?」
「ええと、ココア、ひとつ」
「へえ」

 蓮子は少し驚きながらカードをリーダーにかざす。煌くような効果音が流れて二人の飲み物の代金が支払われた。

「甘いものが好きなんだ」
「あ、私の分は――」
「いいわよ。次に来たとき、あなたが払う番だから」
「ええ……あ、それから」

 彼女が付け加えるように言う。

「チョコレートケーキも、ひとつ」
「……本当に好きなんだ」

 蓮子はあきれたように肩をすくめ、もう一度カードをリーダーにかざした。

 テラスの席に腰掛けて、蓮子はホットコーヒーに口をつけた。舌がひりつくほどの熱さと痺れるほど強い苦味。けれど、それはこの春の日にうまく溶け合っていた。マエリベリー・ハーンも両手でマグカップを丁寧に持ち、ココアをこくりと飲んだ。

「美味しい」
「そうでしょう。それなのに人があまりいないからね。隠れ家的なカフェといったところかしら」
「大学の中なのに」
「大学の中だからこそ。事象の中にいると、事象そのものが見えないこともあるわ」
「難しいことを考えているのね」
「そういうのを考えるのは、好きよ」

 もう一口コーヒーを啜って、蓮子はマグカップを置く。

「今日あなたを呼んだのはね、メリー」

 テーブルに肘をついて両手の指を絡ませる。その指の向こうで彼女がひととき動きを止めた。少し驚いたような瞳が蓮子を見つめている。

「メリー?」

 ややあってから、彼女は口を開いた。

「私?」
「あなた以外の誰がいるの」

 蓮子は口元をにっと上げた。

「“マエリベリー”ってとても言いにくいの。六文字分をいちいち口にするのは面倒くさいし」
「だから、“メリー”……でも、それもどうなのかしらね」

 小さくため息をついて彼女はココアに口をつける。その顔が思ったよりもずっと柔らかいことに蓮子は気づいた。それでも、あえて尋ねる。

「だめかしら。私は好きなんだけど、“メリー”っていう響き」
「いいわよ、蓮子の好きなように呼んで」
「そうさせてもら――」

 そこまで言いかけて、メリーの言葉にふと妙な甘さを感じた。体をくすぐるような、それでもどこか待ち望んでいた響き。

「“れんこ”?」
「最初にそう言ったのは、あなたじゃない」

 忘れてしまったの? メリーはそう言っていたずらっぽく微笑む。
 ああ、確かに。最初に出会ったときにそう名乗ったっけ。蓮子は薄らぎはじめている記憶に少しだけ浸る。れんこ、か。まだそれを聞くのは二回目だから気恥ずかしくもある。
 でも、これからメリーはずっと私のことをそう呼びつづけるだろう。そのうち、私はその響きを愛することができるだろうか。
 できる。そう信じたい。

「かわいい響きね」
「……メリーと同じくらいにはね」

 彼女の笑みから逃げるようにして蓮子はコーヒーを飲んだ。

「それで、あらためて言うけれど」
「うん」
「私の目の話」

 蓮子の言葉に、メリーの瞳が収縮し、やがてそれはゆっくりと元の大きさに戻っていった。

「いいわ。話して」

 それから蓮子は少しだけ長い話をした。星を見ると正確な世界標準時刻がわかり、月を見ると正確な緯度経度がわかる自分の目の話を。そしていつから自分がその異能の目に気づいたのかということを。
 メリーは黙って話を聞いていたが、蓮子が話し終えると、小さく笑って言った。

「そう、やっぱりあなたもそういう目を持っていたのね」
「気づいていたの?」
「ええ、月の全体写真を見ていたとき、あなたの目が異様に真剣だったから」

 のんびりとチョコレートケーキを口に運ぶメリーを見て、ひそかに舌を巻いた。私のことなんて気にしていないと思ったら、そういうところを見られていたのか。私が彼女の目に気づいたときと同じように。
 でも、それと同時に彼女とならできるかもしれない、と思わずにはいられなかった。

「メリー」

 言葉が口を衝いて出る。ん? とフォークを口にくわえたまま、メリーが視線を上げて蓮子を見つめた。

「ひとつ、考えたの。一緒にサークルをやらないか、って」
「サークル?」

 フォークで器用にケーキを切りながら、メリーが聞き返す。

「どのサークルに入るの?」
「いいえ、どのサークルにも入らない。作るのよ」

 ぐっとテーブルに身を乗り出して、蓮子は熱っぽく語りかける。

「私たちの、私たちによる、私たちのためのサークル」
「どこかで聞いたことがあるような宣言文ね」
「そう、他の誰でもない、たった二人だけのサークルよ」

 目の前でコーヒーが冷めていくのも気にならなかった。いつの間にかメリーもフォークの動きを止めて、じっと蓮子を見つめていた。蒼と黒の瞳。実際に見えるものは違えど、それでもきっと同じものも見えるはずだ。

「あなたの目は境界を見通すことができるのでしょう? 調べてみたの、境界のようなものがほかにもあるんじゃないかって。そうしたらね、本当にあった。神隠しのようなものとか、別世界のものを見たという体験談が」

 メリーはフォークを皿に置いて、両手の指を絡めた。

「あなたの目はそういう不思議を見つけ出すことができる。写真に星と月が写っていれば、私の目でそれがいつ、どこで撮影されたものかを知ることができる。そして、私たちはその不思議へ飛び込んでいくの。ねえ、素敵だと思わない? そういうサークルがあるって。そういう不思議を見つけるのって」
「ええ」

 メリーは素敵に微笑んで、口元を緩める。

「とても素敵なサークルだと思うわ」
「でしょう。名前ももう考えてあるわ」
「うん、どういう名前?」

 小さく息を吸い込んで、蓮子はそれを口にした。

「秘封倶楽部」

 少しの間、メリーは瞳を丸くしていたが、やがてその目がすっと細くなった。

「ひふうくらぶ……秘封倶楽部。ずいぶんと古めかしいけれど、でも素敵な名前」

 メリーは何度もその名前を繰り返す。気に入った歌のフレーズを繰り返し口ずさむように。その歌は蓮子の耳に心地よく響いた。とても懐かしいような、それでいて新しい光を暗かった目の中に放ってくれた。

 空には柔らかな太陽が浮かんでいる。青い空はどこまでも高く伸び上がっている。暖かい風が蓮子の栗色の髪を揺らし、メリーの金色の髪をそっと撫でた。
 これから何度も同じ光景を見るだろう、と蓮子は思った。そして何度も私はメリーの姿を記憶に焼きつけていくだろう。数えきれないほどの時間を過ごしていきたい、蓮子は強く願う。
 なぜなら、この世界は――。

 #7

「ひどい出会いだったわ」

 夜空の下に佇むビルを見つめながら、蓮子は言った。

「本当に。私があなたを傷つけて、あなたが私を傷つけて。あれ以上ひどい出会いをした人間は他にいないよ」

 缶コーヒーを少しだけ口に含む。夜風で冷めてしまったコーヒーは甘さとともに微妙な苦味も含んでいた。そのふたつが微妙に噛み合わず、蓮子は思わず顔をしかめる。

「でも、そういう出会いから私たちは始まったのよ」

 メリーは少し身を乗り出して蓮子の顔を覗き込んだ。蓮子は缶から唇を離し、小さく息をついた。

「ねえ、メリー。ひとつだけ、今でもわからないことがあるの」
「ん?」

 わずかに口元を緩めて、メリーが続きを促した。

「私があなたの前で泣いてしまったとき。今でも思い出すのは恥ずかしいけど、でもどうしても忘れられないの」

 蓮子はメリーを見つめ返す。彼女の蒼い瞳が少しだけ潤んでいるように見えた。いや、もしかしたら、自分の瞳が揺れているせいか。その考えを振り払うように言葉を続ける。

「泣いている私の前で、あなたも泣いてしまったこと。あなたの言っていたことは何も間違っていなかった。水をかけたことだって。もちろん私だってあなたに怒ることはできたのだろうけど、でもあなたが泣く道理はどこにもなかったと思うの」
「そうね、あなたにはわからなかったのかもしれない。きっと理解している余裕なんてなかったから。それは私も同じだったけれど」
「あのとき、あなたは何を感じたの?」

 蓮子の問いに、メリーはふふっと笑いを漏らした。

「あなたに会う前、私がなんて呼ばれていたか、あなたにはわかるでしょう?」
「……妖怪女だとか、気持ち悪い女だとか、そんな感じ?」
「そうよ。だから誰も私と友だちになろうと思わなかった。それに喧嘩をする気もきっとなかったわ。意外と意気地がないもの、そういう人たちって」

 蓮子はうなずいた。メリーは微笑みながら続ける。

「だからね、私と正面から向き合って『気持ち悪い』って言ったのは、あなたが初めてだった。私はそこで初めて人に真っ向から怒りを覚えたわ。本当に、初めて感情を人に向けた。そしてあなたが泣きだして、私は重い衝撃を胸に感じたの。
 目の前で、こんなに感情をむきだしにする人がいるなんて思ってもいなかった。なぜか、それだけで胸がいっぱいになってしまって……涙が出ていたの。知らないうちに声が出ていたの」

 メリーはそっと自分の胸を手でおさえた。

「今もそのことを思いだすと、とても不思議な気持ちになるわ。なんだか、胸が詰まるような、でも悪くはない気分」
「今でも?」
「ええ」

 ぎゅっと缶を握る蓮子の手に力が入った。メリーがそういう気持ちを今でも持ち続けていることを知ってしまったら、私の気持ちはどこへ押しやればいい?
 戻りたいと今まで何度願ってきたことか。あの電車の中で見たものは小さな夢だと何度思い込もうとしたことか。
 だから、そういう手を差し伸べられてしまったら、もう、私は。

「メリー」

 私を止めることができなくなる――。

「……蓮子?」

 静かに左手を伸ばして、メリーの手に重ねた。蓮子の指がメリーの指の輪郭に触れる。けれど、グローブの上からではその肌の冷たさも滑らかさもわからなかった。
 最後に彼女と手を重ね合わせたのはいつだろう。それを思い出そうとするだけで胸が締めつけられた。あの電車の中で手を重ねて、そのメリーの手は驚くほど冷たくて。今、グローブの下にある彼女の手はどうなっているのだろう。

「あなたの旦那さんは……」

 喉の奥から声を絞り出した。

「どんな人?」

 じっとメリーの瞳の奥を見つめる。そこに映っている自分の姿は、初めてメリーと出会ったときよりもひと回り小さくなってしまっているようだった。
 蓮子の手は振り払われなかった。メリーはそっと自分の左手を蓮子の右手に重ねる。彼女の上半身がほんの少し蓮子に近づく。

「優しい人よ、とても」
「そういう、普通のこと以外に」

 自分の吐息が乱れているのを感じる。それを必死に抑えつけるので精一杯だった。

「そうね、私の目のことをとてもよく理解してくれているし、受け容れてくれてもいる。そんな人」
「素敵な人なんでしょうね。そうでなければ、あなたと結婚しようだなんて、思わないものね」
「ううん」

 メリーは小さく首を振って、言った。

「あなたも、本当に素敵な人よ」

 その言葉のひとつひとつがゆっくり、本当にゆっくりと蓮子の胸を冒していく。心臓が一度、どくんと大きく胸を打ち、熱い血液が体の隅々まで流れていく。メリーの背後の風景は意味を失い、やがて蓮子の視界から消え失せていく。

「メリー」

 缶コーヒーをベンチに置く。そのまま右手をメリーの左肩にのせた。思っていたよりもずっと細く、柔らかい肩だった。指先に自然と力が入り、彼女の服に小さな皺ができた。
 メリーは何も言わなかった。目をそらそうともしなかった。黙って蓮子をじっと見つめているだけ。痛いほどまっすぐな視線で。その奥にはほとんど何も隠されていなかった。

 刹那が積み重なっていくにつれ、メリーの顔が近づいてくる。見えない誰かがそうさせているように感じる。本当は自分が顔を寄せているだけなのに。
 メリーの吐息が唇にかかった。さっきコーヒーを飲んだからだろうか。ほのかに甘さとコーヒー豆の匂いがした。

 唇と唇が、重なる。

 誰が望んだだろう。心の奥底では自分自身も望んでいないのだと思った。
 それでもメリーの唇の柔らかさが自分の唇から頭の中まで伝わってきて、全身を溶かしてしまいそうだった。肩をつかむ右手を滑らせ、彼女の首に添える。髪が手の甲をくすぐり、少し冷たい肌はなめらかだった。彼女の吐息が頬をくすぐる度、心臓が張り裂けそうなほど大きく鼓動した。

 目の奥につんとした感覚が訪れる。それから逃れるようにまぶたを下ろして彼女に唇を押しつける。
 もう、という叫び。まだ、という祈り。どちらも止めることができない。頭の中の回路はとっくに焼き切れて、言葉は塊にならない。形のない破片となって飛び散ってしまった。
 今はただ、自分を突き動かす何かに身を任せるしかなくて。

 震える舌が自分の唇の間から這い出ようとする。それはそのままメリーの口内にそっと忍び込む。力なく何かを探るように。唇を通りぬけ、上下の歯を擦りながら、さらに奥へと入り込む。
 そこにメリーの舌があった。待ち望んでいるかも、拒絶しようとしているのかもわからない。蓮子は伸ばした舌を、彼女のそれに絡めようとする。舌と舌のざらざらした部分が触れる瞬間、自分の体が小さく跳ねた。心臓の鼓動さえ吹き飛んでしまいそうな感触。

 一、二秒。絡めた舌がメリーのそれと交わる。とろりと彼女の唾液が自分の舌に流れた。それが味覚に伝わり、さらにそれが脳へと伝わって――。
 感覚器官など焼き切れていたはずなのに。それでも、ただひとつ。

 コーヒーとは違う味がしてしまった。

 顔を離して蓮子は言った。

「旦那さんのところに戻ったら」

 ぎこちない声だった。目を伏せていたメリーが顔を上げて、黙って蓮子を見つめた。蓮子は右手を彼女の身体から離し、ベンチにおいていた冷たい缶コーヒーに伸ばす。

「そろそろ披露宴も始まっているでしょう。花嫁がそこにいないのはまずいんじゃないの?」

 左手を彼女の両手の間から引いて、ベンチの背もたれの部分に載せる。視線を空に向けて、残っているコーヒーを少し啜った。

「別にそこまで気にする必要はないのに」

 メリーの声はどこか遠くから聞こえるようだった。気にする必要がないって、何が。今さっきまで私たちがしていたこと? それとも披露宴に遅れること?
 けれど、その問いかけをコーヒーとともに呑みこんだ。

「それでも。あなたの旦那さんを待たせるのはよくないわ。新郎の隣に新婦がいるのは、新婚夫婦にとってはこれ以上ないくらい大事なことなんだから」

 メリーが何かを口にしようとしたが、蓮子はそれを遮った。

「私もあとで行くから、先に行っててちょうだい」

 沈黙。
 メリーはじっと蓮子を見つめていたが、蓮子は缶コーヒーを持ったまま空を見つめていた。彼女の視線に向き合おうとしなかった。

「じゃあ、先に行っているわ」

 沈黙を破ったのはメリーだった。

「だけど、蓮子もちゃんと来てよ。あなたが来ないのは寂しいことなんだから」
「行くよ」

 空からメリーへと視線を移し、蓮子は乾いた笑いを漏らした。

「夕食、まだ食べてないし。それに遅刻はしても、姿を現さなかったことは、今までに一度もなかったでしょう?」

 ベンチから立ち上がりながらメリーは小さく頷いた。「じゃあ、あとで」と言って、ドレスを揺らしながら屋上から姿を消した。
 あとには蓮子一人が残された。

 しばらく屋上のドアを見つめていた。それから、まだ少しだけ残っていたコーヒーを一気に飲み干した。口の中に残っていたものを体の中に落とすように、喉を大きく鳴らして。
 そうしてため息をつくと、どっと疲労が蓮子を襲った。さっきまでどこかへ行ってしまった感覚や思考が重く彼女にのしかかってきた。まぶたが重くなって、彼女を眠りへと導こうとする。
 眠気を振り切るようにして蓮子は立ち上がり、空き缶を自販機の隣のゴミ箱へと放り投げた。揺れながら缶はゴミ箱へと落ちて、高い音を風に響かせた。

 ゆっくりと屋上の端へと向かい、鋼鉄の柵に前向きに寄りかかる。暗い夜景が今までよりも自分に近いところにあるのを強く感じた。車が一台、音もなくビルの合間をすり抜けて、夜の闇へと消えていった。

 これでいいのよ、と自分に言い聞かせた。
 彼女を突き放してしまってもこうするしかなかったのだから。唇を重ね合わせることは、それをかたちにして知る儀式以外の何ものでもない。メリーのため、彼のため、そして自分のために。
 メリーの幸せを奪う権利なんてない。あの二人は二人でこれから生きていけばいい。私だけが昔のように、もう一度ひとりで生きていけばいいだけなんだから。
 昔と同じように、ひとりの現実の中。私はこの街に立ちつくす。どこにでも行けるし、どこにも行けない。見えない境界はきっとどこにでもあるし、見えないけれどこれから何度もそれに触れて、あたたかみのなさを知る。

 それの、なにが……。

 一粒の涙が目から頬へ、頬から顎へ、顎から遥か下の地面に落ちていった。それが何度も繰り返された。それに気づいても蓮子は涙を拭おうとはしなかった。目を開いたまま、ビルの風景の、さらに遠くを見つめていた。

 黒い空に浮かぶ無数の星。

 本当は外に来た瞬間からわかっていた。この日は夢ではなく、強固で揺るがすことのできない現実の出来事だということを。そして、秘封倶楽部が終わってしまってから、長い年月が経ってしまったということを。
 自分が見ていた夢の成れの果てが、どれほどちっぽけでみすぼらしいものになっていたのかということを。

 正確な年月までわからなくてよかったのに、と蓮子は思った。どうして卒業してからもこの力は強くなってしまったのだろう。時刻だけではなくて、西暦まで正確にわかってしまう程度の能力に変わってしまうなんて。

 雲のない星空は残酷だ。ふとした瞬間に星を見上げるたび、私はいつも夢から引き剥がされてしまう。どうしようもない現実の中にいることを知らされてしまう。
 でも、それでよかった。たとえ夢が夢だとしても。その夢を見れただけでよかったから。明日、目が覚めてからひとりの現実を生きる覚悟を決めればいいだけの話なのだから。
 でも、今だけは――。

 突風が屋上に吹き荒れた。蓮子の髪を揺らし、涙を風に乗せ、そして――。

 今だけは泣けるだけ泣いてしまいたい。もう、子どものように泣くことはできないけれど。二度と泣かなくてもいいくらいに、泣きたい。

 黒い帽子が吹き飛ばされて、柵の向こう側へと運んでいく。手を伸ばそうとは思わなかった。帽子は夜の闇の中へ溶け、やがて白いリボンも見えなくなって、街の中へ消えてしまった。

「さようなら」

 誰にも聞こえないような声で、小さく別れの言葉を告げた。

「さようなら、私の夢――」

 夜空に光る星たちは蓮子たちの遥か向こうで光る。二人の知らない時を刻む。

 

 
 
 


 
振り返ったときに見えるものは、残骸と記憶、それから儚いぬくもり。
幻と夢に別れを告げて、歩んでいく道の先に何があるか、私たちは知らない。

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再び間があいてしまいましたが、お待たせしました。
お読みいただき、ありがとうございます。

秘封シリーズ六作中、四作目の『メリー・マリー』。
四作目はタイトルを伏字にしようかと考えた時期もありましたが、思い切って明かすことにしました。
『メリー・マリー』――読んで字のごとく、冒頭からそのシーンでしたが、いかがだったでしょうか。

このシリーズも終わりがぼんやりと見えてきてしまいました。
物語の終わりはすでに決めているのですが、シリーズ全体としての終着はどこにあるのか。
私自身も不安と期待を抱えながら見ていこうと思います。
残り二作となりましたが、あと少し。お付き合いください。

それでは、また次の世界で。
 

初出:2011年9月25日