リハビリがてら書きました。

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 赤城さんはひどく自然に「轟沈」した。少なくとも、最初は誰も、彼女が「轟沈」するような攻撃を受けたとは感じなかった。彼女自身も攻撃を受けた後で、もう一度弓を引こうとしていたくらいだ。
「そんな攻撃を受けたようには感じなかったけど」
 でも、確かに彼女は「轟沈」したのだ。茫然と立ち尽くす私の前で。
「だめね、また慢心しちゃった」
 彼女の言葉は海風にあっさり流れていった。
「あとはよろしくね、加賀」
 彼女は穏やかに笑っていた。その姿に、私は涙を流すこともできなかった。

  ◆

 窓の外で弱々しく鳴いていた蝉の声が止まった。もしかしたら、木からころりと転がり落ちてしまったのかもしれない。今のが、この夏最後の蝉だろう。じわりと首元に汗が滲むような夏が終わる。そんな感傷に浸るのは私だけか。
 クーラーの効いたこの鎮守府では、軽巡たちが仲良くばば抜きをしている。ジョーカーをつかまされた天龍が、動揺丸出しで龍田にくすくす笑われている。向こうのテレビでは重巡たちが熱くゲームを。鈴谷の高い笑い声が嫌でも耳に入る。窓の下では島風がぶっちぎりのかけっこ。

 それでも、赤城さんが「轟沈」してから一週間はこの部屋にも薄暗いもやがかかっていた。乱暴な提督でさえ、食欲と口数がいつもの半分以下だった。いや、提督だからこそ、か。彼女と赤城さんはこの鎮守府が始まって以来、長く二人でうまくやってきた。切れ者なのに乱暴な提督の作戦を、赤城さんが文句ひとつ言わず遂行する。それは、この鎮守府にとって、なくてはならない姿だった。でも、それも今はかなわない。
 そうして、赤城さんがいなくなって、見知らぬ空白がぽかんと部屋に置かれた。彼女が愛用していたどんぶりや座布団や手鏡――どれも今はない。それを棄てたのは提督だ。でも、彼女がそれを棄てるときの表情を、私は知らない。深く帽子をかぶった彼女は、何も私に語らなかった。
 私はそれ以来、鎮守府が以前の明るさを取り戻しても、何事も手につかなかった。演習以外の時間は、みんなが帰るまでじっとその空白を見ていた。私の目が描く輪郭が、やがて赤城さんを取り戻すのだと思うくらいに。もちろん、そんなことをしても赤城さんは戻ってこなかったし、どうしようもなく虚しかった。
 でも、ある日の夜、一人で部屋に残っていた私の前に提督が立っていた。
「加賀」
 短くまとまった黒い髪が、蛍光灯に照らされて冷たく波打つ。私はソファに腰掛けたまま、「はい」と答えた。
「今度の出撃では、おまえが一番艦隊の旗艦だ」
 彼女は短く、そう言った。私は返事をしなかった。当然、そうなるだろうと頭の片隅では思っていた。でも、誇らしくもなんともない。赤城さんの穴を埋めるために、そうするのが自然なだけだから。
「聞こえているなら、返事をしろ」
 返事をする代わりに、顔を上げて提督を見た。真っ直ぐ私を見据えるその瞳からは何も読み取れない。ただ、瞼がいつもより少し赤く見えた。私は唇だけで言葉を紡いだ。なんだ、提督も泣けるんですね。提督はその言葉を理解したのか、しなかったのか、帽子をかぶり直して、部屋から出て行った。真白い帽子が、私の他に誰もいない部屋に、かすかな軌跡を残していった。

「旗艦になるんだって?」
 とさ、と左隣に誰かが座った。はっと、我に返って振り向くと北上だった。
「いいじゃん。断る理由もないんだから。それにあたしたちにとっちゃあ、あんた以外のひとが就くよりもずっと楽でいいよ」
 彼女は脚を組んで、背伸びをした。今日の三つ編みはいつもよりも少し短めになっている。「改造」して服装が変わったのに合わせたのだろうか。暑いねえ、と手うちわで首元を冷やしはじめた。
「断るわけじゃないわ」
「ならいいけどさ、なんだか浮かない顔をしててね」
 どう返していいのか、少し迷った。けれど、私と時を同じくして入ってきた北上になら、話してもいいと自然に思った。
「赤城さんが『轟沈』したとき、涙も出なかった」
 北上は手うちわを止めず、黙って続きを促す。
「悲しくないのかしら、と自分を疑ったこともあるけれど、結局赤城さんがいなくなった空白を見ても、やっぱり胸を締めつけるような苦しさもない。なんだか、この一週間は色がないように過ぎていったみたい」
 そこで北上にまた視線を送ったが、彼女はまだ黙っていた。やるかたなく、私は自分で言葉を結んだ。
「そういう痛みもわからないような、私みたいな艦娘じゃ、旗艦なんて務まるとは思えない」
 かすかな沈黙が訪れて、風のように過ぎていった。北上は手うちわを止めず、ぼんやりとどこでもない場所を見ていた。何を考えているんだろう。提督といい、北上といい。赤城さんがいなくなってからは、私の中では歯車が噛み合わないみたいに何もかもがわからないままだ。
「私が『轟沈』したときのこと、覚えてる?」
 北上の言葉が唐突に、頭を揺らした。南方を攻略したとき、提督の無理な進撃命令で彼女は一度「轟沈」していた。私は覚えている、と答えた。
「あのときは大井っちがねえ、びっくりするくらい泣いてたんだよねえ。せっかく私が艦隊の雰囲気を壊さないために、かるーく最期の言葉を遺したつもりだったんだけどなあ」
「それからも、大井さんは三日間はひどかったわ。他の入渠艦よりもずっと傷ついて、落ち込んでいて、ごはんなんてとても食べているように見えなかった」
「やっぱそうなの? それは初耳だよ。みんな私が戻ってくるまでの間のこと、何にもしゃべらないもん」
「それは――」
「ま、それは置いといてさ」
 北上が私の言葉を遮って、続けた。
「そんな大井っちが旗艦にふさわしいかな? ぶっちゃけちゃっていいよ」
 北上が唇の端を上げて、少し嫌な笑いを浮かべる。
「他の人には?」
「言わないって。信用ないなあ」
「そういうことじゃないけれど。でも、大井が旗艦を務めるには足りないものが多いとは、思う」
「私もそう思うな。だから、『轟沈』したことに泣けないことは、旗艦ができないことと関係ないよ」
 北上はちら、と視線を窓の外に向けた。
「きっと、赤城がいなくなったここじゃあ、あんたしか旗艦できないんだから」
 彼女につられるようにして、私も視線を外に向けた。気づけば、太陽は赤く海に燃え落ちようとしていた。
「あなたがこういう話をしたのは、私の背中の後押しをしたいってこと?」
 そう問いかけたが、彼女は鼻で笑って答えてくれなかった。

 その日、私は提督の命令通り、旗艦として第一艦隊を率いることにした。それは拍子抜けするほどすんなりとみんなが受け入れてくれた。そして、私が旗艦となってからしばらくは、「敵」との戦いは私たちの方にいい風が吹いていた。
 赤城さんのあとを、新入りの大鳳が埋めるような形になったが、彼女も献身的に私を支えてくれた。そのけなげな姿はどこか赤城さんに似ているようにも思えたし、そうでなくとも穴が開いてしまった私の胸を少しでも埋めてくれる。
「ひとつ、訊いてもいいですか?」
 食堂でオレンジジュースを飲みながら、大鳳が訊ねてきた。
「どうぞ」
「赤城さんは、どんな人だったんですか?」
 私はほうじ茶を置いて、そっと視線を大鳳からそらした。食堂の喧騒がさっきよりも少し大きくなった気がする。
「真面目な人よ」
 いつか、彼女が問うて来ることは予感していたけれど、いざその時が来ると、思っていたものとまったく違うものが胸を染めていた。冷たく、色のない音。でも、もっと動揺するのかと思っていたのに、案外落ち着いていた。
「そうね、一回だけ出撃前の演習に来なかったくらいで、あとはいつもみんなよりも三十分早く来るし、出撃の時は冗談ひとつ飛ばさない。ときどきよくわからないことを言うけれど、本人は大真面目だからちょっと困ってしまうわ。それから、やたらと大食らいで、お昼にこの食堂でよくスタミナ丼を二杯食べていた。カレーが大盛りじゃない日を見たことがないし。あと、甘いものも大好きね。特にアイスとかケーキとかが好き。髪はおきまりの美容室があるみたいだけど、必ず同じ髪型で同じ長さに揃えてくるから、別にそんなところに行かなくてもいいんじゃないかしら、と言うと、癖なんです、って笑うわ。それに――」
 視線を戻すと、大鳳が頬をかきながら少し顔を赤らめていた。
「大切な人なんですね」
「大切な、人?」
「だって、加賀さんの中からそんなに色々な言葉が流れ出るのを、私は初めて聞きましたから」
 ぱちくりと、私は大鳳を見つめ直した。それから、自分の言葉を思い出して、顔から火が出そうになった。
「大鳳、今のは――」
「はい、聞かなかったことにします」
 大鳳はこほんとわざとらしい咳をする。
「でも、私は赤城さんのような、強い空母ではないかもしれませんけれど、でも、赤城さんのように立派に戦っていきたい。加賀さんの隣に立てるような艦娘に、なりたいと思うんです」
 そう言って大鳳はかすかに笑った。ふっと、その唇の線が赤城さんに似ていることに気づく。そのことは口にしないけれど、私はこの小さく可愛らしい子に、少し頼もしさを覚えた。
 そうして、赤城さんがいなくても、その思いを私たちは受け継いでいける――そんな言葉がどこかで聞こえるようになった頃に、それは起こった。

 連戦が続く海域だった。空は高く澄み渡って、波は囁くようにしか立っていない。その上で、敵の主力艦隊と交戦している最中だった。かすかに痛み始める右手で、それでも何度も弓をしならせ、敵戦艦に絨毯爆撃を仕掛けていた。もう少しでいけそう――その焦りゆえ、基本の予備動作の周囲確認を怠って、私は弓を引いた。
「加賀さん!」
 背後から聞こえる大鳳の声。なに、と振り返ったとき、そこに敵の潜水艦がいた。大きな口を横に開いて、にたにたと笑っていた。なんて趣味の悪い笑い方なんだろう。襲われているというのに、私が感じたのはそういうことだった。気づいた次の瞬間、私の横腹を重く鈍い痛みが押しつぶそうとしていた。体から力が抜け、膝から崩れ落ちる。視界が急にかすむ。潜水艦がもう一度、腕を振り上げているのが見えた。見覚えのある光景ね。私はひとりごちて、目をつむった。
「それ以上はやめなって」
 北上の声。爆撃音。敵の断末魔――そして、静寂が私の耳を包む。
「……目、開けば?」
 目を開くと、目の前には北上と、彼女と並んで提督が立っていた。私は立ち上がろうとしたが、横腹からの痛みが重すぎて立ち上がることができなかった。めまいがする。
「これ以上の進撃は無理だな」
 驚くほど冷たい声で提督が言った。北上は頷いて、私に背を向け、他の人たちを呼びに言った。大鳳が視界の隅に映る。心配そうに私を見ている。北上が呼んできた人たちも、みんな同じようにして私を心配そうに見た。
 やめてよ。そう言いたかったが、言えなかった。みんなが何を思っているのか、痛いほど伝わってくる。ただ、大鳳をのぞいて。
「加賀」
 提督の声が後頭部に落ちてくる。もう、それだけで情けなくて、泣きたいと、思った。
「今の初歩的なミス、旗艦として許されるものではないな」
 私は黙って頷き、そして首を横に振った。提督、あなたはそんなことを言うために、私に恥をかかせているわけではないはずだ。けれど、提督は次の言葉を告げて、もう私に背を向けてしまった。
「撤退。加賀、今回は高速修復は使わない」
 提督に続いて他の人たちも私に背を向けて去っていく。私は戦場の跡からしばらく動くことができなかった。痛みと情けなさで。ただ、大鳳だけが私の隣に立って、左手を静かに握った。
「加賀さん、行きましょう」
 私は首を横に振りながら、でも彼女の無垢な思いやりに逆らうこともできず、彼女に支えられながら立ち上がった。立ち去った彼らの姿が遠くの水平線に消えてしまっていて、そして私は足下で揺れるさざ波を見て、自分の目が潤んでいくのを感じた。
「大鳳」
 必死で涙を堪えながら彼女の名を呼んだ。はい、と大鳳が返事をする。
「あなたはあのときいなかったから、知らなかったと思うけれど」
「あのとき?」
 私の口は止まることを知らなかった。何も知らない大鳳に甘えたいという気持ちがあったのかもしれない。そうでもしなければ、己の情けなさを誰も罵ってくれないのだ。
「赤城さんは、私と同じようにして『轟沈』したのよ」

 修復にかかる時間は十時間。こんなに長く部屋への出入りを禁じられたのは初めてだ。だから、私は鎮守府を離れ、学校の中をぶらつくことにした。
 焼けるような暑さは気づけばとっくに私たちの後ろにいて、すぐ目の前には頬を引き締めるような寒さが待っている。中庭の向こうからは快音とかけ声が飛び交っている。そこの校舎の窓から、不揃いなブラス音。そういえば文化祭も近づいていた。私たちは今年もまた、何も出さないのだろう。あの提督のことだから、海にでも行こうと言うのではないだろうか。そうやって提督のことを思いだしてしまうから、乾いたはずの目がまた潤んでしまう。こんなに涙もろいはずもなかったのに。いや、こういうことを涙もろいとは言わないのだろうか。
 なんとなく手持ちぶさたに食堂の方へ行こうとすると、遠くの方から赤城さんがすたすたと歩いてくるのが見えた。なんで、と思うよりも早く、体は屋外階段の裏に隠れるように動いた。赤城さんの頭の上に、気の早い紅葉が一枚戯れるように乗っかった。それが地味な制服を着た彼女によく似合っていた。
 彼女は頭の落ち葉に気づかないまま、食堂の中に入ってしまった。おかしな人。私は思わず笑い出しそうになる。鎮守府にいた頃と何も変わっていない。彼女の後を追っていって、葉っぱをとって驚かせてやろうか。「素敵ないたずらね」と彼女も笑ってくれるだろうか。
 でも、私は彼女のあとについていけなかった。普段は日が暮れるまで鎮守府に籠もりきりな私が、こんな夕暮れ前に彼女の前に姿を現すことはできない。一航戦のほこりを捨てているのと同じだ。
 もう帰ろう、と思った。夜はどこかのラーメン屋でおとなしく特盛りをいただいて、すませてしまおう。鞄を肩にかけ、音もなく私は学校を去った。

 その週は鎮守府に顔を出さなかった。出入り禁止は十時間だから、木曜日からは普通に出ても問題なかったが、そういう気分ではなかった。学校から帰って、私は布団に潜り込み、意味もない睡眠をやたら長くとった。
 そうして、次の月曜日にようやく鎮守府に顔を出すことができた。

「ばかやろう!」
 鎮守府に出て、いきなりだった。頬を張り飛ばされて、鎮守府の入り口で情けなく尻餅をついてしまった。先に部屋にいた大鳳や長門が唖然として私と提督を見ていた。背後では駆逐艦たちの笑い声がしていたが、それもすぐに消えてしまった。
 提督は腕を振り下ろしたまま、肩で呼吸をしていた。握りしめた左こぶしは、何かをおさえるように小さく震えていた。
「入渠時間が終わっても全然顔を出さない、連絡もよこさない。おまえは、旗艦としていったい何を考えているんだ!」
 提督の叫びは、最後にはだみ声に変わっていた。喉の限界を振り切ってしまったのか。鎮守府の部屋は痛々しく、どろりとした重さに包まれる。窓の外からチア部のかけ声が入ってくるのが、逆にこの空間をくっきりと切り出していた。
「旗艦として?」
 尻餅をついたまま、私は言った。
「私に、旗艦なんて責務を求めていたんですか?」
 ひどく素朴な問いだった。あのとき、彼女に聞きそびれてしまったことを、今訊きたいと思った。
「おまえ……!」
 でも、それは私の見込み違いだった。もう一度私に殴りかかろうとする提督を、長門が後ろから押さえつける。大鳳が私と提督のあいだに立って、両腕を広げた。
「やめてください! こんなの、違います! 提督らしくありません!」
「加賀、おまえは、おまえの何をわかってるんだ!」
「提督!」
 大鳳も提督の腹を歯を食いしばって押しとどめていた。他の艦娘たちも提督と私の間に境をつくって、彼女を押しとどめた。でも、それは同時に、この鎮守府と私の会いだの境になってしまったように、見える。提督はしばらく言葉にならない声で叫んでいたが、やがて、長門におさえられたままぐったりしてしまった。
 私はなんとか立ち上がって、艦娘たちをかき分けて提督の前に立った。彼女の黒い瞳が、どんよりと私を見つめる。呆れたよ、おまえには。言葉には出さないが、確かにそう言っていた。
「呆れてるんですか」
 できるだけ、冷静に言ったつもりだった。でも、自分でもはっきりわかるほど声は震えていた。
「あなたがいったいどういうお考えで私を旗艦にしたのか、私にはわかりません。でも、私はただ、赤城さんの影を追うだけでした。それも、赤城さんに比べたら全然立派なんてものはなくて、私は……ただ……情けなくて……」
 視界がじわりと滲む。知らないうちに、嗚咽さえ溢れ出していた。
「わからないですよ、提督の、いう、とおり……わた、し、は……」
 ぽたぽたっと、静まりかえった部屋に涙の落ちる音がした。なんでだろう、こんな、学校のいち同好会でしかない、こんな活動で涙を流すなんて。わからない、本当に、提督の言う通りだ。
 こんなところに、私はいなくてもいいのだ。ふらふらとそんな言葉にたどり着いたとき、私の足が勝手に部屋の外へ向かって走り出していた。何人かの艦娘が私の名を呼んでいたと思う。でも、もう私には私の名前さえ聞き分けることはできなかった。

 中庭の端っこのベンチまで来て、私は大泣きした。こんなに泣いたのはいつぶりだろう。泣く理由もわからなかったけれど、赤城さんの最後の姿と、私の痛みと、提督の呆れた顔がぐるぐると頭を巡って止まらない。そんな私の妄想がよけいに私を追いつめているのだと知って、また涙があふれてきた。現実を見失うくらいに、泣いた。ここが学校だなんてことは、些細なことだった。
 三十分もしただろうか。涙はまだ止まらなかったし、嗚咽も激しかったが、少しずつ私は自分を取り戻し始めた。ベンチに横になっていて、中庭のフェンス越しに海が微かに見えた。波も穏やかで、甘い潮の香りが涙に濡れた頬を撫でた。太陽が夕を刻み始めていて、波にその光を落としていた。
 ふと、頭にふわりと何かが乗っかった。
「よしよし」
 そして、耳を溶かすような声。私は視線を天に向けた。そこで見た顔に、また私は涙をこぼしてしまった。
「どうしてまた泣くの? まだ泣き足りなかった?」
「違います」
 私は頭を撫でる手をそっと握った。黒く流れるような髪。落ち着いていて、私の胸をいつもあたためてくれるその笑顔。こんなところでまた触れ合えるなんて思わなかった。
「こうやってまたお話ししたかったからです、赤城さん」
「変なの」
 赤城さんはくすくすと笑って、視線をフェンスの向こう側へ向けた。
「海、行きませんか?」

 海風は凪いでいた。赤城さんはいつもこの時間が好きだった。そして、この場所が好きだった。テトラポットがところ狭しと敷き詰められ、遠くにタンカーが見える、こんな人工的な場所でも。早めに任務が終わったとき、赤城さんはときどき私を連れてここに訪れた。彼女が「轟沈」してから一緒に来るのは初めてだ。
「ときどき私のことを見ていたでしょう?」
 縁に隣り合って腰掛けたとき、赤城さんが出し抜けにそう言った。あまりにも自然な流れだったから、「はい」と私もためらいなく答えてしまった。それが、赤城さんのずるいところだ。
「やっぱり」
 そして、それが赤城さんの好きなところだ。赤城さんの前では自分を偽ることが馬鹿らしくなってしまう。彼女の笑みと夕焼けの中に、静かに己を置けばいいのだと、こうするたび何度思ったことか。
「おかしいですよね。同じ学校にいるんだから、顔を合わせたっていいのに」
「確かに、よく考えるとおかしいわね」
「でも、『轟沈』して、そのまま鎮守府から消えてしまったのは、あなただけでした」
「北上さんは戻ったものね」
「どうして、そうしなかったんですか?」
 彼女は知っていたはずだ。自分が鎮守府に戻る機会が、「轟沈」してから何度かあったことを。おそらく提督だって彼女にひとことふたこと言っているはずなのだ。
「ぽっかり空いた穴はいつまでも埋まらないんです」
 鎮守府だけではなくて私自身も――という言葉はぐっと呑み込んだ。
「それなのにあなたが戻らないということは、鎮守府が」
「嫌い、ということではないのよ」
 赤城さんが私から目を離して、水平線を見つめた。茶色がかった黒い瞳はすうっと伸びて、水平線のさらの向こう側にある月を見ているようだった。この世界にはもう、月なんてないはずなのに。
「轟沈したあの日もここに来た、今日と同じように。それともいつもと同じように、かしら、赤い夕焼けが目の前にずうっと広がっていてね。鎮守府の外はなんて広くて、何もないんだろうって、思った」
「何も、ない、ですか?」
 赤城さんはそのことについてそれ以上触れなかった。でも、彼女の瞳に映る月が私に告げる。それは文字通りの意味だと。そして、その瞬間、夕焼けの赤が紫色に変わっていた。凪の中に一筋の風が通り、私と赤城さんのあいだを抜ける。
「そんなこと、言わないでください」
 気づけば、そう漏らしていた。
「ここには学校があります。いつもあなたと帰りがけに寄った茶店があります。それに、鎮守府と仲間たちがいるんです」
 赤城さんは黙って海をじっと見つめていた。波の向こう側にタンカーは姿を消して、太陽はゆっくりと海と口づけをする。私の言葉は、生まれた風の中にすべて消えていく。だから、私は口をつぐむ。そして、長い時間をかけて、私は赤城さんの沈黙の意味を読み取った。ただ、私自身がそれを認めたくなかった、それだけだったのだ。
「私は、それ以外のことを、知らない」
 赤城さんがようやく大きく頷いた。
「轟沈して戻らなかったのはね、そういう理由なの。私もきっと何も知らなかった。無垢なまま、あの舞台の中で立派に生きていたって、私はどこにも行けなかったんだって」
 赤城さんは私に振り向いた。薄闇と青い夕焼けを溶かしたような表情が、凪の波とよく似ていた。
「あなたに、こんなこと話さない方が良かったのかしら」
 どうしてそんなことを訊くんですか、とは言えなかった。そして、彼女の問いにも答えられなかった。けれど、彼女の目は明らかに私に答えを求めていた。「赤城」であることの意味を、私がここに座っている意味を、私に託そうとしているように、思えた。
「愚問だな、赤城」
 鋭い声が、詰まりきった空気を裂いた。はっと振り返ると、提督がいた。

「まったく、世話を焼かせる旗艦だよ、おまえは」
 提督は私の頭を軽くはたいて、赤城さんと私の間に座った。
「赤城よりもしっかりしているように見えて、一度崩れてしまうとああまでなるんだな」
「本当に申し訳ありません」
「だったら、こんなところにいないで鎮守府に戻れってんだ」
 そう言いながら、提督は海の香りを胸一杯に吸い込んで、笑った。
「なんてな、たまにはサボりも必要だよ。な、赤城?」
「本当に」
 提督の短い髪と赤城さんの髪が同じようになびいた。無遠慮に笑う提督と明るく笑う赤城さんとの笑い方も、どこか似ている。
「赤城さんがサボっているところなんて、一度も見たことありません」
 抵抗するように言うと、赤城さんがふるふると首を振った。
「みんなには内緒ですけど、どうしても食べたいケーキのために、一度だけ」
「大事な出撃前なのに、なんてことしてくれたんだよ」
「でも、加賀が立派にやってくれましたから」
 突然、私の名前が出て、ぎこちなく頷いた。二年半、提督と旗艦として組んできた二人。私はそのつながりを、あらためて感じる。私と赤城さんの間にある細い糸とまるで、違う。
「加賀、これを見ろ」
 目を上げると、古ぼけた写真を手に、提督の黒い瞳がすっと私を見据えていた。出撃前のあの瞳によく似ているけれど、そのときは少し違った。そこには私とほとんど歳の変わらない女の子のひとつの決意が滲んでいた。私は黙って写真を受け取った。
 月の浮かぶ海で、ひとりの若い男がポーズを決めているものだった。
「私の祖父だ」
 彼女はそう言う。でも、私はそれよりもずっと信じられないものに目を奪われていた。
「月」
 丸く、大きく、白く、堅く、柔らかく、優しい、そんな月を私は初めて見た。漫画や小説やゲームで見たものとはまるで違う、神秘的な存在を。赤城さんは懐かしむようにして、写真をのぞき込んできた。彼女はこの写真を見たことがあるのだろう。

「昔、この世界には月があった。祖父はよくそんなことを話してくれたよ。でも、あるとき月は消えた。詳しくはわからないが、そのときに多くの人も消えた。地球には小さな島が点在するだけになって、生きる力を失った島は死んだ。月がなくなって、潮の満ち引きもなくなって、海も長い時間をかけて死んでいる。私たちが住んでいるこの島も、かろうじて近くの島とやりとりしているだけで、そこももうすぐ消えようとしているらしい。もしかしたら、世界に残っているのはこの島だけかもしれないな」
 夕焼けが海にもう、半分沈んでいる。提督はすっと目を細めて太陽を見た。
「世界が終わる。だから、後悔のないように生きるんだ。祖父は最後にそんなことを言って死んだよ。なんて勝手なことを言うんだよ、そう思った。終わる世界で何をやったって、私はどこにも行けない。生きることもできない。死んだって、誰も泣いてくれやしない」
 軍帽をゆっくりと胸の前に置き、彼女はそれを見つめた。そのときに初めて気づいたが、綺麗なようでいてあちこちがほつれていた。もしかしたら、彼女の祖父のものなのかもしれない。
「だからかな、勝手だと思っていながら、その言葉がずっと胸の中に染み込んでいて、まだ私の血となって流れている。私が『提督』になろうと思ったのも、『鎮守府』を作ろうと思ったのも――憧れのおじいになりたくて、そうしたんだ」

 提督はそれきり黙って、また海に視線を投げた。夕焼けはもう水平線の向こうに隠れようとしている。魂を眠らせる夜が私たちの背中をそっと撫でる。
「赤城さんは、知っていたんですか?」
 もう少しで見失っていた糸をつかめそうな、そんな気がした。赤城さんがこの鎮守府に戻らなかった理由、私が赤城さんを『失っ』ても泣けなかった理由。
「鎮守府を創るときに。そして、『轟沈』を考えたのは、他でもない私なのよ」
 そして、その答えが返ってきたとき、ようやく私は泣きたいと思った。こんな情けない自分ではなくて、赤城さんと提督と、二人の抱える思いの大きさと――鎮守府を離れても赤城さんが提督にとっての旗艦であり続けていること、そのすれ違いに。
「私たちはいつまでも女優であり続けられない。そうでしょう? 一度しかない終わりを迎えるための準備を、そして明るい生き方をする方法は、それだったの」

「この前の出撃のとき、おまえは赤城のあとを追おうとしただろ?」
 否定する言葉が見つからなかった。肯定する言葉は喉元まで出かかったけれど。提督は返事を求めていないようだった。
「あのミスの仕方は赤城とまったく同じだった。他の正規空母がああいうミスをしたとしたら、おまえは絶対同じミスをしないはずだと思っている。だから、よけい私にはそう見えた」
「旗艦になんてならない方が良かったんですよ」
 なんとか見つけだした言葉がそれだった。
「私なんか、明るくもないですし、みんなを引っ張ろうとも思ってない。荷が重すぎたんです。だから、無意識のうちに逃げ出そうとしたんでしょう」
「荷が重いのはそうかもしれないな」
 提督は思ったよりもあっさりとその言葉を肯定した。けれど、私が一息つこうとした寸隙を縫って、別の言葉を差し込んできた。
「だがな、死に方なら、いくらだって別の方法がある」
 冷水を顔にかけられたようだった。私は思わず顔を上げて提督と見つめ合う格好になった。提督は怒ってもいなかった。悲しそうな顔もしていなかった。穏やかに笑っている――まるで、さっきの写真に写っていた彼女の祖父のように。
「加賀、たった一度だけ、生きてみないか」

 そうして、彼女は私の頭に手を置き、不器用に撫でた。手袋はしていなかった。彼女の指のあたたかさが肌から伝わってくる。
 ああ、これが彼女の生き方なのだな、とそのとき私は初めて思った。普段は男勝りで、弱みを見せない彼女だけれど、不器用ながらに何かを伝えようとしている。だから『提督』のかたちできっと私たちの背中を押してくれる、終わりかけのこの世界で。
「あ、加賀さん、ずるいです。私だってまだ頭を撫でられたことないのに!」
「やれやれ」
 彼女は笑って、赤城さんの頭も撫でた。少しくすぐったそうに首を縮めて、彼女は私を見た。
「加賀」
「はい」
「私、加賀が旗艦になって良かったって思うの」
 赤城さんはそう言って、ふふっと笑った。
「もう、否定はしません」
 私もそう言って、笑った。
「うはは、ぎこちない笑い方だなあ」
「提督は馬鹿笑いしすぎなんです」
「いいじゃないか、鎮守府は明るい方がいい。一人のモラトリアムは短く、世界のモラトリアムは長いんだからな」
「ですって、加賀」
「……努力します」
 太陽は海に沈んでいった。そうして、世界は夜の闇にそっと落ちていく。闇は大きく柔らかい手で世界を受けとめる。そこには誰がいるだろう。何を思っているんだろう。でも、ゆっくりと眠りにつくときには、穏やかに笑っていたいと思う。私の目の前で笑っている、彼女と同じような笑い方で。

「どうしたの、その頬」
「あんたが心配してくれるのって、珍しいねえ」
 翌日、鎮守府に顔を出すと、北上が頬を腫らしていた。彼女には少し悪いが、二昔前くらいの不細工な女子高生みたい。
「大井っちに思い切り叩かれちゃって」
「大井が? いつもあなたを大事にしているのに、珍しいわね」
「うん、ちょっち喧嘩しちゃった」
 その大井に目を向けると、彼女は駆逐艦とトランプをしていた。目の端が少し赤いのがわかった。
「あんたが鎮守府を飛び出しちゃったときさ、つい、大井っちに言っちゃったんだよ。『別に轟沈しても建造で戻れるじゃん』ってさ。そしたら、問答無用ですよ」
 苦笑で返した。大井がそうした理由がわかるから。でも、それはつい昨日わかったことで、昨日鎮守府を飛び出す前なら、きっと私も北上と同じことを言っていたに違いない。
「『そうしたら勝手に轟沈してなさい! 私は二度と戻ってこない方がいいって提督に言うから!』ってさ。傷つくよねえ」
 そう言いながら、北上は間の抜けた笑い声を漏らした。窓の外には紅葉し始めた楓が見える。風に吹かれてゆらゆらと、しなやかに揺れていた。北上は窓の外に目を向けて、続けた。
「でもさ、ここに戻ってくるのは楽じゃなかったよ。提督から色々聞かされたあとだしね」
 提督も駆逐艦と多いとトランプをしていた。難しそうな顔をしているのは、おそらくばば抜きが大詰めだからだろう。
「あなたも、そうだったの」
「ん、そう。『轟沈』したあとは、みんな聞かされるみたい。でも、あんたも聞かされたんだ」
 やれやれだねえ、と首を振りながら、提督は大井の方に歩き始めた。
「それでも、私はここがいいんだよ。私がここにいることに意味があるんだ。この世界と同じように、この鎮守府にだってほんのかすかな救いがあって、いいじゃん?」
 彼女はそのまま提督の後ろについた。次の瞬間、提督が情けない叫び声を上げて崩れ落ちた。雷が無邪気に喜んでいる姿と対照的に。北上が黙って提督の肩に手をぽんと置いた。大井はその姿を見て笑っていた。

 今日も鎮守府は平和だ。赤城さんがいなくなって、私が旗艦になって、色々なことは変わっていく。窓の外から紅葉が一枚、舞い込んできて、提督の帽子の上に乗っかった。私も提督のところへ行き、その紅葉を手に取った。提督が私を見上げて、少し驚いた顔をする。
「おい、誰がそれを置いたんだ」
「ふふ、誰でしょうね」
 私は笑って、紅葉を窓の外へ帰してあげた。
「素敵な悪戯です」

  ◆

「で、気づいたら紅葉が頭の上に乗っかってたの。ずいぶん素敵な悪戯だって、笑っちゃった」
「え、それってもしかして――」
「心当たりでもあるの?」
「――いえ、やっぱり何でもありません」
「あら、そうなの? さて、こうやってあなたを誘ったのは他でもない、大事な用件なの」
「赤城さんがそこまで言うなら、何でもしましょう」
「それはね――」
「はい」
「新しくできたケーキ屋さんのバイキングに、明日行きたいの!」
「…………はい?」
「しかも、平日のお昼しかやってないし、しかもお一人様だと入れないそうなの。どうしても行きたいんだけど」
「誘う人なら赤城さんならいくらでもいるんじゃ」
「思い切り食べてる姿を見せるのって、ちょっと恥ずかしいじゃない」
「そういう」
「でも、加賀ならきっと私に付き合えると思って、だから、よろしくお願いします!」
「赤城さん」
「はい」
「わかっていると思いますけど、明日は夕方から大事な出撃なんですよ」
「……う、うう」
「しかも、その前に演習もあるんです」
「…………はい」
「だから、行くなら演習をサボって、夕方前に帰るということでどうでしょうか?」
「――加賀!」
「っと、急に抱きつかないでください」
「ああ、加賀、私すごく嬉しい!」
「ケーキを食べられるからでしょう」
「そうよ」
「そうやってはっきり言うのも、あなたずるいです」
「でも、本当にあなた、変わったわね」
「提督に言われた言葉が、なんとなく気になっているだけです」
「『一人のモラトリアムは短く、世界のモラトリアムは長い』」
「まだ、その言葉を入れる場所は見つからないのですけれど」
「私も」
「でも、いい言葉だと思います」
「そうね、私もそう思うわ」

 そうして、彼女は今日も穏やかに笑っていた。

 

 

初出:2014年5月12日