創想話
 


 
 ――雨が降りそうだ。

 私は小さなため息とともにひとりごちた。嗅覚が雪ではなく、雨のにおいを確かに嗅ぎとった。
 身を突き刺すような風が私のそばを通りすぎていく。そこに冬の終わりのにおいもあった。空を見上げると、重い鉛色の空が私を押し潰すように積み重なっている。鉛色、というよりはネズミ色という方が表現としてふさわしいかもしれない。

 雨が降ったら今日の探索はおしまいにしよう、と思った。まだ昼過ぎだったが、これ以上探索する気にならなかった。
 私はダウジングロッドを左右にゆっくり振った。ロッドはゆらゆらと力なく揺られつづけた。

「雨は嫌いだな」

 あぐらをかいて私はつぶやいた。私の目の前をぽつり、ぽつりと水滴が落ちていく。廊下に座る私の目の前には、小さな庭がある。そこに小さな池と数本の桜の木があった。数日前に咲きほこったあとの桜の木が、雨に濡らされていく。
 命蓮寺に雨が降っていた。激しい雨でもなかったが、優しい雨でもなく、しとしととずっと降りつづけている。外は白い雲のせいでぼんやりと薄明るく、寺の中は光が届かない暗さに満ちていた。なんとなく外も中も肌寒かった。

 私の背後から静かな声が響いた。

「雨が嫌いなの?」

 私が振り返ると、暗い寺の中で瞑想していたはずの白蓮がこちらに顔を向けていた。暗くて表情はわからなかった。

「すまない。邪魔したみたいだ」

 私は立ちあがって別のところへ行こうとした。それを見て、白蓮は言った。

「いいのよ、邪魔になんてならないわ。そこにいて」

 私はどうしようかと迷ったが、白蓮の言うとおりに、また座ってあぐらをかいた。ただし、今度は体を白蓮に向けて。白蓮は音もなく立ちあがりながら、私に尋ねた。

「どうして雨が嫌いなの?」
「冷たいからね」私は嘘の答えを返した。「それより、もう修行はいいのかい?」

 表情はわからなかったが、白蓮がくすくすと笑いを漏らす音が聞こえた。

「緑茶がほしくなったのよ。そういうときは少し休憩してもいいって、私は思うの」

 緑茶を淹れてくるわ、と言って白蓮は寺の奥に行ってしまった。
 私はまた体を外に向けて、雨に濡れる庭をぼんやりと眺めた。

 しばらくして、白蓮はお盆に二つの湯呑みと急須を載せて戻ってきた。白蓮は私の隣に腰を下ろし、お盆を自分の横に置いて、緑茶を湯呑みに注ぎながら言った。

「冷たい雨が嫌いだって言ったけど、そうじゃない雨もあるわ」
「知ってるよ」私は急須から流れる緑茶を見つめながら言った。「夏の夕立はそうだ」

 白蓮は私に緑茶の入った湯呑みを渡しながら訊いた。

「じゃあ、夏の雨は好きなのかしら」

 私は湯呑みを受け取り、底に沈んでいく茶葉を眺めた。渋い香りが鼻をつく。

「……嫌いさ」

 白蓮はくすっと笑った。

「じゃあ、どうして嫌いなのかしら?」

 白蓮も自分の湯呑みを手にした。湯呑みから立ちのぼる湯気と黄緑色が、私の目には眩しかった。
 庭にある桜の花びらの一枚が雨に打たれ、木からはがれるようにして地に落ちていった。

「……嫌いなんだ」

 私は湯呑みを口もとに運んだ。

「濡れるから、雨が嫌いなんだ」

 肌になにかの感触があった。それからもう一度、自分の鼻筋に一粒の水滴が落ちてきた。弱々しい感覚だった。
 雨が降りはじめてきたな、と私は気づいた。空中にいると、いくつもの水滴が地面に落ちていくさまを見ることができた。風が吹くと水滴の道筋も変わった。
 私はロッドを下げて左手にまとめた。地面に降りて、林の中の小さな木の下に入った。木を見上げると、枝から雨粒が額に落ちてきた。

 冬の終わりの林は寂しく、葉をつけている木は少ない。風に吹かれて木も弱々しく揺れた。
 雨が地を打つ音が静かに響く。地面が雨に濡れて、独特のにおいを立ちのぼらせる。冬の風がときどきそのにおいをどこか遠くへ吹き消してしまう。

 探索をすることはもうない。でも、帰りたくなかった。
 命蓮寺に帰っても、もう白蓮はそこにいない。

「濡れるのがいやなの?」

 私の隣で白蓮は言った。

「いやなんじゃない」私は緑茶を啜った。「嫌いなんだ」

 桜の花びらがまた一枚地面に落ちていった。べたりと地面に張りついて、じっと雨に打たれつづけている。
 緑茶の熱さが、私の胃から指の先までじわりと伝わっていった。

「桜の花は雨に濡れても色を失ったりしない。それがまた風流だという人もいる」

 白蓮は私の横でゆっくりうなずいた。

「でも、私は花じゃない。服や髪が濡れるとみすぼらしい風体になる」
「だから雨が嫌い?」

 白蓮は少し首をかしげて、私を見つめた。

「だったら、どうしてあなたはそうやって雨を眺めているの?」

 私はその問いに答えられなかった。少しのあいだ、沈黙が続いた。
 白蓮は緑茶をひとくち飲んで、外に目を向けた。その横顔が、外にたたずんでいる桜の木を思わせた。風もないのに、白蓮の髪は柔らかく揺れた。

「私は好きよ、雨」

 白蓮の目はどこか遠くを見つめていた。

「命蓮が逝ってしまった日も、雨だったわ。今でも、昨日のことのように思い出せる」

 そう言って、白蓮は微笑みを浮かべた。
 私はわからなかった。どうして自分の弟を失った日の雨を嫌いにならなかったのか。どうして失った悲しみを見せずに、そういう微笑みを浮かべられるのか。私の理屈では解せなかった。
 白蓮が私に視線を向けた。私は目をそらして、外の桜の木を見た。またひとつ、花びらが落ちていった。

「君とは違うんだ」

 私は低い声で言った。

「私は君のように、強くなんてない」

 雨の日に笑えることなんて、ないと思っていた。

 雨は強くなっていく。地面を打つ雨の音がさっきよりも少し大きくなった。くぼんだ地面には水たまりができて、傾斜のある場所では水が流れを作っていた。心なしか、少し暗くなったような気もする。太陽が傾いているのかもしれない。
 私の体にいくつもの雨粒が落ちてくる。葉のない枝は私を雨から守ってくれない。雨が降ってからずっと、私は冷たい雨を感じてきた。体と髪と服はしっとりと雨に濡れていた。ぽたり、とスカートの端から雫が垂れて、濡れた地面に落ちた。

 寒い。芯から冷え切った体が、細かく震えはじめた。体毛についた水滴をはらうネズミのように、けれど止まることなく震えつづける。
 私は木に体を預け、そのままゆっくりと地面に腰を下ろした。地面の冷たさに少し驚いたが、私の体もすぐ同じように冷たくなった。
 私は脚を曲げ、両腕でひざを抱えた。自分の中に入ってしまうくらいに、ぎゅっと強く両腕に力を込めた。できるだけ、誰にも見つからないくらい小さくなるように。

 いつも、そうだ。太古の昔からずっと、ネズミはそうやって、隅で小さく丸くなることしかできない種族だった。

「あなたは?」
「寅丸の部下の、ナズーリンです」

 私はできるだけ丁寧に、うやうやしく目の前にいる白蓮に頭を下げた。それが見知らぬ場所で生きていくための、いわば私の処世術だった。

「聖さま。どうぞ、寅丸とともに、よろしくお願いします」

 白蓮はおかしそうに笑って言った。

「いいわよ、敬語なんて使わなくても」
「でも、それではあなたに対して失礼だと思いまして」
「いいのよ」

 白蓮はきっぱりと言い切った。「私も普通に話してくれたほうが嬉しいの」
 私はためらった。もし自分の主人が――毘沙門天の代理、自分が監視する人物、要するに寅丸のことなのだけど――この場にいたら、丁寧語を使わないことを許すはずがなかった。
 けれど、私と白蓮の初対面の場に彼女はいなかった。彼女も雲居一輪も、どういう偶然かは知らなかったが、用事か何かで命蓮寺にいなかった。
 どうしようか、私は迷った。そして、少しだけ白蓮を試すことにした。

「……白蓮」

 もし、これで白蓮の反応が良くなければ、あとは何を言われようと私は丁寧語を使うつもりだった。どんなことがあろうと、距離をとるつもりだった。

 白蓮は私の言葉に、ふっと微笑みを見せた。吹き通るような平原に、ひとつだけ満開の花を見せる桜のような笑顔だった。それほどに白蓮の微笑はすてきだった。
 私は自分の心が少しだけ和らぐような気がした。けれど、同時にどこか自分を見下げるような自分自身の視線も感じた。

「もう一度呼んで、ナズーリン」

 白蓮は私をじっと見つめながら言った。

「私の名前を呼んでほしいの」

 白蓮の吸い込まれそうな瞳を、私は直視することができなかった。彼女の首元に視線を向けて、つぶやくように私は彼女の名前を口にした。

「……白蓮」

 白蓮は微妙な角度で首をかしげて言った。

「ねえ、ナズーリン、ひとつ訊いていいかしら?」
「なんだい」
「私には見えない壁があるように感じられるの、あなたに」

 不思議そうな表情で、白蓮は私に近寄ってきた。私は少しだけ後ろにさがった。

「そうかもしれないな」

 そして、からっぽの笑顔を浮かべて、言った。

「それは私がネズミだからだよ」

「強さなんて関係ないわ」

 白蓮は緑茶を飲み乾して言った。私は黙って湯呑みに残った緑茶に視線を落とした。
 白蓮は庭の桜を見た。雨はやむことなく降りつづけている。白蓮の瞳に空の白い雲が映った。

「雨はすべてのものに等しく降りそそぐものよ。花にも石にも土にも」

 そして、白蓮は私を見て花のように笑った。

「それが命の恵みの雨」
「わかってる」と私は言った。「分け隔てない恵みと冷たさが雨にはある」

 私は視線を上に向けた。庭の桜より、空の雲より、さらに上を見上げるとそこに寺の屋根があった。雫が絶え間なくそこから垂れ落ちていく。規則正しい拍を刻みながら。

「だけど、ひとつだけ忘れているよ。人間は雨から逃れようとした」
「それでも」と白蓮は言った。「彼らだって雨が必要なのよ」

 私は息だけで笑った。

「そうだったね」

 私はあぐらを崩して、そろそろと廊下の端に出た。雨に濡れた帯がそこにできていた。私はその濡れた端から両脚を出して、息を胸の奥から吐いて、足を地面につけた。春の雨に濡れた地面は、無情に冷たかった。

「ナズーリン……?」

 白蓮の声が聞こえたが、私は黙って地面に立った。靴下が水を吸い込んで重くなる。
 ひたひたと、あまりきれいではない音を立てて私は庭を歩いた。雨が私をじかに打ちつけた。池のふちまで歩いて、初めて私は白蓮を振り返って言った。

「雨から逃げた人間はネズミを嫌うんだ」

 屋根の下で白蓮が私を見つめている。その顔からは微笑が消えていた。しばらく私も白蓮も何も言わなかった。そのあいだ、雨はずっと私の上に降りつづけ、全身を濡らした。服が私の体に張りついている感触があった。
 私はまた庭を歩いて、桜の木の横で立ち止まり、木を見上げた。散りかけでも、雨に濡れても、美しさはただそこにあった。
 桜の花びらが新しい一枚を地面に落とした。桜の花びらは地面に落ちても、土色の上で新しい彩りを加え、柔らかなにおいを運んできた。
 再び私は白蓮に振り返って、言った。

「私は小さくて、弱くて、哀れなネズミさ」

 笑みの消えた白蓮の顔には、ただ悲しさだけが残っていた。彼女は何かを言おうとしたが、私は首を横に振ってそれを制した。

「憐みなんていらない。もう、十分だ」

 私の目の前を、雨粒とは違う雫が通り過ぎていった。私の髪から垂れた水滴だった。これ以上ないほど私の体は濡れて、なにかが容赦なく私から体温を奪っていった。雨に濡れた体は重くなく、むしろ不思議と軽かった。

「私の理性の奥には、こんな哀れな姿しかない。へんてこな鎧が取れた姿がこれだよ」

 雨が降りつづいている。

「ネズミはそうやって生きてきた。これからもずっと、さ」

 こんな姿を誰も愛さなかった。他人の同情や憐みはあっても、愛おしさを感じたことはなかった。

 雨がやむ気配はまったくなかった。ネズミ色の空はますます暗くなっただけで、雲が薄まることもなかった。私の体はもうずぶ濡れになっていた。髪からも、あごからも水が滴り落ちた。

 私はひざを抱えたまま、また木を見上げた。そのとき、その木が桜だということに気がついた。小さな緑の蕾が枝の先端についていた。あと一、二ヶ月で、この木も花を咲かせるだろう。その花はきっと美しいにちがいない。
 私はそっとダウジングロッドを手にとり、持ちあげてみた。少しだけロッドの先端に集中し、揺れ具合を確かめた。けれど、ロッドは風に揺られるだけで、それ以上何の反応も見せなかった。ロッドの先端からも、雨が滴り落ちた。

 ねえ、白蓮。

 私は心の中で語りかけた。ロッドを地面に置いて、私は立ちあがった。雨がまた少し強くなった。

 ねえ、白蓮。今、君の心はどこにあるんだい?
 あのとき感じた君の思いを、私は今でも覚えている。忘れられないし、忘れたくない。ずっと私の胸の奥で、宝物のように大切にしまってある。それがあれば君とまた会えると思っていた。
 でも、探しているのに見つからない。今までどんなに貴重なものだろうと見つけてきた私にも、見つけられないんだ。探しものは消えるはずがないのに。

 濡れきっている私の頬を、雨とは別の雫が伝い落ちた。それがあごから滴り落ちて、また体を濡らした。

 哀しいんだ、君のいない雨の日が。
 君がいなければ、私はただ、雨に濡れるだけの小さなネズミだ。

 白蓮は裸足で地面に立った。

「なにを――」

 私は戸惑って、それ以上訊けなかった。白蓮は何も答えなかった。
 雨は白蓮に、私と同じように降りそそいだ。彼女の体を、彼女の髪を、彼女の服を雨は濡らしていった。私も白蓮も何も言わず、雨の音の沈黙のまま時間が過ぎていった。

 白蓮は私を見つめていた。そして、ふっと雨の向こうで微笑んだ。

「雨が好きなの」

 その声は静かに、けれどはっきりと私の耳に届いた。言葉にできない含みがそこにあるように私は感じた。
 白蓮の髪は水を含んで、柔らかさを失っていた。服も重みを持って、彼女にすがりつくように垂れていた。それでも彼女の微笑みは、どこにも消えない優しさを持っていた。

「こんなにずぶ濡れの私でも、私だと思える。弱い私でも、自分があると感じられるから」

 胸の中でかたちある何かが私を強い力で押し込んだ。喉から声が漏れそうになった。それを無理やり押さえつけて、私は言葉を口にしようとした。

「でも……」

 それ以上は言葉にならなかった。

 白蓮が私に近寄って、ふわりと私を抱きしめた。私は一瞬、何が起きたか理解できなかった。私の目の前にある白い首筋だけが、強烈に目の奥に焼きついた。
 雨に濡れる桜の木の下で、白蓮は私を抱きしめたまま言った。

「私もあなたと同じよ」

 白蓮の体は私よりも冷たく、そこに体温というものがないように感じられた。けれど、その胸の奥になにかとても熱いものがあるのも、私の体は確かに感じた。
 白蓮は闇の深淵に潜む光に語りかけるように言った。

「好きよ、あなたが」

 私の心臓が一度だけ、私の肋骨を内側から強く叩いた。

「あなたのその姿も、ぜんぶ、好きよ」

 私の胸の奥が震えた。言葉を口にすることができなかった。その震えはもともと言葉になるようなものではなかった。その胸の震えが全身をまわって、私の身体中の五感を白蓮に向かわせた。
 どうすればいいのか、わからなかった。白蓮に言葉を返すこともできなかった。何をしても自分の震えを表現することができないと思った。けれど、今まで感じたことのないこの思いを、白蓮に伝えたかった。

 だから、私はただ、白蓮の冷たい体を精一杯抱きしめた。彼女の中にあるものを二度と手放さないように。私の震えを二度と失わないように。そして、思いと思いが溶けあえるほどの距離に近づけるように。

 あの言葉の奥にあるのは、すべてを平等に扱う気持ちだったのか、それとも本当に私を愛する気持ちだったのか。今でも私は真意をつかめない。どちらでもよかったのかもしれない。理解しているのは、私の胸の奥深くにあるものだけだ。
 ただ、そのとき、私は初めて雨を愛することができると――そう思っていた。
 
 
 


 
 あなたが雨ならば、私は太陽になろう。君をあたため、君の影を映しだす太陽に。

 ―――――――――

 続くかもしれません。

 

初出:2009年10月29日