創想話
 
 


 
 
 今日で私、東風谷早苗は四十歳になった。

 朝、目を覚まして、ああ、朝ごはんを用意しなきゃと、思い、なぜかいい香りが漂う食卓に向かうと、そこにはすでに神奈子様と諏訪子様が座っていて、二人の目の前には豪華な朝ご飯が用意されていて、私は寝ぼけつつ、今日は私の当番じゃなかったかしらと、頭を捻り、「おめでとう、早苗!」、「誕生日おめでとー!」とはしゃぐお二人の言葉で、ようやく私は気づいたのだ。

 ああ、今日は私の誕生日だったんだ。

「まったく気づいていなかったのかい?」

 神奈子様が苦笑いを浮かべながら私のお茶碗に赤飯を盛ってくれた。

「まあ、早苗って今でもときどき抜けてることがあるからねえ」

 諏訪子様は「でも、そこが早苗の可愛いとこなんだよねー」と言いながら、お味噌汁を用意してくれた。

「もう、お二人も少し意地が悪いですよ。こんなこと、秘密にしておくなんて」

 私はこう言いつつも、お二人の優しさに少し胸を打たれていた。

「なんにせよ、早苗の誕生日はおめでたいことさ」
「うんうん、いきなり豪華な朝ご飯も用意したことだしね」
「豪華すぎて、お昼ごはんになっちゃうかもしれないくらいですね」

 くすくすと諏訪子様が笑い、神奈子様は「諏訪子、なに笑ってるんだい」と諏訪子様を軽く叩いた。私も思わず吹き出してしまった。
 それから神奈子様はこほんと、軽く咳払いをして、お酒が少し入った杯を持ち上げ、少し声を張り上げた。

「さあ、改めて、早苗の誕生日を祝おうじゃないか」

 諏訪子様と私はうなずいて杯を持ち上げた。私の杯に入っていたはずのお酒は、こっそりお湯に変えておいた。
 神奈子様と諏訪子様の声が同調した。

「誕生日おめでとう、早苗!」

 私はとびきりの笑顔で応える。

「ありがとうございます」

 私たちは自分の杯のものを飲み干した。

 豪華で美味な朝ご飯はあっという間になくなった。と、言っても、そのほとんどは神奈子様と諏訪子様が食べて、私はやっぱり多くは食べられなかったのだけど。
 それから、私は緑茶を用意して食後のお茶をゆっくり楽しもう、と提案した。そして、私たちは今、すっきりとしたお茶を楽しんでいる。

「そういえば、早苗って何歳になったんだっけ?」

 諏訪子様が不意に訊いてきた。

「四十、ですね」
「そうか、もう四十なったのか」

 神奈子様が私を見つめてしみじみと呟いた。諏訪子様はうんうんと首を縦に振る。神奈子様が身を乗り出してきた。

「四十になった感想はどうだい?」

 一瞬、私の顔が歪みそうになり、それを必死で抑えて、何とかお二人には気づかれないように、ごまかした。
 私は考えるふりをして、虚空を見つめた。少しの間をおいて、ゆっくりと答えた。

「いろいろありましたけど、この歳になってようやく落ち着いてきた気がします」
「そうだよね、こっちに来てからいろいろあったもんね」

 正直な感想は、隠した。今の感想を述べるのが正しくて、孤独――と答えるのは正しくない、たぶん。
 神奈子様と諏訪子様は二人して私の答えにうんうんとうなずいた。私が隠したことに気づかない、そういうところは神奈子様も諏訪子様も、疎い。

「あの巫女とやり合ったことから、早苗が異変を解決したこともあったね」

 諏訪子様が言ったことは懐かしい話だと、思った。確かに、幻想郷に来てから私もいろいろな事件に巻き込まれ、霊夢たちと戦ったり、協力したりした。いろいろな妖怪たちと戦って、ときには命の危険すら味わったこともあった。
 そんな若かったときのことは、今となっては、もう、ない。
 諏訪子様が私の頭を撫でた。私は目を伏せる。

「時が過ぎるのは早いよね。昔はあんなにちっちゃかったのに」

 諏訪子様の言う、「昔」はいつのことなんだろう。ふと、ずうっと昔の世界が頭をよぎって、思わず首を振った。諏訪子様が驚いて私から手を離した。

「ご、ごめん、早苗。そんなに撫でられるのが嫌だった?」
「あ、すみません、諏訪子様、ちょっと鼻がむずむずして、思わず……」

 私はくしゃみをした。神奈子様と諏訪子様は吹き出して、私も一緒になって笑った。
 もう「昔」のことなんて、今まで思い出すこともなかったし、今になって思い出そうとも思わない。もう私は幻想郷のひとなのだ。

「ふふ、この調子だとあっという間に私もおばあちゃんになっちゃいますね」
「何言っているんだい、早苗、まだ四十じゃないか。やることはいっぱいあるよ」

 神奈子様はそう言って、ふと思いついたようにつづけた。

「そういえば、早苗。後継ぎは、どうするんだい?」

 私の作り物の笑いが、消えた。神奈子様たちも私の様子に気付いたらしく、さっきまでの和やかな雰囲気が萎んでいった。私は神奈子様の目を見られなくなって、うつむいた。
 守矢の神社の後継ぎのことは考えないようにしていた。避けられないとはわかっていても、自分を騙してきた。そろそろごまかせなくなってきたのかもしれない。ずっと守谷神社の風祝は、私――ひとりだということを。
 私は何も答えられなかった。気まずい沈黙が流れる。

「あ、あのさ」

 長い沈黙を破ったのは諏訪子様だった。

「早苗にね、誕生日プレゼントを用意しているんだ」

 私は顔を上げた。諏訪子様がほっと、溜息をついた。

「誕生日プレゼント、ですか?」

 諏訪子様は再び満面の笑みを浮かべた。無理をして笑っているようにも、見える。

「そう、とっても不思議なプレゼント」
「不思議な、って、どんなプレゼントなんですか?」
「それは教えられないなー。まあ、ひとつだけ教えられるのは……」

 そして神奈子様を振り返り、「神奈子が用意したんだよね」と言った。神奈子様は「ああ、まあね」と曖昧な返事をしてぷいっとそっぽを向いて、緑茶を飲みほした。諏訪子様はにやにや笑いを浮かべて、また私に視線を戻した。

「博麗神社に行って待ってて。私もあとから行くからさ」

 私はお二人が一体何を用意してくれたのか、さっぱりわからなかった。「不思議な」プレゼントということもひっかかる。プレゼントをひとに渡すとき、「不思議」なんて言葉を使うだろうか。それに、どうして博麗神社に行かなければならないのだろう。
 少し混乱している私に諏訪子様は耳元でそっと囁いた。

「神奈子、恥ずかしいから照れ隠ししてるんだよ」

 神奈子様はずっとこっちを向かないままだった。私は神奈子様の背中を見やった。神様であるはずの神奈子様の後ろ姿は、どうしてか小さく見えた。それは照れ隠しをしているから――じゃないのだろう、きっと。
 ずっと私に笑いかけてくる諏訪子様は、それに気づいているのだろうか?

「あら、来たのね」

 博麗神社の縁側には霊夢が座っていて、緑茶を飲んでいた。いつも見る霊夢と何も変わらない。
 それをわかっていながら、私はあえて訊いた。

「何をしているの?」

 霊夢は私の顔を少し見つめてから答えた。

「お茶を飲んでいるところよ」

 霊夢がまともに答えてくれたことに、少し驚いた。
 私は霊夢の隣に腰かけた。霊夢は黙って立ち上がって、自分のための新しい緑茶と、私のための緑茶を用意してきてくれた。

「……ありがとう」
「私からの誕生日祝い、ということにしておくわ」

 そう言って、霊夢はまた縁側に腰かけてお茶を啜る。私もそれにならって、渋めのお茶を味わった。以前味わったお茶よりも少し渋くなっている気がする。
 ぽつりと、霊夢がつぶやいた。

「あなたも、もう四十なのよね」

 私は、はっとして霊夢を振り返った。どうして霊夢がそれを知っているんだろう。霊夢は笑いも見せずに、「神奈子が言っていたわ」と、答えた。
 その答えに、もしかしたら、という考えが私の頭に浮かんできた。私はもう四十になって、霊夢も、もうすぐそうなるはずだ。少しだけ、賭けてみたい。私の思いをくみとってくれるかもしれない。
 私は霊夢に問いかけた。

「あなたも、もう、四十近い歳じゃないかしら」
「ええ、そうね」

 淡々と答える霊夢。もう少し踏み込んで訊いてみた。

「毎日、どうしているの?」

 霊夢はお茶を啜ってから答えた。

「後継ぎを世話して、緑茶を飲むくらいかしら」
「毎日、そんな感じで暮らしているの?」

 それってすごく寂しいことじゃない? とまでは、訊けなかった。
 霊夢はまたお茶を啜った。

「こんなものじゃない?」

 霊夢はあるとき、突然後継ぎを決めてしまった。それからは異変があっても動くことはほとんどなくなった。ときどき、異変の影響が残ったところの後始末をすることもあるが、その程度。主に異変を解決するのはその後継ぎ、そして魔理沙。
 霊夢も私も、もう異変を解決するようなことはない。異変騒ぎに巻き込まれているうちに、いつの間にか、私は四十になっていた――。

 こんなもの、なのかしら。四十になるってこんなものなのだろうか。
 私は思わず漏らした。

「ねえ、霊夢、これでいいのかしら」

 霊夢は私の目をじっと見つめた。その瞳が私を映し出し、私の瞳を見せる。私と霊夢の姿は似ているようで、まったく違うもののようにも見えた。
 霊夢は私の言葉に応えなかった。私から目をそむけて幻想郷を見渡す。どうして、霊夢は私の問いに何も答えないのだろう――?

「まだ紫は来ないのね」

 ぼそっとつぶやいて、「まあ、この時間だから仕方ないか」とため息をついた。もうすぐ太陽が一番高い所に昇ろうとしている。後から来ると言ったはずの諏訪子様も、まだ来る気配がなかった。

「霊夢、一体何をしようというの?」

 まさか、こんなことを話すためだけに博麗神社に来たわけじゃないと、思う。霊夢は私の問いかけに手を振って答えた。

「それは私の口から言えないことになっているわ。これも神奈子から言われたことよ。ただ……」

 遠くから「霊夢様ー!」と、少女の声が聞こえた。霊夢は立ち上がりながら言った。

「とても不思議な贈りものだと思うわ」

 諏訪子様と同じ言い回しを使った。不思議な――。

「霊夢様!」

 神社の表側から現れたのはまだ小さな少女だった。十歳になったかならないか、それくらいの見た目だ。霊夢はその子のところに歩み寄り、優しく頭を撫でた。

「境内の掃除、終わりました」
「そう、ありがとう。じゃあ、そろそろご飯の準備でもしましょうか」
「私がやります!」
「あとちょっと盛り付けするだけよ。私だけで充分。それより、客人とお話でもしてなさい」

 そこで、初めて少女は私の存在に気がついたらしい。ぺこり、とあわてて私に頭を下げる。

「博麗神社にいらっしゃいませ。ええと……」

 少女は私の名前がわからなくて困っているらしい。私もこの少女に会ったのは初めてだ。
 霊夢が口を開く前に私から名前を告げることにした。

「東風谷早苗、です」
「早苗って、あの早苗様ですか?」

 少女は私の名前に驚き、興奮しているようだ。霊夢は落ち着きはらって少女に言った。

「そうよ、あの早苗。いろいろ話でも聞いておきなさい。私は厨房に行くから」

 それから、私に振り向いた。

「早苗、ちょっと私の子のこと、見ていてくれないかしら。頼んだわ」

「私の子」という言葉に、少しだけ私の身体が震えた。
 霊夢は神社の中に入っていった。縁側に、私と少女だけが残った。
 とても初々しい巫女のように見える。あの頃の霊夢に比べて、どこかあか抜けてないところがあって、それがまたいいのかもしれない。
 少女は私の目の前に立った。

「霊夢様からお話は聞いてます。いくつもの異変を霊夢様と一緒に解決したとか。すごいです、私の憧れです!」

 目をきらきらさせながら私を見つめる。
 そうよ、昔の私はいろいろとやっていた。でもね、今の私は、あなたに憧れを持たれるほどじゃない――そんなことを、霊夢の後継ぎに言えるはずもない。
 私は、少女に「ありがとう」と返して、「でも」と、つづけた。

「そういうあなたも、もう異変を解決するくらいの力はあるんじゃない? 実際に、いくつかは解決したっていう話を聞いたけれど」

 少女は肩をすくめて、首を横に振った。

「霊夢様や早苗様に比べればまだまだです。一日じゃぜんぜん解決できないし、ときどき霊夢様にも迷惑かけちゃうし。もっともっと修行しないと」

 ずいぶん真面目な巫女だ。その努力が報われるといいなと、思う。

「修行は霊夢がやらせているの?」
「はい。霊夢様、結構厳しいんですよ」

 あの霊夢が、厳しい修業をやらせている――かなり驚いた。霊夢自身は「面倒臭いから」と、修行なんてまったくしなかったのに。

「そうですね、最近では新しいスペルを教えてもらいました。『封魔陣』というんですけど、これがなかなか難しくて……」

 少女は喜々として私にいろいろ話した。そんな様子がたまらなく、懐かしい。
 しばらく話していると、遠くで空を切る音が耳に入った。

「よっ、お前たち、なにしてるんだ?」

 空から何者かがが箒に乗って舞い降りてきた。少女はその気配に一瞬、顔を輝かせたが、その人物が魔理沙だとわかって深いため息をついた。

「なんだ、魔理沙さんですか。久しぶりの参拝客だと思ったのになあ」
「何言ってるんだ、私も立派な参拝客だぜ?」
「そんなこと言って、一度もお賽銭を入れたこと、ないじゃないですか」
「神社に来ること自体に意味があるんだ」

 文句ありげに頬を膨らます少女を無視して、魔理沙は箒から降りて「早苗がいるなんて珍しいじゃないか」と私に話しかけてきた。

「私に不思議な贈りものがあるって、神奈子様と諏訪子様に言われてきたのよ」
「ふうん、それがここにあるってことなのか?」

 私は肩をすくめて、「さあ」と答えた。魔理沙は首を捻った。

「すごいマジックアイテムだったら、無期限で借りるけどな……神奈子たちが用意したもんだしなあ」

 ううむ、と唸る魔理沙を私は眺める。歳をとっても、魔理沙はあまり変わった印象がない。顔のハリも失われ、少しずつ体の動きがぎこちなくなってしまった今でも、魔理沙は魔女だ。

 だいぶ前に霖之助さんに聞いた話では、魔理沙の縁談の話が度々あったらしい。そのほとんどを霖之助さんが魔理沙に伝えることもなく断っていたのだが、一度だけ、魔理沙に訊いてみたことがあったそうだ。
 そのとき、魔理沙は「結婚はしないぜ。縛られるのが嫌だからな」と、あっさり切り捨てた。

「断られるとはわかってたさ。僕が何年魔理沙を見ていると思っているんだい?」

 買い物に来た私に、霖之助さんは言った。

「結婚をしないのも自由だ。自分の人生だということを、魔理沙も少しはわかってきたんだろう」

 霖之助さんの言う通りだ。結婚をしないのも一つの選択で、どれが正しいなんていうことはない。そして、魔理沙は結婚をしないことを、私と同じ道を選んだ。

「魔理沙さん、せっかくなので、私の新しい弾幕の練習に付き合ってくれませんか?」

 少女が魔理沙のところへ駆け寄った。魔理沙は私から目を離し、少女を振り返る。

「おっ、今度は私を倒せそうなやつなんだろうな?」
「ええ、もうばっちりですよ。引退寸前のあなたには負けませんから」

 少女は自信満々に答える。まだまだ頼りなさそうだけど、活力にあふれていた。
 魔理沙が笑った。

「引退寸前じゃないぜ。ずっと私は現役さ」

 魔理沙は再び箒に乗った。その顔は初めて出会ったときと同じだった。
 少女も針を取り出した。

「さあ、来るなら来なよ」
「怪我はしないでくださいよ」

 そうして神社の裏での弾幕勝負が始まった。
 私は縁側からその様子を見ていた。ふと、気配を感じて後ろを振り向くと、そこには霊夢が呆れた顔で立っていた。

「昼ご飯の準備ができたと思ったら……まったく、勝負するなら結界を張る時間くらい欲しいわ」

 そう言いながら、くすくすと霊夢は笑いを漏らして、私の隣に座り、二人の勝負を眺めていた。
 霊夢を、魔理沙を交互に見て、さっき私が感じたことは勘違いだと気づいた。霊夢が、魔理沙が、うらやましい――同じ四十を迎えても、私と霊夢、私と魔理沙はまったく違う。
 ただの寂しい四十なのだ、私は。

「はぁー、食べた食べた」
「なんであんたがこの子より食べてるのよ、いい歳しておいて」
「勝負に勝ったんだから、これくらいはいいだろう?」

 勝負は魔理沙の勝利に終わり、そのあと私たちは霊夢が用意した食事を終えたところだった。

「はあ、今回は勝てると思ったのに」

 少女はがっくりと肩を落とした。魔理沙の星弾にうっかり当たってしまった、ということらしい。
 食後のお茶を啜りながら、魔理沙が応えた。

「詰めが甘かったな」

 それから、「まあ、発想自体は良かったけどな」と、呟いた。その言葉に少女の目がきらめいた。

「本当ですか、じゃあ、もっと頑張ろう!」
「頑張れよ、少年」

 ぶっきらぼうに魔理沙は言った。その顔がにやついていたのに気がついたのは、私だけらしい。
 かた、と外で音がした。霊夢がそちらに首を向け、「なにかしら」と、様子を見に行った。

「参拝客ですかね」
「まさか」

 すぐに霊夢は帰ってきた。そして、私に向かって手まねきをする。

「早苗、こっちに来て」

 その「こっち」というのは博霊神社の表側だ。それが何を意味しているのか、私には大体の予想がついた。
 魔理沙が不思議そうな顔をする。霊夢は魔理沙を見て、顎で少女をしゃくった。

「魔理沙、私の子のこと、頼むわ」

 魔理沙は霊夢の顔を見て、それからしばらく私を見て、ゆっくりとうなずいた。そして、「どういうことですか、魔理沙さん」という少女を「とりあえず、キノコの採集手伝ってくれよ」と、連れて行った。
 魔理沙と少女が裏から出ていったのを確認して、私は立ち上がった。
 私は、霊夢がどうしてこうしたか、わからなかった。ただ、霊夢はこう言うだけだった。

「私とあなたの二人だけのほうが、いいでしょう」

 神社の表の石畳に八雲紫が立っていた。そして、諏訪子様も。紫が大きな欠伸をして、霊夢は眉をひそめた。

「紫、さすがに遅いんじゃない?」
「すまないわね。ちょっと体がついていかなくて、こんな時間になっちゃったわ」

 あまり悪びれた様子を見せているわけでもない。霊夢はため息を吐いた。

「まあ、いいわ、まだお昼過ぎくらいだから」

 そして諏訪子様に「じゃあ、言ってちょうだい」とうながす。諏訪子様はえへん、とひとつ咳払いをして、明るい声で宣言した。

「早苗への誕生日プレゼントは、昔の世界へ帰ることだー!」

 私は思わず「え?」と言ってしまった。諏訪子様が突然おかしくなったのではないかとも、考えた。

「なんだい、早苗。そんな首をひねられても困るよ」
「いえ、何を言っているのかよくわからなかったものですから」
「だから、幻想郷に来る前の世界に、今日だけ帰ってみないかい、ということさ」

 そう言って、諏訪子様は紫を見やった。紫が諏訪子様のあとにつづく。

「そういうことで、境界を操る私がお呼ばれしたわけよ」

 霊夢が大きなため息をついて、苦笑する。

「正直、私の準備は紫を起こすことだけだったんだけどね、なにしろ、強情だから」

 そこでようやく「不思議な贈りもの」という言葉の真意がわかった。確かに普通の贈りものではなくて、それこそ、霊夢や紫に頼まずにこんなことが実現できたとは思えない。
 けれど、「素敵な贈りもの」と言わなかったのは、神奈子様も諏訪子様も私の気持ちに、ある程度は気づいているのだ。
 喜んでいいのかどうか、わからない。神奈子様や諏訪子様の気持ちは嬉しいけど、私自身がこの贈りものを「素敵だ」と、言えるかどうかわからない。
 諏訪子様は紫と私を交互に見た。

「さて、あとは早苗がスキマに入ってもらうだけだね。準備はいいかい?」
「ええ、この身ひとつあれば問題ないでしょう」

 私がうなずくのを確認して、紫が指で、虚空に垂直な直線を引く。すると、そこに裂け目が生まれ、真っ暗な空間への入り口を開いた。紫がスキマを使うのは初めて見た。

「ここが、あなたがいた世界への入口。夕方過ぎまでには戻ってきてちょうだい。その頃に、あなたが出た場所に私がいるから」

 紫はそう言って、スキマの横に立つ。私はスキマの前まで歩き、そこで止まった。
 どうしても私が過去にいた世界に戻るのが、ためらわれる。霊夢が私の様子を不審に思ったらしい。

「どうしたの、早苗」

 私は振り返りもせず、応えもしなかった。私の代わりに諏訪子様が「まあまあ」と取りなしてくれた。そして、ゆっくりと「早苗」と私の名前を呼んでくれた。
 私が振り返ると、諏訪子様は優しく笑って、言った。

「行きなよ、私たち、ここで待ってるからさ」

 私は諏訪子様に、微笑み返した。

「はい、必ず、戻ってきます」

 そうして私はもう一度スキマへと視線を向け、ゆっくりと足を踏み出していった。

 真っ暗な空間をただ歩きつづけた。不思議と迷いもなく、歩ける。そうしているうちに、光が遠くに見えてきた――光の向こう側が、私のいた世界だ。白い光が私を包み、世界が真っ白になり、また少しずつ周囲が見えるようになってきた。
 そして世界がくっきりと見えるようになって、私は呆然と立ち尽くした。

 緑の木々に囲まれて、不自然にぽつんと大きく空いた空間――私たちの神社があった、場所だった。
 私たちが残してきた、静寂に包まれるその空虚な地に、私はただ立ち尽くすだけだった。

 私のいた世界――現代は変わりつつあった。

 私が小さいころ遊んでいた公園はなくなり、マンションが立っていた。空地は駐車場になっていた。おばあちゃんがやっていた小さな駄菓子屋は、シャッターが閉まっていた。
 ただ、小さいころから知っていたものが、すべてなくなってしまったわけではない。私が神社に通うときいつも見ていた信用銀行は、あいかわらずそのままだったし、誰のだかよくわからない小さな畑も、荒れたまま、ずっと昔から変わっていない。子供が落ちたら危ないと思うドブ川も変わらず、弱々しいフェンスが立っているだけだった。
 だから、変わりつつある、と言うしかない。私が高校生のときに幻想郷に入って、もう二十年以上も幻想郷で暮らしてきた。変わっていて当然だ。
 でも、そのなかに変わらないものがあるから、よりいっそう二十年と言う年月を感じられて、寂しくなる。

「四十になってしまったんだ」――四十になった感想だった。

 現代の街を歩いていて、私はふと違和感を覚えた。歩いていてもしっくりこない。何がおかしいのだろうと、自分の身体を見ると、私はいつもの巫女服を着ていなかった。代わりに、今、私のそばを通りすぎた中年の女性のような、そんな服装になっていた。
 半ば驚き、半ば納得した。ずっと現代で暮らしていたら、私もこんな服装で出かけたんだろうな、そんな想像通りの服装だった。

 遠くで電車が走っていく音がした。ふと、この世界には戻らないほうがよかったんじゃないかと、そういう思いが私の胸を衝く。
 あのときの「私」はただ必死で神奈子様たちに尽くそうとしていた。だから、この世界を捨てても幻想郷へ行くのが正しいことだと、風祝としての使命だと、思っていた。
「私」は、私は、現代を捨てた。
 今になってこうして戻ることが、過去の「私」と、今の私と向き合わた。そのなかでひとつ見えるものは、先細っていく人生を歩き続ける、私だった。
 それでも私の足は止まらない。私の孤独をまるで理解しないかのように、ずっとある場所に向かっていく。
 もしかしたら、私は現代に来たことを後悔しているのと同時に、期待をしているのかもしれない。

 最後に辿り着いた場所が、私の家なのだとしても――。

 私の家は何も変わっていなかった。古びたポスト、家の前に植えられている椿、南に大きく開いた窓。私が幻想郷に行く日、見たままの姿で立っていた。そして、表札にもあの日と同じ文字が刻まれていた。
 私の父の名前、私の母の名前、そして私の名前――「東風谷早苗」。
 私はその文字をゆっくりと指でなぞっていく。ふいに涙が出そうになって、あわてて表紙から手を離し、すうと、息を吐いた。
 表札の下にあるインターホンのボタンを、少しためらってから押した。ぴんぽーんという音が、やけに大きく耳に響いた。

 ――ずっと、ずうっと、私は待っていた。

 インターホンからの返事はない。それでも、私はそこから去らなかった。少しして、玄関のドアがゆっくりと開いて、私の母が姿を見せた。

「お帰り、早苗」
「……ただいま、お母さん」

 四十と七十の対面に、私は何を期待していたのだろう――?

 家の中は、私がいたときよりも、ものが減っていて寂しくなっていた。歳を取ると捨てられないものが多くなると言われているけど、そんなことはないのかもしれない。
 あるいは、失うものが少なくなっても、得るものはそれより少ない、ということなのだろうか。
 私の母は、私よりもずっと背が小さくなって、歩くのもときどきおぼつかないときもある。緑茶を用意するときも、「私が淹れようか」と私が言っても、「いいの、だいじょうぶ」と自分で運んできて、危うく転びそうになった。椅子に座るときも、「よいしょ」と、かなり大変そうだった。
 母は私より三十年多く生きている。だから、今は七十歳――体が弱ってきていても、あたりまえだ。

「随分とひさしぶりだけど、あなたの元気そうな顔を見られて、なによりね」

 母は嬉しそうに、はずんだ声で、言った。その目元の皺は、もう数え切れないくらいに、ある。

「どう? 神様とはうまくやっているの?」
「うん、二人とも私に優しくしてくれるし、最近では信仰心もある程度取り戻してきたわ。むこうのひとたちにはもともと信仰心があったから、この世界で信仰を取り戻すよりは、ずっと簡単なのよ」

 私は淡々と答えた。

「そうなの」

 母はほっと安心したようなため息をして、それからまた、はっと息をのんで訊いてくる。

「むこうのひとたちは、早苗に優しくしてくれてる? 意地悪されたりしてない?」

 ちらりと霊夢と魔理沙の顔が頭に浮かんで、あれは違うか、とすぐに振り払った。

「むこうのひとたちはすごく優しいの。信仰心を集めてからは、優しすぎるんじゃないかなっていうくらい」
「食事は? ちゃんとバランスよく食べてる?」
「うん、神奈子様たちと交代で作ってるけど、だいじょうぶ」

 それから、母はいろんなことを訊いてきた。「神社の建物は大丈夫?」「ちゃんと掃除はしているの?」「お金の心配はないの?」――。
 私はいちいちその質問に答えていたが、だんだんうんざりしてきた。母は、心配しすぎだ。もしかしたら、私がずっと高校生のままでいると勘違いしているのかもしれない、というくらいに。
 そして、「結婚はどうしたの?」という言葉で、私はついに立ち上がって、言った。母が目を見開いて驚いた顔を見せる。

「もう、そんなにいろいろ訊かなくてもいいわ。私も、もう四十歳なんだから」

 ――四十。

「自分のことは自分で管理できる歳に、もうなったのよ。食事とか洗濯とか掃除とか、もう全部できるようになったの。ほんとうは私ひとりでだって大丈夫なくらい」

 ――四十。

「信仰心だってもう十分すぎるくらい集まった。私も神奈子様と諏訪子様のために、いろいろやってきた。今では神奈子様も諏訪子様も満足して暮らしているわ」

 ――四十。

「私も風祝としての使命は十分果たしたと思ってる。あとは私が生きたいように生きるつもりよ」

 ――四十。

 なんて寂しい、四十なのだろう。なんて孤独な、四十なのだろう。言葉を口にすればするほど、それを自覚して、体で感じてしまう。
 私が風祝としての使命を果たしてしまったら、もう、あとには何もない。そこに、夢を失って、孤独な四十の女が立っているだけだ。
 私が今まで残してきた「もの」は――ただの空虚感しかなかった。

 もう言えることがなくなって、私は席に座り直して緑茶を啜る。渋さが舌に残って、思わず顔をしかめ、それをごまかすために母に訊いた。

「お母さん、お父さんはどうしてるの?」

 母は少し気を取り直したところで答えた。

「もうお仕事は退職して、今は趣味を楽しんでいるみたい。私にはよくわからないけれど」

 だから、そういうところが、私と違う。

「そう。じゃあ、今はそれでいないってこと?」
「お昼くらいに出かけるって言ってたから。たぶんそういうことだと思うわ」
「怪我とか、してない? 階段で転んだりしたこと、ない?」

 私の質問は笑って、かわされた。

「そんなの、早苗が心配することじゃないわ」

 たぶん階段で転んだことがあるんだろう。母の微笑みと言葉は、確かにそう言っているように聞こえた。
「まったく、もう、気をつけてよ」と言いかけて、やめた。四十の私が言えたことではないのだ、おそらく。それでも、私なんかより、母のほうがずっと……心配だ。
 私は黙ってまたお茶を啜った。

 長い、長い沈黙が私と母を包み込んだ。私の四十の自覚を、母の七十の重さを味わうには十分すぎるほど、長い沈黙だった。現代では、こういうのを何というのだろう。「すれ違い」かもしれないし、「ギャップ」かもしれないけど、それはいまいちしっくりこない。もっとぴったりな言葉が、必ずある。
 そう、母が見ているのは私ではなくて、「私」なのだから――。

 長い沈黙を破ったのは、母だった。

「ねえ、早苗、あなたは覚えてる? あなたが神奈子様たちについていくって言った日のこと」

 覚えていないわけがない。何を言いだすのだろうと、私は思った。
 母の微笑みからは、今度は何もわからなかった。突然の昔話は歳を取った人たちにはよくあることだから、もしかしたら私の母もそうなのかもしれない。老人の、たわごと?
 私は何も応えなかった。

「私は、今でも覚えてるわ。必死な目をして、必死に私たちに訴えかけてきたあの言葉。神奈子様たちについていくって、きっぱりと言い切ってた……」

 母の言うとおりだった。あのときの私は、誰の意見も聞き入れていなかったような気がする。

 神奈子様たちは、もはや信仰が失われつつあるこの世界から、幻想郷という「新しい」世界に旅立つと、まだ高校生だった私に告げた。
 私を連れていくつもりはない、ということも。
 強烈なショックだった。神奈子様たちがこの世界から消えてしまうこともだったが、何より、私を連れていってくれないことが。神奈子様たちに仕える立場の私が、神奈子様たちだけ行かせていいとは、まったく思っていなかった。
 だから、その話が終わるやいなや、私は「私も神奈子様たちに同行します」と言った。当然、神奈子様たちは戸惑い、そして反対した。向こうで何があるかわからない、危険な場所かもしれない、信仰が集まるかもわからない――そんな感じのことを言っていた。

「神奈子様たちの反対を受けても、あなたは諦めなかった。思えば、あの頃のあなたも、一途だったのね」

 あのときの私は、風祝としての役目がいちばん重要だと考えていた。
 高校生だから学校には通うし、学校に友だちもいたけれど、それよりも神奈子様と諏訪子様に仕えることが大切なんだ、そう思っていた。

「それで、ある日、私たちにいきなり『私、この世界からべつの世界に行きます』って宣言するんだもの。あまりに突然すぎて、反対するというより、『はあ』としか答えられなかったわ」

 そう、ずっと反対する神奈子様たちを何とかするために、先に私の父と母に私の決意を話したのだ。両親が「いい」と言ってしまえば、神奈子様たちも納得するだろうと考えていた。
 実際、父と母は私の決心を理解してくれたし、神奈子様たちはそれで動いたのだった。

 母はふふっと笑いを漏らした。思い出話にひたる七十はこういうものなのだろう。幸せそうで、少し寂しそうだった。
 私は、笑えなかった。過去の私は本当に一途だった――それこそ、今の私と正反対なくらいに。
 母は、私の顔を見つめた。

「あなたが私たちに決意を告げたあとの深夜、神奈子様たちが私たちのもとに来たのよ」
「……え?」

 母の話は、ただの思い出話ではなかった。

 私が私の決意を両親に告げ、神奈子様たちにもそのことを言った夜だった。私はもうとっくに寝ていて、両親が二人で私のことをずっと話していたところに、神奈子様と諏訪子様がどこからともなく現れた。

「あなたから話は聞いていたんだけど、それまで見えたことがなかったから、すごく驚いたわ」

 神様がいきなり二人も現れて、父と母はあわてて正座して、頭を下げた。神奈子様と諏訪子様は「頭を上げてほしい」ととりなした。「頼みごとは私たちがしなければいけない」とも、言った。
 顔を上げて、母は二人が突然現れたときよりも驚いた。神奈子様が、哀しそうな目をしていたのだ――。

「今にも泣きそうなくらいに、哀しい目でね……」

 神奈子様は「早苗の決意を、聞いたのか」と訊いた。父が「ええ、あの子は神奈子様と諏訪子様についていくと、決意は固いようです」と答えた。
 その言葉を聞いて、神奈子様が、頭を下げた。床に擦り付けるように深く頭を下げた。

 普通の人間に、神様が土下座をする――それがどれほどのものか、私は痛いほどわかった。
 神奈子様が今まで頭を下げた人間は、おそらく私の父と母だけなのだろう。

 諏訪子様は、神奈子様の土下座に戸惑い、「やめなよ、神奈子」と神奈子様の頭を上げさせようとした。それでも神奈子様は起き上がらなかった。

「諏訪子、あんたなら、わかるだろう?」

 諏訪子様はその言葉に、ビクリと反応した。

「私は、早苗の本当の家族じゃない。あなたたちから、本当の家族から娘を連れ去ってしまうような神様でしかない。それでも……私たちの家族でもある早苗を、私たちに任せてくれないだろうか」

 その様子を見た諏訪子様も、同じように頭を下げた。母たちはどうしていいかわからず、ただ、「おやめください」としか言えなった。頭を下げるほどのことでもない、むしろお世話になるのは自分たちなのだから――そんな思いを母たちは抱えていたのだろう。
 それでも、神奈子様はずっと頭を上げなかった。そして、震える声でつづけた。

「私は早苗の将来さえも奪ってしまう。信仰心が集まったとしても、それで風祝の使命はほとんど終わってしまう。いつか、早苗もそれに気づいてしまう」

 だから、お願いしたいのだ――。

 母は深いため息をついた。

「それが神奈子様が頭を下げる本当の理由なんだと、私が気づいたのは……早苗、向こうから戻ってきたあなたと会った、今なのよ」

 神奈子様は父と母に二つの約束をした。ひとつは、私を立派な巫女に育てること。そしてもうひとつは――。

「いつか、必ず早苗とあなたたちを再会させる」

 私が現代を懐かしく思ったときに会わせるわけではない。いつか風祝としての使命をほとんど終える私を、夢をなくしてしまう私を、両親に会わせることで、私が何か新しい希望を見つけだしてくれるかもしれない。
 神奈子様にとっては、私の両親が最後の切り札だった。

「あなたたちを利用するような、罪深い私を、許してくれるだろうか」

 母は、ため息をつきながら笑う。その瞳がじっと私を見据えていた。

「正直なところ、神奈子様の考えすぎだと思っていたわ」

 風祝としての使命は神がいる限り永遠につづくものだから、夢をなくしてしまうなんてありえない。あのときの私も、そうだと思っていた。父も、「私たちの早苗はだいじょうぶですよ」と、神奈子様たちをなんとかなだめようとしていた。
 両親は神奈子様の約束を了解して、最後には何とか神奈子様も頭を上げた。諏訪子様は神奈子様の身体を支え、「お父さんとお母さんが言うとおり、早苗はそんなに弱い子じゃないよ」と、慰めた。
 父と母は私のことをお願いする、迷惑をかけるかもしれないが、お願いする。そんなことを言った。神奈子様は深くうなずいて、父と母の前から姿を消した。次の日、私と神奈子様たちは、幻想郷へ旅立った。
 両親の前から消える直前に、ぽつりと呟いた神奈子様の言葉を、母は今でもずっと覚えているという。

「情けない神様だな……。いちばん信仰心の深いはずのひとを、いちばん不幸にしてしまうのだから……」

「ねえ、早苗」

 黙りこくっている私に、母が話しかけてきた。

「私たち、実はまだ、ちゃんと神奈子様に言ってないことがあったの。神奈子様たちに伝えてくれるかしら」

 私は湯呑に手をつけ、「何?」と訊いた。もう、とっくに渋い緑茶は冷めている。それでも、お茶を飲まずにはいられなかった。お茶の渋みが、おいしい。

「私たち、早苗のことをいちばんに考えてくれる神奈子様と諏訪子様を、とても優しい神様を、ずうっと許しています、感謝しています、って」

 母の目も、とても優しかった。
 母は――優しい。あたりまえすぎて気づけなかった昔、孤独の中で生きていて気づけなかった最近、それすら乗り越えて、母は私の心に気がついた。
 私はまぶたを閉じた。母の顔が、父の顔が、諏訪子様の顔が、神奈子様の顔が浮かんでは消えていった。そして、無邪気に笑っていたあの頃の「私」が――いや、私が、泣き笑いの顔を見せた。
 まぶたを開けて、私はゆっくりとうなずいて、言った。

「伝えておくわ、必ず」

 母は微笑んだ。

 太陽が空を茜色に染める。私は「お茶、ごちそうさまでした」と言って、席を立った。幻想郷に帰らなければならない時間がやってくる。
 八雲紫との約束は、夕方までにあの神社の跡地に戻らなければならないことだ。そして、諏訪子様との約束も守らなければ。
 私は幻想郷に帰らないといけない。

「もうすぐ帰る時間?」
「うん、約束なのよ。私をここまで届けてくれたひととの」

 母は少し寂しそうに笑う。それでも、もうそこには悲しみが見えなかった。

「そのひとにもお礼を言っておくのよ」
「言っておくわ」

 私も笑顔を見せて、玄関から外へ出た。
 外が夕日で真っ赤に照らされている。母の姿も、私の家も真っ赤になって、それがとても愛おしく思えた。
 神社へ行く道の途中まで、母は見送りに来てくれた。そして、川の橋で、私は別れを告げようとした。

「それじゃあ」

 そう言って、行こうとする私を母が引きとめた。

「早苗、ちょっと」

 私は母を振り返った。

「少し、待ってちょうだい」
「何?」

 私が訊くと、母は優しく笑った。

「もうすぐ、あなたがもうひとつ見たいものを、見ることができるわ」

 そう母が言ったとき、遠くから影が近づいてきた。夕日を背にしているのでそれが何だか、よく見えない。
 でも、それが何であるか、私にはわかった。自信もあった。それはきっと、私が望んでいたものだ。
 人影が、だんだんとその姿をはっきりと私に見せた。ゆっくりと私に近づき、そして、そのまま私の横を通り過ぎようとしていく。
 それなのに、私は何も言えない。言いたいことは、山ほどある。けれど、今の私は喉にこみ上げるものを抑えるので精一杯だった。
 人影が、そっと私の肩に手を置いて、しわがれた声で囁いた。

「お帰り、早苗」

 そして人影は私の肩から手を離し、背を向けて私から遠ざかっていく。背中から、私のすべてを受け容れてくれるような温もりが伝わった。

 とても小さな奇跡、でも、それは母にしか起こせない奇跡。
 熱いものが頬を伝わり、落ちていった。――ぜんぜん、我慢できない。

「おとうさん……」

 私は後ろを振り返った。父は私に背中を見せたまま、手を振る。その背中は、昔より小さくなっているけれど、頼りになるような、そんな背中だった。
 母が私に笑いかけた。しわしわの顔で。

「私もこれくらいの奇跡は起こせるのよ。だって、私はあなたの、母親なんだから」
「おかあさん……」

 私の目からとめどなく溢れる涙を、拭いはしなかった。この奇跡を、ずっと目にとどめておきたかった。父親の姿が見えなくなるまで、私は涙を隠さなかった。
 母の笑顔、父の後ろ姿。こんなにも強いつながりが、私たちにはある。私はずっとひとりなんかじゃなくて、ずっとつながっていたんだ。これが、家族――。

「だいじょうぶ、私たちはずっとここにいるから……」
「うん……うん……」

 母が私を抱きしめた。昔ほど強い力はないけれど、私を包み込んでくれる抱擁だった。私も母を抱きしめた。母よりも、ずっと強く。それが、私の母に向けての、精一杯のお返しだった。
 私の涙がおさまって、私たちは腕をはなした。もう、本当に行かなくてはいけない。

「諏訪子様にね、約束したの。必ず、幻想郷に戻るって」

 黙って、母はうなずいた。その優しい笑顔は、いつまでも変わらないまま。
 私は、神社のあった場所に向かって歩き出した。後ろを向くと、母はずっと手を振っていた。

「いってらっしゃい、早苗」
「うん……、じゃあね、おかあさん、おとうさん」

 そして、あとは後ろも振り返らず、歩きつづけた。二度と会えないかもしれないと、わかっていて。
 夕日に染まった家と、おとうさんとおかあさんと、私は再び別れを交わした。

「楽しんできた?」

 八雲紫があくび交じりに訊いてきた。

「ええ、とっても」

 夕方には間に合った。守谷神社があった場所に、八雲紫だけが立っていた。傘を手に持っているのに、それを差すことなく、夕日に目を向けて、「きれいな夕日」とつぶやいた。
 母の言葉を思い出して、私は頭を下げた。

「……ありがとうございました」

「何、藪から棒に」と、紫が私に振り向く。

「私がここにこうして戻ってこれたのは、あなたのおかげです」

 紫は少しの間、ぽかんと口を開けていたが、やがてくすくすと笑いだした。

「そんなこと? 私はあなたに礼を言われる筋合いはないわ。これは霊夢に頼まれただけのことよ。それに」

 私から目をそらして、紫はつづけた。

「これは私の好奇心よ。現代から来た人間が、現代に戻ってどうするかって、そんな疑問を満たすためだけの、好奇心」

 そして彼女は妖怪らしく笑った。私は、それがあたりまえのことだと、思う。
 そう思うところが、私が幻想郷のひとなんだということなんだろう。

「それでも、私はあなたにお礼を言いたいのです。……本当に、ありがとうございます」

 紫はしばらく愉快そうに笑って、それから息を整えて、言った。

「さあ、戻りましょう、私たちの楽園に」

 そして、また指で空をなぞり、スキマを開いた。そこを通れば、幻想郷に行ける。
 でも、私は紫に「少し待ってください」と、頼んだ。

「何? ここに未練でもあるの?」
「いえ……ただ、この景色をもういちど眺めておきたいと思って」

 なにもなくなってしまったこの場所、小さな頃に行った場所、私たちの家――ここは、私が捨てた「幻想現代」ではなくて、もうひとつの帰る場所なのだ。ずっと、私とつながっている場所なのだ。
 いつか、もういちどここに帰ってくる。私がおばあちゃんになって、もう私の父と母が死んでしまっていても、また私はここに帰ってくる。そんな気がするし、そうすると、私は誓った。
 私は紫を振り返った。

「もう、だいじょうぶです」
「そう……じゃあ、行きましょうか」

 紫がスキマの横に立った。私はスキマの中に、足を踏み入れた。
 幻想郷に帰ったら、神奈子様たちに伝えたいことがある。母親の言葉と、もうひとつ、私の決意を。

 私は守谷神社に帰ってきた。

「お帰り、早苗」

 最初に迎えてくれたのは諏訪子様だった。諏訪子様との約束はしっかり守った、はずだ。
 神奈子様は、諏訪子様の後ろでちらりと私を見ただけで、中に入ろうとした。私は神奈子様に思いきり呼びかけた。

「神奈子様」

 神奈子様がビクリを体を震わせて、気まずそうな顔で私と向き合った。それから、こほんと咳払いをしてから言った。

「お帰り、早苗。プレゼントは、どうだった?」

 私はそんな神奈子様と後ろで吹きだしそうになっている諏訪子様を見て、満面の笑みで答えた。

「とても素敵なプレゼントでした」

 神奈子様はわずかに頬を赤く染め、それからそっぽを向いて「それはよかった」と小さな声で言った。
 諏訪子様が「本当に照れ屋なんだから」と、大笑いしはじめた。私も一緒になって笑った。

 また豪華な夕食を三人で囲み、私は現代での出来事を話した。もちろん、母が話してくれたことも含めて。

「おかあさん、言っていました。『私たち、早苗のことをいちばんに考えてくれる神奈子様と諏訪子様を、とても優しい神様を、ずうっと許しています、感謝しています』って」

 神奈子様の手が少しの間、止まった。

「……そうか、そう言ってもらえて、少しはよかったのかもしれないね」

 そう言って、神奈子様はよそったばかりのご飯をたいらげた。

「ちょっと神奈子はそこらへんのことを気にかけすぎてたもんね。まあ、今回の神奈子はよく頑張ったさ」

 諏訪子様は神奈子様の頭を撫ではじめて、神奈子様は「食事の邪魔だよ」と言いながらも振り払おうとはしなかった。
 私は二人のやり取りを見て、ようやく心から笑える気がした。
 私には二つの家族がある。ひとつは、現代に、もうひとつは、ここに。

「神奈子様、諏訪子様、私、ある決意をしました」

 神奈子様と諏訪子様の動きが止まった。そして、お二人は姿勢を正して座った。
 もしかしたら、私の決意も神奈子様の誕生日プレゼントなのだろうかと、考える。さすがに、そこまでは、とも思う。いずれにしても、私の決意を聞いたお二人は喜んでくれるだろうか。

 まだ、私は四十なのだ。夢も、できた。私は、この家族と幸せに暮らしていきたい。
 そして、いつかまた現代に帰って言わなければならない。「ありがとう、おかあさん」、と。

 私はすう、と息を吸って、ゆっくりと言った。

「私、後継ぎが欲しいのです」

 
 


 
 四十になるというのが孤独なことなのか、私にはわからない。
 でも、ひとつだけ私にもわかることはある。

 年を取るのも、悪くはない。
 

初出:2009年3月30日