創想話
 


 
 零

 私にとって弾幕とは何なのだろうか。ここ数カ月は同じ問いを繰り返して繰り返した。
 所詮、未熟な式の考えることでしかないのだが、くるくると回るイタチごっこをやめることはない。
 未熟な式だからこそ、だ。

 燃える紅が空を舞う。その軌道を読み、弾幕を放つ。乾いた音が山に響く。
 九割のカエデを撃ち落とし、一割は地に降り立った。

 まだ甘いな。落ちていくカエデを見ながら感じた。瞬間的判断、速度、どれも壁を越えることができない。
 私は落ちたカエデを拾いながら、言った。

「紫様、何も言わずにスキマから見るのをやめていただけませんか」

 やんわりとした笑いが辺りを包む。

「気付いていたの」

 ふわりと何かが私の後ろに降り立った。振り返って確認すると、やはり紫様はスキマからやって来たらしい。

「まったく、悪趣味ですよ」
「固いこと言わないの、藍」
「私には不都合はありません。しかし、紫様の気配だとわからなければ即座に刺し落とすかもしれませんよ」
「そうね、それは困るわ。私以外の妖怪たちが」

 そう言って紫様は舞い落ちるカエデを指ではさみ取り、それを撫でまわすように見つめた。

「マヨヒガもすっかり秋ねえ。最近は時の流れが早くていけないわ」
「感じ方の問題でしょう。普通ならばこの季節は時の流れが遅いのではありませんか」
「たかが紅葉ごときで遅く感じることなんてないわ」

 紫様はふう、と息を吐いた。いつも思うが、この方は何年生きているのだろう。
 その疑問はいつもはぐらかされてしまうからわからないのだが。紫様はカエデから目を離さないまま言った。

「それにしても、藍。修行なんてやっても仕方ないでしょう。あなたの妖力が伸びるわけでもあるまいに」
「確かにそうかもしれませんが、私は紫様から頂いたこの力をもっと使えるようにしたいのです。
 力をいかに効率よく使えるか、無駄を減らすか。
 妖力が伸びなくとも、頭と体の波動を重ねれば力を十分に発揮することができるでしょう」

 紫様は呆れ顔を見せた。

「藍、その様子だと四十九回紅葉を迎えても全ての葉を撃ち抜けないでしょうね」
「四十九回もですか」
「今のあなたのことよ」

 何を言っているのか、私にはさっぱりわからない。

「この落ち葉について言うなら、ずいぶん簡単な話なのよ」

 そう言って紫様はゆっくりと踏み出し、弾幕を展開する。次の瞬間、私の視界にあるカエデ全てを撃ち抜いた。
 弾速は決して速くはないが、しかし全て計算されたかのように中心を貫いた。

 思わず、感嘆のため息が漏れた。

「さすが紫様です。私など、まだまだ紫様の足元に及びませ」

 何かがふわりと私の口を塞いだ。紫様が手で私の口を塞いだのだ。
 そして、その顔を私の顔に寄せた。紅葉の甘い香りが私の鼻をつく。

「だからあなたはわかっていないと言ったのに」

 私は紫様のもう片方の手で頭を撫でられているのを感じた。

「やっぱり何もわかってくれないのね」

 紫様の顔が、金色の瞳が見えなくなっていく。少しずつ、頭の中が白くなっていく。

「落ち葉を落とせないのは、その中にある簡単な心に気付けないからよ」

 私は香りに意識を持って行かれそうになった。それでも私は紫様の手を口から離して、何とか言い返した。

「紫様、そうは言っても、私は自然そのものに心があるとは思いません」

 ぷう。紫様はふくれっ面をして私から少し離れた。急に視界が開けた。

「なによ、藍ったらそんなヘリクツ並べて」
「ヘリクツではありません。万物は一定の法則に従って動くと、教えてくださったのは紫様じゃないですか」
「そんなときだけ私の言葉を借りるのね、ひどいわひどいわ」
「棒読みで言われても、全然説得力がありません」

 時々これも思う。この方は本当に大妖怪なのかと。

「とにかく私は修行に戻ります」

 紫様は泣き真似をした。

「ああひどい、藍が私を見捨てたわあ」

 私は紫様の言葉にもう耳を貸さないことにした。紫様はふくれっ面のまま、そばにあった岩に腰掛けた。

 必死にカエデの落下軌道を読もうとしても、一、二発は必ず外れてしまう。
 紫様の弾が速くなくても当たったことを考えると、弾速よりも読みだろう。
 無数の要素が絡んでいるとはいえ、完全に読めないこともないはずだ。

 経験と計算か。もう一度カエデの軌道を観察する。

 重力に従いながら左右に揺れ、時に舞い上がり、それでも重力には逆らえず、また地面に吸い寄せられ、
 そうかと思ったらまた風に舞い上げられ、また落ち、上がり、下がり、上がり下がり。

「紫様」
「何かしら」

 紫様は満面の笑みを浮かべていた。こう、子供がおもちゃで遊んでいるような。

「カエデを動かさないでください」
「いいじゃないの、暇なんだから」
「修行できないじゃないですか」
「しなくていいって、さっき言ったわ」
「させてください」
「しなくていいわ。それよりも、のんびりしましょう」

 やれやれ、我儘な主人だ。それでも私の主人だ。私は盛大なため息をついて、それでもつい笑ってしまうのだ。

「わかりました。今日は修行はおしまいにいたします」
「それでこそ私の可愛い藍よ」

 私は紫様が座っている岩の隣の岩に腰かけた。紫様は少し私の方に寄ってきた。

「それにしても、あなたも変わったものね」
「そうでしょうか」
「そうよ。あのころに比べれば随分優しい目をするようになった」
「そうですね。あのころに比べれば笑顔になれることも多くなった気がします」

 ふふ、と紫様は笑って私の尻尾を撫でた。

「この尻尾も増えたわね。今いくつかしら」
「今は七本になりました」
「あら、そんなに。あの時は二本だったのに」
「これも紫様のお陰だと思います」

 紫様は黙って尻尾を撫で続けた。愛おしいものを大切にするように。
 私は蒼天を見上げた。それは私を包み込んでくれるようだった。

 こんなことに気付けなかったのだろうか、あの時の私は。

「紫様」
「なあに」

 紫様はまだ私の尻尾を撫でていた。

「私は、紫様のような主人がいて幸せです。紫様には感謝しています」

 紫様は私の顔を見た。少し驚いたような表情をして、それから少し寂しそうな笑顔を浮かべた。

「私もあなたのような式を持てて嬉しいわ」

 紫様はそう言って、岩から立ち上がった。

「さて、今日はそろそろ帰ろうかしら」
「あれ、もうですか?」
「大妖怪ともなれば、息をつく時間も減ってくるもの。だから時の流れは早い」
「そういうものですか」

 私も岩から立ち上がった。西風が吹き始めた。

「次に来るのはいつかしらね」
「私はいつでも構いませんが、こっそり来るのはやめていただけないでしょうか」
「さあて、どうかしら。気が向いたらそうするかもしれないわ」

 紫様はスキマを開いた。

「じゃあ、また来るわ」
「気を付けて帰ってくださいよ」

 紫様は手を振りながらスキマに入って行った。私もつられて手を振る。
 紫様の姿が消えたとき、突風が吹いて地面に落ちていたカエデが舞い上がった。

 なんとはなしに、空に舞うカエデに向けて弾を放つが、やはり全て撃ち落とせなかった。
 その中にひとつ、唐紅のカエデがふわりと空を舞っていた。

 一

 秋は去ってしまう。山を紅に染めたカエデはほとんど落ち、もう修行にも使えそうにない。

「さて、どうしたものだろう」

 ため息をつきながら私はひとりごちた。冬になってしまうと、あとは体を動かすくらいしかない。
 もっと良い環境はないものだろうか。私はまだまだ未熟だというのに。

 とりあえず、それはいつもの修行場に行って考えよう。私は黒ずんできた紅葉の絨毯を歩いて行く。
 紅葉を踏みしめる以外に音はなく、私以外に動くものはない。紅葉の匂いもかすれ、マヨヒガに私しかいない。

 私しかいない、はずだった。

 ふと、視界の隅に黒く動くものが入った。そして紅葉に消え入りそうな音が聞こえてきた。

「……ゃあ」

 とても小さな声だったが、はっきり聞こえた。聞き間違いなどではない。私はその声へと走り始めた。
 そこに、痛みを伴う光景があった。

「にゃあ…」

 まず、はっきり見えたのは、三匹の猫だった。何かを囲うようにして立っていた。
 次に私の目に入ったのは小さな黒い猫だった。小さな黒い猫が他の三匹の猫に囲まれ、小さく縮こまっていた。
 だが、その金色の目は他の三匹から離そうとしなかった。

 私の脳裏に似たような光景がちらつく。二匹の狐が小さな子狐を追い詰めるその光景が。
 気付いたときには声を出していた。

「何をしている」

 私は一歩、足を踏み出した。囲っていた三匹の猫は体を震わせ、私に視線を向けた。それは野生の習性だ。
 自分より強そうなものには警戒の視線を送り、逃げ出すタイミングを窺うのだ。
 私と猫たちは睨み合ったまま、しばらく動かなかった。いや、猫たちは動けなかった。

 一瞬でも隙を見せれば終わりだ。たとえそれが自分より弱い相手でも。
 私も猫もそのことだけはとてもよくわかっていた。だから、私は一瞬だけ故意に気を緩めた。

 猫たちは待っていたとばかりにその場から全速力で逃げ出した。

 あとには小さな黒猫だけが取り残された。私は改めてその猫を見た。猫も求めるような瞳を私に向けている。
 ふと、私はその猫の尻尾が二本あることに気が付いた。そして、わずかながら、妖力も。

 そういうことか。

 小さな黒猫は私を見つめたまま、黒猫は橙色の声で鳴いた。

「にゃあ」

 それはとても奇妙で、偶然で、不思議なつながりだと思った。
 私は決して警戒を緩めたつもりではない。そして警戒している相手には決して近付いてはならない。
 だが、猫は生きるための暗黙の術を破った。

「にゃあ」

 猫はよちよちと私の足元まで歩いてきた。丸い瞳で私をじっと見つめる。吸い込まれるような瞳。

 私は無意識のうちに猫に話しかけていた。

「お前、逃げないのか」
「……」
「私が怖くないのか」
「にゃあ」

 怖くはない、と言っているように聞こえた。おそらく、聞き間違いではない。
 私はしゃがみ、その猫と同じ高さに目線を合わせた。

「お前は不思議なやつだな」
「にゃあん」

 猫は私の身体に頭を擦りつけてきた。私はその猫の頭を撫でた。

 おそらく、この猫は尻尾が二本あるが故に仲間から忌み嫌われたのだろう。
 この猫の親がどこにいるのかはわからないが、この付近にはいるまい。
 あるいは、妖力故にこの猫は親に捨てられたのかもしれない。

 さて、どうしたものだろう。私は途方にくれた。

 修行に行くはずだったが、どうやら私は猫に懐かれてしまったらしい。それも二本の尻尾を持つ猫に。
 どうにも、この猫を見捨てるのは後味が悪い。再び襲われるかもわかったものではない。
 かと言って、ずっとこの猫の面倒を見るのも面倒な話だ。

 かりかり。ふと、おかしな音が私の耳に入ってきた。
 見下ろすと、猫が私の腰にぶら下げた袋をひっかいていた。

「何だ、これが気になるのか」

 かりかり。

「それは私の食料だ。そう簡単にあげられるものでもない」

 かりかり。猫は無言でひたすらひっかき続けた。

「そこまで食べたいのか」

 かりかり。止める気配がない。

「仕方ない、ちょっと待っていろ」

 もともと私は食事を頻繁に取る必要がない。なので、長時間もつように保存食として持ち歩いている。
 干し肉は主に山にすむ動物から得ている。鼠や狸、それこそ、猫、とか。
 私は袋から干し肉を取り出した。
 その匂いがしたのか、猫は飛びかかろうとしたが、一瞬早く私が引っ込めた。

「焦っても仕方がないぞ。お前のような子供がこれを食べるのは難しいからな」

 私が肉片を手で小さく千切る。口の大きさを考えればこんなところか。猫は私の様子をただ眺めていた。

「さ、これなら大丈夫だろう」

 私は千切った肉を手のひらに乗せて猫の目の前にさし出した。猫は嬉しそうに鳴き、その肉にありついた。
 肉をはむその姿に、私は胸が痛んだ。猫とはこういうものか。

 干し肉を食べ終わって満足気な表情をする猫に、私は言った。

「さて、そろそろ私は修行に行かなくてはいけない。お別れだ」
「……」
「そう不思議そうな顔をするな。私はたまたま通りかかっただけだ」
「ふゃーん」

 猫の瞳に寂しそうな光がたたえられていた。私はそれを見てたまらなくなった。
 私は急いで立ち上がって、猫に背を向けた。今はその姿を目に入れたく、ない。

「またいつか会えるかもしれないな。このマヨヒガにいれば」

 会いたくない、会いたい。なんだ、この気持ちは。

「にゃあん」

 その声を聞いて私はもう我慢ができず、逃げ出した。猫が追いかけてきたかもわからない。
 猫を振り返ることもなく、いつも修行している場所にまっすぐ走って行った。

 何故だろう。何故、このようなことになったのだろう。

 北風が吹いて私の耳を冷やし、冬が始まったことを告げた。

 二

 くるくるくる。くるくるくる。くるくるくる。

 どうにもうまくいかないものだ。回ることは生来得意だが、こう意識した動作となると逆に動かなくなる。
 完全な円の概念はあるが、なかなかそれを表現できない。空中で回るのはここまで大変だったのか。

 私は新たな発見に驚きつつ、とりあえず冬は凌げると確信した。
 結局、修行するほどやるべきことが増えていく。修業のために修行をする気分だ。

 もっと修行を積まなくてはいけない。もっと機敏に動かなければならない。
 わかっているのに、最近は力を残したまま修行が終わることが多くなった。まだまだ動けるはずなのに。
 不完全燃焼感が残る。今日も回転の練習を一時間程度で終わらせてしまった。

 ふう。

 寒天を見上げると、どこからともなくため息が出る。最近はため息の回数も多くなった。
 木の葉が全て落ちてしまった冬の山の景色に感傷を覚えるわけでもない。だが、何か物寂しい。

 何をやっているのだろうなあ、私は。自分で自分に呆れてしまう。そして、あの猫も何をしているのだろう。
 親のもとに帰ったのだろうか。それとも、たった一匹で暮らそうとしているのだろうか。
 そうだとしたら、もう今頃はあの猫は死んでしまっただろうな。

 そこで、自分が突拍子もないことを考え始めたことに気が付いた。

 何故あの猫のことが出てくる。私と関係ないはずだ。野生の子猫が一匹で暮らせるはずがないことは当然。
 それがこの美しくも厳しい自然の法則だ。私と偶然出会っただけの猫に、もう繋がりなどないはずだ。

 私は猫のことを頭の中から振り払った。もういい、修行に戻ろう。

 くるくるくる。一匹で暮らせるはずがない。くるくるくる。それは私がよく知っている。
 くるくる。たった一匹で。くるくるくる。すたん。

 私は地面に降り、足元を見つめた。何故、気になるのだ、あの小さくて黒い猫が。二本の尻尾を持つあの猫が。
 猫の金色の瞳が頭の中に甦った。あの求めるような瞳。

 私は胸がつぶれる思いがした。

 駄目だ、修行に集中できない。心がこんなに荒立っている時は無理だ。全く修行が進まない。
 こういうときは気分転換に散歩に行くのがいい。修行をしても時間の無駄だ。今は幸い、雨が降りそうもない。

 私はそう考えて、気の向くままにぶらぶらと歩き始めた。

 木の葉を踏みしめる軽快な音。優しく撫でるような風。マヨヒガ独特の香り。
 それは気が滅入っていた私を癒してくれた。そうして散策を楽しんでいると、見覚えのある場所を通りかかる。

 私があの猫と出会った場所だ。

 あの猫はどうなったのだろう。どうしても気になるんだったら、いっそ探してみようか。
 私は周囲を見回してみたが、猫は視界の中にはいない。まあ、そういうものだろうな。

 ふう、とため息が出た。無駄な期待をしてしまった。散歩の続きでもしよう。

「にゃー」

 私の心臓が高鳴った。もしかして、あの猫?どこにいる?私は声のした方を向いた。
 すると、遠くの茂みから黒い猫が現れた。二つの尻尾の黒い子猫だった。私は思わず猫の方へ走り寄った。

「お前、まだこんなところにいたのか」

 私はあの時と同じようにしゃがみ、猫の頭を撫でた。

「まったく、獣や妖怪に襲われたら危ないだろう」
「……」
「食べ物はどうしているんだ。自分で獲っているのか」
「…ごろごろ」
「その様子だと、ちゃんと食べているようだな」

 安心した。同時に、不思議と体に充実感が満ちてきた。今までの悩みがすっと体から抜けていくのを感じた。

 かりかり。猫は味をしめたのか、私の腰の袋をまたひっかいた。

「また干し肉が欲しくなったのか」

 かりかり。

「わかったわかった。……ほら」

 がつがつ。

「そんなに焦って食べなくても大丈夫だ」

 まったく、人懐こい猫だ。あの野生の猫たちが逃げた時も、この猫だけは私に近づいてきた。
 他人を恐れることがないのだろうか。それとも、寂しかったのだろうか。

「んー」
「もう食べ終わったのか。それで十分か」
「…ごろごろ」
「おいおい、私に頭を押し付けるな。わかった、もう十分なんだな」

 私は猫の頭を撫でた。猫は私に撫でられて目を細めた。

「今日は修行をしようと思ったんだがな、どうにも身が入らなくて、散歩していた」
「…ごろごろ」
「冬が始まると修行もしにくいから、少しばかり退屈だしな」
「…ふにゃ?」
「それにこの季節は食料も不足しがちだからな。いろいろと面倒なんだ」
「にゃー!」
「おいおい、私の尻尾で遊ぶんじゃあない」

 いつの間にか猫は私の尻尾と戯れていた。前足でいじったり、上に乗っかったり。気ままに猫は動きまわる。

「ふふ、お前はずいぶん楽しそうだな」
「にゃー」

 私は知らず知らずのうちに微笑んでいた。

「実は私も昔はお前と同じように尻尾が二本でな…」

 その日は猫とずっと話していた。

 また別の日。

 私はまた猫のところに行って、しばしの時を過ごした。
 座って一通り猫と戯れていたが、そろそろ修行に行こうと思い、私は立ち上がった。

「さて、そろそろ私は修行に行く。また来るからな」

 猫は私を見上げた。少し寂しそうで、何かを求めるような視線だった。

「そんな目をされても困る。ここで修行するにしても、おまえが危険だぞ」
「にゃ」

 あなたに迷惑はかけません。だからここにいてください。そう言っているように聞こえた。
 はあ、とため息をつきつつ、私は苦笑する。それでも、気分は悪くない。

「仕方ないな。今日はここで修行をするとしよう」

 と言ったものの、やることは回転の練習くらいしかない。
 とはいえ、危険な修行ではないから、ここでやるならそれが適当だろうか。

「少し、見ていてくれ」

 くるくるくる。体を回転させながら、軌跡で大きな円を描く動き。すたん、と着地。
 かなりうまくいった。私は猫に振りむいて問うた。

「どうだろう、最近この練習に取り組んでいるのだが」

 猫は答えるどころではなかったらしい。ぴょんぴょんと跳びはね、必死に体を回転させようとしていた。
 私は思わず吹き出してしまった。猫は私の様子に、しかめ面を向けた。私は嬉しくなった。

「すまない、すまない。そうか、そこそこうまくいっているようだな」

 さらに別の日。雪が降った。

 こういう日は修行することすらままならない。雪に足を取られるからだ。
 今日の修行は止めておくとしようか。そう考えると、別の考えが頭をよぎる。
 あの猫はどうしているのだろうか。親もいなければ、どうなるかはすぐわかる。
 私はその猫のことを考えるだけで不安になった。

 私は外に駆けだした。あの猫のいる場所にまっすぐ走った。間に合え。
 雪で足は進まず、息は切れて、それでも走ることをやめなかった。すぐに猫のいるはずの場所についた。

「おおい、いるのか」

 手を口にあて、大声で呼んでみると返事があった。

「にゃあ」

 猫は雪の中に埋もれていた。頭から尻尾まで雪をかぶっている。私は慌てて駆け寄って、猫を抱きあげた。

「大丈夫か。こんなところにいて、危うく凍死してしまうところだったぞ」

 猫は少し震えていたが、私の身体に頭を擦りつけて「にゃあ」と鳴いた。

 何故だろう。雪が降っているのに、体が温かさで満たされていく。
 胸の鼓動が早まる。手が震える。切なさが体を駆け巡る。この気持ちは一体何だろう。

 私は猫をしっかりと、だが優しく抱きしめて、私の住処に連れて行った。
 それから、雪が降る日は私は猫を住処に連れて行くことにした。

 三

 いつの間にか雪は降らなくなってしまい、マヨヒガの木々に緑が灯り始めた。
 もうすぐ冬が終わってしまうのだ。少しずつ山も温かくなってきた。

 さて、どうしたものだろう。

 どうしたもこうしたも、特に大きな変化があるわけでもないな、と思い直す。
 相変わらず私は修行を続け、時々あの猫と会う。そうした平穏無事な時間は変わらない。
 だから変えないのだ、この平穏無事な時間を。それが私の為すべきことだ。

 さて、修行を始めよう。そう思ったとき、私の目の前にスキマが開いて中から紫様が現れた。
 ふわりと地面に降り立ち、少し戸惑っている私に歩み寄った。

「藍、最近の調子はどう?」

 紫様の表情はとても穏やかだった。

「良くもなく悪くもなくといったところでしょう。万全ですよ」
「修行の方もちゃんとやっているの?」
「ええ、できることをやっています。と言っても、冬では限界がありましたけれど」
「そう、頑張っているのね」

 紫様は私から視線を外し、どこか遠くを見つめた。東風がゆっくりと流れ、葉もなき木々はざわめいた。
 私の胸もざわめきを覚えた。とても悪い予感がする。
 以前会った時のような紫様とは、どこか変わってしまった。私は直感した。何かが紫様を変えてしまった。

「ねえ、藍」

 考え事に耽っていた私は、紫様の声で我に返った。

「あ、はい、何でしょう」
「話があるわ。私の家に行きましょう」

 それは突然の提案だった。

「悪いわね、突然こんなところに連れてきて」
「いえいえ、紫様の式ですから」

 私は紫様の住処にやってきた。どこにあるかはわからない。わかるのはこの幻想郷のどこかだということだけ。
 そうして、紫様と私は紫様の部屋で向き合って座った。縁側から外を見ると、遠くで暗雲が立ち込めていた。

「それで、紫様、話とは何ですか?」

 紫様が落ち着いているのに対し、私はどうも落ち着けなかった。紫様は一呼吸置いてから答えた。

「八雲藍」
「はい」

 いや、違和感を感じた。

「え?」

 私は戸惑った。突然のことで何が起きたかよくわからなかった。確かに、今、紫様は私を「八雲藍」と呼んだ。
 紫様は私の様子をただ黙って見つめていた。私は何とか今の事態を整理しようとした。

「紫様、私は藍です。八雲藍ではありません」
「ええ、今まではそうだったわ」

 紫様は飄々とした態度で答えた。

「でも、今日からあなたに八雲の姓を与えることにしたの。だから、あなたは八雲藍」
「そんな……」

 紫様の口調は軽かった。まるで子供にお使いを頼むかのような口ぶりで。だが、私はそれどころではない。

「私には、まだ八雲の姓を受け賜わるほどの力はありません」

 へりくだっているわけではない。これは事実で、私ごときが八雲の姓にふさわしいとは思えない。
 しかし、私からの反論を予想していたかのように、紫様はゆっくりと頷いた。

「確かにまだまだあなたが力不足なのは認めるわ。
 それでも、八雲の姓をあなたに与えること、これが何を意味するのか、わかるかしら?」
「それは」

 それは紫様の僕としてだけではなく、八雲の家の者として暮らすこと。
 八雲家に住み、万が一のことがあれば八雲の家の主になることである。

「しかし、何故ですか?」
「ん」

 紫様は少し目を宙に泳がせて考えた。

「そうね、私もそろそろ歳になってきたし、力不足でもあなたは結構頑張っているし」
「そんな、そのような理由でですか?」

 私は驚きを通り越して、半ば呆れ、半ば哀しくなった。
 そのような軽い理由で八雲の姓を与えたことに呆れた。そして哀しさを覚えたのは。

「いつも紫様は自分のことを少女だと、言っているじゃないですか。
 『私は少女ゆかりんよ』と、いつも言っているじゃないですか。何故、歳だなどと」
「あら、勘違いしないで。私は永遠の少女ゆかりんよ。でもね」

 紫様は一度、そこで言葉を切った。

「それでも歳には勝てないものだわ」

 私はもう反論できなかった。紫様の考えていることがわからない。幻想郷の賢者は一体どうしてしまったのだ。

 いや、紫様には度々あることだ。胡散臭い言動をとりながら、いつも幻想郷のためにと尽くしてきた紫様。
 その方が私に八雲の姓を与えるのも、そういうことではないのか。

 私は己の無力さと紫様の思考の板挟みになってしまった。
 いや、板挟みになろうがなるまいが、それは関係ない。紫様が決めたことだ。
 私が何を言おうと紫様は考えを改めないだろう。

 だから、私は手を床につけ、頭を垂れて、こう言わなければならないのだ。

「わかりました。私、藍は以後、八雲藍として、八雲家のために尽くしていきます」

 私の返答に、紫様は満足そうに微笑んだ。

「やっとわかってくれたのね。ありがとう、藍、あ、八雲藍ね」
「いえ、お礼を述べなければならないのは私の方です。八雲の姓に恥じぬ力をつけなければ」

 紫様はぽんと手を打った。

「そうね、せっかく八雲の姓を与えたのだから、これくらいの力も与えておきましょう」

 そう言って、紫様は私の前に手を差し出した。

「私の手をとりなさい」

 私は言われるままに、紫様の手に自分の手を重ねた。紫様は目を閉じ、精神を集中させた。
 ふと、私の中に今までになく、強大な力が満ちていく感覚を覚えた。

 紫様は瞼を上げた。少し消耗しているようだった。

「これは?」

 私の問いに、紫様は一息ついてから答えた。

「式を操る力よ。あなたも式だけれど、あなた自身も式を打てるわ」
「私が、式を?」

 私はあまり言葉の意味を理解できなかった。だが、その時はその力がまだ自分にふさわしくないと思った。

「そんな、私がこのような力を頂いても」
「いいえ、あなたが必ずこの力を必要とする日は来るわ」

 紫様の口調が突然、きっぱりとしたものになった。私がいつ式を打つのかを知っているかのように。

「この力で、守るべきものを、守りなさい」
「私の守るべきもの、ですか」

 私の守るべきものは、もちろん。

「式として私が守るべきものは、紫様です」

 紫様は何言わず、ただ黙って微笑んでいるだけだった。私はその微笑みに、どうしようもない感覚を覚えた。

 遠い。遠すぎる。紫様が。

 しばらくして、紫様はゆっくりと伸びをしながら欠伸を漏らした。

「ううん、なんだか眠くなってきたわ」

 そのまま紫様はふらふらと立ちあがった。

「藍、私はこれから少し寝るわ。食事の用意、お願いするわね」
「はい、任せてください」

 紫様は寝室に行ってしまった。

 部屋には私だけが残された。ふと縁側から空を見上げると、遠くに虹がかかっていた。
 綺麗な虹だった。紫、藍、翠、橙、紅。五色が溶け合い、ひとつの大円を形作っていた。

 とても綺麗な虹で、決して幸せな虹ではなかったのだろう。

 私は以前の紫様の生活を全く知らない。ただ、その日から紫様が長い時間眠るようになったのだけはわかった。
 それには何の根拠もなかったが。

 四

 私が紫様の家で暮らし始めて一週間。幻想郷に春が来た。

「紫様、紫様」

 春の陽気にやられてしまったのだろう。紫様はなかなか起きてくれなかった。

「んー、あと一刻」
「それでは食事が冷めてしまいます。とりあえず起きてください」

 普段よりも深い眠りを彷徨っていたようだ。
 紫様はものすごく眠そうな表情で起きた。口がへの字に曲がっている。

「なによう、今日くらいはいいじゃないの」
「昨日もそう言っていました」

 紫様が起きたところで、もう冷めかかっている朝食を二人で食べ始めた。

「何よ、妖怪は夜に活動すればいいのよ…ふぁ…」
「昔のように昼でも活動してください。それから、食事後に髪の乱れも直してください」
「わかったわぁ…」

 欠伸混じりに紫様は返事をした。こちらまで眠くなってしまいそうだ。

「それにしても藍、あなたが色々やってくれて助かるわ。掃除、洗濯、料理。お嫁に行けるんじゃない?」
「八雲家に入って、これが本当の狐の嫁入り、ですかね。雨は降っていませんが」

 紫様は愉快そうに笑った。

「たまにはうまいこと言うじゃないの」

 久しぶりにマヨヒガへ行ってみる。八雲家での生活に慣れるまで忙しく、かつての住処に行く暇などなかった。

 長い間使っていなかった私の家は少し埃をため込んでいた。掃除するべきなのだろうか。
 とりあえず、私は簡単に掃除を済ませた。おそらく、これからここを使うこともない。
 別れの掃除だということにしておく。もしかしたら、未練、なのか。

 そして、もうひとつやらなければならないことが残っていた。

「おおい」

 大きな声であの猫を呼んで歩きまわったが、返事がない。確かに一週間訪れなかったのは初めてだ。
 だが、それでもいないということはないはずだ。不安を胸に抱え、私はただ声を出して歩いた。

「おおい」

 あの猫に名前を付ければ、よかった。そう思ったとき、茂みの裏から、か細い声が私に耳に入った。

「…にゃあ」

 聞き逃さない。聞き逃すはずがない。私は茂みの裏を見た。私は目を疑った。

 そこにはボロボロになって、横たわっている黒猫の姿があった。

「ど、どうしたんだ…」

 それしか言えない。私は猫の側にひざまずいた。あちこちから血が流れ、毛がむしられている跡もあった。
 足もあらぬ方向に曲がっていた。ふと周りを見回すと地面には他の猫らしき足跡、他の猫の毛があった。

「…まさか、また他の猫に…」

 何故逃げなかった、何故私のもとに来なかった。その言葉は私の喉の奥で急速にしぼんでいった。
 私がこの猫のことを気にかけていた理由は、ここにあったのかもしれない。

 なんとも言えない感情が私の胸にわき上がってきた。怒り、悲しみ、そんなものではない。
 ただ私が無力だった、それだけだった。空しさでもなく、ただ無力感が胸を浸す。

 私は猫の頭を撫でた。猫は声を出そうとして、その力すらも残っていなかった。
 声を、出すな。無理を、するな。

「お前は私が来なくとも、それでも、私を信じていてくれたのか」

 私は疑って、恨んでいた。私はたった独りだと思っていた。私は一人で生きていこうと思った。
 だが、この猫は私を信じてくれていたのだ。私がこの猫に惹かれた。この猫は、私と違っていたのだ。

 恋をした。ようやく、私は気が付いた。

 私がずっとこの猫のことを気にかけていて、この猫の側にいると切ないのは、恋をしていたからだ。
 私の足りないものを補うかのように、この猫は私を満たしてくれた。

 猫は意識を手放した。呼吸が一層弱まる。じきに呼吸すらしなくなってしまうだろう。
 そして、二度と私に頭をこすりつけることはなくなる。あの鳴き声も、あの瞳の光すらも。

「私の、八雲藍の守るべきものは」

 紫様、あの時の答えを、今、訂正させていただけないでしょうか。

「お前だ」

 猫の身体に手をあて、目を閉じる。私の体に理論が流れ、猫にあてた掌から溶け出していった。
 私の身体と猫の身体がわずかの間、繋がり、すぐに理論が私から離れたのを感じた。

 その行為が終わるやいなや、恐ろしいほどの疲労が私を襲った。危うく、意識が飛びそうになった。
 これほどまでに力を消耗するものなのか、式を操るということは。

 猫は目を覚ました。そして、体をゆっくりと起こした。

「あれ、私は…」

 すぐに猫は自分の身体が変わったことを認め、困惑した表情を浮かべた。

「え、どうして体が変わって…」

 そして、さらに私がいることに気が付いた。

「もしかして、あなたが…」

 私は答えなかった。言葉を口にせずともわかることだから。猫もそのことに気が付いたらしい。
 もう一度訊くことはなかった。だが、別のことを私に問いかけた。

「どうして、私を助けたの?」
「見ず知らずの仲というわけでもない。死にかけていたお前を助けたいと思うのは当たり前のことだろう?」
「ありがとう」

 猫は無邪気な笑みを浮かべていた。私は、笑えなかった。

「お前に言わなければならないことがある」
「なあに?」
「今から、お前は私の式だ」

 猫は首をかしげた。

「式?それはどういうこと?」

「それは」

 この猫と出会ったときからの思い出が蘇ってきた。走馬灯になる。

「私がお前の主になるということだ」

 猫の瞳が揺らぎ、沈黙が私たちを包む。私は逃げたかった。
 沈黙を破ったのは猫だった。戸惑いながらも、納得したような顔で。

「そう、ですか」
「そういうことだ」

 他に言えることはなかった。

「わかりました。私は、あなたの式となって仕えることになるんですね」
「ああ」

 その橙の言葉が、その表情が、私の心を動かす。だが、私はさらに言わなくてはならなかった。

「私の式になるにあたって、名前を与えようと思う」

 本当は、お前が猫でいたときに付けたかった名前だ。心の中で、そう呟いた。

「お前の名前は、橙、だ」
「ちぇん」

 お前はいつでも自由で気ままだった。その心は私の心を温めてくれた。その優しさをこめて、橙。

 私はあのまま猫を見殺しにしてしまった方がよかったのかもしれない。もしかしたら、そうかもしれない。
 だが、あの時の私は猫を救うことしか頭になかった。いや、全てを理解していても、あの猫を式にしただろう。

 過ぎてしまったことを嘆くのは愚かなことだ。それはよくわかっている。
 今、確かなのは、もう二度とあの頃には戻れないことだ。

 そして、そうしてしまったのはまぎれもなく、私だ。

 五

 永い永い時が経った。私の尻尾が九本になったくらいに。博麗の巫女の代変わりを何度も見た。
 異変が頻発したあの霊夢のときからも、幻想郷は変わらなかった。
 妖怪たちも相変わらず弾幕戦に興じ、時々異変が起きたが、その度人間が解決した。

 結局、幻想郷はほとんど変わらなかった。

 紫様が私に全てを託し、幻想郷からも、この世からも、消えてしまったことを除けば。

「あ、藍様!」
「久しぶりだな、橙」

 燃える紅が私の目の前を通り過ぎて行った。

「このマヨヒガも変わらないな」

 マヨヒガは紅葉を迎え、山は紅に染まっていた。
 私はスキマでマヨヒガの入口まで移動し、そこから徒歩で来たところだった。

「おや、何をしているのだ?」

 橙は多くの猫を前にして立っていた。

「ちょうど、ここにいる猫たちに規律を守るように言っていたところです。
 ちょっと最近、里が荒れることが多くて困っていて」

 かつて、猫の里を作って、橙がそこの長となったという話を聞いたことがある。
 しかし、その里の成立から、長となるまで全てが苦難続きだということも耳に入っていた。
 橙の様子を見るに、今も様々な苦難があるらしい。

「なるほど。猫たちが勝手なことをしているわけか」
「そうなんです」
「少し、そこで見ていなさい。私ができることをやっておこう」

 正直なところ、私が出るような場面ではないかもしれない。橙の威厳ががた落ちになるだろう。
 それをわかっていて、敢えて私はできることをやっておくのだ。

 私は猫たちの前に出た。

「さて、お前たち、せっかく里を作ったというのに、それを壊そうという気なのか?」

「ここは、猫の里だろう?」

 途端、猫たちの体が震え始めた。逃げようと思っても逃げられない。私が隙など見せるはずがない。

「わかっているな?」

 決して人間のようにうなずくことはなかったが、それでも了解したという仕草は見て取れた。
 全ての猫がそうしたのを確認して、私はふっと気を緩めた。すると、猫たちは一目散に逃げ出した。
 あとに残されたのは私と橙だけだった。

「さて、これでしばらくは猫たちも里を荒らすことはないだろう」
「すごいです、藍様。一体、どうやったんですか?」

 橙は私の前に回り込んだ。尊敬の眼差しを向けながら。純粋に興奮しているようだ。

「いや、橙は知らなくていいことだ。あと四十九回紅葉を迎えても、わからなくていい」
「そんな、何か、コツでもあるんでしょう?」
「ふふ、コツなどはないさ。大丈夫、お前ならこんなことをしなくとも、立派な長になれる」

 この子は、私が口で述べたとしても理解できないだろう。そして、永遠に猫の里の長になることはあるまい。
 だから、それでいい。永遠にわからなくていい。長になれなくていい。

「ところで、お前の尻尾もだいぶ増えてきたな。今は何本あるのだ?」
「七本です」
「そうか、もうそんなに増えたのか。あの時は二本だったのにな」
「少しは力が付いてきたんですよ」

 そうだろうな。まだ橙は子供だった。年をとれば妖力もそれ相応に伸びていく。
 今なら式を外してもその姿を維持することができるだろう。

「藍様」
「なんだ」

 唐突に、橙が笑顔を見せてくれた。私は嬉しくて、だがどこか切なくなった。

「私、藍様のような主人を持てて幸せです。藍様にはとても感謝してます」

 私は半ば驚き、半ば「ああ、そうか」と納得した。
 そしてこのやり取りを、どこか遠くで聞いたことがある昔話のように、懐かしく思った。

 だからとても切なくて、寂しい。切なさのありかをわかっていて、寂しさのありかはわからないから、余計に。

「私もお前のような式を持てて、嬉しいと思っている」

 自然とこぼれる微笑みは、それでもどこかぎこちなかった。橙はそれに気が付いたようだった。
 心配そうな顔で私を見つめている。

「藍様、疲れているんですか?」
「ああ、少しやることが多くてな、休息を十分に取っていなかったようだ」

 時の流れは早い。マヨヒガにいる時間はあっという間に過ぎてしまう。

「では、そろそろ私は帰るとしよう」
「あれ、もうですか?」
「まだ私にはやるべきことが残っているからな」

 嘘だ。

「また、来ますよね?」
「ああ、そのうち来る。気が向いたら、必ず来るとしよう」

 ずっと、今までそうしてきたように。

「では、またな」
「はい、藍様、また!」

 スキマを開き、私は八雲の屋敷に戻った。ふと足元を見ると、畳の上に唐紅のカエデが落ちていた。
 私は、それを拾う。突然、懐かしい声が頭に響いてきた。

―その中にある私の心に気付けないからよ―

 ああ、この声は…。

「紫様…」

 六

 私はそっと橙を見守っている。いつでも、そうだったと思う。
 本当は橙の隣に座り、ただ日が暮れるまで共にいれればよかった。

 そうしなかったのは、私の生真面目さ故だろう。だから今でさえ、こうして見守るしかないのだ。

「ねえ、あなたはずっとここにいるの?」
「…」
「変な子。ここは猫が多いから、食べられちゃうかもしれないよ」
「…」
「ふうん、自信があるんだ」

 マヨヒガの森の中で、橙と大きな鼠が隣り合って座っていた。私はその様子を遠くから見ている。

「そうだ、今日はお肉持ってきたんだ」

 橙は懐から干し肉を取り出した。

「ほら、食べて食べて」
「ちっちっ」

 鼠がその体をせわしなく動かして肉にありついているようだった。
 後ろから見ているので背中側しか見えないが、それでもはっきりわかった。

 あの鼠は、尻尾が二本ある。

「そんなに急いで食べなくても大丈夫だよ、まだあるから」

「もうすぐ、冬になっちゃう」
「…」
「私は寒いのは苦手だな。藍様の家に行って炬燵で丸まろうかしら」
「ちー」
「ううん、冗談よ。私は、ずっとここにいるから」

 私は気付かれないようにそこを去った。

 とうとう冬が始まった。私は物音のないマヨヒガに再び戻ってきた。今にも雪の降りそうな空模様だ。
 私は音をたてないように移動した。それくらいの移動なら今は容易いことだ。あれはこの辺にいるはずだった。

 会いたい。

 わずかな妖力を辿れば、必ず見つかる。すぐに、探しものは見つかった。

 二本の尻尾を持つ、あの鼠だ。鼠は私の気配に気づき、私に向き合う態勢を取った。

「待て、私はお前に危害を加えるつもりはない」

 それでも、鼠は決して私から目を離そうとはしなかった。私を疑っているのだろうか。
 そう考えたところで、思わず私は吹き出してしまった。そうだ、これが当然だ。これが自然だ。
 鼠の疑いの眼差しがより一層強くなる。私は無理やり笑いを抑えた。

「ふふ、すまない。つい、自分が可笑しくてな」

 私は腰から干し肉を取り出した。

「これを、もらったことがあるだろう?」

 鼠の目が見開かれていく。恐る恐る鼠は私に近づいてきた。その翡翠の目に、私の姿が映る。

「遠慮することはない、食べなさい」

 私は鼠の口元に干し肉を持っていった。鼠はそっとそれに噛みつき、味を確認した。
 安全だとわかってから、鼠らしくせわしく肉を食べていった。私は鼠から少し離れて座り、鼠の様子を眺めた。

 二本の尾と翡翠の瞳をもつ、灰色の鼠、か。どうしてこうなってしまうのだろうな。
 遠くにいる自分と、とてもよく似ている。孤独を愛し、世界は己のみだと思っていた自分と。

 鼠は肉を食べ終わったが、そのままそこで落ち着いた。決して、私に近寄ろうとはしない。
 私も鼠に近寄ろうとは思わない。鼠と私の向いている方向は、遠く遠くの空だった。交わることない視線。

 枯れていくカエデの香りがした。

「私の式が世話になっているらしいな。橙は私のとても大事な式だ。
 もちろん、私の従者としてもだが、それ以上に大切だと思っている」

 私は、鼠に話しかけるでもなく、言葉を並べていった。私は誰に話しかけているのだろう。
 鼠なのか、自分なのか。それとも、紫様なのか。

「私は橙に恋をしている。それが本当のところだ。決して失いたくない、自由な猫だ。
 橙も私のことを好いている。ずっと、そう思っていた。だが、それは私の思いに応えているわけではない」

 鼠は相変わらず空を見ている。雪が降り始めてきた。

「結局、あの猫は私との主従関係において、私を好いているだけだった」

 そうしてしまったのは、私、だ。

 その一言が、喉の奥に詰まった。代わりに目の奥が熱くなってきた。
 必死にそれを抑えようと、私は言った。胸が妙に早い鼓動を打つ。

「お前は、あの猫が、好きなのか」

 私は鼠を見た。鼠も私を見た。初めて交わる視線が互いの答えを伝え、翡翠の瞳が私の姿を全て映した。
 その瞳は……。

「そうか。それがわかれば、私は十分だ」

 私はゆっくりと立ち上がった。胸の鼓動は収まらない。もう一度、空を見上げた。
 曇天の空から灰色の雪が降って、橙色の地を白に染め上げる。

 私は震える声で鼠に言った。寒いから声が震えているのだ。そう思いたかった。

「雪が降ってきた。そろそろあの子がやって来るだろう」

 遠くから「おおい」という橙の声が響いてきた。この鼠を探してマヨヒガを歩き回っているに違いない。
 ああ、そうだ、雪が降ったら来るのだ。愛しい者を迎えに。鼠が不安の眼差しを私に向けた。

「では、私は去るとしよう。また、すぐに会える日が来る」

 私は宥めるように言った。誰を宥めているのか、自分でもわからない。

 足音が近付いてくる。橙がすぐそこまでやってきたのだろう。帰らなければ。
 私はスキマを使って八雲家に戻った。

 七

 意識を取り戻した私は、体が変わっていることに気が付いた。そして、何者かが私を見下ろしていることにも。

「何故、私を助けた」
「さあ、何故かしらね」
「あなたとは、何の関わりもなかった」
「そう。でも、たった今、私とあなたの間には大事な繋がりができたわ」
「命の恩人、というものか?」
「いいえ」

 着物に身を包んで傘を持った何者かは、そっと笑った。

――今から、私があなたの主人よ――

 世界が白くなりかけた。そうは、させるか。

「違う」

 世界がくっきりと見えるようになった。紫様は驚いたように目を見開いている。私は構わずに続けた。

「紫様は、私に恋をしていたのです。いつも私を陰から見ていて、私に惹かれていた。
 だから私を助けたのです。私を失いたくなかった、そういうことなんです」

 私が話している間に、紫様の服装が少しずつ変わっていく。そして、最後にはあの紫のドレスになった。

「そう、ようやく気付いてくれたのね」
「四十九回の紅葉を迎えても気が付きませんでしたけれど」

 紫様は微笑みを浮かべていた。そこには、まだ、寂しさが残っていた。そっと、私の顔に手が添えられた。

「ごめんなさい、藍。あなたを式にして、私の勝手であなたを生かしたこと。私は謝らなければならなかった」

 紫様は笑っている。だが、きっと心の中は海で一杯なのだ。涙の海で。

「いいえ。紫様が謝ることは何もありません。私が生きていられたこと、むしろ、感謝しなければなりません。
 そして、紫様の式でいられたこと、私に力を与えてくださったこと。私は本当に幸せ者でした」

 ふふ、と紫様は笑った。

「そうね。今度はあなたが私の役割を演じる番なのかしら」
「ええ、そのつもりです」
「そう。わかっているなら、もう私が言うべきことは何もないわ」

 うっすらと、あたりが白い霧に包まれていった。

「ねえ、藍、私のわがままを聞いてもらえるかしら?」

 紫様の声がぼんやりとしか聞こえなくなっていった。姿も段々霞んで見えなくなる。私は大声で返事をした。

「ええ、なんなりと」

 紫様がまた遠くなっていく。近くなったはずなのに、どうしてまた行ってしまうのだ。
 私は思い切り走った。それでも、紫様の姿はどんどん霧のむこうへと逃げてしまう。

 紫様の、最後の声が、私の耳元で囁かれた。

「私を、好きだと、言ってくれるかしら」

 唐紅のカエデが私の目の前を通り過ぎて、紫様も、カエデも、私も、全てが霧に包まれた。

 私はどう返事すればよかったのだろう。それは、私が消えてしまうまで、わからない。
 私が夢から覚めてしまったから。

 マヨヒガにもう何度目とも知れない春が来た。緑が木々に灯り始めた。
 そして、橙は猫の里で必死に他の猫を追いかけ回していた。とても微笑ましい光景だ。

「今日も大変そうだな、橙」

 橙はそこで初めて私がいることに気が付いたらしい。

「あ、藍様!ちょっと、この猫たちが悪戯をしてお仕置きをしようとしていたところなんです」

 そう言って、橙はまた猫との追いかけっこに戻ってた。私はその始終を眺めることにした。

 ひと通り橙のお仕置きが終わったらしい。

「ふう、まったく、どうしてこんなに悪戯するんだろう」
「ふふ、猫とはそういうものだろう。昔のお前もそうだった」
「そうですか。私はあんまり覚えていませんけど」

 橙は疲れた様子で腰をおろした。橙のこういうところは昔から全く変わっていない。
 だから私は嬉しい。だから私は哀しい。

「橙」

 私の口調に、橙の顔が引き締まった。

「話がある。私の家へ行こう」

 橙と私は八雲の屋敷の一室で正座して向き合っていた。
 橙はどこか落ち着かないらしく、きょろきょろとあちこちを見ていた。
 縁側からは外が見える。遠くに黒雲が立ち込めている。向こうでは雨が降っているのだろう。

 落ち着かない橙と対照的に、私はとても落ち着いていた。

 こうするのが私の役目なのだ。橙が守るべきものを守らせるために、私はこうするのだ。
 それが橙の幸せなら、私は喜んでそうしよう。

「橙、お前に式を操る力を与えようと思う」

 雨雲の手前には虹がかかっていた。とても綺麗な虹だった。

 
 
 


 
決して泣いてはいけない。私たちは交わることのない世界を生きている。

だからこそ、人と触れ合いたくなる。
 

初出:2009年3月2日