創想話
 


 
 猫が猫を拾ってきた。そんなことは、いままで読んだどの小説でもなかったことだった。

 マグカップを口につけ、少し音をたてながらコーヒーを啜り、片手で持っていた小説を両手で持ち直した。つまらない小説をずっと読みつづけるのが退屈で、あくびが出た。
 そのとき、静かな部屋にお燐の声が響き、私の意識は現実に引き戻された。ちょうど主人公が河原で涙を流す場面だった。

「さとり様、少しよろしいですか?」

 部屋のドアは開いているから、入ってこようと思えば自由に入ってこれる。
 私はあいまいに返事をして、本を読みつづけた。主人公は昔の恋人との思い出に浸っている。初めて出会ったこと、自分を守ってくれたこと、喧嘩したこと、最後には、また惹かれあったこと――。
 そこを読んでいる最中、お燐がなるべく足音をたてないようにして、私に近寄り、おずおずと話しかけてきた。

「あの、さとり様、お話があるのですけれど、大丈夫ですか」

 そこでようやく、私はいままでの世界から完全に意識を切り離して、本をテーブルの上に放り投げた。背表紙がテーブルに当たって、大きな音をたてた。お燐が体を跳ねさせたが、私は気に留めなかった。大事な本ではない。
 私は立ち上がって、両足を揃えて立っているお燐に「何?」と訊いた。そしてすぐに、彼女が何を話したいかを悟った。
 お燐が両腕に、黒くて大きい何かを大事そうに抱いている。
 黒猫だ。

「外で黒猫を拾ってきたのですけれど」

 それは私にもわかった。
 お燐に抱かれている猫を見る。体の大きさから、子猫ではない。黒猫の目は閉じられていて、意識がないようだ。第三の目を開いて黒猫の心を覗こうとしたが、それはできなかった。
 私はもう一度黒猫を見てから、お燐に視線を戻した。お燐は黒猫を心配そうに見つめている。
 お燐の思考を少し読んでみた。

(さとり様がこの猫を飼ってくれなかったら、どうしよう?)

 その言葉に、私は少し眉をひそめた。
 私もそこまで冷酷ではない。どうせこの屋敷には数えきれないほどのペットがいるのだから、いまさら猫が一匹や二匹増えたところで特に困りはしない。いままでと同じように世話をすればいい。
 うんざりして、私はため息をつきながらお燐に言った。

「いいわ、ここで飼うことにしましょう」

 お燐の表情がぱっと和らいだ。わざわざお燐の心を読まずとも、表情で思っていることはわかる。
 私はお燐から猫を受け取って抱きかかえ、猫の様子を体で確認した。呼吸は安定していて、眠っているようだった。
 それから、お燐に言った。

「とりあえず、目を覚ますまでは私が様子を見ておくわ。あなたは仕事に戻ってちょうだい」

 お燐は私の言葉に少し体を震わせ、それから丁寧にお辞儀をして部屋から出ていった。ちらちらと何度も猫に視線を投げかけながら。

 お燐の姿が見えなくなってから、私は猫を抱きかかえてソファーに座った。
 猫を膝の上に載せて、もう一度様子を確認してみる。猫はすやすやと眠っている。私は少し胸をなでおろした。もしかしたら、この猫は自分が拾われたことをわかっていないかもしれない。
 テーブルに放り出された本を再び手に取った。それから、コーヒーの苦みが欲しくなって、マグカップに残っていたコーヒーを飲み干す。淹れてから時間がたったせいか、酸味がきつい。
 

 本の続きに意識を沈ませた。
 恋人を亡くした主人公は、恋人のいない世界に絶望して、川に身を投げようとした。
 あなたがいないこの世界に希望があるの? 生きることに希望がなければ、私は死んでもいい、あなたのいる世界で生きたい――。
 川に飛び込もうとして足を踏み出したとき、主人公は恋人の影を見た。幻覚というにはあまりにもはっきりと、現実というにはあまりに儚げな姿。
 影は、必死に叫んだ。お前は俺の分も生きろ――。
 主人公はその叫びに自殺を思いとどまり、そして静かに涙を流した。そうだ、私はあなたの分まで生きなくちゃいけないんだ――。

 感動的な場面、のはずだった。あと数ページしかないこの本で涙を流すなら、ここしか残っていない。
 それでも、私は涙を流せなかった。私の意識は本の中にあるのに、主人公が泣いているのを川の対岸からぼんやりと見つめているだけだった。
 私は、恋人が亡くなっても死のうと思わないし、引きとめられて生きようともしない。あるいは、私がもし死んでしまった恋人だったら、わざわざ影になって恋人の前に現れようとも思わない。
 最後の数ページを飛ばすようにして読み終えて、本を机の上に置いた。それから、机の上に置いてある別の本を手に取って読みはじめた。
 結局、あの本を読んだところで、私には何も残らなかった。

 どれくらいの時間がたったのだろう。
 膝の上で何かが動く感触を覚えた。本を閉じて意識を現実へ引き戻し、私の膝の上を見ると、黒猫が目を開いて、もぞもぞと動きはじめていた。
 黒猫は頭を上げて、周りをきょろきょろと見回した。それから視線を落とし、自分のいる場所を確認して、今度は視線を上に向けた。私と目が合い、しばらくお互いを見つめあう恰好になった。
 それから、猫は突然、飛びあがるようにして私の膝から降りてソファーの上に着地し、私に向き直った。
 私はゆっくりと立ち上がった。猫は私に鋭いまなざしを向けている。私はただ黙って猫を見つめた。
 私と猫が黙って向き合っているのはとても不自然な光景だった。

 さて、この猫は何を警戒しているのだろう、思考を読む必要があるようだ、と私は三つめの目を開いた。
 自分の家がどこにあるのか、わからなくなって悲しくなっているのだろう――と思っていた。しかし、その予想は見事に裏切られた。

(この子は……誰だ?)

 頭の中に流れてきたのは確かに、「言葉」だった。
 猫は、言葉でものを考えていた。

 私がとまどっているうちに、猫はソファーから降りた。きれいに床に着地する。けれど、私はその場から動けず、その様子を見ているだけだった。
 猫は再び周りを見回した。今度は天井から床まで、じっくりと。

(ここはどこだろう? たぶん、この子が寝ている間にここに連れてきたんだろうけど……)

 少しの間考えていたようだったが、無駄だと悟ったのか、猫は思考をやめた。
 それから私に視線を戻して、頭を下げた。私にお礼を言ったつもり、らしい。そのまま唖然とする私をおいて、部屋のドアから外に出ていこうとした。
 私はとっさに猫を引きとめた。

「ちょっと、待って」

 猫は首だけ振り向いた。少し面倒くさそうな顔をしているのは――気のせいだろう。
 いろいろな考えが私の頭の中を駆け巡る。

「あなた、どうして言葉を使えるの? もしかして、あなたは妖怪なの?」

 猫が瞬きをしたように見えた――これも、気のせいに違いない。

(この子は何を言っているんだ?)
「何って、あなたのことよ、黒猫の、あなた」

 猫は体を私のほうに向けた。怪しげに光る金色の瞳で私を凝視する。

(僕のこと? どうして僕のことを知っているんだ?)

 猫はしきりに首をかしげているように見えた――気のせいなのかどうか、だんだん自信がなくなってきた。

「私は心を読むことができる妖怪、さとり。あなたの考えていることは、私にはすべて見えるわ」

 間髪入れずに猫に新しい疑問が浮かんだ。

(心を読むことができる妖怪? それって、どういうことなんだ?)
「あなたはいま、『心を読むことができる妖怪?』って思ったでしょう、そういうこと」

 猫の思考がしばらく読めなくなった。幾多もの考えがぐるぐると渦巻いて、少しずつ机の中にしまうように整理されていく映像のようなものだけが、見える。
 しばらくして、ぽつんとした思いだけが猫の心に残された。

(……小説みたいだ)

 「小説みたい」――その言葉は的を得ているように思えた。

「驚くのも無理ないわ。私も、あなたが言葉を使うことに驚いてるし」
(ふむ……)

 再び猫の思考が混沌として、そこから突然思いつきが飛び出した。

(じゃあ、いまから考えることをそのまま当ててみれば信じるとしよう)
「……いいわよ」
(『たけやぶやけた』)

 どうして回文なのだろう。わけがわからないまま、そのまま返した。

「たけやぶやけた」

 むう、と猫が唸って、また次の思考が生まれる。

(『今日はベーコンレタストマトサンドイッチが食べたい』)

 どうしてカタカナ言葉なのだろう、しかも略称でなく。

「今日はベーコンレタストマトサンドイッチが食べたい」

 猫は目をぱちくりさせて、心底感嘆したようだった。

(すごい、どうしようもないことまで読めるのか、君の能力は)

 猫の目はきらきらと輝いた。私は深いため息をついた。

「どうしようもないことって……あなたが考えた事じゃない」
(ときには無駄なことも必要だ)

 猫はきっぱりと言い切った――ほんとうに喋っているわけではないけれど、私の能力を知ってから、まるで会話するかのように思考してくる。
 私は黙りこくって、心の中で愚痴った。お燐はなんという猫を拾ってきたんだろう、こんな面倒くさい猫をどうして拾ってきたんだろう。
 私が黙っているのをどう勘違いしたのか、また猫に別の思考が生まれた。

(ああ、そうだ、あまり深く心を読むのはやめてくれないか? これくらいで、会話できる程度でいい)

 なんてずうずうしい猫。初めて会ったひとに、そんなことをいきなり言うの?
 私は顔をしかめたが、猫は私の様子を無視して、さらに続けた。

(僕の名前はシャロン)
「シャロン――あなたがつけた名前?」

 猫は首を横に振った。さっきからこの猫の動作がいちいち気に障る。

「じゃあ、シャロン、どうしてあなたは言葉を使えるの?」

 猫が言葉を使うのはおかしい、ありえない。普通の猫の思考はイメージで構成されているのに、この猫は――。

(ああ、そうか、話していなかったね)

 もったいぶったような言葉を返されて、私はいらっときた。なに、この偉そうな態度は。

(さっき、君は言ったね、僕が妖怪なんじゃないかって。僕が確信を持って言える範囲で答えるなら、僕は妖怪じゃない……普通の猫だ)
「なら、なおさらどうして言葉を使えるのかわからない」
(あるひとに日本語を教わってね、それ以来、言葉をずっと使うようになってしまった)
「……そんなこと、ありえるの?」

 シャロンはため息をついて、やれやれ、というように首を振った。

(それは僕にも確信が持てない。白いカラスなんていない、なんて言えないようにね)

 悪魔の証明。この猫は、ほんとうにどこまで知っている? 驚くというより、私はこの猫をますます疑った。
 けれど、私はそれ以上を探るのをやめた。やろうと思えばいつでもこんな猫の心なんて読める。何より、この猫のことは追求したくない。
 私はソファーに浅く腰かけた。

「ねえ、あなたはこれからどうするつもり?」
(ふむ、どうするつもりと言われても、ここがどこだかわからない。それがわかってからじゃないと動けない)

 私は深くため息をついた。いろいろ偉そうなことを言ってはいるが、結局のところ、この猫は自分の置かれた状況をわかっていないらしい。
 宣言するように、きっぱりと私は言った。

「ここは地霊殿。地下の奥深く。ここから地上に出るには、猫だとだいぶ骨が折れるでしょうね」

 猫の目が真ん丸に見開かれた。信じられない、といった表情だった。

(地下? 道理で、日の光が射さないわけだ)

 しばらく猫は思案にふけっていたが、その考えがまとまる前に、私は言ってやった。

「これから、私があなたの主人。あなたはこの地霊殿で暮らせばいいわ」

 いままでこうやって地霊殿に猫を受け容れてきた。この猫も、多少変わっているが、いままでと同じでいい。何も今までと変わらない。
 けれど、シャロンは私を見つめて、それから、にやりと――猫なのに、確かに笑った。

(君が主人? ……それは面白い)

 シャロンが何を言いたいのかを、私は探らなかった。 

 にゃあ、とソファーの下からシャロンが鳴いた。私はソファーに座って本を読んでいる最中だった。
 シャロンとある約束をした。シャロンが「にゃあ」と鳴いたら、心の目を開く。けれど、思考の深いところを探ってはいけない――厄介な約束だった。
 いちいちシャロンを見るのも面倒くさい。本から目を上げないまま、心の目を開いた。どうせ大した話ではない。

(君は小説が好きなのかい?)

 やはり重要な話ではなかったらしい。私はため息をつきながら答えた。

「そういうわけじゃないわ」

 そのまま続きを読もうとすると、シャロンがまた私に話しかけてきた。

(そのわりに本棚は小説でいっぱいじゃないか)

 部屋の三つの本棚はだいたい小説で埋まっているが、どうして小説が多いのかは自分でもよくわからない。
 シャロンは本棚のもとまで歩いていった。シャロンは本棚を上から下までじっくり眺めていた。私は横目でそれを確認して、本の続きに戻った。
 しばらくして、またシャロンがにゃあと鳴いた。再び私は心の目を開く。

(何か面白いものはあるかい?)

 私はシャロンの問いには答えず、適当に受け流そうとした。

「読みたいなら適当に選んで。決まったら取ってあげるから」
(面白いもの、ないのか?)

 シャロンがしつこく訊いてくる。頭の中に声が、がんがん響いて、集中できなくなった。仕方なく本を閉じ、視線を虚空に向け、いままでの読書記憶を取り出してみる。
 そこで気づいた。本棚に埋まっている本はぜんぶ読んだが――深く感銘を受けたり、笑ったり、泣いたりした本は、ない、たったの一冊も。そういう記憶はおろか、読んだ本の内容すらほとんど忘れている。
 あれほど本を読んでいながら、私の心に残った小説はひとつもない。

「私が読んだ中では面白いのは、特になかった」
(……小説、好きじゃないのか?)
「もしかしたら、そうかもね」

 遠くから不思議そうな顔で私を見ている。もう少し深く心を覗けば、きっと(もったいないな)と考えているのがわかるだろう。

(僕は小説、好きだけど)

 あなたのことはどうでもいいのだけれど、と言いかけてやめた。
 シャロンはそのまま私の本棚を物色しつづけたが、目につくものがなかったらしく、私のもとに戻ってきた。ソファーの上に飛び乗って私を見て、それから、私が手に持っている本を遠慮がちに見て、「にゃあ」と鳴いた。

(その本、面白そうじゃないか。読み終わったら借りてもいいかい?)

 私はその本の表紙を見た。若い女性が風船を空に放している絵が描いてある。
 いまあらためて見ると、ひどく明るい絵だ。この地霊殿に置くにはふさわしくないくらいに。そう考えると、この本をこの猫に渡すのに何の問題もないように思えた。
 私は本をシャロンの目の前に突き出した。

「……貸してあげる、いま」
(え?)
「これもそんなに面白くないし、どうせ私の本なんだからいま読めなくてもいいわ。ほら、持っていって」

 シャロンは本を見て私を見て、それから小さく頭を下げた。猫のくせに変なところだけ人間じみている。

(ありがとう)

 シャロンは器用に本を口にくわえ、ソファーに本を置いて前足で表紙をめくり、本を読みはじめた。多少本は汚れるだろうが、そんなこと、私は気にしない。この本はもうどうだっていいとさえ思えた。
 私はソファーから立ちあがって本棚から別の本を取り出し、静かに部屋から出た。ソファーの上のシャロンは本に熱中しているのか、私が出ていったのに気づいていないようだった。あるいは、気づかないふりをしているのかもしれない。
 中庭に出てベンチに腰かけ、本を開いた。前に読んだことがある本かもしれないが、どうせ中身なんて覚えていないだろう。
 地底の生温かい風が私の髪を撫でて、額に少し汗が浮かんだ。居心地が悪い……。

 ある朝、シャロンが言った。

(僕は君にお世話になっている。だけど、それは義務じゃないと思う)

 私はいっぺんに気分を悪くした。それは猫の朝食をあげていたときに、シャロンが前足でわざわざ私の膝を叩いて、言ったことだった。
 そんなのは、私に言うことじゃない。
 けれど他の猫の手前、できるかぎり私は平然を装った。

「他の猫に餌をあげてて忙しいときに、あなたはそんなこと言うの?」
(確かにいま言うべきときではないかもしれないけれど、一応、ね)
「一応?」
(言えるときに言ってしまおうかと思って)

 シャロンは私の声が怒気が含んでいることに気づいていないようだった。
 私の手が止まり、他の猫は私の周りに集まってにゃあにゃあ鳴きはじめる。

(あ、猫たちが朝食を早くほしいって)

 シャロンが首を他の猫たちに向けて、顎でしゃくるような動作をした。
 そんなこと、わかっている。誰のせいであげるのが遅くなったと思っているの――?

(僕の分は後回しでいいから、他の猫たちの分を早く)

 かっ、となった。その言葉でとうとう私は頭に血が上りきった――我慢の限界だ。
 立ち上がってシャロンをにらみつける。私が急に立ち上がったので、他の猫は驚いて後ずさった。他の猫に囲まれて、私とシャロンが向き合う形になった。シャロンは何が起こったか、理解していないようだった。
 私は、なるべく口調が荒くならないように、静かに言った。

「そんなに言うなら、あなたの分はずっと後回しよ」
(……え?)

 シャロンが一瞬、ひるんだ。その顔が少し歪んだように見えたのは錯覚じゃない。

「これから三日間、あなたのご飯は抜き。これでいいでしょう?」

 自分でも理屈の通らないことをしゃべっている、と思った。それでも、間違ったことはしていない、はずだ。こんな自分勝手な奴にご飯をつくる必要なんてない。シャロンだって、周りの猫と変わらない、私のペットだ。
 私とシャロンの間に沈黙が流れた。私はシャロンをにらみつけて、シャロンは私をただ見ているだけだった。私は悪くない、間違ってない。
 沈黙のあと、シャロンがゆっくり口を開いて、にゃあ、と鳴いた。

(いいよ。じゃあ、これから三日間はこの地霊殿にもいない、ここを出て行く……それでいいだろう?)

 そう言い残し、シャロンはさっと踵を返して部屋から出ていった。まるで彼が最初からここにいなかったかのように、きれいさっぱりとその姿を消した。
 シャロンと入れ替わるようにお燐が部屋に入ってきた。部屋の入り口を何度も振り返りながら、私のところまで来た。

「さとり様、いま、シャロンが玄関のほうに向かっていきましたが……」

 私はそっけなく答えた。

「ええ、あの猫はここに戻ってこないわ」
「え?」(それって、どういうこと?)

 お燐は驚いた顔を見せた。

「三日間、地霊殿には戻ってこないって言って、出ていった」
「そうなんですか」(だいじょうぶかな、シャロン……)
「どうせ、すぐに戻ってくるわ。三日間も外で生きられるはずがないもの」

 心配しているお燐をよそに、私は確信を持って、言いきった。
 お燐は地霊殿の窓から外を眺めていた。私も窓に目を向ける。空なんて決して見えない外の風景が、なんだか今日は晴れ晴れとしているように感じた。
 きっと私は後悔していないんだろう、シャロンを外に追い出したことなんて、ちっとも。シャロンが三日もせずに帰ってきたら、何て言おうか。何も言わないでおこうか。

 それから三日間、私はシャロンが来る前と同じように過ごした。何も気にすることはない、いつもと同じ生活だった。
 けれど、シャロンは戻ってきた。それも、元気な姿で。
 私はひどくうんざりした。

(さすがにもう歳だから、三日間も外にいると厳しいな)

 私と対照的に、お燐はシャロンが帰ってきたことに安堵し、喜んでいるようだった。喜々としてシャロンを抱き上げて頬ずりし、シャロンはお燐の腕の中でじたばた暴れていた。シャロンの毛並みは少し荒れていたが、それ以外に変わりはなかった。
 ほんとうに、シャロンは自分の身をもって、私の世話が必要ではないことを証明した。……でも、シャロンがここにいる間は、私が世話をする。

 なにがこんなに私をいらいらさせるのだろうと、自分の胸に問いかけた。その答えは明らかだ。
 シャロン――ペットのくせに。がらにもなく、そんなことを思った。

 私のいらいらは消えることがなかった。それはずっと私の中に居座りつづけ、私の体をつつき回した。そして、それは私の頭の中をちくちく刺激しつづけた。どうしようもなく不快だった。
 よく考えてみると、そんなふうに感じはじめたのはシャロンが来たときからじゃないか、と気づいた。それがひどくなったのはシャロンが地霊殿に帰ってきてからで、もともと不快さはあったんだと思う。だからどうすると言われても、どうすればいいのか、自分でもわからない。
 ひとつだけはっきりしていたのは、シャロンを追い出せばこの疼きは消えるだろう――ということ。
 要するに、私はシャロンが嫌いなのだ。ただ、それで追い出すほどの意志の強さも、私にはなかった。

 たかが、ペットじゃない。

 シャロンが本を返しに来た。風船を空に放す女性を表紙にした本。以前、シャロンに貸したものだった。

(ありがとう)

 そう言って、シャロンは本をソファーの上に優しく置いた。思いのほか、本は汚れていなかった。

(面白かった)

 ずいぶん、そっけない感想だった。シャロンが練りに練った感想かどうかはわからないが、少なくとも、私にその本をまた読もうと思わせる感想ではない。
 私はその本を手に取り、ソファーから立ち上がった。

「……どのへんが面白かった?」

 シャロンは少し深いところで思考してから、答えた。

(そうだね……そこには寂しさがあふれている。どうしようもなく寂しくて、切ない。それなのに、そこにわずかな希望の光を感じられずにはいられないんだ。そんな小説だった)

 質問と微妙に食い違っている。私は「そう」と軽く返し、ため息をつきながら本を棚に戻した。背表紙は他の本の間に埋もれて同化した。もう一度出してくれと言われても、二度と見つからないかもしれない。
 シャロンはソファーから降りて、私の足もとまで寄ってきた。

(恋愛小説なんてものは、ないのか?)

 ねだるように私を見る。また何か借りたい、ということなのだろう。私は適当なところから本を引っ張り出し、その表紙を見てみた。見覚えがある。シャロンに貸す本の前に読んでいたものだ。ハートマークが空に漂っていて、ハートには赤い糸が結んである、そんな表紙だった。
 それを見てふと、こいしの顔が浮かんだ。

(いかにも、恋愛小説だね)

 シャロンは私に構わずに話しかけてきた。私は、その顔を見て、また本の表紙に視線を戻した。
 この猫は知らない。私に妹が――心の目を閉ざしてしまった妹がいるということを。そして、心の目だけでなく、心も閉ざしてしまったということを。
 そう思ったとき、ふと私はこの猫に対して優越感を抱いた。私はこの猫が知らないことを、まだ秘密にできる。そう思うだけで、なぜだか私の不快感は少し薄れた。
 ふと、この猫に訊いてみたくなって、本を手にしたまま猫を見下げて尋ねた。

「ねえ、恋をしたことはあるの?」

 首だけ、シャロンと向き合うかたちになる。シャロンは少し首を傾げてから、こう言った。

(君がそんなふうにぼくに訊くなんて、珍しい)
「あなたが恋愛小説を読みたい、なんて考えるからよ」

 シャロンは「にゃ」と鳴いた。苦笑している、のだろう。

(そうだな。僕もオスだから、発情しなかった、と言えば嘘になる)
「じゃあ、どこかのメス猫に惚れたこともある、ということ?」
(一般的に言えば、そうなる。とはいえ、もう僕も歳だからね、いまとなっては恋をする元気もなくなってきた)

 そう言って、シャロンはまっすぐ私を見据えた。その目の真剣さに、私は少しひるんだ。まさか、とは思うけれど……。
 少しの沈黙の後、シャロンは静かに――思考の中なのに、静かに言った。

(もちろん、君に恋をするようなことは、ない)

 私は少しの間、言葉を失った。無駄に心構えしていたので、拍子抜けした。何を言うのかと思えば、そういうことか――。
 それから、気を取り直して考えた。普通に考えれば、こんな気持ちの悪い言葉はない。女性にこんな言葉を言う男性は、気味悪がられる。何度も小説で同じような場面を見てきた。「自意識過剰だ」、そう女性に突き放されるだけだ。
 けれど、私に鳥肌が立つようなことはなかった。気味悪いとさえ、思わなかった。それは、私がシャロンに恋をしているから、ではない。
 そのはずなのに適当な言葉が見つからなくて、結局、「なによ、気持ち悪い」としか返せなかった。

(でも、これは大事なことだから、君に言ったんだ)

 シャロンの顔に一瞬、寂しさが浮かんだように見えた。
 初めて私はこの猫に興味を抱いた。どうしてだか、自分ではよくわからない。訊いてみたいと思った。

「どうして、大事なことって……?」

 シャロンは私から黙って目をそらした。本棚の影と顔の影が重なって、表情がうまく読み取れない。ただ、金色の目だけが光を放っている。
 しばらく沈黙が続いて、そして、初めてのはずだ――シャロンが私の能力を拒絶した。

(……知られたくない)

 こんなにはっきりと拒絶したのは、初めてだった。そして、その理由もすぐに探れるようなものではなかった。

 シャロンの心の奥底に、つるつるの殻で覆っている何かがある。殻は卵の殻のようにとても堅く、誰かが叩いても割れることなく、中のものを守りつづける。
 私は、その殻に小さな穴をあけて中を覗き込むことができた。どろりとした白身と黄身を観察して、少しだけ味を楽しむこともできる。中を覗くことが野暮なことだとは思わない。でも、そうしたくない。
 いままでそうしてこなかったように、心を覗こうなんて思わなかっただけ。覗いたとしても、きっと、見えるものが気持ちのいいものではないから。そして、それが嫌いなひとの心なら、なおさら。

 私は何も応えることができず、ただ黙って本をシャロンの目の前に差し出した。シャロンは軽く会釈して、本をくわえてソファーに上り、その本を読みはじめた。
 いつの間にか、私の中の不快感が消えうせていた。

 シャロンの小さな後ろ姿を見て、思う。この年老いた猫はいずれ、すべてを誰かに話すだろうか。
 いつかは、殻が消える日が来るだろうか?

 お燐が、シャロンと話していた。

 何を話していたのかは、よくわからない。私は会話を覗こうとしなかった。お燐が真剣そうにシャロンに話しかけ、シャロンは黙って相槌を打ち、ときどき「にゃあ」と返した。
 その光景を見かけたのは、中庭に通じる廊下だった。その場所であることに意味はあったのかもしれないし、ないのかもしれない。
 でも、とにかく――中庭に通じる廊下でお燐とシャロンが会話していることに、私は堪えられなかった。
 シャロンとお燐の二人が話しているのを見て、何がなんだかわからないまま、無性に腹だけが立った。消えたはずの不快感が増幅して私の中に戻ってきた。

「お燐!」

 廊下の奥から、私はお燐を怒鳴りつけた。お燐の肩がびくんと跳ねる。私に背を向けていたシャロンが振り向く。お燐はおどおどとした目で私を見ている。
 私はお燐に言葉を叩きつけた。

「何をしているの、まだあなたの仕事は終わってないでしょう、こんなところでさぼらないで!」

 反論なんて聞き入れたくなかった。ただ、お燐とシャロンを引き離したかった。
 お燐の目から涙がぽろぽろとこぼれる。お燐はそれを無理に抑えようとしながら、涙声で応えた。

「すみません……さとり様」

 お燐は私に背を向け中庭に向かって、ときどき立ち止まりながら、歩いていって姿を消した。肩を震わせる後ろ姿が、とても小さく見えた。
 廊下には私とシャロンが残った。私が廊下の奥に、シャロンが廊下の中央に――とても遠い。
 「にゃあ」とシャロンが鳴いた。心の目を開く。

(どうしてお燐を叱りつけた?)

 シャロンの表情はここからだと遠すぎて読み取れなかった。それでも心の声が普段と違うのはわかる。私を非難するような響きがあった。
 私はシャロンと目を合わさないように、肩をすくめながら答える。

「何も不自然なことはないわ。ただ怠けていたペットを叱った、それの何が悪いの?」
(……それだけ、か?)

 シャロンが訊き返してきた。答えを求めているようにも聞こえるし、そうでないようにも聞こえる。

「それだけよ」
(……そうか)

 シャロンは中庭のほうに視線を向けた。(お燐がいま、そこで泣いているかもしれない)という思考が飛び込んできた。
 どうしてこんな奴にお燐の心配までされなければいけないの――勝手、勝手すぎる。私はシャロンのもとへ歩み寄り、シャロンを見下ろした。

「あなたにも責任があるのよ。あなたがお燐の相手にならなければよかったのよ」

 シャロンは私に視線を戻す。私を射抜くような鋭い視線に、頭に鈍い痛みを感じた。

(お燐は……僕を必要としていた)
「それは言い訳でしょう。あなたがお燐と話したから、お燐がさぼったんじゃない」
(僕じゃなくてもよかったかもしれないが、たまたま通りかかったのが僕だった、ということだろう)
「だから、あなたがそれに応えなければよかった! あなたがひどいわ!」

 無意識のうちに語調が強くなっていた。頭痛も、どんどん強くなっていく。
 シャロンはじっと私を見つめた。長い沈黙が流れて、最後にぽつりと、シャロンは言った。

(ひどいのは……君だよ)

 シャロンは私から離れ、中庭のほうに向かって歩いていって姿を消した。
 私だけが廊下の中央に残された。

 何かが変わっているのかもしれない、そう気づいたときには、おそらく手遅れだ。直そうとすれば何もかもが崩れて、もう二度と元には戻せない。
 こいしのことはシャロンに知られていないはずだった。けれど、二人は出会ってしまった。

 秋の終わりの生暖かい日のことだった。私は部屋のソファーで本を読んでいて、シャロンはソファーから離れた場所で昼寝をしていた。
 あのとき以来、私はシャロンとめったなことでは口をきかなかった。それは、シャロンも同じだった。
 本の中で、主人公がバットで父親の頭をふきとばした場面で、誰かの声が私の耳に入ってきた。

「ねえ、お姉ちゃん、この猫、なあに?」

 私はあわてて本を読む手を止め、声のしたほうに首を向けた、が、遅かった。
 シャロンは「にゃあ」と鳴いて、こいしに頭を下げた。こいしは笑った。

「あはは、この猫、人間みたい」

 それから、こいしはシャロンの頭をなでた。シャロンは、なぜかこいしに対しては頭をなでられるのを嫌がらなかった。お燐や私のときには何が何でも拒否するのに。
 こいしはさっきと同じ問いを、私に投げかけてくる。

「この猫はどこから来たの?」

 私は本をテーブルの上に置いて立ち上がった。もう二度と本を読む気分にはなれない気がする。

「……わからない。お燐が拾ってきたから」
「猫を拾ってくるなんて、珍しいね」

 こいしに言われて、初めて気づいた――シャロンは拾われてきた初めての猫だ。地霊殿にいるペットは、ぜんぶ自分からこの地霊殿に来たのに、シャロンだけは、違った。

「ね、なんていう名前なの?」
「……シャロン」
「あれ、洋風な名前だね」
「もともとそういう名前なの。猫が言ってたわ」

 こいしはシャロンを抱き上げた。それでもシャロンは嫌がることなく、こいしに体を預けていた。
「かわいい」と、シャロンに頬ずりしながら、こいしは私に尋ねた。

「ねえ、お姉ちゃん、お願いがあるの」
「……何?」

 なんとなく、嫌な予感がした。そういう予感にかぎって、よく当たってしまう。

「この猫、私にちょうだい?」

 胸に杭が刺さったような感触を覚えた。シャロンがこいしを見た。

「だめよ」

 自分でもよくわからないうちに、こいしの頼みを断っていた。シャロンが今度は私に視線を向けた。

「その猫はもう歳よ。もっと若いペットのほうがいいでしょう?」
「おじいちゃんなの?」
「そう……」

 その先を言おうとして、やめた。いまのは、断るほんとうの理由じゃない、
 自分で、自分がわからなくなる。どうしてこいしの頼みを断ったの? なんで? どうして嫌いなひとなのに、連れ去られたくないの?
 こいしは不満そうな表情を浮かべながら「ふうん」とつぶやき、シャロンを床に降ろした。

「ま、いいや。じゃあね、お姉ちゃん、シャロン」

 こいしはふらふらと私の部屋から出ていった。シャロンがこいしの後ろ姿を見送った。
 私は立ったまま、コーヒーを一口飲んだ。シャロンが私に向き直り、「にゃあ」と鳴いた。

(あれが君の妹かい?)

 私はこいしの出ていった扉を見つめながら、黙ってうなずいた。

(君によく似てる……でも、君と違って心は読めないのか)

 もう隠す意味も理由もない。

「あの子は自分から心を読む能力を捨てたわ」
(どうして?)
「小説が好きなあなたなら、わかると思うけれど」
(……嫌われる、からか?)

 私は無言で肯定して、つづけた。

「あの子は心を閉ざした。だから、私があの子の心を読むことはできない」

 シャロンはしばらく黙って、深いところで考え込んで、ふと、思った。

(かわいそうなことじゃないか)

 そのシャロンの言葉に、思わず――私は叫んでいた。

「違う!」

 シャロンが驚いて私を見つめた。

「私は自分が、こいしが不幸だなんて思ってない、いまのままでずっと満足よ! 心を閉ざしたからって、なんだって言うの? 心が読めることも不幸なの?」

 いつの間にか、こいしと私が重なった――。

「ねえ、あなたにはわかる? わからないでしょね。私たちがいままでどんな思いをしてきたかなんて。でも、もうそんなことはどうだっていいのよ。いま、こうして暮らしているんだから。それなのに、あなたは何が言いたいの? なんで勝手にそんなことを思うの? いいじゃない、私たちのことなんて。あなたが気にすることはないのよ! 放っておいてちょうだい!」

 一気に、言い切った。
 シャロンの視線がまっすぐに私を射すくめる。その瞳に私の姿が映った。私はそれを見て、頭を耳を塞いで、うずくまりたくなった。
 どうして、どうしてシャロンはこんなに私の心を揺さぶる? どうしてそんなに私をまっすぐに見つめられる? 心を読む妖怪にどうしてそこまで――?
 長い沈黙がつづいて、それから、静かにシャロンがうなずいて、言った。

(すまない。少し、一人になってくる)

 それが、シャロンが出した答えだった。
 寂しそうに私から離れて部屋を出る、その後ろ姿を私は黙って見送った。

 部屋には私ひとり。新しくコーヒーを淹れ、ソファーに深く座って一口啜る。それから、長い、長いため息をついた。コーヒーが体に滲みわたり、苦みが指の先まで突き抜ける。もう一度、長いため息をついた。もし私が煙草を吸うひとだったら、その息が流されていくさまが見えるのに。

 夢を見た。
 湖にぽつんと浮かぶ小舟。私はその舟に乗って、本を読んでいた。誰にも邪魔されることはない、平穏な世界。少し太陽の光がまぶしかったが、ただそれだけだった。私はひとりで満足していた。
 けれど、突然、舟が揺れはじめ、私は思わず体勢を崩した。本が手から離れ、舟の外に落ちた。何事かと舟のふちにつかまり、外を見た。
 湖に浮かんでいた舟は、いつの間にか海の上を漂っていた。周りを見渡しても、どす黒い水面が太陽の光を反射しているだけだ。波が立つ音も聞こえない。
 私は船のへりから波が船を揺らすのを、ただ見つめているだけだった。

 目を覚ますと、私はソファーに横たわっていた。時計を見て、日付が変わったことを悟った。昨日、あのまま寝てしまったのか。
 体を起こそうとして、ひどい痛みを覚えた。首も、肩も、腰も、足も、腕も……体のあちこちが痛い。大きく伸びをして、首をぐるぐると回す。気だるさが体にのしかかった。
 ソファーから体を剥がして、ゆっくりと周りを見わたした。シャロンは、いない。
 とりあえず、ぼさぼさになってしまった髪を直したいと思い、お風呂に入ることにした。

 ゆっくりと湯に入ると、いつもより熱い湯が、よけいに私を疲れさせるような気がした。それでも構わず、私は鼻の頭まで湯に浸かった。吐息の気泡が浮かび上がり、大きな音を立てて割れる。
 今度は大きく息を吸って、頭のてっぺんまで沈む。熱湯が私の体を包み込む感覚がした。お湯の中では自分がひどく小さい存在に思えてきた。目にお湯がしみるのを覚悟してまぶたを開くと、歪んだ私の手足が見えた。
 顔を外に出して、また大きく息を吸い込んだ。私は確かに呼吸している、生きている。

 バスタオルで頭を掻きまわし、乾かすのはそこそこにした。結局、いつもどおりの髪形に戻った。服は、適当にいつも着まわしているものを着た。靴下とスリッパは……あとではこう。
 裸足でひたひたと廊下を歩く。湯あたりしたのか、少し頭がふらふらして、足もとが焼けるように熱かった。気だるさも抜けていない。
 部屋に戻ると、裸足のまま崩れ落ちるようにソファーに体を預けた。机の上には読みかけの本と飲み残したコーヒーが入ったマグカップが、いつものように置いてある。けれど、本を読む気分にも、コーヒーを飲む気分にもなれない。
 名前を呼ぼうとして、あわてて口をつぐんだ。違う、そっちじゃない。一息ついて、今度はちゃんと私が思うひとの名前を呼べた。

「お燐……」

 お燐が部屋に入ってきた。私の様子をうかがっていたのだろう、風呂から上がったあとからずっとお燐の気配を感じていた。私はソファーに横たわって、お燐に訊いた。

「ペットたちのご飯は、どうなってるの?」
「私が作っておきました。だいじょうぶです、さとり様」
「……そう」

 心の目は開かなかった。まともに話すのも、つらい。

「あの、さとり様、だいじょうぶですか? 少し顔が赤いし、朝食も食べてないようですが……」

 確かに体はだるい。けれどそれ以外は、熱があるとも空腹とも感じられなかった。

「夜更かしと湯あたりで少しだるいだけ、問題ないわ。ご飯も、あとで食べるから」
「冷たいタオルだけでも持って来ましょうか?」

 お燐に目を向けた。とても心配そうな表情で私を見つめていた。ほんとうに私のことを心配しているだろう、ということもわかる。

「いえ、少し寝てるだけで治るわ、ありがとう」
「……そうですか」

 お燐の目の下には隈ができていた。お燐こそ、だいじょうぶなのだろうか? 冷たいタオルが必要なのは私ではなく、お燐ではないのか? でも、私はそれに触れない。
 お燐は気が利いて、とても優しい――ただ、私にとっては、それだけだ。

「とにかく、ペットたちが元気ならそれでいいわ。夜ご飯は私が作るから」

 お燐は軽く会釈をして、「無理はしないでください。つらかったら、私がまた作りますから」と、微笑んだ。その笑顔に向かって、だいじょうぶだから、とは言い返せなかった。
 お燐は私が昨日飲み残したコーヒーが入ったマグカップを持って、部屋をあとにした。シャロンがいないことに気づいているはずなのに、彼女は意図的に話題に出さなかった。

 ソファーに私がひとりで寝ていた。
 ため息をついた。疲れそのものが息になったみたいだった。
 足りない――足りない、何かが、足りない。そんな思いが胸に去来した。急に胸が締めつけられて、切なくて、寂しくなった。
 腕で目を覆う。ため息をつく代わりに、口から名前が零れた。

「シャロン……」

 すう、と私の目から頬に、一筋の涙が静かに伝い落ちた。

 シャロンが私の部屋に戻ってきた。彼が出て行ってから、三日がたっていた。
 シャロンは部屋の入口に立っていた。私を見たり床を見たりして、私と目が合うと、さっと視線をそらした。私は何も言わなかった。
 しばらくして、申し訳なさそうにシャロンは顔を上げて、鳴いた。 

「にゃあ」

 鳴き声がこつんと私の部屋に響く。

(ごめん)

 短い言葉だった。それ以上の思考はがんじがらめになっている。
 ――それで、十分だった。

「……シャロン、私こそ、ごめんなさい」

 シャロンがゆっくりと私の目を見た。

「入っていいわよ」

 私はシャロンを受け容れたのかもしれない。

 私は自分のコーヒーを淹れてソファーに腰掛けた。シャロンとソファーでふたり。

(シュレーディンガーの猫、って知っているかい?)
「知らない。他のひとのペットのことなんて」
(ペットの話じゃないさ)

 シャロンは私の隣でおかしそうに笑った。

(『シュレーディンガーの猫』っていうのは、ある学問で大きな問題になっている理論の喩えのことだ。だいぶ前に読んだけれど、深く興味をそそられた)

 なんとなく、聞いてみたい。

「どういう話なの?」
(ある実験をするんだ)

 ある箱の中に毒ガスの噴出器と核分裂の検出器、それから核分裂をする原子を入れる。検出器が核分裂を検出すると、毒ガスの噴出器が動き、箱の中に毒ガスが充満する仕掛けになっている。
 核分裂はいつ起きるかわからない。十分後かもしれないし、一時間後かもしれない。もしかしたら、一日後かもしれないが、いつかは必ず分裂する。でも、箱を外から見ていても、分裂したことなんてわからない。
 核分裂の話はどこかで読んだことがある。

(そこにさらに一匹の猫を入れるんだ)

 シャロンは躊躇なく言った。

(もし原子が核分裂すれば、毒ガスが猫を殺す。けれど、それが起きたかどうかも箱の外からだとわからない)

 私はうなずいた。シャロンのここまでの説明は理解できる。シャロンは横目で私をちらりと見て、それから前に視線を戻した。

(じゃあ、訊こう。ある時間が経ってから箱を開けるとき、猫はどんな状態にあると思う? つまり、生きているか、死んでいるか)

 少し考えたけれど、質問があまりに抽象的だった。「わからない」と答えた。

(じゃあ、一時間後だったらどうだろう?)
「……それも、わからない」

 シャロンは(それが普通の答えだと思う)と、首を縦に振った。

(でも、もう一つ答えがある。『猫は生きているし、死んでもいる』)
「そんなこと、ありえないじゃない。生と死は矛盾するんだから」

 シャロンは再び首を縦に振った。

(そうだよ、君の言うとおり、生と死は矛盾する。同じように、普通は原子も分裂しているか、していないか、はっきりと区別される。それが、僕たちの常識だ)

 でも、ある学問の領域では、その原子の分裂を確率的に考えるという。

「どういうこと?」
(不確実なんだ、原子をつくる要素が生身のひとのように。不確実なものを考える逃げ道として、『確率』を人間は編み出した。それによれば、核分裂をするかどうかは確率で表せる、らしい)

 たとえば、一時間後に原子が核分裂をする確率は50%、していない確率は50%とする。それを言い換えると、「一時間後の原子は50%核分裂していて、50%核分裂していない状態」。

「どう違うかがよくわからないのだけど」
(動作で考えるのではなく、状態で考える。箱の中を原子が核分裂している状態としていない状態の二つを使って、重ね合わせて考える)

 要するに、核分裂をしている、核分裂をしていないという矛盾するはずの状態が両立しているんだ、とシャロンは言った。

「そう考えるのって、めちゃくちゃだと思うけど」
(だから、確率なんだ。確率を使えば、論理的には、間違っていないだろう?)

 そこがわからない。眉をひそめる私を横目で眺めながら、シャロンは苦笑して続けた。

(核分裂が起きるか起きないかが猫の生死を決めると仮定する。そうすると『半分は核分裂していて、半分は核分裂をしていない』ことは『半分は猫は生きていて、半分は猫は死んでいる』と、論理的には考えることができる)

 生と死を重ね合わせて考える――。小さな世界での確率が、遠く隔てられた二つのものを引き合わせる――。

(ある学者が言うには、その重なり合った状態が、箱を開けることで、初めて生か死のどちらかに『収束』するんだ)

 他にも色々な考え方がある。
 そもそも原子の世界の話を生身の生物の生死に持っていくという論理がおかしいと言う学者もいる。
 とにかく、『シュレーディンガーの猫』はそれほど有名な思考実験だ――。シャロンの話はそこで終わった。

 シュレーディンガーというひとが何を考えているのか、私にはわからない。思考実験と言うけれど、なんとなく、シュレーディンガーはほんとうに猫を使ってこの残酷な実験をしたんじゃないか、と思う。
 それから、シャロンがどうして猫なのにこの話を持ち出したのかも、わからなかった。

「おかしなところだらけね、確率を持ち出したところも、論理的な思考も、ほんとうに学者学問。だいたい、そんなことを考える意味がどこにあるの? 生きるためにはそんなこと、要らないじゃない」
(まあ、矛盾の問題に意味があるかは、僕にもよくわからない。本で読んだだけだから)

 そもそも、猫がこの話を知っているのもおかしいけれど。

(ただ、僕にとって大事なのは、箱を開けなければこの思考も意味がない、ということだ)
「……どういうこと?」
(頭の中だけでいくら論理的思考をしていても、結局、現実を観測しないとこの矛盾も発見できない、だろう?)

 それはあたりまえだと思う。

「つまり、現実を見ろっていうこと?」
(そうじゃない。箱を開けろ、ということだ)

 どう違うのか、私にはわからなかった。それが大事かどうかも。

(猫が生きているのか死んでいるのか、箱を開けなければ永遠にわからない)

 シャロンはまっすぐに私を見つめた。あのときと同じまなざしだ。私は、今度は目をそらさなかった。

(君は、箱を開けるかい? 猫が死んでいるかもしれない、それでも、その箱を開くかい?)

 箱を開けたところを思い描いた。なぜか猫の姿はシャロンのような成熟した猫ではなく、小さな子猫だった。箱を開けて、子猫が私のところに駆け寄って甘えてくる――でも、それは生きていたらの話だ。もし毒ガスが噴出されていたら?
 あまりに残酷で、異様で、気味が悪い光景が浮かんで、私はあわてて想像するのをやめた。

「私は、開けない」

 子猫が息絶えて醜い姿で倒れているのを、見たくない。それは子猫のためでなくて、私のために。
 シャロンは私の答えに、目を少し伏せた。

(僕は箱を開ける。猫が死んでいるかもしれない、それはわかっている。それでも、知りたい。中がどうなっていても、僕は箱を開けたい)

 私はこいしのことを思った。あの子は、箱を開けるだろうか? ――いや、もう開けている、と思い直した。
 あの子はそれ以上箱を開かないために、その箱だけは開けた。そしてあの子は心を閉ざした。
 こいしが不憫だと、初めて思った。
 シャロンが続ける。

(それと、これは問題を提起した学者も考えてはいなかっただろうけど、大切なことがあると思う)

 それは、何?

(一日たっただけなら箱を開けないと猫の生死はわからない。でも、一年間箱を開けなければ、どうなっている? たとえ、核分裂が起きていなくても、ガスの噴出機が故障していても、猫は間違いなく死んでいる)

 その光景を想像したくなかった。それもきっと、残酷な絵に違いない。
 でも、と思い直す。死んでいるとわかっていても、その姿は箱を開けなければわからない。箱を開けなければ、猫が死んでいるという事実さえなかったことになるのだろうか?
 それは――ひどく、哀しいことだと思う。
 シャロンがため息をついた。疲れの交じった、ため息だった。

(そういう意味では、僕も箱の中の猫と同じだ。変わってしまう、何もかも。生きるものも、命を持たないものも、ひとの思いも、歴史も……幻想も)

 シャロンの目はどこか遠くを見つめていた。

(君は……いや、僕もだろう。いまいるところから、ただ遠ざかっていくのを見ることしかできない。僕たちには、何もできない)

 私はそれを否定することができなかった。「私はずっと変わらない私」と断言することができるだろうか? 私はそう言えない――誰にも、言えるはずがない。

(だから、僕は箱を開けたい。ただ黙って見過ごしたくないんだ)

 私は何も言わず、酸っぱくなったコーヒーを啜った。

 秋が終わった。
 どさっ、と部屋に鈍い音が響いた。私は本棚から音のしたほうを向いた。
 シャロンがソファーの下で倒れていた。

「シャロン?」

 私はあわててシャロンのほうに駆け寄った。シャロンはふらふらと起きあがった。苦痛に顔をゆがめていた。

(だいじょうぶ)

 何が起きたのか、だいたいの予想はついた。

「ソファーから落ちたの?」
(ちょっと足を滑らせただけだ)

 そう言って、シャロンはソファーを見上げ、もう一度飛び乗ろうとした。けれど、後ろ足がソファーに乗らない。何度も、何度もシャロンはソファーに乗ろうとした。私は黙って後ろからその様子を見ていた。
 ――乗れなかった。シャロンはソファーの下で腰を下ろし、ため息をついた。寂しそうな笑いを浮かべながら。

(もう、歳なんだな。力が全然入らない)

 シャロンは私を見た。瞳の光も、いつもより鈍くなっていた。

(最近、食欲もないんだ。食べなくてはいけないとわかっているのに、喉がそれを受け付けない。だんだん目も悪くなってきたし、鼻も利かなくなってきた……)

 心の声が少しずつしぼんでいって、シャロンはうつむいた。その体は、見た目よりも小さく見えた。
 我慢できなくなって、私はシャロンを抱き上げた。シャロンは暴れようとしたが、もうその力すら残っていないようだった。

(ちょっと待ってくれ、何を……)

 シャロンが何かを言っていたが、聞かないふりをして、私はシャロンをソファーの上に優しく置いた。
 ソファーに降りたシャロンは私に振り向いた。私はシャロンをまっすぐに見つめて、言った。

「降りるのは、ひとりでだいじょうぶよね?」
(……さとり……?)

 初めてシャロンは私の名前を呼んだ。

「あなたに手を貸したかった。そうしなければいけないと思ったから」

 シャロンは少し目を見開いた。
 ほんとうの気持ちだ――いままでになかった感情だった。

「これで、いいんでしょう?」

 どうしてこんなことをしたのか、自分でもよくわからなかったが、確信だけはあった。これでいいんだ。
 少しの間をおいて、シャロンはうなずいた。

 冬が始まって、シャロンはソファーから一歩も動けなくなった。

(僕はもう、死ぬのだろう)

 ぽつりとシャロンはつぶやいた。私はシャロンの横で本を読みながらその思考を聞く。私ができるのは、もうそれしかない。

(だが、君が僕を受け容れたように、僕もこの安らかな死を受け容れよう)

 本の中で、主人公は恋人の影を見る。シャロンに貸した、あの本だ。
 主人公は自殺を思いとどまり、生きることを誓う。死んだ恋人の分も幸せに生きると。そこまで前向きになれる主人公の強さが、信じられない。でも、どうしてそう誓えるか、いまならわかる気がする。
 そっと、シャロンの頭をなでた。かける言葉が見つからない――いや、言葉なんてなくていい。
 私はシャロンの隣にいる。シャロンはされるがままに、頭をなでられている。それはもう抵抗する力がないからでなく、シャロンが受け容れているからだと思う。

(こう、だったら、よかったのにな)

 すう、と殻が薄れて、消えた。

(箱を開けるかい?)

 私は深くうなずいて、顔にある両目を閉じて、第三の目をシャロンの心の奥深くへと滑り込ませた。思考の海の中に、一筋の糸を見つけた――。

 そこはきれいな家だった。その家にシャロンは住んでいた。それから、小さな少女とその両親が暮らしていた。
 家族はみんなシャロンをかわいがっていたが、特に少女がシャロンを愛していた。少女はよくソファーの上でシャロンを抱きながら頭をなでた。そしてシャロンに学校の話などをした。シャロンも少女が好きだった。彼女が家にいれば、いつも彼女のそばで座っていた。
 少女は本が好きで、よくシャロンの隣で本を読んでいたが、ある日、突然、「シャロンもニホンゴをオボえられるよね」と、紙と鉛筆を用意してシャロンの前に持ってきた。そして、「あ」という文字を大きく書いて、「シャロン、これはね、『あ』ってイうんだよ」と、シャロンに語りかけた。
 シャロンは、最初、少女が何をしたいのかよくわからなかった。ただ、少女が、何度も何度も「あ」と書いた文字を「ア」と呼ぶので、そういうものだと思っただけだった。少女は「あ」「い」「う」を教えることに一日を使った。

 それから、毎日、ひらがなを一日三つずつ、少女は忘れることなく教えた。ひらがなが終わったら、カタカナ。
 シャロンはいい生徒だった。最初のうちはとまどっていたが、だんだん何をすればいいのか理解して、覚えが早くなっていった。だいたいは一文字を三回くらいで覚えた。少女はシャロンが理解したかどうか、わからないので、一文字当たり十回くらいは確認したが、シャロンはうんざりしたり、嫌がったりすることはなかった。
 少女はひらがなとカタカナだけで教えるのをやめた。漢字はわからないと思ったらしい。その代わりに、カタカナが終わったら、簡単な単語を教え込んだ。でも、シャロンはその先に進んだ。こっそり少女の教科書をあさり、勉強して、簡単な漢字なら読めるようになった。言葉を使うということが便利で、興味深いものだということをシャロンは理解した。
 そのうちに、少女が話すことがだいたい理解できるようになった。朝、少女が「おはよう、シャロン」と言えば、心の中で(おはよう)と返した。「シャロンはいいよね、ベンキョウしなくていいから」と言えば、(ぼくもきみにべんきょうさせられたよ)と愚痴った。

 シャロンは少女に感謝していた。自分を変えてくれたことが嬉しいと思っていた。そのうち、少女と会話できるようになるかもしれないと期待して、さらに勉強を進めた。
 でも、ほんとうは、少女とシャロンの思いは――最初からすれ違っていた。

 少女は引っ越さなければならなかった。父オヤのシゴトのカンケイでシカタない、という話をシャロンはテーブルの下で聞いていた。おとなのせかいはむずかしい、とシャロンは思った。それから、じぶんがどうなってしまうのだろう、と少し不安になった。
 少女は母親に訊いた。「シャロンはどうなっちゃうの?」
 母親は暗い声で連れて行けないと答えた。そして、ダレかにアズける、とも付け加えた。少女は、ごねても無駄だとわかったのか、おとなしく引き下がった。
 ああ、やっぱり、とシャロンは思った。もしかしたら、あの子とずっと会えないままかも――そうしたら、どうしよう?
 テーブルの下でひとりで悩むシャロンを、突然、少女が抱き上げた。その腕の中で、いままでのすべてを壊される言葉を聞いた。

「ごめんね、シャロン。シャロンはペットだから連れて行けないんだよ」

 シャロンは、自分の耳を疑った。けれど、疑いようがなかった。少女は再び言った。

「ペットはね、マンションにはすめないの」

 いきなり、シャロンは、暴れた。精一杯の力で腕から逃げようとした。少女は驚いて手を放した。
 その隙にシャロンは後ろを振り向きもせず、少女の家から飛び出した。

 なんで――?

 息を切らしながら、シャロンは走った。

 いいよ、ぼくを連れて行けないのは、しかたがないことだ。ねことにんげんがいっしょにくらせないときもあるんだ。それくらい、本をよんでしっている。
 だけど、ぼくは――ぼくはただのペットだったの?
 ぼくは、あの子にうらぎられたんだ――。

 神社の縁の下にシャロンは逃げ込んだ。暗闇の中で、シャロンは静かにうずくまった。

 かなしいのに、なけない。おかしいな、かなしいときは、なくんだって、本でよんだのに。
 ――ああ、そうか。やっぱり、ぼくはにんげんじゃなくて、ねこなんだ。

 その日から、神社の下がシャロンの住みかになった。少女が探しに来ることはなかった。たぶん、シャロンが逃げ出してから、すぐに引っ越してしまったのだろう。ときどき神社から女のひとたちの笑い声が聞こえて、昔の家のことが懐かしくなった。それでも、もはや誰もいなくなった昔の家に戻ろうとは思わなかった。
 自分で食べるものを探さなくてはいけなくなった。ときには落ちているひとの食べ物を探して、気持ち悪くなって吐くこともあった。ときにはスズメを叩き落として生で食べた。ときには、店に置いてあるものをかすめ取っていった。そのときに背後から「ドロボウ!」と言われて、それがどういう意味かわかることが、悲しかった。
 それでも、勉強をやめることはなかった。ひとが捨てた本を適当にあさり、読める本はかたっぱしから読んでいった。少しずつ難しい漢字も覚えていった。難しいことも覚えていった。
 そのうちに小説が読めるようになった。シャロンは小説の中のひとに憧れを抱いた。あんなに楽しそうに、みんなで話している、日々を過ごしている。僕もそうなれたらいいのに。

 ある日、神社から大きな声が聞こえた。「神社ごと、引っ越すのですか?」

 短くて、長い走馬灯だった。思考を読み終わった私は、黙って首を横に振った。どうしようもなく、やるせない。
 シャロンの思考が、ぽつんと浮かんできた。

(僕のエゴだ。人間と対等に付き合うなんて、結局はエゴでしかない。けれど、僕はずっと、あの子が飼い主だなんて思っていなかった……それは、いまもだ)

 ソファーに横たわるシャロンは、首だけ私に向けた。

(君を初めて見たとき、心の奥底であの子に似ていると思った。そして、君の妹も……。でも、君だけは僕と話すことができた。僕に君の声も届けてくれた)

 そう言って、シャロンは弱々しく、笑った。
 私は、何も言えない。私がシャロンの気持ちを考えたことはあっただろうか?
 ない、ただの一度も。心の目が使えるから、考えることなんて必要なかった。その気になればいくらでも覗くことができると思っていた。たぶんこれは間違ってはいない。
 間違っていない。けれど、私はひとの心を読むことしかできない――。

 シャロンの呼吸が弱まった。

(紙とインクを持ってきて、くれないか)

 私はうなずいてソファーから立ちあがり、紙とインクのビンを持ってきて、シャロンの目の前に置いた。

(そうだよ、最初から、こうすればよかった……)

 シャロンは体全体を震わせながら、前足をインクのビンに差し込んだ。それから、ゆっくりと前足を紙まで持っていき、インクのついた爪でひっかくように、文字を書きつけた。ソファーにインクが垂れたが、私は気にしなかった。
 シャロンは最後の力を振り絞って文字を書いていく。

(どうして、僕はこれほど簡単なことを、あのとき、しなかったんだろう?)

 ばらばらの文字は、一つの言葉になった。書き慣れてないのか、とても下手な文字だった。それでもシャロンは満足げに、そして少し寂しそうに、笑った――猫、なのに。

(でも、もういい。最後に君に伝えられたから、それでもう十分だ)

 紙に書かれたひと文字、ひと文字を、私は穴が開くほど見つめた。かっと胸が熱くなって、後悔がいっぺんに押し寄せて、心を押しつぶした。
 私は、シャロンにどう言えばいい? どう謝ればいいの――?

「シャロン、私は――」

 シャロンは私の言葉を制するように小さく首を振った。その目が音もなく閉じられていく。

(ごめん、聞きたかったこともたくさんあるけど、ほんとうにこれで最後だ……)

 金色の瞳が、閉じられた。

(さよなら、さとり)

 とすん。シャロンの頭がソファーに転がった。

 シャロンは動かなくなった。心の目も何も読めなくなった。
 私はシャロンを抱き上げた。
 腕の中で、黒い猫が一匹、静かに寝ている。初めて出会ったときのように、私は黒猫を抱いている――けれど、違う。安らかな寝息もない。もう、猫は二度と、目を覚まさない。

「さとり様」

 どこか遠くから声がして、私はお燐が部屋の入口に立っているのを認めた。でも、なぜかその輪郭はぼやけていて、ゆらゆらと揺れた。お燐は私に歩み寄りながら言った。

「さとり様、シャロンのご飯が……」

 そこで、お燐の言葉が途切れ、立ち止まった。お燐の表情がうまく読み取れなかった。

「さとり様……?」

 私は言葉を返そうとした。でも、喉に言葉がつまって、声が出なかった。

「どうして、泣いているんですか……さとり様」
「え……」

 泣いている? 私が? 確かめたくても、シャロンを抱いているから確かめられない。
 お燐は私の腕の中の黒猫を見て、呆然とした。ご飯が入った器が床に落ちて、衝突音が部屋にこだました。

「もしかして、シャロンが、死んだ?」

 私はうつむいて、うつむいて、あの紙が目に入った。そのとき、初めて私の頬を涙が伝っていることを知った。

『ぼくはきみのともだちだ』

 その場にへたりこんで、不格好な文字を見つめた。涙が文字の上に落ちて、文字がにじんだ。

 私は孤独だ。海の上に舟を浮かべて、さまようことしかできない。でも、シャロン。あなたは私の孤独を、寂しさを、受け容れてくれた――あなたも、孤独だったから。
 そんなあなたを大事にしたかった、守りたかった。でも、もうそんな望みも叶えさせてくれないの? 私を変えてくれたあなたに、「ごめんね」も「ありがとう」も、もう言えないの――?

 慟哭した。お燐が見ていることも知っていたが、それでも、そうするしかなかった。最期に伝えたかった言葉が、口から零れた。

 さよなら、私の友だち。

 私はシャロンを抱いて、ただ、泣きつづけた。

 
 
 


 
 ずっと、さよならを、言いつづける。
 

初出:2009年5月7日

 


 

■裏話

 ひさしぶりに裏まで書いておこうと思います。

 さとりが読んでいる本はすべて、実在する本をモデルにしています。かなりあいまいに書いていますが、わかるひとはわかるのではないでしょうか、特に最初の本。私はあの本、嫌いじゃないです。
 それから、シャロンにもモデルがいます。ひとつは言葉を使う猫、ということですぐにわかる方がいらっしゃるかと思います。

 シュレーディンガーの猫についてですが、私も量子力学を研究したことがないので正確な知識を持っているとは言えません。ただ、その間違っているかもしれないものをあえて書いたこと、その意図を汲み取っていただけるとありがたいです。

 最後に、もうひとつだけ。
 舞台が地霊殿ということで、当然それに絡んだひとたちが出てきました……が、読んでて違和感を持った方もいらっしゃったのではないでしょうか。
 あのひとです。
 私は「物語に出てくるひとたちには必然性がある」と考えています。それは、読むときも、書くときもです。
しかし、あのひとだけは、「出ないことに必然性があった」のではないでしょうか。私はそう思います。

 さあ、そろそろあとがたりも終わりにしましょう。
 私たちは、ずっと、さよならを言いつづけているのだと思います。

 次に会うとき、私とあなたが変わってないなんて……誰が言えるのですか?