創想話
 


 
―That’s one small step for a man, one giant leap for mankind.

Neil Alden Armstrong

―私はその逆だ―

「姫様」

 月を見つめる少女の耳に声が届いた。少女はゆっくりと振り返る。そこには赤と青の服を着た女性が立っていた。

「夕食ができましたよ」
「あら」

 確かに、屋敷の奥からそれらしい匂いが漂ってくる。山から満月がその姿を見せようとしていた。
 輝夜は縁側に立ち、涼しい風と満月を楽しもうとしていたのだった。輝夜はもう一度、月の欠片を見つめた。

「もう、そんな時間なのね」

 もうすぐ春なのか。輝夜は思う。ここには何もなく、楽ではなく、それでも満ち足りて、とても平穏な世界。少しばかり退屈だが、それでも望んだものがここにはある。今、ここには。

「じゃあ、夕食にしましょう」

 永琳が顔をほころばせる。彼女は縁側から中に入り、その影は見えなくなった。
 輝夜も中に入ろうとした、その刹那、背中にのしかかる光を覚えた。ぞくり、と背筋に寒気がした。
 慌てて、また振り返ると、月がその姿全てを現わしていた。その光で輝夜は胸の奥に疼きを感じた。

 なにかしら、この感じは。

 満月が昇る。

 真夜中、永琳は輝夜に背を向けて安らかな息を漏らす。輝夜は布団の中から永琳に呼びかける。
 もう永琳は寝ているわよね、と思っていながらも、独り言だったらそれでもいい、とも思う。

「ねえ、永琳?」

 意外にも返事が返ってきた。

「何でしょう、姫様?」

 永琳は起きていた。輝夜は安心したような、少し残念がるような、ため息を漏らす。

「いいえ、用は特にないわ。ただ、眠れなかっただけ」

 永琳は布団の中で体の向きをこちらに変えた。月の光が障子で遮られ、ぼんやりと蒼い光が部屋を包む。自分たちの呼吸だけが響く。永琳の優しい匂いがする。
 永琳の表情はよく見えなかったが、それでも優しく微笑んでいるのだけはわかった。

「私も、今日はなんだか眠りにつけないのですよ」

 その言葉に、その微笑みに、輝夜はそっと布団から手を伸ばした。永琳がその手を包み込む。
 もしかしたら、永琳は隠しているのかしら。私と同じ感情を。同じ不安を。或いは、それすら永琳は見抜いていて、私にそう感じさせるのかしら。
 輝夜は永琳の手を握った。

「ねえ、しばらくこのままでいいかしら」
「ええ、もちろんです」

 鈍い光が二人を包んで、時を進める。いつしか、二人とも静かな寝息を立てていた。

 三日が経った。

「永琳」

 輝夜は永琳を揺すった。

「ん、なんでしょう、姫様」
「ちょっと起きて」

 永琳はゆっくりと体を起こした。外は明け方前。部屋には月の光以外は無かった。輝夜は障子をじっと見つめる。永琳は状況を未だに掴めない様子だった。

「物音がしない?」

 足音らしき音に輝夜は目を覚ましたのだった。この竹林には、人なんてやって来ないはずだ。私を憎む人物も、この時間に来たことはなかった。誰が?
 乾いた物音が動く。

「確かに、何かがこの屋敷の周りを回っているようですね」

 あいつだったら、こんな回りくどいことをやっていないはずだ。それがあいつでないということで、そうすると、何?
 永琳の目が鋭くなる。足音がまた大きくなる。

「姫様、ここにいてください」

 永琳が弓と矢をどこからともなく取り出した。気配を隠し、障子の側に寄った。
 足音がとうとう、屋敷の真ん前に来たことを知らせた。その刹那、永琳が障子を素早く開き、目にもとまらぬ速さで外の「何か」に弓を構えた。

 輝夜は身を乗り出した。永琳が威圧するかのように話し始めた。

「人の家に侵入しようなんて悪趣味。それが私たちの家ならなおさ……」

 そこで永琳の言葉が途切れた。弓を構える腕から力が抜けていった。永琳が動かなくなった。
 輝夜は突然の永琳の変化に戸惑った。思わず、布団から抜け出て障子の外に出た。
 月の光を受けて、そこに淡く映し出されたもの。そして永琳が動かなくなった原因、輝夜が動かなくなった原因。

「兎?」

 そこにはブレザーを着た兎が、怯えた目で立っていた。

「まず、名前から聞きましょうか」

 外は依然として夜。輝夜と永琳は着替え、明かりとお茶を彼女に用意した。 小さな部屋で、永琳と月の兎が向き合い、輝夜は彼女たちの横でその様子を見ている。
 月の兎は、落ち着かない様子で、あちこちに視線を向けていた。

「レイセン、です」

 レイセンの声は弱々しかった。

「そう、レイセンね。貴方、どこからやってきたの?」

 レイセンは俯いた。輝夜はその様子に違和感を覚えた。そんなに答えにくい事なのか。
 永琳は落ち着いた声で話しかけた。

「そんなに言いづらいなら、無理に言わなくてもいいわ」

 レイセンはその言葉を慌てて否定した。

「いえ、そういうことじゃなくて。ただ、信じてもらえないかもしれないから、言いづらくて」

 俯いたまま話すレイセンの声は徐々に小さくなっていった。

「信じて、くれますか」
「ええ、もちろんよ」

 永琳がさらりと言った。レイセンは顔を上げた。

「私は、月から来ました。私は月の兎です」

 今度は永琳と輝夜が黙る番だった。永琳は目を見開いている。輝夜もどう反応すればいいかわからなかった。
 置いてきたはずの記憶が舞い戻る。自分たちもかつては月の民だった。目の前のことも、音も、忘れてしまう程の、衝撃だった。
 レイセンが不安そうに二人を見つめる。

「あの」

 永琳がその声に、我に返る。

「え、ええ、少し意外だったから驚いただけよ。大丈夫、信じるわ。姫様、大丈夫ですよね?」
「ええ、私も驚いたけど、ありえない話じゃないわ。続けて頂戴」

 レイセンは安堵のため息を漏らした。

「よかった、信じてもらえて」

 レイセンは少し呼吸を整えて、話し始めた。

「月に、敵が攻めてきたんです。こんなこと、今までになくて。私も詳しくは知りません。だけど、彼らが月に旗を突き立て、好き勝手やり始めたんです、何度も。私たちの生活が壊れました。月の民はこのことを見過ごせないと言って、彼らと戦い始めました。私たち、月の兎も戦いに駆り出されました。私も、軍人として戦うはずでした。
 でも、私は戦わないで、逃げてきたんです。死にたくなかったんです。だから仲間も、住んでいた場所も捨てて、命懸けで逃げました。
 地上に着いて、人間以外が住む場所があると、噂を聞きました。私も人間じゃないですから、そっちのほうがいい。それで何とかここにたどり着いたんです」

 輝夜は信じられなかった。人間が月に攻める?ありえない。ここの人間たちを見るに、そんな技術は持ち合わせていないだろうし、野望もない。
 しかし、輝夜は半分は疑い、半分は信じていた。この兎が嘘をついているようには見えない。或いは、ここの人間に技術が無いだけなのかもしれない。他の場所では月に行っているのかもしれない。
 様々な考えが輝夜の頭を駆け巡った。それを遮ったのは永琳の言葉だった。

「それで、貴女はここに来てどうするつもりなの?」

 レイセンの瞳の動きが止まる。再びレイセンは俯いた。その様子に気付いていないかのように永琳が続けた。

「私たちに戦争に協力しろ、とでも言うのかしら?」

 レイセンは慌てて顔を上げて、両手を振った。

「とんでもない。ただ、私は……」

 そこでレイセンの声がまた小さくなった。

「かくまって、いただけますか?」

 永琳はそれに返事をせず、輝夜に顔を向けた。輝夜に判断を仰ごうとしている。
 輝夜は正直、この兎のことなんてどうでもよかった。いや、むしろ邪魔だった。この月の兎をここに置いておけば、彼らの仲間がここに来るかもしれない。その時、私たちが月の民だと知られてしまったらどうなるか、考えるまでもない。
 でも、逆にこの兎をここに置いておかなければどうなるのかしら、と思考を反転させる。この兎が、間者である可能性もないわけじゃない。下手に外に出すと危険かもしれない。逆に、手元に置いておいたほうがいいのかしら。
 永琳が何も言わないのは、私の顔を立てようとしているから、かしらね。

 しばしの沈黙は輝夜に十分な時間を与えた。彼女は永遠を操ることができるから。
 そして、輝夜は静かに切り出した。

「そうね、レイセン。とりあえずはここにいなさい。落ち着いたらまた考えるといいわ」

 レイセンは体全体から安堵の息を漏らした。顔にもそれが現れる。

「ありがとう、ございます」

 ふっと表情が失せ、そのままレイセンは床に崩れ落ちた。

「ちょっと」

 輝夜が慌てて、レイセンを抱き起す。レイセンの身体は石のように冷たい。死んでしまった人のように。意識もないようだ。輝夜は永琳を振り返った。

「永琳。この子、相当弱っているわ。急いで手当てして頂戴」
「ええ、わかりました。布団と薬をすぐに用意します」

 永琳は落ち着き払った様子だった。

 空が白んできた。レイセンは別の部屋に移され、永琳の手当てを受けていた。戸が開いて中から永琳が姿を見せた。

「あの子の様子は?」

 看護がひと段落したらしい永琳に輝夜が訊いた。永琳は疲れた顔も見せず、涼しげに答えて戸を閉めた。

「疲労と空腹で倒れたようです。大丈夫、休めば回復するでしょう」
「そう、なら良かった」

 輝夜も胸をなでおろす。まさか、そこまで弱っているとは思わなかった。永琳が大丈夫と言うのだから、もう大丈夫なのだろう。
 安心したところで、レイセンが月の兎だということを思い出した。

「永琳、あの子を置いておくこと、私が勝手に決めてしまったけど」
「気にしないでください。私も彼女を置いておくことには賛成です」
「そう。何故かしら」

 輝夜が鋭い視線を向ける。永琳は表情を一切変えない。

「月の兎というのは遠く離れていても、仲間と連絡を取ることが可能なのです。ここに置いておくことは確かに危険かもしれませんが、逆に、危険を察知できる可能性もあります」
「あら、あなたらしくないわね。賭けに出るなんて」

 永琳は微笑んだ。

「ここに置かないにしても、危険かもしれませんよ。どちらにしても、彼女を野垂れ死にさせるわけにはいきませんからね。医者として」

 永琳はふふっ、と柔らかく笑った。輝夜は永琳の思考をはかりかねた。やっぱり、この天才は何を考えているのかさっぱりわからない。
 それはともかく、永琳が賛成してくれたのはよかったわ。

「あの子の様子、見に行ってもいいかしら」
「ええ、起こさないように注意して下さい」

 そっと戸を開く。薄明るくなってきた部屋で、レイセンが寝ている。輝夜は彼女の隣に腰を下ろした。弱々しい寝息が輝夜の耳に聞こえた。
 可哀想な子。仲間を見捨てて、ここまで逃げてきて。それでもまた危うく死ぬところだったのよ。きっと後悔もしているのでしょう。罪の意識も背負っているのでしょうね。
 でも、貴女はただ逃げてきた。逃避よ。それは今でも同じこと。

 そこで輝夜は、ふと、我に返る。どうして私はこんなにこの子が気になるのかしら。辛く、冷たい過去を思い出したから?月の都に帰りたくないと、逃げ続けてきたから?
 この子は、私を映した鏡だから?
 いいえ、私はただ平穏に暮らせればよかっただけなのに。この子が来て、この世界が、終わってしまう気がしたのよ。
 だから、きっとこの子が気になるに違いない。

 月が沈む。

 そこは戦場だった。どんどん兎たちが斃れていく。兎たちも敵を斃していく。近くで爆発が起こる。遠くで爆音と叫び声が聞こえる。火薬のにおいが鼻をつく。

「レイセン!早く加勢に来て!」

 兎の交信が入る。私はライフルを片手に、ただ立っているだけだった。

「レイセン!早く!もうそこまで来ているわ!」

 嫌だ、でも。私はライフルを放して座り込んだ。耳障りな音が私を掻き乱す。

「レイセン!」

 嫌だ嫌だ、だけど、そんなことはもうどうだっていい。死にたく、ない。
 いやだいやだいやだいやだしにたくないしにたくないシニタクナイ

「レイセン!」

「いっ!」

 レイセンはしたたかに手の甲を打ちつけ、目を覚ました。レイセンは布団で寝ていて、彼女の腕だけが床の上に転がっている。
 ああ、ひどく悪い夢を見たようだ。何の夢かは思いだせないけど。
 辺りが明るすぎる。体を起こそうと手をつくと、打ちつけた手が痛んだ。見回すと、ここが小さな部屋だということだけがわかった。そして、昼だということも。
 ここはどこなんだろう。今、何時なんだろう。思い出そうとすると、頭に鈍い痛みが走る。
 まあ、いいか。今はこの暖かい布団の中でゆっくりしよう。そう思った時、襖が開いた。

「あら。目を覚ましたのね」

 入ってきたのは、赤と青の服を着た銀髪の女性だった。その女性はレイセンの隣に腰を落ち着けた。

「随分長い間眠っていたものだから、心配してたのよ」

 そう言いながら、その女性は微笑んで、蒸した手拭いをレイセンに手渡した。レイセンはそれで顔を拭う。
 はあ、なんだろう、この状況。私はそんなに長い時間眠っていたんだろうか。むしろ、この人は誰なんだろう。
 女性は、私の顔を拭き終わった手拭いを受け取って、腰を上げようとした。

「さて、レイセン。もう少し寝てなさい。昼食を用意するわ」

 その言葉でレイセンは今までの出来事を思い出した。月から逃げたこと、ここにかくまわれたこと。
 あの悪夢が目の前にちらついては消えた。それと同時に、何か大きなものが彼女の胸を締め付けた。

「あ、あの」

 レイセンはは慌ててその人を呼び止める。女性は振り返ってくれた。

「わ、私、まだお礼も言ってないし。あ、あと貴方のお名前も伺ってないですし、あ、あの」

 言いたいことがいろいろありすぎて、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。

「ありがとうございました。すみません」
「ふふ、謝ることなんてないわ」

 女性は、優しく笑った。

「これは私たちが好きでやったことよ。あ、あと、お礼なら姫様に言って頂戴。あの方が貴女をここに置くって決めたから」

 女性は部屋から出ていった。
 そうだ。もう一人ここにいたんだった。って、結局あの人の名前も何も聞いてないじゃない。ああ、さっきから失礼なことばっかり。かくまわれる身としてこれはちょっとまずい。もう追い出されちゃうんじゃないかな。

 レイセンは、はあ、とため息をついて、布団で再び横になる。温かく、柔らかい感触を覚える。体の向きを変える。だからといって何が変わるわけでもない。
 この先、どうしよう。ずっとここに厄介になるわけにもいかない。だけど、他に行く当てもないし、下手をすると、人間の世界に戻ってしまうかもしれないし。
 ああ、なんだか訳がわからない。少し寝たほうがいいかもしれない、あの人が言う通り。
 レイセンは無理やり目を閉じ、暗闇の世界にもぐりこんだ。

「レイセン」

 眠りの扉を開いた矢先、声がしたのでレイセンは目を開け、体を起こした。そこには、あの女性が「姫様」と呼ぶ少女がいた。少女は心配そうな顔でレイセンの顔を覗き込む。

「ご飯よ。動ける?」

 レイセンは重い体を持ち上げた。力が入らないけど、動けないって程ではない。

「大丈夫、みたいです」

 その様子と言葉に、少女は表情を緩めた。

「そう。じゃあ、私についてきて」

 そう言って彼女はレイセンに背を向けて歩き出した。レイセンも鉛の詰まったような体を無理やり動かして、後をついていく。
 思ったよりもこの屋敷はずっと大きい。この廊下も結構長い距離はあるかな。部屋の数も十は軽く超えている。ちょっと、食卓ってそんなに遠いのかな?
 そんなことを考えていたら、彼女はある部屋の前で止まり、戸を開いた。

「永琳、連れて来たわ」
「ありがとうございます。じゃあ、お昼ごはんにしましょうか」

 うどんだ。

「あの、すいません、御馳走になっちゃって」
「いいのよ。御馳走って程のものじゃないわ」

 少女の方は「いただきます」と言ったきり、ずっとうどんに忙しいみたいだった。女性はゆっくりと進めていて、レイセンは箸に手すらつけていなかった。

「ほら、早く食べないとうどんが伸びちゃうわ」
「あ、はい、じゃあ、いただきます」

 レイセンは器の中を覗いた。うどんの麺の上に大きな卵が乗っていた。
 月見うどんだった。
 レイセンは、鰹節の匂いと温かな湯気を立てるうどんを一口食べた。コシのある麺の歯ごたえ、汁が十分にしみ込んだ味、そしてこの温かさ。

「美味しい」

 レイセンはその味にしばし我を忘れた。

「どうしたの、レイセン。具合でも悪いの?」
「あ、いえ、こんなに美味しいうどんを食べたのは初めてで。ちょっと感動してました」
「そんなに気に入ってもらえて嬉しいわね」

 レイセンは箸で卵の黄身を思いっきり刺した。黄身がどろりと周りに溶けていった。

「そうね、まだ私たちの名前言ってなかったわ」

 少女が食後の静かな空気を破った。

「私は、蓬莱山輝夜。で、そっちが八意永琳」
「ええと、蓬莱山さんと八意さん、ですか。えと、やごごころさんとほうらいさんさんさん……」
「レイセン、言いにくいなら輝夜と永琳でいいわ。私、太陽みたいよ」
「あ、すみません」

 輝夜と永琳。永琳はともかく、かぐやはどこかで聞いたことがある、とレイセンは頭を捻った。

「ええ、レイセン、もしかしたら貴方は知っているかもしれないわね」

 そう言って、この屋敷の姫は座りなおした。

「私たちは、元々月の民だったのよ」

 衝撃がレイセンの体を貫いた。あまりに強い、レイセンは声も出せなかった。体が動かせない。
 輝夜はそのまま気にしてないかのように続けた。

「過去に私はある罪を犯したわ。それゆえに地上に落とされた。もう贖罪は終わったのだけれど、私は月に戻りたくはなかったのよ。私を迎えにきた永琳と一緒に、今は月の死者から逃げてここで暮らしていた訳」

 そうだ、完全に思い出した。

「カグヤといえば、確か、蓬莱の薬を飲んで地上に追放された罪人だった……」
「そうね、私がそのカグヤ。今の月の都では歴史の勉強を徹底しているのかしら」

 そう言って、輝夜はくっくと笑いを漏らした。レイセンは笑いなんて到底浮かばない。かくまってもらったと思っていたけど、全くそうじゃない。言葉を絞り出すのが精一杯だった。

「それじゃあ、私は」
「勘違いしないで」

 突然、輝夜の口調がとげとげしく変わった。顔からは笑みが消えた。その表情にレイセンの身体に悪寒が走る。輝夜は吐き捨てるように言った。

「これは、私たちが好きでやったことよ」

 全然顔と言っていることが合ってない、レイセンはそう思った。永琳が横から口を挟んだ。彼女は笑っている。作られたものかもしれないけれど。

「レイセン。貴方が逃げ込んだ時は全然知らなかったから、今までここにいたのは仕方ないわ。
 でも、今、姫様からすべて聞いたでしょう?その上で、貴方はどうしたいの?」

 私は、どうしたい?レイセンの心が割れそうだった。
 私は月から逃げ出したつもりなのに、地上に逃げたつもりなのに、それが月の民の屋敷だったなんて。
 私は、また。
 レイセンは答えられなかった。いや、答えたくなかった。答えは最初から決まっていた。
 しばしの沈黙。そして、永琳がため息をついた。

「いいのよ。ゆっくり考えて、それから自分で決めれば。それまでは、ここにいてもいいのよ」
「す、みません」
「謝ることはないわよ。何度も言うけど、私たちが好きでやっていることだから」

 レイセンは輝夜に視線を向けた。輝夜は永琳ともレイセンとも目を合わさないようにしていた。

「とりあえずは」

 永琳は食器を重ねて、腰を浮かせた。後片付けに行くのだろう。

「あなたの身体を治すことね。まだ全快というわけじゃないから、しばらくはここにいてもらいます。 私は医者だから、言うことはきっちり聞いてもらうわよ」

 永琳は厨房に向かった。輝夜も食卓を離れていった。
 レイセンだけが食卓に取り残された。

 レイセンは順調に回復し、目が覚めた日から二日で全快した。

「本当に治ったんですか?少し早すぎる気がしますが」

 体が軽すぎる。レイセンは信じられなかった。つい昨日まであんなにだるかったのに。

「何言っているの。八意家は古来から薬剤師として様々な知識と研究を積み重ねてきたのよ。これくらいのことは容易いことよ。むしろ、治りが遅いくらい」
「そうなんですか?」

 なんだか、出来の悪い生徒を叱っているみたいだなぁ、とレイセンは思う。誰が悪いわけでもないけれど、無駄な罪悪感を感じる。

「さてと、レイセン、これから私はちょっと出かけてくるわ。その間に姫様と昼食の準備をして頂戴」
「え?」

 永琳から意外な言葉がさらりと出てきた。レイセンはてっきり、全快したら追い出されるかと思っていた。
 輝夜のあの様子、永琳のあの言葉。レイセンは二日間、ずっと思い悩んでいた。

「あの、ここにいてもいいんですか?」

 永琳がさも愉快そうに笑った。

「だから言ったでしょう?自分でどうしたいかを決めるまではここにいてもいいって」
「確かに、そう言いましたけど」
「だったら、その言葉に甘えておくこと。変に気を使わなくてもいいわ」

 そう言って、永琳はレイセンがしばらく寝室と使っている部屋を出ていった。出る間際に「姫様も変わったものね」と言ったのは、恐らくレイセンの気のせいではない。
 レイセンは呆然と立ち尽くした。ここの人たちは、一体何を考えているんだろう?
 しかし、すぐに、輝夜と昼食の準備をすることを思い出し、厨房に駆けていった。

「来たわね」

 真昼間の光が窓から入る。生活感が漂う。色々な道具が適当に並べられている厨房に予想通り、輝夜が立っていた。
 厨房は人を現わす、と過去にレイセンは聞いたことがある。その言葉によれば、ここの人たちは適当なんだなぁ、と彼女は推測する。

「適当だと思ったわね。いいのよ、自分たちは使いやすいから」

 じろじろ見回していることが輝夜の目に留まったらしい。レイセンは慌てて輝夜に向きなおった。

「さて、『輝夜のほうらいさんさん料理教室』が始まるわ。食は生活の基本というけれど」
「あの、輝夜さん」

 レイセンは思わず手を上げた。

「なに、質問かしら」
「あの、輝夜さん、料理できるんですか?」

 輝夜は不満そうな表情を浮かべる。レイセンは訊いてからしまった、と思った。

「当たり前。千年も昔から、私は料理してたのよ」
「はあ、大変失礼しました」

 輝夜はそれでも不満そうだった。

「とにかく、食は生活の基本よ。私たち蓬莱人にとっても食事は非常に重要なのよ。今日はその基本中の基本、卵焼きに挑戦しましょう」

 こう言われると、確かにこの人、料理ができそうだな。

「では、そこの兎さん。作りましょう」

 丸投げ。レイセンは突然の言葉に反応できなかった。

「あら、あなた、もしかしなくても料理できないの」
「私は軍人として生きてきましたから」

 輝夜は呆れたように肩をすくめた。レイセンは無駄に罪悪感を感じた。

「それなら仕方ないわね。じゃあ、今から私のお手本を見て作って頂戴」

「出来上がり」
「え、もうですか!?私、何やっているか全然わからなかったんですけど!」
「それはあなたの注意力不足ね。さあ、貴方もやってみましょう」
「あの、その前に、これ食べてみていいですか?」
「そんなに信用してないの。まあいいわ。先生の味を確かめてみなさい」

 恐る恐る一つを箸にとって、口に入れてみた。

「先生」
「何よ」
「美味しいです」
「当たり前でしょう。千年作り続けたのだから」

 意外だ。色んな意味でレイセンは不安だったが、完全に意表を突かれた。

「さて、レイセン。次はあなたの番ね。ああ、言っておくけどこの卵焼きは私と永琳の分しかないわ。 あなたはあなたの卵焼きを作りなさい」
「さりげなく卑怯じゃないですか!」
「何がよ」
「私が失敗しても輝夜さんたちは何の被害も無いじゃないですか」

 レイセンの訴えは輝夜に軽く受け流された。

「それはそうよ。不味い卵焼きなんて食べたくないもの」
「まあ、そうでしょうけど」

 納得できない、というレイセンに輝夜は発破をかけた。

「さあさあ、あなたの腕を見せてみなさい。あなたの魂見せなさい」
「そんな大層なものですか、これ」

 しかし、レイセンはこれが料理初挑戦である。むう、と口の端を曲げながら、卵を手に取った。

「ま、まあ一応これ、卵焼きね」
「ううう、無理に気を使わないで下さい」

 レイセンが悪戦苦闘、四苦八苦、七転び八起きしてできたものは、薄汚れて形の定まらない何か、だった。見た目も匂いも妖しい。初挑戦とはいえ、才能が無いのかなぁ、とレイセンは自分を責めた。

「とりあえず、どく、いや、味見しなさい」
「輝夜さん、毒見って言いかけてました」

 はあ、と大きなため息をつきながら、箸でその何かをつまんだ。今にでも崩れ落ちそうなそれを急いで口の中に入れ、少し噛んで飲み込んだ。不安そうに輝夜が見つめる。

「どう、かしら」

 レイセンは目を見開いた。

「案外、いけます」
「え、本当なの?自画自賛しているんじゃなくて?」

 輝夜も半信半疑な表情でそれを口に入れた。ひそめていた眉が広がっていく。

「あら、本当。そこそこ美味しいわね」
「ええ、自分でも信じられませんでしたけど」

 レイセンの言葉に輝夜は思わず吹き出した。そこでレイセンは気付いた。ここの姫が初めて、こんな笑顔を見せた、ということに。
 ふうっ、と輝夜は呼吸を整えた。

「自分くらい信じなさいよ。でも、貴方、そこそこ器用なのね」

 輝夜はそう言って、もう一つ卵を取り出し、殻を割った。

「実は、二人分作ったというのは嘘。貴方の分しか作っていないから、もう一人分、本当は作らなければいけないのよ。貴方は私の千年の卵焼きを味わってじっくり研究しなおすといいわ」

 そして輝夜は新しい卵焼き、そして他の料理を始めた。
 火の燃える音、何かが炒められる音、輝夜の鼻歌。レイセンの耳には何も入って来なかった。香ばしい匂い、油の刺激、それすらも感じられなかった。
 ただ、レイセンの頭には、輝夜の言葉が響いていた。
 黄身が潰れた音が厨房に響いた。

「お爺さんは山へ洗濯に、おばあさんは川へ芝刈りに行きました」
「姫様」
「皆まで言うな。色々と間違えたのは承知しているわ」

 また別の日。

「お爺さんは山へ鷹狩りに、おばあさんは海へ洗濯しに行きました」
「姫様」
「わかっているわよ」

 朝食が終わって少し時間が経っていた。

「お爺さんは山へ散歩に、おばあさんは湖で洗濯」
「姫様」
「ああ、わかっているわよ」
「いえ、正誤の問題ではありません」

 そう言って、永琳は部屋の入口に目を向けた。

「レイセンを呼んでおいてこのやり取りをやらずともよろしいかと」
「そう、そう。私はとても残念だわ」

 そう言って輝夜は立ち上がった。
 レイセンは永琳に呼ばれて、輝夜の部屋に来た。一体、何を言われるのか、内心はらはらしていた。私、とうとう追い出されるのかな。
 そんな不安を抱えて、戸を開けたところに先程のやり取りがなされたということである。何だろう。漫才なのかしら。笑えないけど。
 立ち上がった輝夜が真剣な顔つきでレイセンに迫ってきた。

「いい、レイセン。これは私たちの死活問題なのよ」
「え、何がですか?」

 レイセンには何が何だかわからない。当たり前だが。輝夜は盛大なため息をつき、頭を手で押さえた。

「ああ、あれだけ言ってやっぱりわからないのね。残念だわ」
「そう言われましても、桃太郎のお話としかわかりませんよ。それに間違っていましたし」
「問題はそこじゃないわ。洗濯よ、洗濯」

 はあ、とレイセンは曖昧な返事しか返せなかった。あれは洗濯のことを強調したやり取りだったのだろうか。やっぱり、偉い人は考えていることがさっぱりわからない。それとも、自分が鈍いだけなのか。

「とにかく、貴方に洗濯をお願いするわ。少し今までの分が溜まってたから」
「え、ええ、わかりました」

 そう言って、レイセンは部屋を出た。同時に少し体から力が抜ける。
 さて、さっさと洗濯物を持って行こう。

 洗濯物を抱えて、レイセンは屋敷から出た。しかし、どこで洗えばいいのか聞くのを忘れていたことに気づいた。
 ああ、かなり重要なことを訊き忘れた。申し訳ないことをしてしまった。今から戻るのも大変だし、どうしよう。レイセンは悩んで右往左往した。

「そこから東に進みなさい。川があるはずだから」
「あ、はい」

 レイセンは声に従って東へと向かった。
 あの声は、永琳さんだ。

「永琳も回りくどいことさせるわ」
「申し訳ありません、姫様」

 輝夜はゆっくりと腰を落ち着けた。

「なんで洗濯一つ頼むのにここまで演技をしなくちゃいけないの」
「まあ、それも今回限りだと思います」

 永琳は相変わらず、微笑みを浮かべているだけだった。やっぱり天才はわからない。

 ずいぶん遠くへ来たけれど、ようやく見つかった。レイセンは、ふらふらになりながら洗濯物を置いた。帰りもこれを持って行かなきゃいけないのね、疲れそうだ。
 屋敷から歩くこと数十分。竹林を抜けた先には川が流れていた。小川というには少し大きすぎる。綺麗な水が太陽の光を煌めかせながら流れていった。

 やれやれ、お婆さんは川へ洗濯しに行きましたとさ。これだけで終わりでもいいのではないか、ふと考える。後は面倒くさいから、「そうして帰ってお爺さんと昼食を食べました」でもいい。桃なんて流れて来なくてもそれだけで十分よ。
 どうでもいい想像をして、何となく不安になって川の上流を見た。やはり何も流れて来ない。ああ、本当に良かった。さあ、洗濯に取り掛かろう。

 洗濯とは手を忙しく動かすのに対して、頭は動かない時間である。だから洗濯をしていると、人はどうでもいい考え事をするものである。人ではなくても。
 洗濯物の汚れを落としているうちに、レイセンは今までゆっくりと考える時間が無かったことを思い出した。
 ここの住人に振り回されて、なんだか忙しくないのに余裕が無かった。そうして、今になって一人になると、色々考えられる。冷たい水に手を浸しながら。

 私は結局、こうして地上で暮らし始めた。今は、戦争も無いし、仲間も捨ててきた。月での住処も、何もかも全てを捨ててきた。
 そうして、じゃあ、私は今何をしているのだろう。どうして私は生きているのだろう。
 今の私は、ただ罪を背負っているだけなのかもしれない。

 それで。

 今だって、あの人たちに迷惑をかけている。私が月の兎だから。いや、あの人たちが仮に月の民じゃなくたって、迷惑がかかっているだろうな。だけど、逃げるために、私は嫌われないようにしなくちゃいけない。

 それで。

 私は今もずっと不安に押し潰されそうになっている。

 川の水面に映るレイセンの姿は小さく、歪んでいるように見えた。流れる川のせせらぎが小さくなっていった。

 夜。レイセンは輝夜と永琳と同じ部屋で寝ている。正確にはレイセンは起きていた。輝夜と永琳の寝息を背中に感じ、レイセンは胸が潰される思いだった。
 私は、ここにいてもいいのかな。
 布団が重く、冷たく、鉄のように感じられた。レイセンは体を丸めて、膝を抱えた。頭も布団の中に入れた。
 その暗闇に籠るのは、確かにレイセンだけだった。永遠の夜を紡ぎたかった。

 全てか零しかありません。今まで私は逃げ続けてきました。もうそれも終わりです。逃げ続けるということは、貴方にだって決してできないはずです。
 私の存在を全て懸けてぶつかるか、私が此処から消えてしまうしかないのです。それしか、もう無いんだと思います。
 こんな醜い私でも、最後くらいは、やらなきゃいけないんですよね。

 不安は循環し、循環は螺旋を生み出す。ずっと、悪い方向へ。そして、不安は永遠に循環しない。
 屋敷が軋んだ音をたてた。

 竹林が燃えているように見える。夕日はそれほどまでに赤く照らし出していた。

「まるで、あいつが出てきたみたいね」

 輝夜が卵焼きを頬張りながら呟いた。永琳も外を眺め、頷いた。レイセンは輝夜の言う「あいつ」が誰だかわからなかったが、特に気にもしなかった。気のせいではなく、その日の食卓は静かだった。レイセンはいつになく無言だった。
 輝夜はまた卵焼きを口の中に入れた。レイセンはその様子をじっと見つめる。

「ふう、まあ、この卵焼き、美味しいのは美味しいのだけど」

 輝夜はレイセンの視線に気づいているのか、いないのか。レイセンはわからなかった。ただ、輝夜の次の言葉が、亀裂を突き抜けた。

「少し味が薄いかしら」

 突然、レイセンを寒気が襲った。何かがガラガラと音をたてて崩れた。足元が、いや、世界が全て揺らいで、振動して、ぐらついた。

 お、ちていく……
 ああ、ああ、こんなに、私は……
 もう、何も私にはない……

 レイセンの口が開いた。その言葉に、輝夜も永琳も箸が止まった。

「レイセン、今、何て」
「私、この屋敷を出ていきます」

 永琳はゆっくりと箸を置いた。かちゃり、と箸の音が響く。レイセンはその音さえ耳障りだと思った。
 嫌だ嫌だ嫌だ。もうこれ以上は嫌だ。

「レイセン。それはあなたが決めたこと?」
「はい」

 レイセンは食卓に手をついて一気にまくしたてた。

「私、月から逃げてきて、もうそれだけで大罪です。それだけでなく、貴方たちにかくまってもらいました。ずっと、ずっと、貴方たちに迷惑をかけてきました。なのに、私は何もできません。私は、もう、貴方たちに迷惑をかけるのは嫌なんです。もう、貴方たちの好意があっても、私は耐えられません。だから、もうここを出ようと思います。」

 レイセンの荒い息。冷めていく夕食の香り。少しの間、沈黙が流れた。
 それを破ったのはやはり輝夜だった。

「ねえ、レイセン。私たちは貴方がここにいて迷惑なんてちっとも思っていないわ」
「輝夜さん、もういいんです。私にそんなこと言わないでください」
「でも、それは」

 必死に訴えようとするかぐやをレイセンは手で制した。これ以上、輝夜に何かを言われてはいけない、レイセンは本能的に感じた。

「いいです!もう、私に情けなんてかけないでください。今、出ていきますから!」

 レイセンは箸を乱暴において、部屋を飛び出していった。そして、来た時と同じような足音を立てて、去っていった。

 部屋には輝夜と永琳の二人だけが残された。輝夜は大きなため息をついた。永琳は寂しそうに俯いた。その様子を輝夜はじっと見て、そして、永琳に問いかけた。

「ねえ、永琳」
「何でしょうか、姫様」

 ただ走った。ただ走り続けた。
 月から逃げ出した時のように、今はあの屋敷から逃げ出して。
 兎は走り続けた。
 走り続けて、走って、疲れて、いつの間にか歩いて、
 止まった。

 夕日がいつの間にか姿を消し、竹林は闇に包まれていく。
 風が流れることもなく、自分の呼吸と鼓動以外は完全に沈黙。竹の匂いだけが辺りを満たす。
 冷たい空気がレイセンを震えさせる。周りを見回しても、竹しかなかった。道も何もかもわからない。

 じわり、と目に涙が浮かぶのが感じられた。
 私は、何も変わらないじゃないか。
 あんなに遠くから逃げてきても、結局、今のようにまた逃げ出すだけなんだ。全てを懸けてぶつかる、なんて口先だけ。私はただ逃げ出すだけの兎なんだ。
 嫌われないようにして生きるしかなかったのに。その生き方でもう、嫌われていたんだ。
 逃げ出すことしかできない、私。卑怯な、私。

 涙が零れ落ちて、私は顔を手で押さえた。永琳さんの顔が、輝夜さんの顔が、浮かんでは消えていく。あの人たちのことを考えて、また涙が出る。涙が出て、またあの人たちの顔を思い出す。
 レイセンは座り込んだ。それで、彼女は俯いて泣くしかなかった。腕で目をこすりながら泣くしかなかった。

 少し、レイセンは落ち着いてきた。すると、彼女の隣に誰かが立っている気配を感じた。ゆっくりと、顔を上げて誰かを確認する。
 ピンクの服を着た兎が立っていた。レイセンは慌ててブレザーの袖で顔を拭った。その兎はぶっきらぼうに言った。

「迷ったの?」

 レイセンは何も答えなかった。答えたくなかった。兎はやれやれとでも言うような仕草を見せた。やれやれ、こいつは世話が焼けるねぇ、と笑っているようにも見えた。

「あんたって馬鹿なの?死ぬの?」

 兎は小馬鹿にしたような表情になった。レイセンはむっとした。いきなり見ず知らずの兎からこんなことを言われる筋合いはない。

「何よ、死にたいわけないじゃない」

 精一杯答えたレイセンに対して、兎はふっと息を漏らした。

「そう。で、あんたはどうしたいわけ?」

 その質問にレイセンは答えなかった。答えられなかった。兎は再び、やれやれという仕草をした。レイセンはこの兎の一挙一動にいらいらした。

「ほら、これ」

 そう言って、兎はレイセンの手を取ってその上に何かを乗せた。人参の形をした小さな首飾りだった。
 レイセンは、何だろうと首をかしげた。兎はその様子に気付いたのか。

「そこに私が幸運を集めておいた」

 そう言って、兎はレイセンに背を向けて歩き出した。

「それを持っていれば、この竹林から出られる。目をつむっても、歩いて行きさえすれば、あんたの場所にたどり着ける」
「え、それって」

 レイセンは兎を引き留めようとしたが、兎はその手をするりとかわした。なんて軽い身のこなしなんだろう。兎は、一度だけレイセンに振り返った。

「言っておくけど、あんたを助けるのは私じゃないからね」

 そして兎は駆けて行った。レイセンはそれを追いかけることはしなかった。
 兎は竹林の暗闇に姿をくらまし、足音も聞こえなくなっていった。
 また、レイセンだけが取り残された。

 私は彼女が残した首飾りを見た。少し形が歪で小さいけれど、重量感がある。私はそれを握りしめた。あの兎の言葉が耳に残っている。

―歩いて行きさえすれば、あんたの場所にたどり着ける―

 ほとんど期待なんてしていなかった。それでも、あの兎の言うことが本当だったら。
 私はブレザーのポケットから天の羽衣の切れ端を取り出した。月からこの地上に来るために必要なもの。地上から月に戻るために必要なもの。
 私は首飾りを左手に、切れ端を右手に握った。静かに目を閉じる。
 帰るんだ。私の「居場所」に。月に行くかもしれない。それでもいい。それが私の居場所なら。
 目をつむったまま、私は歩き出した。幸い、竹林には音もなく、光も無く、足音も聞こえなくなった。
 だんだん歩いている感覚すらなくなってきた。それでも、足だけは動かす。
 私が開いた、一本の光を掴もうとして。

 全てか零なんてありえないわよ。この世界に100と0は存在しない。
 なぜだか、わかるかしら。
 答えは簡単よ。

 私が存在しているから。

 レイセンは辺りが開けていくことを体で感じた。竹林から出たんだろう。うっそうとした気配を背後に感じるまで歩き、立ち止まった。
 目を開けるのが怖い。それでも、開けなきゃいけない。
 レイセンは息を吸い込んで目を開けた。

 どうして?

 レイセンは飛び出したはずの屋敷の前に立っていた。何も変わっていない。違うのは、屋敷が紅に染まっているか紺に染まっているかだけだった。
 レイセンは呆然と立ち尽くした。予想だにしていなかった答えがあった。
 私の居場所は「ここ」だった?
 すぐに、レイセンは次の思考に移った。
 あの兎に騙された?「あんたの場所」なんて言って、私を騙した?
 私は、騙された?

 私は思わず叫んでいた。

「嘘つき兎!」

 あまりの自分の不甲斐無さに、また涙が出そうになる。まんまと騙された。
 違う、あの兎は悪くない。あの兎は私を竹林から出そうとしただけだ。
 悪いのは、全部、自分なんだ。

 目から枯れたはずの涙が湧き出てきた。どうして、今日はこんなに涙が出るんだろう。どうして私はこんなに泣き虫なんだろう。どうして。

「レイセン?」

 屋敷の方から声がした。レイセンは真っ赤な目をして声のした方へ顔を向ける。涙が止まった。
 二人立っていた。永琳が、その後ろに輝夜が。レイセンはその二人に視線を向けたまま動かなかった。

「永琳さん」

 永琳は黙って近寄り、レイセンの前に立ち、手を差し伸べた。
 そして。
 レイセンがその手に自分の手を重ねた。
 その時、永琳がレイセンの手を握って、レイセンを引き寄せた。

「あ」

 レイセンは永琳の腕の中で抱かれていた。
 永琳の身体は思ったよりもずっと、細くて、それでいて柔らかくて。冷たくて、温かくて。
 ただ、彼女は黙って私を抱きしめていた。
 さっき止まったはずの涙が溢れ出して、堰を切って流れた。そして、たまらず、嗚咽も漏れた。

 私の願いはただ、平和に暮らすことだった。
 馬鹿みたいだ。私はどうしてこんなことに気付けなかったんだろう。
 私は、彼女の優しさに、ただ泣くしかなかった。

 最初から、私の居場所はここにあったんだ。

 涙を流すレイセンを、彼女を受け止める永琳を、輝夜はただ黙って見守っていた。

「本当に、不器用なんだから。貴方たちは」

 ひとりごちた輝夜は空に目を向けた。

 満月が昇る。

Extra Story 1 ~レイセンが逃げ出した後の永遠亭

 部屋には輝夜と永琳の二人だけが残された。輝夜は大きなため息をついた。永琳は寂しそうに俯いた。その様子を輝夜はじっと見て、そして、永琳に問いかけた。

「ねえ、永琳」
「何でしょうか、姫様」

「貴方、どこまで知っていたの?」
「知っていた、とは何のことでしょう?」
「とぼけても無駄よ」

 輝夜は真っ直ぐに永琳に向き合った。永琳も自分の主の様子に気づいたらしい。二人以外に音を立てるものは何もない。

「あの子のことよ」
「レイセン、ですか」
「正直、最初にあの子と出会った時から、貴方はあの子の全てに気付いたみたいに思えたわ。その上で、私に判断を仰がせた。私がかくまうだろうと確信して」
「流石に私もそこまではできませんよ、姫様」

 永琳は微笑を崩さない。

「確かに、そうかもしれないわね」

 そう言って、輝夜は目を閉じる。レイセンの小さな後ろ姿、何かに怯えた目。あの時、私は気付いておくべきだったのかもしれないわね。いや、たとえ気付いていても。

「でも、永琳。あの洗濯の時に私は確信したわ。あれはレイセンを一人にさせるためね。最初のやり取りは、僅かでもレイセンの不安を増長させるためね。残酷にも」

 そこではじめて永琳の笑みが消えた。輝夜は続けた。

「私もあの子と過ごして気付いたわ。もっとも、そう仕向けたのはあなただけれど、永琳。最初はね、私と同じだと思っていた。でも、あの子は私とは違うって、気付いた。
 私は逃げ続けて、わがままな姫。あの子は逃げ続けて、それを悔いて悩む、とても真面目な子。真面目なのに、いえ、真面目だから、人に迷惑をかけたくないと思うのよ。その思いが強くなって、結局それが人に迷惑をかけると思い、また迷惑をかけないために逃げる。
 永琳、最初からそれに気付いていたのよね」

 永琳はゆっくりと頷いた。そしてゆっくり口を開いた。

「ああいう子を救うのはとても難しいのです。真面目だから人に迷惑をかけたくない。自分から、助けてと、人に頼ることすらしないのです。私たちから手を差し伸べても、その手に触れることすら、迷惑だと思うのです。
 そういう子たちは不安を抱えていつも過ごします。その子たちが手を伸ばすのは、その不安が膨れ上がって爆発した時しか、ないんです」

 輝夜は再びため息をついた。

「それで、貴方がその不安を膨らますよう、私に仕向けた、ということね」
「ええ、姫様には失礼なことをしました」

 そしてまた永琳は俯いた。輝夜は立ち上がって、永琳の横に座った。

「永琳」

 パァン!乾いた音が屋敷に響いた。輝夜が永琳の頬を叩いたのだ。平手打ちで。

「姫様?」

 永琳が叩かれた頬を撫でる。

「昔から、貴方は何も変わらないのね。月の死者が来た時もそうだった」

 輝夜は永琳の肩にその白い手を乗せた。

「貴方は最初から全部知っている。貴方は人を使って色々やる。でも、結局は、結局は、貴方が全部、自分で泥をかぶるようにしているじゃない」

 そう言って、輝夜は永琳を抱きしめた。

「私はそういう馬鹿なところが鼻につくのよ。貴方が優秀だからこそ、なおさら」

 輝夜はため息をついた。

「貴方だって、あの子と同じで不器用なんじゃない」

 永琳は静かに目を閉じ、輝夜に体を預けた。

「すみません、姫様、迷惑をかけました」
「私に謝らなくていいわ。それよりも、あの子がもし帰ってきたら。……ああ、貴方はもしかしたら帰ってくるか知っているかもしれないけれど。もし帰ってきたら、まず貴方が出迎えるのよ」

 永琳は微笑んだ。

「はい」

Extra Story 2 ~レイセンが帰ってきたときの妖怪兎

 妖怪兎は竹林の影から三人のやり取りを覗いていた。

 やれやれ、本当に世話が焼けるねぇ。知らず知らずのうちに肩をすくめていた。そして、空に昇る満月を見た。
 もう私がやるべきことは果たした。まったく、らしくないことをしてしまったもんだ。
 一体、私はあの時、何を考えていたんだか。仕方ない、満月に狂わされたことにしておこう。

 兎は彼女たちに背を向けた。
 まあ、これは貸しにしておこう。生きている限りの貸しだから。
 そう自分の心に誓って、兎は竹林の中に姿を消した。

 それにしても、あの薬師はどこまで計算済みだったのだろう。

Extra Story 3 ~後日譚

 レイセンが永琳の弟子になってから数日後。

「レイセン、私、貴方に名前を付けようと思って、ずっと考えていたのよ」
「名前、ですか?」

 永琳は筆と紙を取り出した。

「そう、名は体を現す、と昔から言うじゃない」
「まあ、そうですけれど」

 外はよく晴れている。お茶を用意したレイセンに永琳が出した提案。名前を付けよう。
 レイセンとしては、確かにこのまま地上で暮らすには不便だと思う。悪くはない提案だ。
 輝夜が永琳の横で、紙に記されていく文字を眺める。

「結構考え抜いたのよ。……できた」

 永琳は顔をほころばせて、紙をレイセンの前に突き出した。

「あなたはこれから、零戦・優曇華院、よ」

 レイセンは固まった。

「どう?」

 どう、と言われても。言いたいことが山ほどある。永琳が少し顔をしかめる。

「何よ、その顔は」
「あの、師匠。優曇華院はともかく、零戦は一体どこから出てきたんです?」
「貴方が戦争から逃げ出したこと」

 レイセン、いや、零戦はぐうの音も出せない。
 確かに、合っているのは合っているが、人の痛いところを突いて、この感性。

「あ、永琳、兎なんだから、イナバ、というのも入れておいてほしいわ」
「ああ、その発想はありませんでしたね。じゃあ、零戦・優曇華院・イナバね」

 姫は余計な口を挟まないでいいです、という言葉をぐっと飲み込んだ。だめだ、今はこの二人をまともに相手してはいけない。
 しかし、この名前だけは、この字だけは避けなければならない。レイセンの不自然さをより強調している。というか、それ以前の問題だ。これだけは、必死。
 零戦は勇気を振り絞って手を上げた。

「あの、零戦の部分だけは名前変えてもいいですか?」
「あら、師匠の付けた名前が気に入らないの?」
「そういうわけじゃないですが、ちょっと地上人に対してこの名前では怪しすぎます。変です」
「言われれば、確かにちょっと不自然ね」

 永琳と輝夜は零戦の本音がうっかり出たことには気づかなかったらしい。
 零戦は筆を手に取り、紙に新しい名前を書いていく。

「鈴仙、なんてどうでしょう」
「鈴仙……」

 書かれた名前を輝夜と永琳は食い入るように見つめた。そして、永琳が紙を高々と掲げた。

「素晴らしい名前だわ。我が弟子ながら、天才的ね」

 えええ。鈴仙は信じられなかった。今適当に考えついた漢字を並べたものなのに。本当にこの人の感性はどこか並外れてずれているんじゃないかしら。
 輝夜は苦笑して永琳と鈴仙を交互に見た。二人の様子に全く気付く様子もなく、永琳は満面の笑みで鈴仙に言ったのだった。

「じゃあ、貴方は鈴仙ね、ウドンゲ」
「へ?」

 今、自分の師匠が完全に自分を無視したように鈴仙は感じた。

「ウドンゲって?」
「あなたのことよ、ウドンゲ」
「え、なんでウドンゲなんですか」
「優曇華院って言いにくいわ。ウドンゲでいいじゃない」
「え、あの」
「そうそう、優曇華は、今姫様の部屋にある、あの優曇華から取ってきたのよ」
「え、その」

 鈴仙の疑問を全て置き去りにして、永琳は軽い足取りで部屋から出て行った。呆然と入口を見つめる鈴仙の肩を輝夜がぽん、と叩いた。

「まあ、諦めなさい。天才とは時にしてああいうものなのよ、イナバ」
「姫までそんなことを言うのですか」

 はあ、と鈴仙は大きなため息をついた。全く、師匠も姫も。
 それでも、と鈴仙は思い直す。
 二人は二人なりに私を受けれ入れてくれたんだ。
 少しおかしな、でも二人らしい名前を私につけてくれて。

 私は、幸せ者だ。

 月を侵略した敵はこう云った。

「これは一人の人間にとっては小さな一歩かもしれない。だが、人類にとっては大きな飛躍だ」、と。

 私はその逆だ。だけど、変わっていないようで変わった。
 私はようやく、小さな一歩を踏み出した。

 そういえば、私にあの首飾りをくれた兎はどうしているのだろうか。
 また会える日が来たら、謝ろう。そして、お礼を言おう。

 
 
 


 
久しぶりに長いものを書いた気がします。そして、タイトルがこんなにダイレクトなのは初めてな気がします。

まず、最初に浮かんだのはタイトルでした。次に浮かんだのは永琳でした。そして、ウドンゲと来て最後に輝夜。

恥ずかしいことに、このアイディアがいつ浮かんだかは私も覚えていません。多分、昨年のある晩に思いついたことでしょう。確証は全くないですが。

ただ、タイトル、そして永琳とウドンゲという組み合わせからこの作品が生まれました。この組み合わせを考えた時、消去法的にウドンゲの過去ということになりました。
(本当は永夜異変の後をイメージしていたのですが、矛盾が起こったので仕方なく過去話にしました。)

過去、というものは非常に難しい。人が今を生きるのは、過去の日という螺旋を作り上げた結果だと私は思っています。
(以前、その螺旋を紡ぐのに失敗した気がしますが、それは気のせいではなく事実ですね。)

そして、過去を解いていくのは難しい。

そんな過去の私に言いたいことがあります。

「馬鹿みたいだ」

鈴仙の言葉をあの時の私にもう一度、胸の深くに贈ります。

 

初出:2009年1月31日