夜伽話 ※18歳未満の方はご遠慮ください


 
 うつ伏せの目覚めは最悪だった。世界は綺麗な円ではなく、捻れて回っていた。

 とんでもなく気持ち悪い。酒の匂いが染み込んだ枕に顔を埋めて、蓮子はまぶたを下ろす。そうやって捻れた世界から逃げようとするけれど、今度は闇が頭の中で回りはじめる。ぐるぐる、ぐるぐる。速度はゆっくり不規則に、妙に揺れながら。

 ああもう、死ねばいいのに。
 闇に悪態をついて瞳を押し上げる。焦点の合わない視界の奥に置き時計があった。両方の針は真上近くを指している。学校のことをふと思い、胸が小さく疼く。
 青い巻カーテンが昼の光をぼんやりと遮り、影が部屋の隅に滲んでいた。テーブルにはビール缶が五本。どれも口からだらしなく汁を垂らして倒れていた。

 不意に強い力にまぶたを引かれる。気づけば再び意識を失っていた。

 ◆

 次に目覚めたときはぐるん、と部屋が九十度回ってから、元の姿に戻った。部屋は鮮やかな橙に包まれていた。隣の家が火事になっているのではないか。そんなことを酔い明けの頭でちらと思ってしまうくらいに。
 掛け布団は足元にみっともなく丸まっていた。敷き布団のちくちくした感触が腿に直接伝わってくる。鼻から長いため息をつくと、枕で跳ね返ってくる。

 起き、なきゃ。うつ伏せの状態から、力なく体を起こすと、また世界が揺れて回る。一度目の目覚めよりもずっと大きく。
 脳液が腐っているようだった。どろりとして気持ち悪い匂いが頭から足の先まで落ちる。そのせいだろうか。空っぽの胃が音を立てて縮み、首の中から吐き気が一気に全身へ広がった。
 背中を曲げて一度目の吐き気に静かに耐える。それでも絶え間なく毒は蓮子の体を侵食していく。

 この毒を全部吐きたい。あと数秒の間にトイレに行けるだろうか。
 余計な思考が頭を冒し、吐き気は一層強くなった。力が入らないまま、蓮子はずるずると四つん這いで明かりのないトイレに向かった。
 便座の蓋を半分近く上げるのが精一杯だった。それが終わるか終わらないかのうちに、その隙間に差し込むように吐き出した。体の中にある悪いものをすべて。

 ああ、死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。

 強く念じながら、黄土色よりも汚れた胃液を吐き出す。何度もどしても、まるで吐き気はおさまらない。そのうちに胃液さえ出なくなって、それでも胃と食道は逆律動を繰り返す。喉の奥が引き裂かれるように痛い。

「クソッ」

 一滴だけ、口から濁った液が飛び出る。それを最後にようやく喉の震えがおさまった。
 それでも頭の中はまだ不規則に揺れて気持ち悪い。触らなくてもわかるほど顔は冷たく、体は震えてしばらく力が入らなかった。

 目尻に涙が滲むのを感じながら、何度も死にたいと願う。吐き気と痛み。こんな苦しみを与える神を恨みたいと思う。
 けれど、本当は神になんてどこにもいなくて。これは全部自分の因果だと、私自身がよく知っているはずなのに。昨日、あんなに酒を飲んだ私のせいだろう。
 立つこともできず、蓮子は冷たい便器に手をかけたまま、自分を呪いつづけた。

 何もできないままどれくらいの時間が過ぎたのか。もう一度、胃が縮む音が空虚に響いた。今度は刺さるような空腹の知らせ。頭では何も食べたくないと思っているのに。そんな自分の体に舌打ちして、蓮子はよろよろと立ち上がり、キッチンへ向かった。
 右手で叩くように部屋のスイッチを入れると、白い光が天井から降り注ぐ。窓から差し込む橙と溶け合ってぬるい色に部屋が満たされた。時計を見ると、十七時半を回っていた。

 コップに無色透明の水を入れて口に含んでうがいをしても、どろどろとした感覚は抜けなかった。
 キッチンの奥にある食パンを一枚引きずりだしてくわえると、香ばしい匂いが鼻先に漂い、わずかに気持ちが安らいだ。片手でパンを支えながら飲み物を探す。コーヒーを淹れる気にはならなかった。冷蔵庫を開くと牛乳パックが転がっていた。
 牛乳をグラスに注ぎ、ゆっくりと飲み干す。喉を伝って食道を通り、胃に落ちる感覚がする。不快感がわずかに強くなるが、もう吐き気という形にはならなかった。
 少しだけ、指先と頬にあたたかみが戻ってくる。

 いつのまにか自分を呪う気持ちは薄れていた。何かの位相をすり抜けたように、現実が自分の前の前で意味を持ちはじめた。
 ふと饐えた匂いが鼻先をくすぐっているのに気がついた。

「くさ……」

 小さくひとりごちて、シャツの袖口を嗅ぐとアルコールの匂いが染み込んでいた。ビールの黄ばみが染みついていて、洗っても汚れは落ちそうになかった。もう二度と使えないな、と思い、それから落ち着きはじめた頭で風呂に入ろう、とも思った。
 そのとき、自分がスカートを履いていないで、シャツとショーツだけの格好であることに気がついた。

 バスタブは乾ききっていた。壁のボタンを押すと透き通るようなお湯が注がれていった。湯が満ちていく音が耳の奥をくすぐる。しばらくお湯が溜まっていく様子を目で追ってからリビングに戻り、椅子の背もたれにだらしなく寄りかかった。
 お湯が張るまで何もする気に慣れなかった。天井の染みを見つめて、浅い呼吸を繰り返す。鼻の奥から喉にかけて空気が粘膜と擦れる。

 何も考えなかった。一度だけ今日提出しなければならない課題のことが頭をよぎったが、風邪だったと嘘をつけばいい、と掻き消した。

 部屋から燃える色が失せた頃に、高い機械音が風呂が入ったことを知らせる。蓮子は糸で引っ張られたように体を起こし、シャツをのろのろと脱いだ。そして汚れたままのそれを椅子の背に引っ掛けた。

 薄い下着を脱衣所の床に放り投げて、足の指先から乱暴に風呂に入った。鈍い熱さが体に染み込み、淡白な香りが頭を包んだ。長く息を吸い込んで口から吐き出す。

 なに、してるんだろう。
 鏡に映った自分の顔はひどかった。まぶたは力なく閉じかかっているし、目のまわりは濁っている。鼻の頭に小さなひっかき傷があった。
 しばらく鏡面の自分の顔を見つめていたが、やがて左手の親指で鼻を軽く撫でつけた。

 ぽつん。

 水面に何かが落ちたような気がして、蓮子は胸元を見る。

 ぽつん。

 確かに落ちた、小さな赤い石。水面ではじけて花が開き、やがて水のかすみへ消えていく。
 もう一度鼻をこすると、濡れた血がと手のひらにはっきり線を引いていた。鮮やかでとろけるような色だった。手を眺めている間にもぽたぽたと鼻から落ちる血が止まらない。
 なんで、こんなことになったんだっけ。

 真っ赤な華がいくつも胸元に開く。つん、と鼻の粘膜に刺さるような痛みが走る。ぱ、ち、ん。

 ――メリー?

「    。        ?」

 少しくらい、いいじゃないの。

「   !」

 違うって言っているでしょう。

「     ……」

 そう思いたければ、そう思えばいい! なんであなたがそんなことを言うの!

「  ――!」

 その言葉が終わる前に、頬を思いっきり叩かれて。たぶん、そのとき鼻もやられてしまって、今こんなことになってしまった。
 腕で柔らかく鼻を塞ぐ。思い出に蓋をしてしまうように。

 けれど、できない。
 じわりじわりと腕に血が滲む。毛穴から染み込もうとする血の色。ぞっとして腕を離すと今度はもっと多くの血が湯の花になる。

 衝動的に目を瞑り、湯の中へ逃げ込む。鼻の頭から頬へ、鋭い痛みが走り抜ける。顔が火に触れているようだった。
 痛みに負けて目を開いてしまった。水面の向こう側に揺らぐ壁面のランプが見える。それは血の霞の中で熱をもって。湯の中で赤い尾を引いた血がゆらゆら揺れる。引きずり続ける彼女の言葉、去りゆく姿。

 手を伸ばしても触れられない。言葉も届かない。
 どうして、私は間違って、ない。いつも、あなたを引っ張ってきたのは私なのに。どうして私があなたを気にしなければならないの。
 ああ、それとも。私に愛想を尽かしただけなの? 単にそういうこと?

 自分の胸の奥に言葉を言い聞かせれば聞かせるほど、疼きは強くなる。指先まで震えてしまうほどに。眼が痛い。湯が染みているのか、あるいは自分の血の色にやられてしまったのか。
 きゅんと肺が締めつけられて。

 ごぽっ……!

 ◆

 古いハンドタオルで鼻を拭って、しばらく呼吸を止める。鼻からもう血は流れ出なかった。小さく息をついてタオルを洗濯機へ投げ出し、入れ替えるようにブルーのバスタオルで体を拭く。

 鏡に写る自分の姿は疲れきっているように見えた。毛先から落ちる雫はどこまでも穢れているようだった。目の白い部分が赤く変色して、目尻が腫れている。あわててタオルで自分の頭を荒々しく拭いた。
 けれど、徐々に拭く力は弱くなっていき、やがては頭に手を載せるだけになる。十数秒、蓮子は唇を固く結んでいた。

 死の静寂。滞った時間の中、じっと耐え続ける。
 胸が締め付けられて、そのまま糸でちぎられてしまうのではないか。それならそうなってしまえばよかったのに、けれど。

「め……」

 唇が開いてしまえば、崩壊が始まってしまって、一気に記憶が全身のあちこちに流れこんでしまう。
 冷たい蒼と金と紫と、表情を語らない薄い唇しか彼女の目の前には漂っていない。それ以外は何も見えない、こんな目があるのに。

「メ、リー……!」

 堰を切ったように涙がぼろぼろと落ちる。タオルを握る手に力がこもる。

「なん、で……わたし、そんな……っ!」

 白い脚が震えて、体からいっぺんに力が抜けてしまいそうになる。今、私は何を言おうとしていたのだろう。後悔の言葉? あるいは謝罪か言い訳?
 どれでも、今は同じ。彼女の背中に言葉は届かない。何度も何度も、蓮子の目の前でメリーは去っていく。映画のラストを繰り返し思い出すように。

 ――さようなら、蓮子。

「メリー……ッ!」

 泣きながら布団に潜る。下着もつけずに、掛け布団を頭からかぶって真っ暗な闇の中に逃げこうもとする。それでも隙間からわずかに光が入る。掛け布団は部屋の明かりをぼんやりと吸い込んでしまう。
 泣けば終わると思っていたのに、涙を拭うたびにますます頭の中はメリーと彼女の言葉の空間になっていく。他のことなんて何も考えられない。

 気づけば左手の指は割れ目をなぞっていた。ざらりとした感触があると思っていたのに、もうぬるりとしたものになってしまっていた。
 情けない、本当に、こんなときなのに私は。激しく流れる涙はもう手で拭えなかった。顔を布団に押し付けるしかない。悲しい塩水の粒は布団に染みこんでいく。

 ――本当、馬鹿ね、呆れるほど。

「ちがうのに……わたし、そんな、ばか……じゃ……ッ、くふ……」

 弱いところを指が通るだけで息が乱れてしまう。下半身に一気に火がついて、もっと自分の指を貪ろうとする。指を止めようとする意志がふっと現れては、すぐにメリーの姿に掻き消される。風に揺れる金色の髪――。
 布団と自分の体が擦れる。ちくちくした感触が今は気持ちよくてたまらない。無意識に自分の体が揺れる。

「ん……くっ……んんっ!」

 いつの間にか人差し指は突起にたどり着いていた。口内にたまった唾を音を立てて呑み込む。目尻からは哀しみとは別の涙が滲みはじめている。指でいじっているところから甘い痺れが胸の奥に伝わってくる。

 優しく撫でてほしい。
 その願いは虚ろ。心臓に痺れが伝われば鼓動は激しくなり、目からは涙があふれる。指が自分を追い詰めていく。わかっているのに手は止まらない。追い詰められたい。果てしなく暗いところへ行ってしまいたい。
 でも、見捨てられたくない。

 人差し指と中指で挟むように陰核を摘む。体がびくっと大きく震える。自分でも驚くほど強い快感。目の前に小さな星が瞬くほどに。

「んくぅ、あふ……っ、だ、め……」

 ――今まで、私をそう見ていたのね?

 突き刺すような冷たい眼をしているのに、触ってほしくないところを触ってくる。自分の指にそんな幻覚を入れ込む。

「……あう、は、く……!」

 けれど、幻影の問いに応えることはできない。記憶と欲望が綯い交ぜになる。彼女は彼女から離れていく。彼女は彼女と混じり合う。

「……ッ」

 爪で軽く引っ掻くと、あまりの快感に呼吸が途切れる。自分でしているだけなのに、どうしてここまで。

 ――こんなので感じるの? こんなにねっとりして。

 「彼女の」指がゆっくりと自分の中に入ってくるのを感じる。指紋が壁を刺激するような、細かい痺れがずっと中から伝わりつづける。

 ――気持ち悪い……。

「ひぅっ」

 喘ぎのような悲鳴のような、情けない声が漏れる。指が肉壁を擦りながら最奥へと進む。おぼろな彼女の姿が闇へ溶けていく。そのくせ陽炎のようにぼんやりと現れたりする。

 くちゅ。
 甘い水音が布団の中で響く。止めたいと願うのにじわじわとあふれて止まらない。自分の指の動きも。入れた指をゆっくりと引き抜こうとすると、また肉壁と擦れ、蓮子の口から切なげな吐息が漏れる。

「くふぅ……め、リー、やめ、てよ……ッ!」

 ――じゃあやめてあげましょうか。

 記憶のメリーがそんなことを言うはずが。

 ――めちゃくちゃにしてあげましょうか。

 欲望のメリーがそんなことを言うはずが。

「ちがっ……! こんなの、メリー、っあ……じゃ、な、いっ……!」

 ――じゃあ、あなたは私をそうとしか思ってなかったんだ。

 違う違う違う! ニューロン回路が快感でショートしていく。暗いはずの視界に小さな星が飛びはじめ、赤い靄が現れては消えていく。指の動きが早くなればなるほど、思考は途切れ途切れになる。

「わ、たし……ああぅ! くぅ……いかな、いで……んんっ!」

 ――あなたは。

「はぁっ……うぁ……っん!」

 ――そこにいるだけなんでしょう。

「ん……くっ、くぁ! ああ、ああっ……!」

 ――さようなら、蓮子。

 幻覚と記憶の彼女が重なりあって、一度だけはっきりと姿を蓮子の前に現した。

 冷たい青の瞳が蓮子の胸を突き刺す。深く深く、心臓をも貫いて。そのまま一分の隙もなく踵を返して、去っていく。風に金色の髪が揺れる。ブーツの音が乾いて切なく鼓膜を刺激する。
 境界の向こうへ消えてしまって。

「ッ――――!」

 それは「自分の」指だった。最後の最後で絶頂へ導いたのは、自分。

「っ、あ、あ、んんんんん――ッ!」

 目の前が一気に真っ白になった。歯を食いしばり、全身を駆け巡る快感に耐えようとする。それはすべて胸の奥の一点に吸い込まれていく。強すぎてまともに息をすることさえできない。

 白い閃光の中で、それでもただひとつだけ、思う。
 隣に立つことさえ許されないこと。まるで罪のような、その事象の意味を。

 ◆

 そっと目を開くと、まだ布団の中だった。薄い掛け布団の向こうにぼんやりと白い光が感じられる。こもった空気は自分の汗と吐息の匂いで粘っこくなっていた。
 左手を股の間から引き抜き、ゆっくりと顔の前に持ってくる。指は乾きはじめた愛液で鈍く光っている。

 じっとそれを見つめていると、不意に胸の中から大事なものが抜きとられてしまう。ぽっかりと穴が開き、ごうごうと黒い風がそこを埋めようとする。
 絶頂で止まっていたはずの涙がまた零れはじめた。

 こんなことで、何が埋められるというのだろう。無為に時間と体力を使うだけで、得られるものなど何もない。最中に見た幻覚も終わってしまえば、全部消え失せて、満ちていたような気持ちは一瞬で崩れ去る。
 私の現実はこの布団の中で止まってしまっている。

「いかないで……」

 誰にも届かない言葉を零す。涙よりもずっと弱々しい声で。

 わかっている。電話でもいい、私はこの言葉を伝えようとすることはできるはずだ。
 でも、もしその言葉を拒否されてしまったら? 電話にいつまでも出てくれなかったら? そのとき、私はどうすればいいのだろう。それを考えるだけで怖い。怖すぎる。

 蓮子は再び目を瞑り、小さく体を丸めた。膝を抱えてできるだけ小さくなるように。どこかへ消えてしまいそうになるくらいに。

 どうしようもない。情けない、本当に。メリーの言うとおり、私は馬鹿で、情けなくて、こんな自分なんてどこかに消えてしまえばいい。
 でも、きっと死ぬこともできない。酒に逃げて、快楽に逃げて……あとはどこに逃げればいいんだろう? ずっとそうやっているうちにメリーが戻ってくるとでも、私は思っているのだろうか。
 そんなことあるわけないのに。ないってわかっているのに。それでも裸のまま、布団の中で蓮子は泣きつづける。

 ダイニングのテーブルには空のビール缶が倒れている。脱衣所には投げ捨てられたショーツが転がっている。風呂桶で血の滲んだお湯が、煙を立てて冷めていく。
 そんな現実をすべて放り捨てて、瞳を閉じれば夢が蓮子を迎えに来る。長い夢を見ることになるかもしれない。

 そうして何日も眠りつづけて、やがて静かに目を覚ませば、私のそばにメリーがいてくれるのだろうか。
 ああ、違う、そんなことあるわけないのに。

「メリー」

 こんな私のことなんか、どうでもいいと思っているのに。

「戻って、きてよ――!」

 それでも願わずにはいられない。明日がもっといい日になるように。
 そういう日が来るまで、ずっと自分はこのままなのかもしれない。いや、それよりももっと自分が堕ちていくことをどこかでは知っている。そのうちに私もどこか戻れないところへ行ってしまうのだろうか。
 蓮子にはわからない。今は傷つきすぎて、その傷を癒すすべも知らない。

 ただ今日は、今日だけは。爛れた部屋の中で――虚しい願いを抱いたまま、傾いた日常の中で――夢に落ちていく。
 
 


 
 爛れた蓮子の一日。それがこういうものだとしたら。
 

初出:2011年3月25日