リハビリをしてはや一年。
リハビリで書きました。

前作と同じ舞台ですが、前作を読んでなくても問題は多分ありません。

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 ひとりで紫色の砂浜に立っていた。
 夜空に青色の月が浮かんでいる。まわりを見渡しても海はどこにも見えなくて、かわりにテトラポッドが砂浜に敷き詰められていて、魂のようにぼんやりと光っている。
 どこからか音がする。耳を澄まさないと聞こえないくらいの。それは埃。彼らが小さな部屋の片隅にしんしんと積もっていく音。その部屋の場所はわからないけれど、私には確かに聞こえる。
 そんな夢みたいな場所に私はいる。他には誰もいない。いきものの気配すらない。ただ無機質な月と砂とテトラポッドが私のすべてだった。もし最期を迎えるならこんな場所がいいな、なんて。
 そう思うと、突然空が割れる。月から橙色のひびが走って黒を分かつ。埃の音よりも静かに光が差し込んで、視界を真っ白に染める。
 そう、やっぱりここが私の終わりの場所なんだ。

  ◆

 目を覚ますと、本当に視界が真っ白だった。思わず小さく声を出して、目を瞑る。やがて瞼の裏は橙へ変わり、黒へ落ち着く。もう一度静かに目を開くと、私が岸で寝こけていたことに気づいた。凪が終わったようで、陸から風が吹き込んできた。
 夕の風に吹かれるのは好きではなかった。でも、太陽がくすぶりながら沈んでいくのを見るのは好きだった。特にこの頃はこの枯れた港を何度も見たいと思う。だから今日も胡座をかき、お尻にひんやりとしたコンクリートを感じながらここにいる。今日も月は昇らない。
 鈴谷。熊野の声が風に運ばれてきた。早く帰らないとあなたを見つけられなくなりますわ。飢え死にしてもよくって? ふむ、と一思案する。それも悪くない。でも、おなかが空くのはつらいな。私は立ち上がりテトラポッドの海に背を向けた。風がそこを通り抜けて奇妙な口笛を鳴らす。わかっているよ、と小さく呟いた。またここに来る。

 熊野は中庭にいた。木立に隠れるようにして、私に気づくとすっと立ち姿を直した。私が手を振りながら近づいていくと、彼女は大げさに腕組みをした。薄闇が私から熊野の表情を隠してしまっていた。まったく、演習が終わってからずっとあなたを探していましたわ。
 愛されっ子ってことだね。手探りで私が軽口を叩くと、彼女の声のトーンがひとつ落ちる。冗談、今日で三日目ですのよ。
 うん、と私は小さく返して食堂へ歩き始めた。熊野が私の横を歩くと、ポニーテールがリズムよく弾む。提督も心配するし、黙ってどこかへ行くのはやめてくださる? 声は弾んでいなかった。
 いいじゃん。演習のあとは自由時間なんだから。どこへ行こうと関係ないでしょ?
 寮の夕食は違いますわ。門限だってあるんだから、勝手なことは困ります。
 彼女が口を尖らせると、上唇に廊下のランプの色が映り込む。優等生だねえ、熊野は。私が肩をすくめても、彼女はそれ以上言葉を返さなかった。
 食堂のドアを開けると、誰もテーブルに座っていなかった。ただ一膳だけ夕食が私の席に置かれていた。とても不自然な光景だった。早く食べてくださいね。厨房の蛍光灯の下から電の声が響いてくる。私も全部片付けたいので。
 席について箸を手に取る。お盆の上には冷めた味噌汁、固くなったご飯、ぱさぱさのアジ、干からびたお新香。口にする気力も失せる。でも、熊野が目の前に座って私を見ていて、その栗色の視線から離れることはできなかった。
 わかるでしょう?
 食器を洗う音を背景にして、熊野がため息をついた。私は曖昧な声を漏らして味噌汁を啜る。しじみ、少しばかり泥の味。
 あなたを心配することすら、みんな疲れてしまったの。あとは私だけなのかもしれませんわ。
 いいじゃん、むしろ気楽なもんだよ。水気のないごはんを口に入れて、鼻で笑った。
 本当にそう思っていて? 熊野は頬杖もつかず、手を膝元に置いてかすかにうつむく。そうしたら、あなたが今こんなふうにしているはずがありませんわ。
 また曖昧に答えてアジを箸で切り分けた。ばらばらになったそれは、今の私の頭を写しとっているようだった。何がアジを形作っていたのか忘れているみたい。
 じゃあ、提督は? 何か言っているの?
 心配そうな顔はしてるけれど、私たちには何も言いませんわ。
 やっぱりね、三日間なんて大した時間じゃないよ。
 一端の女子高校生が三日間もこんな感じなら、誰だって心配します。
 不良じゃないのになあ。
 お馬鹿さん、そんなことはわかっています。
 電灯の陰が熊野の顔により強く濃く映る。彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。ごぼごぼと水が流しへ吸い込まれる音がした。私はしかたなくへらへらと笑って、残っていたひとかけらのお新香を食べる。塩辛さが舌に滲みた。
 どうして私には何も言わないの? ぽつりと熊野がこぼす。
 ご飯が口に入っていなかったらきっと聞き返していた。何を? 私は何をあなたに話せばいいの? その思考はお茶と一緒にのどの奥に押し込まれて、逆に皮肉が口をついて出た。
 言ったら、余計に心配するじゃん。
 熊野がはっと顔を上げる。それでも構わないわ。
 いいや、構うに決まっているね。
 御膳が空になった。お椀に茶碗を重ねて、私は会話を押し止めた。熊野が何かを口にしようとしたけれど、言葉が紡がれることはなく、ため息で黙り込んだ。重ねた食器をカウンター越しに電に渡す。
 あの、鈴谷さん。ぴょこんとカウンターから顔を出して、電が私に囁いた。熊野さんと喧嘩でもしたのですか? みんな、そう噂してます。
 私は熊野を一瞥する。彼女の細い背中が電灯の中で小さく縮こまっていた。
 違うよ、喧嘩なんてしてない。ただ熊野がちょっと心配症なだけだよ。電はもどかしそうに口をもごもごさせていたが、私はひらひらと手を振って食堂を出た。

 そのまま自分の部屋に戻って部屋の電気を消す。最後にちらりと見た時計は夜の九時を示していた。寝るには早すぎる時間だし、眠くもなんともない。でも、見えるもの全部に薄いノイズフィルターがかかっているようで、私はその先に手を伸ばす気力もなかった。
 廊下から重巡の先輩たちのおしゃべり声が近づき、そして遠ざかっていった。三日前の出撃のことを話していたようだった。
 回路のスイッチを入れられたようにその戦いの記憶が蘇る。とても苦しい戦いだったと皆は言っていた。けれど、私は全然そうは思わなくて、いくつもの敵を倒して味方を助けた。結果、ほとんど無傷のまま私がMVPをとった。特別に頑張ったわけではないけれど、皆から眩しい視線を感じた。私にはその理由がよくわからなかった。提督が私のことを褒めた。最近のおまえはうまくやっているよな。彼女が私の肩を叩くけれど、少し痛かった。ノイズを感じるようになったのはその時からだった。
 そして、私は同じ夢を見るようになる。無機質な砂浜とテトラポッドと月の夢。テトラポッドは人を殺すようなかたちをしていて、身勝手に転がっているばかりだった。まるで私と同じだな、と思った。
 それからの三日間は何をする気にもなれなかった。部室に来てゲームをして、売店で買ったお菓子を食べて、活動が終われば枯れた港に行った。陽が沈むまでずっとそこにいて、やがて熊野の声が迎えに来る。同じことを繰り返した。
 あなたを心配することすら、疲れてしまったの。熊野の言葉が思い出された。わかってるよ。くすんだ橙色の豆電球につぶやく。じゃなかったら、何日もこうしていようなんて、思わないよ。ベッドのシーツから埃っぽいにおいがした。

 馬鹿みたいに小さなことをぐるぐる考えていたら、夜明けが来ていた。制服も化粧も昨日のままだった。すごく嫌な気分になる。服もかすかに饐えた香水の匂いがした。
 顔だけでも洗おうか。そう思って体を起こすと、窓の外からテトラポッドが見えた。それは顔を出し始めたばかりの太陽に照らされて朧に光っていた。それに導かれるように、部屋を出て寮の裏口から枯れた港へ向かった。
 もう何度ここへ来たことだろう。テトラポットが規則正しく、エライゲージュツみたいに敷き詰められたらこの場所に。今日はさらにコンクリートのへりから階段をのそりと降りて、砂浜へ向かった。太陽が山のへりからもうだいぶ離れて、ドロドロな私をさらに溶かそうと光を増していた。テトラポットに手を添えて、鼻から息を抜く。
 灰色の魂がここに眠る。私は何も考えずにそれを生み出してばかりいた。でも、もう限界なのかもしれない。ごつごつとして、重くて、ぬくもりもなくて。もう十分だよ。
 遠くから鐘が響いてきた。寮の朝食を知らせる合図。速やかに食堂で食べなければいけないけれど、今はとてもそんな気分になれなかった。また、熊野の泣きそうな表情が目に浮かぶ。それを振り切るようにして砂浜の縁を歩いた。凪がやってきた。波の音はどこからもしなかった。

  ◆

 銀色の螺旋が、墨色の回転が、みんな奪った。
 父親は私の枕元でそう語った。

 昼はまだ良かった。でも、夜が来るのが本当に怖かった。今まで見たこともない海の顔が迫ってくる。ただひたすらに暗く、先もない。後ろにも戻れない。風が淀んで呼吸をするのも苦しかった。そんな中、唐突に心臓を殴るような音がする。外に飛び出したら潮の雨が降ってきた。すごい火薬の匂いと一緒に。なんだろうと思う間もなく、閃光とさっきと同じ音が響く。
 敵襲だ! 誰かが叫ぶ。くそ、レーダーにもかからなかった! GPSが狂ってるんだから使えるわけないだろう! 別の誰かがそいつを罵る。その間にも、どんどん砲撃が僕たちを襲う。やれ! 上官の声がする。とにかくやるんだ! けれど、誰も反撃できなかった。僕は怖くて、船が壊れるくらいにエンジンを全開にして逃げ出した。
 なぜ逃げる! すぐに上官が僕に飛びかかる。お前には誇りというものがないのか?
 怖いんです! 僕は正直に答えた。勝てるわけがない。 そういう問題じゃない。上官は僕を押しのけて操舵を始めた。ここで立ち向かってこその命だ。
 船の悲鳴が聞こえた。砲撃を受けたのか、上官の無茶な操作だったのか。僕の頭は真っ白になって。

 気づいたら、救命ボートの上だった。僕しかいなかった。砲撃がどこか遠くから聞こえていた。まだ、僕の乗っていた船が生きていたみたいだった。ときどき大きな波がボートを揺らす。僕はその中で仰向けになっていた。頭が割れるように痛くて、かろうじて意識がつながっているみたいだった。
 硝煙の向こうに星が見えた。でも、隣に僕の見ていた月はなかった。それがなくなったことはとっくに知っていたはずなのに、そこで急に実感として迫ってきたんだ。
 ああ、本当に世界が終わってしまうんだ。遠くの戦場でどちらが勝つにしても、いつかは同じ所に辿り着くんだ。
 それはとても重くて、朦朧とした意識では考えることすらできなかった。実感にゆっくりと呑み込まれていくように僕は目を瞑って、もう一度意識を手放した。

 また気づいたときには、病院のベッドにいた。白い肌の看護師が、僕に新聞を手渡してくれた。ああ、あなたはあの戦場からのただ一人の生還者なのですね! 私はあなたのことを本当に誇りに思います。彼女が何を言っているのか僕にはまるでわからなくて、すぐに新聞の一面を見た。そこには僕が乗っていた船が轟沈したことが載っていた。相手の主力艦を相討ちになった、と。そして、それが終戦の決め手になったのだ、と。
 終戦? 僕は目を疑った。戦いが終わったのですか?
 ええ、と看護師が涙ぐむ。もうつらい思いはしなくていいんです。なにもかもあなた達のおかげなんです。本当にありがとうございます。
 窓の外へ目を向けた。空は快晴で、雲ひとつ、飛行機の一機すら飛んでいなかった。サイレンも沈黙を守ったままだった。
 戦いが、終わった。それを自覚した瞬間、一気に色々な感情が僕を打ちのめした。それをどう言葉にすればいいのか、今でも僕にはわからない。そして、それをどう外に吐き出せばいいのか、わからなかった。気づけば涙がとめどなく溢れてきた。違う、涙なんて流すつもりなんてないのに! でも言葉はかたちをなさなかった。かわりに看護師が涙ぐみながら私の頬にハンカチをあてる。それが余計に僕を追い詰めた。
 あなたたちはみな誤解しているんだと、僕は叫びたかった。仲間を失ったから僕は悲しいんじゃないんだ。この戦争を終わらせた感激で泣いているわけでもない。僕は誇らしい戦いなんて何一つしていやしない。負け犬が称えられるほど哀しいことはないんだ。

 でも、そんな僕の思いとは裏腹に、入院中に本当に多くの人が来た。僕の家族。戦友の家族。新聞記者、ラジオインタビュアー。みんな僕を英雄のように扱った。一ヶ月間、毎日僕が僕の目につかない日はなかった。それは僕じゃない僕だった。
 だから、入院が終わると同時に僕は家を出た。家族には簡単な手紙だけを書いて。行き先はわからなかった。一年くらいはあちこちを彷徨った。そして、最後にこの島にたどり着いて、おまえのお母さんに出会った。
 小さな民宿の受付の人だった。彼女は僕が誰かなんてよくわかっていなかったけれど、とても僕に良くしてくれた。僕はずうっとこの島に留まることにして、彼女と色んな所に行った。そして、僕達は結ばれ、おまえが生まれた。
 鈴谷。この名前は僕のものではなくて、おまえの母親のものだ。僕はもう、あの戦争のことを全部忘れたかったんだ。おまえは自由になってほしかったんだ。僕の「戦い」のことなんて気にしなくていい。好きなことをして、好きなように生きてほしい。
 それがおまえへの願いだよ。

  ◆

 なに、今日は演習サボって来たわけ? 鶴見がけらけらと笑いながらジュースを啜る。サボるってひどいなあ。竹塚の音外れなバラードに負けないように返す。行きたくないんだから、行かないだけだよ。
 だけど、あそこの部長って怒るとめっちゃ怖いんでしょ?
 怖いし、しつこい。
 やだ、ここに来たらマジやばいね。鶴見は全然怖くなさそうにドアの窓から廊下を見渡した。来るわけないでしょ、提督がさ。あ、曲入れた?
 入れてるよ、あんたが入れてないじゃん。
 竹塚の曲が最後のサビに入っていた。変なミラーボールに照らされて、彼女は幽霊のように見えた。バラードばっかだったから、もっとイケイケなのいかない?
 はいはい、と私は適当に返して、タッチパッドを弄る。ロックでもいい?
 ロックぅ? あんたそんなの好きだった?
「R」「E」「V」――順々に入れていくけれど、中々私の思うものは出てこない。
 ま、有名なのだけだけど。
 ふうん、ノれるの?
「O」「L」――ノれない。
 ええ? それよりもダンス系いこうよ。
「U」「T」「I」――ヒット三件、私の歌いたいもの、ナシ。
 わかったよ、ダンス系にする。
 ぱっぱと打ち終わったところで、竹塚の曲が終わった。

 カラオケが終わって店を出たら、八時を過ぎていた。白い街灯がてらてらと私たちを照らす。夜だな、という実感と一緒にヤバイという言葉が胸をつつく。向こうの夜ご飯はもう終わってる。
 鈴谷はもう帰るんでしょ? 竹塚がカールした髪を直しながら言った。私たちはそこでもうちょいダベってくけど。鶴見はケータイですぐ近くのファミレスのクーポンを探していた。
 つと、言葉に詰まって私もケータイを取り出した。八時十五分。ここから鎮守府までは歩いて十五分。門限までは時間がある。私も行くよ、と答えた。
 ええ、大丈夫? 遅刻したらあの部長がやばいでしょ?
 提督にさえバレなきゃいいんだよ。ケータイをスリープにして歩き出した。たまにはもっと遊ばなきゃ、やってられないんだから。
 ファミレスには私と同じくらいの歳の女の子が何人かいた。またどきっとしたけれど、鎮守府の仲間ではなかった。三人でドリンクバーを頼んで、デザートのティラミスをつつきながら、記憶にも残らないおしゃべりをした。
 ふと顔を上げて、二人の後ろの壁時計に目をやると、八時四十五分を指していた。あ、と声が漏れそうになる。でも、二人には時計なんて見えてなくて、クラスの誰と誰が付き合って誰がフラれたかを、ペラペラの紙のように話し続けていた。
 帰らなきゃ。その言葉を口にするのがとても重く、難しいことに思えた。二人と私の間に透明な壁を作ってしまうようで、怖かった。でも、鎮守府に帰らないことも同じくらい、怖い。
 なに、どうしたの? 急に竹塚が栗色の瞳を向けてきた。ぼーっとして、もしかしてアイツのこと、ちょっとでもいいと思ってたの?
 アイツって、誰? そんなことを言えるわけない。闇の中で手を伸ばすように、私は答えた。いいわけないじゃん、私そんなの好きじゃないよ。
 すると鶴見が口を丸くして、へえ、なんて驚いていた。何がだろう、全然私にはわからない。二人と私のいる場所が、同じはずなのにずれている、私はただその感覚に心臓を掴まれていた。そして、自分の背後に作った壁には肺を掴まれていた。

 月は回らない。それでも私が鎮守府にたどり着いたときは夜十時をまわっていた。門の明かりは消えていて、寮の部屋の灯りがいくつか点いているだけだ。できるだけ音を立てないように、私はそこをくぐり抜けようとする。
 でも、そういうことには誰かが気づいてしまうものなのだ。たとえば、私たちの旗艦がそこで素振りをしていた、とか。
 加賀が竹刀を下ろして私に視線を向ける。黒く重い色が私にのしかかってくる。
 あなた、今帰ってきたの?
 ああ、うん。足が固まって動かない。加賀が私の目の前に立つ。左に結わえた髪までが、私を軽蔑しているようだった。門限、と彼女の薄い唇からこぼれる。いえ、やっぱりちょっと来て。

 姿勢よく歩く彼女に連れられて、私たちの「武器庫」に来た。飛行甲板やら砲台やらがところ狭しと詰め込まれている。埃っぽくて、湿気が溜まっていた。加賀が灯りをつけて、扉を閉める。ずん、と空気が重くなった。
 何を考えているの? 彼女の最初の問いかけがそれだった。伏し目がちな彼女の表情はやっぱりうまく読み取れなかった。
 最近のあなたはおかしい。いっときの私よりも。
 低く乾いた言葉は私の胸には届かない。現実味はあっても、実感がない。私は黙って彼女の足元を見つめていた。
 鈴谷、答えて。あなたは何を考えているの。
 別に何も、今日は門限を忘れただけだよ。
 嘘、あなたは時間はきちんと守る人でしょう。
 そうだね、よくわかってるじゃない。
 はは、と乾いた笑いを作った。
 馬鹿にして。語調は変わらないけれど、怒りがかすかに混じった。こんなことが続くようならこのブタイから追い出すわ。
 椿の匂いがする。彼女のシャンプーだろうか? そういえば彼女は汗をかいても変な匂いなんて全然したことがなかった。ずるいな、と思う。
 鈴谷。加賀の顔が迫る。私は本気よ。
 ああ、加賀の顔ってよく見ればすごく綺麗だ。赤城はわかりやすい美人だけど、加賀も奥深い魅力に溢れている。
 こんなことを冷静に見ている自分が面白くなって、乾いた笑いが続いてしまった。何がブタイだって? いいよ、追い出しなよ。きっとその方が後悔しないって。
 なに言っているの、あなたはこの鎮守府がどうやってできたのかも知らないくせに。
 どうやってって、提督が作っただけのことでしょ? そうやって尤もらしく本当のことを話そうとするなんてさ、物語にはありふれているんだよ。
 鈴谷!
 加賀は今度こそ怒りを隠さなかった。彼女らしくない声が私を壁に打ちつけようとする。でも、それは私には通用しない。私は目を瞑って加賀の両手を握る。ひんやりとした手は、本当に彼女らしい。
 加賀、本当のことなら、私だって少しは知っているよ。
 彼女は驚いたようにしばらく黙っていたけれど、やがて、短い言葉を紡いだ。
 月、わかる?
 わかるよ。私は答えた。瞼の裏にはぼんやりとした光が映る。白く靄がかった天体。今はもうないけれど、あのときにはあったもの。
 さらに付け加える。私は加賀よりも知っているから。月がなくなったときから、私たちは戦っていた。それがあなたの言いたいことでしょ?
 そう。私の手の力が緩むと同時に彼女の気配が遠ざかった。私は目を開く。赤城がいなくなったときと同じような顔がそこにあった。それを知っていて、こういうことを選ぶのね。
 選べることなんてないでしょ、最初から。そう返してやろうかと思った。けれど、赤城がいなくなって、加賀がここにいる理由を考えて、やめた。彼女は私に背を向けて、私はどこともない場所を見つめた。電球が加賀の髪に光を落とし、彼女の足元に影を作る。私は壁にもたれかかって、影とひとつになっているみたい。
 埃の降り積もる音が聞こえる。それはまさに、今ここで。
 加賀。私は呼びかけた。私のような人はまだいるよ、あなたが気づかないだけで。
 彼女の肩は小さく震える。けれど、彼女は振り返らなかった。あなた、三日間はここに出入りしないで。寮にも戻ってほしくない。自分の家に帰って、身の振り方でも考えていればいいわ。吐き捨てるような言葉だったけれど、声は決してそうではなかった。
 旗艦失格ね。そう言い残して、彼女は倉庫の扉を開いて出て行った。
 私だけが部屋の隅に残された。篭手に付けるミニチュアの砲台が無造作に転がっていた。軽く蹴ると、ころころと壁にぶつかった。
 帰ろう。そう思った。ここにいたって私には見えない。だったら、おとなしくいなくなってしまえばいいんだ。

 二日分の着替えをかばんに詰めて、懐中電灯を手にして私は寮を出た。熊野には何も言わなかった。きっと死ぬほど私のことを心配するだろうけれど、加賀が彼女に伝えてくれるはずだ。
 門を出る直前に振り返ると、鎮守府のある部室棟がいやに眩しく見えた。もうほとんどの部屋の灯りは消えているのに。もう戻らないかもしれない、と勝手に思う気持ちがそう見せているのだろうか。
 学校の敷地を出て、商店街と住宅地を抜けるにつれて、街灯がどんどんまばらになっていく。やがて、道を照らす明かりは私の懐中電灯だけになった。私の家まであとどれくらい歩けばいいのか、検討もつかなかった。
 そりゃそうか、とひとり苦笑する。寮から家に帰るときは、いつもお父さんに迎えに来てもらうんだもんね。でも、今日は私一人だ。道がちゃんと合っているか確証もない。
 とぼとぼと歩く道のりは想像していたよりも暗く、寂しく、長かった。空に月でもあればいいのにと何度も思った。その度、父親の戦いのことと、熊野のことを思い出す。熊野もこんな気持ちで、道なき海を渡ってこの島に来たのだろうか。彼女が最初に私とバディを組んだときには、服装こそお嬢様風だったけれど、擦り切れたボロ雑巾のようだった。私はそんな彼女を、素直に気持ち悪いと思った。けれど、放っておけなかった。どうしてだろう? 私は他の人になんて優しくしたこともないのに。
 やがて、遠くに小さな灯りがかすかに見えた。途端、ふわっとその灯りが私の胸をいっぱいにする。お父さん、お母さん! 脚はもうくたくただったけれど、気づけば私は駆け出していて、遠い遠い扉にあっという間に辿り着いた。
 お父さんは元気にしているかな? お母さんは相変わらずお父さんのお酒の飲みっぷりに困らされているかな? 期待に息を弾ませながら、私は扉を開いた。
 よう。
 提督が、そこにいた。私の父親を前にして。

  ◆

 リビングの大きなソファに彼女が、その向かいの小さな椅子に私の父親が座っていた。母親は奥のキッチンでお茶を淹れているようだ。ドアを背にした私はちょうど提督と向かい合うかたちで、部屋に入ったというわけだ。
 提督。父親を呼ぶ前に、その言葉が先に口をついた。かっと胸の中が熱くなる。なんであんたがここにいるわけ?
 なんでって。天井の温かい丸いランプの光を顔に受けながら、彼女は淡々と答えた。おまえのお父様とお話がしたかったからだよ。あっさりとしすぎて、私の中に燃えあがりかけたもやもやが、ぴたっと動きを止めた。お父さんと?
 ああ。お茶を運んできた私の母に礼を言いながら、彼女はお茶を啜った。もちろん、おまえのことも気になるが、それ以上にこちらに興味があってな。
 父親は振り返りながら苦笑いしていた。私が小さな頃、いたずらをしかけたときと同じ顔。私が帰ってきたことには全然驚いていないようだった。それで私のもやもやは、海水をかけられたようにしゅんとしてしまった。
 ほら、そこで立ちっぱなしでも仕方ないし、こっちに来て座りなさい。父親に言われるまま、私は彼の隣のミニソファに腰掛けた。おかえりなさい、と母親が私の目の前にもお茶と抹茶まんじゅうを差し出した。
 私のこと、聞いたの? 父親と目を合わさずに訊ねた。ああ、大変だったらしいな。責めないの? 責めたりはしない。部活をやめたって死ぬわけでもない、ちょっと暇になるだけで、そんな大げさなことじゃないぞ。
 でも、提督がここに来てる。
 まいったな、と父は頭をぽりぽりとかいた。すみません、娘が中々強情なもので。
 いやほんと、私も彼女には困っちゃいますよ。提督は笑いながらまんじゅうを口に頬張った。提督にも友達感覚で来ますからね。それで父も母も提督も愉快そうに吹き出した。
 やめてよ。私はその笑いをかき消した。今日だって加賀に問い詰められた。私よりひどいって。ブタイから追い出すことだって考えてるみたいだった。三日間、鎮守府に来るなって言われた。それなのに提督がここに来て、お父さんと楽しそうに話して。ここに帰ってきた私が馬鹿みたいじゃない。
 気づけば両膝に置いた拳を握りしめていた。このソファにいることだって耐え難いくらい。こんな小さな島の鎮守府にも、自分の家にすらも、私の居場所がないみたいだ。
 提督ってほんと、人の気持ち、わからないよね。吐いた言葉は最後には涙混じりになっていた。
 おまえ。父親の声が私の頭を叩く。先輩に対して失礼だ。
 いや、その通りですよ。提督が父の言葉をかわりに受け止めた。私には彼女たちの思いや気持ちなんてわかってないんです。わかってないから、あなたに会いに来た。あの戦いの唯一の生き残りであるあなたに。
 私は思わず顔を上げた。父親が提督にその話をした? どうして?
 大した話ではありませんけれどね。父親は頭を掻きながら言った。もっと早くにあなたには話しておくべきでした。
 いや、彼女が「鎮守府」のことをあなたに話していないのなら、仕方がありません。でも、今日、あなたのお話を聞けてよかった。
 答えは見つかりましたか? 父は穏やかな笑みを浮かべて言った。提督も同じ笑みを浮かべて静かに頷いた。それなら、よかった。
 ありがとうございます。彼女は白い帽子を手に取って立ち上がった。
 鈴谷。彼女は私の肩に手を置いた。私はもう、おまえのことを心配しない。お前が好きなようにすればいいさ。
 それから提督は帽子をかぶり、大きなラジオ付き懐中電灯を手にドアを開いた。あらためてありがとうございます。それから、夜分遅くに申し訳ありませんでした。
 いえいえ、お気になさらず。母親は丁寧に頭を下げた。
 それでは、失礼致します。提督は私たちに背を向けて歩き始めた。その後ろ姿は細く長く、でも遠くにある海に向かって確かに進んでいるみたいだった。彼女は鎮守府に帰るのだ。
 彼女の姿が闇に消えるまで、私たちはそれを見送り続けた。彼女は素直に言わなかったけれどな、父親は私にそっと耳打ちした。おまえのことを本当に心配していたんだよ。

 提督がいなくなると、急に家の中が寂しく思えた。元々彼女はこの家に住んでいたわけでもないのに。違和感が消えて、でもあるべきものまでなくなったような感覚だった。
 母親が風呂に入ると、父は棚から日本酒を取り出した。お父さん、ビールじゃなくてそういうのも呑むの? 昔はよく呑んでいた、仲間たちが生きていた頃の話だけどな。
 彼がツマミをとってきている間に、グラスに半分ほどそれを注いであげた。おや、おまえにしては珍しいこともあるもんだ。
 私だって呑んでみたいって、少し思っただけだよ。鼻をアルコールがふわりと包む。
 まあ、成人まであと少しだから、我慢だな。彼は一口でグラスの半分の半分を呑んだ。うん、と言ってランプを見上げた。
「提督」という肩書を聞いて、驚いたよ。
 しばらくの沈黙から、彼のそんな言葉が浮かび上がってきた。唇を酒で濡らしながら続ける。もう聞くことはないと思っていた。
 それは私ではなく、遠い誰かに向かって話しているみたいだった。
 二度と戦わないって思っていたし、こんな辺鄙なところに来たのも、戦いとは一切無縁でいたかったからなんだけどなあ。「鈴谷」が戦艦の名前だとは知らなかった。彼が酒を飲み干したので、私はさらにグラスに注ぐ。
 私に出会って提督が最初に言ったことだよ。今度は半分より少なめに入れた。名前だけで鎮守府に誘われたんだ。今から数百年も前の船の名前なのに、本当よく知ってたと思う。
 そのことをおまえは全然話してくれなかったな。酒の表面に浮かぶランプの月を眺めながら、父はぽつりと呟いた。寮のある部だから通うのが楽だって、それだけ言い残してここを出ていったし。
 私の前にもグラスがあったら、と思った。そうしたら、一気に酒を呑み干して後悔をアルコールに溶かして消せるのに。そうできないから、冷たい酒の瓶を抱くことしかできない。でも父親の横顔は相変わらず、冷たさよりも穏やかな陽気に満ちたままだった。
 今でも悔いることはある。なぜあそこで私は戦わなかったのか、誇りでなくとも意地を見せることをしなかったのか。戦いは大嫌いだったが、それだけはもう二十年近く経っても。
 だけど、と私は返す。戦争さえなければ、そんな後悔が生まれることもなかったはずでしょ。だから二度と戦いをしてほしくないって、そう私に言ったんでしょ?
 そのつもりだった。彼はグラスに手をつけないまま続けた。つもりだったんだ。でも、おまえの提督と会って、不思議な気持ちになったよ。
 彼が私に顔を向ける。あたたかく、でも深くずっしりとした顔。私の呼吸がいっとき止まる。
 おまえと反対の気持ちを抱いているよ、今。
 そして、私の父は酒を一気に呑み干した。
 おまえの「提督」は優しいな。
 違うよ、と私は答えた。いい人なんだよ、ただ単に。
 それが私と父親の会話の終わりだった。

  ◆

 三日間は思ったよりもずっと短い時間だった。
 朝はゆっくり八時くらいに起きて、母の作ってくれた朝食を食べる。それから皿洗いを手伝って、洗濯物を干す。そのあとにテレビを見ていたら、今度は昼食ができている。畑仕事をしている父を呼んで、三人で昼食を食べる。昼寝をして、起きたら鶴見や竹塚とメールをして、だらだらと過ごす。夜は畑の野菜を使った夕食を作って、またみんなで食べる。晩酌にも付き合ってから、お風呂に入って寝る。そんな退屈とも思えるほどの三日間なのに、気づけば寮に戻る時間になっていた。
 送っていってあげようか? ううん、だいじょうぶだよ。リュックを背中に背負って、私は家を振り返った。太陽が橙色の屋根を照らす。木の扉の前に私たちの両親が立っている。家の後ろには畑があって、その畑のずっと向こうに海がある。それが本物の海だということを、私は知っている。
 じゃあね。私は手を振って歩き始めた。
 体には気をつけて。父と母は手を振り返していた。私の姿が溶けるまで、きっとそうしていただろう。

 商店街に入る頃には陽が落ちかけていた。また脚がくたくただったけれど、今は前を向いていられる。商店街の奥に学校があって、その隣には寮がある。学校の灯りはほとんど消えていたけれど、寮の灯りはいくつも点いていた。
 寮の門に辿り着いて、寮監とひとこと挨拶を交わす。彼女は何事もなかったかのように私を通してくれた。提督が手をまわしたのだろう。そういうところは仕事が早いんだもんなあ、とひとりごちて部屋のドアを開けた。
 あなたは、遅い、ですわ。熊野がベッドに腰掛けていた。
 熊野。私は驚きもせずバッグを机に放り投げて、彼女の隣りに座った。いや、待たせちゃったかな?
 ついさっき来たばかりなわけ、ないでしょう? 彼女の言葉は途切れ途切れだった。もう帰ってこないかもしれないと、そう思っていましたわ。うん、と私は小さく頷いた。ごめん。
 蛍光灯が熊野の頬を照らしている。そこに彼女の涙のあとを見出した。
 加賀は私がいなくなることを言ったんだね。
 三日間いなくなる、それだけですわ。理由も何も教えてくれなかった。熊野が私の手をとる。でも、彼女は本当に悲しそうな顔をしていた。あなただって加賀さんのこと、知っているでしょう?
 うん、私はまた小さく頷いた。
 この鎮守府の初代の旗艦が赤城であったことも、加賀は「轟沈」した赤城のあとの二代目の旗艦だということも、それまでのことも見てきた。「ひどかった」彼女が最後には何かを吹っ切って、私たちをまとめる意思を固めたことも、見ていればわかる。
 でも、さ。私は熊野に指を絡めながらそう言った。彼女の指は何かをつかむには細すぎると思いながら。私は加賀とは違うんだ。提督とも全然違う。私はもう、あの人たちと同じ覚悟はない。もしかしたら熊野とだって分かり合えないかもね。
 そんなこと、言わないで。こぼれ落ちた涙を隠すように、彼女は私の肩に顔を押しあてた。私があなたのことを知らなくて、それで、どうして私でいられるっていうの?
 私は熊野の頭にそっと手を載せた。栗色の髪が私の指の隙間を流れ落ちていく。彼女はそういうことを私に許してくれる。夕焼けが彼女の髪を透かす。綺麗だね。不意にそう呟くと、熊野の嗚咽がより一層強くなった。
 私ではだめなのですの? 沈んだ色で熊野は漏らす。たかだか一年半の付き合いで、あなたを理解する事なんてできないの?
 そう、距離はこれほど近いのに、ゼロミリで彼女と触れ合っているのに、心は何千海里も遠く離れている。細く長い海路をひとりで辿ってきただけでは、私には届かない。
 私は熊野の頭を撫でながら問いかけた。
 ひとを救うことは、そんなに正しいことかな? 戦うことは、誰かを救うことなのかな?
 わからないわ。熊野は小さく首を振る。ただ、そうしないと自分が壊れてしまいそうなの。私にとっては提督とあなたがすべてだったから。
 私は熊野の手を握る。細くて長い指を絡ませると、綺麗なピンク色の爪を指の間に感じた。多くの戦いで傷つく指は、それでも汚れを知らないように鮮やかで、私の透けているような手とは全然違う。でも、熊野はすがるように私の指に手を絡ませて、握りしめる。
 その瞬間、わかった。彼女をどうして放っておけなかったのか。
 熊野。私は立ち上がって、熊野を連れ出した。

  ◆

 枯れた港から降りて砂浜へ。ここは熊野と初めてバディを組んだところだった。テトラポッドの海に太陽が沈みかけている。もう何度見た景色だろう。これから何度見ることだろう。きちんと、ここで終わらせたいと思った。
 覚えている? まだ泣いている熊野に問いかけた。私にとってもあなたは初めてのバディだったんだ。
 ええ、よく覚えていますわ。彼女は袖で涙を拭って返した。島のこともよくわからないうちにバディを組まされた。でも、あなたは面倒見がよくありませんでしたわ。
 考え過ぎだよ。口を尖らせて、自分で自分の真似をする。よく言ったなあ。だって気にしたってしょうがないもん、いちいちさ。
 冷たい夜が降り始めた。熊野の背中を紺色が染めていく。考えないわけには、いかなかったのよ。私がどうやってここで生き残るのか、何もわからなかったから。提督がどうして私をこの鎮守府に入れて、どうして戦いをしているのかも。
 だから考え過ぎなんだよ。私は言った。提督の考えがどうとか、戦いがどうとか。でも、私はあなたに惹かれていたんだ。本当は、あなたのことを放っておけなかった。
 降ってきた夜の空気が体を冷やす。私は思わず両腕で自分の体を抱いた。
 寒いの? 熊野が口を小さくして訊いてきた。
 ほら、と私は返す。すぐそうやって私のことを気にする。
 だって、あなたは私に見えていないものが見えているように思えたから。熊野は丸い瞳を私にまっすぐ向けた。私は黙ってその瞳を見つめ続けた。
 凪があたりを沈黙に包んだ。それなのに、何かがさざめいているように聞こえた。そして、私は父親と提督のことを思った。確かに私には見えていた。このテトラポッドの魂が、ブタイの空虚さが。だから、私は最初から戦うことをしたくなかった。
 熊野、私は深い沈黙から口を開く。見えていることは、全部いいことじゃないよ。私は傷だらけのあなたが眩しく見えて、気持ち悪いと思っていたけれど、同時にあなたに憧れたんだ。だから、あなたと戦った。この無機質な海の向こうに、本当の海がある夢を見た。それはあなたが見せてくれた夢なんだ。海の向こうには別の誰かが住んでいる島があって、もっと幸せに住んでいるひとがいるかも、って。でも――。
 そこで言葉が詰まった。続きを口にすることは、できそうになかった。
 でも、なんですの? 熊野がやわらかな声で尋ねてきた。
 ううん、なんでもない。

 今度は波の音がした。おかしいな、と思った。埃の降り積もる音ではなくて、波の音? 顔を上げて空を眺めた。夕焼けと夜空のグラデーションを雲がゆっくりと漂って、気持ちよさそうに伸びていく。
 鈴谷、どうしてあなたは笑っているの? 熊野に突然そう言われて、私は初めて自分が微笑んでいることに気がついた。決して嫌な気持ちではなかった。何かがすっと私の中から抜け出ていくような、そんな感覚だった。
 どうしてだろうね。私は光り始めた星を眺める。そして、私はひとつの答えを出した。

 もうすぐ、私は鎮守府から出るよ。

 そう言って熊野と再び向き合った。もう彼女は悲しそうな顔をしていなかった。私と同じように、彼女も笑っていた。月のような微笑。そんな彼女に向かって、言葉を続けた。
 あなたと戦ってわかったんだ。私は戦わない後悔を抱いて、私はこの景色を見たいって。
 それから、口に出さずに言葉を続ける。
 結局戦う自分なんていなくなって、世界は静かに回る。あの夢が見せてくれたように、たどり着くところは結局この無機質な海なのだ。乾いていて、それでいて湿っているこの魂の墓場に、私も還るだけ。
 だからさ、熊野。また声を紡いだ。あなたをまたひとりにしてしまうけれど、泣かないで。
 波の音がいっそう強くなった。凪が終わり、私たちに向かって風が吹く。
 熊野はその風の中で笑った。誰が、泣いてるですって。もう一度袖で目元を拭って彼女は言った。あなたがそう望むなら、私は止められませんわ。
 言い終わるとと同時にまた、彼女の目元から涙がぼろぼろとあふれた。

 言いたいことは色々ある。泣かせてばかりでごめんとか、これからのこととか、今までのこととか。でも、それは今度にしよう。私が鎮守府からいなくなったときに。
 今は、ひとことを彼女に告げる。
 ありがとう。

 そう返すと同時に波が押し寄せて、私たちの足元を濡らした。テトラポッドの海に波が来る。初めて感じる光景だった。私は驚いてしまって、濡れたことが気持ち悪いとか、磯臭いとか、そんなことは全然気にならなかった。
 熊野も同じように思っているようだった。彼女は涙をこぼしながら、テトラポッドの海から、遠く遠くの水平線を見つめていた。
 夢で見た光景とは反対だ。本物の海が今そこにあるし、私の隣には熊野が立っている。それはかつての私が望んでいた光景ではなかった。でも、今この瞬間が、私は心地よかった。これが私のひとつの終わりの場所なのだ。

 そう気づいたときには涙がこぼれ落ちていた。

 

 

初出:2015年5月5日