創想話
 


 
 一

「浮き輪はなくちゃダメ」

 水玉模様の浮き輪を右腕に抱えた村紗がふくれ面で私に言う。

「君は仮にも船長じゃないか」

 私は肩をすくめて言った。

「そりゃあ、君が転覆して亡くなったのは知っているよ。でも今は船長なんだから、浮き輪ぐらいなくても泳げるだろう?」
「船長なのと泳ぐのはべつ。私は泳ぐのが苦手なの」

 ベースの白に青いラインが入ったタンキニと、フリルのついたローレッグカットの水着の村紗は浮き輪を胸に抱いた。そういう姿の村紗には、見た目相応の幼さがにじんでいる。
 私の横で寅丸が苦笑していた。

「かわいらしいですよ、ムラサ船長。そういうのもいいのではないですか」
「ほら、寅丸さまもいいって言ってるじゃない」

 わがまま娘のように村紗は笑う。隣でゆっくりうなずいている寅丸はワンショルダーの虎柄の水着だった。髪の色と水着を合わせた格好だろう。そこまで虎を意識することはなかろうに。
 私の背後で一輪と白蓮が笑っていた。一輪はクリーム色のビキニ姿だった。二人は子どもを暖かく見守る母親の目をしていた。
 私はため息をついて、村紗に言った。

「まあ、君はもう幽霊だから、今さら溺れて死ぬなんてこともないけどさ」
「でも苦しいから、ナズーリンは私が溺れたら助けてね」
「……なんでそうなるんだ」

 私はもう一度大きなため息をついた。セパレーツの水着に包まれた胸がため息と同時に薄くなった。

 そもそも、泳ぎに行こうと提案したのは村紗だった。

「泳ぐのにいい場所を知ってます」

 村紗が私たちの前で、汗だくになりながら言った。

「紅い館の前にある湖です。こんなに暑い日に泳がないのは嘘ですよね?」

 同意を求める目で村紗は私を見た。同意を求められるまでもなく、私は首を縦に振って村紗の案に賛成した。暑くて言葉を口にするのでさえ、面倒くさかった。
 けれど、一輪と寅丸は苦渋の表情を見せた。自分たちのやるべきことを考えたら、そういう遊びには簡単に行けないと判断したのだろう。ただ、私は二人の額に大粒の汗が浮かんでいることを見逃さなかった。ぬえはここにいなかった。暑さのあまり、寺を飛びだしてどこかに行ってしまったらしい。
 白蓮は私たちと一輪たちの顔をひととおり眺めて、それからにっこりと笑って言った。

「そうね。村紗の言うとおり、こういう暑い日は泳ぐのがいちばんいいわ」

 結局、白蓮のひとことですべてが決まった。優しく笑う白蓮の髪は、汗でべったりと肌にはりついていた。

「出発!」と叫び、村紗は浮き輪を左腕に抱え、水際から走って深いところに向かっていった。水面が太陽の光を乱反射して、水しぶきをあげながら走る村紗の身体を光らせた。
 私も村紗のあとを追いかけるように走って水際に向かった。寅丸も笑顔を浮かべながら、歩いて水面に足をつけた。

 水に足をつけると、途端に空気の熱さが心地よく感じられた。暑さは水の冷たさを味わうためのいい刺激になった。脚が水に深く浸かるほど、夏の不快感は消えていった。身体から汗がすうと引いていくのがわかった。
 村紗は腹まで水に浸かったところで、思い切り水の中に飛び込んだ。もちろん、浮き輪を身体の下にして。

「ひゃあ、気持ちいい」

 村紗は笑い声をあげて、浮き輪の上で足で水面を叩いた。水しぶきがあがり、村紗の乗る浮き輪が少しずつ進んでいく。
 私も胸が水に浸かったところで足を地面から離し、腕と足で身体を水に浮かべた。首まで水に浸かり、ひやりとした冷たさが快楽となって私の身体に満ちた。腕をかくと私の身体も前に進んだ。
 不思議な感覚だった。身体が動作を覚えていながら、私の頭は動作ひとつひとつを説明しようと必死になっているように。不思議だったが、でも悪くはない感じだった。

「あなたも泳げるのですね」

 寅丸が私の後ろから声をかけた。私は体を浮かせたまま振り返った。寅丸は胸元まで水に浸かっていた。

「もう少したどたどしい動きをするものかと思っていましたが」
「ネズミだからですよ」と私は答えた。「ネズミは泳ぎが得意なんです」

 寅丸のさらに後ろに白蓮の姿が見えた。

 二
 不思議な記憶のかけらが私の目の前を通り過ぎていった。気づけば、私は命蓮寺の夏の中にいた。

 脚を廊下の端から出してぶらりぶらりと揺らしつづける。規則的に両足が交互に前後する。胸の中には何かを隠すもやが残っていて、なんとなく落ちつかなかった。もやを胸に抱えて、私は自分の足が空を切るのを眺めていた。

 私の前には整った庭があり、そこには数本の桜の木と小さな池があった。桜の木は重量を持った緑を必死に支えて立っていた。日射しは地面を焼きつくそうと、土から水分を奪っていった。水は目に見えない湿気となって空気に質量を持たせた。その空気が私の身体にまとわりつき、暑さに弱い私を不快にさせた。汗がじわりと肌に浮かんで、雫となって垂れていった。清涼のない池から澱んだにおいがした。
 張り出した寺の廊下は屋根で日射しを受けなかったが、地面の反射する熱が私たちをじわりと襲った。私の背後には影の部屋があった。

 私の横には、一人の僧侶が少し離れて座っていた。落ちついた雰囲気を持ち、視線はじっと真正面に向けられていた。僧のことは知らない。話したこともなかったし、まだ私の視界の端にいるだけで向き合ってすらいない。けれど、この僧は見知らぬ親友だと思った。
 彼は庭の一点を見つめていた。彼にとってその一点以外に、庭という存在がないくらいに真摯に。私はその光景を滑稽だと思わなかった。私は自然と彼に話しかけていた。

「あなたは?」

 僧はゆっくりと私に振り向き、静かに「聖命蓮」と答えた。その声はおごそかに響いた。

「命蓮」 私は目をみはった。「白蓮の弟の命蓮さま」
「命蓮でいい」 僧は笑って言った。「それから敬語を使うこともない」

 白蓮に似た雰囲気を持つ人だ、と私は思った。言うことも白蓮とそっくりだった。私は感情を悟られないような口調で尋ねた。

「命蓮、私のことは知っているかい?」
「ナズーリン」と命蓮は私の目を見据えて答えた。

「寅丸の部下という名目で彼女を監視している、毘沙門天の使いだろう」

 彼の瞳は私を見透かしているようだった。私は黙ってうなずいた。胸の中のもやが晴れていく感覚がした。自分の存在に一つの実感を与えられたような感じだ。

 私は視線を庭に向けた。もやが晴れると、命蓮寺の庭の風景が幻想的に見えた。夏の中に庭が存在するのではなく、庭の中に夏が描き出されているようだった。夏という要素がそこには無限に含まれていた。
 私と命蓮はその幻想的な風景を、しばらくのあいだ黙って眺めていた。私のこめかみからあごまで、汗がひとつ滑り落ちていった。廊下に汗が落ちて、ぽたりと大きな音を立てた。

「この庭は暑いね」と私はうめいた。命蓮がはにかんで言った。

「この庭はいくつもの煌めきを抱いてきた」
「煌めき?」
「君にも見えないか」

 湿気を含んだ空気の中にある庭に、煌めきは見えなかった。私は黙ってかぶりを振った。
 そのとき、ふと小さな池が目に入った。夏の日射しをゆがめながら反射する池の輝きを、私は見たことがあると思った。私は静かに目を閉じた。まぶたの裏に、夏の湖と深い緑にうもれる紅い館を見ることができた。

 三

 深い緑を繁らせる木々が湖を囲んでいた。遠くの岸辺から、緑に似つかわしくない紅の館が悠々と湖を見下ろしていた。まだ天に上りきっていない太陽は、それでも厳しい日射しを水に浸かる私たちにささげていた。水面の中にある自分の身体が透きとおる水の中ではっきりと見えた。

 近くの岸辺で、白蓮が一輪の背中を押しながら膝まで水に浸かりながらこちらに向かって来ていた。一輪は困ったような笑顔を浮かべて、白蓮に押されるまま歩いていた。
 白蓮はスカートのついたワンピースの水着を着ていた。白蓮が歩くたびにスカートが揺れて、そこからのぞく細い脚が白く眩しかった。水が跳ねて白蓮の肌にかかり、それが別の輝きをもたらした。水着は腰から上の体の線をくっきりと描き出し、細くくびれた腰を魅力的に見せた。胸元が少し大きく開いていて、ほどよくふくらんだ胸がその隙間から見えた。
 首には紺色の小さなおまもりがかけられていて、それが白蓮の首元で小さく跳ねた。普段は服の首元に隠れていて見えないが、こういうときに白蓮のおまもりを見ることができた。
 花のように白蓮は笑っていた。この時間を誰よりも楽しんでいるのは白蓮のように、私には見えた。

 白蓮は私たちの方に顔を向けた。私は少し視線をそらして一輪を見た。白蓮と向き合うことはできなかった。
 白蓮の美しさは彫刻のように、失われることのないものだった。その美しさと私が向き合うのは、罪だと思うほどに。私の本質と白蓮のそれは決して相容れないものだと思った。

 突然、私の横顔を冷たい衝撃が襲って、私の意識は視覚から触覚に戻った。何が起きたのかすぐには理解できず、手のひらで頬を触ると、私の顔が濡れているのがわかった。少し怒ったような声が耳に入ってきた。

「もう、なにぼんやりしてるの」

 振り向くと、村紗が頬をふくらませて浮き輪の上から私をにらんでいた。水をかけたのは村紗のしわざだったらしい。私の顔から水がぽたぽたと垂れ落ちた。

「せっかく泳ぎに来たんだから、もっと楽しまなくちゃダメよ」

 寅丸の笑う声が聞こえる。一輪が水に足をとられて転び、水に倒れこむ音が聞こえる。それはぜんぶ、どこか遠くから響いてくるようだった。やっぱり、私は濡れねずみなのだと思った。

 いつのまにか私と村紗は湖の深いところまで来ていた。浮き輪の中で村紗が足をばたつかせながら言った。

「湖というけれど、ぜんぜん底が見えないね」

 村紗の言うとおりだった。私の足までは光が届き、そのかたちを見せていたが、それより深いところになると何も見えなかった。光が届かない湖の底はダークで、気を抜くとすぐに私たちを呑みこんでしまいそうな不気味さがあった。

「ここで溺れても私は知らないよ」と私は言った。
「うん、気をつける」と村紗は下を向きながら答え、すぐに私を見た。

「でも、こんなに深いと少し潜ってみたくなるでしょ?」
「そんなことはない……というか、君は私の言うことを聞いていたかい?」

 あきれる私を無視して、村紗は悪戯っぽく笑った。

「気をつけるって。だからちょっとそこで見ててね」

 そう言って村紗は私の背後に視線を向けた。白蓮が泳ぎながら私たちの方に来ていた。村紗は首を振って、大きく息を吸った。

「シンカーゴースト!」

 小さく言って、村紗は浮き輪に身体を通し、水の中に姿を消した。よく見ると、村紗の片手は浮き輪を必死につかんでいた。そのせいで浮き輪が水に垂直に立ちあがった。浮き輪としてそれはとても不自然だった。

「だからそういうことをするなって、私は言ったのに」

 私はため息をついて、その瞬間、とてつもない不安の予感に襲われた。胸の中から何か大事なものが抜かれてしまう感覚だった。かわりに大きくて黒いものが詰めこまれた。
 白蓮が私のそばにやってきた。そして少しまわりを見回し、不安が見え隠れする表情を浮かべて、私に尋ねた。

「ねえ、水蜜はどこにいるの?」
「……君はあれを見て何も思わないのかい?」

 垂直に水面の上に立つ浮き輪がゆっくりと白蓮に近づいていた。白蓮はそれを見て不思議そうに首をかしげた。白蓮が訊く前に、私はわずかに白蓮から視線をそらして言った。

「だいじょうぶ、あの浮き輪の下に潜っているだけさ。すぐ出てくる」

 不自然な浮き輪は白蓮のすぐ背後にまわりこんだ。白蓮は首をまわして、その浮き輪を見つめていた。
 次の瞬間、浮き輪の半分が水に沈み込み、かわりに激しい水しぶきをあげて村紗が現れた。

「ぷはあ! 白蓮さま、驚きました?」

 白蓮は本当に驚いたような表情で村紗に振り向き、けれどすぐに手を叩いてその登場を喜んだ。
 だが、私はそんな二人の様子を見ていなかった。私の目には別の事態が、異常にゆっくりとした時の流れの中で見えていた。

 白蓮の首にかかっていたおまもりが、彼女の身体から離れていった。村紗の登場の衝撃か、あるいは白蓮の振り向いたときの衝動かはわからない。けれど、何かがおまもりの結び目を解いてしまった。そして、一度だけ白蓮の胸元でおまもりが大きく跳ねて、空中に飛びあがった。
 ゆるやかな回転とともに、おまもりは空を切って落ちていく。まるで意志を持ったような軌道を描き、小さな音を立てて着水した。白蓮が首を振っておまもりの落ちた場所に視線を持ってきた。
 白蓮はおまもりを取ろうと手を伸ばした。けれど彼女の指先すら触れないうちに、おまもりは水面から姿を消した。軽いはずのおまもりが、冷たい鉛のように、湖に呑みこまれていった。

 四

 空が雲に覆われて暗くなった。厚く積み重なった黒い雲が太陽を呑みこみ、私たちの真上に暗い影の色を落とした。ずんとのしかかる影は庭の暑さを奪い、明るさを奪っていった。重い雨がじきに降ることを、私の鼻が嗅ぎとった。

「雨は嫌いだったか」

 命蓮が静かに私に尋ねた。私を見つめる瞳は、暗い色をたたえてどこまでも深かった。私は黙って命蓮から目をそらした。
 どっと雨がいっぺんに降りはじめた。大きな雨粒が桜の葉を打ちつけた。地面を叩いて土の色を変えた。池の水を撃ち抜いて小さな水しぶきをあげた。私と命蓮は雨の降らないところまでさがった。廊下の端も雨に濡れていった。
 息苦しいにおいが立ちのぼってきた。勢いある雨音が絶え間なく空気を震わせた。私はあぐらをかいて、雨に濡れる庭をしばらく眺めていたが、やがて命蓮に言った。

「ずいぶんと冷たいんだね、君は」 私は息だけで冷笑した。「夏の夕立のように」

 大きな声で言ったつもりはなかったが、雨の音にかき消されず、その笑いは不思議とはっきり響いた。
 私の笑いがやんで、それから命蓮も冷たく笑った。

「夏の夕立は、冬の雨よりもあたたかい」

 私は命蓮を見た。命蓮の笑みはたしかに冷たく、そこにあたたかみというものがなかった。それは夏の湖を思わせた。笑いおわって、命蓮は静かに言った。

「ものごとには常に良い面と悪い面がある。そして、それにはすべて理由がある。雨というのも同じだ。ときに冷たく、ときにあたたかい」

 私はうなずいた。どこかで聞いたことがある言葉だった。
 私は雨の降る息苦しさを胸に吸い込んだ。言葉にできない重さが私の身体にまた一つ、新しい実感を与えた。

 不意に命蓮が立ちあがり、私の後方へ歩いていった。私は座ったまま、体を命蓮の行く先に向けた。
 影の部屋の前で命蓮が立ち止まり、私に背を向けたまま尋ねた。

「君も雨と同じだろう?」

 私は少しのあいだ、質問の意味を考えた。その意味を理解したとき、私は影の部屋の様子を少しだけ見通すことができた。

「私は――」 少しの間をおいて、私は答えた。「私はただの弱いネズミだよ」

 命蓮は何も言わず、影の部屋に入っていった。部屋の真ん中で再び立ち止まり、私に振り返った。外の暗さと部屋の暗さが少しだけ近づいた。それでも命蓮の表情は見えなかった。
 私は続けて言った。

「でも、白蓮がいるだけで、私の苦しみは少し和らぐ。白蓮が笑ってくれるだけで、私の心は軽くなる」

 暗い部屋の中で命蓮は静かに、しかし重々しく言った。

「それだけか」

 夏の雨の音が深く部屋の中に響いて、部屋の暗さと雨の音が共振した。
 見えないはずの命蓮の表情に微笑が浮かぶのが、私にははっきりと感じられた。命蓮の表情の細やかなところまですべて感じることができた。冷たく、哀しく、そしてなにより寂しい微笑だった。その微笑は私の胸を衝き、私の心を深淵まで突き落としていった。
 命蓮の声が私の耳に届く。その声に、自分のよく知る二人の声が重なった。

「それですべてということはないはずなのだが。私は君自身でもあるのだから」

 雨の響きの中で、私はその言葉の意味を、本当の意味で深く理解することができた。

 五

 寅丸が血相を変えて私たちのところまで泳いできて、白蓮に尋ねた。

「白蓮さま、先ほどまでつけていたおまもりはどうなさったのですか」

 白蓮は何も答えず、水面を見つめていた。寅丸は私と村紗を交互ににらんだ。村紗が浮き輪に両腕でつかまりながら、今にも泣きそうな顔をして言った。

「ごめんなさい」 うつむいて村紗は謝った。
「私のせいで、白蓮さまのものが……」
「なんということを」

 寅丸は少しのあいだ絶句した。私は何も言えず、ただ黙って湖の底を見つめていた。一輪も私たちのもとにやってきた。寅丸が震える声で村紗に言った。

「白蓮さまが肌身離さずつけていたのをあなたも見ていたでしょう。それをあなたは――」
「星!」

 不意に鋭い声が寅丸の言葉をさえぎった。私は思わず顔をあげた。白蓮が普段からは想像もできないほど厳しい表情をしていた。けれど、すぐにふっと笑って言った。

「星、いいのよ」 今度はやわらかい口調だった。「あれはそこまで大事なものではないから、もう水蜜を責めないで」

 白蓮の笑顔は、今にも崩れそうな、冷たく、哀しい笑顔だった。大海にひとつだけ残された春の氷山のように。
 一輪が白蓮に言った。

「けれど姐さん、あれは命蓮さまの数少ない遺品ではないですか」
「いいのよ」

 少し強い口調で白蓮はどこを見るともなく言った。あたりは暗い沈黙に包まれた。その中で、白蓮のひとことが、ことりと響いた。

「命蓮は、もういないの」

 白蓮の瞳が湖を映し出していた。その目は湖の底を見ていたのかもしれない。瞳に湖の深い色が映り込んで、そこには湖よりも深い哀しみの色が浮かんでいた。
 その色に、私はどうしようもない恐怖に落ちていく気がした。誰もそこから私を救いあげてはくれない。白蓮の哀しみを、私は受け容れることができなかった。頭が強迫観念にとらわれ、自分を制御できなくなった。身体を大きなものがねじって、そのままひねりつぶしてしまいそうだった。その果てにたどりついたものは、たったひとつだった。

 こわい。ただ、こわい。

 私の口が勝手に言葉を発した。その声は私のものではないような気がした。

「私が探してくる」

 そしてそのまま、私は誰の言葉も聞かず、思い切り湖に潜っていった。

 湖の中は沈黙の世界だった。光も届かない水の中で、私は自分の能力だけを頼りにおまもりを探し、重く冷たい水をかきわけて深く潜っていった。細い糸を必死でつかんで上にのぼろうとするカンダタとは逆に。
 冷たい水が私の体温を残酷に奪っていった。果てしない深さと暗さが、私を呑み込もうと手招きしていた。水圧が私の体を締めつけた。私は恐怖を忘れて、ただひたすら感覚だけを研ぎ澄ました。

 おまもりの影が見えた。それは水の中でゆっくりと自由に揺れながら、もっと深くまで沈もうとしていた。
 私は手を伸ばし、それをつかもうとしたが、おまもりは私の手から逃げようとした。つかもうとして、一度目は空振りだった。もう一度、体中の力を使って手を伸ばした。今度はおまもりをたしかに左手に握った。
 握ったことを確かめた瞬間、体温が失われてしまったことを感じた。肺に残っている酸素も少なく、激しい息苦しさを覚えた。

 意識と力をふりしぼって、私は白く輝く水面を目指した。けれど、そこはたどりつけないほどはるか遠くにあるように思えた。水をかいてもかいても思うように進めない。私の身体が湖底の引力に負けてしまう気がした。
 息苦しさが激しさを増した。全身の筋肉から悲鳴があがった。身体の動きが鈍くなり、意識がもうろうとしてきた。それほどの苦痛を感じながらも、一向に水面に近づいた感覚がなかった。

 突然、ふっと視界が白くやわらかく輝いた。その先には何も見えなかった。
 やっぱり、私は濡れねずみだ。その刹那に痛感した。それは冷静でもあり、冷酷で強い宣告だった。どうしようもなく弱い濡れねずみだ。
 その強い闇とともに、私の意識は海の底に沈んだ。

 六

 記憶が残りの実感のかたまりを私の身体に与えた。ずしんという音が身体の中に響いてきそうなほどに重く、固いかたまりだった。
 夕立の雨がしだいに勢いを弱めていく。もうすぐこの雨はやむだろうと、私は思った。

「じきに意識は戻る」 部屋の中で命蓮が静かに言った。「じきとは言っても、短くて長いあいだだが」

 私は命蓮を見つめて言った。

「これは私の夢なのかい」

 命蓮は黙ってうなずいた。すべてがひとつの結論に集約されていくような気がした。私は続けて言った。

「だから君は私の名前を知っていた。だから君は私が雨を嫌っていることを知っていた。だから君に対して私は警戒心を抱かなかった。なぜなら君は私の夢の中の存在で、それは私自身が生み出したものだから」

 命蓮は私の話が終わるまで、黙って耳を傾けていた。それから、小さく息をついて言った。

「私は君自身『でも』あると言った。」

 雨の音が少しずつ小さくなり、私の背後で雨はやんだ。外の空気が軽くなったのを感じた。少しずつ外に明るさが戻ってきた。首だけ振り返ると、黒く重い雲は誰かに絞られたように薄くなっていた。薄く白い雲の向こうに、赤い光が満ちているのがわかった。

「君の言うことはひとつの側面では正しい」

 影の部屋の中で命蓮は静かに言った。

「しかし、それだけでは私の姿は命蓮ではなかったはずだ。強くて、美しく、それでいて冷静な毘沙門天として君の前に姿を現していた」
「だとしたら――」

 命蓮は私の言葉をさえぎるように首を振った。そして手を身体の前に出し、拳をゆっくりと開いた。彼の手のひらの上には、紺色のおまもりがあった。
 私は驚いて命蓮を見上げた。命蓮は私を見据えて言った。

「ものごとをひとつの理論で説明するのは美しくもあり、同時に危険でもある」
「すべてのことに理由がある、と言ったのは君じゃないか」
「理由はある。ただ、多くの場合でそれを見つけることは、複雑に絡まってしまった数本の糸をほどくことよりもずっと難しい。だから私が命蓮であることも、また複雑な理由があるのだろう」

 薄い雲に小さな切れ目が生まれた。そこから、赤い夕焼けの光が射し込んだ。その光が雨に濡れきった庭を黙って暖めた。寒さに震える旅人を暖める山小屋の暖炉のように。日の光が夏の暑さをわずかに取り戻し、私に新しい実感を与えた。
 赤い光は影の部屋にいた命蓮の下半身まで届いた。

「君にもうひとつだけ見せたい。夕立のあとの美しさが見せる冷たさ」

 夕日が少しだけ傾いた。すると、部屋の中にさらに光が入り込んで、命蓮の全身を赤く照らしだした。彼の表情がすべて見えた。彼は寂しく笑っていた。その視線は私ではなく、私の後ろにある何かに向けられていた。
 私の背後から少女の声がした。

「命蓮」

 私は背後を振り返った。

 夕日の射す庭に少女が一人、立っていた。手に紅色の細い紐を持って、泣きそうな顔でこちらを見ていた。暖かく照らされた地面から、雨上がりのにおいが立ちのぼってきた。少女の足元から廊下の端まで長い影が伸びていた。少女はもう一度言った。

「どこ、命蓮」

 あぐらをかいて座っている私に向かって言っているのではない。それはわかっていた。それでも、少女の姿を見て、声を聞いて、私は思わず少女に呼びかけていた。

「白蓮」

 けれど、少女は私の声に反応を見せなかった。私の存在にすら気づいていないようだった。私は自分が透明な絵の具で描かれた路傍の石になっているように思えた。
 少女は私の後ろの部屋に視線を向けていた。そして、その部屋から別の声が響いた。

「なんですか、姉上」

 私は首だけで振り返って、ひどく驚いた。
 命蓮のいた場所に少年が立っていた。床の上には小さな敷物が敷かれていて、その上にいくつかの工具が転がっていた。少年は少女に目も向けず、部屋の端から端まで視線を走らせながら言った。

「私は今忙しいのです。先ほど私が作ったはずのおまもりがどこかになくなってしまって」

 少女は少しのあいだうつむき、それから小さく息を吸い込んで、ためらいがちに告げた。

「私よ、そのおまもりをとったの」

 少年の動きはひととき止まり、それから視線が少女に向けられた。「それは本当ですか?」
 少女は小さくうなずいた。少年は私のすぐ横まで歩いて来て、少女の前でしゃがみこんだ。

「姉上、それは今どこに?」

 少女はうつ向き気味に首を横に弱々しく振った。

「わからないの」 そして私にかろうじて聞こえるくらいの声で言った。「なくしたの」
「どこにですか」 少年はためらいなく尋ねた。

 少女は自分の背後にそっと視線を向けて、「庭に」と答えた。そして小さく肩を震わせた。

「ごめんなさい」 少女の声もわずかに震えていた。「おまもりがあまりにもかわいくて、つい手にとって庭で歩いていたら、落としてしまったみたいなの」

 少年は少しのあいだ黙って少女を見つめていた。それから、静かに、けれど確たる決意がにじむ口調で言った。

「私が探します」

 少年は履き物を履き、庭におりて視線を地面に向けながらゆっくりと歩きはじめた。

「私も探すわ」

 震えが止まった少女も、少年と同じようにして歩きはじめた。

 夕焼けの光の中でおまもりを探し歩く二人を、私はただ黙って廊下から眺めていた。私の存在はもともと二人に認知されることはないし、おまもりを触ることもかなわないと思った。
 けれど、それ以上に、私は命蓮の言った「煌めき」の意味を反芻し、少しずつ理解しはじめていた。湖の底に沈んでいったおまもりの重さの感覚を、手のひらに思い出しながら。だから私は、よけいにこの光景に手を加えることができなかった。

 日が沈む直前、少年が声をあげた。「姉上、ここにありました」 少女がぱっと上半身を起こし、彼のもとに駆け寄った。少年は両手でおまもりを持ち、安心と嬉しさが溶けあった表情で立ちあがった。二人の長い影が庭に揺れた。
 少女は小さなため息をついた。少年はその様子を見て微笑み、静かに少女の前に両手を差し出して言った。

「姉上、これを」
「え、でもこれはあなたが――」

 少年は笑って首を横に振った。

「いいのです。これはもともと姉上のために作ったものですから」

 少女は自分の右手に握っていた紅の紐を見て、その手をそっと胸の前まで持ち上げた。少女はその紐とおまもりを交互に見た。少年は少しだけ首をかしげて、両手をさらに前に出した。
 少女は左手でおそるおそる紺のおまもりを手に取り、神秘に満ちた玉石を見るような目でそれを見つめた。そして、少女はそっとおまもりをその手で包んだ。
 少年がそれを見て静かに言った。

「二度とそれをなくさないよう」 そしてふっと表情を緩めた。「気をつけてくださいね」

 そのとき、日が沈んだ。赤紫の光に包まれていた庭を影が覆った。その影は津波のように向こうから押し寄せ、あらゆる自然を沈黙させた。風景から特有の物語を奪っていき、すべてを影で描き出す世界へと変えた。私には、二人の輪郭と残像のある動きしか見えなくなった。

 少女の影から何かが零れ落ちた。断続的に、いくつもの小さな小さな珠が落ちていった。少年の影が驚いたように跳ねたのが見えた。少年は手を伸ばそうとしたが、それをためらったように、手は少年の身体に吸い込まれた。
 少女の影の口が開いて、そこから言葉が漏れた。

「私には、いいわ」

 少女の腕が曲げられ、一度やわらかく握られた手が胸の前に落ちついた。

「あなたの気持ちは、もうじゅうぶんにわかった」

 少女は腕を伸ばし、手を少年の影の前に差し出した。

「だから、これはあなたが持っていて」

 少年の影が両腕を横に振っているのを映し出した。

「でも姉上、それでは――」
「いいのよ」 少女は少し強い口調で言って、同時に小さな珠が少女の影から放物線を描いて地面に落ちた。

 少しのあいだ、深い沈黙がそこにあった。それから、ふっと空気が揺れるのを私は感じた。それではっきりとわかった。少女が無理して笑ったんだろうということに。少女の影から小さな珠がまたいくつか落ちていった。

「もう、いいの」

 震える声で、少女は言った。

「もう、私は何もなくしたくないの」

 その言葉とともに、世界が大きく歪んだ。

 二人の影が、静かにたたずむ桜の木の影に溶けていった。少年も少女も、桜の木の中に消え失せてしまったように思えた。桜の木を囲む空気が闇を帯びはじめた。
 桜の木の影から新しい人の影が現れて、桜の木から離れた。それは命蓮の影だった。私の目が暗さに慣れてきたのか、おまもりを左手に持っているのが見えた。なぜかその姿はときどき不自然に揺れた。
 私は命蓮に言った。

「聞いたこともない話だよ」
「ものごとには」 命蓮は静かに答えた。「すべて理由がある」

 夏の闇が命蓮の輪郭をぼかしているように見えた。すうと、私の胸から喉へ、喉から口へ、大事なものが抜けていくような感覚がした。それは空気のように、そして私の身体が沈んでいくように。私の心臓がきゅうと締めつけられた。
 命蓮が私を見つめて、静かに尋ねた。

「泣いているのか、君は」

 命蓮の表情は見えなかった。視界に映るものの輪郭がぼやけて、ときおりそのかたちを崩した。誰に言うでもなく、私は言葉を口にした。

「どうして」

 自分でも不思議なほど落ち着いた声だった。

「どうして、何もかもを両腕に抱えようとするんだ」

 命蓮も顔を桜の木に向けて、誰に言うでもなく、けれど私に聞こえるような声で言った。

「そうしてしまったのは私の罪だ。幼く、無邪気で、残酷な咎だ」

 私は自分の顔を両手で覆った。とめどなく涙があふれ、指のあいだから零れ落ちた。嗚咽が漏れた。身体が震えた。それは自分の意識ではどうにもならないことだった。
 私は白蓮の身体の美しさを思い出した。湖で笑うみんなの笑顔を思い出した。紺色のおまもりが白蓮の胸元で跳ねているのを思い出した。少年の笑顔を思い出した。そして、あの雨の日の抱擁を思い出した。

 すべてを白蓮は、そうやって両腕に抱きつづけていた。たとえどんなに小さいものだとしても、その両腕からなくなってしまうのを白蓮は恐れていた。いつまでも大切にしていたかったに違いない。
 けれど、幼い少女が失うことを恐れ、永遠とも呼べるほどの時の中で、いったい何を抱きつづけてきたのだろう。本当に白蓮が抱いてきたのは私たちではなく、たったひとつの、両腕に抱えきれないほどの苦しさだったのかもしれない。

 私は濡れねずみだ。他人の苦しさに気づくことなく、ただ生きるのに必死なネズミ。私の頭はそう思っているのに、胸の奥では何かが強く震えつづけている。それは白蓮の苦しみを深く理解しているのと同時に、私の苦しみをも巻き込んで、ひとつの流れになろうとしていた。

 わかっている、わかっているさ。だからこそ、私は封印された君を探しつづけていた。そして、君のおまもりを探すためにあの冷たい湖の底へ潜っていった。ぜんぶ、わかっている。
 でも、今は静かに泣かせてほしい。私のためじゃない。ただ、君のためだけに泣かせてほしいんだ――白蓮。

 闇が深まり、熱を失った風が私のそばを通り過ぎていった。雨上がりのにおいがかすかに庭に残っていた。風に揺れて桜の木が静かにその葉をこすりあわせた。私はそのさざめきの中で泣きつづけた。

 七

 長い時間が過ぎた。私の涙は枯れて、ときどき洟を啜る音だけがあたりに響いた。命蓮が私の隣に腰かけて、静かに言った。

「落ちついたか」

 私は手を顔から離し、ゆっくりと首を縦に振った。それから、袖で顔についた涙のあとを拭った。
 夏の夜が来ていた。空には欠けた月がぼんやりと空に漂っている。月の光は沈黙を保ちながら命蓮寺に光を捧げていた。冷たくも、暖かくもあった。私は月を見て言った。

「なくしたものは探せばいい」

 私の声は寺に深く響きわたるように思えた。

「でも失ったものはもう戻らない。拾いあげようと手を伸ばしてつかむものは、空虚のかたまりでしかないんだ」

 月を見上げていた命蓮は、私に顔を向けて尋ねた。

「君はダウザーだったか」

 私は月を見上げたままうなずいた。

「だとしたら、君に会えたのは幸運なのかもしれない」

 命蓮の言葉に、私ははっとして彼の顔を見た。月の光に照らされた命蓮は微笑を浮かべて私を見つめていた。私の無意識の笑いなのか、私の記憶にある白蓮の微笑みなのか、それともまた別の微笑なのか。私にはわからなかった。それでも、その微笑の持つ意味だけは私の胸に深く、深く刻まれた。
 命蓮は言った。

「いつか、ひとは大切なものをすべて失ってしまう」

 命蓮は私の前にやわらかく握られた左手を差し出して言った。

「私もそうなろうと思っていたのだが」 それから命蓮は私の左手を、彼の右手でとって言った。「まだ、そうもいかないようだ」

 命蓮は私の左手の上に自分の左手を重ねた。私はそれをじっと見つめた。やがて、彼は握っていた手をゆっくりと開いて、その手をそっと戻した。
 私の手のひらの上に、紺色のおまもりがのせられていた。私は驚いて命蓮の顔を見た。

「これでいい」と命蓮は言って、私の左手を彼の両手で包み、そっと私におまもりを握らせた。私は言葉を口にしようとしたが、命蓮はそれを目で制した。そして命蓮は、静かに最後のひとことを口にした。

「君の意志とともに、これを」

 時が動きだす音がした。夜の月が唐突に沈み、太陽があわてて顔を半分以上出した。急な眩しい白い光が、寺に残っていた影をすべて吹き消し、すべてのものを白く溶かしはじめた。
 命蓮が白く溶けてその輪郭を失った。私の手を握っていた感覚が消えた。私はあわてて手を伸ばしたが、その手が届く前に視界が白く染まった。庭に視線を向けたが、最後の桜の葉が溶けていくのを見ただけだった。
 そして私の身体も日の光に溶けて、白くなった。

 全身が溶けた瞬間、いきなり目の前が暗くなって、体を重量ある何かが包んでいるのを感じた。視界の上の方から水晶のような光が射し込んでいた。
 私は海の中にいるんだ、と直感した。自分の身体はかたちを取り戻し、私はひとりで暗い海の中に漂っている。不思議と息苦しくはなかった。体を動かすと水の質量を感じることができた。
 私は自分の足もとに視線を向けた。すべてを呑み込む海の闇の中に、ひとつだけ小さく光を放つものが見えた。小さかったが、決して消えはしない光だ。その光は一本の帯となり、帯は螺旋を作りあげていた。

 私はその光の螺旋を見て、思った。
 違うな、命蓮。たしかに私たちは大事なものを失っていく。けれど、大切なものをすべて失うわけじゃない。どんなに私たちが絶望しようと、失わないものは少なくともふたつある。

 私の体が浮き上がる感覚がした。光の螺旋は遠くなっていく。浮き上がる速度は徐々に速くなり、上から射し込む光がより近くなった。そして、自分の身体が水面から出て、自分の視界が真っ白に染まる瞬間、強く思った。
 ねえ、命蓮、白蓮。

 本当に大事なものは、たとえ私たちが死んだとしても、決して失いはしないさ。

 私の右手は白蓮の左頬に添えられていた。泣きはらした顔で、白蓮は目を見開いて私を見つめていた。私は黙って右手で白蓮のほおを撫で、微笑んだ。私は布団の中で体を横たえ、私のそばに白蓮が座っていた。
 白蓮の顔が不意に歪み、その目から涙が零れ落ちた。

「ナズーリン……」

 白蓮は肩を震わせながら涙を流し、私の右手を自分の手で強く握った。二度と離さないという白蓮の哀しい思いを、私は痛いほど感じることができた。ずっと、ずっと白蓮は私のそばで泣きつづけてきた。私の体の中にある、記憶よりも確かなものが、それを知っていた。
 私は重い体を起こした。体がひどく痛んだが、気にならなかった。そして、私は左腕を白蓮の身体にまわし、そっと腕に力をこめた。泣いている白蓮の身体が無抵抗に私の身体と重なった。白蓮の身体はひどく軽く、華奢だった。その細い体を肌で感じて、私はどうしようもなく切なく、苦しかった。
 それでも、私は白蓮を抱きしめた。私の思いと白蓮の思いがもう一度、深い闇の中でも溶けあえるように。身体を震わせて泣く白蓮の身体を抱いて、私は言った。

「すまない、君をずっと苦しめてしまって」

 私の声は誰かの声と重なっているように感じた。

「でも、ひとつだけ君に言いたいことがあるんだ」

 私はずっと握っていた左手を開いた。その中に紺色のおまもりがあった。私は白蓮を、そのおまもりごともう一度強く抱きしめた。

「君の心を失わせはしない。なくしそうになったら私が探すさ、何度でも」

 熱いものが白蓮の身体から私の身体へと流れこんできた。私を包むような暖かさではなく、あの少女の涙と同じ熱さだった。それこそが私の探していたものだと、私は強く確信した。かよわくて、小さくて、やさしくもなくて――けれど、それで私はよかった。それでいいんだ。
 私は微笑んで白蓮に言った。

「君だって、涙を流せるんじゃないか」

 そう言ったとき、白蓮が私の身体を抱きしめるのを感じた。
 白蓮の汗のにおいと私の汗のにおいがまじりあって、私の鼻はそのやわらかなにおいをかすかに感じとった。

 八

 私のあごから汗が垂れた。私は顔をしかめながら、あぐらをかいて廊下に座り、残酷な日光に焼かれる庭を眺めていた。不快な湿気が私のまわりを飛びまわって、ときどき得意げに私の身体に当たってきた。

「暑いな」

 私は知らず知らずつぶやいて、大きくため息をついた。背後からやわらかい声が聞こえた。

「暑いのは嫌いなの?」

 白蓮が緑茶の入った湯呑みを二つ載せたお盆を持って、私の隣に座った。湯呑みから湯気が立っているのが見えた。私は白蓮から湯呑みを受け取って言った。

「嫌いじゃないけどね、不快なんだ。とくに湿気が」
「心頭滅却すれば火もまた涼し、という言葉もあるわ」
「汗だくの君には言われたくないね。それに心頭滅却なんて、恐ろしいじゃないか」

 白蓮は笑って湯呑みを手にし、緑茶を啜った。私も苦笑いしながら熱い緑茶を啜り、また汗を垂らした。

 あの日、湖で溺れた私を寅丸がなんとか引き上げ、私の身体を村紗の浮き輪に乗せていったらしい。私を命蓮寺に運んで、当初は一輪が看病していた。白蓮は動転していて、一輪は聖さまをなだめるのに苦労していたよ、とあとで村紗から聞いた。途中から白蓮がずっと私のことを見ていてくれた。私が意識を失ってから目覚めるまでのほぼ一日のあいだ、白蓮は一睡もしなかったらしい。

 そんなに長いあいだ意識を失っていながら、私はそのあいだのことを何も覚えていなかった。長い夢を見たような時間的空白を感じてはいたが、それだけだ。
 ただ、なにかが胸の奥に深く刻まれているのを、ふと感じることはある。そのたびに私は少し暖かい気持ちになり、少し寂しい気持ちにもなる。古い親友と一度きりの再会を果たし、短い思い出話と将来の夢を語り合って、さよならも言わず別れたように。

 私はお茶を飲み干し、それから首にかかっているおまもりを手にとった。おまもりは水をすべてふるい落としてしまったネズミのように軽くなっていた。おまもりを結ぶ赤い紐は、白蓮が新しく結ってくれたものだった。

 私が意識を取り戻した次の日、白蓮は新しく結った紐とともに、私に紺色のおまもりを手渡した。

「これはあなたが持っていて」

 白蓮はそう言って、微妙な角度で首をかしげて花のように微笑んだ。私は静かにうなずいて、それを受け取った。おまもりに、それまでとは別の意味合いがこめられているように感じた。私は白蓮を見つめて言った。

「大事なものが増えてしまったな」

 おまもりを見つめて、そんなことを私は思い出した。
 いつかはこのおまもりも失ってしまうかもしれない。だからこそ、今をこうして大事にすることができる。今という時間は、決して失われるものではない。
 私はおまもりをそっと握った。いつか、大事にしていたこのおまもりを失ったとき、そこにまた新しい物語が生まれるだろうか。だとしたら、と私は思う。失うことも決して悪くはない。

 空が不意に暗くなり、寺に充満していた暑さが軽くなったのを感じた。そして、何かの予感を私の鼻が嗅ぎとった。空を見上げると、重苦しいネズミ色の雲が空を埋め尽くしていた。
 白蓮も空を見上げた。

「雨が降りそうね」

 そう言って、白蓮は私の顔を見た。白蓮の顔に少し不安が見え隠れしていた。私はそんな白蓮の顔を見て、ふっと笑みが自然に浮かぶのを感じた。雨の降る日には笑えないと思っていたのに。
 私は笑顔を浮かべたまま、白蓮に言った。

「そうだね。冷たい夕立になりそうだ」

 その瞬間、雨がいっぺんに降りそそいできた。雨は日に焼かれていた地面を冷まし、桜の木に潤いを与え、池にささやかな波紋を起こした。濡れた地面から新しいにおいが立ちのぼってきた。
 私を見つめる白蓮も、やわらかな微笑みを浮かべた。その微笑が私の胸の奥にある何かと共鳴した。

 私と白蓮は何も言わず、雨の降る庭を眺めることにした。
 冷たい夏の夕立の向こうに、あたたかな煌めきが見えたような気がした。

 
 
 


 
 命蓮(正確には少し違いますが)の登場、おまもりの喪失、夏の夕立。
 それらがひとつの光となり、螺旋を描いて、ここまで読んでくださった方にあたたかさをもたらしてくれたなら、感謝、感激です。
 

初出:2009年11月12日

 


 

■裏話

『濡れねずみ』のプロットを書く前から、すでにこの話のコンセプトは決まっていました。白蓮の包容力の奥深くには、それだけのなにかがあると。それを描いていくのがこの話の軸でテーマでした。『濡れねずみ』はどうしてもそれだけでは完結できないので、この話を書くことにした、という経緯もあります。

 白蓮の心の裏には命蓮との何かがある。そうでなければ、白蓮はああまでして魔法の力を求めようとしなかった。
 それを考えることからこのお話作りは始まりました。過去の小さな事件、それから生まれる現在の小さな事件。そのふたつを繋いだのがおまもりです。星蓮船では白蓮のおまもりのことなんてまったく出ていません。私が勝手に付け加えたオリジナル設定です。
 オリジナル設定はどうしてもそうしなければならない場合にかぎり使うようにしていて、今回はその場合でした。ナズーリンを主人公として命蓮を自然に出すのは、夢とおまもり以外に考えつきませんでした。

 夢とおまもりを考えついたら、あとはお話のとおりの内容になっていきました。ただ、命蓮が少しばかり冷たい印象があったかな? 本当の命蓮はもう少し暖かい人物だと信じています。今回はナズーリンの夢の中で出てきたので、冷たい感じを狙いました。

 最後に出てきた光の螺旋。あれは私としては全生物に流れている二重螺旋の遺伝子をイメージしています。死んでも決して失わないもの、そのひとつが「今」、もうひとつが「遺伝子」。私はそう信じています。

 私としては『濡れねずみ』にひとつの決着がついたと思っています。いろいろ謎めいた感じで終わっていますが、それはそれでいいんだと思います。雰囲気重視なので。