創想話
 
 


 
 
#1

「愛しのアリスちゃんへ

 二週間ぶりぐらいかしら、神綺ママです。
 この手紙、ちゃんとアリスちゃんのもとに届いているかしら。なんだか最近夢子ちゃんがママの手紙に細工しているような気がしているのです。勘違いかもしれないけれど、なんとなく夢子ちゃんがママの手紙をにらみつけているように思えるので、ママちょっぴり怖いです。でもそんなことを心配しても始まらないし、届いていると思って手紙を書くことにします。

 幻想郷の暦では夏になったみたいで、気づいたらもう七月も半ばを過ぎてしまったみたい。どうにも魔界にいると季節感が狂っちゃうものね。だって四季の楽しみなんてこの世界にないんですもの。毎日毎日、なんだか暗くてうねうねしている風景はそろそろ飽きちゃいました。外の光景が羨ましい。でもママが作った世界だから、ママが文句を言うなんて少し変な話かしら?
 魔界は暑いも寒いもないけれど、幻想郷の方はきっととても暑いのでしょうね。死ぬほど暑いでしょうね。だいぶ前にママが魔界を抜け出して幻想郷に行こうとしたら、あまりの暑さに五分で魔界に逃げ帰った記憶もあります(ママも若かったということね)。あんなに暑いところに人が住んでいるって、ママちょっと信じられません。

 そんなところにアリスちゃんが住んでいるんだから、ママとしてはアリスちゃんのことがとっても心配です。暑くてご飯を食べてないってことはない? もしそうだったらそれは「夏バテ」というものらしいわよ(夢子ちゃんが話してたわ)。アリスちゃんは魔法使いだから食事をとらなくてもいいとは思うけど、でもとった方がもっといいわよ。それから睡眠も大事。その二つを怠って夏風邪を引いてない? 魔法使いも健康に気を遣った方がいいわ。
 だって魔法使いになったからといって病気や怪我をしないとは限らないのよ。ちゃんとした体づくりをした方がママはいいと思います。だからやっぱりそのためには食事と睡眠は大事。食事もしっかり三食食べて、睡眠も真夜中前に寝て朝早く起きて。食事は栄養のバランスも大事だから、野菜もちゃんと食べて、お肉も食べてね。
 アリスちゃんを心配してはいるけど、幻想郷には行けないので(あとで理由も書くわね)ママは魔界で魔界せんべいでも食べて過ごすことにします。

 そうそう、この前魔界では魔界せんべいの魔界味噌味がついに登場したの。ママがせんべい屋さんにずっと言ってきた夢がとうとう叶いました。今もこの手紙を書きながらちょっと食べてみたけど(ごめんなさいね)、とっても美味しかったわ。ママびっくり。これは魔界茶とよく合う味だと思うわ。
 でも今思い返してみたら、魔界味噌味を最初に希望したのはママじゃなくて、アリスちゃんだったかしら。ちょっとママの記憶が曖昧で断定はできないんだけど、もしそうだったらこれはアリスちゃんにも嬉しい知らせだと思います。
 そういうことで手紙には魔界せんべい魔界味噌味をつけて、それからおまけに魔界茶もあります。袋にちゃんと入っているわよね。夢子ちゃんはつまみ食いは絶対にしないはずですもの。この手紙が届いていたら、ぜひ魔界せんべいと魔界茶を一緒に味わってください。味はママが保証します。

 それにしても、こうやってアリスちゃんに手紙を書いていると、またアリスちゃんのことが心配になってきちゃった。アリスちゃんがママに手紙を送ってくれないので、元気にやっているかママ心配です。本当に心配です。死ぬほど心配です。

 あんまりにも心配になっちゃって、ついこのあいだ魔界を抜け出して幻想郷に行こうとママ思ったの。幻想郷のアリスちゃんのおうちに行って、アリスちゃんの姿を見ようと思ってたわ。でもそれはとうとう叶わなかった。
 というのも、まずは幻想郷の暑さにママがノックアウトされちゃったから。前にも書いたけど、厚着しているママにはあの気温は耐えられません。無理です。それからね、魔界を出てちょっとしたら夢子ちゃんにあっさりと捕まっちゃった。ママがダウンしている隙に捕まえるとは、あの子もなかなかのものね。
 でもママはアリスちゃんのところに行きたいから、がんばって夢子ちゃんから逃げようとしたのよ。そうしたら夢子ちゃんが『魔界神がそんなお姿をまわりに見せてはなりません』って言うのよ、もうそれはとんでもなく怖い顔で。ママは魔界神だからべつにそんなアレではないのだけど、でもちょっと怖かったから結局アリスちゃんのおうちに行くのはやめにしました。(ちょっと泣きそうになったのはアリスちゃんとママだけの秘密ね)

 そうそう、夢子ちゃんのこと書いていたら思い出したんだけどね――

(ここから先は不自然な空白が続く)

 ――もうママも思わず笑っちゃった。

 ちょっとこの手紙も長くなりすぎちゃったかしら。アリスちゃんに手紙を書いているとついつい長くなっちゃうのよね。他の人に書くときにはたぶん百文字くらいで終わらせようとするのだけど。というよりも手紙を書くこともしないわ。でもそろそろこの手紙も終わりにします。本当はもっと書きたいけど。
 アリスちゃんに手紙を書くのは本当に楽しいけど、ママはちょっぴり寂しくもあります。だって、やっぱりママはアリスちゃんの元気な姿を見たいんですもの。隙があればまた魔界を抜け出してアリスちゃんに会いにいこうとも、ちょっと考えてるわ。(夢子ちゃんが最大の関門だけど)

 一人暮らしは大変だと思います。ママにできないことをやっているアリスちゃんはすごいと、ママはいつも思います。でも、たまには魔界に帰ってきて、今までの楽しいこと(つらいこともね)、ママにいっぱい話してください。そうしたらママがアリスちゃんのことを抱きしめてあげちゃうわ。それはもう力いっぱい。

 じゃあ、また手紙を送るわね。元気でね。

 あなたのママ 神綺より」

#2

 私は手紙をくしゃくしゃに丸めて放り投げた。丸められた手紙はリビングの隅にあるごみ箱には入らず、ごみ箱の側面に当たって脇に落ちた。かさりという乾いた音が夏の蒸し暑さには似合わない。
 魔界せんべいを食べていた魔理沙の手が止まり、その視線は手元の本から私に向けられた。私の横でずっと待機していた上海人形もその顔を私に向けていた。生活の音が消え、外から蝉の声が入ってくるばかりの間があった。
 私は頬杖をついて手紙を投げ入れそこねたごみ箱をにらみつけ、荒いため息を吐き出した。夏の暑さにあてられて、そのため息も不快なものになった。自分の顔がひきつっているのがそれでわかる。私はごみ箱からテーブルの上に視線を移した。そこには魔界味噌味魔界せんべいが入っている袋と、魔界茶が入っている袋がある。せんべいの袋はすでに魔理沙が開け、その中身も食べられていた。
 熱気が埋めつくす沈黙のあと、魔理沙が口にせんべいを持っていきながら私に尋ねた。

「どうしたんだ、アリス。せっかくの神綺からの手紙を捨てちまうのか?」

 そして魔理沙は魔界せんべいを再び食べはじめた。ばりばりとせんべいを噛み砕く音が私の耳には耳障りなものに感じられた。私はもう一度荒いため息を吐いて、視線をせんべいの袋に固定したまま魔理沙に答えた。

「たいしたことが書いてあるわけじゃないもの。何度も読み返すわけでもないし、捨ててもいいでしょ?」

 自分の声は思っていたよりもずっと刺々しくリビングに響いた。それにも気づいて私の苛立ちがより大きくなっていった。
 べつに自分のことをそこまで心配しなくてもいい。そういううっとおしさが手紙を読み終えた直後の私を満たしていた。私がどこまで自分を管理できていないと思われているのだろうか。当たり前のことから、本当に細かいことまでが手紙に何度も何度も書かれ、読み進めていくにつれて、私は自分の心が荒立っていくがわかった。
 だから手紙を読み終えた私はそれをごみ箱に投げ入れた。

 せんべいをどんどん食べ進める魔理沙がまた私に訊いた。

「魔界せんべいは食べないのか? 新発売の魔界味噌味魔界せんべい、これはなかなかたまらないんだぜ。これは売れるぜ、絶対」

 魔理沙は私に送られたはずの魔界せんべいを一人でどんどん美味しそうに食べていく。手紙にもあったとおり、確かに魔界味噌味魔界せんべいは私が食べたいと思っていたものだ。私はそれを熱望していたはずなのに、今はそのせんべいに手をつけようとさえ思わない。袋を見ているだけで思い出したくないものまで頭に浮かんでくる。
 私は袋から目をそむけ、頬杖をついていない方の手で袋を魔理沙の方に押しやった。

「別に食べたくもない。勝手に食べていいわよ」
「ふうん」

 魔理沙は気のない返事をして、魔界せんべいを食べつづけた。私は魔理沙を横目に見て、それから自分の視界に丸められた手紙が入っているのに気がついて、目のやり場がないからしかたなく窓の外を見た。窓の外では白い太陽が魔法の森を焼き尽くすように燃えている。蝉の声がいつまでも騒々しく響く。どうして魔法の森に蝉が来るのかがわからない。夏の暑さと家の湿度と蝉の声で私の苛立ちはおさまらなかった。そしてそんな苛立ちに振り回されている私自身にも苛立った。

 ふと視界の端で揺れているものに気づいてそちらに視線を移すと、それは魔理沙が魔界せんべいを縦に振っているだけだった。魔理沙が私の視線に気づいてにやりと笑う。

「やっぱりこのせんべい、欲しいんだろ?」
「……からかうだけならやめてよ」

 私はそう言ってまた魔理沙から目をそらした。「ああ、そうかい」と言って魔理沙はくっくと笑った。私は再び魔理沙に視線を戻して「何よ」とぶっきらぼうに言った。魔理沙は「いいや、なんでもないさ」と軽く返した。私が魔理沙をにらむと、魔理沙は「おお、こわいこわい」と椅子の背に寄りかかった。そしてにやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべたまま言った。

「せんべいを食べたらやっぱりお茶が欲しくなった」
「ああ、そう」
「勝手にここにある魔界茶を淹れていいか?」
「紅茶ならそこに出てるでしょ。人のものを勝手に食べて、今度はお茶まで勝手に飲むっていうの?」

 私は頬杖をついたまま視線を下に向けて、テーブルにあるはずの紅茶の姿を求めた。そこには魔界せんべいの袋と魔界茶の入った袋があり、魔理沙の前にはグリモワールが置いてある。それだけだった。紅茶はどこにも置かれていない。
 虚を突かれるような思いがした。魔理沙も戸惑いがちに私を見て、ためらったように言う。

「……ないぜ、紅茶」
「……ないわね、紅茶」

 いつもなら、たとえ私の本を勝手に持ち出すような魔理沙にでも、私の家に来るからには最低限のもてなしとして紅茶を出しているはずだった。けれどその日、魔理沙がうちに来てからもう40分くらい経っているのに、そこに紅茶は置かれていなかった。それまでにそこに存在したような気配もない。
 少しのあいだ私は混乱した。苛立ちのせいで思考回路がうまくまわらなかった。客が来たときに紅茶を出すのはいつも上海人形だった。その上海人形はその日、ずっと私のそばにいるだけだった。ということは上海人形が紅茶を出すのを忘れていたのか。あるいは私がそのように上海人形に命令し忘れていただけなのか。
 いずれにせよ、魔理沙に紅茶を出していないことは私にとっては信じられないことだった。頬杖をつく私の腕が揺れはじめ、私はそれを必死で抑えつけて上海人形を呼ぶ。

「上海」

 いつもよりも数段低い声だった。私の隣にいた上海は私の視界の真ん中に移動してきたが、私はわざと視線を移してその姿を視界の端に追いやった。蒸された部屋の中で私は低いトーンを保ったまま上海に言う。

「ねえ、上海。お客さんが来たら紅茶を出すのは当然のことでしょう。あなたは今までそれをずっとやってきたはずよね」

 上海には口がないから、彼女は私の言葉に首を縦に振り、それで肯定の意を示した。けれど、それから彼女は動こうとしなかった。その間に蝉の声がやんだ。魔理沙があいかわらず薄い笑いを浮かべたまま私を見ていた。その顔に私は思わず歯軋りしそうになる。

「上海?」

 私がそう問いかけても上海はきょとんとした目で私を見つめているだけだった。その姿に私の頭に苛立ちの波が押し寄せ、それに私は押し倒された。感情を表に爆発させないだけでも精一杯だった。思わず怒鳴ってしまいそうになる喉を抑え、私は上海に鋭く言いつけた。

「紅茶、淹れてきてよ」

 上海は一時そこから動かなかったが、少しするとねじを巻いたばかりのおもちゃのようにぎこちない動きでキッチンに向かっていった。私は上海を見送ることもなく、さっと視線をテーブルの上に振って、また大きなため息をついた。
 魔理沙がそんな私を見て、息だけで笑った。

「まあ、そんなにかっかするなよ」

 そして魔理沙は袋から魔界せんべいを取り出して、それを私の目の前に差し出した。そしてハンカチを振るような動作でせんべいをひらひらと揺らした。

「ほら、魔界せんべいやるからさ」
「要らないって言ってるでしょ」

 私は魔理沙をにらんでそう言った。まだ私の声の鋭さは失われていなかった。魔理沙はそんな私の様子など気にしないかのように、差し出したせんべいを自分の口に入れた。私は魔理沙をにらんだまま、右手の人差指を不規則にテーブルに叩きつけた。かつかつと棘のある音が部屋に響く。

 わからない。どうして自分がここまで荒立っているのか。手紙を読んだときから苛々しはじめたのは確かだけれど、なにもここまで荒れることもないはずだ。手紙の中に直接私を不快にさせる文章もなかったのだから。しかし私はとにかく不愉快だった。苛立った原因があの手紙の中にあるのかどうか、私には確信がなかった。
 ああいう手紙が私のもとに来るたび、そして私がそれを読むたび、愉快な気持ちになったことはない。いつも私を心配するような文章が書かれていて、私はそれを非常にうるさく感じていた。けれどその日は一段と不快感が強かった。そしてその不快感に振り回されている私自身にも腹が立った。自分が自分ではなく、喜劇の人形師に操られている滑稽な人形のようにさえ感じられた。

 終わらない私の自問自答を遮るようにして、キッチンから戻った上海がティーセットを持ってきた。私と魔理沙の前にカップを置き、そこに淹れたてのダージリンを注ぐ。蒸し暑さの上に紅茶の湯気が重なり、不思議な異常感を生んだ。紅茶を注ぎ終わった上海はキッチンに逃げるようにして戻った。何をしに行ったのか私にはわからなかったが気にしないことにした。
 私は頬杖をつくのをやめ、紅茶のカップを手にとり、目をつむって一口ダージリンを啜る。暑い夏に薫り高いダージリンの熱気を感じ、私の感覚はふわりと現実から離れる。そうして私はようやく自分の苛立ちを鎮めることができた。目を薄く開くと、ダージリンの澄んだ赤が私の顔を映し出した。私の顔が平常に戻ってきたのがわかった。
 私は目を上げて紅茶を飲んでいるはずの魔理沙を見た。けれど彼女は紅茶に口をつけていなかった。ソーサーの上のカップの液体を、じっと見つめているだけだった。その顔からはさっきまでの軽い笑いは消え、複雑な表情が浮かんでいた。魔理沙の額から顎にかけて汗が滑り、顎から紅茶に一滴垂れた。けれど魔理沙はそれにすら気づかないように紅茶をじっと眺めている。魔理沙にしては珍しく何かに悩んでいるようだった。

「せんべいに紅茶は合わなかったかしら?」

 それとなく私が訊くと、魔理沙は驚いたように顔を上げて私を見た。その顔には動揺が明らかに現れていたが、すぐにそれは消えて作り笑いがかわりに出てくる。

「ああ、ちょっと考え事をしていてな。せんべいに紅茶が合わないわけじゃないさ」

 そう言って魔理沙は熱い紅茶を一気に喉に流し込み、それから熱さと苦さに驚いたように咳きこんだ。咳きこみながら魔理沙は袋に手を入れてせんべいを取り出して食べ、そしてそのかけらでまた咳きこんだ。私は慌てて魔理沙のからのカップに新しい紅茶を注ぎ、それをゆっくり飲むように言った。魔理沙は苦悶の表情を浮かべながら紅茶を一口飲み、それからようやく落ち着いたように深呼吸をした。

「ああもう、死ぬかと思ったぜ」

 私は自分の顔の筋肉が一気に弛緩していくのを感じた。思わず笑みがこぼれる。

「まったく、そんなに焦ってもしかたがなくてよ」

 魔理沙はまた一つ咳をしながらせんべいを口に入れた。私は魔理沙に尋ねた。

「何をそんなに考えていたの?」

 魔理沙がせんべいを口にしたまま動きを止めた。目だけが私を見ていて、妙に不自然な格好になっていた。蝉の声がしない沈黙がひととき流れ、しばらくして魔理沙の口が動きを取り戻した。

「いや、今思い出しただけなんだ。今日ここに来た目的をすっかり忘れてて、で、今思い出したからそれをおまえに伝えなきゃいけないんだが、なんていうか……」

 そこで魔理沙は言葉を止め、また黙って紅茶を見つめた。その赤さから途方もない連想をしているように私には見えた。少しして魔理沙は視線を上げ、ためらいがちに私と目を合わせながら言った。

「今度の博麗神社の例大祭なんだけどさ、ああ、なんだその、おまえも何か出し物をするんだろ?」

 魔理沙と会話が微妙にすれ違っているような気がした。けれど私は気にしないようにして首を縦に振った。

「やるわよ。いつものように人形劇を」
「……どんな内容なんだ?」

 また別の質問。私は魔理沙がいったい何を言いたいのかがよくわからなかった。

「西洋文学の『ロミオとジュリエット』から着想を得たものよ。大筋は似ているけれど、最後をハッピーエンドにしてるわ」

 魔理沙がまた口を開き、私に何かを尋ねようとしたが、今度は私が先回りして尋ねる。

「何か私のやることに問題があるのかしら?」
「あー……」

 聞き返された魔理沙は居心地悪そうに、歯切れの悪い「あー……」を何度か繰り返した。その間に目は右へ左へとさまよう。これも魔理沙らしくない。ふだんはずばりと、それこそ私の嫌がるようなことも言ってしまうはずなのに。
 私がわざと咳払いをして早く言うように促すと、魔理沙はぐっと顎を引いてようやくまともな言葉を捻り出した。

「まあ問題はないけどさ」
「じゃあ何か不安なことがあるわけね、私に関して」

 私がわざと冷淡に返すと、魔理沙は慌てて手を横に振って言った。

「違うぜ、そういうわけじゃない。おまえのことではないんだ」
「じゃあ誰のことなのかしら?」
「うむ……」

 私の追及に耐えかねたらしく、魔理沙は間をもたせるようにして紅茶をひとくち飲んだ。私は黙って魔理沙を見つめる。紅茶を飲み込んだ魔理沙は天井に向かってふうと熱い息を吐いた。それから覚悟したように私に顔を向け、真っ直ぐに言った。

「例大祭に悪魔が来るぜ」
「悪魔?」

 私は魔理沙の言葉をうまく呑み込めず、しばらくその意味を考えた。それがレミリアのことだと思い当たるまでかなりの時間がかかった。けれどそのことに気づいてしまえばなんてことはない。

「レミリアが来るっていうだけでしょ?」

 私がそう言うと、魔理沙は紅茶のカップを手にとって答えた。

「でも、レミリアが例大祭で普通の人間の前に姿を現すっていうのは初めてのことなんだ。何か問題を起こさなきゃいいんだけどな」
「大丈夫じゃないかしら。彼女には多少わがままなところがあるけれど、別に問題を起こすってほどじゃないし」
「まあ、あいつならそうなんだが」

 魔理沙は残り一枚のせんべいを口にして、大きな音を立ててそれを割った。そしてそれを何度も何度もゆっくりと噛み砕く。だんだん目の焦点が私に合わなくなってきた。心ここにあらず、といった雰囲気が魔理沙のもとに戻ってきた。魔理沙が何をそこまで考えているのか、私にはわからなかった。

「考えすぎよ」

 私はそう言って紅茶を啜った。魔理沙は私に視線を戻してせんべいを呑み込み、それから紅茶のカップを手に取った。

「そうならいいんだがな」

 あいかわらず浮かない顔でそう言って、紅茶を一気に飲み干した。ダージリンの苦さに顔をしかめながら、魔理沙は私に言った。

「人形劇、とりあえずうまくやってくれよ」

 私は「当たり前でしょ」と応えた。そのとき窓から差し込んでくる太陽の光が私のカップに残っていた紅茶を照らした。水面で激しい光をまき散らす紅茶。その色はさっきよりもずっと鮮明な赤になっていた。まるで流血を思わせるような、そんな色だった。

#3

 うだるような暑さの中で例大祭は行われた。いつもの博麗神社からは信じられない人の数が集まり、お祭りの屋台や賽銭箱の前に群がっている。賽銭箱の音がやむことはなく、忙しくさえなければ霊夢は賽銭箱の前で泣いて喜んだだろう。
 私は自分の人形劇の準備に追われていて、そうした祭りの光景を楽しむわけにもいかず、朝から気持ちよくない汗をかきつづけていた。雨が降ったわけでもないのだが、その日は妙に湿度が高かった。妙な不快感が私を包む。そしてその不快感を生み出しているのは夏の湿度だけではなかった。

 次の舞台は夕方、日が沈んだ直後から始まる。すでに太陽は山に顔を隠しはじめていて、舞台の前には子どもたちが何人か腰を下ろし、舞台を眺めたり他の子ども達との談笑を楽しんでいた。子どもたちの親は彼らの背後に立ち、また彼らは彼らなりの会話を楽しんでいるようだった。祭りの陽気が彼らを饒舌にさせ、軽く弾んだ雰囲気が舞台の表側に満ちていた。
 けれどその舞台の裏にいた私は、その雰囲気から遠くかけ離れて人形たちを見つめていた。人形たちもどこか落ち着かない顔で舞台裏に立っている。劇が始まるまであと20分。舞台裏の気まずい沈黙が晴れるきっかけはどこにもなかった。

「ねえ」

 私は人形たちに向かって言う。背後からは子どもたちの笑い声が聞こえる。「ねえ、あそこの射的でこんなのとったんだよ」、「さっきうな重食べたんだけど、とっても美味しかった」、「蛍屋ってどこにあるの? 行ってみたい」――。そして私は彼らとは対照的な重い口調で次の言葉を口にする。

「いつになったらここは成功するの? これはリハーサルよ。練習ではないの。もう時間が無いのはあなた達にもわかっているわよね?」

 地面に転がっている蓬莱人形が体を起こして私に視線を向けた。上海人形は蓬莱人形を見つめたまま少しも動かない。他の人形たちも私を見たまま、何の反応も見せなかった。当たり前といえば当たり前だ。人形なのだから。私もそんな人形たちに対して怒るのは馬鹿らしいことだとわかっているけれど、それでも自分の感情の流れにまかせて続ける。

「上海が蓬莱を抱えて舞台の端から出る、これだけのことなの。何が難しいというわけでもないはずよ。上海、蓬莱を抱えられないほどあなたを非力につくった覚えはないわ。それなのに、どうして何度やってもできないの?」

 私は腕を組んで舞台の柱に寄りかかった。すると柱が歪んで軋む嫌な音がして私は柱から体を離した。それでも腕組みはほどかない。私は目を伏せてまた言った。

「もう一度やるわよ。いいかげんに次は成功させて」

 人形たちはもとの配置に、無駄の無い機械的な動きで戻った。上海が蓬莱の隣に立ち、蓬莱が上海に寄りかかるような体勢。他の人形たちは二人をとりかこむようにして立った。正しい配置に戻ったのを確かめて、私は指を小さく鳴らした。

 主人公の上海とヒロインの蓬莱がじっと互いを見つめる。私がもう一度指を鳴らすと、上海が蓬莱を抱きかかえるために腰を落とし、腕を蓬莱の腰と背中にまわす。その体勢まではうまくいく。けれど次の瞬間、蓬莱は上海ではなく地面に抱かれていて、上海は蓬莱ではなく空気を抱いている。これほど情けない失敗はない。クライマックス、さらに言えば最後のシーンなのに。

 私は額に手をあてて目をつむり、大きなため息をついた。いやでもため息が出てしまう。地面からわきあがる湿気が私の頬を焦がし、感情が荒れていく。今すぐにでもこの舞台をたたんでしまいたいとさえ思ってしまう。けれどそういう思いを押しつぶそうとするように子どもたちの声が背後から聞こえてくる。

「うまくいくのかしら」

 ひとりごとが自然に口をついて出た。目を開くと上海が私を見つめているのが見えて、私はまた瞼を下ろして視界を黒に染める。視覚と聴覚と触覚を自分の意識から遮断して、とりあえずは自分の心を落ち着けようとした。そしてこの状況をどうすればいいのか冷静に考える。

 上海の動きに変更を加えるか。けれどもう劇が始まるまで時間がなく、今からプログラムを組み替えるのには無理がある。たとえ組み替えられたとしてもそれをテストする時間は間違いなく残っていないだろう。変更後の動きがうまくいく保証もなく、変更しても失敗する可能性がある。
 あるいは上海たちの動きを最後だけ止めてしまい、ナレーションの私がアドリブでごまかすか。けれどそれも実際に劇としてはかなり無理がある。最後の最後で人形が動かないというのは画にならない。クライマックスが盛り上がらなければ話にならない。

 しばらく考えて私はひとつの結論を出した。当初の予定通りの動きでいく。それが私にとって一番いい結果をもたらすと思った。半ば強行突破ではあるが、それ以外にまともなものはないように思った。
 ふと私の瞼の裏に小さな卵のようなものが見えた。表面はなめらかに鈍い光を放って、殻は少し押せば簡単に壊れてしまいそうなほど脆かった。けれどその映像はすぐに私の前から消え、また暗闇が戻ってきた。

 私は目を開き、五感をすべて自分の中に引き戻した。自分の意識の世界の中に夏の祭が鮮やかに蘇った。ただ目をつむる前とあとでは何かが変わっているような気がした。映像や暑さや匂い、それはもとのままなのに何かが変わっている。
 けれど私はそれを気にしないことにし、人形たちを見回して言った。

「最初の予定通りにいくわ。いい? うまくやってちょうだいね」

 人形たちはうなずかない。みんな私を見て黙って立っているだけだった。けれど私はうまくいくと思った。うまくいくと思い込んだ。

 太陽が山の縁に隠れ、博麗神社は闇に染まりはじめた。まわりの屋台の明かりがちらほらと点き、幻想的な光の玉を闇に浮かびあがらせる。その不思議な光景は真理の象徴に思えた。少しのあいだ、自分の胸の扉が開放されているような奇妙な感覚がして、私は慌てて扉を閉じた。それから私は一つ呼吸をして、舞台を照らして裏側から表に出た。

 子どもたちの拍手の中で私は舞台の前に立ち、地べたに座っている子どもたちを見下ろす。それから形式的に三十度のお辞儀をして、子どもたちを見回しながら挨拶を始めた。

「今日は私の人形劇に来てくれて、どうもありがとう」

 私が見ている光景はほとんどが毎年見ていた光景だった。地べたに座る子どもたち、背後に立つ親。その背景に光を灯している二、三の屋台と紫闇の空。ただその観客たちの一番右端に、いつもと異なるものがあった。見覚えのある、人間ではない子どもが二人。

 レミリア?

 危うく声に出すところだった。けれど私はそれを押しとどめ、何事も無かったかのように先を続けた。

「知っている人もいるかもしれないけれど、自己紹介をします。私はアリス・マーガトロイドです」

 魔理沙が言っていたことをぼんやりと思い出した。「悪魔が来るぜ」――たしかにレミリアもいる。けれどレミリアの隣にもう一人、金髪で七色の羽根を持つ少女がレミリアの隣にいた。そしてレミリアの腕にしがみつくようにして、顔をこちらに向けている。
 私はその少女を知らない。魔理沙が言っていたのはレミリアのことだけでなく、あの少女のこともあったのだ、と私はそのとき気づいた。だとすれば彼女も吸血鬼の一人で、あのようにしてレミリアにしがみついているということは親戚か何かなのだろう。私はそう思った。

「今日の劇のタイトルは『門をくぐる花嫁』です。なんとなく想像がつくかもしれないけど、少年と少女の恋の物語。まだみんなには少し早いかもしれないけど、とてもいい話です」

 挨拶を続けながら私はレミリアに何度か視線を送る。レミリアは傘をさしたまま行儀のいい姿勢で立っている。紅魔館の主らしい態度をとろうとしているように見えた。そういえば、と私は思う。咲夜は彼女のそばにいないのかしら。
 私の挨拶に続けて舞台を鑑賞するときの注意などを話していった。そのあいだに今度はレミリアにしがみつく金髪の少女に視線を送った。彼女はいつまでもレミリアの腕を離す気配がなかった。けれどその目はじっと私と私の舞台に固定されたままだった。初めておもちゃを見るときのような輝きを持つ、そんな子どもらしい目だった。

 突然、私は胸の奥に鈍い疼きを感じた。もう少しで話が不自然なところで止まってしまうほどだった。私はさりげなく胸に手をあててその疼きを鎮めようとしたが、自分の手のひらでは届かなかった。眠っていた魔物が目覚めて身体を震わせているような感覚だった。
 私は、今度ははっきりとレミリアとその隣の少女に目を向けた。胸の疼きは強くなる。どうして、と私は思う。仲むつまじいはずのその光景に、なぜ疼きなんて覚えなくてはならないのだろう。
 レミリアはときどき隣の少女に視線を一瞬だけ送っていた。そして隣の少女はずっとこっちを見ている。すれ違う視線。もしかしたらそのすれ違いが疼きの原因なのかと私はそのとき思った。本当はそうではなかったのだけれど――そのときは、そうなのではないかと私は断定した。

「それでは、どうぞごゆっくりとお楽しみください」

 私の挨拶はなんとか無事に終わった。私がまた形式的なお辞儀をすると、子どもたちの小さな拍手が再び響く。遠くで金髪の少女がレミリアの手を引っ張るようにして座り込んだのが見えた。レミリアは戸惑うような表情をしながら、それでも金髪の少女の隣に腰を下ろす。二人はふつうに見ているぶんには可愛らしい姉妹だった。けれど私はすれ違う視線を知っている。胸の疼きは止まらない。
 私は舞台の裏に戻り、人形たちと台本の準備をする。そこから見える幻想郷の山は、夕日に浮かぶひとつの影絵のようだった。なんとなく思う。影が映し出すのは、あるときから進まなくなった時の欠片なのではないかと。そしてまた私は現実に私は戻る。台本を持って私は再び舞台の表に出ていく。

「私たちの知らない時、私たちの知らない場所。この国かもしれないし、どこか遠くの知らない国かもしれない。でも、あるお城に美しいお姫さまがいたというのは事実です」

 私が冒頭のナレーションを始めると、舞台の端からきらびやかなドレスを着た蓬莱人形が現れてゆっくりと中央部に歩みを進めていく。子どもたちはその蓬莱の動きにため息をつき、歓声をあげ、手を叩いて喜ぶ。そのさざめきがおさまるまで私は口を閉じて待つ。舞台の端から次に登場する上海が私を見つめている。また舞台が沈黙に包まれたところで、私は口を開く。

「お姫さまは言いました。『ああ、お姫さまという生活もいいけれど、何もすることがなくて退屈だわ。何か楽しいことが起きないかしら』。彼女はまだ一歩もお城の外に出たことがないのです」

 蓬莱は悩ましげに舞台を右へ左へあてもなくさまよう。そのあいだ、他の人形たちが舞台の端から「窓」の小道具を持って舞台に置き、また裏方へ去っていく。私はそれを確認して、台本の裏で指を曲げた。蓬莱が体を「窓」に向け、まるで窓がそこに最初からあったように近づき、「窓」を手で押して開ける。私はまたそこで台本を読む。

「お姫さまは外を見て思いました。『お城の外は楽しそうだわ。一度でいいから外に行ってみたい。でも、お父さまはそれを許してくれない。誰か私を連れ出してくれないかしら?』」

 そこですかさず少年の格好をした上海人形が舞台の端から現れ、蓬莱の視線の先に到達し、そこで優雅な踊りを見せる。子どもたちが息を呑むのを私は感じた。ただ、なぜだか私は上海の踊りに微妙な違和感を覚えた。気のせいなのだろうか。少年の服の端の揺れがいつもよりも激しくないように見えた。

「『あら、あの少年は誰かしら?』とお姫さまは思いました。とても踊りが上手で、綺麗な少年です。お城の前の広場で踊っているその姿を、お姫さまはずっと見つめています。その踊りはお姫さまが今まで見たどんな踊りよりも美しく、のびやかでした」

 上海の踊りが終わると、上海は蓬莱の方に視線を向ける。蓬莱はその視線に驚いたようにして、さっと「窓」から離れる。上海は蓬莱が離れたあとでも「窓」を見つめつづけていた。

 そうして美しい少年とお姫さまはお互いを知る。お姫さまは「窓」から少年の姿を何度も見て、とうとうお城を抜け出して少年の目の前でその踊りを見る。しかしそのときのお姫さまの格好は庶民と変わらないもので、少年はそれがお姫さまだと気づかない。二人は秘密の出会いを繰り返して、お互いに恋をする。
 だが、その少年は町の小さな商人の息子だった。そして少年はとあるきっかけで自分が恋をした少女がお姫さまだと知ってしまう。その当時、身分違いの恋は許されていなかった。少年はお姫さまとの出会いを拒むようになっていく。お姫さまはその少年の冷たさにも負けず、ただひたすらに少年と会いたいと願う。
 そんな少年が変わるきっかけがお姫さまの抱擁だった。少年はお姫さまの一途さに胸を打たれ、自分も自分に正直になることを誓う。だが二人の関係はそれぞれに家族に知られてしまい、猛烈な反対を受ける。少年は命さえ狙われてしまうことになる。

 このストーリーが展開していくにつれて、子どもたちの目がだんだん舞台から離れなくなっていくのが目に見えてわかった。誰も言葉を口にせず、何も話さない人形たちの動きと私の言葉が生み出す世界にとりこまれている。すべてが私の考えているとおりになっていく。レミリアと隣の金髪の少女もじっと舞台を見つめて、そこから目が離せなくなっている。

 ただ、そこでひとつの不安が生まれる。はたしてクライマックスのシーンで失敗してもいいのだろうか? あまりにも子どもたちと悪魔たちの視線は純粋で強かった。私はその視線を裏切ることができなくなってしまった。リハーサルの動きのままでいくという決断が、あるいは間違っていたのかもしれない、とちらりと思う。

 それに私にはもうひとつずっと抱えていた不安があった。上海人形だ。
 蓬莱人形を抱えきれないことに加えて、どうしても気になるような動きがいくつか劇中にあった。この劇を演じているのが人間なら不思議ではないが、これは人形劇だ。人形の動きが変わるということはありえない。けれど上海の動きがときどき抑えめになることがあった。踊りもそうだし、お姫さまから逃げるときの上海のスピードも明らかに練習のときより遅くなっていた。
 私の思いどおりに動いてくれない。なのにクライマックスは近づいてくる。成功するのかどうか私は不安になり、それと同時に苛立ちもする。人形には私の言うとおりにやれ、と命令したはずなのに。上海だけどうしてこんなふうに動くのだろうか。
 しかし今更どうにもできない。私は上海を信じることしかできない。クライマックスで蓬莱人形を抱え、そしてそのまま舞台の端へ無事に消えてくれることを祈ることしかできない。だけど、と同時に思う。私ははたして今の上海を信じていいのだろうか?

 そうしているうちにクライマックスのシーンが来た。人形たちが用意した「門」の下に二人が立っている。二人を捕まえようとする追っ手から逃げるうちに町の門まで来てしまったのだ。たまたま門番はこの二人に対しては協力的で、そのようなエピソードも途中で入れていた。
 門の下で上海と蓬莱が見つめあう。上海の手には花束がある。私がそこで台本の台詞を読みあげる。

「『もうここには僕たちの場所はないよ』と少年は言いました。『僕たちはここにいても生きていくことができない』」

 上海が私の言葉に合わせて微妙にうなずくような動作をする。それも予定にはなかった動きだった。

「『どうするの?』とお姫様が聞きます。遠くから二人を捕まえようとする人たちがやってくる音がしています。もう二人には時間がありません」

 しばしの間、そのあと上海が両腕を大きく振る。私はそこで声を大きくして台詞を言う。

「少年は言いました。『ここを出よう。僕たちは新しい世界で生きるんだ!』」

 私は思わず観客から目を離し、視線を舞台上の二人の人形に向けてしまった。そして私は信じられないものを見る。今までの不安と苛立ちがすべてそこに集約され、私の中のいろいろなものを壊していった。

 上海は突然蓬莱の手を握り、花束を蓬莱に手渡して蓬莱を光ある眼で見つめた。次の瞬間、上海は蓬莱の手を握ったまま、蓬莱を引っぱるようにして私と反対の舞台の端に走りはじめた。「門」をくぐり、私があっと声を出す間もなく、上海は舞台の外に出ていってしまった。それはまるで、本当にお姫さまの手を引いて出て行く少年のような姿だった。

 私はその光景を呆然と見つめていた。自分の考えていたものとはまったく違う結論がそこにはあった。舞台を見ていた子どもたちから拍手がわき起こったが、私にはその拍手の音も耳に入っていなかった。何が起きたのか私にはわからない。
 舞台の端から出ていった上海が振り返り、私を見た。私を観察するような視線。私が何を考えているのか探ろうとする目。私はそれをはっきりと感じ、そこでようやく我に返った。

「こうして二人は生まれた町を出て、新しい世界に飛び出しました。これからどんなことが起こるのか、二人には知る由もありません。楽しいことがあるかもしれない、悲しいことがあるかもしれない。それでも二人は前に進んでいくことを決意したのです。これからも二人は生きていきますが、物語はここで終わります」

 私は締めの台詞を一気に吐いて、私は小さく頭を下げる。割れるような拍手が起こり、しばらく鳴りやまなかった。私はずっと頭を下げたまま、ただ黙ってそれを聞いている。笑顔は浮かばなかった。浮かぶはずもなかった。その原因はひとつしかない。
 上海人形。

 拍手が終わり、私が礼を述べて舞台裏に戻ると、劇に出たすべての人形はそこで動かずに待っていた。私は今度は遠慮なしに舞台の柱に寄りかかって腕を組み、大きなため息をついた。それは安堵のため息と同時に苛立ちだった。私は上海に視線を向ける。上海はずっと私を見ている。私は目を閉じてその視線から逃げた。
 たしかに劇は成功した。しかも上海の機転によって救われたようなものだった。私の当初の予定のままでは、すべてを台無しにする可能性が大きかった。頭では理解できる。けれど納得はできなかった。
 私の当初の予定でよかったのだと強く感じた。それが私にとっての最善で、思いどおりにいくはずだったのだ。それをある意味では上海が邪魔した。結果的には成功に見えたからよかったものの、それはただの偶然に過ぎない。
 もう一度私はため息をつき、額に手をあてた。

#4

 祭りは夕闇から夜の闇に包まれているが、にぎやかな気配は一向におさまる様子はなかった。ずいぶん長い時間やっていたつもりだったが、そうでもなかったらしい。
 子どもたちが帰ったのを見計らって私はまた舞台の表に出た。人間の子どもたちは別の屋台に行っていたが、二人ほどそこに残っている子どもがいた。レミリアとその隣の少女だ。レミリアは立って歩き出そうとしているのだが、金髪の少女がレミリアのスカートをしっかりとつかんで離さない。その目はずっと私が立っている舞台をとらえている。
 私は安堵の息をついてその二人の元へ行った。レミリアが私を見て慌てて腕組みをして胸を張る。

「なによ、子ども騙しの人形師さん」

 私はそれとなくレミリアのツボを突く。

「楽しんでくれたようで私も嬉しいわ」

 レミリアはそう言われて少し顔を赤らめながら顔をそむけたが、横目のまま舞台を見つめている。

「ふん、あんな子どもっぽい劇なんて見ていられなかったわよ」

 私は思わず吹き出しそうになり、必死でそれをこらえた。劇をやっている最中のレミリアの目を思い出すと自然と笑いがこみあげてきた。彼女は始まってから終わるまで一度たりとも舞台から目を離さなかった。目が舞台に吸い込まれていくように。
 それに台本を作った時点では、この話を子ども向けにしたつもりはなかった。大人の鑑賞にもたえられるように、それに自分の身のまわりの人からの目もある。ある意味それは私の意地だ。

「とても面白かった」

 金髪の少女が立ち上がって、レミリアの手を握って私に言った。私は少し驚いて一歩後ろに下がる。少女は私からレミリアに視線を向け、上目遣いでレミリアにねだるように言った。

「ねえ、お姉さま。面白かったでしょう?」

 その少女の言葉を聞いて、私はようやく二人の関係を理解することができた。お姉さま――ということは、この金髪の少女はレミリアの妹ということになる。姉であるレミリアはわずかに目を見開き、それから咳払いをひとつした。

「ええ、子ども向けのわりには意外と良かったわよ」
「お姉さまもそう思ってくれたの。嬉しい」

 少女はそう言って子猫のようにレミリアにしがみつく。そしてそのまま首を私に向けて、暗闇の中に輝く目で私に呼びかけた。

「人形師さん」
「アリス、でいいわよ」
「じゃあ、アリス。私はフラン。フランドール・スカーレットよ」

 私はうなずく。フランドールは顎を引いて私を上目遣いで見る。そういう目つきが得意なのかもしれない。レミリアがフランドールを不安げに見つめている。

「今日が初めての劇じゃないのよね。ほかにももっと楽しい劇があるんでしょう?」

 私は少し考えてからうなずいて答えた。

「台本は家にあるけど、そのための衣装とかセットとか、そういうものはもうないの。だからやろうと思ってもあまり綺麗な劇じゃないわ」
「できないの?」
「できないというわけじゃないけれど、あまり楽しいものじゃないかもしれないわ」
「できるのね?」
「できるけど……でも、どうして?」

 フランドールは口の端を少し持ち上げて笑みを浮かべた。

「私、ほかの劇も見てみたいの」

 フランドールの言葉に私は少しのあいだ言葉を探した。しかしどう答えればいいのか、はっきりとした答えが見つからなかった。しかたなく、「できるのはできるけど、私の気が進まないの」と私は答えた。

「でも私、見たいの」
「だから――」

 私はそのときフランドールの目の中に異様な光が輝きはじめるのを見た。それはさっきまでの目の輝きとは明らかに違う、もっと鋭い煌めき。私は言葉を失ってレミリアに視線を向けた。レミリアは何も言わず、黙って私からもフランドールからも目をそらした。

「ねえ、アリス。私にまた劇をやってちょうだい」

 フランドールの「お願い」は続く。私はどの言葉も選ぶことができなくなった。そこで初めてレミリアが口を開いた。

「アリス、私からもお願いするわ」

 そう言ってレミリアは私を冷たく見据える。私はレミリアがフランドールの「お願い」を止めるものだと思っていて、その言葉には虚を突かれた。わずかな空白をおいて私は言葉を口にする。

「けれど――」

 レミリアは私の言葉をさえぎって叩きつけるように言った。

「そこまで断るなら、運命を操作してでもあなたにやらせるわよ」

 提灯の明かりが私たちのそばを通りすぎて、暗闇に染められた私たちの顔を照らしだした。フランドールの顔は光に染められて明るく、レミリアの顔はフランドールの薄い影に染まる。
 私には首を縦に振る以外の選択肢は無かった。けれどその選択が正しいのかはまったくわからなかった。私はゆっくりと口を開いて言った。

「わかったわ。でも今日は台本がないから、後日あらためてやらせてちょうだい」

 フランドールの目の鋭い光が急激に失われ、また純粋な光が戻ってきた。顔には満面の笑みが浮かんだ。レミリアはフランドールの顔を見て、それからまた私に向き直って言う。

「決まりね。では、今度は紅魔館でやってもらいましょうか。それなりの準備は私たちもするわ。細かいことは手紙かなにかで伝えるわね」

 レミリアの薄い影は顔に染みついてとれない。フランドールがレミリアにまたしがみついた。
 レミリアは私に別れの言葉も言わず、背を向けて私から離れていった。フランドールもレミリアにひっついたまま行ってしまった。私は二人の背中を見つめながらため息をついた。

 厄介ごとに巻き込まれてしまったわ、と私は思った。レミリアに妹がいるとは思わなかったし、そもそもレミリアがこの祭りに来るとは思わなかった。あるいは妹にせがまれてここまで来たのだろうか?
 ためらいがちに言った魔理沙の言葉を思い出す。「悪魔が来るぜ」。まさに魔理沙の言ったとおり、とんでもない悪魔がやってきてしまった。それも二人も。
 祭りはずっと盛り上がっている。私の気持ちはどんどん悪い方にいってしまう。

 人形劇から始まった綻びが、そして悪魔が引き寄せた運命が、何もかも壊してしまう。誰もが傷つく。風景は歪められる。そうした破壊が起こることをレミリアはその目で見ていたのかもしれない。何が起きるのかを知っていたのかもしれない。
 けれど彼女は私に何も語らなかったし、これから先も語ることはないと思う。彼女は私に教えるわけにはいかなかったのだ。
 でも今になってふと思う。それでよかったのではないかと。いつかは誰もが何かを壊さなくてはいけない。その運命は人から教えられるものではなく、自分自身の目で見なくてはならないのだと。

#5

 鮮血の色をした建物が緑の森の向こうに見えてきた。館の目の前には澄んだ湖が広がっている。紅霧異変のとき魔理沙は私のようにして紅魔館まで行ったのだろう。それにしても、と私は思う。この緑の森の中でこの赤い館というのは似つかわしくない。そして今日はその赤が一層強くなっているように思えた。空は鼠色をした雲で覆われているのに、館の赤い屋根が太陽で照らされているように、あるいはそれ自体から光が出ているようにさえ思える。
 もうすぐ雨が降る。そういう気配を私の肌が感じとった。傘を持ってくればよかった、と私は少し後悔した。劇のための人形を何人か連れてきているので、あまり雨に濡らしたくない。でも雨が降ったら雨除けの魔法をかければいいか、とすぐに思い直す。

 もう一度私はぶ厚い雲の下の紅魔館を眺めた。夏なのに妙に低い気温のせいか、私は小さい震えが体に起きるのを感じる。悪寒かもしれない。たぶん私はあまり紅魔館に行きたくはないのだろう。でも今更紅魔館に行かないわけにもいかない。フランドールが私の劇を待っている。
 私はその悪寒を振りきるようにして、紅魔館に向けて急降下をかけた。

 紅髪の門番が私に手をあげて着地を待っていた。私が地面に降りると私に近づく。

「アリスさん、おひさしぶりですねえ」

 いつもの朗らかな笑顔で私の手を握り、私もいつものことだからほどほどに手を握り返す。美鈴は眠そうな眼で言った。

「もう夏は嫌ですよ。暑いしむしむしするし、ゆっくり寝ることもできない」
「寝ちゃだめでしょ」

 私は呆れながら美鈴に返す。美鈴は軽く笑って私の手を離し、門のもとまで歩いてそれを開いた。

「どうぞお通りください。それにしても、ここによく来る方でちゃんと私が門を開くのはアリスさんだけですね。あとはだめですよ。魔理沙は箒で門を突っきるし、霊夢は空を飛んで門を無視するし」
「あの二人がおかしいのよ」
「ですねえ」

 私は門をくぐり、美鈴に振り向きながら声をかけた。

「じゃあ門番がんばってね。大変だとは思うけど」

 美鈴は私に向かって胸を張る。

「任せてくださいよ」

 そして美鈴は門を閉じ、外に向きなおった。その背中に眠気が充満しているのが私にはわかった。あと十分もしないうちにうたた寝をするかしらね、と私は心の中でくすっと笑った。私は紅魔館に顔を向けて、違う世界に入っていく。

 玄関の扉の前では咲夜が綺麗な姿勢で私のことを待っていた。私は軽く手をあげて咲夜に手を振る。咲夜は綺麗な微笑を浮かべ、私に応えた。私が近づくと咲夜は綺麗なお辞儀をして言った。

「アリスさん、お待ちしていました。ようこそ紅魔館へ」
「そんな言葉遣いをしなくてもいいのよ、いつも言ってるけど。そこまであなたと私の親交が浅いとは思ってないわ」
「ここでは私はお嬢さまの従者で、ここのメイド長ですから」

 咲夜は人形のような美しい微笑を崩さない。

「これでもまだくだけている方です。あなたのような礼儀ある人にはこのような態度でないといけない」

 私が魔理沙は、と尋ねると、咲夜は困ったような顔をして言った。

「魔理沙は例外です。あれは礼儀というものをわきまえていませんから」

 ひどい言われようね、と私は苦笑した。咲夜もそうでしょう、というふうに笑った。それから咲夜はこほんとひとつ咳払いをして言った。

「さて、そろそろ行きましょう。妹さまがお待ちかねです」
「そうね」

 咲夜の先導に従って私はあとについていった。咲夜がドアを開けると雲に覆われているせいか、少し暗い紅魔館が見えた。私と咲夜はドアをくぐり、大きなホールを抜けて右に折れ、長い長い廊下を進んでいく。数少ない廊下の窓からは今にも雨がふりそうな黒い雲が見えた。
 それにしても、咲夜は私が今まで一度も通ったことのない通路を進んでいた。私は咲夜の背中に問いかけた。

「ねえ、どこに行くの?」

 まっすぐと伸ばされた背中を向けたまま、咲夜は私に答えた。

「地下室へ」
「図書館の近く、ではないのよね?」
「ええ、その通りです」
「レミリアは?」

 咲夜は顔さえ向けないまま答えた。

「今は昼ですから、お嬢さまはお休み中です」
「ああ、吸血鬼だから。でも、フランドールの方はどうなの?」

 すこしばかり私たちの足音だけが響く時間があり、そのあとに咲夜が答えた。

「妹さまはあまり時間にとらわれない方です」

 声から色が失われていた。私はその答えにどう返せばいいのかわからず、そのまま口の中で言葉にならない声を出した。私と咲夜の会話はそこで途切れてしまった。私たちは黙って咲夜が引き伸ばした途方もなく長い廊下を歩きつづけた。

 その途中、向こうから誰かが非常にゆったりとした足どりで歩いてくるのが見えた。パチュリーだった。すれ違うとき咲夜は立ち止まり、丁寧にパチュリーに一礼した。パチュリーも咲夜の横で立ち止まった。私が声をかける前にパチュリーが私に話しかけてきた。

「なにをそんなに固くなっているのかしら?」

 私はその質問を無視して、パチュリーに問いかける。

「今日は図書館にいないのね」
「ええ、少しやらなければならないことがありそうだから」

 パチュリーはいつものような力のない目つきで言う。けれどその目は私ではなく、私の背後に浮かぶ人形たちに向いているようだった。私はそれ以上パチュリーに問いかけることはしなかった。

「じゃあ、また。私もやらなければならないことがあるから」

 私が咲夜にうなずきかけると咲夜はまた歩みを進めた。私がパチュリーの横を通り過ぎるとき、彼女は私にしか聞こえないような声でつぶやいた。

「気をつけて」

 私は後ろを振り返り、彼女の言葉の真意を尋ねようとした。けれどパチュリーはゆったりとした歩調で私から去っていた。少しのあいだ私はパチュリーの後ろ姿を見ていたが、咲夜の足音が遠くなっていくのに気がついて慌ててあとを追いかけた。
 どうして私の不安を大きくさせるようなことを言うのだろう、と私は思った。もともとパチュリーには偏屈なところがあるのは知っていたが、あんな警告のような言葉は初めてだった。「妹さま」のところに行くのにそこまでの危険があるのだろうか?

「ここから先は階段ですから足元にお気をつけください」

 咲夜の言葉で私は現実に戻る。目の前には長く深い下りの階段があった。階段の先に何があるのかは見えなかった。明かりも最初の十段ほどにしか射し込んでおらず、あとはときどきランプが置いてあるだけだった。
 咲夜が先に階段を下っていく。ヒールの音がやけに大きく響き、棘のように私の胸をつつく。私も咲夜にしたがって長い階段を下りはじめた。

 長い時間をかけて下っていくと、少しずつ階段の先にあるものが見えてきた。それはとても大きな扉のようだった。咲夜が私の視線に気がついて言う。

「あれが妹さまのいる部屋です」

 扉の前に着くと、それが異様に重く固い鋼鉄の扉だとわかった。どこかの本で読んだことがある、と私は思った。そうだ、冥界の扉に似ているからだろう。ケルベロスはそこにいないが。
 扉に圧倒されている私を尻目に、咲夜は重い扉を音もなく開けていく。

 半開きになった扉の向こうにフランドールが見えた。彼女は扉が開いたことにも、私たちが見ていることにも気づいていないようだ。フランドールは赤い服を着た人形で遊んでいた。私はその光景に一瞬、胸の内がえぐられるような感触を覚えた。
 咲夜が先に扉の隙間を抜けて入り、私もあとから部屋に入った。そこでフランドールは私たちに気づいたらしい。人形を放り出して私に走り寄り、そのまま飛び込むようにして私に抱きついて弾む声でいった。

「おねえちゃん」

 この前は「アリス」と呼んでいたはずなのに、いつのまにか呼び方が変わっていた。私はフランドールに抱きつかれるままに咲夜を見る。咲夜は色のない微笑を浮かべたまま言う。

「妹さま、アリス・マーガトロイドさまです」
「わかってるよ、そんなこと」

 フランドールは私を見上げてまま言う。

「来てくれて嬉しい」

 何の穢れもない顔で言ったその言葉に、私は少しひるんだ。けれど適当な言葉を見つけてフランドールに応える。

「私もまた会えて嬉しいわ」
「ほんとう?」

 フランドールは私の体にまわした腕に力を込める。おそらくは嬉しさの表現なのだろう。そしてフランドールは扉の横に立っている咲夜に視線を移して言った。

「じゃあ、咲夜は下がって」

 咲夜はためらいの表情を浮かべて言った。「しかし――」。その言葉はフランドールに遮られた。

「私はおねえちゃんと二人がいいの」

 少しの間があき、それから咲夜は丁寧に頭を下げながら言った。

「かしこまりました。それでは二人でごゆっくりお過ごしください」

 そのまま咲夜は鉄の扉を閉めて行ってしまった。この部屋に私とフランドールの二人が残る。私が咲夜の出ていった扉を見つめていると、フランドールが私の服を引っ張り、「これで二人きりになったね」と言った。私は曖昧にうなずいてまわりを見回した。
 そこは真四角の無機質な部屋だった。およそ住むひとの感情は染みついていない。ただそれが空間として存在しているだけのようだった。部屋は真四角で、壁はただ白く、床は正方形のこげ茶タイルで敷きつめられているだけ。部屋にあるものと言ったら、さっきフランドールが放り投げた赤い人形だけだった。それなのに部屋は紅魔館のホールほどの大きさがあった。部屋の光景は私に檻を想起させた。

 私は薄気味悪くなり、フランドールを引き離しながら彼女に言った。

「じゃあ、早速人形劇をやりましょうか」

 フランドールは目を輝かせたまま「うん」とうなずいた。そして私のすぐ前で床に座り込んで私の動作を黙って見つめた。私はその視線に迫られるようにして人形劇の準備を始めた。人形たちも配置につきはじめる。
 ただ早く人形劇を終わらせてしまおう、と私は思った。この気味が悪い部屋、それからこのフランドールもよくわからない。どうしてこんな部屋にいるのだろう。どうして妹さまと呼ばれていながらレミリアと同じところにいなかったのだろう。このフランドールには何か問題があるのではないか、と私は推測した。
 けれどフランドールはおとなしく私の劇の準備が終わるまで待っていた。そして私はそのフランドールの様子を意外だと思った。もしかしたらそれは今だけなのかもしれないが、どちらにしても私はとにかく早く劇を終わらせた方がいい。

 劇の準備といっても大したことはない。衣装もセットももう無くなっているのだから、それはもう準備する必要がない、というよりできない。人形を配置につかせ、私は台本を取り出してページを開くだけだった。主人公の上海人形が私の隣に立ち、出番を待っていた。
 そして観客が一人しかいない劇が始まる。

#6

「あるところに美しくてやさしい娘がいました。町でもその娘はとても気立てが良くて可愛らしい女の子だとして噂になっていました」

 その出だしに合わせて上海が私から離れてフランドールの目の前に行き、おしとやかな動作を見せる。フランの前が舞台の中央だと思って私も続けていく。フランドールの目は上海の動きをとらえて離さなかった。

「けれども彼女の母親はとても意地の悪い人でした。娘がまわりからちやほやされているのも気に入らなかったのかもしれません。ことあるごとに娘にいじわるをしていました」

 私がそう言うと今度は蓬莱人形が私の横を通りすぎて、上海のそばに行った。実はこの母親は継母だという設定があるのだが、劇でそれは一切言わない。シンデレラをイメージされたくないからだ。上海は蓬莱に気がつくと萎縮するような演技を見せる。私が継母の台詞を言う。

「母親は言いました。『今日は森の水を汲んできて、そのあとそれで家中を掃除してもらいましょう』。娘は嫌と言うことができません。この母親はこの町の長です。彼女に逆らえば、娘のいる場所はなくなってしまいます」

 上海が小さくうなずいて舞台の端に行き、森の水を汲むような動作をする。けれどその動作は前にこの劇をやったときとは明らかに違った。前はもっと水を重たそうに汲みあげていたのに、今はそうではなく力任せにやっているような動きだった。そこには苛立ちさえあるように見える。
 苛立ちたいのはこっちよ、と私はそれを見て思った。この前の劇のときと同じだ。上海は私の思いどおりに動いてくれない。どうしてそんな動きをするのだろう。台本を読む私の声が尖っていくのが自分でもわかった。けれど、どうしてもそれを抑えることができない。
 苛立っているは私だけでもないようだった。人形の動きからフランドールに視線を向けると、彼女の目つきも少し変わっているように見えた。ときどき爪を噛むような動きもする。フランドールには何かを静かに耐えているような雰囲気があった。この劇の序盤はフラストレーションが溜まってしまうからそうなるのだろう。そう私は思った。そうとしか思わなかった。私はなにより上海の動きが気になってしかたなかったのだ。

 それからも娘は母親にいじめられつづける。彼女が森から戻ってきて家中の掃除をするのだが、部屋の隅のほこりが拭き取られていないと文句を言われ、それから用意したご飯が不味いと言われ、彼女は散々にけなされる。けれど彼女はそのときは黙って耐えるしかない。
 その日の夜、彼女は布団の中に入って孤独に枕を濡らす。あまりにもつらいこの状況は、いくら気がよい彼女でも耐えがたいものだった。ひとりで泣いているところに突然妖精が現れる。

「彼女は言いました。『どうしてそんなに泣いているのですか?』。娘は言いました。『私の母がとても意地悪なのです』と。哀れに思った妖精は言いました。『明日森の中に行きなさい。その中の木のひとつに金のりんごをつけているものがあるでしょう。その金のりんごを持っていればあなたは幸せになれるのです』」

 妖精役のオルレアン人形はその台詞に合わせて舞台の中央から端へと移動する。上海はじっとそれを見つめている。フランドールは爪を噛みながらその様子を見ていた。かりかりと噛む音が無機質な部屋に小さく響きはじめた。

「そして次の日、彼女が森に行くと妖精が言ったとおり、本当にそこに金のりんごがあったのです。彼女は喜んでそれを家に持ち帰りました。けれど母親がそのりんごを見つけて娘に尋ねました。『お前、そのりんごはいったいなんだい?』。娘はその問いに答えることができません」

 がりっ。フランドールが爪を噛む音が今度ははっきりと私の耳にも聞こえた。フランドールの目つきはここに来たときの表情からは信じられないくらいにけわしくなっている。私はそれに少し驚いて、けれど劇を中断することもなく続けた。
 りんごを指差す蓬莱人形に上海は冷たい目線を送る――冷たい目線?

「娘は黙って母親を無視しました。すると母親は怒りだし、娘から無理やりりんごを奪ったのです。そして冷たく娘に言い放ちました。『これは私のものだ。愛していないお前には渡しやしないよ!』」

 次の瞬間、信じられないことが二つも同時に起こった。そのどちらもが私の知るかぎり、どこの劇のどの台本にも無いようなことだった。上海が蓬莱人形に掴みかかり、私にフランドールが掴みかかった。二人とも同時に。

 私は白い壁に背中から叩きつけられ、後頭部を壁に打ちつけた。鈍く重い痛みが私の頭から広がり、身体をひととき麻痺させる。視界が真っ黒に染まり、それからじわじわと光を取り戻していった。
 目の前にはフランドールがいて両腕で私の肩をつかみ、壁に押しつけている。私の身体にはまだ力が入らない。抵抗することができない私は声にならない声を出し、フランドールの顔を見ることしかできなかった。彼女の肩の向こう側では、蓬莱に掴みかかった上海や他の人形が呆然としたように私たちを見ている。
 フランドールは私の肩をつかんだまま、その顔を私に思いきり近づけて言った。

「あなたは私のお姉さまを馬鹿にしているの?」

 私の内臓を震わせるような低い声だった。私の視界にはフランドールの顔以外映らない。彼女の紅の瞳が底の深い湖のようにして私には見えた。そこに鋭い狂気の光が満ち溢れて、大きなうねりがある。破壊の意志さえ感じられるほど、深い紅の色。
 私はうまく呼吸できず、思考回路がまともに機能しないままフランドールに言う。

「お姉さま? 私はあなたのお姉さんのことを一言も口にしていない」

 私の声は曲がりくねった大木のように部屋に響いた。ぎりっとフランドールが歯軋りする音が耳に入る。私はこの状況とここに至るまでの経緯を構成できない。すべての出来事がばらばらに分解されて床に打ち捨てられているようで、私はどこから手をつければいいのかわからない。
 私は肘を曲げ、フランドールの細い腕に手をかけた。フランドールはそれに気づき、その細い腕で私の身体を後方へと投げ飛ばした。気づけば私はまた身体を壁に叩きつけられ、床に崩れ落ちてうつぶせになっていた。
 痛みはない。けれど体中の感覚がどこか遠くにあるようで力がうまく入らない。思考回路のあちこちが焼き切れているように思考がうまくつながらない。私の荒い呼吸音とフランドールの小さな足音が乾いて響く。
 私は顔を上げてフランドールを見た。フランドールは笑顔を浮かべながら私の方にゆっくりと歩み寄ってきた。

「ふうん、あなたなかなか頑丈ね。けっこう本気でやったけど、壊れないんだ」

 フランドールはそう言ってふふっと小さく笑う。けれど彼女から発せられる雰囲気と目だけは決して笑っていない。小さく獰猛な獣が獲物に近づくときのように。
 私は直感した――殺される。そう思った瞬間鳥肌がぞわりと立ち、私の身体に力が一気に流れこんできて、私は立ち上がることができた。彼女が私を襲うようなら、私もそれに応戦するしかない。私はフランドールと私の間で立ちつくしている人形を呼び寄せた。彼女たちの戦闘機能を起動させ、フランドールと対峙する。
 フランドールは少しだけ驚いたような表情を見せた。

「その人形、戦うこともできるの」

 それから彼女の表情は一気に硬くなり、こんどこそはっきりとその狂気を表に出した。

「でも、もういいや。いくら面白くても、もう壊しちゃいましょ」

 私は宙に飛び上がり、防戦体勢をとった。

 フランドールは何の武器も持たなかった。たまたまそのときは無いだけだったのかもしれない。彼女が私にすることは突進してその身体で私を傷つけることだった。そして近接格闘に対しては、間合いさえ取れれば私が圧倒的に有利になるはずだった。
 けれど私がそのときの戦いで有利になることは一度もなかった。私はふらつく身体で彼女の攻撃を避けるか、あるいは人形の盾で防御するか。その二択しかなかった。
 フランドールは呪詛のように呟きつづける。

「壊す、壊す、壊す、壊れろ、壊れろ――」

 そして拳を私の身体に叩きつける。身体をひねって私は衝撃を軽減したが、それでも地面に墜落するほどの威力だった。吸血鬼の本気がこれほどまでとは思わなかった。パワーもスピードも、どこにも隙がない。間合いをとる時間すらなく私は一方的にフランドールの攻撃を受けつづける。鉄の扉まで逃げることさえ許されない。
 そんな必死の状況なのに私は自分の中にある微妙な違和感を覚えていた。その違和感のせいでフランドールに反撃することができない。ただ傷つく身体を無理やり動かし、さらなる攻撃から身を逃がすことしかできない。

 ここから逃げることもできないなら、私はただこうしてフランドールの攻撃を避け、助けが来るのを待つしかないのだろうか。ここはあの長い廊下を通り、長い階段を降りた先にある地下室だから、助けが来る確率なんてどこまでも低い。隙を、と私は祈る。隙さえあればあの扉から逃げることができるのに。
 けれど隙ができるのは私の方だった。人形に魔力を送ることさえままならないうちに、人形の魔力が尽きていく。最初に落ちたのは倫敦人形、次にオルレアン人形。そして蓬莱人形も魔力が尽きて地面に力なく落ちていった。残ったのは上海人形だけになった。
 蓬莱人形が落ちていくのを見てフランドールが言う。

「あなたが壊れるのも時間の問題ね」

 私は首を振ることでしかその言葉を否定できなかった。フランドールはため息をつきながら私に当て身をする。避ける気力すらなく、私は衝撃を真正面から受けて床に叩きつけられる。悲鳴をあげることもできなかった。
 私は仰向けに床に横たわり、フランドールが私のもとに急降下しているのを視界の隅において一種の絶望に身を浸していた。
 どうして人形劇をしに来ただけなのに、私は戦わなくてはならないのだろう。そして今、逃げたくても逃げられない状況になり、私は死の淵から突き落とされようとしている。私はフランドールに一撃たりとも攻撃を当てることができない。

 フランドールは私のそばに降り立ち、黙って私を見下ろしている。その視線に私の中の違和感はぐんと膨らんだ。殺されるということがわかっているのに私は命乞いもすることができない。
 相手が強すぎて反撃できない――ひょっとしたらそれはただの言い訳に過ぎないのだろうか。私は荒い呼吸をしながら思った。違う、私は本当はフランドールを傷つけたくないのだ。たぶん、それはフランドールと私がどこかで似ているから。

 そこまで考えたとき、フランドールが私の首を左手で掴み、そのまま私の身体を持ち上げた。圧倒的な暴力に私の喉が押しつぶされていくのがわかる。無呼吸が優しく私の意識を奪おうとしている。視界が霧に包まれて、上海に指示を出すことできない。
 フランドールの乾いた声が聞こえた。

「心臓を突き刺そうかしら?」

 残忍な表情が霧の向こうで浮かび上がり、それからガラスのような声で彼女は宣告する。

「私のお姉さまを馬鹿にするのは許さない、絶対に」

 私は目を閉じて霧の視界を自ら遮断した。そのとき、私はある思いを強く感じた。

 ――私は殺されなくてはいけないのだ。

 けれど突然、床の冷たい感覚が私の頬に伝わってきて私は目を開けた。私はうつぶせで床に転がっていて、フランドールは私の首を離して自分の脇腹を見ている。そこに小さな剣が突き刺さっていて、その剣を持っているのは上海人形だった。
 フランドールは痛みに顔をゆがめ、何も言わず上海人形を拳で叩いた。上海人形はそのまま床に叩きつけられ、動かなくなった。

「上海……」

 声にならない声で私は上海の名を呼んだ。上海は何の反応も示さない。フランドールは床に落ちた上海を見つめたまま冷たく言った。

「私の邪魔をしないでよ」

 それからフランドールは無表情に私に目を向けた。
 これ以上ない絶望的な状況だった。私は死ぬのだとはっきりとわかった。今度こそ私は殺される。どうしようもないこの狭い世界の中で、私はこの小さな子どもに殺される。そこに疑問の余地はない。あるのはその真理だけだ。

 私がそう覚悟した瞬間、地獄の門が開き、そこから眩い光が入りこんできた。私の視界はその光に埋めつくされ、そこで私は気を失った。

#7

 夢を見た。

 とても温かくてやわらかい感触が身体を包んでいる。真っ暗で視界には何も映らなかったが、そこが水の中だということはわかった。本能的にそこは懐かしい場所だった。とても居心地の良い場所。しばらくの間、私はその水の中に体を漂わせて何も考えずにいた。うまく考えることができなかった。

 しばらくすると、私は母の腕に抱かれていた。やわらかい水はやわらかい腕に変わり、私の体は母の体に包まれていた。私は母の膝に座っていて、母の胸に自分の頭を預けていた。真っ暗だった世界は薄明るい小さな部屋に変わっていた。
 私が真上に視線を向けると、そこで母が微笑んで私を見ているのだ。「ママ」と私が呼ぶと、母はきつく私を抱きしめた。私もその腕をぎゅっと握った。そこも居心地の良い場所だったが、いつまでもそこにいようとは思えなくなった。

 ふと私の前に人形が転がっているのに気がついた。可愛らしい女の子の姿を模した小さな人形だ。それに気づいたとき、私の下腹部が鈍く疼いた。私はあれを欲しいと思った、どうしても。
 私は母の腕から手を離し、その人形に向けて腕を伸ばした。けれど拳ひとつ分、人形には届かなかった。ぐっと体を伸ばしてもわずか数ミリのところで届かない。母はそんな私をもっと強く、少し痛いほど抱きしめた。人形を私に取らせたくないかのように。
 私は体を必死に捻って母の腕から抜けようとしたが、母の力はとても強く、私の力では抜けることができなかった。私は悲しくなった。どうしてママは私に人形を取らせないのだろうと思った。
「ママ」と私は目に涙がにじむのを感じながら言った。

「あれが欲しいの。どうしてもあれが欲しいの」

 すると、私を抱きしめる母の力が少し弱くなったのを感じた。母は言う。

「そんなにあのお人形さんが欲しいの?」

 私は黙ってうなずいた。目から涙がこぼれそうになる。少しの間があり、それから母は私を抱きしめるのをやめ、そのかわり私を抱えて人形のそばに置いた。私は振り向いて母を見た。母は少し悲しそうな顔で私に尋ねた。

「そのお人形さんを大事にできる?」

 私は再びうなずいて母に背を向け、その人形を手に取った。不思議な喜びが体に満ち、私は人形を両手で高くかかげた。そして私は人形を抱きしめてそれに名前をつけようと思った。どんな名前がいいだろう、こんな可愛らしい人形なのだから可愛い名前がいい。
 しばらく人形を見つめながら私は考えた。微笑以外の表情を浮かべない人形は私を黙って見ている。もちろん私に話しかけることもない。そのうちに私は自分の納得のいく人形の名前を考えついて、その人形に名前をつけた。

 それから私は母がいた場所に振り向いた。けれどすでに母は母の姿をしていなかった。そこにいたのはとても大きなサメだった。私が悲鳴をあげる間もなく、サメは人形ごと私を一口で呑み込んだ。
 そしてまた私は温かく真っ暗な水の中でひとりになった。そこには恐怖もなかったし、息苦しさもなかった。最初のときのようにただ心地良いはずの場所だった。けれど私は前と同じようには感じなかった。私は考えることができた。私がずっとそこにいることはできないのだ。

 私は大声で叫んだ。

「ここから出して――!」

 叫んだ瞬間、夢から覚めた。真っ白い平板なものが目に入り、それを天井だと認識するまでには時間がかかった。天井が天井だとわかり、けれどそれからまた少しのあいだ私は現実を把握しそこねた。世界には天井しか存在しないような気がした。
 しばらくして私の体の神経が目を覚まし、私は体を起こすことができた。同時に私の体を鈍い痛みが走りぬけ、それとともに記憶がフラッシュバックした。狂気の紅、死の淵、地獄の門、眩い光。
 小さなうめきが漏れ、私は目を閉じて顔に手をあてた。そしてしばらく体中に走る痛みに静かに耐えた。痛みに耐えるだけで体力を消耗し、息が自然に荒くなるのがわかる。どうして、と私は唐突に思い、そして何が「どうして」なのだろうと思った。

「よう」

 不意に私の横から声が飛んできた。目を開けて声のした方に顔を向けると、魔理沙が椅子に座って私の本を読んでいた。そこで初めて私は世界を把握した。私がいるのは自分の家のベッドルームで、私は今ベッドで横になっていて、魔理沙がベッドの隣に置いてあるテーブルの隣で椅子に座っている。部屋が明るいからおそらく今は昼あたりなのだろう。

「どうしてあなたが――」

 私の質問は体の痛みによって途切れ、痛みから逃げるように思わず腕で自分の体を抱いた。魔理沙はそんな私の様子を見て軽く笑い、そして言った。

「まあ無理するなよ。全治一週間ちょいの怪我だぜ」

 私は自分の体を見た。両腕以外は包帯だらけだった。

 魔理沙は本を閉じて立ち上がり、私に言った。

「お粥を作ってやろうか。お前も食事はいまだにするんだろ?」

 ふだんなら、いや、たとえ病気や怪我でも私はその提案をきっぱりと断ったはずだ。身体が痛もうが頭が重かろうが、私は無理してでも料理を作るだろうし、どうしてもそれが無理なら食べないという選択も、魔法使いの私にはある。
 けれどそのとき、魔理沙の提案を私はすぐに断ることができず、少し考えてから小さく笑みを浮かべて魔理沙に言った。

「断るのも悪いし、お願いしてもいいかしら?」

 その声は自分でも驚くほどしんなりとしていた。魔理沙がにやりと笑って、「よし来た」と腕まくりをしてキッチンに向かっていった。私はその背中を見送りながら自分の瞳が少し潤んでいるのに気がついた。

 ベッドのそばのテーブルの上にはさっきまで魔理沙が読んでいた本と上海人形が無造作に置かれていた。他の人形はそこには見当たらなかった。きっとリビングに置いてあるのだろうと私は思った。私は本と上海を注意して眺めた。
 魔理沙が読んでいたのはグリモワールだった。それにそれは私が魔界から出るときに持ち出したものだ。私の胸で痛覚でない痛みが発光し、私は目を伏せて上海の方に視線を移した。
 一見しただけではどこも壊れていないように思えて、私は少し魔力を送り、上海を動かそうとした。けれど上海はわずかにでも動く気配がなかった。どこかの幹部がやられてしまって機能停止しているようだった。そうなった場合は私が直さなくてはいけない。
 けれど私は上海にまで手を伸ばし、それから様々な道具を取り出して、神経を使いながら修復作業をする気にはまったくならなかった。そうするにはまだ身体が傷つきすぎているとも思ったし、たとえ健康だったとしても修復する気にはならなかっただろう。
 私はまたベッドで横になり、掛け布団を頭からかぶって短い眠りに落ちた。

 しばらくして、魔理沙が木製の器とスプーンを持ってきて私の隣に座り、私に呼びかけた。短くも深い眠りから引き上げられた私は、体を起こして魔理沙の姿を見た。意識のスイッチが入るまでのコンマ一秒、私は魔理沙の中に強い幻影を見た。けれどすぐにその幻影は消えて、私は現実に戻った。
 少し乱れた髪を手櫛で流しながら私は言った。

「ありがとう、魔理沙」

 魔理沙はふふっ、と珍しい笑いかたで私の手櫛の動作を眺めた。それから魔理沙は身を乗り出して私に顔を近づけて尋ねた。

「怪我がつらいんだったら私が食べさせてやろうか?」

 少し悪戯っぽい、軽い表情の魔理沙。おそらく本人は冗談のつもりで言ったのだろう。でも私はその魔理沙の顔をしばらくのあいだ真正面から見つめた。そして手を布団の上に静かに置いて、目を伏せがちに魔理沙に言った。

「そうね……お願いしてもいい?」
「へっ」

 間の抜けた声を出して、魔理沙は口を中途半端に開いたまま私を見た。しばらく空白の時間があって、それから魔理沙は戸惑いがちに言った。

「あのさ、え、ほんとうなのか?」

 私は小さく笑った。

「嘘よ」

 そして私は呆然としている魔理沙の手から器とスプーンを取った。中には煌めくような白色のお粥が入っていた。それをスプーンで掬いながら私は魔理沙に言った。

「冗談に決まってるじゃない」

 私が食べはじめてからも、魔理沙はそのままの格好でしばらく私をじっと見つめていた。それほど長い時間ではなかったかもしれない。やがて魔理沙は頭の後ろで手を組み、椅子の背にもたれてつぶやくように言った。

「『重症』だな、こりゃ」

 私はその言葉を聞かなかったことにした。

#8

「今さらだけど、どうして魔理沙がここにいるのよ?」

 お粥を半分くらい食べ終わったところで私は魔理沙に尋ねた。もちろんある程度の予想はした上で。私が倒れたところを誰かが拾い上げて、そのまま私の家に運び、家が近い魔理沙に看護を頼んだ、というところだろうと思っていた。その誰かはわからなかったが。

「お前がどこまで覚えているかはわからないけど、倒れているお前を拾ったのは私だよ」

 意外な答えに私は目を見開いた。

「どうしてあなたが来たの?」
「それは偶然だ。パチュリーの図書館に行ったらすごい地響きがして、事情を聞いたらお前がフランのところに行ったっていうじゃないか。それで箒すっ飛ばして行ったんだぜ」

 私はパチュリーの言葉を思い出した。「やらなければならないこと」というのは図書館に忍び込んだ魔理沙の撃退のことだったのだろう。魔理沙が腕組みをして続ける。

「フランがお前にとどめを刺そうとするところで、ぎりぎり私のマスタースパークが間に合ったんだ。フランがひるんでいる隙にお前を抱えて逃げた」

 淡々と魔理沙は続けた。

「紅魔館に永琳を呼んで診てもらったが、幸いひどい怪我ではなかったらしい。だということで、お前を家まで運んで、私があとの面倒をみることにしたわけだ。昨日今日と私もここにずっといるわけだな」

「なんであなたの家じゃないのよ」と私が言うと、魔理沙は笑って返した。

「お前の家の本が読み放題だろ。お前のガードは固いからこういう機会は貴重なんだ」
「なによ、それ」

 身体に軽い痛みを覚えながら私も笑った。それから私は魔理沙に向き直って言った。

「ありがとう、魔理沙」

 魔理沙は気恥しそうに私から目をそらして「おう」とだけ言った。けれど、すぐにその視線を私に戻し、少し緊張したような表情で私に尋ねた。

「で、どうしてお前はフランの部屋であんなことになっていたんだ?」

 お粥を掬うスプーンの手が自然と止まった。私は魔理沙から自分の手元の器に目を落とす。私はとりあえず言葉を口にした。

「戦ったからよ」
「それは私にもわかる」

 魔理沙はあっさりと言い返した。声のトーンを少し落として魔理沙はさらに訊いた。

「どうして戦うようなことになったんだ?」

 しばらくのあいだ私は手元を見つめたまま黙っていた。それでも魔理沙の視線はあいかわらず私を見据えたまま動かなかった。私の心がふらりふらりと右へ左へ惑星のように動いているのが自分でもよくわかった。

「どうしても話さなくてはいけない?」

 私は罪を問われた子どものような声で言った。魔理沙は腕組みをしたままゆっくりとうなずきながら「そりゃあな」と低く響く声で言う。

「お前に非がないかどうか、わからないだろう?」

 その声に押されるようにして、私は今までの出来事を思い返した。その始まりはあの祭りの日、そして終わりは私が気を失うところ。そして魔理沙に、ぽつりぽつりと一つひとつの出来事を語っていった。魔理沙はその話をただ黙って聞いていた。けれど私はあるところだけを意図的に語らなかった。地下室でやった劇の中身を。

 私の話が終わると、魔理沙はふうっと息をついて目を閉じ、しばらく思案にふけっていた。私は上海をじっと見つめて、魔理沙が口を開くのを待っていた。
 どれくらいの時間がたったかはわからない。魔理沙が目を開いて私に尋ねた。

「地下室でやった劇ってどんな話だったんだ?」

 私の喉が締めつけられる感覚を思い出した。錯覚にしてはあまりにもはっきりとしていた。私は自分の喉に手をあててその感覚を拭いさろうとした。けれどいくらさすってもその感覚はじわりと残っている。
 私は雑音のような声で魔理沙の質問に答えようとした。

「娘が意地悪な母親のところから出て――」「ああ」

 魔理沙は私の話を遮るようにため息をつき、それから低い声で「わかったよ」と言った。私はゆっくりと顔を上げて魔理沙を見た。魔理沙は椅子の背にもたれて再び頭の後ろで手を組み、つぶやいた。

「どっちが悪いとは言えないな……」

 それから長いあいだ、沈黙が私と魔理沙の間に流れた。

 突然魔理沙が、わざと思い出したような口調で私に言った。

「そういや、お前が寝ている間だいぶうなされていたな」
「うなされてた?」
「ああ、ときどき『ママ』って呼んでたぜ」

 胸の芯が震えた。忘れようとしていた夢がかたちをなして私の前に戻ってきた。危うくスプーンをとり落とすところだった。魔理沙は椅子の背にもたれたまま私に尋ねた。

「ママって神綺のことだよな? お前が魔界出身ならそういうことになる」

 私は小さくうなずいて、「昔はそう呼んでいたの」と答えた。魔理沙が少し怪訝そうな顔をしてさらに尋ねてきた。

「昔は……って、じゃあ今は違うのか?」
「……わからない」

 私は少し時間をあけてそう答えた。

「魔界を出てからまだ一度も戻って会ってないから。どう呼べばいいのかわからないの。あえていうなら、お母さん、かしら」

 魔理沙は「ふうん」と言って、それから左ポケットに手を突っ込んだ。「あれ、どこにいったかな」と、しばらくポケットの中をまさぐっていたが、そのうちに「あったあった」と、くしゃくしゃになった紙を取り出した。そしてそれを私に投げ渡しながら言った。

「あんまりうなされるもんだから、お前の家中引っかき回してこれを探したぜ。でもごみ箱の中じゃなくて、その後ろに隠れてるとは思わなかったなあ」

 私がスプーンを置いてその紙を両手に持つと、魔理沙はあごで「広げて読めよ」といった動作をした。私はその紙を破れないようにゆっくりと丁寧にのばしていった。それはこのまえ私が受け取った母からの手紙だった。私は何も言わず、黙ってその手紙をもう一度最初からゆっくりと読み直した。魔理沙も黙って私を見ているだけだ。
 少し丸みがかって小さい、綺麗で丁寧な字だった。いつも長い時間をかけて私に書いているのだろうか、と私は思った。私に何を書こうか、どう書こうか、綺麗に書こう、そんなふうに考えているのだろうか。皺の部分の字も裏まで染み込んだインクによってはっきりと判別できた。私はいたたまれない気持ちになった。

 そして、「ママがアリスちゃんのことを抱きしめてあげちゃうわ。」――急に胸が締めつけられるように切なくなる。どういう気持ちで母はこの文を書いたのだろう。そしてどういう気持ちで今、私はこの切なさを抱えているのだろう。
 私は切なさのあまり手紙を握りしめた。ぎゅっと新しい皺ができる。喉から声が出かかって、私は必死でそれを抑えた。そのかわりに目が少し潤むのがわかった。
 魔理沙は黙って立ち上がり、少ししかお粥の残っていない器とスプーンを私の膝からとってそれをキッチンに運んだ。私はそのあいだ、体中を駆ける切なさを落ち着けようとして、ある程度その試みはうまくいった。

 魔理沙がキッチンから戻ってきて椅子に静かに腰掛けた。私が少し落ち着いてきたのを見て、ゆっくりと口を開いた。

「今まで一度も訊いたことなかったが、アリスはどうして幻想郷に来たんだ?」

 私は手紙を握ったまま魔理沙の真摯な瞳を見た。魔理沙は私から目を離さない。

「訊こうと思ったことも今までに何度かあった。でもその度にどこかお前の雰囲気がそうさせなかった。私にもよくわからないけどな、今しか訊く機会はないんじゃないかって思った」

 その瞳は私を射抜こうとしているのではなく、ただ真正面からぶつかってくるだけだった。私はテーブルの上に置かれた上海を見た。あいかわらず目を開いたまま動くことはなかった。そこに視線を置いたまま、私は静かに言った。

「お母さんがね、嫌いだったの」

 魔理沙は表情を変えずに黙って私を見ていた。彼女は最初からこの答えを知っていて、確認するために質問してきたのだと私は気づいた。そこにどんな意図があるかはわからないけれど、私は話してしまおうと思った。魔理沙に甘えるように、あるいは身を寄せるように。

「最初から嫌いだったわけじゃないわ。私が意識というものを持ちはじめたとき、それからたぶんそれよりも前から、私はお母さんのことが好きでたまらなかった。どんなときも私はお母さんから離れようとしなかった。ご飯を作るときも、夢子と何かを話しているときも、本を読んでいるときも。お母さんから離れることが、なんとなくだけど怖かったの」

 ふっとフランドールがレミリアにしがみついている姿が頭の中に甦った。私はそれを振り払うようにして小さく息をつき、話を続けた。

「それほどお母さんに甘えていたのに、あるときから突然お母さんが嫌いになってしまった。嫌いというよりは……そう、生理的に受けつけなくなったような感じかもしれない。どうしてだかはわからないけれど、お母さんのそばにいると私の気が荒立ってきて乱暴な言葉を吐いたりしたわ。私はできるだけお母さんから距離をとろうと思ったし、そうしてきた。そうしないと私は自分でいられないような気がして」

 そして私はひとつのピリオドをつける。

「だから私は魔界を飛び出してきた。お母さんとできるだけ離れるために、この幻想郷を選んだの」

 私がそこでまた息をつくと、魔理沙は私から上海人形に視線を移した。私と魔理沙の視線が上海人形で交わる。魔理沙は上海人形を見つめたまま言った。

「上海人形はお前が作ったものなのか?」

 どうしてそう思うの、と私が魔理沙に尋ねると、魔理沙が私に視線を戻して答えた。

「上海人形だけ他の人形と微妙に造りが違うからな。お前が作ったものじゃないんだと思っているんだが」
「そう、上海人形だけはね、あれはお母さんから貰ったものなの」

 そうか、と魔理沙はため息をついて言った。

「お前が神綺を嫌いはじめたのは、その人形を貰ったあたりからじゃないか?」

 魔理沙にそう言われて私ははっとした。そうだ、思い返してみると魔理沙の言うとおりだ。私に上海との記憶が甦ってきた。私は魔理沙に尋ねた。

「どうしてわかったの?」

 魔理沙は苦笑いして頭をぽりぽりとかく。

「ん、まあ、勘だ。お前と私の付き合いだ。それなりにはわかってしまうもんさ」

 私はそんな魔理沙を見ながら言った。

「上海は私の初めての人形だった。上海をもらってからは、私はずっと上海と遊んでいたわ。それこそお母さんから乗り換えてしまったように、朝から晩までずっと。ときどき思い出したようにお母さんに振り向くと、たまらなくお母さんが憎く思えたの」

 私はそれから家を見回して続ける。

「一人暮らしはそんなお母さんから逃げるためだけのシェルターのようなものよ、私にとっては。逃亡とそれから反抗。だから手紙が来ても返事なんてしたこともないし、お母さんが万が一来てもドアを開けるつもりなんてなかった。
 でも今になって、私は夢にうなされて『ママ』なんて呼ぶのよ。お母さんが嫌いで逃げてきたはずなのに。笑えるわ、本当に――」

 そして本当に乾いた笑いを私は漏らした。苦しい強がりだと自分でもわかっている。でもそうせずにはいられなかった。笑いつづける私から魔理沙は黙って目をそらし、窓の外に視線を向けた。その方向には魔理沙の家があった。外では夏の雨が降っていた。しとしとと、いつまでもやまないような湿っぽい雨だった。
 私はふと上海に目を留めた。その動かない上海の冷たい目によって私の笑いは止まり、再び沈黙が私と魔理沙を包んだ。

「私は母親じゃなくて、親父が憎かったんだ」

 長い沈黙を破ったのは魔理沙だった。窓の外を見たまま私には笑みを見せない。けれどその横顔にはどこか温かい雰囲気が滲み出ていた。

「あるとき、魔法の研究で親父と真っ向からにらみ合った。私の新しい魔法の研究を親父は認めてくれなかった。親父はある意味じゃ保守派というか、大胆な魔法の開発はしない人だったんだ。でもアリスもわかってるだろ。私はパワーのある魔法が欲しいんだよ、何をやるにしてもな。
 私も親父もどっちもまったく譲ろうとしなかった。お互いただ言いたいことを言っているだけだ。歩み寄ろうなんて気は微塵もなかったよ。まあ、悪く言えばどっちも阿呆みたいに頭が固かった。何日経ってもその態度は変わらなかった。むしろ、もっと相手への憎しみが大きくなってた」

 魔理沙は椅子の端に片足を載せてその膝を抱いた。長い話をするときの魔理沙の癖だ。

「で、ある日、やっぱり私と親父が激しく口論していて、母さんがその様子を見てオロオロしていた。そのあたりの数日はずっとそんな感じだった。でもその日は違った。私が親父の言葉に逆上して、激しく親父を罵りながら、ありったけの力で親父を突き飛ばしたんだよ。突き飛ばしたというか、張り倒したというか、とにかくそんなに軽い話じゃない。親父もさすがに私の様子にひるんだみたいだった。
 倒れた親父に私は追い討ちをかけようとした。足で踏んづけようとかそういうふうに思ってた。私には凶暴な魔物が住み着いているようだった。でもそのとき、母さんが私の前に飛び出して私を止めた。当然だよ、だって自分の親父に手を上げて暴力を振るってるわけだからな」

 魔理沙は窓の外を見つめたまま、私にぼんやりと尋ねた。

「そこで母さんはどうしたと思う?」

 私は何も答えず、ただ黙って魔理沙が再び話しだすのを待った。魔理沙も私の答えを待っているわけではなかった。私を視線を合わせないまま、魔理沙はずっと私に横顔を見せつづける。けれどそこには微笑が浮かんでいるように見えた。

「つかまれて暴れる私を、母さんは何も言わないで抱きしめたんだ。それだけだよ。それ以外には何もしなかったんだ」

 そこで魔理沙は小さくため息をついた。少し魔理沙の身体が小さくなったように見えた。私はその魔理沙の姿に微妙な共振を感じた。母に抱きしめられたときの魔理沙は、きっと今の私のような目をしていたのだろうと思った。

「私は叩かれるんだと思ってた。そうして当たり前のことをしたんだから、その報いはあるんだと思ってた。でも母さんはそうしなかった。どんなに苦しい思いを抱えていたのかもわからない。それに突き飛ばされたのは親父なんだ。親父のことも心配でたまらなかったと思う。それなのに私を抱きしめたんだよ……」

 魔理沙はそこで声を詰まらせて、少しのあいだ目を伏せて静かに呼吸していた。しばらくして、魔理沙はゆっくりと口を開いた。

「母さんに抱かれたまま、私はわんわん泣いた。どういう気持ちだったのか今でもわからないが、とにかく泣く以外のことは私にはできなかった。自分があまりにも情けなかったのかもしれない。母さんを苦しめるだけの私が情けなかったんだと思う。次の日、私は家を出た。もうこれ以上母さんを苦しめたくはなかったし、いつか一人で暮らしていけるように。だから私は魔界に行ってしばらく魅魔さまのところで修行をして、今は幻想郷に来て魔法の森に住んでる」

 魔理沙は少しずつ落ち着いてきた。

「今でも母さんには手紙を書いているよ。ほんのたまに親父宛に文章を書いていたりもするし、お盆とかには家に戻ったりもしている。私が一人で暮らしているのは……そうだな、逃げとか反抗じゃないんだ」

 そこで初めて魔理沙は私に顔を向けた。その目には少しだけ涙の陽炎が残されていた。私は衝動的に魔理沙に手を伸ばそうとした。けれど魔理沙は首を振ってそれを制した。違うんだ、そうじゃないんだよ、アリス。魔理沙の目は確かにそう言っているように思えた。

「なあアリス、お前にはそういう関係は結べないのか?」

 私は魔理沙から視線を落として伸ばそうとした腕を見つめた。そこで私は初めて自分の腕には一ヶ所も傷がないことに気づいた。あれだけ激しくフランドールに傷つけられて、そこだけ傷が無いというのは、はたして偶然なのだろうか?
 そして私はこの腕で母とそうした関係をつくれるのだろうか? 私にはわからなかった。できるかどうかも、できたとして、どうすればいいのかも。
 私は再び顔を上げて魔理沙に視線を向けた。魔理沙は私をじっと見据えている。そこにはさっきまでの微妙な温かさも微笑もなかった。あるいはさっき私が見たと思ったものは、私の幻覚だったのかもしれない。私の強い深淵が見せた小さな幻覚。

「魔界茶でも淹れようか」

 魔理沙がそう言って伸びをしながら立ち上がった。そしてテーブルに置いてあった上海人形を私に私の膝もとに置いて私の目を見る。

「治してやれよ、こいつも。動けない身体でお前のことを助けようとしてたんだ」
「上海が?」

 私は上海を両手にとったが、やはり何の反応も見せなかった。重力に引かれて腕や足は力なく垂れ下がっていた。私は気を失う直前の上海のことを思い返した。フランドールに叩かれて、その時点で動かなくなっていたはずなのに。私は魔理沙に言った。

「上海が動くはずないわ。だってあなたが来たとき、もう私は気を失っていた。戦闘プログラムは複雑だから私の操作がなければ動くことがないようにしてあるのよ」
「でも私が見たときは、気を失っているお前のところに行こうと、腕で地を這って進んでいたと思うけどなあ」

 私は魔理沙に尋ねた。

「そんなことってあるのかしら?」

 肩をすくめて魔理沙は言った。

「さあ、私は知らないぜ。なんか間違って操作したままだったんじゃないのか? あんまり気にしなくてもいいだろ」

 魔理沙は私に背を向けてキッチンにお茶を淹れにいった。

 私はもう一度上海人形を、今度は上から下まで眺めた。腰の部分が少しずれているし、あちこちの部分が欠けていた。やはり上海が動きそうな様子はない。魔理沙が言ったことは、彼女の見間違いなのだろうか。それとも本当にそうしていたのだろうか。
 どちらとも判断しかねた。上海人形を魔法で動かしている以上、そうした可能性が無いとも言いきれない。魔法のことならある人物がよく知っているはずだ。私は上海を握りしめ、その人物に会いにいこうと思う。
 けれど、握りしめたときに身体の痛みがまた戻ってきた。まずはこの身体を治さなくてはいけなかった。私は上海を膝下に置いて、魔理沙の向かったキッチンに顔を向けた。そこからは魔理沙の上機嫌な鼻歌が聞こえてくる。さっきの話はまるでなかったかのように、弾んだ鼻歌だった。

#9

 夕暮れどきに魔理沙は自分の家に帰った。いいかげん自分の家に戻らないと何が起こっているのかわからないと言う。

「もう一人で大丈夫だろ。また明日も様子は見に来るからさ」

 帰り際に魔理沙はそう言って帽子を深くかぶり、箒に乗って雨の中を私の家から出発した。彼女とともにそれなりの量の本が彼女の家に持っていかれた。それを止めるほどの力が私にはまだ無かった。私は呆れてため息をつきながら、魔理沙が開けっ放しで出ていったドアを閉めた。
 ドアを閉めて自分の家の中をあらためて見回すと、なんとなくものが少ないように感じた。けれど多くの人形、家財道具、本などを考えれば少ないということは決して言えないはずだった。でも私はものが少ないということを痛烈に感じてしまう。
 そして私の家がひどく小さく狭く、薄暗いもののように感じられた。それは紅魔館で見た、あのフランドールのいる地下室を想起させた。そこは自分の殻のようにもろく、醜いセミの抜け殻のようだった。夏の雨の音が私の部屋の中に虚しく響いた。

 私はベッドルームに戻り、テーブルに置いた上海人形に目を向けた。私が目を覚ましてから彼女が動きを見せたことは一度もないままだった。直さなくては、と私は思った。人形遣いとして人形のメンテナンスをすることは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。私は痛む身体を引きずり、リビングから修繕道具を取り出し、そして上海を手にとって下半身をベッドに入れた。それから私は傷の一つもない両腕で上海人形を直しはじめた。ベッドのそばに置いてあるスタンドから小さな明かりが手元を照らしていた。

 針を手に持って糸を上海の身体に通しながら、私は上海のことをゆっくりと思い返した。糸が上海の身体を突き抜けるたび、私は彼女のしたことを痛烈に思い出すことができた。
 魔理沙に紅茶を淹れなかったこと、祭りの劇で蓬莱人形の手をとって走り出したこと、地下室の劇で蓬莱人形に掴みかかったこと、フランドールに刃を突き立てたこと、そして地面を這って私のそばまで行こうとしていたという魔理沙の話。
 いずれも私がやろうとして命令したことではなかった。どれも上海が勝手にやったこと、あるいはやらなかったことだ。私はそれに戸惑い、苛立ち、そして救われた。私が抱いた心の軌跡は様々なかたちを描いている。けれど上海はどうなのだろう? 人形に心はない。それは私が一番よく知っている。しかし仮に上海に意志というものが内在されているとしたら、彼女はどう思ってその行動をとったのだろう?
 私が今こうして上海を直しているのは、魔理沙のおかげでもあり、上海のおかげでもある。狂気に揺られるフランドールから身体を張って私を守ろうとし、傷ついた後でも私のもとに寄ろうとしていた。

 どうしてそこまで、と私は思った。何があなたをそんなに強く突き動かしたの、私にはわからないわ、上海。私は声に出さずに上海に問いかけた。けれど上海の目は何も答えなかった。死んだ目は私を見てすらいなかった。私の内なる声が木霊のように自分に返ってきただけだった。

 私がそれほど上海に守られるようなことをしてきたのだろうか? 今度は私が上海にとってきた行動を思い出した。紅茶を淹れなかったとき。劇で私の意図した動きと異なっていたとき、私を守ってきたとき、私は上海に何をしたというのだろう?
 何もしていないじゃないか、と私はその事実を胸に突き立てられる思いがした。私はただ上海に厳しい言葉を投げかけ、自分の思いどおりにならないから苛立ち、冷たく上海を突き放しただけだ。今思えば、上海にそれほどの落ち度があったわけではなかったのに、私は上海に冷たくあたってきた。彼女が私を守ったときでさえ、そして目覚めた今でさえ、彼女には感謝のひとつもないままに過ごしてきた。上海はその私の態度を強く肌身で感じていたのだろうか? それでも彼女は私を守って、今こうして動かなくなっているのだ――。

 私の下腹部がきゅんと切なく締めつけられた。それは今までに感じたことのないほどの強さだった。そこにある何かが私を責め、そして突き動かそうとしているのだ。私はそれを意識しないようにして、上海の修復作業を続けた。

「しゃんはい」。上海人形を初めて抱いたとき、私は彼女にそう名前をつけた。口のない人形にでもそうして名前をつけることは、そのときの私の年齢ほどの女の子になら不思議なことではなかっただろう。上海と名前はたまたま読んだ本の中から語呂のいいものを選んだだけだ。あまり深く考えずに名前を付けるというのも、子ども独特の名付け方だろう。
 でも子どもの私はその行為を何よりも大事に思っていた。その人形に名前をつけることで、私はどの人形よりもその人形を大切にすることができると思っていた。ずっとこの上海と一緒にいたい、と小さな子どもの強い言葉で思っていた。だから上海はいつまでも私のそばにいた。
 けれど、そこでふとある疑問がわく。

 ずっとそれでいいのだろうか?

 私は夢で見た母の腕を思い出した。やわらかい腕はたしかに気持ちのいいものではあったけれど、その中に永遠に居続けることはできないのだ。理由はうまく説明できないけれど、それは何よりも確かなことだ。

 そして私は自分の母を思った。私が母を憎んでいたときに、憎しみが最大限にこもった視線を母に向けたときに、母はどう思っていたのだろう? 憎しみという膜を取り除いた記憶の中の母は、私にただ哀しい目を向けていただけだった。私に何も言わなかったし、私を叩くわけでもなかった。
 下腹部の疼きがどんどん強くなっていった。そうだ、母は私を決して責めようとしなかった。私を心配してくれていただけなのだ。私に冷たい態度をとりたかったのかもしれない。もっと厳しく叱りたかったのかもしれない。そうしようと思えばできたのに、母はそうしなかったのだ。
 意識しないように努めていた疼きは私の胸までせりあがってきた。私は泣きたくなった。
 私は何もわかっていなかったのだ。ただ強がって生きてきただけだ。魔理沙に言ったとおり、私は――。

 そのとき、上海が私の手の中でぴくりと動いたような気がした。私ははっと目を見開いて、今の感覚を取り戻すように、必死で上海を直していった。それから私が今持てるかぎりの魔力を上海の中に充填した。私の身体からどんどん力が抜けていったが、それはもう気にならなかった。
 そして上海の身体が動いた。両腕と両足に力が入り、重力に逆らいながら身体を起こした。私の手のひらに腰掛けるようにして上海は姿勢を直した。それから上海は少しあたりを見まわし、私の顔を見つめた。その上海の目には人形なのに光が宿っていた。
「どうしたの、アリス?」。上海はそう言っているように見えた。口はないはずなのに。

「上海」

 私は上海を抱きしめ、彼女の名を呼ぶ。私の目から自然に涙がこぼれてきた。

「ごめんね……ごめんね、上海」

 上海は何も言わず、私に抱きしめられるままに、私が涙を流しているのを感じているだけだった。そう思う。たとえ彼女にひとかけらの優しさがあったとしても、それでもただ抱きしめられるままだっただろう。泣きながら自分を抱く母に対して、子どもが何もできないのと同じように。
 小さな明かりを灯した家の中で、私は上海を抱いて泣きつづけた。外では雨が降りつづけている。夏の雨のようにいつまでも続くような涙だった。

#10

 長い雨がふったあとの森は雫が太陽の光に煌めき、宝石の砂が散りばめられているようだった。真っ青な空に白熱の太陽が浮かび、地上を照らし出している。湿度は高かったが、どこかさっぱりとした趣があった。扉を開けた私は、その光景にしばらく呼吸を忘れて見入った。幻想郷の夏はもう何度も体験しているが、こんな光景は初めてだった。
 しばらくして私はふっと意識に返って呼吸を取り戻し、自分の家のドアを閉めて鍵をかけた。上海が自分のそばにいることを確認して、私は限りない青い空に飛び上がった。上海も私についてきた。

 一週間の怪我が完治した翌日、私は再び紅魔館に行くことにした。魔理沙に言われたことがどうしても気になっていた。「でも私が見たときは、気を失っているお前のところに行こうと、腕で地を這って進んでいたと思うけどなあ」。命令もなしに人形が動くとしたら、それは自律意識が宿っている可能性がある。魔法に詳しいパチュリーならそのことについて何か有用な情報を持っていると、私は考えた。
 雲ひとつない空を私と上海は滑っていった。白い太陽は容赦なく己を主張し、焼きつけるような日射しを私たちに向けていた。けれど魔法の森を抜け、湖に入ると太陽の光は少しずつ弱まっていった。そして空に白いもやが見え、だんだんとそれが濃くなり、いつしか雲の形となっていった。私が紅魔館にたどりつくときには、雲は重い灰色となり、激しい雨を降らせていた。雨除けの魔法を私と上海にかけた。
 夕立にしては妙だと私は目の前を通り過ぎていく雨を見て思ったが、あまり気にしないことにして紅魔館の門に降り立った。そこまで深くは考えなかったのだ。ついていないと思っただけで。

 大きな水たまりのそばに降り立ち、雨の日もそこに立っている門番を見た。美鈴はびしょ濡れになって服から大きな雫を絶え間なく垂らしつづけていた。服だけではない。髪も帽子も顔も、どこにも乾いている部分が無かった。地上にいながら、まるで湖に浸かっているような、そういう格好だった。
 そして美鈴は門の横の柱に寄りかかり、うつむいたまま足元にできている大きな水たまりを眺めていた。水たまりには激しい雨が落ちつづけ、波紋が混沌を作りだしている。美鈴は私が来たことに気づいていないようだった。
 私は美鈴に声をかけた。

「こんにちは、今日もご苦労さまね」

 美鈴はゆっくりと顔を上げて私を見た。その表情にはどこにも驚いた様子がなく、最初から私が来たことを知っているようだった。そして美鈴の表情には、躍動というものが無かった。倦怠、無情といった消極的な波動があった。美鈴は言葉だけ私に答えた。

「アリスさんですか」

 その声も平坦で鉛のように重く、温かみが無かった。私は美鈴にもう少し話しかけることにした。

「ずっと雨が降っている中、門番なんて大変ね」
「今に始まったことではないですよ。私が門番となったときから、こんなことは慣れっこです」

 そう言って美鈴は息だけで笑い、すぐにそれもやめてしまった。私と美鈴の間に暗い沈黙が流れる。激しい夕立が空気を背景として駆け抜ける。美鈴はずっと暗い目で私を見つめている。私はそこで初めて美鈴の態度に戸惑った。

「通っていいのかしら?」

 無理やり沈黙に孔を開けるようにして私は美鈴に尋ねた。美鈴は後ろに首を向け、それから私を一瞥して言った。

「どうぞ、自分で開けてください」

 細い針が私の胸を突き刺したような気がした。それほど美鈴の態度は私をひどく傷つけた。門番としての無礼というより、美鈴という個人としてのその冷たさ。この前の訪問のときの温かさはどこへいってしまったというのだろう? 雨が彼女の優しさを奪ってしまったようにも見えたし、実際雨の影響もいくらかはあるに違いない。けれど雨が激しく降っているからといって、雨のせいだと断定することは私にはできなかった。
 私は美鈴の横を通り過ぎ、門を押しながら彼女に言った。

「通らせてもらうわ」

 美鈴はうなずきもせず、またうつむいて目の前にある水たまりに視線を戻した。水たまりの底には不自然な幾何学的模様が刻まれていた。美鈴はそれきり動く気配がなくなった。私は自分で門を開き、その下をくぐって門を閉じた。上海が美鈴に首を向けたまま私についてくる。結局美鈴は私に明るい笑顔を見せてくれなかった。

 門をあとにして玄関前に行くと、綺麗な姿勢で立っている咲夜がそこにいた。あいかわらず凛とした表情で。私は肘から上で手を振り、咲夜に自分が来たことを知らせる。けれど美鈴と同じように、咲夜も私に対して表情の変化を見せなかった。見せなかったというよりは、不変のためにより冷たい方向に変化したように思えた。
 彼女の視線には冷たい氷の棘さえ想像させるような鋭さがあった。私はそれに気づき、自然と振っていた手を止めてゆっくりとそれを下ろしてしまった。私は少しあごを引いて咲夜の前まで歩いていった。そのあいだ私と咲夜は何も言葉を交わさなかった。雨が私たちの真上に降り、けれど雨除けの魔法で脇にそれる。家を出たときの青空などどこかにいって、今日は夕立の音ばかり聞いている、と私は思った。
 私と咲夜の距離が一メートルになったところで私は立ち止まった。私のいるところは玄関の屋根がちょうど出ていないところで、私の体には雨除けをしているとはいえ雨が降りつづいた。咲夜がきびきびと私にお辞儀をして言う。

「ようこそ、紅魔館へ」

 私は少し上目遣いで咲夜を見たまま何も言わなかった。咲夜も私の返答を待たずに先を続けた。

「アリス・マーガトロイドさまを今日は図書館の方へ案内いたします。ついてきてください」

 そう言って咲夜は隙のない動きで踵を返し、歩きはじめた。私がついてきているかも確認せず、玄関の扉を開いて中に入った。私は咲夜との距離を一メートル以上に保ったまま、彼女についていった。

 空に雨を降らす黒い雲がかかっているせいか、紅魔館の中も妙に暗かった。窓から入ってくる光はわずかで、廊下の壁にかけられた照明が無ければ夜だと思ってしまうかもしれない。妙に暗く、雨の音が妙に静かに響いていた。私と咲夜は一切話さない。咲夜の靴の踵の音が鋭く響き、私のブーツの音が鈍くそれを包む。上海が私の横をふらふらと漂う。
 図書館までの間、私はずっと自分の頭の中で独り言をつぶやきつづけた。私が何をしたというのだろう。ここまで気まずい沈黙を生み出すようなことを私がしたというのだろうか。この前のことがあったが、それはほとんどフランドールが原因だ。私に一因が無いとも言いきれないが、しかしもうその話は過去のことではないのか?
 何度も同じ問いを自分に繰り返し、そのたび私は冷たくされる覚えがないという結論に至る。雨と靴の微妙な不協和音を引き連れたまま、私は咲夜に導かれて地下の図書館の扉までたどり着いた。

「アリスさま、ここが図書館でございます」

 咲夜が扉の横に立って私に振り返り、冷たい表情のまま言う。そのまま扉を開けず、立っているだけだった。私が自分で開けて入れということなのだろう。私は咲夜をなるべく視界に入れないようにして扉の前まで歩き、手をかけてそれを開く。

 暗く静かな紅魔館の奥にさらに暗く静かな図書館が広がっていた。私は図書館の中に入り、後ろ向きに扉を閉めた。天井までのびる本棚が無数に存在し、薄いほこりが本棚に積もっていた。あいかわらずほこりっぽい図書館だった。
 そして本棚の間から奥に少し広い空間が見えて、そこに細い足のテーブルと二つの椅子が見えた。そしてその椅子にはパチュリーが腰掛け、私に背を向けていた。

「来たのね」

 低めのトーンの声が扉の前の私まで届いた。私はその声に促されるようにして本棚の間を進んでいった。天井からつるされたランプの光が空に舞う塵を煌めかせ、上海がランプの下を通り過ぎると塵が渦を巻いた。
 私はパチュリーの後ろに立ち、いつものように本を読んでいるその背中を見つめた。彼女も私に対して冷たい態度をとるのではないかと、わずかな不安を浮かべながら。テーブルから少し離れたスペースに私の知らないかたちの不思議な魔法陣が描いてあった。この図書館も、そのときの私には親しみのないどこか別の場所に見えた。

 パチュリーは私に後頭部を向けたまま、自分の向かいにある空きの椅子を指差して言った。

「座ったら?」

 抑揚のない声は無数の本の中に埋もれてしまうようにして消え入った。私はその声にしたがってパチュリーの向かいの椅子に座ると、彼女が本を読んでいる様子が正面から見ることができた。彼女は顔を本に向けたまま、私以外の誰かに言った。

「小悪魔、紅茶を」

 本棚の間から「はい」という返事が聞こえ、そして図書館は再び静寂に包まれた。私が座ってもしばらくの間、パチュリーは本から目を離さずそれを読みつづけた。その光景はいつものことだった。彼女がひと段落して本を閉じるまでは、客人は用件を話しだすことができなかった。彼女は読書を邪魔されるのが嫌いなのだ。
 しばらくして、いつものようにきりのいいところで彼女は本を閉じ、そこで初めて顔を上げて私に視線を移した。いつものようにほこりと長時間の読書の疲れのせいで、力のない目だった。私はそれでも疑うようにしてパチュリーの様子を観察していた。
 パチュリーは目を上げても少しのあいだ何も言葉を口にせず、私を見つめ、それから言った。

「萎縮しなくてもいいのよ」

 私は彼女の言葉に意表を突かれた。パチュリーは私のそばにいる上海を一瞥して私に視線を戻し、そのまま笑顔もない表情で続けた。

「なんだか私に遠慮しているみたいだけど、私はあなたに対してとくに特別な思いを抱いていない。私とあなたは同じ魔法使い、そうでしょう?」
「でも」

 私は言った。

「それはあなたがいつもと同じように接してくれるから。他の人はそうじゃないみたい。美鈴も咲夜も私に対して冷たいというか……責めているというか、明らかに前とは違うわ。私は何もしていないのよ、あの二人には」

 パチュリーは少し目を見開いたが、すぐにまぶたを重そうに下ろして気のないため息をつき、「そうね」と言った。驚き呆れたといった様子だった。

「紅茶をお持ちしました」

 小悪魔が不安げな表情を浮かべながら、私とパチュリーの前に紅茶のカップとポットを置いていった。そこから立ち去るときも何度か私とパチュリーに視線を送っていた。彼女は私に対して冷たくあたるようなことはなかった。
 パチュリーは本をテーブルに置き、ポットを手にとって自分と私のカップに注いだ。私はそのカップを手にとり、しばらく中身を見つめていた。白いカップに入った紅茶は少し灰色がかかったような赤で、それは私に乾いた血を連想させた。私がずっと紅茶を見つめていると、パチュリーがカップを右手に持って私に問いかけた。

「飲まないの?」

 パチュリーに促され、私は少しためらってから紅茶を口に入れた。今まで飲んだことがない紅茶だった。微妙な苦味、不思議な甘さ。それまで味わったことがない新しい味が口の中に広がっていった。私は目を閉じてその紅茶の味を記憶に焼きつけていった。

「さて、何が訊きたいのかしら?」

 パチュリーが紅茶を啜りながら私に尋ねた。

「私の知りうる範囲でなら答えるわ。知らないことはどうしても説明できないけれど」

 私は目を薄く開いて、隣に漂っている上海人形を横目で見た。上海はずっとパチュリーに視線を固定している。

「たぶんあなたにも答えづらい話だとは思う」

 私はそう切り出し、目を開いてパチュリーを見据えた。

「生き物ではない、物体、ものに心が宿るということははたしてあるものなの?」

 パチュリーは少しのあいだ私と上海人形を見ていたが、やがて口を開いた。

「心というものの定義が少しわかりにくいわね。どういうことかしら」
「人に言われたことをそのままやるのではなくて、自分で考え、自分で行動する。そういうことだと私は思っているけど」

 パチュリーはまた少しのあいだ私を見ていたが、すぐにあきらめたような表情になり、また私に尋ねた。

「ものに心が宿る、その例えは何かしら?」

 私は上海をもう一度横目で見て、答えた。

「人形とか」
「どうしてそう思うの?」

 パチュリーは間をあけずに私に再び問いかけた。私はもうすべてを洗いざらい話すしかないと思った。だから私は紅茶を一口啜り、そして私が見た話、魔理沙から聞いた話を始めることにした。私の指示なくフランドールに剣を突き立てた上海、意識を失った私に寄ろうとする上海。
 パチュリーはときどき紅茶に口をつけたりはしたが、黙って私の話を聞くだけになった。目を軽く閉じ、左耳を私の顔に向けて、静かに聞きつづけている。私がすべて話し終えるまで、パチュリーは決して口をはさんだりはしなかった。
 私は話し終えると喉を潤すために紅茶を一口、喉を鳴らして飲んだ。パチュリーは私がカップをソーサーに置くのを見て、そしてようやく口を開いた。

「あなたのいう、その上海人形。それにはあなたが魔力を注ぎ、ある程度の魔力を貯めることもできるのよね?」

 私がうなずくと、パチュリーはテーブルに肘をついて手を組んだ。そしてその手の指を見つめたままパチュリーは考え事を始めたようだった。私はパチュリーの様子を黙って見ていた。彼女はそれなりの結論を出そうとしているのだ、と私は思った。そしてその思考を他人に遮られるのは彼女の嫌うところだった。私はただパチュリーの結論さえ聞ければよかった。
 パチュリーが思考の海にいたのは、思いのほか短い時間だった。パチュリーは組んだ手を解き、椅子の背に寄りかかってひとつため息をついた。彼女は何らかの結論を海から引き上げ、私にそれを差し出そうとしている。彼女は小さい咳をひとつして口を開いた。

「私もそういう事例を見たことがないから、これはあくまでも推測になるわ。でもその中で一番可能性の高いものを選び出した」

 パチュリーは上海に目を向けて言った。

「魔力は精神の波動。それに尽きるわ」

 そしてそのまま口を閉じた。上海が身を震わせたが、それ以上は何もなかった。それで終わりだった。

「それだけ?」

 私は思わずそう言ってしまった。

「その程度の推測なの?」
「私の知識はこれ以上のことを語らないわ。推測に基づいた推測ほど信じられないものはない」

 パチュリーのその口調はあくまで淡々としたものだった。半ば責めるような私の言葉にも反応せず、申し訳なさも見せなかった。私はパチュリーの次の言葉を待ったが、彼女はそれ以上何も言わなかった。黙って上海を見ているだけだ。それがパチュリーの結論だった。

 私は大きなため息をついて椅子の背に寄りかかった。あっけない話だった。そして理解しがたい答えだった。しかしパチュリーはこれ以上話そうとしないし、実際に彼女にはこれ以上説明できる知識を持ちあわせていないのだろう。彼女が何かを隠している雰囲気もなかった。
 これ以上パチュリーに望めることはない、と私は思った。あとは自分がよく上海を観察し、そして研究を進めていくしかないのだろう。先の長い研究になるが、幸いなことに私は魔法使いだった。望む答えが見つかるまで研究を続けることができる。
 私は少し紅茶の入っているカップを手にとった。

「まあいいわ。ありがとう。少しは役に立つかもしれない」

 そう言って私は紅茶を飲み干し、カップをソーサーに置いて席を立った。パチュリーは上海から私に視線を移し、そしてくすっと老婆のように小さく笑った。「どういたしまして」。
 私は彼女の笑いを見下ろして、それからゆっくりと足を踏み出して図書館の扉へ向かおうとした。けれど、パチュリーの横を通り過ぎるときに彼女が何かをぼやいたのが聞こえた。

「何?」

 私はパチュリーに振り返って問いかけた。椅子に座って彼女は私に振り向いてもう一度言った。

「あなたにもうひとつ伝えることがあったわ」

#11

 パチュリーはテーブルから少し離れた魔法陣を指差した。

「あの魔法陣が何を生み出してくれるのか、あなたは学んだことがある?」

 私はかぶりを振った。私は魔法陣を多くは使わないし、学んだこともない。パチュリーが手を膝もとに置いて言った。

「あの魔法陣は別の魔法陣に私の魔力を転送するもの。だから、あれ自体はとくに外部環境に影響しない」
「じゃあ、別の魔法陣であなたは何をしているの?」

 私がそう訊くと、パチュリーは口元に薄い笑いを浮かべながら訊き返した。

「何だと思う?」

 少し意地の悪い質問だった。私は少しのあいだ考えたが、思い当たることは何もなかった。パチュリーが結局その問いに答えた。

「いくつか外に魔法陣が描いてあるわ。そこの魔法陣から外の魔法陣に魔力を送り、そして私はこの紅魔館のまわりに雨を降らせているのよ」

 そう言われると私の中に今までにあった違和感が解消された。紅魔館に夕立が降っているのはパチュリーのせい、そして美鈴の視線の先にあった模様は雨を降らす魔法陣だったのだ。けれど私は何のためにパチュリーがそうしているのか理解できなかった。

「何のためにそんなものを描いたの?」

 パチュリーは淡々と答えた。

「妹さま――ああ、フランドールのことね。彼女を外に出さないためよ」

 彼女の名が出て私は唐突に胸を衝かれるような感覚がした。私の視線が図書館の奥から手前を不規則に泳いだ。自分でも意識できない動きだった。私は彼女に対して罪悪感を抱いているのだろうか?
 パチュリーが私を眺めているのに気づいたが、彼女に返す適当な言葉が見つからなかった。私は狼狽していた。遠くから地響きがして、パチュリーは音のした方に視線を移した。私はその視線から逃れても、まだ動揺を落ちつけることはできなかった。パチュリーが地響きの方を見つめたまま言葉を口にした。

「九日ほど前かしら、フランが突然地下室で激しく暴れはじめたわ。暴れるというよりは暴走の方が適切かもしれないわね。突然の出来事だったし、私以外は誰も予想していなかったことでしょうね。レミィは知ろうと思えばそうできただろうけど、たぶん知ろうとはしなかったはずよ」

 さっきの地響きでテーブルの上のカップが倒れていた。まだ紅茶が残っていたパチュリーのカップから紅茶が流れ、ソーサーを満たした。ソーサーの紅茶は波を刻んでいた。パチュリーは手を濡らさないようにカップをソーサーにきちんと置いて続けた。

「フランが何をしたいのかは私にもわからないわ。さっきも言ったけど、推測の推測ほど信頼できないものはないから。そもそも目的なんてはじめからどこにも存在していないのかもしれない。事実として信用できるのは、フランが暴れつづけているということだけ。
 私たちがとれる対策の選択肢もはじめから無かった。いつかのように彼女を閉じ込めるだけだったわ。彼女自身には何の慰めもなく、ただ外部に被害が及ばないようにするだけよ。扉を閉めきって、それから万が一のときのために雨を降らせつづけている。扉を開くことができないから彼女に食事も与えられないわ」

 パチュリーはそこで一呼吸置いて、そして言った。

「ずっとこのままだと、フランは死ぬかもしれない」

 そのパチュリーの言葉だけは真っ直ぐで、そして何よりも真実に近いものだった。けれど彼女は私を見ない。私はそこに呆然と立ち尽くしていた。

 九日前、それは私がこの紅魔館に人形劇をしに来た日だ。そしてその日からフランドールが暴れているということは、あのとき私に襲いかかったときからだということになる。その日以来ずっとフランドールはあの檻のように無機質な地下室で、異様なまでのあの力で暴れつづけているのだろうか。
 どうしてそこまで? 自分の命さえもおびやかして? それはあの日人形劇をやった私が原因なのだろうか? わからない、わからない。私の頭の中で不可解な暗い渦が巻き起こり、体中の血液の流れが速くなったり遅くなったりした。

「違う!」

 私は思わず叫んでいた。甲高い声は図書館の本の中に吸い込まれていった。それから私は力が抜けた声で言った。

「私のせいじゃない」

 パチュリーは黙って私を見ていた。私はその視線に耐えられなくなり、体の力が抜けたようにうずくまり、膝に顔を埋めた。どうしてこんなことになったのか、私には理解できなかったし、そのときは理解しようとも思わなかった。自分が泣きたいのか叫びたいのか、自分の表面上の感情すらわからなかった。私はただ逃げるようにして声を漏らしつづけた。

「私は……私は……悪くない……」

 膝と腕のあいだから上海人形が心配そうに私を見上げているのが見えた。その視線には明らかに感情がこめられていた。けれど私はそれを知覚できても認識できずにいた。すべてのことを自分から切り離そうとしていた。
 パチュリーが椅子を引く音がして、私の細い視界から彼女の足元が見えた。

「今度はあなたの家に長雨を降らせようかしら」

 パチュリーはあいかわらず抑揚のない声で言った。私を冷静に責めているようでもあるし、哀れんでいるようでもあった。あるいはそんなことには一切興味が無かったのかもしれない。私は目をつむって彼女の言葉をも遮ろうとした。けれどパチュリーはそれにかまわず続けた。

「けれどたしかにあなたの言葉どおり、あなたは悪くないわ。いえ、もっと言えば、今度のことは誰にも咎がないのかもしれない。偶然に偶然が重なりつづけて、運命に導かれたようにも思えるけれど、これは偶然ではなく必然なのかもしれない」

 私はその言葉に世界から自分を切り離すのを思いとどまった。誰が私を助けてくれるわけでもないし身体が震えてはいたが、うずくまったまま、パチュリーの次の言葉を待った。私の頭の上からパチュリーの平坦な声がする。

「あなたは人形劇が好きなんでしょう。私があなたのためにお話をしてあげましょうか」

 私は膝に顔を埋めたまま、わずかに首を縦に振った。パチュリーがそれを確認したのかどうかはわからなかったが、彼女は話を続けた。

「そうね、ある姉妹の物語にしましょうか。誰のためでもない、幸せでもない結末の物語」

 私の震えはそこで止まった。自分がどこかの細い糸をつかんだような感覚がした。

 パチュリーの物語。そしてそれはたしかに彼女の言ったように、誰のためでもなくハッピーエンドでもなかった。ずっとうずくまっていたので、話が終わるまでどれくらいの時間が経ったかはわからなかった。私にとっては495年の時間を過ごしたように思えた。

 私はサメと決別しなければならないと知った。夢のなかで見たサメは間違いなく私が生み出したものだった。また地響きがして図書館の本棚から数冊本が落ちる音がした。ソーサーに載ったカップが再び倒れた。私はこの地響きも抑えなければならない。
 私は顔を上げてパチュリーを見た。彼女はずっと同じような顔で私を見ていた。そのどこか達観したようなその顔が私に確信を与えた。私は立ち上がり、そして彼女に背を向けて図書館の扉に向かって走りはじめた。私が背を向けたときにパチュリーが何かを言ったような気がしたが、それは私の耳には届かなかった。私に対して言ったのではなかったのかもしれない。
 上海が私に少し遅れてついてきた。私はそれを確認して身体を浮かせ、全力で紅魔館のあの地下室に向かって飛びはじめた。図書館の扉を蹴るようにして開け、薄暗い廊下に出てそのままずっと飛びつづけた。自分の抜け殻を図書館に振り落としていくようなスピードが出ていたのではないかと、私は思う。

#12

 私は全力で紅魔館の廊下を飛びつづけた。すぐに息が切れたが私はそれも気にせずに、ときどき私の横に現れる窓の外の景色も目に入れずに、ただひたすら無機質な地下室を目指して飛びつづけた。今はもう紅魔館の暗さも雨が降る音も気にならなかった。
 上海も遅れずに私についてきた。廊下を曲がるときや階段を通るときに彼女の顔が一瞬視界に入ったが、その目には明らかな光が灯っていた。赤い絨毯によく映える白い光だった。
 飛びつづけている間にも何度も地響きが続いた。一度は疲れていたフランドールが少し力を取り戻してまた暴れはじめたのだろう。私はその地響きを止めるために紅魔館を駆け抜けている。妖精のメイドは私に気づくと驚愕したように、けれど私に当たらないようにして廊下の端に身を寄せた。私は彼女たちに謝らなかった。謝る余裕がなかった。

 呼吸が困難になり、視界が黒く霞みはじめた頃にようやく地下室へと続く階段が視界の奥に見えた。そしてその階段の入口のところに一人の人物が立っているのも見えた。私はその人を無視して階段に飛び込もうとした。
 けれど階段まで残り五メートルのところで、その人物が目にもとまらない速さで私に接近し、そして上から私を床に叩きつけ、そのまま馬乗りになって私を床に押さえつけた。突然の衝撃に私は一瞬、意識を飛ばしてしまいそうになった。
 ぎりぎりのところで私は意識を保ち、私の上に乗っている人物の顔を見た。それはレミリアだった。

「館の主に断りもなく、どこへ行こうというのかしら?」

 冷たい笑いを浮かべ、鋭い口調でレミリアは私に言った。彼女は私の肩を両手で押さえつけ、私の腰のあたりに身体を載せていた。彼女の身体は驚くほど軽かったが、力は驚くほど強かった。私は彼女に抵抗することができなかった。レミリアはガラスのような微笑を浮かべたまま言った。

「失礼な客人ね、あなたは。まるで魔理沙になってしまったみたいよ」

 私は吐息混じりにレミリアに言う。

「今は魔理沙のようでもかまわないわ」
「そう、反省するつもりはないの。じゃあ、尋問してもよろしいかしら?」

 レミリアが私の肩を強くつかんだ。雷撃のような痛みが私の身体に走って、私は顔を痛みに歪めた。レミリアがそれを見て口の端をより吊り上げた。

「もう一度訊くけど、あなたはどこに行こうとしていたの?」

 レミリアは私の肩をつかんだままそう尋ねた。私は顔をしかめたまま、けれど静かに言った。

「地下室へ」

 レミリアは表情を変えずに私を見ている。私は続けて言った。

「あなたの妹へ会いに」

 レミリアは小さくため息をついて呆れたように微笑を崩した。

「あなたわかっているわよね? フランは今暴れているのよ」
「ええ、知っているわ」

 私の痛みに少しずつ身体が慣れてきて、顔の力が少しずつ抜けていった。

「この前あなたはあれだけ傷ついたのに、また懲りずに行くの。あの子が暴れはじめたら私でさえ手がつけられないのよ」
「わかっているわ」

 私は下腹部の底から声を出すように静かに言った。今度はレミリアの顔がわずかに歪んだ。レミリアの声の波も少し変わった。

「あなたに何ができるというの? 行ったところで何もできないかもしれない」
「そうかもしれないわ」
「死にに行くようなものよ!」

 レミリアは顔を歪めて私に叫んだ。悲痛な少女の声が私の鼓膜を激しく震わせ、それに呼応するように地響きが起きた。けれど私は自分でも不思議なくらい落ち着いていた。

「あなたの言うとおり、死ぬかもしれないわね。でも、私はすでにあの日に一度死んでいたのよ」

 私はそう言って息をついた。レミリアに何と言われようと私の決意が揺らぐことはなかった。死ですらそのときの私には脅しにならなかった。レミリアは私の顔を見て泣き出しそうな表情になった。口をへの字に曲げ、射抜くように私を見つめた。

「どうして、死ぬかもしれないのに、行こうとするの?」

 レミリアが私に訊いた。

「この前の責任?」

 私はゆっくりと首を横に振った。口を開きかけたレミリアに私は言った。

「責任じゃないわ。これは私とフランドールのためなのよ」

 レミリアは開きかけた口を閉じて、私の肩をさらに強く握ったが、もう私の痛みが増すことはなかった。私は静かにレミリアに言った。

「死が怖くないと言えば嘘になる。でも、もうあまり気にならない。私はもう一度自分が冥界に行かなくてはならない、そういう意志を感じているの」

 雨の音が私の耳に入ってきた。そのとき私はふと思った。ひょっとしたらパチュリーは、フランドールではなくてレミリアも外に出さないつもりだったのかもしれない。何の根拠もなかったけれど、私のその考えをレミリアの顔が証明しているように、私には思えた。

 私の顔に雨粒がひとつ落ちてきたような気がした。

「だめ」

 レミリアが目を閉じて言った。

「だめ」

 子どものような悲痛な声が廊下に響いた。私の肩をつかんでいた力が少しずつ抜け、その手が小さく震えた。

「行かないで」

 哀れだとか可哀相だとかそういう意識はなかったのかもしれない。あるいは最初から何も考えていなかったのかもしれない。気がつけば低い地響きの中で、私は仰向けになったままレミリアを両腕で抱きしめ、その背中を手のひらで包み込んでいた。レミリアと私の身体が重なり合う。衝動的に言葉が出る。

「心配してくれてありがとう。でも、私は行かなくてはならないの」

 レミリアの身体は細く小さく軽く、私はそこでこの紅魔館の主をあらためて認識し直した。いくら威厳があるように見せかけても、いくら力があっても、彼女はまだ子どもなのだと。物理的に強靭な身体は、すぐに壊れてしまうものなのだと。だから私はよけいに彼女を強く抱きしめたくなった。言葉なんていらないのかもしれない。
 レミリアの身体の震えが大きくなった。鼻を啜る音とぐずるような声が私の耳に響いてきた。彼女が泣いているのだと私は気がついた。そしてそれは大声で泣いてしまいたい衝動を耐えているような泣き方だった。

「ぐす……ふぇ……」

 レミリアの口から我慢しきれない声が漏れてくる。もう一度私たちの真下から、今までになく激しい震動が床と壁を走って伝わってきた。それは床が崩れ落ちてしまいそうなほど強いものだった。私はレミリアを抱いたまま身体を起こし、彼女の頭の上に自分の頭を置いた。

 ふと目を上げるとそこには咲夜が来ていて、口を開けて目を見開いたまま私たちを見つめていた。それは私が今までに見たことがなかった表情だった。おそらく咲夜自身もこういう光景を見たことがなかったのだろう。自分の主が人に抱きついてぐずるように泣いているなんて、彼女には想像することもできなかったのだろう。
 私は彼女を見て首を縦に振り、そして言った。

「レミリアを任せていいかしら?」

 しばらく咲夜は私とレミリアを見ていた。もしかしたらその間に咲夜は時を止めて私が思っていたよりも長い時間思考に浸っていたのかもしれない。私がもう一度咲夜に向かって首を振ると、咲夜も首を縦に振って言った。

「あなたは地下に、早く」

 私がレミリアの身体から腕を離すと同時に、咲夜がレミリアに両腕をまわした。軽いレミリアの身体は私の両腕の中から消えていった。私は少しのあいだ自分の両腕を見ていたが、やがて立ち上がり、上海を振り返った。上海はもう階段の入口にいた。
 私は咲夜とレミリアを見る。レミリアの小さな羽根が震えていて、咲夜がそれを愛しそうに撫でている。私は息をついて階段に向かって歩きはじめた。

「待って」

 背後から声が聞こえて私は振り返る。咲夜の腕の中でレミリアが目を真っ赤にして私を見ていた。

「あなたはもう一度、死ぬ」

 涙声でレミリアは私に言った。その宣告を私は真正面から受け止めることができた。レミリアは手の甲で涙を拭い、そして涙の跡が残る顔で静かに言った。

「でもフランを止めることができるのは、今ここで、あなたしかいない。死ぬことがわかっていても、今のあなたにしかできない。だから――」

 レミリアはそこで一度言葉を切り、そしてまた目から涙を零した。

「だからフランを、フランを助けて……お願い……」

 もう一度彼女を抱きしめることができたら、私はそうしたはずだ。でもそうする時間は残されていなかった。それは下からの地響きがはっきりと示していた。だから私はレミリアをしっかりと見据えて、そして言った。

「私は戻ってくるわ、必ず」

#13

 暗くて長い冥界への階段を私は下っていった。私を待ちわびる地響きは続いており、そしてその感覚は少しずつ短くなっていた。私は壁を蹴って加速していった。上海も私に遅れずについてくる。私たちが通った後の壁の光は吹き消されそうなほどに揺れた。
 少しして重く硬い鋼鉄の扉が前に見えて、すぐ目の前に押し寄せてくる。私はそれを足で蹴るようにしてぶつかっていった。自分への身体の衝撃がどっと押し寄せて、足の骨がみしみしと軋んだような音を立てた。それでも私は後ろへ引かずに扉に向かって飛ぼうとする。鉄の扉がゆっくりと開いていった。それから私はわずかに開いた隙間から身を滑らせて部屋に入り、床に降り立った。
 何も物が無いはずの部屋は、それでも酷い姿に変わり果てていた。壁や天井や床のいたるところにひびが入っており、天井から床まで走っている亀裂がある。壁がえぐれていて床のタイルはいくつも剥がれている。明かりのいくつかは完全に粉々に砕かれて、部屋はこの前よりもさらに暗くなっている。
 床には腕以外が壊れている、あの赤い服を着ていた人形が転がっていた。

 そして壁に寄りかかってフランドールはいた。両腕を壁に当てて顎を上に向け、荒い吐息を天井に向かって吐いていた。全身傷だらけで、酷い青あざもいくつかあった。顔のまだ新しい傷からは血が垂れ落ちて、それが彼女の紅い服をより赤く染めていった。
 パチュリーの言ったとおり、彼女は死んでいく者の空気を纏ってそこに佇んでいた。彼女の生気は誰かに奪い取られ、もう肉体として存在することですら精一杯のようだった。それでも彼女はこの無機質な部屋で暴れつづけて、紅魔館のすべてを揺らす。吸血鬼としての身体能力を失っても、その奥に眠る本能はまだ強く彼女を突き動かしていた。
 私はフランドールの姿に思わず目を覆いたくなった。小さな子どもがこんな姿でいることがここまで残酷なことだとは思ってもいなかった。けれど私は視界を隠そうとする手を無理やり押さえつけた。
 私が彼女を見なければ、誰が彼女を救うことができる?

「フランドール」

 私は半開きになったままの鋼鉄の扉を背にして彼女の名前を呼んだ。それはどのような波動となって彼女の耳に伝わっただろう。油が切れたような機械のように彼女は私に顔だけを向けた。
 その顔もひどく痛々しかった。目の下には黒い隈がくっきりと浮かび上がり、頬には大きな切り傷ができていた。唇の色も明るい赤ではなく、青みがかった紫色になっていた。けれど隈に縁どられたような彼女の瞳だけは光を失わず、猛獣の光をたたえて私を見据えていた。その冷たい視線に私は思わずひるみそうになった。

「お姉さまじゃないのね」

 フランドールは低く冷たい声でそう言い、口の中に溜まっていた血を床に吐き捨てた。レミリアが来ることを期待しつつも、はじめから裏切られることがわかっているような、そんな言い方だった。私は右手で左腕を強く握り、逃げずに彼女を見ていた。フランドールは壁から自分の身体を離し、大きく息をついた。

「なんとなくわかってたけど、お姉さまじゃない」

 フランドールは目をあちこちに走らせ、壁の奥に何かを求めた。けれど彼女の求めるものはその視線の先には存在しなかった。彼女は口を歪めて言った。

「来ない、来ない、お姉さまは、来ない、来ない……」

 呪うようにして呟きつづけ、フランドールは重心を後ろから前に移動させた。糸で操られるようにして彼女の身体が前に進んでいく。腕を重力にまかせて下に垂らし、つま先で歩いているようだった。少しずつ私に近づいてくる。

「どうして、どうして、どうして邪魔するの? どうして、邪魔するの? 邪魔なのよ、邪魔、邪魔……」

 彼女が一歩足を進めるごとに、壊れたタイルから乾いた音が部屋に響いた。からり、からり。また少しずつ部屋が壊れていくような響きだった。

「あなたも私の邪魔をするの? ねえ、どうして? あなたは邪魔をするの?」

 そしてフランドールの口調は少しずつ棘を帯びてくる。

「邪魔されたくない。私はただお姉さまといたい。お姉さまに会いたい。それだけなのに、どうしてみんな邪魔をするの? 私はお姉さまに会うことはできないの?」
「それは」

 私は口を開き、フランドールに静かに告げた。フランドールの歩みは止まらない。

「レミリアはあなたの姉だからよ」

 フランドールの歩みがわずかに遅くなった。あと8メートル。怪しく光る目が私をとらえて離さない。

「そうよ、お姉さまは私のお姉さまよ」

 あと5メートル。私は両腕をおろした。

「レミリアはこの館の主人でもある。けれど、まだ小さな子どもでもあるのよ」

 あと3メートルのところでフランドールは止まり、うつむいた。彼女の荒い呼吸が私の耳にまではっきりと聞こえるほどの距離。そして彼女が私に飛び込んでくれば避けることはできないほどの距離。それでも私は後ろにさがらず、フランドールに問いかけた。

「それが何を意味しているのか、あなたにはわかる?」

 フランドールはうつむいたまま何も答えなかった。垂れ下がっていただけの手をぎゅっと握りしめ、何かに耐えているようだった。もう私の問いに対する答えは持っているのだろうと私は思った。だから私は私の言葉でそれを明らかにしなければならなかった。

「レミリアはあなたの母親、いえ、『ママ』にはなりえない。絶対に」

 私の宣告は部屋のどこにいてもはっきりと響いたように思えた。フランドールはしばらくうつむいたまま黙っていた。壁の亀裂が少し広がったようにも見えたし、天井から破片がからからと落ちてきた。
 長い時間がたち、フランドールはぽつりと呟いた。

「うそよ」

「嘘じゃないわ」

 私は首をゆっくりと横に振りながら言い返した。

「それならどうしてあなたのお姉さまはここに来ないのかしら?」
「それは――」

 そのあとの言葉がすぼみ、それからうつむいたままフランドールは言う。

「きっと、忙しいのよ。だってお姉さまはこの館の主ですもの。当たり前じゃない」

 私の胸が痛みに疼いた。フランドールが本気でそれを信じていないことは、彼女の口振りからすぐにわかった。彼女はそう信じたいだけだ。そうしなければこの部屋と一緒に崩れ去るしかないから。けれど私は真実を彼女に叩きつける。

「いいえ、レミリアは忙しいからあなたに会えなかったわけじゃない。彼女はずっとこの地下室への階段の入口にいたわ。おそらく、九日前からずっと」
「嘘よ」

 フランドールは悲痛に満ちた顔を上げ、今度は彼女から私に尋ねた。

「どうして、それならどうしてお姉さまは私のところへ来ないのよ」

 彼女は胸の前で両手を組んですがるように見つめる。けれど私は彼女を突き落とすように言うしかない。彼女はすがる相手を間違えている。

「それはレミリアがあなたのママではないからよ。彼女はあなたの姉に過ぎないわ。あなたとどう接すればいいのか、彼女にはわからないからよ」

 私が言い終わらないうちにフランドールは組んでいた両手を解き、そして悲痛の叫びを上げた。

「嘘よ!」

 彼女はその細い脚で床を蹴り、私に向かって真っ直ぐ身体を飛び込ませた。3メートルの間隔はやはり私に避ける時間を与えてはくれなかった。フランドールの身体を真正面から受け、私は肋骨が悲鳴を上げるのを感じながら吹き飛ばされて、気づいたときには床に転がっていた。
 けれど私はそうなってもかまわなかった。フランドールが私に攻撃を加えるなら、最初の一撃だけは甘んじて受け容れようと思っていた。痛みに呻きながら、私はその痛みが自分の身体に染み込み、血肉となっていくのを感じていた。上海が私の上に来て、心配そうに覗き込んだ。
 私は両手を床について身体を起こした。フランドールが少し離れたところから私をにらみつけている。九日前に見たような狂気の瞳、紅の血。感情を剥き出しにして私に突き刺そうとしている。

「あなたが邪魔なの。あなたがいなくなれば私はお姉さまに会うことができるはずよ。私はずっとお姉さまと一緒にいたいの」

 そしてフランドールが再び私に突進してきた。

「壊れて、壊れてよ!」

 今度の攻撃はぎりぎりのところでかわし、フランドールの爪が私の頬をかすめた。彼女は突進で体のバランスを崩したのか、壁に肩から当たった。衝突の震動でまたこの部屋に大きな軋みが生じる。フランドールは床に倒れて痛みに耐えているが、けれどまたすぐに起き上がって私を殺そうとするだろう。

「上海」

 私はずっと私を見ていた上海人形の名を呼ぶ。上海が私のそばに来た。

「やれるわよね?」

 上海はフランドールを見て、それからまた私に視線を戻し、力強くうなずいた。私は宙に浮き上がり、上海に指示を出した。

「彼女を倒そうと思わなくていいわ。ただ、一瞬の間でいい、隙をつくってちょうだい。私とあなたならなんとかできるはずよ。そして隙ができたら……あとは私次第だから」

 上海が背中に装備してあった槍を手に持つ。その姿はこれまでになく頼もしく、そして私の人形とは思えないほど意志に満ちていた。

 フランドールが私に対して猛スピードで突進し、私はそれを紙一重でかわす。背中を見せたフランドールに向けて上海が氷の魔法を撃ったが、彼女の振り向きざまにそれを両手で吹き消した。そして彼女は壁を蹴り、また私に爪を突き刺そうとしてくる。
 私は両腕で自分の上半身を守ろうとしたが、フランドールは下から私の横腹に爪を突き立てた。その痛みに私は呻き声を漏らした。フランドールの背中に上海が槍を突き立てた。フランドールは驚いたように後ろを振り向き、そして私から爪を抜き、急上昇した。
 私は横腹を抑え、彼女に向けて魔法を撃った。けれどそれは軽くかわされ、私に向かって急降下してくる。その急降下を上海が槍で狙い撃ちにしようと突進した。それもフランドールの左手の一薙ぎによって遮られ、上海は数メートル飛ばされたが、すぐに体勢を立て直した。

 弱っているとはいえ、フランドールが持つ吸血鬼の身体能力はまだその影を残していた。その反射神経、脚力は傷ついても衰えを見せはしなかった。やはり私がフランドールから攻撃を受ける方が多かった。
 けれど私もこの前のような違和感を抱くことはなかった。部屋の中をすべて見まわし、正確な位置取りや攻撃方法などを計算する。上海に指示を出し、ときには彼女の行動に任せてフランドールの隙を突こうとする。私がこれほど自分の能力を使うことはなかった。自分の力のすべてを出し切り、そしてその自分がいるという自覚をしたのはこのときが初めてかもしれない。上海も私の指示にうまく従い、ときには指示以上のことをやってくれた。フランドールに何度か槍で傷をつけることに成功した。私の危機をも何度か救ってくれた。
 それでもフランドールに隙は生まれなかった。私は扉を背にして彼女が外に飛び出さないようにしなければならなかった。隙をつくることとそれの並行は想像以上の負担だった。私も上海も少しずつフランドールからの傷をためていった。自分たちの動きが時間とともに鈍くなっていくのもわかった。
 けれど諦められない。私が諦めてしまったら、この地下室は永遠に崩れず、そのままフランドールが朽ちてしまうから。

#14

「吸血鬼の家族があるところに住んでいた」

 パチュリーはそう物語を切り出した。「ですます」調でもなく、抑揚もなく、子どもに読み聞かせするような口調ではなかった。けれど図書館でうずくまったままの私は、黙ってそれを聞いていた。

「そこには小さな子どもの吸血鬼が一人、それからその両親がいて、子どもの吸血鬼は親からとてもかわいがられていた。子どもの吸血鬼は親の愛情をいっぱいに受けて、五歳になった。彼女は言葉を覚え、そして自分で歩くことができるようになっていた。自分が自分であり、親が親であることを理解しはじめた。けれど五歳になった彼女にある大きな事件が起きた。

 その吸血鬼に新しい存在が誕生した。それは彼女の妹と呼ばれる赤ん坊だった。自分の髪の色と違い、その子の髪は金色で羽根も七色の宝石を持っていた。彼女と赤ん坊はほとんど姿が違い、少しでも似ているといったら二人の紅の瞳だった。彼女の両親はその子を慈しみ、彼女をかわいらしいといい、その子を常に抱いていた。純粋な光をたたえるその瞳がとくにかわいいと彼女の親は言った。

 けれどそれは姉となってしまった吸血鬼に強烈な嫉妬を生み出した。彼女の親は自分よりも妹の方に愛情を注ぐようになっていった。それは普通の親として当たり前のことだけれど、やはりどの姉も妹に対しては嫉妬する。姉は妹をある意味憎み、そして自分の妹というものは親の愛情を奪うものだと考えるようになっていった。だから彼女は母親が自分を見てくれるように、わざとわがままになっていった。たとえ叱られるだけだとわかっていても、母親が自分を見てくれればそれだけでよかった。それだけなら、時間がたつとともにそういった感情はなくなり、姉も妹も現実の世界の中で生きていくことができるようになるはずだった。

 けれどあるとき、ふとしたことから妹の吸血鬼には大変な能力が備わっていることが判明した。それはすべてのものを破壊する能力で、そしてまだ自意識というものに目覚めていない子どもには恐ろしい凶器となった。扱い方によってはその吸血鬼の家族だけでなく、世界さえ滅ぼしかねないほどの破壊の能力だった。そしてそうした子どもを愛さない母親がどこの世界にも数人いるのもしかたのないことだった。
 彼女の母親はその子を気味悪がり、まだ赤ん坊であった妹の吸血鬼をどこか人に見つからない場所に捨ててしまった。そしてもともと新しい子どもなんて生まれなかったかのように暮らしはじめた。吸血鬼の父親もそうした母親の態度を黙認してして、ふつうに暮らそうと努めた。妹が捨てられてからは吸血鬼の親は彼女に愛情を再び注ぐようになり、一見すれば円満な家庭が戻ってきた。そして彼女の両親もそれでよかったと心の底から思っていた。

 ふつうに暮らせなくなったのは姉の吸血鬼だった。まだ自意識が芽生えてそう時間もたっていない彼女にとって、憎むべき存在だった妹がいなくなるということは彼女に強烈な喪失感を与えた。妹ができてから母の愛情はすべて彼女に奪い取られていたのにもかかわらず、その愛情を受けていた妹が捨てられてしまった。
 吸血鬼は強烈な喪失感と不安に包まれていた。愛情を注がれていたはずの妹が捨てられ、自分が捨てられない保障なんて彼女にはないようなものだった。自分もいつか妹のように親に捨てられるのではないか、彼女はそう思っていた。それから彼女の妹がどうなったのか、憎んでいたはずなのに彼女はずっと不憫に思っていた。
 だから彼女は自分の家を飛び出し、捨てられた自分の妹を探した。吸血鬼だということが幸いしたのか、捨てられてから四日ほどたっていたが、妹は無事に林の中にいた。姉は彼女のもとにひざまずき、家から持ち出した食事を彼女に与えようとした。けれど彼女はそれを拒絶し、そして言葉にならない言葉で姉に問いかけた。『ママ?』

 その言葉は家を飛び出してきた姉にとってはあまりにも残酷な言葉だった。姉をママだと思ったのか、それともママがどこにいるのか尋ねたのか、姉には判断できなかったが、とにかく妹にとってはママという存在がいまだに絶対であった。たとえ捨てられたとしても妹はママを信じつづけ、その存在を求めていた。家を飛び出してきた姉はママにもなれないし、ママを信じることもできない。今さら家に戻れるとも思っていなかった。

 妹の前で困惑しきっている姉の頭に、ある紅の廃墟の姿が浮かんできた。それは妹が生まれる前に親とともに旅をした途中で見たものだった。彼女は妹に嘘をついた。『お母様は、真っ赤な館で待っていなさいと言っていたわ』と。そして姉は妹の身体を抱え、彼女の記憶に残っていた館にたどり着き、そこで来るはずもない母を待ちつづけることにした。
 そこであらためて家から持ち出した食事を妹は食べた。母親が来るということで安心したのか、あるいはどうしようもなく空腹になってしまったのか、姉にはわからなかった。幸いに人里は館からそう離れていなかったので、姉は人間を襲って自分はその血を吸い、その肉をそのまま妹に持っていった。そうして二人はかろうじて食いつないでいくことができた。

 姉は妹に昼夜の回数を教えさせないため、彼女を館の地下室に閉じ込めることにした。あまり長い時間が経ったということがわかってしまえば、妹が何をしでかすか彼女にはわからなかった。妹は姉の言うことに抵抗せず、おとなしく地下室に入っていた。姉の言うことに従っていれば自分のママに会えると信じていたからだった。
 二人の生活は続いた。途方もなく長い時間続いた。そして妹にとっての姉はママとなった。さらに長い時間が経ち、妹はある程度の現実を知ることになった。それは喘息持ちの魔法使いだったり、銀髪のメイドだったり、紅白の巫女だったり、黒白の魔法使いだった。彼女たちは妹の吸血鬼にそれなりの世界を見せたし、妹もそれを少しずつ受け入れていった。だから物理的には姉は自分の生みの親ではないことも、自分がどうして地下室にいるのかということも理解していった。姉の方も妹がそういう現実を理解しつつあることは自覚していた。

 けれど二人の中で失われたものは決して還ってきていない。それは二人の柱となるべきものだったのに、姉が五歳のときに、妹が生まれてすぐのときになくなって、そのまま失われつづけて年月が過ぎている。彼女たちの中のねじ巻き時計は沈黙をまもっている。彼女たちは誰かが自分たちの中のねじを巻き、柱となる存在を求めつづけているのかも知れない。そしてそれはおそらく――」

「本当のママ」

 私がパチュリーの最後の言葉を引き継いだ。パチュリーは首を縦にゆっくりと振り、そしてカップを手に取った。けれどそこに紅茶はなく、パチュリーはそれに気づいてそのままカップをソーサーに戻して言った。

「これが私の知っている物語よ。感想は受け付けてないわ」

 私はうずくまったままパチュリーを横目で見た。彼女は笑みも哀しみも見せず、ただ椅子に座って本を膝下に置いて私を見ているだけだった。本の匂いが不意に私の鼻をついた。私はパチュリーに尋ねた。

「それは本当の話なの?」
「さあ」

 パチュリーは淡々とした口調で答えた。

「ある程度は私の脳の中に生まれた真実らしい作り話かもしれないし、どこかには真実が紛れ込んでいるかもしれないわ。推測から生まれた推測もあるかもしれない」

 そしてパチュリーは「けれど」と言って小さく咳をした。

「ひとつだけ確かなことがあるわ。それはレミィもフランも私を自分の母親に会わせたことがなかったし、そして私に自分の母親の話をしたこともない、ということよ。だいぶ昔に彼女たちに出会ったのに、ただの一度も聞いたことがない」

 地響きが図書館に伝わってきて、また本が数冊床に落ちる音が響いた。けれどパチュリーは私から視線をそらさずに言った。

「それはつまり、彼女たちには私に話せない理由があるということだと私は考えているわ。それは母への絶望であると同時に希望なのだと、私は思う」

 私は顔を上げてパチュリーの顔を見た。彼女はあくまでいつものように力のない顔で私を見ていた。けれどよく見ると、それがいつもの表情を維持しようと努力して作られているものだと気がついた。彼女が何も感じていないなんて、そんなことはなかったのかもしれない。
 私は九日前の人形劇をゆっくりと振り返ってみる。それは魔理沙に言ったとおり「いじわるな母のもとから娘が飛び出す」話だった。けれど見方によってはその劇が「母が娘を捨てる」という話にもなりえるのではないだろうか? それはかなり極端ではあるけれど、そうして見ようと思えば――そして母に捨てられた子どもがそれを見たとしたら――そう解釈できるものだったのだ。

「私が悪かったのね」

 私の心の呟きは声となって私の口から滑り出た。そして声になった瞬間にその自覚はかたちをなして確かな重さを私の胸に感じさせた。パチュリーがため息をついて言った。

「さっきも言ったけれど誰が悪いというわけでもないわ。あなたはフランのことを知らなかったから」

 パチュリーはそこで話疲れたように椅子の背に寄りかかり、体の力を抜いた。そして何度か苦しそうに咳をした。私はパチュリーをしばらく見つめてよく考えた。長い時間が経ち、私はかろうじて彼女に聞こえるほどの声でパチュリーに尋ねた。

「どうして私にそんな話をしたの?」

 パチュリーは少し苦しそうに呼吸をしながら、それでも静かに私に答えた。

「ただの老婆心よ。けれどあえて言うとしたら――」

 そしてパチュリーは穏やかに微笑んで私を見つめた。

「あなたとフランがどこかで似ているように見えた。それでは答えにならないかしら?」

 私は首を横に振った。それで十分だった。パチュリーの言うとおりだった。
 私とフランドールはどこかで似ている。どこかという話ではなく、決定的に同じだった。私もフランドールも自分の母のことで苦しんでいた。母を捨てた私、母に捨てられたフランドール。それは正反対のようで、実はどこまでも一緒なのだ。いつまでも私たちは子どもだった。
 そこで私は気づいた。私がしなければならないことはフランドールに対する贖罪でもなく、責任を取ることでもなかった。自分と世界を隔てている壁を壊すことだ。逃げることもなく反抗することもなく、私は壁を壊すことができると強く思った。

 私はサメと決別しなければならないと思った。夢のなかで見たサメは間違いなく私が生み出したものだった。また地響きがして図書館の本棚から数冊本が落ちる音がした。ソーサーに載ったカップが再び倒れた。私はこの地響きも抑えなければならない。
 私は顔を上げてパチュリーを見た。彼女はずっと同じような顔で私を見ていた。そのどこか達観したようなその顔が私に確信を与えた。私は立ち上がり、そして彼女に背を向けて図書館の扉に向かって走りはじめた。

 私の母の顔が頭をよぎった。
 ねえ、お母さん。私は胸の中で自分の母に呼びかけた。
 お母さんなら、こういうときどうする? 私と同じように考えるかしら。母親に捨てられた子を見捨てることなんてできないわよね、絶対に。

 だって、自分を見捨てた娘でさえも、心の底から愛してくれているんですもの。

#15

 七色の光が交錯する戦いになっていた。彼女の羽根の色と私の繰り出す魔法が作り出す幻想的で眩しい世界。これから何が起こるのか、そして私たちが何をしたいのか、もう何もわからなくなっていった。私たちはただ、その世界の中で戦いつづけるだけだった。理屈も理論も感情もない。そこにあるのは激しく燃える炎だった。
 私も上海も限界が近づいてきた。私の体力が切れはじめ、朦朧とする意識の中で上海を操っていた。気づけばフランドールの攻撃を受けて地面に落ちていた。上海もフランドールの攻撃を受けつづけ、身体機能が落ちていった。
 それなのにフランドールには限界がないように見えた。いつになっても彼女の身体のきれは衰えず、ものすごいパワーで私をひねりつぶそうとしている。彼女に隙が生まれることなんて到底ありえないことのようにさえ感じられた。けれど私と上海は諦められない。彼女の攻撃を避けつづけ、たとえ倒れたとしてもすぐに立ち上がって彼女の前に立ちはだかった。

「どうして壊れないの?」

 フランドールは肩で息をしながら私をにらみつけ、悲痛な声で言った。地下室にまた新しい亀裂が生まれ、そこから地下室の破滅の音が近づいてきた。フランドールは肩に降りかかる塵を受けながら呟く。

「どうして邪魔なのに壊れてくれないの? 私はなんでも壊せるはずなのに、どうしてあなたを壊すことはできないの? どうして、ねえ、どうして――」

 七色の羽根が彼女の背中で小刻みに揺れている。それは彼女にも限界が訪れていることを如実にあらわしていた。もうお互いに気力だけで戦っているようなものだった。
 私は暗く染まりはじめた視界を無理やり開き、自分の腕を見る。そこには傷ひとつない。前にフランドールと戦ったときも私の腕だけはまったく傷ついていなかった。意図的なものなのか、無意識にそうしているのか、私にはわからない。けれどとにかく、フランドールは私の腕に攻撃していなかったのだ。
 私は苦しそうに息をする肺を鎮めようと深呼吸し、空に舞う塵を吸い込んで大きく咳をした。呼吸をすることさえ限界だった。けれど私は口を開いてフランドールに言った。

「どうしても壊れないの」

 フランドールがびくりと肩を震わせて、私をにらんでいた目は一気に不安に染められた。私は自分の胸に手をあてて続けた。

「いえ、壊れないのとは違うわ。壊せないのよ。あなたは私を決して壊すことはできない。それはあなたにもわかっているでしょう?」

 私はフランドールに歩み寄った。フランドールはもつれる足で後ずさりし、そして自分の腕で自分の身体を抱いてうつむいた。

「いや……いや、やめて、怖いの、やめて……」

 彼女の声は少しずつ小さくなっていった。私はさらにフランドールに近づいた。

「本当は私を壊したくないのよ。だってあなたは――」
「やめて!」

 フランドールが私の言葉を遮り、そして地面を蹴って私に飛びかかってきた。おそらく残っている彼女の体力すべてを使い果たして。私はそれを避けようと身体を動かそうとした。けれどもう自分の身体は自分の意識では制御できなくなっていた。筋肉が誰かに吊られているような感覚で少しも動かなかった。
 もう彼女の攻撃を避けるのは無理かもしれない。私はそう思ったが、同時に願わずにはいられなかった。せめてこの攻撃さえ避けることができるなら、私は――。

 そして彼女の爪が私の顔に触れる刹那、真っ白な閃光が私の目の前を右から左に走り、フランドールはその閃光に呑み込まれて流されていった。そして床にうちつけられてそのまま何度か床を転がり、うつぶせになって動かなくなった。
 私は閃光が走ってきたところに視線を移した。そこには上海人形がいて両手の手のひらを前に差し出していた。彼女がさっきの閃光を出したのだと私はわかった。けれどその技をどこかで見たことがあるとも私は思った。魔理沙のマスタースパークだ。
 しばらく時が止まったように上海は空中に留まっていたが、やがてすべての魔力を使い果たしたのか、地面に落ちて彼女も動かなくなった。

「上海」

 私は荒い息混じりの声で彼女に呼びかけたが、反応はなかった。私は動かない上海に向かって首を縦に振った。ありがとう、上海。あとで直してあげるから。そういう思いをこめて。

 それから私はフランドールの方を見た。彼女は腕を動かし、両手を地面につけて身体を起こそうとした。けれどその腕は震えるだけで彼女の身体を支える力は残っていなかった。苦しそうな息声が彼女の口から漏れ、崩れかかっている部屋に転がるように響く。
 私は動かない身体を無理やり動かし、重心が定まらないままにフランドールのもとに歩み寄っていった。何度かバランスを崩して床に倒れ込みそうになったが、足を地面について耐えた。
 フランドールが首を私の方に向け、そして追い詰められた獣のような表情を浮かべる。傷だらけの顔で小さな悲鳴を上げた。

「いや、やめて、来ないで……」

 フランドールは今にも泣き出しそうに見えた。私は黙ってフランドールに近づいていく。もう彼女に語りかける言葉でさえ口から出すことができなかった。フランドールが上半身だけを起こしたまま首を小さく横に振る。

「嫌よ、嫌いよ、あなたが嫌いなの、来ないで……」

 私は唇を固く結び、そして喉が震えるのを抑えてフランドールの隣にひざまずいた。そして彼女の前に両手を差し出した。フランドールはそれを見て、それから私に視線を戻した。紅の瞳が揺れている。小さな体が痛みに震えている。その身体でフランドールは左手を振り上げて言った。

「壊れてよ……」

 そして彼女は左手を振り下ろした。爪が私の顔の表皮を裂き、真っ赤な血が私の頬から滴り落ちた。フランドールは涙をこらえるような表情で私を見つめている。もう彼女は腕を振り上げなかった。ただ首を横に振って私を拒絶しようとしているだけだった。

 ふと私の顎から血に混じった涙が落ちた。いつのまにか私の目から涙がこぼれてきた。その涙はとめどなく私の目から生まれ、泣き出しそうなフランドールの前で小さな流れを作っていった。
 どうしてだろう? どうして私は彼女の前で涙をこぼしているのだろう? わからない。ただ私は悲しくて、切なかった。フランドールがたまらなく愛しくて、その傷ついた姿がたまらなく哀れで、それが私の胸を震わせる。自分の血の流れも身体の痛みもその震えの前に消え去り、私はフランドールしか目に入らない。
 どうしてそんなことを感じるのだろう? 彼女が私に似ているから? 違う、と私は思った。似ているとか似ていないとか、そういうことではない。そんなものはこの震えを説明できない。この涙は理屈や感情ではないはずだ――。

 私は両腕をのばしてフランドールの肩に静かに手をかけた。フランドールは唇を固く結び、それをへの字に曲げていた。紅の瞳は私を見据えて動かなかった。
 次の瞬間、私はフランドールを自分の腕の中に抱きしめていた。彼女の小さくて、軽くて、傷ついた身体を私に最も近い場所に引き寄せていた。そして彼女の身体の感触を、彼女の体温を、彼女の身体の震えを、私は自分の身体で感じていた。その衝動は今までの何よりも強く私の体を突き動かした。
 フランドールは私の腕の中で震えていた。どうしてこんなに小さいのだろう。私はそれを強く思った。私の腕の中で震えているのは狂気に満ちた獣ではなく、小さな子どもだった。

「ごめんね」

 彼女を抱きしめる私の口から、言葉が涙のようにこぼれた。

「私はこうすることしかできない。小さなあなたを抱きしめることしか、私にはできないの……」

 それ以上の言葉は紡げず、私は愛しさと切なさにまかせてフランドールを抱きしめた。どれほど強く彼女を抱きしめても足りない気がした。その欠落は私の涙としてあふれ、フランドールの体を濡らしていった。涙を止めるすべも、自分の無力さを変えるすべも、私にはなかった。彼女の頭に私の顔を埋めてただ泣いていた。

 フランドールが私の腕の中で、震える声で呟いた。

「あなたが嫌いよ」

 そう言って、けれどフランドールは私の体に腕をまわし、ぎゅっと子どものように私の体にしがみついた。その力はもう吸血鬼のものではなく、本当に小さな子どものものだった。

「……大っ嫌いよ」

 フランドールは涙声でそう言って、声をあげて泣く。今まで泣いたことがなかった子どもが、初めて泣いた。495年の時間を超えて彼女の涙はここにつながっていたのだと私は思う。私は彼女の涙も泣き声をも受けとめて、彼女を抱きしめて涙をこぼしつづけた。

 時の流れは止まり、あるいは進み、巻き戻された。視覚も聴覚も明らかではなかった。壊れかけた部屋の中で私とフランドールは抱き合っていた。いつまでも、いつまでも永い時間。世界の終わりを私たちは感じていた。そして地下室は崩落しはじめた。

 ――なんとなく今になって私は思う。私はいつか母になるのではないかと。

#16

 気がつくと見覚えのある白い天井が私の視界いっぱいに広がっていた。私はゆっくりと体を起こし、痛みに顔をしかめながらまわりを見渡した。私の隣で魔理沙が椅子に座っていて、私は自分の暖かいベッドの中にいて、そしてそこは私の家だった。痛みが何度も私の体の中を駆け巡った。

「夢だったの?」

 私がそう魔理沙に尋ねると魔理沙は静かに答えた。

「いいや、夢じゃないさ」

 魔理沙は身を乗り出して私をじっと見つめて言った。

「おまえとフランが地下室で抱き合っていたのは、間違いなく現実だったよ」

 そして魔理沙は爽やかな笑みを私に見せて「怪我人は寝てなよ」と言った。
 私は自分の体を見下ろした。再び包帯に全身が巻かれていて、やはり腕の部分は怪我ひとつなかった。身体がひどく痛んだ。
 ふと私は思い出して言った。

「上海」

 私はもう一度自分の周囲を見渡して上海人形の姿を探した。上海は魔理沙のそばにあるテーブルの上に腰を落ち着けていた。私は彼女の無事を確認して肩をなでおろした。魔理沙が私を見たまま、首を微妙に傾けて言った。

「大丈夫だ。私が魔力を注入しておいた。幸い大した怪我もなかったみたいで、すぐに動き出したよ。で、それからずっとお前のことを心配そうに見ていたぜ」

 私を静かに見ている上海は、魔理沙の言葉にゆっくりと首を縦に振った。魔理沙の言うとおり、彼女は大した怪我がなさそうだった。私は自然にため息が漏れて体の力が抜け、ベッドにまた横たわった。
 窓から夏の陽が差し込んでいて、部屋の中は異様に暑かった。魔理沙の横顔を汗が一筋流れ落ちていった。それを見ていた私の額にも汗がじわりと浮き出てきた。夏らしい空気をそのまま感じることができたのが久しぶりのように思えた。

「まあ、とりあえずはおまえの怪我を治すこった」

 魔理沙は笑ってそう言い、椅子から立ち上がって私に尋ねた。

「これから昼食にするけど、ご飯と味噌汁でいいか?」
「和食ばっかりね」

 私は呆れたように笑ってそう言った。魔理沙は頭の後ろで手を組んで私に応えた。

「私は日本人だからな、和食がいちばん合ってるんだよ」

 その魔理沙の気持ちは、私には少しわかるような気がした。私は首を縦に振って魔理沙に言った。

「うん、ありがとう。いただくわ」
「よしきた、任せとけ。美味しい和食を作ってやるからな」

 魔理沙はにやりと笑って腕まくりをするような動作をし、キッチンに向かって歩いていった。キッチンが爆発しなければいいけど、と私はひとりごちて窓の外に目を移した。今度こそ雲ひとつ無い空が森の木の隙間から見えた。森は深い青を背景にして濃い緑を浮かべていた。それは長い長い雨がやんだあとの、これ以上ない美しい世界の景色だった。

 それから私たちは魔理沙が作った昼食を食べた。魔理沙の言ったとおり、ご飯とお味噌汁とそれからおしんこというとても簡素な食事だった。もう少しタンパク質と脂肪をとらないと、と私が言うと、魔理沙はそれじゃあ太って箒に乗れなくなるじゃないかと返した。それもそうねと私がうなずくと、それもそうだろと魔理沙もうなずいた。
 魔理沙が作った食事はとても美味しい、とは言えないけれど、そこそこ美味しいものだった。正直なところ、魔理沙がそれなりに料理をできるのが私には意外だった。「魔法はパワーだぜ」と言っている魔理沙が料理をしている、その映像を思い浮かべることができなかった。私がそう言うと魔理沙はふくれつらを作って言った。

「失敬だな。私だって料理できるんだぜ。母さんから習ったからな」

 私は魔理沙のふくれつらがなんだか可笑しくて、思わず吹き出してしまった。するとごはん粒が魔理沙の顔にかかり、それが面白くてさらに私の笑いは止まらなくなった。魔理沙が怒ったように私を責めたが、しまいには私の笑いにつられて魔理沙も笑っていた。
 和食も悪くないと私は思った。今度から自分の食事に和食を加えてもいいかもしれない。私は頭の中で密かに検討することにした。

 少しして、味噌汁を飲みながら魔理沙が私に言った。

「それにしてもパチュリーから知らせが来たときは冷や汗をかいたぜ」

 私はごはんを食べる箸を止めて魔理沙に尋ねた。「どういうこと?」

「パチュリーからの手紙が突然私の家に転送されたんだよ。たぶん転送魔法を使ったんじゃないか? で、その手紙にはアリスが地下室に行く、って書いてあった。血の気が引くような、冷や汗がどっと吹き出るような気がしたぜ。この前のようなことがまた起きるんじゃないかってな」
「パチュリーが手紙?」

 私はパチュリーの表情を思い浮かべた。偏屈なあの魔女が魔理沙に手紙を書いている姿を想像して少し不思議な気持ちになった。パチュリーも結局私とフランドールのことが気になっていたのだろうか。
 魔理沙は空に視線を浮かべたままぼんやりと話しつづけた。

「フランが暴れつづけていたのは知ってたから、そりゃもう全力疾走で地下室に向かったよ。おまけに地下室が崩れるような音がしていたから本当に焦りに焦っちまった。でもなあ、開いてる扉から飛び込んだときは驚いたなあ。お前とフランが抱き合ったまま気を失ってるんだぜ。結局すぐあとからやってきた咲夜にフランを任せて、お前は私が運んだんだ」

 魔理沙は味噌汁を飲みおえ、ご飯の器を手にとって食べはじめた。私は少しの気恥しさを覚えてうつむいた。フランドールと抱き合っている姿を魔理沙だけではなくて、咲夜にも見られていたのかと思うと、自分の顔に熱が浮かんでくるのがわかった。私はそれを押し隠すように一気に食事を進めた。
 魔理沙はそんな私の姿を眺めながらさらに続けた。

「でも驚いたのと同時にさ、ふっとため息も出てしまったよ。地下室が崩れて自分の命も危ないっていうのにな。お前とフランの姿は、まるで本当の母と娘のようだった」

 私の箸が止まり、私は顔をあげて魔理沙の顔を見た。魔理沙は首をゆっくりと縦に振った。それは確信に満ちた肯定の動作だった。だから私は魔理沙に尋ねることにした。

「フランドールはどうなったの?」
「地下室はなくなったけど、紅魔館のベッドの中で介抱されてるよ。パチュリーからあのあとのことも連絡が来た。今はフランドールも落ち着いてるってさ」

 魔理沙はそれから私を見て尋ねた。

「フランのこと、やっぱり気にしてたのか?」
「ええ」

 私が少し小さな声で答えると魔理沙は横顔を向けて言った。

「今はフランのことを心配しなくてもいいさ」

 どうして、と私が尋ねる前に魔理沙が言った。

「私もフランのことは気にかけてたからな。紅霧異変のときからずっと」

 魔理沙はそう言ってまた箸を進め、ご飯を口の中に入れていった。私はそんな魔理沙を見つめている。本当にすべてはこれでよかったのかどうか、まだ確信が持てなかった。何かを見落としているのではないか、そんな不安が私の胸の中にわずかに残っている。
 けれどそれを吹き消したのも魔理沙だった。ご飯を口の中で噛みながら、魔理沙は呟くようにぼそっと言った。

「ありがとな」

 そして魔理沙は私の目を真っ直ぐに見た。彼女の表情は、すべてがこれでよかったのだと言っているようだった。そして私は魔理沙の顔を見て笑いがこぼれた。

「ほっぺにごはん粒ついてる」

 私がそう言うと、魔理沙は慌てて右手で自分の右頬を触りそこに米粒がついていることを確認した。それから頬を少し赤く染めて指についた米粒を口の中に入れた。ばつが悪そうな顔で私を見る魔理沙。そういうところがやっぱり魔理沙らしく、私は好きだった。

 昼食を終え、私たちは私のベッドルームで静かな午後を過ごした。私はテーブルに置いてあった上海人形の細かな修復をし、魔理沙は私の本棚から取り出したグリモワールを眺めた。
 上海人形は一部が欠けてはいたものの、すぐに治すことができた。治しているあいだ彼女はときどきくすぐったそうに身体をはねさせることがあった。それが怪我を手当してもらっている子どものような動きで、私はときどき自分の下腹部が疼いた。この短期間に上海人形はもう人形という存在から離れはじめているような気がした。そして私はそれを当たり前のことのように受け容れはじめていた。
 修復が終わると上海は嬉しそうに宙を舞った。自分が元気であることを私に見てほしい、そんな動きだった。私も上海の様子を見て、自分の顔に微笑が浮かぶのを感じた。上海の舞いを眺めながら私は魔理沙に呼びかけた。

「ねえ、魔理沙」
「うん、なんだ?」

 魔理沙がテーブルに頬杖をついたまま、本から顔を上げて私を見た。私は上海から魔理沙に視線を移し、その金色の瞳を見て尋ねた。

「あなたは自分のお父さんもお母さんも好き?」

 それはもう答えがわかりきっている問いかけだった。魔理沙はしばらく私の顔をじっと見て、それから顔をほころばせて言った。

「ああ、好きだぜ」

 魔理沙は頬杖をつくのをやめて背筋を伸ばし、グリモワールを閉じた。

「私を産んでくれたことにももちろん感謝している。それに私が私としていられるのも二人のおかげだからな。もうすぐお盆になるけど、一度は実家に返って二人に顔を見せるさ」

 私はゆっくりと魔理沙にうなずいた。魔理沙はへへっ、と笑って鼻の下を人差し指でこすった。私はそんな魔理沙を見て、そして自分の部屋と家の中を見回しながら言った。

「私も一度は魔界に帰ろうかしら? せっかくのお盆なんですもの」

 魔理沙は「それがいいや」と言った。

「神綺もお前が帰ってくれば喜ぶだろ。そりゃもう飛び上がって踊るほどに」

 私は自分の母が飛び上がるようにして私に抱きついてくる映像を頭に思い浮かべた。絶対にそうしてくるはずよね、と思い苦笑した。そうしてきたとしたら、私はお母さんを抱きしめてあげようとも思った。そういうふうにできる自信もあった。
 あ、と魔理沙が思いついたように声をあげて私を見た。

「アリスが魔界に帰るなら、私もアリスについて行こうか。魅魔さまにも会いたいし、それから神綺にも会わなくちゃいけないな。いつもアリスにお世話になっています、ってな」

 私はその言葉に呆れながら魔理沙に返した。

「そうよ、本当に。いつも私がどれだけあなたを世話しているかわかっているわよね? 食事とかお菓子とかお茶とか本とか本とか本とか……」

 私が魔理沙の悪行を挙げていこうとすると、魔理沙は慌てて両手を振って私を制止しようとした。

「ちょっと待ってくれ。今回のことでは私がお前を世話してやっただろうが。介護したり食事を作ったり大変だったんだぜ。だから今日はおあいこってことで、な?」
「わかってるわよ」

 私はいたずらっぽく魔理沙に笑いかけて小言を止めた。けれど最後に一言付け足すのは忘れなかった。

「でも借りた本は早く返しなさいよ、いいかげんに」
「ああ、いつかな?」

 とぼけたようにいう魔理沙に再び私は呆れ、大きなため息をついた。けれどそれと一緒に笑いも口から漏れてきた。魔理沙も私と一緒に笑う。上海も目を細めて私たちを見ている。そうして夏の暑い午後は過ぎていく。

#17

 それが今日のこと。そして夜になって、私は今こうしてずいぶん長い手紙を書いている。上海が私の隣で私の書いた手紙を最初から読んでいる。彼女が文章を読むことができるのと私は初めて知った。
 まだまだ上海は変わりつづけるのだと思う。パチュリーの答えの意味はまだわからないけれど、でもこうして過ごしていればいつか上海人形は自立する。そんな気がする。私はそれを見守ることにしようと思う。

 いろいろなことが起こった。私も肉体的に傷ついたり精神的に参ったりしたし、今もまだ身体は包帯で巻かれてはいるけれど、これもあまりひどい怪我はなかったようだ。だから心配しなくても大丈夫。
 前にも書いたように、私は来たる盆にそちらに帰ろうかと思っている。魔界を出てから初めて里帰りするから、私は少し緊張しているし恥ずかしくもある。里帰りするというのはこういう気分なのだろうか。けれど決して悪い気分ではなくて、むしろその緊張が心地いい。怪我が早く治ってほしい。
 そういえば魔理沙は本当に私について魔界に行くつもりなのか、とうとう聞きそびれてしまった。彼女のことだからおそらくは本当なのだとは思うけれど、一緒に行くならまたそれはそれで別の心の準備をしなくてはならない。まったく私は魔理沙に振り回されているような気もするが、でも今回のことでは彼女に深く感謝している。

 お母さんからの手紙が来てからのこと、私はまだそれをすべて理解できないではいるが、ひとつだけわかったことがある。それもまだ言葉にすることはうまくできないけれど、でも表現できるだけはしてみようと思う。
 私が一人で魔界を出ようとしたとき、夢子や他の魔界の人たちが必死で私を引き留めようとする中、お母さんだけは私に対して何もしなかった。魔界の神だからそうしようと思えば魔界の出口を塞ぐことだってできたはずだ。でもそうしなかった。
 お母さんは、私が離れて行くのを見るのはすごくつらかったはずだ。でも何といえばいいのだろう、それはお母さんが自分で選びとった道なのだと私は思う。私はそのときは何も気づいてはいなかったけれど、それはお母さんがお母さんであるために選んだのだと今は思える。
 そう、だから今の私が私でいられる。魔理沙の言ったとおりかもしれない。

 未来のことは誰もわからない。運命を操ることができるレミリアも、遠く先の未来を知ることはできない。時の流れは歯車のように簡単なものではなく、海に存在する無数の波よりも、もっと多くのことが絡まって進んでいる。
 でもたとえば歯車を動かす炎のように、あるいは波を起こす風のように、時の流れを進める根源的な力もどこかには存在しているのだろう。それを探そうだなんて大それたことは思わない。私はただ、時が来たらその力にしたがって決断するだけだ。そのとき私は本当の母になることができるのだと思う。そして私はそうなりたいとも思う。

 魔界に帰ったら、少しだけお母さんに甘えさせてほしい。私を抱きしめてほしい。そのぬくもりの中で私は静かに呼吸をしたい。私の腕の中でフランドールが感じたものは何だったのか私も知りたい。
 それからお母さんに見せたいものもある。お母さんからもらった上海人形。彼女がそっちに行く頃にどうなっているのか、私も楽しみでしかたない。

 最後に月並なことを書いてこの手紙を終えようと思う。続きは魔界に帰ったときに山ほど話すから。

 私は元気です。昔も大好きだったけれど、今の私としてもまた言わせてください。

 ありがとう、お母さん。大好き。

                     ――アリス・マーガトロイド

 この手紙の余白に書き込むことを許してほしい。スペースが無いのであまり多くのことは書けない。しかし短いながらに私がこうしてあなたに書いている目的は、アリスの成長の記録、そして私自身のアイデンティティの証明。
 私は上海人形。あなたがアリスに初めて渡したという人形。私が自我を持ち、こうして文章を書けることをまだアリスは知らない。あなたがこの文字に気づいてくれれば私は「嬉しい」と思う。

 パチュリー・ノーレッジが私に伝えた言葉、「魔力は精神の波動」。確かにこれに尽きる。私はこの言葉を理解できた。アリスが私に対してとった行動、言葉。彼女は意識していないかもしれないが、彼女の精神の波動はすべて私に伝わっている。そうした波動は私の中で永遠に消えない。少しずつ私という自我を形成する。
 人形はルールに従うものだが、アリスは偶然にも自分のルールを自分で壊した。その波動が私に伝わり、私に新しい経験が蓄積された。一見理不尽なものが私というものを決定づけたと、私はパチュリーの推測から推測する。

 私はアリスを「憎い」と思ったこともある。しかし彼女はやはり私に「魔力」という名の愛を注ぐ。ちょうどフランドールにそうしたように。だから私は彼女の糸から解き放たれ、私として生きていけるようになった。

 この文章を私がうまく書けている可能性は低い。まだ意識のルールの影響が強く、意識で理解できないものが多いからだ。しかし最後にこれだけは「自信を持って」書ける。
 アリスはもう私の主人ではない。母だ。

 
 


 
もう少し小さい頃に言っておきたかったです。「お母さん、大好き」って。
 

初出:2010年3月20日

 


 
■裏話
 
 お話の裏話をする前にここの話をしましょうか。
 裏話はとくに何を書こうと決めているわけではありません。私が自由気ままに思うところを書いていくだけです。だからお話を作る過程が書かれる場合もあるし、私自身がもう少しテーマを煮詰めていく場合もあります。読みやすさやテーマなどは本編と違って考えていません。最後に誤字脱字があるかをちょっとチェックするくらいです。

 このページに需要があるかというと、別にないとは思います。けれどあったら嬉しいな、なんて私は思うわけです。漫画家さんや作家さんがあとがきで書いてくれると楽しいように。
 私は創想話のあとがきもお話のひとつとして考えていますので、あとがきは最低限に抑えています。そのかわりここで自分を出していると、そういった具合です。
 ちなみにですが、最近の私の創想話のあとがきはいかにもテーマらしいことを口走っているように見えると思いますが。言ってしまえばあれはブラフです。もちろんテーマに絡んではいますが、主テーマではないです。

 ということで、そろそろ「Worlds’ End With You」の裏話に入っていきましょう。

 長編です。思わぬ長編になりました。もともとはそんな長編にするつもりはなく、アリスとフランドールのツートップで終わる予定でした。けれど何をどう間違ったらあんなに長くなるのでしょう。
 長くなった理由は三つです。魔理沙と神綺と上海人形。アリスと関わりの深い人物を考えたら、メインテーマに沿うような人物として外せなくなったのです。
 神綺はアリスの母親。魔理沙はアリスと同じようにして幻想郷に一人で住んでいる魔法使い。上海人形はアリスが最初から大事にしていた人形。

 ここで明かしてしまいますが、このお話のテーマは「ママから独立して、対等な関係を築く」ということです。母に反抗しているだけではまだ独立とは言えない。もちろん母の世界に閉じこもっているのは依存。
 対等な関係を築いたのは、あの話の中では魔理沙です。そしてお話の序盤のアリスはまだ反抗しているだけ。上海人形はアリスの言う事に従うだけ。フランはレミリアの作った世界の中に自ら閉じこもっている。

 けれどアリス、魔理沙、上海、フラン――そしてまたいろいろな人たちが複雑に絡まり合って、それぞれの母親をもう一度想う。自分と母親の関係を想う。そして彼女たちはそれぞれ自分の世界を作り出していきます。独立していくために。
 でも、それでもやはり彼女たちの世界は完全に母の世界からは離れません。常に端っこで繋がっている。それはもうどうしようもなくて、自然の摂理です。だから対等な関係を作ろうと思うのです。母を殺すのではなく。
 だから、「End」なんです。これは「終わり」ではなく「端」という意味で私はタイトルに入れました。

 基本的なお話はここからできています。それからあとは多くの比喩とエピソードが絡まってその大きな流れを作っていくようになっています。まあ、その流れをなるべく悟られないようにして、こう、もやもやぁっとした感じで進ませたかった。

 個々のエピソードは解説していると本当にきりがありませんので、今回はひとつだけにしておきます。パチュリーです。

 パチュリーの立ち位置については私も非常に困りました。今回のお話で彼女はあまりに多くのことを知りすぎています。レミリアとフランの過去をある程度は知っているようですし、上海人形が自立しはじめた原因も知っている。フランが暴れはじめることも予期していた。明らかに知りすぎです。

 それでも私が自分の心にゴーサインを出したのは、彼女の立ち位置をはっきりさせたからです。それは「おばあさん」……え!? 文字通り彼女を「おばあさん」にさせていただきました。
 母と子の関係を見るとき、誰が一番よくわかっているかといえば、それは母親の母親だと思っています。つまり子にとってのおばあちゃん。おばあちゃんは何しろ経験済みなのですよ。わかっているはずなのです。母親の苦労も、自分が子どものときの苦労も。だからある程度何が起きるかというのは、普遍的なことなら予想できるのだと思っています。

 パチュリーは母親になったこともたぶんないとは思います。でも今回はそのおばあちゃん役がいないので、ある意味しかたなく彼女をそうした立ち位置に持ってきた、という具合です。

 では最後に、タイトルの秘密について書いて終わりにしましょう。
 実はタイトルはあるゲームの英語版タイトルのオマージュです。スクエアエニックスのゲーム、「すばらしきこのせかい」(The World Ends With You)。あのゲーム、個人的にはすごい好きなんですよね。このお話とテーマはまるで関係ありませんが。

 そしてひさしぶりの英語タイトル。サイトオリジナルの「Worlds End」以来となります。もちろんこのタイトルも意識して、今回のお話を作りましたし、内容もけっこうかぶっていますね。

 英語タイトルをつけるのは、私自身の体験が基になった場合につけることにしています。だから「Over 40」も「Worlds End」も今回のお話も、どこかでは私と繋がっていることになります。それを明かすことは、おそらく永遠にないでしょう。恥ずかしいので。