ひとりごと

炎上案件とピッコロ先生はディスコミュニケーション大好き

最近、色々おやらかしの人がTwitterで炎上している案件を見ます。
女性問題だったり、LGBTの問題だったり、熱中症の問題だったり。

よくまあ、こんなに起こるなあと思いつつ、
今まであちこちで起こっていた小さなことが
ネットの力で公に見えやすくなっただけのなのかもしれません。

今回はこんな炎上案件とドラゴンボールのピッコロの共通点の話です。

……なにが共通するんだっていうね。

炎上とは、ある事柄についてネットで非難が殺到することです。
しかし、この「非難」という行為は非常に厄介です。
その原因の多くが、ディスコミュニケーションにあると私は思っています。

例えば……ではなく現実に起こったのですが、
ある国会議員が「女性は子どもを産み育てる義務がある」と言ったとしましょう。
これはもう、ほぼ間違いなく炎上案件です。
ツイッターで非難轟々、フェイスブックでも叩かれ、
その騒ぎがテレビで報道され、国会で追及され、
発言者は謝罪する状況に追い込まれるでしょう。

さて、ここで疑問。
なんでこの国会議員の発言は炎上するのでしょうか?
私、あらためて考えたとき、一瞬怯みました。
でも、次のように答えます。

「子どもを生みたくない女性もいるから」

つまり、国会議員が「女性全員」という認識なのに対し、
私は「女性全員というわけではない」と思います。部分否定です。

では、次の疑問。 なんで「女性全員」だといけないのでしょうか?
これもあらためて考えると、やっぱり一瞬怯みます。
でも、私は次のように答えます。

「一人ひとり違う考えを持つ自由が私たちにはあり、
その自由を奪うことは許されないから」

そうしたら、最後の質問です。
「国会議員の考えを叩くのは、相手の考えの自由を奪うことではないか?」

さてさて、こう考えると何やらおかしなことになります。
「違う考えを持つ自由がある」と言いながら、
先の国会議員の考えを私は思いっきり否定しており、
もし炎上に参加しているのであれば、
私は国会議員の思想の自由を奪うことに加担しています。

これは「私は嘘つきである」の構造に似ていますね。
絵面的に言えばルビンの壷みたいな。
自分の思想によって、自分の思想を否定しているわけです。

もちろん、この矛盾から逃げる手段はあります。
例えば「ただし、犯罪や人々を傷つける考えは否定すべき」とか、
「叩くことも自由な考えの一つだ」とか。

でも、そういう逃げ方をしているとさらにややこしいことに
「人を傷つけるとはなにか」とか
「犯罪は法律で決まっているのだから法律が云々」という
些細な方向に思考が迷走して止まらなくなります。

こう考えると非難するにしても、
その論拠を突き詰めていくと、意外と危ういものがあります。
でも、大抵はそこまで突き詰めることはなくて、
「女性差別は悪いことだ!」で済まされるわけです。

あるいは、「多様性は大事だ」と言いながら、
そもそも言行一致していない人も普通にいます。
私の身の回りにも「色んな人が働けるようになればいい」と言っているのに、
私が「移民は?」と聞いたら「移民は嫌い」と平然と言う人もいます。

こういう人たちを「お前はおかしい」と非難するのは本当に簡単です。
口に出して言えばそれでオッケー!

でも、そうやって出た非難の言葉、 それでどうなるのでしょう?
炎上した結果、国会議員がやめることはあっても、
女性差別が消えることにどれほど貢献しているでしょう?

私、ときどき感じるのですが、
非難して何かを変えることって本当に難しい。
例えば仕事で上司の愚痴言っても、 上司は中々変わらないじゃないですか。

自分の身に置き換えてもそうです。
友人に「お前のその考え方ありえねーよ」と言われたら、
いらっとして「はいはい」と馬耳東風。
考え方なんか何ひとつ変わりゃしません。

考え方がいくら正しくても、
相手に伝わらないということは往々にあるものです。
これは結構真実だと思うのです、個人的に。

炎上する側は、もちろんその問題の理解が足りていない。
そして炎上させる側も、本当に変えるべき対象をほとんど変えられない。
これぞディスコミュニケーションというわけです。
コミュニケーション・ブレイクダンスです。(古いな……)

さて、これがどうやってピッコロと繋がるのか。
私も知りたい、本当に。いちもの書きとして。
それはディスコミュニケーションの原因にあると考えています。

ディスコミュニケーションの原因
は あらゆるところで分析されているかと思いますが、
私個人の意見は「話を聞く場」が設計されていないから、ということです。
これは物理的な話ではなく、心理的な話です。

たとえば、私は村上春樹を尊敬しています。
そんな彼がどういう偶然か私とお茶することになり、
私の前でこういうことを言ったとします。

「本物の小説を書くなら、寝る前に酒をがぶ飲みした方がいい」

これ、傍から見たらおかしいですよね。
明らかに寿命縮めそうだし、そんな酔っ払いが小説を書けるとは思えません。
でも、私だったら激しく首を振りながら、
「そうなんですね!!!」とか言っちゃいます。

なぜなら、私は村上春樹を尊敬しており、
無条件に彼の言うことを聞く姿勢になっているからです。
これが、私のいう「話を聞く場」ということです。

でも、これが私の全然知らない作家の場合。
「は? 何言っちゃってるんですか?」と返すでしょう。
その作家のことを尊敬していませんから。

そういう心理的な場を作る手段としては、
発言者だったり、場所だったり、時間だったり、
いくつか手段があります。

さっきの国会議員で言えば
発言をテレビで取り上げられて非難されることが、
謝罪する大きなきっかけとなるでしょう。
上司なら、更に上の上司を使うことで、
考えを変えさせることができるかもしれません。
プロポーズなら昼間のサイゼリアより夕暮れのディズニーシー、とかね。

自分の発言で本当に誰かを変えたいのなら、
そういう相手に対して効果的な手段を選ぶ。
そのためには相手を知ることが自ずと必要です。

でも、相手のことを知らなければ有効な手段がわからない。
それなのに発言すると、ほとんど相手に理解されない。
そうやってディスコミュニケーションが起きるというわけです。

しかし、創作ではあえてディスコミュニケーションを起こします。
よくあるパターンだと
「敵だと思っていたヤツが実はすごく良いヤツだった」手法ですね。
ここでようやくドラゴンボールのピッコロというわけです。

最初、ピッコロは悪役として主人公悟空の前に立ちはだかります。
大魔王ですから、本当悪そうなやつです。顔もめっちゃ悪い。
読者としては「なんだこいつ、信用できない」わけです。

しかし、サイヤ人襲来編から少しずつ様子が変わります。
ラディッツを倒した際、偶然にも悟空を殺すことができたピッコロ。
そこで彼は世界征服をしてもよかった。でもしなかった。
それどころか、悟空の息子の悟飯を強く育てていきます。

そこで「あれ、こいつ実は悪いやつじゃないのか?」と読者は感じます。
そして、サイヤ人との戦いで悟飯が命の危機に晒されたとき、
ピッコロが悟飯をかばって身代わりになる。
こうして、読者の認識はドカンと変わります。
「ピッコロ、実はすっげーいいやつじゃねーか!」と。

こうしてあえて最初に作ったディスコミュニケーションを覆し、
そのキャラクターのことを読者が理解した状態へ大きく変化します。

これは本当、作者の場の設計が実に絶妙です。
たとえば主人公を大ピンチに陥らせるとか、ですね。
そういうときに助太刀に入ると、否応なく信頼感が増しますよね。

そして、過去話などで鑑賞者が同情せざるを得ない事情を用意しておく。
飢えるほど貧乏とか、親にも見捨てられたとか、死なれたとか。
そういうシンパシーを生んでこそ、最初の認識を覆せるわけです。

ときに、そんなキャラクターがものすごい人気を誇るのは、
ディスコミュニケーションからの認識ちゃぶ台返しが衝撃的だからです。
だから、ギャップによるインパクトを狙うために、
作り手はあえてディスコミュニケーションを生み出すこともあるわけです。

もはやディスコミュニケーションを起こすことは、
そうしたちゃぶ台返しを狙ったミスディレクションなのかもしれません。

……

世の中にけしからんことが多いのは確かです。
非難もしたくなりましょう。して結構。
ただ、そのままでは世の中はあんまり変わらないことも頭の片隅において、
本当に世の中を変えたければそれなりに頭を使いましょう。

たとえばもの書きの手法みたいを見習って、
ピッコロばりの悪になるところから始めてみてはいかがでしょうか?
(ダメです)