観てきました、『未来のミライ』。
宣言してから感想を書くのが遅くなったのはご勘弁。
で、今回はとてもまじめ。いたって真面目。
この映画、本当によく描かれていたので、
見どころと感想を合わせて書いていきますね。
まず、端的に言うと、この物語は「くんちゃんの成長」がテーマです。
……そんなことは誰でもわかるので、もう少し正確に書きますと、
「四歳のくんちゃんが他者という存在を認識し、
自己というものを形づくるまでの物語」ということになります。
ところが、このテーマは三歳児だけではなく、
大人でも時々忘れてしまいがちな、とても大事なものです。
まず、この物語はくんちゃんの妹が家にやってくるところから始まります。
これ、兄弟や姉妹の上の子だったらわりと理解できると思うのですが、
最初はこの赤ちゃんがかわいいんです。
しかし、すぐに妹が自分にとって面白くない存在だと思い知らされます。
お父さんやお母さんは妹のミライちゃんにつきっきり。
自分がかまってほしいと思ってもないがしろにされ、
急にやってきた赤ちゃんの方ばっかり可愛がるわけです。
面白くない、「好きくない」。
だから、赤ちゃんをいじめようとするのですが、
そうするとお母さんは、ますます自分から離れて赤ちゃんを気にかけます。
本当は自分のことをも気にかけてほしいのに。
くんちゃんは今までと何かが違うことに気づき、大泣きします。
しかし、家の庭に逃げ込んだとき、
急に「謎の男」が現れて、くんちゃんが泣く理由を「嫉妬」と呼ぶのです。
いやあ、びっくりしました。
あっさりここで「嫉妬」と言ってのけるとは。
ぶっちゃけた話、この感情を知ることとどう解消するか。
それだけで立派に物語をひとつ作れてしまうものですが、
開始早々にそう告げるということは、
この物語のテーマは「嫉妬」ではないと言っているようなもの。
そうはいっても、四歳児にとって両親の愛は世界のすべてに等しい。
しかし、その愛を自分から奪う存在が出てきたということは、
くんちゃんにとっては全然面白くありません。
初めての「他者」の登場。
でも、くんちゃんはそれを受け入れることができません。
しかし、それからくんちゃんはたびたび庭で不思議な体験をします。
お母さんが子供だった時代に戻ったり、
ひいおじいちゃんの若いときに戻ったり、
あるいは十数年先の未来に行ったり。
それは自分の家族にまつわる冒険なのです。
そこでくんちゃんは少しずつですが、
身のまわりにいる人たちの形を知ることになります。
片付けにうるさいはずのお母さんが、実は散らかすのが大好きだったり、
お父さんにはひいおじいちゃんの面影が残っていたり。
しかし、そうはいってもくんちゃんにとっては、
まだ他者というのは受け入れられる存在ではなかったのです。
ところが、未来の東京駅で迷子になったとき、係員から問われます。
「あなたを特定するために、家族の名前を教えてください」と。
(確かこんなセリフだったと思います)
くんちゃんはこの質問に答えられません。
お母さんの名前はなんだっけ、お父さんの名前はなんだっけ。
犬の名前は思い出せるけれど、それではダメ。
ここで私もハッと気づかされるのですが、
この映画でくんちゃんの両親の固有名詞は一切出てきません。
それは両親がくんちゃんの中で絶対的な存在であり、
両親が社会の相対的な関係の中で生きていることを、
くんちゃんが認識できていないということを示しています。
お母さんだって昔は誰かの子どもでした。
お父さんは体が弱くて自転車になかなか乗れませんでした。
でも、まだくんちゃんにはそれが見えていないわけです。
自分が世界そのものであるかぎりは。
自分と他者を認識できない。
それは自分の形がないのと同じ、といってもいいでしょう。
だから、くんちゃんは地下深く深くの、
名前のない場所へ連れていかれそうになります。
でも、そこで赤ん坊のミライちゃんが現れます。
今まで自分が好きくないと思っていたミライちゃん。
でも、彼女が何もないところに連れ去られそうになって、
くんちゃんは初めて、自分が何者であるかに気づきます。
くんちゃんはミライちゃんのお兄さんだと。
今まで好きくなかったミライちゃん。
気に入らなかった他者。
でも、「自分が何者であるか」という問いに、
ミライちゃんという他者こそが答えをくれたのです。
それはくんちゃんが自己というものを認識したということです。
そして、くんちゃんが他者との関係性を理解したということでもあります。
ありきたりな言葉で語るのはあれですが、
人間はたったひとりで生きることはできず、
他の人間との関係の中で生きています。
特にこの現代では他者との関係を避けては通れません。
自然、自己認識は他者との関係の中で形成されていきます。
これは発達心理学での常識です。
常識なのですが、こういう日常生活の描写の中で、
徐々に他者というものを理解し、自己認識を形成する姿を描くのは、
並の知識ではとても難しいことだと思います。
私たちの認識、世界の見方が
ある出来事で急に変わる、というのはそう多くありません。
私たちの日常は、ファンタジーではありませんから。
自分が何かの末裔だったり、どこかの国のお姫様や賢者と出会うこともない。
色々な小さな出来事が積み重なって自分を作り上げていくわけです。
もちろん、この映画はファンタジーです。
庭でくんちゃんが体験する出来事もファンタジーです。
でも、くんちゃんの成長はリアルで、
細田監督は自身の子どもをよく見つめていたんだろうな、と想像させられます。
ところで、これは四歳の子どもが主人公でありながら、
大人になった私たちにも通じるテーマです。
「自己を形成するのは他者との関わり」
こう書けば思い当たる人もいるかもしれません。
『新世紀エヴァンゲリオン』ですね。
TV版だとわかりづらいですが旧劇場版だと、
人間がみんな自身の境界を見失い、シンジ一人に溶け込むようなシーンがあります。
しかし、最後の一人になったシンジが選んだのは、
「傷ついてもいいから他者と共存する」ことでした。
なぜなら、みんなが境界を失ってしまったら、
自分が自分ですらなくなるということに気づいたからです。
そうして、最後に自身を否定するアスカと「二人」になるのです。
なんでここでエヴァンゲリオンを取り上げたかというと、
人間はいつでも他者との境界が大きな悩みのひとつなんだ、
ということを示していると思うからです。
幼児で初めて他者の存在を知る。
思春期で、他者との付き合い方に悩む。
オトナになったらより多くの人間と付き合い、色々な隔たりを知る。
今回の『未来のミライ』は家族の樹形図が大きなモチーフになっていますが、
くんちゃんの成長の過程にあるものは家族だけではなく、
血の繋がっていない赤の他人との付き合い方でも
とても大事なものなんだと思います。
誰かを「好きくない」。
そう思ったとき、なぜ自分がそう思ったのか。
その相手の背景には何があるのか。
協調はしなくてもいいと思います。
けれど、そういう想像をすることが、
他者を通じて自分を知るとても大事なことなのではないでしょうか。
まあ、なんだかクソ真面目に書いてきましたが、
本当にこの映画はくんちゃんの成長の過程の描写が素晴らしいです。
おすすめ。
……いまだにわからないんだけど、
なんでワンちゃんのしっぽをぶち抜いて、
自分のおしりにぶちこむのかなあ……(最後シモネタ)