また、この色合いだ。最初に思ったのはそんなことでした。「リズと青い鳥」のときも同じ感情を抱いたことを覚えています。
パステル調の青。澄んだ空気の色。そして、トツ子たちの一挙手一投足から生まれる空気の揺らぎ。瞳の揺らぎ、ステップの足先、楽器を鳴らす指先。アニメーションでしか描けない、繊細で言葉にできない世界です。
言葉にはできない、でも確かにそこにある「色」
彼女たちが、自分たちが何者かを見つけようとする青春は、とても脆くて透き通っています。だから、私は息を潜めるのです。その繊細さを壊すことがないように。
決してダイナミックな物語ではありません。三人が外の世界に何を成し遂げたかと言えば、虹高のバレンタイン祭で三曲演奏しただけです。けれど、三人はそれぞれの中で何か大きな「区切り」をつけたように思いました。それだって目に見えるような区切りではないけれど、とても大事なもの。
それを私たちはうまく言葉にできないのかもしれません。けれど、トツ子が最後にバレエを踊るとき、天からの祝福に包まれて踊る彼女にあの色が差し込むとき、その光景に心を震えてしまう。存在を消していたはずの自分がいることを、そこで感じてしまったのです。
きみの色。トツ子が自分の色を見つけたように、きみちゃんとルイ君が自分の色を見つけたように、私たちにも色があるのです。
透明な紐を緩める大人
さて、詩的に始めてしまいましたが、この物語には偉大なる先輩がいます。もちろん、日吉子先生です。私が彼女を本当に好きなのは、寄り添いこそすれ、導くことはなかったというところです。これができる大人は本当に少ない。
きみちゃんのおばあちゃんも、ルイ君の母親も決して悪い人物ではないし、子どものバンド活動を応援してくれるだけでも、貴重だと思います。思いますが、それぞれ子どもに対する期待で無意識に透明な紐で縛っています。愛すればこそ束縛になる。
日吉子先生はその紐を少し緩めてくれる存在だと感じました。見失わない、けれど本人たちが自分たちの手足で前に進むことができるように。そうしたら、全能の神がなんとかしてくれるさ、God Almighty. そんな気持ちなのかもしれません。
そうして、三人は、それぞれ束縛から離れて、空へと舞い上がっていけるのです。あの七色のテープのように。
乗り越えようとする美しい意思を、聖歌と名付ける
この物語では、様々な要素が絡み合っていますが、私が特に気になったのが「キリスト教」「ロックバンド」「青春」でした。
ロックと青春はもはや語るまでもなし。ロックは若者の反抗精神と深く結びついていますから。親からの期待、学校からの期待。三人は明確な反抗はしなくとも、言葉にできない違和感を抱いていたはずです。偶然とはいえ、ロックバンドを組むのは当然でしょう。
ここにキリスト教が関わってくるから面白い。しかも、ロックとの対比でもなければ、青春との対比でもありません。ある意味では青春もロックも包み込む、度量が大きい存在になっていると感じます。
「聖歌」。もちろん厳密な意味ではキリスト教で神を讃える歌ですが、日吉子先生がその解釈の幅を広げてくれたように、善きもの、美しきものを歌い上げるのも聖歌として捉えるならば、彼女たちが歌ったものはロックでありながらも聖歌だといえるのだと思います。
確かに何かに縛られていることを彼女たちは感じているのですが、それを壊そうとするわけではなく、絶望に塗りつぶそうとするのでもなく、美しきものに向かって乗り越えようとする意志を感じます。特にトツ子による歌詞は、トツ子・きみ・ルイの三人を入れながら、独特なワードチョイスも相まって、とても前向きです。
淡さから、鮮やかさへ
ここでトツ子のバレエに戻ってきます。彼女があのバレエを、ある種の神々しささえ讃えながら踊れたのは、青春とロックを己が内に昇華したからなのだと、そう思うのです。自身の色を見つけると同時に、鮮やかな色彩が溢れる空間で踊る彼女。
単なる青春のひとコマを切り取っただけの映画とはとても思えない、瑞々しさにあふれた世界に我々はずっと浸っていたのでした。