映画感想

映画「鬼滅の刃 無限列車編」感想 ~ 文句なしの満点。それ以上ではないけど。

私はものかきなので、映画も度々観ます。映画も好きです。が、年間に見る本数は数本にとどまります。昨年は結局一本も見ていないんじゃないか? ってくらい、観に行く頻度低いです。

それはなぜかというと、非常に疲れるからです。自分ではそうするつもりもないのに、鑑賞中は集中力が常に最大で、観終わった後にどっと体が重くなります。なんだったら、終わった瞬間に眠くなります。たまに映画はしごする人がいますけど、本当信じられないわ。

そんな中、今年はいきなり映画を観るところから始まりました。そう、今や300億を超えた男、煉獄さんの出演する『鬼滅の刃 無限列車編』です。

私は漫画はまだ読んだことはなく、テレビアニメ版を全部観ただけのヌル勢でございます。テレビアニメ版は、面白かったです。展開が非常に早くて飽きず、映像がグリグリ動くので、バトルもとても楽しかったです。そして、キャラクターも面白い。特に善逸。

でも、それ以上かと言われると、「まあ……面白いけど」です。物語的には様々な謎があるものの、この物語の伝えたいことは非常に明確でわかりやすく、かつさっぱりしているので、それ以上言うことがないんですよね。でも、人気になる理由はわかります。

そんな状態で観た劇場版でございました。やっぱりあまり印象は変わりませんでした。面白いです。感動もします。でも、それ以上言うことがありません。伝えたいメッセージは映画の中で全部語ってくれるので、私がそれ以上何か考える必要もないんですよね。

というと、否定的な意見みたいですが、決してそんなことはなく、ヒットする十分な要素は備えているし、この時勢に公開されたことは、偶然とはいえとても貴重なことだと思います。結果、300億を超えたことも不思議ではありません。

まず、結論から書くと、「理不尽な現実が目の前にあっても、何度でも立ち上がって前に進むしかない」という煉獄さんの台詞が軸でしょう。これはテレビアニメ版でも炭治郎が言葉にするシーンが何度もあります。

このテーマ自体は目新しいものではありませんが、やっぱりコロナ禍で打ちのめされている人たちに刺さるものだと思います。好きなことが今までのようにできなくなって、大切な人たちともなかなか会えなくて。鬱屈した気持ちがたまっている中で、こういうことをドストレートに言ってくれるのは、ある種の気持ちよさすらあります。そういう意味では「日本に元気をくれる」と言ってもいい。

そして、炭治郎の主人公性を明確に描いたのも素晴らしい。夢の世界から無意識領域に行ったとき、彼の無意識領域は澄んだ空、濁りなき水面、あたたかな空気に満ちていました。彼を廃人に追いやろうとする子どもに対しても、あえて弱点まで連れていく妖精たち。炭治郎がいかに綺麗で真っ直ぐな人間かを表現したシーンでしょう。これは圧倒的な強さをもつ煉獄さんにもない風景でした。

テレビアニメ版でも度々描かれていたのですが、炭治郎はとてもいい子です。傷ついた人を放っておけず、その人たちに寄り添うように優しい。そして、敵であるはずの鬼にすら、倒した後に寄り添い、彼らの根源的な部分に触れていく。誰にも寄り添える、真っ直ぐに根がいい子というのは私の触れた創作物ではあまりない人物です。

言ってしまえば、泥臭いほどの優しさ。それがこの映画ではっきりと示されたのも、炭治郎が主人公にふさわしいと証明してくれています。テレビアニメ版でなんとなく察していたのが、ここで表れたのは、今後の炭治郎の人物像をしっかりしてくれるでしょう。

そこが次の「幸せな夢と理不尽な現実」に繋がってきます。炭治郎が夢から目覚めるきっかけとなったのは、直接的には禰豆子の血鬼術と頭突きによるものですが、夢と決別できたのは炭治郎自身の強い意志によるものです。電車内の他の子どもたちや車掌が、理不尽な現実から逃げ、幸せな夢に逃げ込む中、炭治郎は夢の家族を捨て、自分の首を切り落としてでも夢から覚めようとする。そこには炭治郎が現実に立ち向かうだけの意志と主人公性が見えます。

現実に立ち向かうだけの意志なら、おそらく煉獄さんにもあるのでしょう。無意識ながらも敵に立ち向かったのはその表れです。でも、結局目覚めたのは炭治郎ひとり。やっぱり、そこが彼の特別なところです。夢を見せる鬼もそのあたり、狂気的な真っ直ぐさにビビっていましたし。

さて、無限列車を止めたあたりから、ガラッと変わってきます。上弦の鬼の登場ですね。

ちょっと関係ないですが、こいつ、煉獄さんに「鬼にならないか?」って執拗に誘ってきますよね。何回言ってるんだよ。煉獄さん、きっぱり断っているのに全然あきらめないし。石田彰ボイスもあいまって、強いくせに若干ストーカーみたいで気持ち悪い(誉め言葉)

正直、観終わってすぐは、この上弦の鬼の登場は蛇足のような気がしていました。「無限列車編」て銘打っておきながら、無限列車止まったし、あんまり画にならない平地みたいなところで戦ってるし。原作がそうだからしょうがないんだろうな、とか思ってました。でも、「理不尽な現実」というものを描くとき、このシークエンスも必要だっただろうな、と今では思います。

煉獄さんが息を引き取った後、炭治郎は言います。「自分の前に大きな壁がある。でも、先輩たちはそのもっと先で戦っている。自分たちは追いつけるのだろうか?」

現実に立ち向かい続けた炭治郎が、この映画のラストでは大きく挫折しているのがわかる台詞です。加勢しなければと思っているのに、鬼と煉獄さんの激しい戦いに、手も足も出ないまま終わってしまった。その無力な現実に打ちのめされている。

個人的に良かったのは、そのあと伊之助が「それでも前に進むしかねえんだよ!」と泣きながら炭治郎に喝を入れたことでした。彼は唯我独尊のように振る舞いますが、テレビアニメ版で意外と人の言うことを聞くことが多く、煉獄さんの言葉も実は真っ直ぐ受け取っているんですよね。先ほどのセリフもこの映画のあとも進もうとする強い意志を感じるのです。

対して、炭治郎は最後まで泣いたまま。「煉獄さんは負けていない」は大事な言葉だと思いますが、少なくともこの映画の中では立ち直れていない。これがマジの理不尽なんだな、と思うと、まあ、一筋縄ではなかったなあ、と思います。

さて、これだけ書いても、映画で言われている以上のことは何ひとつありません。悲しいかな、映画の振り返りに過ぎないのです。

演出についても、ど派手なものや綺麗な画もたくさんありました。でも、意図して不思議に見えるカメラワークもないんですよね。シークエンスの意図をそのまま反映させたような感じ。

最初に「さっぱりしている」と書きましたが、例えるならウィダーインゼリーでしょうか。噛む(解釈する)必要がなく、栄養(言いたいこと)をそのまま受け取れる。何度も言いますが、これ自体は決して悪いことではありません。このストーリーや演出は、あえて言えばすべて正解で、誰もその意図を誤りません。メッセージも普遍的で前向きだから、感想を共有できるし話題にできる。ヒットは当然だと思います。

でも、私の好みではなかった。私は田舎そば食べたいんですよ。ものすごい噛まないといけない、あれ。あごも疲れるし、あんまり好きじゃない人もいます。場合によっちゃ、咀嚼できなかったりするときもあります。でも、その歯ごたえがいいんですよねえ。味の感想の違いも結構。そういう視点があるという発見こそ、最高ではありませんか。

と、最後にちょっと落としてはしまいましたが、私は原作未読勢です。アニメもこれから確実に続きが描かれるでしょう。この物語がどう進むのか、どう変貌するのか、追いかけてみたいとは思います。