映画感想

映画感想「すずめの戸締り」〜トラウマをフィクションで描くこと

「すずめの戸締り」が気になる方に、率直な感想をお伝えしなければなりません。

すずめの戸締り タイトル

この映画は、被災者にとってつらい時間になるでしょうし、「夜は必ず明けるから」と思えるような作品ではないと私は感じました。

ハッピーなエンドでは癒しきれない、トラウマを呼び起こす

まず、大まかなストーリーはとてもわかりやすく、かつ何の躊躇いもないハッピーエンドです。

主人公すずめが、日本に地震をもたらす「みみず」を封じる要石を抜いてしまったことにより、「閉じ師」である宗像草太と日本各地の裏戸を閉じていく、というのが大枠になります。

従来の新海誠作品にあったような、男女の別れの切なさだったり、中二恋心を拗らせたような何かはなく、すずめと草太は同じ目的のためにまっすぐに動いていきます。しかし、この作品はそんなストーリーと裏腹に、そして今までの新海誠作品になかったような、現実でのトラウマを呼び起こす作品でした。

そもそも序盤から緊急地震速報のあのアラートが鳴ります。かなり音は和らげているものの、それでもどきりとすることは変わりません。そして、何よりクライマックス。すずめたちは2011年の東日本大震災の跡地に向かうことになるのですが、そこで描かれたのは、震災直後の火災の様子、津波で何もかも流された後の廃墟。

東北の廃墟をバックに
この場面も特殊効果で綺麗に見えますが、周囲は本当に廃墟です。

あの描写の細かさから、おそらく本当にあった風景をモデルにしたのでしょう。見覚えがある、と思った人さえいるかもしれません。正直すごく辛い描写だと私ですら感じます。東北でクライマックスに入った時から、私の後ろの席の人のすすり泣きが止まることがありませんでした。いわゆる感動するシーンとかつらすぎるシーンではなかったので、実際にそうした震災に遭った方なのかもしれません。

ラストで震災の元であるみみずを封じ、すずめが「明けない夜はない」と前向きなセリフを口にしますが、私はとてもそれで終われる話ではないように思えました。かなり生々しい震災後の描写を、あの綺麗な夜空と描写と対比するようにぶっ込んでいることは、もはや暴力的にトラウマを叩き起こしているようにさえ思います。

そうしたものすごくつらい描写を入れているからこそ、ラストは何の文句もないハッピーエンドにしたのかも知れません。そして、私にとってはそれでよかった。でも、後ろの人は? 後ろの人のトラウマは? それを癒すことなく物語が終わってしまったように思うのです。

この物語は、東北の震災をモデルにしている以上、どうしても個人的なトラウマに踏み込むことになります。しかし「フィクション」がそうした実際の出来事をモデルにすることは難しいと常々感じます。

実在の出来事そのものにインパクトがあり、体験した人の人生を大きく変えてしまうことです。非常に嫌な言い方をすれば、それ自体がある種のストーリーになってしまっているのです。そうした人たちの追体験をしたいのであれば、ドキュメンタリー映画や、取材記録を見ることが一番だと思います。被害を受けたつらさや、そこから前向きになる姿は、現実の人々を取材し編集するだけでも十分に成り立つはずです。(私はそういう感動ドキュメンタリー的なものは好きではありませんが)

しかし、この映画は「フィクション」です。いかに大震災をベースにして、綿密な取材を重ねたといえども、多くの人が関わっていようとも、フィクションである以上、監督である新海誠氏の個人の考え方が大いに反映されます。

そんな作品であるからこそ、よくある「明日は必ず来る」というようなありきたりのメッセージで終わらせてはいけない、と私は思います。つまり、ドキュメンタリーとは違うメッセージが必要ではないか、と思うのです。そして、実際にその片鱗があるようには思います。それは後述します。

そうした試みがあるにせよ、とてもわかりやすいすずめのセリフで「夜が明ける」はつらいものだと思いました。実際に新海誠氏がどの程度そのセリフの比重を重くしていたかはわかりませんが、ストーリー的な位置からすれば、あれがメインテーマであると多くの人が思うはずです。そして先に述べた通り、実際の震災の痛みは、そんなセリフでは癒しきれないと感じました。

そういう意味では、私自身はどうしてもこの作品を「あの震災に向き合った物語」とは断言しきれません。そもそも、フィクションで描いた以上、あの震災に真正面から向かい合うこと自体に相当な無理があるのだと思います。

「震災から立ち直る」とは違うテーマ

さて、私が感じた、単純に「明けない夜はない」とは別のテーマを感じる部分ですが、それは母親の不在、からの「母親」でした。

この映画は、母親の存在がキーになっている部分がかなり多いように思います。草太が姿を変えられてしまったあの椅子もそう、おばさんもそう、そしてすずめが心の奥底にずっと母親を求めていたこともそう。しかし、当の母親は回想以外で姿を見せることはありませんでした。ラストのラストでも、母親だとずっと思っていた人物が実はすずめ自身であった、ということから、母親の不在がかなり強烈に印象に残りました。

しかし、それが逆に「母親がいて欲しかったすずめの思い」を印象付けているように思います。小さい頃に母親を探して故郷に戻ることももちろんですが、大きくなって小さな頃の自分を見つけに行く時も、どこかで「母親がいてくれたらいいのに」というすずめの感情が垣間見えました。一方で、道中ですずめを助けてくれた人たちにはそれぞれ家族がおり、温かい家庭を築いていました。それが逆にギャップというか、すずめの中にある「母親がいたらいいのに」という思いを膨らませたようにも思います。

すずめと母親

でも結局は母親はどこにもいない。小さい頃別れたきりで、時空を超えたラストでも会うことが叶わなかった。とても残酷ですが、これが一つの「母親離れ」の形なのだと私は思います。母親代わりのおばさんと、あの駐車場でそれぞれ一人の人間として認め合い、血を分けた母親とは不在のままに依存から離れていくように。

これはとても面白い描き方だな、と思いました。ありがちなやり方で言えば、ラストで母親の思い出と会って、それと決別するシーンを入れるでしょう。そうではなく、最後の最後まで母親が登場しないあたりが、ファンタジーな映画の中にあってとてもリアルな描き方でした。残酷なほどに。

この映画はやっぱり「残酷」である

さて、それぞれの要素を書き連ねましたが、やっぱり私としてはこの作品が「とても残酷」であるように思いました。震災の描き方もそうだし、母親の不在の描き方もそう。メインストーリーはファンタジーそのものなのに、核心部分がとてもリアル。だからこその、ハッピーエンド。

震災にトラウマのない人たちにとっては、とてもスッキリしたお話になるのでしょう。一方で、あの震災に傷つけられた人たちには、古傷を抉るようなものになってしまうのだと思います。

私は正直、この映画をお勧めはしません。特に東北に住んでいて、あの震災を経験した人たちには。いかに有名になったからといっても、リアルの大きなできごとを基にしてフィクション作品を作り上げることには危うさもあるのだな、と深く感じた作品でした。