ひとりごと

あるべき私はなく、今の私がいて、なりたい私がいる。

こんなツイートを見て、なるほどなあと思ったことを。

【実録】はじめて心が折れた人。①

自他ともに私のメンタルは頑丈だ!!
という認識だったので
折れた時、ほんとーーーーーにどうしていいか分かりませんでした。

そんな時、私が救われたエピソードを…。
②に続きます。 pic.twitter.com/YpthhNjWvM— 夏ノ瀬 いの (@stylish_gorilla) 2018年7月6日

かなり共感できることも多いと思います。
私が共感した部分でいうと、
「自分は意外と自分のことを知らない」というところでした。

私自身も最近似たようなことがありまして。
7月までは元気で文章もバリバリ書いていたのですが、
8月に入ってから持続的な頭痛と腹痛に襲われました。

仕事はかろうじてできましたが、
生活する気力はごっそり奪われてしまい、
掃除や洗濯をするのがしんどかったです。

熱中症かと思ったのですが、二週間以上続いたので、
メンタルが原因なのだろう、とそのときは思いました。
でも、どうやってそのメンタルを回復させるのか、
全然私にはわかりませんでした。

「自分のあるべき姿に戻れない!」と焦りながらも、
ぐったりと何もやる気のない日々が続きました。

でも、お盆終わりのある日、
とても仲の良い友人とお酒を飲みにいく約束をし、
これだけはなんとか行く(自信なし)……という気持ちで、
体を引きずってお酒を飲みに行きました。

お酒です、お酒。
調子が良くない体に良いわけありません。
でも、不思議なことに、一軒目を出て二軒目に行く頃には、
今までずっと続いていた頭痛や腹痛や、
体の怠さが消えていたのです。

なんなんでしょうね。
別に友人にカウンセリングをしてもらったわけではありません。
普通に話していただけなのですが、
体の調子がだいぶ良くなりました。
翌日以降も完璧ではありませんでしたが、
だいぶ以前の状態に戻っていました。

で、さっきと今、「戻る」という単語を使いました。
だから、当時の私は「私の普段はこうあるべき」というラベルを、
自分自身に貼っていたのです。

でも、中々体調が治らないときに考えたことがあります。
「たとえば私がひどい病気にかかって、
 両脚を落とさなければいけなくなったら、
 私のあるべき姿って、ぜんぜん変わるよな」と。

これはマイナスの思考です。
でも、大事なことだと思っています。

なぜなら「あるべき私」というラベルは私が作ったものだからです。
そして、それは物理的な絶対の定義ではなく、
私の頭の中になんとなくあるイメージに過ぎないからです。

今、私は五体満足ですが、
もし脚がなくなったら「普段の私」は変わるはずです。
脚がない私が「普段の私」になる。

でも、それは私の「あるべき姿」とは大きく異なることになるでしょう。
そして、きっと私はそれを当分理解できないはずです。
決して戻らない脚をイメージしながら、
「普段の私は、脚がある自分なんだ」と思い込もうとするでしょう。

あるべき姿と現実が違う。
「あるべき自分」にはどうやってもなれない。
そうすると、本当につらくて、死のうとすら思うのかもしれません。

紹介した漫画もそういう部分があると思います。
作者さんは自分が折れたときの現実を知らなかった。
そして、それは自分自身が「信じて」、
他者が「信じて」いたイメージとはかけ離れていた。
それを受け入れられなくて、つらい思いをしたのだと思います。

じゃあ、どうやってそのつらい状態を抜け出せばいいのか?

この漫画ではとても理解のある友人が
「あんたはあんたじゃん」というかたちで作者さんを肯定しました。
「普段の私じゃない私」を、それでも「私」として肯定すること。
それが大きな力になったのだと思います。

ここで大事なのは「理解のある友人がいた」ことではありません。
自分という存在の理解の仕方です。

先にも書いたように「あるべき自分」というのは、
時として現実の自分と離れてしまうことがあります。

「あるべき自分」というのは幻です。
なぜなら「べき」という言葉には他者の存在が見え隠れする。
でも、「べき」は一体誰が決めたことなのでしょう?
親? 友人? 先生? 上司? 部下?

いや、あくまで自分です。
だって、気に入らない人から言われたら、
「そうなるべきだなあ」なんて納得できないでしょう?
そういう選別をしている自分こそが、ラベルを貼っているわけです。

しかし、所詮ラベルです。
現実の自分に即していないラベルを貼る可能性もある。
その時点で、現実の自分を理解できなくなってしまいます。
そして、ラベルと違う自分が見えたとき、
「これは本当の私ではない」という事態に陥るわけです。

おかしいですよね。
勝手に作られて、しかも間違っているかもしれないラベル。
それが「本当」に感じてしまうなんて。

でも、ときどき犯してしまう間違いです。
私も何度もやってしまいます。

そんなとき、私は「あるべき」から離れるようにします。
さっきも言いましたが、ラベルは他者が作ったものを、
自分が選定して貼っているに過ぎません。
だから、こうやって私はラベルを剥がすのです。

「こうあるべき、なんて私はどこにもいない。
 こういう私がある。そういうことだ」

たとえば、私は一時期ほぼ毎日寝酒をしていました。
「寝酒はやめるべき」というのはもちろんわかっています。
この悪い習慣を断ち切りたい。

でも、そこで「私は寝酒をしないべき」というラベルを貼ると、
単純に一滴も飲まないという選択をし、
酒を飲みたい現実の私を押しつぶすかたちになります。

そのまま消えてくれれば何も問題はありません。
でも、だいたいこういうかたちで我慢すると、
あるときドカンと爆発して、とんでもない深酒の寝酒をしてしまうこともありました。

だから、こう考えるようにしました。
「私は寝る前に酒を飲みたくなる人だ」とまずは認める。
その上で理想の私を作ります。「私は寝酒をしない人になる」と。

ここは「べき」とは違います。
自分と理想の自分にギャップがあることを認めるのです。
なので、別に寝酒をしてしまってもいいわけです。
今の私はそんな人だから。

でも、「寝酒はやめたい」という気持ちは持ち続けます。
理想の自分はそこにいるわけです。
いつか、そこに行こうという気持ちは持ち続けます。

だから、例えば週に一回は寝酒しないチャレンジをしてみます。
その翌日は別に呑んでしまってもいい。
それだって、ほんの少しは理想の自分に近づいています。

それを続けると、週に一回は飲まなくても平気になります。
すると、自分の中の現実が変わっていきます。
「私は週に一回は寝る前に酒を飲まなくても大丈夫なひとだ」と。

そうしたら「じゃあ、もう一日試してみるか」と、
週に二回飲まない日を作ってみます。
たまに後戻りして、週に一回になったりしますが、
それでも理想の自分に近づいています。

そうやって徐々に飲まない日を増やしていきました。
そうすると、いつの間にか週に一回も寝酒しなくても、
全然平気になっていきました。

最終的には私の現実はこう変わっています。
「私は別に寝酒しなくても平気なひとだ」と。
もちろん、寝酒したい日もあるし、たまにやります。
でも、それは「寝酒しなくても平気なひと」という現実とは矛盾しません。
こういうふうに現実の自分は変わっていくものです。

「べき」というラベルはとても便利です。
便利ですが「このラベルはつらいな」と感じたら、
現実の自分とは違うラベルが貼られているんだと思います。

そんなときに「今の私はこういう私なんだ」と思う。
自分に貼っていたラベルを、そっと剥がせばいい。
そして、「べき」の自分を一旦未来に置いて、冷静に見つめ直せば、
ラベルに押しつぶされない生き方ができるように思います。

まあ、こんなこと書きながら、今日は酒を飲んでいます。
いいんです。そういう私がいるんだ、と認識すれば。

……いや、本当に。
ここで(ダメです)と書かないのが今日のオチです。