いきなりですが、私は――まあ走ることが好きです。
週に最低でも一回、できれば三回くらいは走っています。
だいたい一時間程度で10キロほど。
近いうち、ハーフマラソンも走ろうかと思っています。
今回はそんな走ることについての話。
私の話というより、村上春樹氏の話です。
私が走る習慣を身につけたのは最近のことです。
少し前まで、週一回ジムに行くのがやっととでした。
それが増えたきっかけは、ある本を読んだせいでしょう。
そこには「小説家の村上春樹も毎日走っている。逆に走っていない日はなんだか調子がよくない」というような文言があったからです。
――村上春樹、走るの?
彼のファンであれば当然知っているのでしょうが、私には衝撃でした。
彼のイメージは、なんとなく煙草を手にしていて、
コーヒーを飲みながら執筆するスタイルかと思っていたので。
(本当、適当な想像の産物ですよ?)
でも、同時にぼんやりと納得することもありました。
長編小説を書くことは、マラソンみたいなところがあり、
苦しくてもどこかにあるゴールに向かってやり続けるものなんだろうな、と。
そんなイメージがあって、私もなんだかんだで憧れもあって、
そして走る回数を増やしていった――というわけです。
それからしばらくして手に取ったのが、
そんな彼の著作『走ることについて語るときに僕の語ること』でした。
上記の想像の経緯もあり、てっきり走ることと
小説を書くことを結びつけた本なのかと思っていました。
……が、もちろんその側面もあるのですが、
それより単純に、ランナーとしての彼の人となり、
そして長い距離を走ることがどういうことなのか。
語られていたのはそんな世界でした。
この本の中盤まで、彼がニューヨークマラソンに向けて、
トレーニングを積んでいることが語られています。
走る距離の記録、そしてどのようにトレーニングするか。
どの時期にどのような走り方をするか、を。
初歩的な驚きですが、フルマラソンを走るために、
時期に合わせて走る距離を変えるんだな!と感じたのです。
大会近くになると、筋肉を回復させるために
あえて走る距離を落とすなんて、思ってもみなかった。
それがランナーの常識であり、
大会で記録を出すための緻密な計画なのです。
自分の体と相談しながら、どのタイミングでどう練習するか。
そこには駆け引きがある、と彼は言います。
意外と――彼は緻密な方なのですね。(いや、失礼)
でも、ちょっと考えれば、ああいう小説を書くのだから、
その緻密さはあって然るべきです。
しかし、それが大会当日になったとき。
フルマラソンという果てしないと感じるほど長い距離。
いいですか、一時間以上走ると……計画性や理性。そんなもの吹っ飛びます。
三十分なら「耐えてやろう」と思います。
五十分なら「なんとかいけるかな」と歯を食いしばれます。
しかし、一時間以上になったとき……。
村上春樹はアテネで走って、苦しくて暑くて、
そして思うのです。「ビールを飲みたい。ビールを飲みたい」
そこに小説を書くときのような緻密さなどありません。
同じペースで走ることすらきっと苦しいのでしょう。
長い距離を走るときに彼の考えることは、
ひどく単純で、原始的で、雑だと感じたのです。
それが私には嬉しかった。
小説のフィールドでは――
いや、私はそもそもフィールドに立ってすらいないので、
村上春樹は完全に別世界の人間です。
そしてランニングでも彼の方が圧倒的に優れたランナーです。
でも、長い距離を走るとき、苦しいと思うこと、
走っている間に想起されることは、同じだったんだなと、
私はかすかな共感を覚えていました。
走っているときに頭には色々なことが浮かんできます。
仕事のことだったり、今走っていること自体だったり、
今日の夜ご飯だったり、小説のことだったり。
でも、一つのまとまった思考となることはありません。
泡沫のように浮かんでは消え、別のことが浮かんでは消えていく。
あるいは、ただ苦しいという思いだけが延々続いていく。
でも、そこで浮かぶものは、そのあり方から儚く美しい。
アテネでフルマラソンを終え、念願のビールを口にした彼はこう言います。
「正気を失った人間の抱く幻想ほど美しいものは、
現実世界のどこにも存在しない」
そう、走ることは苦しいのに、
走り終わっても何かが大きく報われるわけではありません。
褒めてくれる人はいるけれど、お金も大した名誉が与えられるわけでもない。
それでも、何かが私たちを走ることに向かわせてくれる。
走ることを知った以上、走っていなければ逆に不自然な感じになる。
私はそんなヒントをこの本から得たような気がしています。
そして、走ることをもっと好きになれるだろうと、そんなふうに思ったのです