ひとりごと

いのちをいただく

あらかじめお断りしますが、今回はお魚を捌いた話ですので、
苦手な方はそっとブラウザを閉じてください。

昨日、アジの船釣りに行ってきました。
釣りというと、私は釣り堀でしかやったことがなかったし、
いわゆる食えない魚でやっていただけです。

なので、私のキャラ的に(と言っちゃいけないが)、
海に出て船に揺られながら魚を釣るのは新鮮でした。
結果の数字を見ると、アジ2匹のカサゴ1匹で、
正直、6時間かけたわりに残念な結果でしたが、
まあ、釣れただけでも良しとしましょう。

でも、船釣りという体験よりも強烈だったのが、
自宅で釣った魚を捌くということでした。
そもそもですが、釣った魚を針から外す時点で、
強烈な感情が湧いてくるものです。
もちろん、嬉しいのですが……。

釣った魚をバケツに入れると、彼らは苦しそうにバケツの中を泳ぐのです。
魚の数が増えていくと、どんどん元気がなくなっていく。
なんというか、命が失われる過程が足下で見えるんです。
見るに見かねて、クーラーボックスに魚を突っ込みました。

で、帰ってきて自宅でクーラーボックスを開ければ、
当然釣った3匹みんな死んでいるわけです。
いつ、彼らの息が絶えたのかわかりませんが、
少しの罪悪感と、妙な悲しみが私の中に生まれました。

でも、私は彼らを食べるために釣ったわけです。
極端に言えば、スーパーで買った魚と彼らに何の違いもありはしません。
そこで感傷に浸るというのもおかしな話じゃないだろうか。

そう自分に言い聞かせ、冷え切った彼らをまな板の上に載せる。
捌くのは初めてなので、スマートフォンを見ながら、
ニトリの包丁で彼らを捌いていきます。

捌く、と書くと淡々としていますが、その工程は複数あります。
うろこを取って、頭を落として、はらわたを取り出して、
血を抜いて、三枚に下ろして、小骨を取って。
焼くにも揚げるにも、その前のステップがいくつもあるわけです。

当然、初めてなので上手くいくわけがありません。
というよりも、潮臭くてヌルヌルした彼らを触ることも
おっかなびっくりの私です。(恥ずかしい……!)

でも、捌くのは私一人しかいません。(一人暮らしなので)
おまけにその日のおかずもそれしかありません。
嫌でも私は二度目の戦いを、死んだはずの彼らに挑みました。
切れ味の悪い包丁を武器にして。

頭を落とすときに「一気に」と書かれていても、
ぎこぎこやらないと落とせませんでした。
腹に包丁の先端が刺さらず、焦りました。
はわらたを包丁で掻き出すのに、テンパりました。
そのうち、血だらけの流しを見るのも慣れました。
そうこうやって、一匹捌くのに三十分もかかります。

小さいアジは、三枚に下ろすときに背骨に肉を残しすぎました。
しかし、残った肉で慎ましい刺身を。
肉付のいいアジは頭を落として、開いて、塩焼きに。
カサゴはえらとはらわたを落として、
塩焼きにして、刺身と一緒に食べました。

美味しかったです。

……でも、「捌くのが大変でした」では、
私の葛藤が何も伝わらないんですよね。
それに、言葉にできるようなものでもなかった。

一度、私は命を食べることをテーマにして、
『いただきます』という東方の二次SSを書いたことがあります。
「いただきます」は感謝ではなく、贖罪の言葉ではないかと、
作中で疑問を投げかけました。
自分の手で命を奪うことの罪の意識に向き合ったとき、
せめて「いただく」という言葉で贖罪をしないといけない。
そういうつもりでした。

でも、今回魚を捌いたときにはそう思いませんでした。
気持ち悪い、グロいと思っても、そこに申し訳なさはなかった。
ただ、間違いなく言えるのは、
魚は捌く前と捌いたあとでは別物だということです。
私は、「いのち」と「食材」に境界をつけるのが、
「捌く」という行為なんだと感じました。

包丁で戦っていると、どこかでいのちが食材になる。
その認識の切り替わりは残酷だとも思いつつ、
今の私は「食材」で生きているんだとも思ったのです。

私がスーパーで買うものは「食材」です。
それらを「いのち」だと思って買ったことはありません。
だからこそ、私は料理を手早くできて、
「いのち」と戦うつらさを味わうことなく、便利なのです。

だったら、いのちをいただく瞬間は、捌く過程にあるんじゃないか。
死んだいのちと戦いながら、私はそんなことを感じました。

今までの経験上、だいたいこういう風に思ったことって、
どこかで小説の中に入れていくので、
いつか、活かせればいいなと思います。