今回は小説「カラマーゾフの兄弟」の感想記事です。非常に長くて、読むのにはだいぶ骨が折れましたが、カラマーゾフ家のクソ人間っぷりと、感情ジェットコースターにツッコミながら楽しく読ませてもらいました。

感情のジェットコースターは当時のデフォか?
まず何より、この小説を読んで思いました。「こいつら、感情のジェットコースターにでも乗っているのか?」と。特に女性陣がそうなのですが、さっきまで笑っていたと思ったら急に怒り出すし、怒っていたと思ったら泣き出すし、誰かに同調したと思ったら同じ相手に急に牙を向くし。
ドストエフスキーの書き込み具合は尋常ではありませんので、こうした感情の揺れ動きも決して適当でないことはすぐに理解できます。もちろん、その感情の変化のきっかけはちゃんと描かれているのですが、それにしても激しすぎる。ジェットコースターどころか、富士急のええじゃないかばりに私は振り回されました。
まあ、フィクション作品において、リアルな世界よりも登場人物たちの感情変化が大きいことはごくごく当たり前だと思います。そうでないと我々鑑賞者がまったく理解できなくなってしまう場合もありますからね。それにしても、この振り幅は現代日本においては大きすぎるとやっぱり思うのです。何か理由があるはず。私はそう思うのですが、それは後述することにしましょう。
カラマーゾフ家はクソなのか?
って見出しでドえらいことを書いていますが、まあ落ち着いて考えてみましょうよ。
まずはフョードルから。彼は一代で財を成した、まさに成功者です。今の時代ならともかく、帝政ロシア時代ですから、これはものすごいことではありませんか? いや、ものすごい。(反語)
しかし、誰もが認めている通り、彼はどうしようもない道化になることを止められない、という癖があります。「こうやったらコイツは怒るんじゃないか?」と考えたらやらずにはいられない。冒頭のミウーソフが本当にかわいそうになるくらい、他人を怒らせる術はよく心得ています。そして、フョードル自身、自分が道化になりたがることをよく自覚しています。相手を怒らせたらどんなことになるかもちゃんとわかっています。でも、その行いを止めることはできないんですよね。自分をメタ認知しているのに。いやあ、クソですわ。
次にミーチャ。彼は軍人出身で、そのためかとても誇り高い人物です。自分の誇りが傷つけられることには我慢ができず、ついつい暴れてしまうところがありますが、飲み屋などでは気前よくお金を使ってくれる面もあります。ありますが、酒と女に溺れすぎです。特に女(グルーシェニカ)についてはフョードルとまったく同じ傾向が見られます。恋の鞘当て、といえばちょっとかっこいいですが、実の父親を殴る蹴るしているのはちょっと。また、気前よく、と言いましたが、時折金勘定という言葉が彼の頭から飛んでいってしまう節が随所に見られます。酒を飲んだ時は特にそうなりがちに見えます。同行者の方が心配して止めるくらいに。まあ、これも現代日本に存在していたら、間違いなくクソと言われます。
次男のイワン。彼は一見まともなことを言っているように見えますね。殴る蹴るなどの暴行もそこまでしておりませんから、まあ前述の二人に比べればマシに見えます。でも、彼はフリーメイソンなのかもしれませんからダメです……それは冗談として。(なんでアリョーシャが唐突にそういったのかは本当に謎)
彼がこの時代のロシアにおいて危ないのは「無神論者」という点でしょうか。これまた後述しますが、この時代において神を否定するのは相当な異端です。しかしながら、彼は地頭が良いので、ちょっと嫌味な物語で神をそれらしく否定しています。あんまりよくわからない私からすると「そうなのかもね」とちょっと思ってしまう節もありました。
しかし、物語が劇的に動き始めたところで「ああ、神よ!」と思わず口にしてしまうのです。あれあれ、無神論者のはずが、これはどうしたことでしょうか? さらに、物語が佳境を迎えたところで、彼が悪魔という妄想を生み出してしまい、それと対話することになります。悪魔という存在を彼が信じているからには、つまり対立する概念の神がいると信じることになります。うーん、口だけ男か、これまたクソですなあ。(こじつけ)
そして、フョードルの隠し子?のスメルジャコフ。彼が明確にフョードルの子どもと言及されたシーンはありませんが、最後に見え隠れする邪悪さからは、カラマーゾフ家の素質があるように思えます。イワンの仕草から自分の都合の良いように拡大解釈し、実際にフョードルを手にかける実行力。その上、イワンにそれを問い詰められるとあたかもイワンが殺人を指示したかのようにロジックを積み上げる狡猾さ。ただごとではありません。
その殺人の前の時点で、色々な人と論議をする中で、自分の主張を否定されるとうまいこと話を逸らしにいったりして、自分が完全に悪いとも言わない。彼の生まれのことを考慮しても、そんなやつだと私は普通に彼のことが嫌いですね。これはクソ。(偏見)
三男のアリョーシャ。彼だけが明確な悪意やら狡猾さがなく、なんだったらグルーシェニカの誘惑にも負けなかった唯一の人物ですね。読んでいる限り、彼だけがカラマーゾフ家の中でまともな人間と言えるかと思います。まともどころか、心が広い人間にも思えますね。気分屋のリーズに対しても怒ったりしませんから。
しかし、では彼が聖人君子かというと、決してそうではない。結果論にはなりますが、彼は傍観者で終わってしまったように思います。物語の大きな出来事に対し、彼の尽力で何かが動いたことはなく、イリューシャやコーリヤの慰めくらいしかできたことはないと思います。そこがゾシマ長老とは違うところですね。違いますが、それでも父親や兄弟とはだいぶ違うところです。彼だけはクソではないと言えるでしょう。
こうやって通してカラマーゾフ家の人たちを見ると、長所といえる部分もありながら、大概はそれを遥かに上回る問題点を抱えていることがわかります。実際(アリョーシャを除いて)こんな人たちが身近にいたら嫌でしょ? 私は嫌です。ミーチャは一瞬面白い友人かもしれませんが、でも一緒に飲みにいくとアフターフォローが死ぬほど大変そうなのでやっぱりダメだわ。
しかし、これはフィクションの物語です。フィクションだからこそ、こういうものすごいダメ人間が魅力的に映ります。それをギャグっぽく描くのではなく、ど真剣に描くからこそ、ある時にはシュールな笑いになる部分もあり、キャラクターとして一貫しているところも素晴らしいと思います。
信仰について
さて、この物語の根幹の一つでもある信仰について、少し書きましょう。といっても、私は特定の宗教に帰依しておりませんので、キリスト教的な信仰の内容を語ることはできません。
しかし、この物語を読んでいる最中に、ふと「神を信じている人にとっては、神がいる世界が真実なのだ」と実感したんですよね。何か作中のシーンがきっかけになったわけではないのですが、様々なシーンの積み重ねでしょうか。イワンとアリョーシャの会話が特に特徴的ですが、この物語において様々な場面で神への信仰が議論の対象となります。イワンも無神論者といいながら、わざわざ神が人間にもたらす恩恵を否定する物語を作るということは、逆説的に神の存在を信じていることになります。
ドストエフスキーがそのような人物を描くのは、彼がより高い視座から神の信仰を考えていたからだと思います。その上で彼は信仰を是とした。それくらい、神の存在はこの時代の人々には疑うべくもないことなのでしょう。
現代日本の私たちからすると全然実感が湧かないと思いますが、これを自由主義と資本主義に置き換えたらどうでしょうか? もし、明日急に国が「明日からあなたたちの財産は国のものになりました!」と言い始めたら、憤慨するどころか「この国終わった」とさえ思うでしょう。それくらい当たり前すぎて疑うこともない前提条件なのだと思うのです。
神がいることが事実かどうかはこの際どうでもよくて、大事なのは「神様がいると私が信じている。その私が世界にいる」ことなのだと思うのです。
ここで冒頭の感情のジェットコースターの話に戻りますが、これも今の価値観からしてわからなくとも、当時ではごく普通のことだったのでしょう。日本でも源氏物語を見れば、光源氏もよく泣くし絶望しています。昔の日本ではそれが雅でさえあるかもしれない価値観だったのと同じように、「カラマーゾフの兄弟」の執筆当時はそれがリアリティのある描写だったのかもしれません。
まとめ
私が「感情のジェットコースター」というのも、この「神を信じていることが普通」の世界観と「激情を隠さない」という二つが合わさった時代背景なのでしょう。私がこの世界に飛び込んだときに、彼らとコミュニケーションを取るのは難しいと思いますが、逆に今の自分たちの世界の価値観を再認識するきっかけになったと感じました。
そして、改めて振り返ると、カラマーゾフ家があれだけ作中でも色々言われるのは納得です。何度も言いますが、無関係な立場から見るならとっても愉快です。友人としては付き合えない! でも、あれだけ長い小説でこのような人間模様を描けるドストエフスキーには感服いたしました。素晴らしい小説でした。