今回は小説「The Catcher in the Rye」(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」「ライ麦畑でつかまえて」)の感想です。
厨二特有の感覚が鼻につくとは思いつつ、無責任な万能感と無力感は大人である私たちにもあるのだろうと、この小説独特の言葉遣いから感じました。
それでは、今回の心への旅に出かけましょう!
目次
- 万能感と無力感、それは誰でも味わうもの
- 英語版に感じる息遣い
- 今回の結論
万能感と無力感、それは誰でも味わうもの
まず、私がこの小説を読んでいたいた感想は、ホールデンに対する苛立ちでした。彼がとにかく厨二を拗らせまくっていて、正直読んでいてとてもイライラしていたことをここで正直に告白いたします。彼の拗らせは本当のラスト直前まで変わることがなく、よくもまあそこまで貫き通したものだな、と思います。
しかし、彼に苛立つと同時に、おそらく自分が同じ年だったときに似たような思考回路があっただろう、とも思ったのです。苛立ちは一種の同族嫌悪ではないかと、そんなことを思いました。
その思考回路とは、自身の万能感と現実に対する無力感です。実際、この小説の解説としては、その辺のことが中心に語られることが多いと思います。青少年に特有の思考回路として。
でも、私は、その万能感と現実に対する無力感は子ども特有のものでもないかな、とも思うのです。嫌悪に近い感情を抱くということは、今の私の中にも同じような思考回路があるのではないでしょうか。
例えばホールデンは最後に「誰も知らない街に行って職を見つけて静かに生きていく」ということを夢想する。彼は自分がそれをできるかのように女友達や妹に対して語ります。
これはとても無責任な万能感だと私は思います。大人である私にはできない。何もかもをかなぐり捨てて、知らない街でいきなり職を見つけて、彼が望むような静かな暮らしなんてできるわけがない、と思うからです。そういうことができないから、私は今いる場所から簡単に抜け出すことができないのだと思っています。
つまり、子どもから見たら「大人に比べて自分はなんて無力なんだ」という無力感にとらわれたとしても、実は大人も同じように「自分はなんて無力なんだ」と感じる瞬間があるということです。
確かに、大人は子どもに比べたらできることは多いかもしれません。力も地位も金もあるから。しかし、そんなことは個人単位でみたらの話であって、とんでもなく理不尽な現実の前では、そのような差異などちっぽけなものです。
現実を知らないからこそ、子どもは自由に夢想できるし、自由に行動ができる。ホールデンが好き勝手ホテルに泊まって、酒を飲んで、カフェに行って、ということができるのも、親が稼いできた金があるからです。子どもは子どもなりに大人よりも自由でできることは多いのだろうな、と思うのです。
どっちがいいとか悪いとか、そういう話ではなく、自信が抱く万能感と現実に対する無力感は、自分がどれだけ歳を取ったとて必ず味わうものなのだろうな、と私は思うのです。
ただ、私とホールデンが唯一違うのは、ホールデンがそうした無力感を味わうのが初めてである、という点です。初めてだからこそ、現実との折り合いの付け方が分からずに、ああいった行動をとるのだろうな、と。その行動自体は確かに青少年に特有のものかもしれません。
英語版に感じる息遣い
私は今回、英語版を読みました。本当は村上春樹訳を読みたかったのですが、電子書籍版がなかったもので。
なので、読むのにとにかく時間がかかりました。文自体はあまり難解ではなかったのですが、単語が独特でした。おそらく現代では使われていない単語だったり、訛りだったり、スラング、固有名詞。辞書を引いても出てこないことがしばしばあり、どの程度雰囲気を掴めたかはあまり自信がありません。
だからこそ、というべきか、綺麗な英文とは違う雰囲気だということは明確に理解できました。日本語訳を読んでいないので、あまり勝手なことは言えませんが、おそらく日本語訳を読んだときにはこうしたニュアンスを読み飛ばしていると思います。言ってしまえば、日本ネイティブが関西弁を聞いても意味を理解してしまってその雰囲気に逆に気づかないように。「知らないよ」を「知らねーよ」と書かれていても読み飛ばしてしまうように。
この小説では、当時話されていた口調そのままで書かれているのではないかと、推測ですが感じました。以前、ハリーポッターシリーズを原文で読んだときとはまた違う雰囲気です。文体とか言葉遣いというニュアンスがわかるようになってきたのかな、それは嬉しいことだな、と自惚れながら感じ入ってしまいました。
やっぱり小説って、そういう息遣いを感じてこそのものだと思うのですよね。書いてある意味も大事ですが、その言葉選びにこそ、作者の人間性が出ると勝手に感じています。