やっと読み終えました、「ロング・グッドバイ」。レイモンド・チャンドラーの傑作。そして、読み終えてこれが傑作と呼ばれる所以がわかりました。
それが「クズなりの高潔さ」!
って、どういうことなのでしょうね? 今回はその答えを探し、心への旅に出かけましょう!
マーロウ、警官もヤクザも殴って蹴って、大暴れ! ってオイオイ。
まず暴力シーンについて。この作品で描かれる暴力については、「マーロウ本人だけでなく、周囲の描写からもヒントを得なければいけない」というのが最初に発見した点です。
この作品、すごいバイオレンスシーンが多いんですよね。序盤からマーロウが警官に殴られるわ、ある依頼人の使用人とナイフの奪い合いをするわ、挙句ヤクザを蹴り上げるわ。
以前感想を書いた『さらば、愛しき女よ』は過多な飲酒が印象的でしたが、今作は暴力が印象的でした。
やはり暴力……! 暴力は全てを解決する……!
わけないだろ! なんでだ!
この小説を読みながら、本当、理解に苦しみました。私としては、マーロウが要らぬ場面でも喧嘩を売っているようにも見えましたし、ストーリー的にはかなり多くの喧嘩シーンは省いても問題ないはずです。
しかし、翻訳者である村上春樹さんの解説を読んで、少しだけ「なるほど?」と思った箇所がありました。
彼の所見なり対応なりは、彼の自我意識の実相とは必ずしも直結していないように我々の目には映る。
『ロング・グッドバイ』翻訳者、村上春樹さんの解説
村上春樹さんの捉え方も難解ですが、多少わかる部分もあります。つまり、マーロウが自身の行動について、小説内で理由を語らないことが多いので、私たちは戸惑う、という部分。
実際、人間なんてそんなものかもしれません。自分がなぜその行動を取ったのか、行動を起こす前に理由があるのではなく、行動をしてから「あ、そういうことか」と自分自身でも後から気づくことは多いものです。
だから、マーロウという人物像を把握するためには、彼が小説内で自身について述べる部分だけでなく、周囲の人たちの言動も観察をする必要があります。例えば次のようなセリフ。
「だんまりを決めこむのは、権威に対する昂然たる挑戦だからね。」
『ロング・グッドバイ』エンディコットのセリフ
実際、マーロウが警官という権威に挑戦をする人物なのか、絶対的な正解はありませんが、マーロウの中にある哲学を知る手がかりの一つだと私は捉えました。
そう考えれば、彼が喧嘩や暴力という手段に出るのも、ある種の挑戦的な態度が反映されたものである、と見ることもできます。暴力は卑怯な手段であると同時に、権威を打ち壊す力もありますからね。
暴力は称賛されるべきものではありませんが、マーロウが殴って蹴って「やるぅ〜!」と少しばかりスカッとした気持ちになるのは、そういう彼の哲学に共感していたからかもしれません。
地の文で書かれる私見だけでなく、彼の言動や周りの人のセリフが、今作の暴力シーンが多い理由を知る手がかりになったな、と思います。
レノックスとの堅い義理の物語
この作品、大事な主題は暴力ではないですよ! テリー・レノックスという、今作におけるキーパーソンとの奇妙な友情というか、義理の堅さも面白かったです。
テリー・レノックスは、冒頭から最悪な登場をかましてくれます。お高めなお店で酒飲みすぎてベロンベロンになった挙句、奥さんから捨てられ、まったくの他人であるマーロウに拾われ、マーロウ家で一晩過ごすという。
もうね、言い方悪いんですけど、クズです。うん。しかし、マーロウはこのレノックスをどこかで気に入ってしまったようでした。
私は感情に流されることなく生きるように努めている。しかしその男には、私の心の琴線に触れる何かがあった。
『ロング・グッドバイ』マーロウの独白
なぜ彼を気に入ってしまったのか、作中では明言されることはありません。ただ、確かに読んでいると、私にもなんとなくレノックスを憎めないというか、好きになれる部分がありました。
それは、彼のプライドの高さ、そして、自分にはそれしかないと自覚していることだと私は思います。だから、彼は世間の下卑た話題には乗らない。しかし、お金持ちだからといって高慢な態度も取らない。
人間、クズであっても、そういう気高さ、光るものがある人物にはどこか心惹かれるものです。私は少なくともそう。「ジョジョの奇妙な冒険」でいうところの覚醒したペッシみたいな。
それを私は「クズなりの高潔さ」と呼ぶことにしました。
マーロウが私と同じ気持ちを抱いたかは定かではありませんが、そんな彼が亡くなってしまった、ということをきっかけに、色々な事件に巻き込まれ、その中でも真実を明らかにしていく。彼から受け取ったお金に手をつけることもなく。
それは紛れもない、友情だと私は思うのです。マーロウには否定されてしまうかもしれませんが、でも、そうでしょう。ある個人をマイナスのイメージで追い続けないのであれば、それは「想い続けている」ということなのですから。
その結末が、とても有名な下記のセリフです。
「ギムレットを飲むには少し早すぎるね」と彼は言った。
『ロング・グッドバイ』より
ネタバレ覚悟で言うと、本当、素晴らしい友情です。
テリー・レノックスが失った「クズなりの高潔さ」
でも、最後にはマーロウとレノックスは別れることになります。そして、次のように呟くマーロウ。なぜ、こういうことになったのでしょう?
「君はずっと前にここから消えてしまったんだ。」
『ロング・グッドバイ』マーロウのセリフ
レノックス本人を目の前にしてこのセリフ。こういう言い回し、まさに翻訳者である村上春樹さんの大好きな「喪失」を示した言葉だと私は感じています。(偏見入っています)
しかし、だとしたら、テリー・レノックスは何を失ったのでしょうか? これまたこの作品内で明示されておらず、我々読者の想像に多くが委ねられています。なので、ここからも私個人の意見です。
語るのが難しいのですが、私としては先ほど述べた「クズなりの高潔さ」を失ったのだと思っています。そして、それは彼がマーロウの前に現れたからこそ、明らかになってしまったことなのだろう、と。
もう少し噛み砕いていうなら、意地汚く生き残ってしまったがゆえ、彼の高潔さが失われてしまったのではないか、ということです。
過程は省きますが、テリー・レノックスは物語序盤に姿を消してから、終盤にマーロウの前に再登場するまで、かなり色々な手を尽くし、色々な人たちに助けられたことを語っています。
しかし、それには多くの犠牲を伴いました。多くの人が亡くなり、それらがレノックスとことごとく何かしらの関係がある人たちです。そういう人たちの屍の上に、レノックスの生が成り立っている。
それは、序盤に描かれた「クズなりの高潔さ」とは違うものだと私は感じるのです。
おそらく、序盤の彼ならば自分が死の淵に立たされたとき、それを甘んじて受け入れて死を選ぶのだと思います。他人を犠牲にするという選択肢は選ばなかったのではないか、とすら思います。しかし、この事件では彼はそうしなかった。その瞬間、彼の中の高潔さは光を失ってしまったのでしょう。
私は、生きるチャンスがある中で死を選ぶことには否定的です。しかし、それは現実の世界の話であって、フィクションでは死に方にある種の美しさを感じることもあります。そういう意味では、レノックスが生きていることは嬉しく思いつつも、同時に美しく死ねなかった彼に対して、どこか失望してしまっている節もあるのです。
そして、そういう失望から感じる「喪失感」こそが「ロング・グッドバイ」の題を表しているのではないか、と感じるのです。「友達が生きていて嬉しい!」ではなく、「友達に惹かれていた何かが失われてしまった、物悲しさ」こそが、この作品の本質ではないかと、私は強く思います。
結論:クズの中にも高潔
だいぶ長々と語ってしまいました。切ないながらも今回の発見です。
今回の旅の発見:クズの中にもある高潔さを、人は愛してしまう
だから、人間は面白い。この作品がチャンドラーの傑作と呼ばれる所以に納得です。