徒然読書録『きらきらひかる』〜優しいから傷つけてしまう、それが恋

時々思うのですが、私はあんまりドキドキする恋愛をしてこなかったような気がします。映画とか小説とか歌とかアニメではドキドキするようなお話を見てきました。そういうものに触れるたびに「ああ、こういうふうに甘酸っぱい感情を抱けるって素敵だな、羨ましいな」と私もその熱が移ったように感じたものです。しかし、いざ現実に戻ってみるとなんというか……まあ、なんというか。

さて、恋愛の甘酸っぱさ・切なさって、煎じ詰めれば「本当は相手が好きなのに、意図せず相手を傷つけてしまう」ことなのだと私は感じています。対人関係の中で意図せず相手を傷つけることはいっぱいあるでしょう。でも、自分が好きで好きで大事な人なのに傷つけてしまったときほど切なく張り裂けそうな痛みを抱えることはないのではないでしょうか。

『きらきらひかる』表紙

そんなお話がこの『きらきらひかる』にはいっぱい詰まっています。それゆえ、私はこの物語が好きです。

この物語は、確かに作者が後書きで語るように「ごく基本的な恋愛小説」です。しかし、だからといって退屈なわけではない。構造はごく基本でありつつ、それを支えるポイントは普通とはかけ離れたものになっています。アル中で躁鬱を抱える妻である笑子、同性愛者の夫である睦月、そんな睦月の恋人である男の紺。2022年の今でさえ、相手に性欲を抱かないカップルを描いたものが希少だというのに、これは二人どころか三人も出てくる。私はあんまり見識ないですがこんな物語見たことないです。そしてこれが書かれたのが1991年。

この三者を取り巻く者たちは、いわば「普通」の人たち。彼らの価値観はこうです。男女はお互いに性欲を持って結婚し、そういう行為をして、子どもが生まれる。子はかすがいだよ。さまざまな離婚危機はありつつ、子どもがいるから別れずに済んだのよ。幸せな老後を過ごしてね。

私はそういう「普通」は否定しませんし、むしろ私自身はそういう「普通」の道を行きたいと思っています。しかし、この物語の中の「普通」の人たちは、自身の価値観を「歪な」夫婦に強いてきます。

もし二人が協力してそんな意見を跳ね返せば、この物語は冒頭で終了です。でも、この二人は相手のことが好きだから、自分だけが「普通」の服を着てなんとかやり過ごそうとする。そんな優しさが逆に相手を傷つけてしまう。夫婦というたった二人の関係なのに、そこに自分の居場所がないのではないかと思ってしまう。相手に優しくされるから、ますます自分が傷つけていることを自覚してしまう。

この物語の本当につらいところは、二人とも優しいところなんですよね。私も以前、傷つけ合いの物語を書いたことはありましたが、それは主人公のエゴが原因だったと思っています。その場合なら「お前、もっと落ち着けよ!」で済むのですが、この二人の場合はそうではありません。確かに笑子には躁鬱の発作のようなものが出て、睦月を傷つけることもありますが、その根っこもエゴではない。自分が睦月を苦しめていることに気づいて、つらくなって、それでどうしようもないから発作が出てしまうような、そんな感じなのだと思います。

だからこそ、紺という三人目がいることがとても頼もしく、最後に三人で独立するシーンがとっても救われる気持ちになりました。前途は多難でしょうが、きっと傷つける・傷つけられることに対しても、何かしらの信頼を置いてできるようになるんじゃないかな、と希望を感じる終わり方でした。

なんだか「傷つける」ことばかりに目が行きがちになっているのは、私がそういうことに対してあまりにも無自覚だからなのかもしれません。今までの恋愛経験で、私が「相手を傷つけた」と自覚したことあったかな。いや、あるんですけれど、とても少ない気がする。それは私が「優しい」というより、無自覚で傷つけているだけなのかもしれません。もう少し自身の暴力性を認識すべきか、その点は笑子を見習ったほうがいいかもしれないです。

そして、この物語はサブタイトル含め比喩が素敵なんですよね。「水の檻」という言葉、すごく好き。透明なのに抗えない強さがスッと伝わってくるんですよ。私は一時、無理矢理比喩を頑張っていた時期もあったのですが、チグハグ感がすごくて今は抑えてしまっています。でも、こういう文章読むとやりたくなっちゃいます。いずれそういうのを頑張ってみるかな。

すみません、最後なんかとっ散らかっちゃいましたが、「ごく基本的な恋愛小説」としてとても苦しい思いをしながら素敵な世界観を味わってしまいました。あと、最後にまた余談ですが、いつかお風呂ウイスキーやりたいです。睦月にめっちゃ叱られるかもしれないけど、その時は笑子のように無邪気に笑い飛ばしてやろうかしら。