何はともあれ、まずはハッピーエンドでよかったよかった。いや、まあこのシリーズの原点が「月9でGO!」なのだから、当然ハッピーエンドになると分かっていましたが、それでも途中の展開にはなかなかハラハラさせられました。
郁の成長は素晴らしい〜って誰目線。
郁は女の子らしい振る舞いがたびたびありつつも、クライマックスは見事にそれをぶち壊してくれちゃいましたね。お前はそういうヤツだよ、だけど、最後の最後でどっちが王子様でどっちがお姫様だよ!という展開。さすがに笑っちゃいました。切迫している状況なんですけどね! ハリウッド映画のクライマックスのキスシーンみたいな、そういう展開なんですけどね……。まあ、それも郁らしさの一つということで納得させられてしまいました。
それにしても、郁が本当に成長したなあと感じさせられた作品でした。「戦争」の徒競走の時から見守って来て、素晴らしい成長に私も目を細めてしまいます。誰目線だよ。
表紙とか目次前のイラストからすると、郁と堂上の二人で危機を乗り越える話かと思っていたのですよ。実際、新宿の書店に駆け込むまでは二人で奮闘していたわけですが、最後の最後、一番大事なところを郁一人で切り抜けることになるとは思いませんでした。それが物語論でいうところの、彼女に与えられた最大の試練なんですね、 そして、それが東京から大阪への車の移動という。私も七割くらいの道のりを体験したから言えますが、めちゃくちゃ大変ですよ! しかも、我々が普通選ぶルートと若干違うから余計に大変。静岡・浜松間が特につらくって、周りが平和すぎて、もう眠気との戦いが半端ないですわ。当時は私も二人で運転していましたが、片方が寝ないように二人で歌ってなんとか眠気を誤魔化して。。。いや、私の話がメインになってどーするんだ。
さらに、大阪でのトリックも中々のものでした。周囲が珍しく?彼女を褒めておりましたが、局所的な撹乱作戦としては相当だと思います。作戦立案から実行までを己一人でこなしていく様は、もう堂上に頼り続けていたあの頃の郁とはまったくの別人とすら思えるのでした。本当に偉い! だから誰目線だって。
ということで、キャラ読みしている分には、もうこの展開だけでお腹いっぱいですね。それでは今回の記事をここで終わ〜〜〜
るだけだとあんまりなので、個人的に気になったことをあと二つ。
手塚慧〜こいつは、こいつは結局何だったんだ!
手塚慧が味方となった展開、「内乱」で書いた感想が現実になったのはちょっと嬉しかったです。
兄である慧も同じように変わるかもしれません。名目上は「図書に検閲があるべきではない」と言っていますからね。それが本心で真っ当な手段を選ぶなら、これほど心強い味方もいないでしょう。
実際、柴崎に乗せられて以降は、真っ当な手段で戦っているように見えますし、玄田の評したとおりテレビウケもいい。味方になってくれて心強いことったらありゃしません。
でも、こいつは、こいつは一体何だったんだ!? という感じが最後まで拭えませんでした。出自や彼自身が掲げる理想像は明確だし、「内乱」の時にはいやらしさMAXで悪役としてはかなり魅力的でしたが、味方になるとどうも拍子抜け感もありました。
一つには、家族との衝突の過去があまり深く描かれずに終わってしまったことですね。彼には彼なりの歴史があって動いてきたのでしょうが、その一端はもう少し知りたかったかもしれません。そしてもう一つが、彼が握る「核爆弾」の正体。おそらく相当な苦労をかけて得た情報なのだと思われますが、これも最後までほぼ何も描かれないままでした。ここら辺が彼の消化不良感につながってしまったと個人的には感じています。
しかし、後者の方は描写してしまった時点で、それまでの郁たちの物語をすべて無に帰すレベルだと言いますし、前者も前者で相当長い物語になってしまうでしょうから、今作でそれを差し挟む余地はほぼなかったでしょう。まあ、慧の描写をもっと濃くしてくれというのは幻想に留めておいた方が良いと思うのも事実。全体的には十分ではないものの、必要最低限のレベルで書かれていたのではないでしょうか。
検閲したとて〜差別意識の解消には繋がるまいよ
そして、検閲。ここでは当麻先生によって、良化委員会による検閲が始まる前の姿も描かれていますが、正直、その当時の姿に私はがっくりしてしまいました。
「私が書きはじめた頃は既に自主規制が普通になっていましたね、と当麻はまた苦く笑った。」
作者(有川浩さん)自身の経験もあるだろうから、この当麻の言葉に説得力が増しているのも余計につらいところです。
一九八四年でもありましたが、検閲により言葉を狩るということは、権力のために思想を狩るということに近い。そこのヤバさに、クレームをつけている人たちは気づいているのでしょうか?
それに、私も差別がいいこととは思いませんが、結局用語をなくしたとて、差別する意識はいずれ頭をもたげるでしょう。(なぜなら人間はそういう生き物ですからね。)
「めくら」や「つんぼ」という言葉を狩ったとて、現代でも「ガイジ」のような蔑称が生まれてしまうわけです。言葉という極々表面的なものに固執する意味は薄いと私は常々考えてしまいます。
そうではなくて、自分たちの意識をどうやってそういう差別に陥らせないようにするか。まずは自分のものの見方を素直に問い直す方がよっぽど大事じゃないかと思います。
ここは郁の台詞をお借りしましょう。
「稲嶺司令の車椅子をエレベーターに乗せて、あたしも一緒に乗ろうとしたんです。降りるときも手伝おうと思って。そうしたら『いや、結構』って。お一人で行かれるって……あたしきっと、そのとき『何で?』ってちょっと不満そうな顔したんだと思います」
障害者にもできることはある。範囲が違うだけで「できること」「できるが苦手なこと」「できないこと」があるのは同じ。言葉が変わろうが、そういう部分の本質を見落として言葉を狩っても仕方あるまい、と思います。
あと、みくびるとおじいちゃんだろうが、銃を突きつけて不敵に相手を脅してきますからね、稲嶺だけかもですが。(戦争の生き残りというのは本当に恐ろしい……)
一旦シリーズに幕、お疲れ様でした!
まあまあ、とにもかくにも皆さんお疲れ様でしたということですね。なんか、タイトルのイメージと違ってとっても軽いノリで読める作品でびっくりしました。
一方で検閲という、物書きにとっての息苦しさの一端を味わうこともできる内容で、興味深くもありました。
別冊シリーズもあるので、もうしばしば感想にもお付き合いくださいませ。