今回は、SF小説「アルジャーノンに花束を」の感想です。感情と知能、そして根本の愛。我々にダイレクトに考えさせる物語でした。
これはEQがIQに追いつかずに起こってしまった悲劇
前書きを読むと「知能と人間性のトレードオフの物語」なのかと思ってしまいましたが、実際にはEQがIQに追いつかずに起こってしまった悲劇、と解釈するのが正確だと思われます。
人間的な愛情の裏打ちのない知能や教育なんてなんの値打ちもない
これは裏を返せば、「価値のある知能や教育は人間的な愛情の裏打ちがある」ということです。決して知能や教育すべてを否定することではないのだと思います。
現に、チャーリィが研究に心血を注いだのは、過去の自分と同じような境遇の人間を救いたいという気持ちが大きく、これはチャーリィなりの愛情なのだと感じます。また、最後に彼が元の知能まで退行してしまっても、家族のことを思い出せたことを嬉しく感じています。これも彼が知能を得たからこそ理解できた愛情のひとつではないでしょうか。
確かにチャーリィが一度得た知能を失って、元に戻っていく様を読み進めるのはとても苦しかったです。アリス・キニアンのように胸を引き裂かれるような思いもしました。しかし、彼がギンピィとの関係を取り戻したように、何もかもが失われたわけではなかったのには胸を打たれました。アルジャーノンに対する愛情も。
愛を希求するゆえに誤った道を選んだのかもしれない
さて、しかし、このような悲劇が起きたのはなぜでしょうか? 私は、これを一概にチャーリィのせいだと責めることはできないと思います。それこそ「まじない」に近いものが彼にかかっていたような気がします。
この物語でほぼ一貫して変わることのないものがあります。チャーリィの世界への探究心です。そして、それがなぜそこまで強い思いとなっているか、本人から語られています。
ゆ ーめ ーになってもならなくてもぼくわどちでもかまわない。ただみんなみたいに頭がよくなりたいのでそうすればみんなぼくを好きになて友だちがたくさんできるとおもう。
つまり、「友だちになるためには、頭が良くなければならない」ということでもあります。そして、なぜそんな考えに至ったかというと、家族との関係が原因です。それこそが「呪い」と私が考える所以です。手術を受ける前のチャーリィが封じた記憶にその答えがあります。
端的に言えば、彼が知的障害を持っていたゆえに、母親のローズから愛されなかった、と彼は思っていたのです。逆に、知能を手に入れれば母親から愛される。だから、頭が良くなりたい。そんな経緯で彼は手術を受けることを決意したのだと思います。
しかし、後述するようにこれは誤解だったわけで、これが悲劇の始まりになってしまいました。チャーリィはどこかのタイミングでこの誤解を薄々わかっていたはずですが、なかなか確かめようとはしませんでした。
彼の知能が退化し始めたときに、彼はとうとうその事実を確かめに行きます。そして、その答えを得た、そう私は思います。しかし、それは彼が望む答えでもなければ、妹のノーマの望む答えでもありませんでした。チャーリィを追い出したのは、妹のノーマのためであり、ある意味チャーリィ自身のためであり、そして母親自身のためでもあったのです。そして、知能を得た彼は少なくとも妹のノーマからは必要とされましたが、母親からはとうとう最後まで必要とされなかったのです。
彼女はいま、なぜ私が家を出されたのか諒解した。 母の恐怖の原因になるような行為をじっさいに私がしたのかどうかはわからない。そうした記憶はないのだが、苦悩する良心というバリヤーのうしろに恐ろしい考えが押しこめられていなかったとどうして断言できよう?
こうしてチャーリィの根源を辿る旅は終わりを告げます。そう、「知能を手に入れても、愛を手に入れることはできなかった」と。
一方で彼は友だちを作る方法を最後に理解したのです。
ひとにわらわせておけば友だちをつくるのはかんたんです。
家族の「まじない」の答えを得た彼は、「友だちになるためには、頭が良くなければならない」という誤解からも解放され、この理解に至ったのだと思います。
そういう意味では、悲劇的な展開ではあるけれど、手術をしたからこそ彼は自身の根源に至ることができ、たとえ短い時間しか残されていないとしても前向きな気持ちでこの報告を終えることができたのでしょう。そんなチャーリィにも花束を。そう思わずにはいられません。
私もきっとチャーリィになる
この物語を読んで、私が個人的につらかったのは、これがいずれ現実として私の前に現れるだろうことを予感してしまったからです。チャーリィの手術はどうかはわかりませんが、チャーリィの知能退化は今の世界に普通に起こっています。もっと言えば、ローズの認知症。
私も自分の親族でそういう過程を見てきたので、他人事とは思えませんでした。自分の親はまだ健在ですが、彼らが認知症になったら? あるいは自分自身が認知症になったら? その時のことを今はまだ明確に想像できませんが、それがいざ迫ってきたとき、何を以て「幸せ」というかは本当に難しい。
チャーリィは、偶然にも元々白痴だったので、残酷な言い方をすれば元に戻っただけです。しかし、私の身近なところでは、ただ「失われるだけ」と感じてしまうのかもしれません。
いったい何人の人間が、大の男を腕に抱えてあの哺乳壜でミルクを飲ませる覚悟をもっているでしょうか?
こういう台詞が出てくると……本当につらいですよ。綺麗事ではなんとでも言えますが、自分ごとになったらどうなんでしょう。私は「死なせてくれ」と言ってしまうのかもしれないし、そんな知能すら失って本能的に「生きたい」としか言わないのかもしれません。
自分ならまだマシかもしれません。家族がこんな状態になったら? 自分の人生の一部を差し出して、なんて覚悟は、今はまだありません。あなたならどうしますか? 決して他人事ではない物語に、別の意味でも胸を締め付けられるようでした。
ダイレクトに考えさせる物語
最近、わりとダイレクトに問題提起をする物語を読んでいる気がしますが、この小説はその中でもトップクラスに切なく、そしてキツい印象が残りました。子どもが読むより、大人が読む方が後味が悪くなるタイプです。
しかし、相手への思いやりというのは、こういう切実な問題を前にしたときに真価が問われるのだと思います。自身の戒めとしても、良い小説でした。