小説感想

徒然読書録 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 ~孤絶の波長

このブログで何度も書いていますが、私は村上春樹作品が好きです。
最近、以前に比べてストーリーラインが面白いときもあります。
普通に次にどうなるんだろうという展開が気になってしかたないとか。
でも、最後にはいつも、そうではない部分が
好きなんだなと実感して読み終えることになります。

最近『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読み終えて、
彼の作品全体に対して思うところのお話です。

作品のストーリー自体はいたってシンプルです。
主人公「多崎つくる」が高校のときに親友だった四人との関係を断絶され、
一人で生きていたところ、「恋人」の沙羅に薦められ、
過去の断絶の経緯をたどっていく――というお話です。

この作品に限らず、春樹作品の主人公は「自分」というものが希薄です。
いや、人間としての特徴はまわりの人物の言及や、
本人の語りからも現れるように、結構色々あります。
この「つくる」も建物の駅を設計するという変わった職業についており、
あるいはホームのベンチに腰掛けて、
駅を行き交う電車や人の流れを見るのが好きだという趣味もあります。
しかし、主人公たる当人たち自身が、
自分には魅力がない、価値がない人間だと考えているのです。

一方で主人公たちの周辺の人物は特徴的かつ魅力的で、
オンリーワンの価値ある人物として描かれていることが多い。
そういう意味で、四人の親友たちと付き合っていたことが自分で不思議だし、
あるいは沙羅が自分と付き合っていることに不安を感じる部分がある。
彼自身は、世界から孤絶されていると感じることすらあります。

誰とも本当に深いところでわかり合えないかもしれない、
わかり合えてもその人は自分のもとから去ってしまう。
そんな感覚がこの作品の奥底でせせらぎのように流れています。

しかし、私たちは同時に理解しているはずです。
ひとりの人間は、誰だってそんなにつまらない人間ではありません。
どんな人も何かしらオンリーワンの価値があって、
それが誰かから求められていることを知っている。
多くの人はそれを意識的にしろ、無意識的にしろ理解していて、
だから、こうして日々を当たり前のように生きているのだ、ということを。

でも、それを理解していてもなお、私はこの主人公に同調する部分があります。
気持ち的に、ではなく本当に波長としてシンクロしてくる感覚です。
この本を読んでいる間、静かに世界から自分の位相が少しずれてくる気がする。
主に電車に乗りながら読んでいたのですが、
電車に乗っている人たちとこの本に浸っている自分が
別の世界に生きているように見えるのです。

私はこの主人公と自分が違う人物であることを知っている。
それでもなお、私は自分が世界から孤絶されているのではないかと感じてしまうのです。
その感覚はとても貴重で、他の作者ではまず味わえないものです。
ある意味では「世界と孤絶されている」ことを肯定されている気さえします。
だから、私は村上春樹の作品を好きなんだと思うのです。

面白いことに、そういう孤絶感を共有できるからこそ、
結局は村上春樹ファンというグループができて、
彼の作品を語り合うことができるのですけれどね。