今回は小説「1984年」の感想です。(読みやすさのためにアラビア文字表記にしています)
私が思ったことは「思考の自由は幻想に過ぎないのか」ということでした。なんだか嫌な感想ですけれど、その感想に至った経緯を書き連ねていきます。
それでは、今回の心への旅に出かけましょう!
いつぞやの共産主義世界を描いているのか?
この本の構成は実に見事で、いつぞやのソ連、中国を思い起こさせるような街の描写が多く見られます。例えば1ページ目の下記描写。
エレベーターを使おうとしても無駄なこと。万事これ以上ないほど順調なときでさえ、まともに動くことはめったになかったし、まして今は昼間の電力供給が断たれている。
「1984年」冒頭の街の描写
あるいは、昼間から安いジンをかっ喰らい、あるいはチョコレートなどが配給制になっていることも描写されます。前述の国で統制が厳しかったときに実際にあったような描写。
つまり、この本は、共産主義的・全体主義的な国を舞台にしているのではないか、というミスリードを狙っています。そうした国の幻想を打ち砕くのが目的なのだとも思わせてくれます。
彼のやろうとしていること、それは日記を始めることだった。
「1984年」ウィンストン宅にて
この世界では少しでも反政府的な兆候が見られた時点で抹殺されてしまいます。しかし、主人公のウィンストンは「日記を書く」という行為により自身の思考の自由を保ちたい、という反抗を行います。
それから、彼は二人の仲間を得て、地下組織のような反政府組織に所属し、静かに世界の真実を暴く活動を始めるのです。
とでも思ったのか?
この世界の政府の本当の目的とは?
実は、その組織自体が罠であり、ウィンストンはあえなく政府に捕まってしまい、拷問を受けることになります。
「君自身こうなると分かっていたのだよ、ウィンストン」
「1984年」とある人物の言葉
その拷問は長く、肉体的に苦痛であり、精神的にも辱めを受けるものでした。ここではあまり詳しく書けません、というか、思い出すのも嫌すぎて書きたくないです。
しかし、そんな拷問の中でも、彼は自身の信念を曲げませんでした。そんな彼に対し、拷問を行う人物はこの世界の真実を語るのです。
「ウィンストン。君は現実とは客体として外部にある何か、自律的に存在するものだと信じている。」
「1984年」とある人物の言葉
ここから語られることは半分哲学に足を突っ込んでいますが、ある意味でカントやデカルトなどの思想を肯定する部分があるかな、と思います。そして、この政府の目的が語られるのです。
「権力は手段ではない、目的なのだ。」
「1984年」とある人物の言葉
端的に言ってヤバいです。
その狂気については本文を読んでいただくとして、つまり権力を永続させるためだけに、人々の思想を統制し、戦争を継続し、生活水準を落とし、死なない敵を作り出していたのです。狂っているね。
つまり、共産主義だったり革命だったりは、権力を手段として理想の世界を達成することが目的なのです。でも、この世界の政府は違います。
ただただ、権力を永続させるためだけにある。
驚きですよね。ここで冒頭のミスリードが見事に効いているというわけです。
愛ゆえの自由、愛ゆえの……
それでもウィンストンは抵抗を続けます。肉体はボロボロ、言葉でも思考能力でも拷問する相手の方がずっと高い能力を有している。勝てる見込みなんて一切ありません。
それでも彼が抵抗を続けたのは、ひとえに「愛」ゆえ。
ああ、愛。素晴らしい、愛。そうですね、人を愛することに勝るものは何もない。それだけは誰がどうやっても侵すことのできない領域。愛がある限り、絶対の服従なんてあり得ない。
とでも思ったのか?
「ぼくも君を裏切った」
「1984年」ウィンストンの言葉
これが酷いのは、まさに自身の選択で「愛を裏切った」事実を作ったということです。思想の自由によって、思想の自由を裏切ったことに他なりません。
こうして物語は幕を閉じます。なんというか、本当、すっごい嫌な結末ですね。まったく希望がありません。
民主主義の概念はこの世界で二度と出てこないでしょう。歴史は改善され、永遠に思想や経済をコントロールされ続けて、地球が滅ぶまでそうした世界が続くことでしょう。
この本の最後にある「ニュースピーク」という新しい言語の概念も、そうした感想をより深めてくれます。最後まで抜かりなく絶望させてくれるなあ、オイ。
この作品の絶望的世界が、私たちの世界で実現する?
これはあくまでフィクションであり、現実にこの世界を作ろうとした場合、とてつもない労力が必要です。こうした世界が現実になってしまう可能性は極めて低いと思います。
だから、共産主義がどうとか全体主義がどうとか、そういうことをこの作品に向けて語るのはあまり適切ではないと私は思います。実現可能性が極めて低いものがリアルになると叫んでも仕方ない。隕石が日本に落ちてきた時のことを考えるようなものです。
それよりも「真実は簡単に書き換えられる」方が身近でかつ怖いことです。特にデジタルに依存しきっている現代社会では。
この作品世界においては人の記憶すら操作されてしまいますが、実際、私たちは自身の記憶を容易に変えることができます。過去の自分の記録を見た時、「あれっ、こんなことやってたっけ?」と思ったことがある人はとても多いと思います。記録と記憶の食い違い。
記録と記憶の突き合わせができるうちはまだいいです。記憶の修正も可能ですから。しかし、記録の改変が行われてしまったら、記憶の修正すら不可能になります。過去の事実がどうだったのか、絶対正しいと言える証人は誰もいません。
「現実は人間の精神のなかだけに存在していて、それ以外の場所にはないのだよ。」
「1984年」オブライエンの言葉
記録の簡単な改変が可能になれば、上記の台詞のようなことが現実に起きうるのです。ある意味では自分にとっての現実を都合よく解釈できるようになる未来。しかし、逆にいえばそこに絶対的な正しさもない。
いや、もう既にそうしたことは始まっているのかもしれません。Twitterで絶対的な正義を叫ぶ人たち。その人たちの中にある真実は一体どのようなものでしょうか? フェイク、刷り込み、精神誘導……作られた現実? でも、現実は自分の精神の中にあるなら、それを批判する我々が作られた現実を観ているだけかもしれません。
そう考えると、この「1984年」に描かれた現実は、とてもミクロな部分で既に私たちのいる世界にも起きているのです。恐ろしいね。だからこそ、この作品で描かれている他の恐ろしいことに巻き込まれないよう、自分の中にある真実が何物か、きちんと考える必要があります。
結論:思考の自由、たまにはその根っこを見つめ直す
「1984年」の感想は以上です。小説というか、ある意味では未来の社会の分析書みたいな側面もありましたが、とても面白かった。そして、絶望でした。自分たちが生きているこの世界でも、この小説の一部が現実になっているのではないかと、そう思ってしまったから。
今回のココベル:たまには自分が自由だと思っている思考の根っこを見つめ直したい。