アニメ感想

アニメ感想「ぼっち・ざ・ろっく!」〜陰キャは外に出られても、陽キャは内に入れない

これはアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」を私なりに解釈した感想記事です。ぼっちちゃん視点で観た方にとっての新しい視座に繋がるものになっていると思います。

「ぼっち・ざ・ろっく!」を「陰キャが外の世界に出て成功する物語」だけでなく「陽キャが陰キャの世界に合わせることの大変さ」という視点を与えることもできると思います。

概略

  1. このアニメの主人公はぼっちちゃん、影の主人公は喜多ちゃん
  2. 陽キャになる方法は誰でも知っている、でも、バンドをやるのに必要となる陰キャになる方法は明確な答えがない
  3. ぼっちちゃんが少しだけ外の世界と折り合いをつけた一方、喜多ちゃんはバンドに必要な「内なる世界に向き合う」ことを半分諦めてしまった

影の主人公は喜多ちゃんである

昨年、女子高生がバンドをやるアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」が放映されました。私が見ている範囲でも、結構な方々がこのアニメに感銘を受けていたようです。そして、大体の方が言っていたのは「ぼっちちゃんがどう変化したか」という視点でした。

さて、そんな中で私がアニメを観たわけですが、私は次のように思いました。

もちろん、このアニメの主人公はぼっちちゃんなので、その視点で語られることが一番多くて然るべきです。しかし、私はそれ以上に喜多ちゃんの存在と、彼女の変化が印象に残りました。

「え、喜多ちゃん?彼女は確かに可愛いけれど、イソスタ映え重視のリア充の女の子でしょ?」と思っていた方。それはその通りです。でも、私にとっては彼女は影の主人公とも呼ぶべき存在だと感じます。

まず、私はこの作品で「陰キャと陽キャとの比較」が気になりました。もちろん、それは陰キャであるぼっちちゃんと、陽キャである喜多ちゃんです。

陰キャであるぼっちちゃんはいうまでもなく、周囲との会話自体「あっ」から始めるしかない感じの女の子。現実よりもネットに居場所を求めてしまうような、時々自分の世界に入り込んでしまうような、そんな人です。一方の喜多ちゃんは、クラスメイトの友達も多くて、SNS映えするようなシチュエーションをよくわきまえていて、人とのコミュニケーションをとることに何の苦もない子です。

同じ学年、同じ学校、同じバンド。でも、彼女たちの立ち位置は真逆です。そして、陰キャであるぼっちちゃんが外に向かって出ていくのと同様、陽キャである喜多ちゃんがぼっちちゃんに歩み寄っていく様も興味深かったです。

陽キャが内なる世界に踏み込むのは難しい

そして、私が一番感銘を受けたのは、その喜多ちゃんの変化でした。

この物語の主人公がぼっちちゃんであり、オープニング曲のタイトルが「青春コンプレックス」であることから、当然この物語の主軸が「陰キャがいかにして外の世界でバンドをやっていくか」になります。それだけでもとても面白い物語だし、ぼっちちゃんはそれに半分成功していると言えるでしょう。(ライブで観客席に飛び込んでしまったのは失敗でしょうが……)

しかし、それとは逆に喜多ちゃんの変化もこの物語では見逃せないポイントです。それこそ彼女は第1話から登場しており、完全な陽キャ、つまりぼっちちゃんとは逆の立場の人間であることが示されています。そして、12話を通じて、主人公であるぼっちちゃんと逆の変化を起こす。具体的には「陽キャがいかにして内なる世界に踏み込んでバンドをやっていくか」ということです。これって簡単そうに見えて、実際には答えのない難しい問題だと思います。

陽キャになる方法は昔からずうっと語られていた気がします。それこそぼっちちゃんが「エナドリ買ってきて! あと、EDMガンガンかけて!」ということを口にしたような感じです。(ぼっちちゃんの場合は偏見に満ちている気もしますが)ある程度、陽キャになる方法は明らかになっている。それが実際にうまくいくかどうかは別問題として、まあとにかく方法論はある。

一方で、陰キャに向かっていく方はどうでしょう? どのようにしたら、ぼっちちゃんの内なる世界に入っていけるのでしょうか? おそらく、喜多ちゃんはそんなことを思いながら、ぼっちちゃんとギターの練習に取り組んでいた面があるはずです。

そして、アニメの中ではその答えは出なかったものと思います。最後に喜多ちゃんがぼっちちゃんのギターを支えるという発言をしていることから、彼女自身がぼっちちゃんのようになることを諦めたと捉えることもできます。いや、喜多ちゃんがそんなネガティブなことをメインで言いたかったわけではないのでしょうが、それでも少なくともそういう面があると思う。それでも、少しでもぼっちちゃんの、陰キャの世界に近づきたくて「支える」という言葉になったのではないかなと私は思います。

喜多ちゃんは内なる世界に入ることを諦めてしまった

音楽の世界は売れることももちろん大事ですが、自分たち「らしさ」を表現することも大事なことなのはいうまでもありません。それこそ、リョウ先輩がぼっちちゃんに「ぼっちらしい」という表現を使っていたように、そしてリョウ先輩がそれを大事にしていたことからも、このアニメでもそうした「らしさ」を大事にしています。

当初こそ、ぼっちちゃんは動画サイトで売れ線の曲のギターアレンジをメインにしていましたが、リョウ先輩に諭されてからは、自分らしい曲を書くことができるようになっています。おそらく演奏も自分らしさを出すことができるようになっているはずです。(きくりの日本酒カップ瓶を使っての演奏なんてその極みでしょう)それはぼっちちゃんが日々自分の内側で世界との向き合い方に悩んでいた結果だと思います。(それを「一人の世界に入っている」と言われるのですが)

しかし、喜多ちゃんにはそうした自分らしさに向き合った経験が希薄なのだと思われます。友達と一緒に何かをすることに喜びを覚えるのでしょうが、自分らしい何かを表現することの経験はなかったのでしょう。しかし、それがぼっちちゃんと触れ合うことで、自分を表現することの面白さというか、何か喜多ちゃんの琴線に触れるものがあったのだと思います。しかし、それが何かは、自分の世界に閉じこもることをあまりしてこなかった喜多ちゃんに理解し難い世界だった。

喜多ちゃんは喜多ちゃんなりの悩みがあるのでしょうが、おそらくその解決を外に求めることが多かったのだと思われます。だから周りの友達とも良好な関係が築ける。でも、その結果、自分自身に向き合うことはなかった。

外から内側に向かうということは、それほど難しいことであり、普通に生きる分にはあまり必要としないスキルだったでしょうが、こと音楽の世界ではそれが大事なこととなってしまった。バンドをすることが楽しいということは、喜多ちゃんも内なる世界に向かい合う必要が出てきたということです。そのために喜多ちゃんもぼっちちゃんと一緒に練習して、それが何かを追いかけようとした。でも、結局すぐにできることではなくて、結局「ぼっちちゃんの演奏を支える」という決断に至ったのだと思います。

バンド活動に出会うことがなければ、喜多ちゃんは世界でとてもうまくやっていける人だと思います。でも、そんな彼女がそれだけでは生きていけないバンド活動に出会ってしまい、そして自分との向き合い方、半ば挫折したような経験を描いていたのは本当に面白かった。

ぼっちちゃんがいかに外の世界と折り合いをつけていくのかと同じように、喜多ちゃんがいかに内なる世界と折り合いをつけていくか、それもこのアニメのとても面白いところだったと思います。単なる陽キャでは、きっとバンド活動なんてできないのでしょう。

まとめ

このアニメが大きな話題となったのは、テンポ感の良さだったり、主人公であるぼっちちゃんに共感できる人が多いからだと思います。しかし、その裏では影の主人公と呼ぶべき喜多ちゃんの存在があり、彼女の変化こそ逆にぼっちちゃんの変化と違って難しく、実際に挫折した部分もあるというのが、私としては面白かったです。

「現実は怖い、外の世界に行きたくない」ではなく「現実は楽しい、でも内側の世界が見えない」ということのつらさも感じられる、とても良いアニメでした。

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