時間の流れとテンポと情報量~魔女ARIピ孔明

サブタイどうなってんねん!

え、『魔女の宅急便』と『ARIA』と『パリピ孔明』を合わせた造語なんですけど、わかりませんでしたか?

わかるか!

ということで、今回はこの三作品を見ながらの時間の流れとテンポと情報量について、なんとなく書いていきましょう。

最近(でもないですが)「映画やアニメを倍速で見る」ことが騒がれていますよね。NetflixとかYoutubeとかで倍速だったり10秒スキップだったりするやつ。ぶっちゃけ違法すれすれですが映画要約動画とか。

正直、倍速再生の技術には私もお世話になっています。仕事だったり生活のノウハウ的な動画はすっ飛ばしながら見ます。でも、あくまで実用的な知識のみを必要とするものに限ります。動画の時代になる前から、実用書などは一言一句精読せず、パッパとページをすっ飛ばしながら読んでいたので、そのノリです。

でも、創作物に触れるときにはきちんと等倍速で見るし、本だったらかなりペースを落として読むようにしています。私がそうする理由はかなり単純で、創作に触れるということは、その世界を旅することに等しいからです。

リアル旅行をしたとき、有名なお寺や風景を一か所あたり10分でパッと見て、とにかく回る観光スポットの数を増やそう!なんてしないじゃないですか。美味しい料理をいっぱい食べたいからって、お皿を一口ずつ食べて、次の料理屋行って――ってしないじゃないですか。

つまり、私が創作に求めているのは、知識ではなく体験なんです。頭ではストーリーラインはすぐに理解できますが、五感で実感するには時間がかかるものだと思っています。作り手もそれを理解しているから、時間の流れやテンポのコントロールに気を使っているのです。

とはいえ、創作はエンターテイメントでもあり、エンターテイメントもビジネスの側面を持ちますから、時代に流れに合わせて色々変わるのも事実。私はそれを『パリピ孔明』で思い知らされました。

タイトルもすごいけど、この絵面もすごいわ。

そもそも、『パリピ孔明』という響きが出オチ感すごいですが、でもどんな話かうっすらわかるじゃないですか。実際、アニメを観てみると、孔明が現代に転生してからとにかく早い。「どうして転生したの?」とか「どうして日本語をしゃべれるの?」とか、あらゆる理屈はすっ飛ばされて、もうとにかく「孔明が転生して月見英子の軍師となる」の面白さにフォーカスされる。

でも、決してそれぞれの心情をないがしろにはせず、英子が孔明を信頼はじめるところや、逆に孔明が英子の歌に惹かれるシーンはしっかり描かれている。だから納得感はありつつ、とにかく飽きないペースで話が進んでいく。このバランス感覚は素晴らしいと思います。

一方、私はここしばらく『ARIA』をいうアニメも観ておりますが、こっちはもうとにかくテンポがゆったりまったりです。一人のお客さんにじーっくりフォーカスを当てているときもあれば、髪を切って恥じらう乙女心を描いたり、一話あたりで起きる出来事が少ない。少ないけど、そもそもこの作品自体が「癒し」のコンセプトで描かれているため、このペースで心地いい。音楽やキャラのセリフもゆったりまったりしている。いいんですよね。

この髪型チェンジだけで1話使うとは思わなんだ。

いいんですが、『ARIA』みたいな物語は、もうこの令和の時代にあまりマッチしなくなってきているのかもしれません。何しろ、アニメ第1期は2005年ですから……17年経っちゃっているんですよ!? いやあ、時間が流れるのって本当に早い。(まあ、私がARIAのアニメの存在を知ったのは最近ですが)

でも、ここでさらに古いアニメを出しましょう。それが宮崎駿アニメの『魔女の宅急便』です。とうとう2000年より前になりました。

これがこの前金曜ロードショーでやっていたので、中華料理屋で四川風麻婆豆腐を食べながらテレビで見ていたんです。改めて思ったのですが、展開はスピーディーじゃないのに、とにかく情報量が多い!

情報量が多いというと誤解を招きそうですが、これは決してストーリーが複雑怪奇ということではありません。そうではなく、前面でキキたちが頑張っているその背景であらゆるものが生きているのが見える、といった感覚でしょうか。

今回特におったまげたのが、グーチョキパン屋のおソノさんが初めてキキと会って家に招き入れた時。彼女は温かい飲み物を出すと言って、なんとインスタントコーヒーを出すんです。「おお」と思いました。そして彼女はお湯を入れ、自分のマグをティースプーンでサラサラ混ぜながらそれを口にする。

これも割と目分量でいれている感じ、あります。

これ、色々喋りながらのシーンですからね。でも、喋りながらこういうシーンを描くことの上手さは本当に宮崎駿らしい。変態です。以前もどこかで書いたと思うのですが、宮崎駿作品は食事シーンが本当にすごいんですよね。食べ物も美味しそうに描くのですが、各登場人物たちの食べ方も本当に「らしい」感じ。

さっきの例でいえば、おソノさんはキキに優しいんです。優しいんですが、ちょっと雑なところがあることもわかります。丁寧な人ならそもそもインスタントコーヒーを選びません。しかし、その大らかさがキキを住まわせることに繋がるのですから、これはいい雑さなのかもしれません。

一方のキキは、コーヒーが苦手なのでしょう。角砂糖をいくつかマグカップに入れるのですが、その後のティースプーンでかき混ぜる動作がおソノさんに比べてゆっくりなんです。この物語は女の子のキキの成長物語なので「子どもっぽいな」と思わせる所作がある一方、こういう「育ちはいい」ということを見せているのがこのシーン。

と、コーヒーを飲むというなんてことはないシーン。テンポもゆったりしていて、ストーリー的には10秒飛ばししても良いと思います。しかし、ちゃんと見ると、とにかく情報量が多い! この情報量の多さが、やっぱり登場人物たちを「らしい」存在に仕上げているのだと改めて舌を巻きました。

彼らが「らしい」からこそ、この物語世界に奥行きがあって、2時間もない映画で長い旅をしたような満足感が味わえる。これこそ、創作の醍醐味だと私は思うんですよね。

今回、3つの作品を挙げましたが、何がいいとか何が悪いというのはないです。時代によって求められるものが変わるのも真実。でも、私は「創作を味わうことは旅をすることに等しい」と考えていて、それはきっとこれからも変わらないことなんだと思います。読み手でも、書き手でも、その感覚は忘れずに生きていたいですね。