映画感想

映画感想「サタデー・ナイト・フィーバー」〜決して暗くはない、少年の挫折の物語

今回は映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の感想です。以前、アメリカの映画館で観たのですが、いかんせん(当然)字幕がなくて6割程度しか理解していなかったのです。今回きちんと字幕付きで見て、ちゃんと感想を書こうと思った次第です。

しかし、この作品はすごい! 酒、ドラッグ、セックス、暴力! 今の倫理観からは信じられない世界だが、まあ、当時だったらそれなりにありえたのでしょう。それこそ「図書館戦争」の世界だったら真っ先に検閲かけられて閲覧不可になっていそうな作品です。

まあ、そんなことは置いておいて、真面目な話をば。それでは、今回の心への旅に出かけましょう!

目次

  1. この映画は暗い、というのは最後の印象に引っ張られすぎ
  2. ダンスシーンはやっぱりいい、Bee Geesの曲が印象的
  3. 少年が大人になるに向けての挫折、それはあの名作と共通する
  4. マンハッタンに行くことが正解なのか?

この映画は暗い、というのは最後の印象に引っ張られすぎ

ネットでこの映画の感想を調べると「暗い」という文言をちらほら見かけるのですが、個人的にはその評価はあまり適切でないように思います。それは最後の印象に引っ張られすぎているのではないでしょうか。

確かにこの映画のクライマックスは怒涛の暗いです。せっかくダンス大会で優勝しても、それが紛い物だとトニーは憤り、一方的に重い愛を求めていたアネットは仲間たちに輪姦され、挙句仲間の一人のボビーは橋から自殺のように転げ落ちてしまう。その印象に大きく引きずられてしまうのはやむを得ない部分があります。

そもそも、トニー自身が恵まれた環境にいるとはとても思えません。実家暮らしですが、父親は無職、トニーは安月給でペンキ屋で働き、仲間たちと日々怠惰につるんで遊ぶ毎日です。

しかし、クライマックス直前までは、そうした状況をコミカルに描いている部分も多いと思います。例えば、親父が失業していて、お母さんはトニーをろくでなし扱いする会話がが繰り広げられる食卓で、家族がど付き合いを始める。普通なら気まずいのなんのですが、鑑賞者である我々はある種クスッとくるかもしれません。

トニーが服装キメすぎてて浮いているのも笑える

また、個人的に特に面白かったのは、仲間の敵討ちのシーンでした。仲間の一人があるヤンキーグループに重傷を負わされ、トニーたちが敵討ちに行ったらまったく関係ないグループの方に行ってしまったという。こらこら。意気揚々とやられた仲間の元に戻ったら、なんと記憶も定かではない状態で「あいつらにやられたと思ったけど、違ったかもなあ」ですって。もはや怒りを通り越して笑うしかありません。なんでそんなあやふやな状態で仲間をけしかけようとするのか。仲間たちが死にそうな思いをして、かつボビーに至っては仲間から不本意にも腑抜け扱いされてしまったというのに、なんて報われない結果なのでしょう。

こんな感じで、トニーの周囲の環境をある種シュールに笑えるように描写しているのはなかなか上手いな、と思いました。

ダンスシーンはやっぱりいい、Bee Geesの曲が印象的

また、やはりポスターになっているようにディスコでのダンスシーンはとてもいいですね。Bee Geesの楽曲と相まって、当時のノリを十分に堪能できるような印象がありました。

トニーたちのダンスは……うーん、うまいのか? 私はダンスに疎いので評価が全然できませんが、リズムに乗せてノリ良く踊って盛り上げることは確かにものすごく上手だと思います。トニーに合わせて周囲の客たちも一緒に踊るところは一種の洗脳に近い気持ちよさがありますね。ここは人間の原始的な喜びの一つだと思います。

なによりBee Geesの曲と映像のマッチングが間違い無く良いです。冒頭の「Stayin’ Alive」からトニー歩調に合わせて曲が展開していくのが象徴的です。最後の曲もこれまたいい。トニーの心情を端的に表しているし、最後の陰鬱な展開に一筋の爽やかな風を吹き込むような緩和の仕方も良いと思います。

こういう曲の使い方を見ていても、決してこの映画は暗い映画ではない、ということを改めて強調しておきたいと思います。

少年が大人になるに向けての挫折、それはあの名作と共通する

この物語のメインテーマは「少年が大人になるに向けての挫折」でしょう。「井の中の蛙、大海を知る」とも言えるこのテーマ、最近私が読んだ「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にも通じるかと思います。あちらもホールデンが現実に対しての挫折を味わったことで物語が進行していきます。

ただ、あちらは最初からホールデンが現実に折られて、何もかもを偽物だと決めつけているのに対し、こちらのトニーは現実に折られるのがクライマックスである、という点が違いますね。ホールデンは何もかもが偽物だと一度は現実を拒絶するも、最終的にそれを受け入れるまでの過程が重要であるのに対し、トニーは自分の周囲の環境が実は偽物であったと気づくところで終わっています。そういう意味ではホールデンの方がトニーの先を行っていると言えるでしょう。

ただし、ホールデンはまだ少年であり、彼が知らないところで働いて生きていくことが難しいのに対し、トニーはもうすぐ20歳で、彼は本当に知らないところで働いて生きていくことができる可能性がある、という点で違いがあります。その点でトニーの方が本当に大人への世界に踏み入れたとも言えるかもしれません。

あとこの色気ね。

どうなんでしょうね。トニーもマンハッタンで職に就いて働くことができるかもしれませんが、やはりそこでもう一度挫折するのかもしれませんね。そうして、ホールデンのようにまたもや現実が偽物であると拒絶するのかもしれません。この映画の時点では未来を窺い知ることができませんが、トニーにはステファニーがいるという点で少しは心強いのかも。

マンハッタンに行くことが正解なのか?

さて、先にも書いた通り、この映画のテーマは「井の中の蛙、大海を知る」ですが、しかし本当にトニーがブルックリンを捨ててマンハッタンに行くことが幸せにつながるのでしょうか? 私は正直、この点にいまだに答えを出せていません。

確かにあの映画が制作された当時、ブルックリンは治安が悪く、金持ちになる仕事ができる場所ではありませんでした。マンハッタンは今でもそうですが、洗練されて文化的で治安も良い街です。けれど、そこで実際に仕事をしているステファニーが幸せかというとそう断定できないはずです。

トニーが一緒に引っ越し先のアパートに行ったことで、彼女がマンハッタンになんとかしがみついていることが窺い知れるわけで、彼女もそのしがみつき方に納得はしていない。だからこそ、ブルックリンに怪しいディスコにダンスしに行くわけです。そもそも最初から子どもであるトニーに対し、自身の仕事や趣味で虚勢を張らねばならないほど、彼女も自身を好きではなかったのだと思われます。

この物語はトニーがマンハッタンに行くことを肯定しているように見えます。しかし、先にマンハッタンに行っていたステファニーが幸せではなかったとしたら、上に行くためにマンハッタンでしがみつくことが幸せでないのなら、では何が幸せなのでしょうか?

おそらく、ですが、ヒントはトニーの兄のフランクにあるのではないかと思います。彼はそれこそ母親が心の拠り所というか、完全に依存するレベルで「成功した」と思われた人物でした。でも、彼は自らその職を手放し、新しい場所へ旅立ちます。目的地はフランク自身もわからないけれど。

「自分が自分でいられる」ことを目指して。

「マンハッタンに行く」ということよりも抽象的かつ困難な道のりですが、それがこの映画で提示された本当に幸せになるための方法なのではないかなと、私は思います。